明 治 維 新 の 論 理 と 構 想 三 ・完 )
‑ 木 戸 孝 允 を 中 心 に ー ー
五 十 嵐 暁 郎
三
﹁ 大 條 理 ﹂ 髪 明 さ れ た 董 制 中 央 集 欝 家 建 設 の 暴 を 達 成 す る た め に ・ 木 戸 ・ 大 久 保 ら 倒 幕 派 の と っ た 戦 略 は ・ 幕 府 側 の 敵 対 的 行 動 は も ち ろ ん の .︑ と ︑ 土 佐 藩 が 提 起 し た 大 政 素 ︑ 列 藩 義 政 体 論 と い う 議 的 な コ 三 を も 排 除
して︑政治状況をひたすら武力的対決へ持ち込もうとすることであった︒鳥羽・伏見の号砲は・そのまま彼らの意志咳雛 糞 嚢 難 鞭 輔轄 存羅 蕪 筆 羅 漿 嫡礁 趣
譲 難 蕎 霧 暴 穆 .講 .籔 L鐸 舞 羅 燵 韓 難 ばな ・
だが同時に木戸は︑戊辰撃の内乱は必然であるのみならず︑器遂行のために必緊もあると考えていた・つまり︑この糞に︑禺に謬するエネルギを利用して︑罷なかぎり旧体制を破壊し・新国蓬設の地ならしを行
93
おうというのが木戸のねらいであった・徳川三百年の支配を廃止し︑トータルな甕t壷新﹂を実現するため
護 議 犠 醗 叢 掛 響 嚇雛 灘
表之療治に馳せ・筋骨より復するの手段後得は︑肇を発表してかり尽し候之両手段外有之間敷欺Lと杢昼ゴ.し
切る︒ここには革命遂行への木戸のラディカルな姿勢がみられる︒
このように急進嚢的な政治指導へと木一 をつき動かしていた鍵の;は︑葉の政争や戦闘で落命した同志に
たいする責任感であった・維新後の木戸の日記や書翰からは︑随所に︑彼らの死や彼らの誠心Lξいての思い
と︑それが変革の曲折をさまよいつづけている自分への自責の念差っていることがうかがわれる︒棊ら蔑派の
志士たちはもとより・長州萬においても久坂や高杉はじめ多くの同志が︑自らの生命を賭けて希求した峯蓬成
される日を見とどけるこ差く・悲壮かつ無念の最後を遂げていった︒そのような彼らの死にたいする思いが︑生き
残った身をさいなみ・その峯を完成させなければならぬという責任感となって︑木戸の魂を内部からつき動かし
毅 製 縫 馨 犠 帥蕪 罷 難 鶴 黙 物鷲 纏 態 へ灘
けて木戸をいっそう駆りたてずにはおかなかったし︑また﹁真之大些新﹂を遂行し︑﹁皇国を糞し億兆を保護す
る﹂とい蓮想を掲げるのに躊躇させなかつ壌そしてその理想のもとに︑茎剛述のように中央政府官僚としての
自覚ゆえに・木戸鍍治家としての責任倫理や公平な立場をとるべきことをつねに強調したのである︒
だが・戊辰撃の勝利が難的となったもかかわらず︑木戸にとって︑彼のめざす﹁大政薪﹂は次箆手の中
(200)
94明治維新の論理 と構想
か ら こ ぼ れ 落 ち つ つ あ る よ う に さ ︑愈 わ れ た ︒ 屡 将 来 之 大 勢 を 推 荏 候 庭 ︑ 含 之 人 情 需 相 移 り 候 時 は ・ 大 墜 新 之 御 ヒ. 趣 も 乍 恐 い か 鼠 相 成 可 申 鰍 ︒ 元 来 ︑ 御 薪 之 御 薪 た る 所 以 は ︑ 皇 国 を 御 維 鍍 為 遊 候 而 こ そ ・ 需 其 御 名 実 相 叶 候 鐸 繍 座 候 庭 ︑ 嚢 可 藪 は ︑ 宇 内 美 勢 に 対 し 候 鷺 ︑ 皇 国 之 急 昨 呈 り 含 に 迫 り 候 庭 ・ 瞥 苗剛 之 享 定 に 而 上 下 と も 其 理 穰 仕 兼 ︑ 多 く は 含 昊 安 堵 仕 候 而 ︑ 前 途 大 興 起 音 的 更 箱 窺 は れ 不 申 ・ 尤 春 来 徳 川 氏 姦 面 姦 挫 ぎ 候 は ︑ 大 政 薪 に お ゐ て 不 得 止 之 裸 理 に て ︑ 是 而 巳 需 大 政 薪 は 相 済 候 も の と 想 得 候 而 は ・ 天 下 億 暮 生 之 大 罪 人 に 政 府 は 相 肇 候 ︒ 前 途 之 目 的 相 窺 は れ す と 申 候 も ︑ 天 下 之 建 も 自 分 窪 は 兎 も 角 も ・ 其 葵 々 に 於 て は 功 名 之 念 勃 々 に 而 ︑ 諸 肇 而 纂 之 需 己 之 外 畿 論 も 無 之 ︑ 茎 纂 之 時 よ り も 自 然 と 驕 気 は 相 募 り ・ 藩 力 を 以 我 攣 相 応 に 朝 廷 へ 申 立 ︑ 名 義 巌 名 分 姦 喋 々 申 候 も ︑ 多 く は 需 已 に 成 行 ・ 宇 内 之 大 勢 藁 し 皇 国 を し て 萬 世 維 持 仕 候 な と 申 邊 之 所 作 ぶ り は 毫 も 賀 不 申 ︑ 唯 色 に 利 を 裂 様 嵐 習 箱 移 り ・ 却 而 人 の 非 は 探 り ・ 人 之 能 は 妬 諮 人 の 覆 怒 り ︑ 元 番 本 之 人 規 幾 少 と 申 慮 も 可 有 之 候 得 共 ︑ 全 其 而 巳 に も 無 之 ・ 大 道 之 衰 た る 慮 も 可 相 之 ・ 笙 大 政 藁 於 て は 肝 琴 る 金 .計 音 的 も 倉 相 立 不 申 ︑ 是 亦 含 之 姿 に 而 は ︑ 日 本 も 大 政 官 も 會 計 に 而 つ ぶ さ れ 候 ば ヒ
新 政 府 箋 . た 人 々 は 倒 幕 を も . て ﹁ 大 甦 新 は 相 済 候 も の ﹂ 三 大 安 極 し ・ 諸 藩 は ﹁ 功 名 之 念 勃 々 ﹂ と し 三 驕 気 L を つ の ら せ ︑ た が い に 利 華 争 う 有 様 で あ る ︒ 対 外 的 独 妾 聾 す る た め に 将 来 の 方 針 (﹁ 根 臨 を 真 剣 に 考 え よ う と す る 霞 少 な い ︒ 新 政 府 罐 固 た る 方 針 を 欠 い て た え ず 舞 し ︑ そ の 土 台 は 早 く も 亀 裂 を 生 じ つ つ あ っ た ・ 加 馨 辮 蘇 鞍 轟 験 難 縫 国建 簸 騨 ︑縫 鞭 難 議 癌
しつづけていた︒
Czol)
一
天六八年(明治元)から翠にかけて木戸が提唱した舞論は︑.あような危機を乗り切り︑国内政治勢力姦96
力かつ急速籍集して・近代国蓬設へ再び舵を取りなおすために彼がと.た融であ.た.誕生間もない新政府にの
とってきわめて大嬰この計画は・明らかに幕末長州藩の割拠の際に発見した︑対外穰簗団内部の対妾和らげ⑫
結束を強化するという政治の一般法則からヒソ表得ていると思われる︒つまり﹁発丑已来﹂の外圧の危懸が人々
の政治意識の藷となぞいること暑目し︑今度篶図的に対外的暴を作り出し︑それへの人々の反応を利用し
て国内の結束と政府への協力を引き出し︑この難事業を遂行しようとしたのである︒
ところで・このよう慧図をもつ侵略行為を︑木戸は次のように﹁A・理化﹂している︒(耀といへとも響に之を
征す乏あらす・宇内の條理を鋒する也・篠理を欲推ものは︑則我国是を以てする所也︒Lここ三宇内の條理﹂
﹁国是﹂と言われているのは・国際社会への参加であり團肇である︒つまり国際社会への参架世界の大勢であ
り・朝鮮もこれに応じて開国すべきだというのが︑ここでの木戸の論理である︒
そ れ で は 木 戸 は ・ 季 内 の 條 理 L が ・ そ れ に 服 従 す べ き 普 遍 的 程 あ る い は 服 従 す 乏 足 る 秩 序 ︑ 規 範 に よ っ 嚢 打
ち さ れ 保 障 さ れ て い る と 考 毛 い た の で あ ろ う か ︒ 木 戸 の 国 際 社 会 観 は ︑ 当 時 国 際 社 会 を 律 す る 墜 の 爆 陛 盤
考 え ら れ て い た 万 国 公 法 に つ い て の 認 蓮 端 的 に あ ら わ れ て い る ︒ ﹁ 兵 力 不 調 と き は 萬 国 公 法 も 元 よ り 不 可 信 ﹂ 彼 は 述
べ て い る ・ ﹁ 薗 公 法 な ゼ 申 候 而 も ︑ 是 又 人 之 国 を 奪 ひ 候 之 道 是 而 ︑ 毫 も 油 断 不 相 成 ︑ 含 世 間 籍 集 相 開 け 居 睡 難 難 馨 雑 鞍 幽鞭 難 驚 礁 と羅 繕 雑 鰺 ブ蠣
ア諸国を植民地化しようという・あくことなき欲望をもった西欧列強のパワ来リ一プィクスが横行するのが国際社会
の現実である・そこに籍国察服従する規範は︑いかなる意味においても存在しない︒このような木戸の国際社会
明治維新の論理と構想
嘲 に よ れ ば ︑ ﹁ 宇 内 の 條 理 ﹂ の 現 実 は ︑ 西 欧 列 強 に よ る 麓 地 化 の 愚 を 秘 め た ﹃ コ イ ス テ チ な 開 国 の 要 求 に ほ
カならない︒そしてまた︑﹁宇内の條理を欲推する﹂とは︑西欧列強のそのような慶にならった行動を朝鮮に向けてとる,﹂とにほかならないであろう︒﹁轟に光輝を告候はここに始り撃と愚考仕墜という言藩は・対外的独立維持という立場を︑えて︑将来アジアにたいする繧的な地位を獲得したいとする木戸の願望が投影されていよう︒少なくとも︑.﹂こには﹁大條理﹂を掲げたときに暑たような︑普遍的理套喬する姿勢は見られない・﹁條
理 ﹂ 鏡 状 藷 的 な 現 実 嚢 に 陥 っ て い る の で あ る . ﹁ 安 心 不 相 成 婁 と い う ・ 葵 丑 ﹂ の 恐 怖 感 を そ の ま ま ひ き ず
った︑国際社会の動向にたいする木戸の強い警戒の念は︑終生変ることな灸の政治思想を規定し続けたのであり︑それゆ︑兄ξ﹂からは︑冷たい打算にみちた︑その藻では夢ルな外交築打出されていくのである.は欝 儲藤 鵜 総 叢 難 騒馨 群 ﹁獣 難 藻 難 鐘 耀 .﹂ れ 以 上 よ い 方 法 は 見 当 ら な い ︒ 我 国 は 畢 的 に み て 圧 倒 的 緩 勢 で あ り ︑ 右 の 目 的 に そ っ 三 進 告 在 重 を 得
髪 舞 鰻 . っ ま り 自 国 の 近 代 化 の た め に 隣 国 を 侵 略 し ︑ + 分 に 利 用 し ? す こ と が で き る 毒 の が ・ 木 た縫 為纏 黙 麟 鰭 囎鉱 饗 暴 叢 腰 で籍 箭 射 纏 難 捌 轄 難 熱 鯖 帰 講 欝 諜 繁 諺 鱒 て ナシ ョナ リ ス一⁝ ㈲
そもそも新政府は︑.︑の段階では︑幕藩体制の馨そのものには決定的な変更を加えるレ﹂となく・いわば幕府とそ卯
の権力の座を交代したすぎなかった・むしろ︑固有の軍事力を保有しないという占描では︑幕府とは比較にならぬほ98
ど・新政府の権力蓋は脆弱であった・そのために︑新政府は薩長はじめ雄藩︑ことにその軍隊に依存せざるを.κな
かった・その葦・覇廷は自ら獲に傾き・甕は又其兵墜傾き︑藩亦概如鴫︒真に尾大之弊を不能免し㈲
て︑真権之所帰着・決而末可鞠L薩長の軍事力撮存せざるをえない﹁半身大不随﹂の新政府は︑それゆえにまた︑
つね罎長・ことにその軍隊の意向によって振りまわされる尾大之弊Lをまぬがれなかったのである︒
の藪 灘 隷 難 鞭 雛難 鍵 議 穫 麺鋸 鐘 綿馨
ず・その逡のありさまは・およそ主権者たるに似つかわしからぬ実軽木戸の昌は映じた︒政府が﹁百折不椀﹂
の覚悟をもって・﹁大轟﹂をうち立萎﹂とこそが﹁百事瓦解﹂の危讐のり切るために必要だった︒また︑この
よ う な 不 決 断 は ・ 木 戸 に よ れ ば ・ 維 新 国 家 の 轟 を 直 接 つ き 崩 す こ と に ほ か な ら な か っ た ︒ な ぜ な ら ば ︑ 維 新 ま で の
封 建 体 制 に あ っ て は ・ 豪 が 権 力 を 掌 握 し て い た か わ り に ︑ ﹁ 天 下 の 恨 み 帰 す る 所 あ り て ︑ 而 し て 天 子 は 徳 茎 す ﹂
る こ と が で き た ・ し か し ﹁ 今 や 則 ち 然 ら す ・ 聖 慈 親 幾 姓 藻 を 仰 く ︒ 若 し 亘 弊 を 受 る 罐 ら は ︑ 天 下 の 恨 み 其 れ
誰 に 帰 せ ん や ・ 含 臣 子 た る も の 恵 慮 誠 に 此 に 及 瞥 ︒ 豊 長 れ 私 を 省 み る の 暇 あ ら ん や ︒ ﹂ 失 政 の 政 治 責 任 噌
接 天 皇 に 集 中 し ・ 新 政 府 の 畿 失 墜 は そ の ま ま 維 新 国 家 の 畿 奏 に つ な が り ︑ 器 も つ い に は ﹁ 下 よ り 圧 倒 さ れ ﹂
終 る で あ ろ う ・ 百 然 も 静 朶 翫 献 昊 ち 筆 告 ︑ 遂 に 不 可 東 之 次 第 と 相 成 候 而 は ︑ 所 詮 寅 之 艘 藷 何
ぬ 有之哉と甚懸念仕候︒L
このように農的な篠を乗り切るために木戸のとった方針は︑とりあ︑手旦削の諸懸萎︑蚕した論理と断固
たる決意を示して処響・主薯としての畿を生み出すことであった︒すなわち﹁誓而走其権を握し︑平均之勢
明治維新の論理 と構想
を作成し︑妨鞍のは忽ち万両断と麗はどこまでも不可細という独藷(﹁ナ・川ゾオン論﹂)を暴に・﹁覆威力を以御威稜﹂を立てることに活路を見出そうとしたのである︒悼︑の独裁論は︑芳において当時の木戸の人民鯉もζついている・木戸の見るところ・噛外圧L下にあって急速に近代国家蓬設しなければならぬという国答標にたいし︑﹁中人巳下﹂の麗は・貝嘗前之人情を婁心いた
難 議 雛 鐘 口難 藻 帥難 蝶 解 訟 囎馨 鞍 暴 勲 ︑.雛 ︒超
たとふるときは︑気之狂ひしものに而︑則病人﹂である︒病人Lである者を馳常人﹂のように扱う,﹂とはできない.し奈って︑右のような課題端える政府にとって︑﹁含之霧は︑暴じ且教へ﹂ることであり・﹁則・よらしむべし︑知らしむへからず之場合﹂ーー独裁でなければならない︒
その独裁は︑より現実的には︑権威創出を晶とするものであっ奈ために・縷硅格を帯びることになった.﹄所詮︑曖昧姑息之御所致に相成居候而は︑益天下之人民方向に迷ひ︑終に確固たる御基肇翌と奉存候・たとへ
腰 曝 慮 濾 詣 唱 へ 候 と も ︑ 将 来 御 維 持 青 的 相 立 候 上 は ︑ 盈 灘 農 惣 箋 懸 ・ 齢 里 奪 徹 底 不
仕︑御威光も相立不申︒終に萬民霧之境窒り候事無覚束と奉存嘩L贋礼事件・不平士族・キリシタンの処分にたいする木戸の苛酷ともいうべき態度には︑このような意図がこめられていたので繋・
的難 鯵 難 羅 題この 離 嚢 葎 斜 舞 をか額 魑 議 ボ
うな努蓋の不統ム.が︑政治状況および政府の支配をつねに不安定なものにしていたのである・ワてれゆえ・新政府の指薯がいかに確固たる決断をもってしても︑その結果の予浬つねに讐突き当らざるをえない・決定を下薯99にとって・そこにあたかも歴史を支配する超越的なるものが存在するかのように感じられたとしても不思議はなかっ
た・当時木戸が・重大な決定雫すにあたり︑昊Lや昊運Lという離的で斐・理的な存在にしばしば言︑及し︑
それに結果を委ねざるをえなかったのは︑このような事情による︒
したがって・歴史の方向を新政府みずからの手で切り開くためには︑究極的には︑たとえそれが最大の危険を冒す
離 藻 麹 犠 ぺ彗 磁蜷 .け鞍 鮮 麟 擁 弊 繧 鮒 隣 請 ボ魯 縫 罐 蕪 難 難 罎 騨 輩 雛 讐 羅 畷 .難 蒙
想の葉を芒ていたのである・そのためには︑い毒尾大之弊Lの鑑と化した蓬目三藩)との格闘ド一︑木
戸は﹁(42)(43)用術施策L︑︻謀略を設け﹂︑自らの能力を傾けなければならなかった︒
そして・目標への墾墜である版籍奉還を経︑廃蔵県t﹁大條理﹂の実選近つ乏つれ︑以上のような
権力の不安定性も解消に向った・昊條理Lの実現にともなって︑木戸の思想の方向も︑ゆっくりと薔する︒急進
主義からの離脱と︑それと表裏して︑政治主体拡大の認識がそれである︒
<ZOS)
100雛 墾 彊 鐘 彗 膳 髭 縮 磐 尺 渠 簗 の 客 わ せ で あ 三 ﹁佐 条 高 行 甚 ﹃坂 本 龍 馬 関 讐 三 ︑ 三
四八頁
(3)﹁徳川氏・庭分に関する建言書﹂﹃大久保利通文書﹄二︑二七三頁
(4)﹁岩倉具視宛書翰﹂︑同右︑一二二頁
(5)﹁小松帯刀宛書翰﹂﹃木戸孝允文書﹄三︑六二頁
明治維新の論理と構想
(6)﹁小松帯刀宛書翰﹂︑同右︑三︑六二頁
(7)﹁品川弥二郎宛書翰﹂︑同右︑二︑三三九頁
(8)﹁小松帯刀宛書翰﹂︑同右︑三︑六二頁
(9)同右
︹㎜霧 灘 擁 蔽襯輪 罐 欝 縫 霧 難 辮 難 庭灘
うこの大眼目を標的に︑理蓼蚕した贅は︑明治の元勲中︑ただ木戸あるだけだ.これが木戸の・轟した盤長所患う・
規購 輯 難 鱗 藤 鶏 騰 蠣硝 謎 籍 鯖 難 禦 蛇顯 譲 硫濁 襲 雛 鰭 難 鰹 騰 謄
このよう量面目に︑熱心に︑誠窪︑しかも公平に︑黎姦断するので︑聖のご信用も・こと爆かったように拝せられる・大久保もあれ程剛膓果断︑.差激烈な璽のあったにもかかわらず︑常柴戸を甕されて・真実心底から叢していたようだ・
熱 簿 麟 難 鑓 漣 融難 鴛 耀 籏 藷 い 難 袈 ボ 襲 耀 鱗 蕪 嚢 鉄 "
饗 鮪 蕪 繕 観 轄 騙 華 罐 叢 羅 環 重儒 は︑㎜ る︑ 三 ハ九 頁 所収 ) こ の評 言 から 戦 套 使 命
(12)﹃木戸孝允日記﹄二︑九五頁︑一八七一年(明治四)九月六日の項
鯵 鷲 鍵 誉 懸 鱗 蘇 鞍 "鎌 謂 羅 樋葉 撫 鑓 鞭 縫 群 諜 緒 鱗 錘 難 鑓 撮 舷 錘 毎 塞 が れ た 心 情 咲 木 一戸 の 心 中 に 不 満 を ‑ . 積 さ せ ︑ ー に そ れ は 讐
(13)﹁大村益次郎宛書翰﹂﹃木戸孝允文書﹄三︑二三〇1二頁
(︑) の賭 離 諜 繋 謬 纏 鐘 麺 騨 難 ↓繋 難 確 慧 難 煎難 謹 盤
101
年之大方略は必相憲否需は・所詮皇国維持之目的無二覚束候慮︑根撃和立朝変暮移︑益人々之方向を乱り候様之讐︑之候而は︑終
髭蟹至り候外無レ之⁝付而は病姦するをまち︑他禺地大撃之実力をたくわえ籔︑又は根塾定之露を相計り候も姦︒乍レ然︑
此事今日に甚六ツケ敷様奉レ存候︒﹂(﹁大隈重信宛書翰﹂﹃木戸孝允遺文集﹄六三頁)
(15)﹃木戸孝允遺文集﹄︑六三頁
(16)﹁岩倉具視宛書翰﹂﹃木戸孝允文書﹄三︑三二六頁
範 錘 謡 鷺 廼 難 て い 三 即 今 内 外 ノ 大 螢 国 危 急 存 亡 ノ 秋 切 迫 蛋 間 嚢 抑 箋 兵 乱 璽 蒔 筆 形
ヲ成トいをも大小牧伯各孤疑を抱き・天下人心禦然として︑其乱るとと百萬之兵詣くより可恐して︑含を婁ト心得候ハ床下之烈
火燃出登るを幸とする真ならす・嵜不思乎々多々︒L(署倉公に呈芒意見書﹂﹃大久保利通文書三︑一六一⊥責)
(91)﹃木戸孝允日記﹄一・一八四頁・・あ日二八六九年(器三月=一・日の項からは︑璽国の人情可治の讐姦し︑華生所田心の征韓
の念勃々﹂と︑内政上の危機感が征韓の意志へと反射していることがうかがわれる︒
(20)﹃木戸孝允日記﹄一︑一三八頁︒一八六八年(明治元)十一月八日の項
(21)﹁野村泰介宛書翰﹂﹃木戸孝允文書﹄三︑一八八頁
(22)﹁大村益次郎宛書翰﹂︑同右︑三︑二三三頁
(23)﹁大村益次郎宛書翰﹂︑同右︑三︑二三二頁
墾 嘱 還 纏 藻 露 鍔 嚇 受 シ テ 場 国 ﹂ で あ る 朝 讐 は 西 欧 諸 国 と 同 様 に 交 際 す べ し 壼 時 の 開 か れ た 姿 謹 た
ちまちけしとんだ︒
(2︑㎡ 騰 懲 講 粥 剛蝶 撫 鱗 繊 講 鱗 構黙 難
儘を吹て力を朝鮮に費すへけんや︒(﹁征韓︑征台速行の反対意暑﹂﹃木戸孝允文書﹄八︑三三頁)
(27)﹁版籍奉還に関する建言書案﹂︑同右︑八︑二五頁
(28)﹁岩倉具視宛書翰﹂︑同右︑三︑三二三頁
(29)﹁伊藤俊鋼に與ふ書﹂﹃木戸孝允遣文集﹄︑六一頁
(208)
10z明治維新の論理と構想
(30)﹁損村正直宛書翰﹂︑同右︑三︑三四三頁
(31)﹃木戸孝允日記﹄一︑二四三頁︒一八六九年(明治二)七月十日の項
(32)﹁政令一途に関する意見書﹂︑同右︑八︑一〇二頁
(33)﹁棋村正直宛書翰﹂︑同右︑三︑三四三頁
(34)﹁大木喬任宛書翰﹂︑同右︑三︑二七七頁
(35)﹁大村益次郎宛書翰﹂︑同右︑三︑三九三頁
(36)﹁大村益次郎宛書翰﹂︑同右︑三︑三四九頁
(37)﹁大阪遷都に関する建書書案﹂︑同右︑八︑二八ー九頁
(38)﹁岩禽.三条宛︑木戸書翰﹂﹃岩倉具視関係文書﹄︑五︑四〇頁
(93)不平士族の馨︑彼らの流す政府批判にたいしプ︑は︑覇廷上確固︑條欝然たる肇以・鞍を芒笙之方向を迷乱い芒候ものは・大小衆寡を不問︑明瞭御盛被為在度L(﹁大久保利通宛嚢﹂﹃木戸孝允文書﹄四︑五六頁)㌻シタン処分に関しては・﹁何分にも舞之御所致は蓬何姦判然無御座而は不相蒙と奉存候.追寛込之相婆り粗暴相働きしもの・心蓬おゐ毒も私心より不出ことと讐・大典を犯し候ものは断然と御所致御座なくては︑決而後来之書事必瓦解毒存候︒﹂(﹁中井弘発霧﹂・同有三・二七四頁)(40)﹁版籍奉還に関する建書書案﹂︑同右︑八︑二五頁︒
(41)﹁河北俊弼宛書翰﹂︑同右︑四︑二七七頁︒
(42)﹃木一 孝允日輔記臨二︑六五頁︒
(43)同右︑一一︑七一頁︒一八七一年(明治四)七月一四日の項
(44)同右︑二︑五一頁︒蝋八七一年六月十一日の項
四
廃 藩 置 県 の 実 現 と 中 央 集 権 国 家 の 形 成 は ︑ 維 新 ? 麦 兆 ち が 簗 以 来 と も に 追 求 し て き た 当 面 の 政 治 目 標 の 達 鵬
成を意味した・維新政府に集合し㌻麦‑たちにとつて︑それは彼らが砦してき菅禁実現し︑また消滅した
ということでもあった・国家にとっ羨の課題は︑この新たな中央集権体鯉いかにして近代国家の内実を注ぎ込み
うるかということであった・彼羅新政権のリ麦‑たちにとって次の政治目標が時代の地平から現われ出てきたわ
けである・彼らはいまや・自分たちの共通の・コルを通過したと同時に︑次の︒コールへいかにして畠を導いていく
かに・政治的使命の延長を見出し・同時にその事業の中旨らの政治生命の延長の可能性があることも直感した︒彼
らは日本の近代国家像を模索しはじめた・天竺年(明治四)秋から約二年をかけた岩倉欧米使節団の派遺は︑こ
の新しい甦に向けて実施された政府の最初の奈かりな準備作業であ・た︒大久保︑木戸をはじめとする政治家た
ちは﹁近代国家﹂をこの目で確かめようと先を館既って参加した︒彼らは蒔的に権力者の地位を他人に譲っても︑使
節団に同行することを志願したわけである︒
欧米で2行は・精力的に諸国の官庁︑議会︑軍隊︑毒︑学校などの近代的施設を視察し︑ホテルの自窪も在
留外交享その国の学者などを招いて・憲法をはじめとしてその国の政治制度の研究に没頭したのである︑二年後︑
帰国した彼らは海外で得た知識をもとに各あ近代国家構相心を打ち出した︒それらの構想生刻も早く実現すること
1丙治優先Lこそが・究極の目標である国家の対外的独立の維持のために不可欠であるとする彼らは︑帰国早々
に西郷ら征韓派と衝突し︑後者を維新政府から追放した︒
それらの構想は彼らの欧米での共通の体験が強力に影響しているために︑力占{の置き方や具体化の.フ.セスについ
ての考え方ξがいはあったものの︑将来における立憲政治・議会制度の計画︑産業育成の必要性など共通のものも
少くなかった・しかし舞論争以後の政局も︑共通の目標を董としていたかつてほど安定的なものではなかった︒
ことに新政権の主流派を畿する薩長両勢力のリ麦必ある大久保と木戸との対立は日まと讐となっていっ
(210)
104明治維新の論理 と構想
た︒中央集欝家の形成という共有の杏標(﹁大條理﹂)がとも奪も実現したことは・両者の政治的霧の必要性を著しく減じたとい・兄よう︒これ以後︑両者は国察重大な危機に臨んだときにかぎって提携を復活するが・大久保が主縫を握った新政府の護にたいして︑長州藩閥9麦差いう重票地位にある木戸はくり返し痛烈な批判を げかけたのであるむ
木戸の批判の根底にあった視占⁝は︑轟派奎の時代からの彼の経験によって培われてきたものだが・それは支配に際して国民の占める比重を重視し︑とりわけ国民の生活上の葉に細かい巖を亡心れない点が特徴的であった.ことに棄︑維新の変覇における膨大な政治的エネルギの噴出は︑木戸にとってまったく予測をこえたものであり・木戸はそ}︑に政治主禁身分階層の下方にむかって拡大しつつある時代の状況を深刻に受けとめたのである・璽新と申候ものも︑只千や葬之人而已之尽力にてここに至り候と申訳にても無之候間大に衆議を取り候規則箱立不申ては相藺姦と奉存候︒L木戸が五ケ条誓文の笙條暴﹁列隻譲員シ﹂車応ハ会議ヲ興シLと修正し﹁萬機公論二決ス可シ﹂とつづけたのも︑このように拡大しつつある政治主体をもって諸藩の権力を否定し・結果的串央政府の主権を肇せしめるという積極的な役割を期待するものであつ鷲そしてそこから・やがて次のように大胆な構想も打出されてきた︒﹁如則今︑優香重之外無之︑肇自重と讐亦後呈目蕪之厘・彌天下乱雑に可至・
+ 年 + 五 年 廿 年 を 計 り 嚢 略 被 為 定 度 ︑ 愚 意 を 暴 存 候 に ︑ 此 策 に 被 為 出 候 得 は ・ 先 朝 廷 八 百 薯 を 以 御 独 立 被 誰 ︑︑ 漂 灌 嘘 混 蓮 護 遣 ︑ ︑ 大 に 府 縣 に 御 着 手 相 成 ︑ 然 し 晃 遊 般 愈 蕪 誌 類 肇 魯 忠 悔 を な せ ︑ 朝 廷 之 政 自 然 と 独 出 仕 候 と き は ︑ 終 簿 藩 心 婁 寒 露 ︑ 随 而 鍛 溶 想 驚 塾 3 ぎ で は ・ 国 民 の 政 治 的 エ ネ ル ギ を 蟹 し ︑ そ の 力 に よ っ て 旧 体 制 の 最 終 的 な 幾 を 行 う こ と が 具 体 的 に 構 相 ぎ れ て い る ・ 大 久 保 が 国
民 の 籍 を ﹁ 気 簿 弱 ﹂ 蕪 気 努 の 人 民 ﹂ と み な し ︑ つ ね に 政 府 の 努 守 歩 ← ッ プ の 必 要 性 を 説 え た の に く
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らべて・右のような木戸の認謹彼の思相心を蒙的に醤づけるものとなっていった︒鵬
見馬 羅 難 魏 繧 い邸 鱗 縫 捲 藁 難 難 猟鯵 ビ臓 ∵
うになる・その結果木戸の茱的姦策能獲︑これまでの状況中の好讐勢﹂)(塙した果断な︑しかしつねにリ
ラ を と も な う 急 進 妻 か ら ・ 昊 下 之 事 は + 年 を 鶏 し 被 為 在 ︑ 漸 を 昊 に 御 慧 L と い 三 漸 進 嚢 L へ と 大 き く
転 換 す 蘂 こ の 転 換 は ・ ﹁ 前 途 杳 的 之 被 為 相 立 候 上 は ︑ 急 邊 御 進 歩 有 之 候 て も ︑ 世 圭 統 弱 足 の も の は 御 沙 汰 通
に 得 運 ひ 不 申 課 も 可 有 之 か と 奉 存 塵 と い う よ う に ︑ 里 続 弱 足 の も の ﹂ に 配 慮 し 国 民 の 籟 を 獲 得 す る こ と
によって・努蓋を拡大するとともに・革命前後の非日常的な状況と支配を収束し︑維新国家を安定し畿長段階
にみちびこうとするものであるこの時期木戸が理想としたのは︑﹁+年の籍立︑人民に信を不失︑政令益行れ︑
人民彌安伏す蛋というように・政府の頁した政策の遂行と国民の政府にたいする籟とがたがい長映しあうよ
うな安定した支配であった︒
だ か ら と い っ て 木 戸 は ・ 政 治 指 導 菌 民 の 要 求 室 く よ り か か る べ き で あ る と 考 え て い た わ け で は も と よ り な い ︒
﹁ 鯉 義 ﹂ も ・ 状 況 の 推 移 を 籟 的 に 考 且里 し な が 羅 新 国 家 を そ の 肇 へ と 操 作 し 導 い て い く リ ア リ ズ ム の 表 現 で あ
っ た と い え る ・ ﹁ 漸 進 嚢 ﹂ の 構 造 は 二 方 で 籍 肇 の 葉 方 針 に 妻 性 と 持 続 性 と を も た せ よ う と す る 篠 理 L 追
求 の 執 禦 思 考 と ・ 他 方 で は 各 時 点 に お け る 政 策 遂 行 が 現 審 及 ぼ す 効 果 ξ い て 考 量 を 加 え な が 旨 標 実 現 へ の 具
体 的 計 画 を 調 整 す る ﹁緩 急 百 在 憲 考 と い う 二 極 の 思 考 の 緊 張 関 係 か ら 成 り 立 . て い る . し か も ﹁ 必 寛 ︑ 緩 馨 盛
論 蓼 讐 之 ・ 其 元 は 篠 理 蓄 く と 不 貫 に あ り ︒ 緩 嘗 條 理 中 よ り 起 り ︑ 緩 厳 よ り し て 條 理 を 論 す る の 理 な し ﹂
と ・ 篠 理 L の 蒙 的 匿 性 が 確 認 さ れ て い る ︒ す な わ ち 政 府 は 肇 の 実 際 的 効 果 〜 国 民 の 反 応 ︑ 適 合 力 に + 分 な
明治維新の論理と構想
注意を払いながら︑そしてそのためにも長期にわたり蛋した肇方針をとるべきであるというのが・漸進主義Lの背景にある木戸の思想であった︒
かえりみるに︑わが国においては蓬時代をつうじて長芳﹁武臣制を壇ニセシ﹂ために・国民鍍治的社会要
喉にとぼしい︒それゆえに政府は国家の近代化にあたって国民を物質的︑精神的に保護・蕩し三心切総て着
奪 れボ 霧 摸 脇 羅 齢 麟 齢 瀞 諮 駐 数 ︹蘇 擁 罐 略 籔 獣 灘 媛 騒 暇瞳
か な け れ ば な 叢 い ︒ け っ し て ﹁ 欧 糞 に て 数 + 年 姦 月 姦 せ し 峯 を 有 位 之 布 告 を 以 模 蜘 ご よ う と 企 て て は
ならないのである︒.︑のようないわ鍍治的世界を震する日常的要素の重視は︑次のような木戸の政治鯉藻く反映しており・そ
駿 舗 と 凄 ︑溺 誰 潅 溝 壌 て い る . .抑 も 馨 盆 隷 蟻 電 ︑ 言 禽 応 太 葱 悲 ・ 獅 な 下
流に逝く︑須輿も之を箋す可からさ余恕︒其際︑利を起し︑害を除き・善を奨め・弊を去るや・各々其実際に応して順序を設け︑以て之姦正し︑漸く其化域に至らしむへし・其期の遅蔑・独り政府処分の當否に依る而巳︒凡そ海の内外を論芋各国政治の沿革して良難︑政を得るを見るに︑皆此法に害て施行せさるはなし・但・不世出の英雄︑時変に嚢し干書以て一世を圧服するか如きは︑又常理を以て論す可きにあらす・若し巖の得失當否を顧みす︑遽に政体製を変革し徒らに名称に従ふて薪政新法を亘に施行せんと欲する護・大概轟害を増加して其利益あるを見す︒仮令墓の新法︑聲の新法なりといへとも︑猶従法虚名に属す・況蘭議末た萬全の地に及はす︑養の度に至らさ鍵於てをや︒﹂それ窒に﹁政治は実地に著意して︑其妨碍なきを主とし・而して漸を以て之を挙行するに如くはな﹂いのである︒
木戸の麦露線批判が表面化するのは︑一八七四年(明治七)大久保がム・湾征討に乗り出したと窪は呈る︒
木戸はこの決定を不満として襲を醤して政府を去り︑薩長両講の指薯の間の不和墾然たるものとな.た︒
木戸の不満の罷は・轟論争のときと同様に内治優先の立場から︑外征は蕪算の大博変Lであり︑その財政的負
担は国内の近代化を遅らせ・国民の負担を袈し︑ことに台湾出兵が・火となって中国と戦端を開くことにでもなれ
ば・国内近代化量大な破綻をきたすのみならず︑維新の峯そのものが水泡に帰する危険を内包しているというこ
とにあつ壌また・わずか半年前にはともに内治優先論をもって轟派姦府から追放した大久保らが︑﹁行がかり﹂
から立場を逆転して外征に踏み切ったことは︑彼らにたいする木戸の不信肇決定的なものにし湘駄戸か覧れぽ︑
彼らは稲場心を以鎚て・計画の矛盾を衝かれると自らの生命とひきかえ旨説を押し通す﹁野蛮﹂さをもつ驕
お 慢先生﹂たちであった︒
台湾征討の一件のみならず・政府はとかく着実三貫した政治指導を欠くことが︑木戸の大久保路軽判の篁占描
であった・そもそも政厘蓉合所極で立自心志の堕を欠いていたが︑他方ではたまたま二時気発の説﹂が唱︑琶
れれば・前後の見さかいもなくそれ三雷同Lする欠陥をもっていた.(耽のため政府の方針は養性を欠き︑蒔々
漸進中に急進を生し・急進中退歩を生し︑↓派衆動喬猷蝕乏敷Lという結果に陥.ているというのが木戸の
批判であった・政府のこのような欠陥にたいして木戸が芝た対策は︑荷分にも蒙燥進は制度を以防拒候外いた
し方有之間敷と奉存璽と述べているように︑政策決定過程を制度化することによってその姦性と非人格性およ
総 擁 擁 ボ難 騰 鍵警 繧 繋 蕪 縫 瀦禦 鍵 蕪
めにも・いよいよ切実にその必要性憲じるようになっていった︒翌天七五年(明治八)︑麦保の懇願に応じて約
(214)
108軸
明治維新の論理と構想
一 年 ぶ り に 政 府 覆 帰 す る こ と に な . た い わ ゆ る 大 阪 会 議 の 席 上 で ︑ 大 久 保 に 政 府 欝 の 整 備 を 骨 子 と す る 諸 制 度 確
立を約束せしめたことにも︑右のような意図がうかがえる︒他方大久保は︑征韓論争での勝利にひきつづき︑全奪理大臣として北京へ赴き台湾出兵後における中国との困難な外交問題を持前のねばり強さで有利な鍵に導こと晟功してからは︑新政府におけるへζニーを完全に掌握するに至った︒そしてそれとともに︑大久保は天皇の政治的操作姦局収拾と人心釜の切り札として用いながら・自己の政治糞にいよいよ自信藻めていたのである︒このよう旨己の強力なリ亥←ッ・フを自負する大久保に
とって︑その能力が発響るべき政治的世界はまず第一に政府部内人事の震を意味し・それウ兄彼にとっては何ものによっても制約されない可塑性をもつものと考えられ︑支配もまたそれ覧合ったものでなけれ婆らなかっ
た ︒ 謀即 灘 運 遷 ︑当 ﹂ ︑て 渡 着 ︑之 ︑ご 運 魂 し て ︑今 日 も 明 日 も 来 年 も 固 執 い た し 倭 ︑ 所 謂 頑 之 字 を 免 れ す ・ そ れ 世 中 を 経 過 す る に は 活 用 と い ︑蓉 も の が な く 濡 ぶ 霧 慧 念 璽 ︒ か く い え ば 益 御 嘲 寄 有 姦 も 難 図 候 得 共 ︑ 瞭 子 多 年 経 験 上 よ り 了 得 し た る 妙 窪 し て ︑ 恐 く は 鏡 之 窺 ひ 知 る 所 に あ ら ざ る べ し ・ 享 見 機 動 欺 之 古 言 も 有 之 候 L 棄 ︑ 維 新 の 動 乱 の 中 で つ ね 量 大 な 政 治 的 駈 引 婁 担 当 し た 大 久 保 が こ の よ う 姦 治 観 を 抱 い た の は む し ろ 当 然 で あ っ た ︒ だ が 同 時 に ︑ 大 久 保 が 自 己 の リ 麦 ← ・ プ を 自 負 し ︑ ま た 後 述 す る よ う に 禦 蕩 す る 内 務 省
の殖産興業政策路線の正当性に自信を深めていくにつれ︑彼にとっての政治的世界そのものは・自己の政策実現のた
めに政府部内の人間関係を墓することにーふたたび﹁霧﹂の世界に還元されていった・それにたいする木戸の特徴は政治状況のもつ多面隻視野に入れ︑それをできるかぎり合理的な支配の中に組みこもうとすることであつ紛た︒木戸における支配のム・理性への志向と大久保におけ皆歩←ヅプの優催という両者の政治観の相違は・無⑫自覚のうちにも彼らの政治的︑思想的対立の根底をなしていたであろ簗畑
木戸の大久保路軽判の第二点は・その﹁急進主義﹂的近代化肇に向けられた︒この問題に入るまを︑まず木
戸の近代化・﹁文明開化二盤ついての思想を考えておく必要があろう︒維新後︑︻文明開化﹂の風潮は東京を中心
に沸騰し・時代の奔流となっていた・政治主体の拡大についてと同様︑木戸は国民一磐自発的に近代化に適A.して
いく能力をもっていることを疑わなかった︒﹁璽開化に趣き候様禦手︑月を逐ひ日を逐ひ︑民之束謹とき畠
を得させ候様に御手段有之候ときは︑誓而下より開化に馳せ︑左ほど響心無之候而御運之禦と奉存候︒﹂だがそ
れと同時に・木戸はこの風潮が見すごすことのできない重大な墓qをもたらしつつあることに皆していた︒木戸に
緊 雛 讐 饗 縫 雑 縫 追覆 難 器 欝 藁 縫 藤
うな傾向は西欧文化の受容そのもの療因があるのではなく︑したがって近代化の必然的な結果ではないと考えた︒
木戸によれぽ・西欧文明を性急かつ表面的に模倣しているというのが﹁文明開化﹂の現状であり︑右のような肇口の
笙の原因であった・木戸が欧米で得た知識によれば︑かの国乏おいて筆リスト教の布教が﹁密にして里︑窒
るまで行塵き・その文明の精神的ハックボ←になっているのにたいして︑わが国の現状は儒も佛も耶も何も空
物にて・只開化々々と名利之開編ご終始する有様である︒西欧文明の受容守Fすべき攣者︑開化先生﹂の
多くもただひたすら﹁嚢仁礼之風を饗三とにやっきとなり︑このような風潮を助長している︒まことにコ削途 お
只 此 弊 而 巳 を 残 し 候 様 成 行 候 而 は 萬 世 之 遺 憾 ﹂ と 木 戸 は 歎 ず る の で あ る ︒
木戸にとって右の弊害が内包している︑より深刻な問題は︑このよ魂風禦維新の変革の露とは別の方向へ国
民をおし流そうとしていることであった︒三+年来千辛萬苦之境を不顧L︑菌を愛するの心薄くLしつつあること
に・木戸は危機を感じていた・このような危機を黍にふせぎ篁口を嬌正して︑国家を颪之開化Lに導くために
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110明治維新の論理と構想
は ︑ 国 民 全 磐 藁 に ︑ ﹁ 漸 進 的 ﹂ に 近 代 化 に 適 A・ さ せ て い か な け れ 婆 ら な い と 鰹 糞 具 体 的 に は 小 学 警 に
大きな期待を寄せた︒木戸は︑前述のような﹁漸進嚢﹂の思想にもとついて・﹁国は人よ晟立候ものにつき・たとえ手間覆とも奨に漸進いたし︑退歩いたさ葛様心覆方︑総体睾鱗という﹁漸進的﹂開化の立場をとり︑頑固の親父が一枚つ土枚三げ候て︑真に開髄ていくように・華に近代化していくべきであると壷た︒同時に︑そこには︑対外的独立羅持という近代化の晶のためには︑少数の洋学者や西慧たちの皮相な主張
噛 蘇 謡 縫 鰐 ︑↓ 饗 翼 凱鞭 惣 報 裂 鴇 騒 凛 綿 肋蟻 鴛 鯵 窺
育の噸には︑教育内容においてとりわけ婿身の学は欧州の+倍もいたさせたく︑文部へもこの道理を心切箱す
齢 謬 齢 捲 薫 響 雛 謡 的 空 洞 を 埋 喚 ひ い て は .国 を 愛 す る の 心 L を 生 み 出 そ ‑ と い ‑ 国
このように漸進的﹂な開化を主張した木一 は︑その占描で︑・シアが﹁百年を経而徐蓮芝璽誌ドたことを日本の近代化の手本と考えていた︒そしイ︑日本も漸進的﹂な近代化によって必ず﹁世界篁等恥間幽ができることを讐していた︒実際に﹁小学校などにて少年の進歩を暴候へは︑実に人ほどす議候ものはこれな輪こいうように︑国民の遙歩﹂は+分に期待できた︒もとよりアメリヵ人やドイッ人といえども日本人と﹁毫も異なるものな﹂
いのであり︑﹁恨むるところは︑只警年国を鎖し︑自ら宇内の形勢に暗く︑また四方の学問を研窮するの犠﹂かったことである︒つまるところ彼我の養﹁只学︑不学にある而艶である・三には・西欧文明に冒的に追従す
るのではなく︑国家の対外的独立の維持とい畠的にそって主体的に近代化の〒ス蓮択するという木戸の姿禦みられよう︒﹁欧羅巴州何物ぞ︑我只独り朝寝をしたり︑睡足︑今将起︑少女と小児たもと}そにから的とは・こ
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のようなときの彼の心境であろう︒
ところで・このような近代化論に立つ木戸は︑板垣退助ら畠民権派の思想と運動をどのように評価しただろう
か・板垣らは・木戸が征台の役の決定を不満として政府を去.た天七四年(累七三民議院設立建白童田を世に
問い・大久保らの有司専制ことに国民にたいする﹁政舎端︑朝出暮改︑政刑情実晟り︑賞罰愛憎に出づ︑暫口路
塞蔽・困苦告るな壌という圧政を批難し︑国民の権利と畠を羅し︑民選議院によって政府と国民とが一体とな
るべきことを主張していた・このころから板垣はじめ小室信夫︑古沢滋ら民権派の︒フレ←は︑同じく政府を去りか
禦 叢 曝 徽 聾 邸馨 難 藩 罐 繁 卸淋 鰻 麓 灘
の動きに不信と警戒の気持をつよめていった︒
民権派にたいする木戸の批判の篁点は︑その忍進﹂的性楚たいするものであった︒木戸からみれば︑小室や
古沢が英国での﹁ききかじり﹂を主張し︑板垣も﹁英の政体々多々﹂というけれども︑そもそも政治体制というも
のはその国の政治的風走根づい三自蓬成就す麓ものである.板垣の主張は﹁重.物通舐)今日之人情も不顧︑
文明之度も不察霧運転之讐不権︑歩せすして富岳は只越さるると口に而申せし諺之如﹂きものである︒まし
て﹁公然・共和政治等之事を議﹂す結果︑天皇制の否定に行きつくようなことは︑木戸にとって﹁死すとも瞑早る
不能﹂る重大事であった︒
木戸の民権論批判の第二点は・彼らの思相心と行動が頁隻欠いていることに向けられた︒木戸によれぽ︑建皇日
中の﹁政書端・朝出暮改﹂以下の政府批判はたしか罎を得ているが︑しかし現在の政府は多少とも徽篁︑に気
づきはじめており・反省の色も見えつつある︒しかる籔あ変革を一挙に断行し﹁政舎端︑朝出暮改﹂したのは︑
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112明治維新の論理 と構想
む し ろ 板 垣 が 西 郷 ら 舞 派 と と も に 在 任 中 の 留 守 政 府 だ っ た で は な い か と い う の が 木 戸 の 批 判 で あ っ た ・ 天 七 五 年 ( 明 治 八 ) 内 閣 と 省 卿 の 分 離 を 主 張 す る 板 垣 が ︑ 旧 藩 主 層 の 蓬 的 利 益 の 復 活 を 主 張 す る 立 場 か ら 政 府 に 不 満 を 抱 い て い た 左 大 臣 髭 久 光 と む す ぶ と ︑ 板 垣 ら に た い す る 木 戸 の 不 信 は 決 定 的 と な っ た ・ 主 張 を 異 に す る 要 が 薮 す る の は ︑ 結 局 彼 ら の 動 機 が た ん な る 不 平 に も と つ く か ら に ほ か な ら な い と 木 戸 に 慧 わ れ た ・ ﹁ ポ ル チ ッ ク な ど 車 慮 よ り 之 論 は ︑ 多 く は 付 も の 需 ︑ 元 来 馨 之 論 は 不 平 楚 い 芒 儀 灸 鍵 ﹂ ︑ ﹁ 其 不 平 の 為 め に 変 移 無 窮 其 品 位 実 に 鄙 劣 な る ︑ 本 邦 の 奨 を 推 考 し 不 堪 羅 な り ︒ 板 垣 退 助 ︑ 河 野 敏 攣 は 皆 民 漿 に し て 封 蘂 と 合 せ 筆 彼 ら の ﹁ 政 治 ﹂ 性 ︑ こ と に か つ て 農 撃 を と も に 戦 っ た 板 垣 の ﹁背 信 ﹂ 行 為 に ・ 木 戸 は 強 い 不 態 を 抱 い た と い え よ う .
結局︑民権派にたいする木戸の評価は次のようなところにおちついた︒﹁本邦人の大弊は・何分あたまがちにて固有堪離 雛 繋 欝 纏 鰍舞 籍 的麟 雛 鎚 慕 齢鰺 甑
の典型以上のものとは思えなかったということであろう︒
さ て ︑ 問 題 は 大 久 保 路 線 に む け ら れ た 木 戸 の ﹁ 急 進 ﹂ 主 莚 判 で あ る が ︑ 木 戸 に よ れ ば ・ 急 進 的 開 化 の 弊 害 羅 新 政 府 姿 ︑ そ 集 中 し イ︑ い た ︒ (駈 口 頭 上 は 人 民 急 進 に 過 候 棄 少 候 得 共 ︑ 行 政 上 は 折 節 隷 募 謙 春 隷 之 ・ 後 来 之 困 難 如 何 と 煩 念 候 事 も 不 少 ︒ L 急 進 的 籍 と い う 占 ⁝で は ︑ 政 府 も そ れ に 対 立 す る 民 権 派 も な ん 婁 な る と こ ろ は な か っ た ︒ コ 則 年 民 嚢 院 の 論 起 し よ り ︑ 政 府 に 急 準 漸 進 の 二 党 あ り ︒ 今 の 政 府 は 所 謂 鍵 党 に し て ・ 政 府 亦 鍵 を 以
て自ら命せり︒然れとも孝允を以て之を視るに︑唯民選議院を説かさるのみ・其急進たるは一なり・何そや・政府・切
民 嚢 院 (派 ) は 委 以 て 不 開 の 人 民 に 施 す に 至 っ て は ︑ 其 開 ︑ 不 開 を 問 は す ︑ 適 ︑ 不 蓼 論 芋 ・ 直 ち に 我 の 是 と す ⑫ る 所 を 以 て 之 に 加 え ︑ 而 又 蔑 姦 に す ︒ 是 急 進 に 非 す し て 何 ぞ ︒ 隷 諒 で 愈 愈 ・ 余 毫 紫 ゑ 量 ど 臨 塒
冬 恭 隷 な 婁 察 ・ 黙 慧 み 蔭 如 何 ・ 必 愚 を 修 め ︑ 鰹 馨 養 ︑ 跡 で 馨 慧 ②
ヘへ カ
な 解
批 判 し た 政 府 の ﹁急 進 ﹂ 主 葦 い う ま で も な 薙 新 政 府 の 近 代 化 肇 で あ っ た ・ よ 暮 的 舞 大 久 ω
保 の 率 い る 内 務 省 に よ っ て 推 進 さ れ た 殖 産 興 業 政 策 で あ っ た ︒ 岩 穫 節 団 と と も に 護 し た 大 久 保 は ︑ そ こ 雪 近 代
国 家 L へ の 牽 引 力 が 近 代 肇 で あ る こ と を 畢 し た ︒ 産 業 革 命 の 象 徴 で あ る 蒸 気 機 関 車 の 力 強 い 疾 走 ほ ど ︑ 大 久 保 に
と っ て 頼 も し く 受 た も の は な か っ た ・ ﹁ 製 作 場 ノ 盛 ナ ル 事 曾 テ 傳 聞 ス ル 虜 ヨ リ 房 増 り ︑ 至 ル 慮 黒 姻 天 二 朝 シ ︑ 大
小 之 製 作 所 ヲ 設 ケ サ ル ナ シ ・ 英 ハ 姦 訟 所 馳 知 坐 足 か 訟 . ⁝ 凡 奢 演 5 蕩 漢 江 渉 嘆 諦 ︑逸
+ 年 以 来 ノ 事 ナ ル ヨ シ ・ 然 レ ハ 皆 義 車 発 明 ア ッ テ 后 義 ニ テ ︑ 勢 隠 魯 メ 貿 易 ヲ 起 ス モ 半 ハ 餐 二 萎 ル ト 相 難 獣 継 鯵 鷺 霧 鱗 誰 欝獣 藍 難 纏 諺 鞠 雛
な蛋甦であった・麦保は・定評ある彼の政治的情熱と手腕︑鉄のごとく固い意志のすべてを殖産興蓬注ぎ込
んだと言っても過言ではあるまい・禦内薯に芙官僚群を結集したのも︑内務省をしてこの肇を推進する﹁蒸
汽車﹂たらしめるためにほかならなかった・大久保にはとうてい︑このように緊色心な軽生刻たりとも﹁無気努
の人墜の乏委ねることはできなかった・たとえ強引ではあっても︑自ら率いる内務省の強力なリ!ダーシップ
によって・確実かつ速やか旨標蓬成しなけれぽならなかった︒署︑之を政府の楚非すとし︑措いて人民の長
進 に 任 せ ・ 荏 蒙 藝 経 邊 は ︑ 蓑 状 の 底 止 す る 所 ︑ 薩 綴 俊 蕩 覗 噛 鶯 醜 最 も 色 心な る も の に し
て ・ 政 理 盆 慰 蒙 藍 恥 ・ 森 勢 塗 惣 於 で 怨 へ か ら さ る の 霧 と 云 は さ る を 得 す ︒﹂
こ の よ う に 変 則 も 承 知 の 上 で 強 行 さ れ た 殖 産 興 業 肇 と ︑ そ れ を 忠 と す る 政 府 の 急 激 な 近 代 化 肇 t 蓄 国 強
明治維新の論理と構想
兵L策は︑当然篠々の摩擦を禺に生み出した︒そしてそのしわよ芸多くは・農民や旧士族をはじめとする国民の上量い畠となっておおいかぎっていった︒木戸の政府批判は︑まずこのように譲な近代化‑古欧化政策のもたらす弊害を鶏している︒﹁政治上の事も兎角是之目的無之︑専ら文明を薇し・却て人民上之鐘を妨け・或は暴に警年之慣習も覇に破壊し︑国と人との幸福を失し候事も不躯
木戸も︑﹁強は富より生し候ものにて︑笛の本相立たざるときは・前途いかんともいたしがたく塵というように︑国家の対外的独立羅持という究曹標のためには︑産業を育成し雷国強兵﹂を目ざすことに異論はなかった︒しかし︑国家発展の担い手である国民の生墓撃侵す︑このように巖な西欧化は・むしろ肇の健全な誕
漢 麟 磁鍵 鎌 レ.耀 る罷 穫 縫 藤 醗 砺蘇 難 難 鳶 謙 畿 鑓 糠 磁鍵 鍵 讃 難 箏 綴
久保を内薯から引き離すべく馨口した︒その理由を︑日記に次のように記している・﹁大久保・内務を議して無益となすものは︑大慨の喜判任の詮議に出て︑都下に蓼勧..の事を企て・数多の局を設け・大に土木を起すといえども︑真に民力の復する根本に慧するもの幕なり︒故にその箪いかんを智ず・ただ木縁りて魚を求むる
が 如 き を 恐 る ︒ 常 に 人 民 に 直 挙 る 改 革 霧 て 俄 急 を 象 ﹂ ⑳
杏 の 大 久 保 路 軽 判 は ︑ 後 者 の 急 激 な 近 代 化 政 策 が 国 民 生 活 の 破 壊 を も た ら し ・ そ れ に た い し て 抵 抗 す る 量 ⑫
揆に対しては容赦ない弾圧によって応えようとしたとき︑その極点に達した︒自らの肇遂行を阻まれたことによっ鵬て う っ 積 し て き た 不 漫 ・ 国 民 と 自 己 と 生 体 視 す る こ と に よ っ て そ の は け 口 を 見 出 し ︑ 一 挙 に 爆 発 し た か の よ 完
あ っ た ・ 木 戸 に ょ れ ば 大 久 保 お よ び 内 務 省 が 先 導 す る 政 府 の 国 内 近 代 化 政 策 は 騒 実 に は 天 の 生 活 な と も 塵 芥 の ご
と く 想 得 ・ た だ ー 箋 き に 薮 千 万 の 生 活 上 よ り 慣 習 篭 容 易 に 軽 乏 破 却 L し ︑ 輩 さ 気 取 に て 行 政 上 の 改 薯
遍 L し て い る ・ そ し 三 方 で は ・ こ の よ う な 急 激 か つ 現 実 を 無 視 し た 改 慕 ひ き お こ す 圧 迫 に 耐 .磁 れ ず ︑ ﹁ 捲
暑 し み ・ 終 に 失 活 路 ・ 不 得 止 愁 訴 歎 願 ︑ 劣 籍 霧 へ 候 も の を (政 府 は ) 元 辺 に て ぽ ち 々 々 と 難 ﹂ し て い る で
は な い か ・ こ の よ う に 固 翫 し た 斐 を と る こ と は ︑ 維 新 政 府 に と っ て も 危 険 な 葦 を も た ら す こ と に な る ︒ そ れ
は つ ま り ・ ﹁ お よ そ 人 民 は そ の 慣 習 星 活 せ さ る 者 少 し ︒ こ れ を 以 て 邊 そ の 慣 謬 変 す れ は ︑ 生 活 の 道 を 失 う も ま
た 自 然 の 楚 し て ・ 象 景 葱 漁 ・ 豫 熱 曾 怠 臭 篤 憲 蓉 蝕 あ ﹂ る か ら で あ る ︒ 国 民 の 生 活 を 無 視
し ・ ﹁ 轟 の 条 理 ﹂ を 論 じ 三 蒙 急 進 L す る 政 府 の ﹁ 急 進 ﹂ 義 の 結 果 ︑ 国 民 が ﹁ 挙 て 謀 反 人 と 相 成 候 外 こ れ な き
時 は ・ 呆 滅 亡 の 随 に ほ か な ら な い と 杢 は 考 え た . こ 爽 彼 ら 現 在 政 府 に あ る 人 々 が 維 新 の 舞 を な め 足 り
ず︑そこから十分な教訓を得ることができなかったからである︒(65)
それにしても・国民の身になって考えるとき︑政獲よる﹁籍連の征伐は身の毛がよだち申候﹂というのも︑木
戸のいつわらざる籍であった・彼は・大久保路線にたいする批判と不響つのらせていくξれて︑維新の玄.萎
難 雛 藩 懸 雛 諜 窯 欝 難
あった︒
(22Z)
116明治維新の論理 と構想
(1)﹁野村素介宛書翰﹂﹃木戸孝允文書﹄三︑一八六頁
(2)大久保利謙﹁五ケ条の誓文に関す⇔署塞(﹃歴史地理﹄第八八巻⊥︑および﹃論集・呆歴史9・明蕪新﹄所収)参照・(3)﹁三条実美宛書翰﹂﹃木戸孝允文書﹄四︑一〇三‑四頁
(4)﹁岩倉具視宛書翰鳳︑同右︑四︑九九頁
(5)後年木戸は︑急進義から漏進嚢﹂への餐を次のように回顯している.﹁筥往奨を慧候得ぽ・塑新暴も朝廷上なり董なり内外紛転之際︑僅々凡大綱奇相成ものは糞断なくて元より不叶事と存簿共︑他は擾之纂を蒙し婆漸進寄主と持説主張簿共︑始終かきまぜられ云々﹂(﹁非上馨宛書翰﹂︑同右︑三九四頁)
(6)﹁大久保利通宛書翰﹂︑同右︑四︑五〇頁
(7)すでに天六八年(器元)︑木戸は国家の対外的独立という究極曽的のためにも・毘の自発的服従が必要であ肇︺と奎張し・またそれが近代国家として当然の方針であると説いている︒朝廷含之御力而是而は︑決而往重国之御備へも不相立・樋而御維持も万々不相成辺を︑各国之畠を保護い芒候将而は︑邦内之人碁負力客せ︑饗国之守備を立・永続之策姦らし候次第之廉々を挙け・先以信切矢民にも相示し置︑左候而響以御手を被立候瞥︑必天下に被行可姦︒笙に府県之知謹不及申・判琶下にても此慮へは屹度着眼を仕︑其心得需會政妻煙不仕而は︑決而不相肇と奉存候.L(﹁後嚢二郎宛書翰﹂・同右・三・西七‑会)木戸のこの構想が︑幕末の長州藩における経験をふまえていることは明らかであろう︒
それゆを木戸にとって︑維新前後の非日常的状況をどのように収拾するかは︑一面ではそれがアナ←‑になだれこむのを恐れながらも・
謡そこに蓄した政治的エネルギが国家の対外的独妾馨するために発響れることを期待するがゆえに董大かつ蟄を琴る課題
であった︒昊下之事︑車定よりも軍定後天下美方向を相定め︑皇国丙之正気を以万国に冠絶たる規模禦之事万々御六つケ敷姦と痛按之至に御農.言余年窟之気蒔如斯鼓動仕候而は︑此後殺気之所塾大謹御座候・大量国之御為とも香有之大害とも相成申候︒L(﹁久保松太郎宛霧﹂︑響︑三︑δ四頁)ここ覧られるように︑木戸は時代の雰囲気(﹁気﹂)壷視し・またそれに敏感に対応した政治家である︒.乏この時期の木戸は︑﹁気﹂をいわば社会心理として窺的に羅し・かつある程霧作することの可能な対象として考えるようになっている︒
(8)﹃木戸孝允日記﹄一︑三四五頁︒一八七〇年(明治三)四月一八日の項
(9)同右︑二︑一=頁︒一八七一年四月一四日の項
(10)﹁伊藤博文宛書翰﹂﹃木戸孝允文書﹄五︑三二五頁
(11)﹁内海忠勝宛書翰﹂︑同右︑五︑二二八頁
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