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ポストマルコスにおける「政党なき」 民主主義に関する一考察

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論 文

ポストマルコスにおける「政党なき」

     民主主義に関する一考察

一政治制度,政治文化,社会構造とその変化に注目して一

五十嵐 誠 一一

はじめに一問題の所在と分析視角の検討 第1章 アメリカ植民地下での政党政治の開始

1−1 アメリカ植民地期前期 1−2 コモンウェルス期 第2章 戦後の二大政党制

2−1 戦後の基本的政治制度の概要と 二大政党制

2−2 政党の実態と二大政党制の論理 第3章 革命後の政治制度の概要と社会変容

3−1 基本的政治制度の概要

3−2 社会的・経済的・文化的条件の      変化

第4章 政党なき民主主義

   4−i 大統領選挙に伴う多党乱立    4−2 下院選挙に見られる伝統的な政      治社会

おわりに

はじめに一問題の所在と分析視角の検討

 フィリピンでは,86年の民主化革命によって,

14年間続いたマルコス体制が崩壊し,民主主義 体制が復活した。以来今日まで,複数政党制に 基づく平和的な政権交代が行われてきた。加え て,アキノ政権下で頻繁に起こった軍部反乱分 子によるクーデタもなくなり,体制転覆の危機 は,はるかに遠のいている。革命から15年を経

て,フィリピンの民主主義は明らかに安定度を 増したと言えよう。

 しかし,問題は,こうした複数政党制に基づ く形式的な政権交代の背後にある。マニラクロ ニクル紙のチーフエディターであったドロニラ 氏は,92年の選挙の様子から,フィリピンを

「政党なき民主主義」と椰楡したω。98年の選 挙では,フィリピンの政党システムを「フィリ

ピン史上最も不安定で弱い」と,同氏は評して いる②。

 革命によって復活した民主主義体制の最大の 問題点は,現代政治の生命線である政党が「な い」とまでいわれるほど脆弱なことである。政 党は,選挙直前に有力な大統領候補によって結 成されるご都合政党ばかりであり,党の結束に しても,イデオロギーや政策というよりはバト ロネージとポークバレルによって概ね保たれて いる。そのため,政党システムは極めて不安定 なものとなっている。フィリピンの民主主義は,

体制という「マクロ」レベルでは安定したと言 えるが,政党といった個々の「ミクロ」レベル では,依然として問題を抱えているのである。

 こうした政党の弱さは,マルコス体制がもた らしたと指摘する声もある(3)。確かに,独立し

(2)

120

てから26年間続いた二大政党制が,戒厳令に伴 う政党活動と議会の停止によって崩壊したのは 間違いない。また,マルコス体制崩壊過程で,

政党組織の分裂が著しく進んだことも事実であ

る14)。

 しかしながら,革命から10年以上経過した現 在でも政党が弱いと指摘されているということ は,マルコス体制とその崩壊は,単に政党政治 の新たな出発点を提供したにすぎず,政党の弱 さをもたらす根本的な原因は別にあることを示 唆している。

 これまでフィリピンの政党を弱める原因は,

合理的な選択を行う政党と有権者を想定する現 代政党理論とは相容れない要素,すなわちパト

ロン・クライアント関係(以下,P一℃関係)

や家族主義といった,非合理的で伝統的な政治 文化的要素に求められる傾向があった(5)。これ は間違いではないが,政治文化という,ある意 味で特殊非西欧的な要素が強調されるあまり,

明らかに政党を規定する大統領制,選挙制度と いった政治制度と弱い政党の関係は等閑視され,

これまで十分議論されてこなかったと言える。

昨今,欧米諸国で政治制度論の復権が著しく㈲,

フィリピン国内でも政治制度に関する議論がさ かんに行われている状況を踏まえればくη,こう

した関係を検証する必要性は十分あると言えよ う。もちろん,従来の議論が強調してきたよう に,政治文化も政党の弱さと密接に関係してい ることは言うまでもない。

 政治文化,政治制度に加えて,政党の弱さと 密接に関係するものとして検証しなければなら ないのが,社会構造とその変化である。「凍結 仮説」は,特に非同質的な社会構造は政党の生

成に何らかの影響を及ぼすことを指摘してい

る(8)。フィリピンの場合,比較的同質的で極端 な貧富の格差に特徴づけられる社会構造が,実 はP−C関係,有力家族支配を助長し,政策や イデオロギーによる政党の成長を疎外する大き な要因となってきたのである。そして革命後は,

大衆社会の出現という社会構造の変化が,政党 を弱める大きな要因の1つになっている。

 つまり,フィリピンにおける政党の弱さとい う政治現象を正確に説明するには,制度的要因,

文化的要因,構造的要因のいずれにも言及しな ければならないのである。本論文では,こうし た複合的な視角から,アキノ政権以降の政党の 弱さを検証していきたい。

 第1章では,フィリピンの政党政治が始まっ たアメリカ植民地時代にさかのぼり,いかなる 形で政党政治が導入され,それが土着の価値観,

文化,社会構造によってどのような性格を持つ に至ったのかを考察する。第2章では,戦後か ら戒厳令布告まで続いた二大政党制の実態を分 析する。第3章では,革命後の基本的政治制度,

社会構造とその変化を整理し,最後に第4章で,

1992年,1998年の大統領選挙を具体的に見なが ら,革命後の政党なき民主主義を検証する。

第1章 アメリカ植民地下での政党政治    の開始

1−1 アメリカ植民地期前期

 フィリピンで選挙を伴う政党政治が始まった のは,アメリカ植民地期であった。まず,1901 年にミューニシパリティレベルの選挙,次いで 1902年目州レベルの選挙が実施された。1907年 には,フィリピン人から構成される議会の開設 に先立ち,議会選挙が行われた。これに伴い,

国政レベルの政党政治が始まった(9)。

(3)

 フィリピン最初の政党は,比米戦争中の1900 年に,フィリピン人エリートによって結成され た「連邦党」(Federal Party)である。連邦党は,

アメリカ合衆国の主権受諾による和平を望む,

従順なアメリカ御用政党であった。しかし,

1907年の議会開設に伴い,独立を掲げる政党の 設立禁止規制が緩和されると,新政党が次々に 誕生していった。その中で,即時独立を求める

諸政党が結集してできたのが「国民党」

(Nacionalista Party・NP)であった。1907年に 行われた議会選挙では,最終的な独立を掲げる 保守的な「進歩党」(Progressive Party,連邦 党が選挙前に改名したもの)が,80議席中16議 席しか獲得できなかったのに対し,NPは58議 席を獲得して勝利を収めた㈹。以後,このNP の一党優位体制が,独立を果たすまで続いた。

 植民地であったにもかかわらず,民主主義制 度が導入されたのは,フィリピンを「デモクラ

シーのショーケース」にしようとするアメリカ 政府の目的があったからである。さらに,そこ には,ラィリピン人エリートを懐柔し,それら を通じて平和的な間接統治を行うことで,武力 による制圧のコストを回避しようとする意図が あったことも忘れてはならない。

 フィリピン人エリートとは,スペイン植民地 下で勢力を拡大した,地主や「カシケ」であっ た0葺。「カシケ」とは,商業指向の地主で,ス ペイン植民地期後期,マニラを中心に農業輸出 が成長し,農業の商業化が起こったことで出現

した働。つまり,フィリピン人エリートとは,

歴史的に集約された土地資産に基礎をおいた地 主階層であった。アメリカ植民地政府は,スペ イン植民地下で形成された地主的土地所有形態 と階級構造を解消するどころか,土地所有権確

定事業を行うことで,地主階級に多大な利益と 隔絶した地位をもたらした(13。エリート懐柔の ために,地主エリートの既得利益を取りあげる ことなく民主主義制度が導入されたのである。

この結果,政治権力は地主エリートに従属し,

社会構造が民主主義にそのまま反映されるよう になった。

 また,選挙政治に伴い,選挙権も早くから拡 大した。当初は,英語とスペイン語の識字能力 のある23才以上の男性とされていたが,16年の ジョーンズ法で,識字能力のある21才以上の男 性に拡大したOの。しかし,選挙権の拡大によっ て,民主主義の健全な競争原理が培われたわけ ではない。地主優位の社会構造に加えて,植民 地支配は非合理的な権力観,すなわち権力は社 会に分散してはならず,支配階級や特別なエ

リートの独占物でなくてはならないという権力 観を生んだからである㈲。この結果,選挙権の 拡大は,皮肉にもエリートと非エリートの間の 溝を,拡大したにすぎなかった。

 そしてパイが指摘するように,アメリカは支 配した当初から,フィリピン人に対して,政治 とは選挙であり官僚のキャリアではないと教え た。その結果,大きな公約と密室での駆け引き に特徴づけられるパトロン中心の政治が,エ リート間に根づいていったのである⑯。

1−2 コモンウェスル期

 30年代になると,独立の準備が本格的に行わ れるようになる。1935年号は,大統領制と一院 制に基づくコモンウェルス(独立準備)政府が 誕生し,NPのケソン(Manuel L. Quezon)が 初代大統領になった。40年には,憲法改正に

よって,全国区で選出される上院(定員24名)

(4)

(表1)歴代フィリピン大統領

[       大統領 任  期 所属政党

当選前の経歴

1鑑器瓢鋤㍗ルス期;

1935年〜44年

P944年〜46年 NP mP

町会議員→州知事→下院議員→上院議長 B知事→下院議員

Manuel A. Roxas 撃dlpidi・R. Q。i・i・・

hRam・n D. Magsaysay 撃ba・1・s P・Garcia

ciosdado P. Macapagal

hFerdinando E︐ MarcosL.

1946年頃48年 P948年〜53年 P953年一57年 P957年〜61年 P961年〜65年 P965年〜72年

LP kP mP mP kP mP

州知事→下院議長 コ院議員→上院議員 コ院議員

コ院議員→州知事→上院議員 コ院議員

コ院議員→上院議長

(出所)筆者作成。ロハスとキリノの任期が異なるのは,任期途中の48年にロハスが死去し,当時副大統領であったキリノが   大統領に昇格したためである。キリノは,翌年49年の大統領選挙で当選した。

と小選挙区で選出される下院にわかれ,現行と ほぼ同じ二院制が確立する働。37年には,女性 にも選挙権が与えられた⑱。また,植民地では あったが,大統領にアメリカ州知事と同等の権 限が与えられていた。ケソンは,この権限を巧 みに利用して,ミューニシパリティに至るまで バトロネージネットワークを築いていった。そ してすべての選挙で勝利を収め,NPの一党支 配を確固たるものにしたのである。

 有力野党の民主党が34年に解散したことも

あったが,ケソン率いるNPは,40年目州知事

選挙では,43卒中41州で勝利を収めた。さらに ミューニシパリティレベルの選挙でも,一部の

州で野党に議席を許しただけで,NPがほとん

どの議席を獲得した。1941年に行われた議会選 挙でも,ケソンが選んだ24人の上院候補が全員

当選し,下院でもNPは98議席中95議席を獲得

したα9。

 こうして植民地であったとはいえ,大統領制 が導入されたことで,それまで分散していたバ トロネージが,ケソンを頂点として一元化し,

大統領を頂点とするバトロネージ型政党の原型 が誕生したのである。

第2章 戦後の二大政党制

2−1戦後の基本的政治制度の概要と二大政党

 制

 フィリピンは,1946年にアメリカから独立を 果たし,植民地民主主義体制から主権国家によ る民主主義体制へ移行した。しかし,独立は果 たしたものの,他の新興独立国同様に,大土地 所有制度と一次産品輸出経済に特徴づけられる,

植民地的な経済構造が残存したままであった。

このため,土地資産に基礎をおく有力エリート 家族の支配も,そのまま継続したのである。

 ただし,政党制に関しては,独立してから 戒厳令が布告されるまでの26年間,NPと,そ

こから分裂して誕生した自由党(Liberal

Party・LP)が⑳,ほぼ交代で政権を担当する二 大政党制が続いた点で,コモンウェルス期の一 党支配体制とは異なっていた(表1)。

 この時期の政治制度は,コモンウェスル期の 政治制度を引き継ぎ,大統領制と二院制を基本 的な骨格とするものであった。具体的に見てみ ると,まず大統領の任期は4年で,連続2期ま でと制限されていた。上院の任期は6年で,定

(5)

(表2> 戒厳令前の上院選挙の結果

年 1946 1947 1949 1951 1953 1955 1957 1959 1961 1963 1965 1967   一P96gI

NP

kP サの他

781 170 080 900 503 900 620 521 260 440 521 611 7101

政権党 LP

NP

LP NP

(出所)藤原帰一「フィリピンの政党政治一政党の消えた議会一」(村嶋英治・萩原宜之・岩崎育夫紹

  rASEAN諸国の政党政治」アジア経済研究所,1993年)94頁,第1表より作成。

(表3) 戒厳令前の下院選挙の結果 年 1946 1949 1953 1957 1961 1965 1969

NP kP サの他

36 S4 P6

32 U4

@3 59 R0 P2

80 P8

@3 73 Q7 R

35 T9 W

87 P6

@7

政権党 LP

NP

LP NP

(出所) 藤原帰一「フィリピンの政党政治一政党の消えた議   会一」(村嶋英治・萩原宜之・岩崎育夫編rASEAN   諸国の政党政治」アジア経済研究所,1993年>95頁,第   2表より作成。

数は24人であり,全国1区で選ばれた。また,

2年毎に定数の3分の1が改選された。下院の

任期は4年で,小選挙区で選出され,定数は約 100人であった。大統領選挙の年には,上下両 院の選挙も同時に行われた。

 選挙結果を見ると,LPの大統領候補が当選

した46年,49年,61年の上院選挙ではしPが勝 ち,NPの大統領候補が当選した53年,57こ口

65年の上院選挙ではNPが勝っていることがわ

かる(表1,表2)。下院では,61年と65年の ケースを除き,政権党となる政党が過半数を獲 得している。例外となる61年と65年にしても,

政権党となる政党は大敗してはいない(表3)。

獲得議席数から判断すれば,戦後から戒厳令布 告まで,フィリピンはほぼ二大政党制であった

と言える。

2−2 政党の実態と二大政党制の論理

 政治制度論では,議院内閣制と比べて,大統 領制は有効な政党の数を減少させると指摘され ている。なぜならレイプハルトが指摘するよう に,議院内閣制と比べると,大統領制はゼロサ ム的な性質を持つために,大統領という最大の 政治的報酬を勝ち取れる力のある政党だけが生

き残ることができるからである⑳。通常,大統 領制では,政権党のメンバーから閣僚が構成さ れる。また,議院内閣制と異なり,選挙によっ て行政府の長である大統領が選ばれ,議会単独 の決定では原則的に大統領を解任できない。こ の結果,大統領選挙に敗れた政党は,比較的長 期の任期が切れるまでの間,行政権,バトロ ネージへのアクセスなしに活動せざるをえない。

このため,弱小政党はさらに弱体化すると考え られるのである。

(6)

124

 これを裏付けるものとして,ステファンとス キャッチの研究がある。彼らは,議院内閣制を 採る34力国,大統領制を採る5力国,半大統領 制を採る2力国を対象として,有効政党数の比 較分析を行った。対象期間は,79年から89年目 ある。分析の結果,議院内閣制を採る34力国の うち11力国の有効政党数が,3.2から7.0の間に なり,大統領制を採る5力国の有効政党数は,

すべて2.6以下であった。また半大統領制を 採る2つの国の有効政党数は,3.2と3.6であっ た⑳。有効政党数は,各政党が獲得した議席数 に基づき計算:される㈱。この研究は,大統領制 が二大政党制を生みやすいことを明らかにした ものと言えよう。

 フィリピンでも,大統領制は第3の政党の出

現を難しくした。NPとしPがほぼ交代で政権

を握っているかぎり,第3の政党には選挙キャ ンペーンを有利にするポークバレル,バトロ ネージに接近する手段がなく,資金獲得という 面で道が閉ざされていた㈱。戦後,政策やイデ オロギーに重点を置く,比較的まとまった第3 の政党が結成されたが,いずれも消滅を余儀無

くされている⑳。

 しかし,これだけでは,なぜNPとしPとい

う2政党だけが支配的で,しかもほぼ交代で政 権を握るパターンが26年間も続いたのか理解で

きない。また,大統領制によって2大政党制が 保持されたとするならば,後で検証するように

同じ制度をとるアキノ政権以降は,なぜ多党制 になるのかも十分説明できない。これらの点を 明らかにするには,大統領制だけでなく,選挙 制度,政治文化,そして社会構造が政党に与え る影響にも目を向けて,政党の実態を詳細に分 析する必要がある。

 多くの論者が指摘するように,NPとしPは,

ともにバトロネージの連鎖で結びついた有力地 主家族の連合体であった。有力家族支配は,

フィリピンの政治文化である強い家族主義が具 現化したものと考えることができる鱒。すでに 指摘したように,アメリカの植民地政策は,有 力家族の政治権力の成長を促した。しかし,戦 後,さらにはマルコス体制を経た現在に至って も,有力家族支配は顕著に見られる。それは,

強い家族主義がフィリピン社会に政治文化とし て深く根づいているからに他ならない鋤。こう した家族の結びつきの強さは,親,祖父母が政 治家なら自分も政治家にといった強い世襲主義 と結びつき,各地で政治的王朝化を生み出して いったのである㈱。

 有力地主家族の支配は,フィリピンの社会構 造,家族のあり方とも密接に関係していた。

フィリピンのように,同質的な共同体,双方系 の親族関係に特徴づけられる社会では,派閥の 中心は家族の集合体になる傾向があると,ラン デは指摘している㈲。また,不平等な土地所有 構造によって貧富の格差が極端に見られる二層 社会構造,そして農業依存的な産業構造が,有 力地主家族の支配力を一層強めていた。戦後の フィリピンは,人口の約70%が農村に住み,労 働人口の約6割が農業部門に従事する農業依存 的な産業構造であった鋤。そして東南アジアの 中でも,フィリピンは地主一・小作関係が特に進 んだ国であった。例えば,1960年における自作

農,自小作農,小作農の割合は,それぞれ

44.7%,14.4%,39.9%であった。つまり,地 主と小作関係にあった農民は,全農民の半数以 上に達していたことになる。そしてフィリピン の小作農は,大部分が刈分小作で,刈分小作料

(7)

は収穫の半分であった。日本などとは異なり,

生産性が極めて低かったことからすれば,小作 農民にとって小作料は高額であった。さらに,

小作農民は慢性的な負債にも悩んでいたため,

彼らの生活は極めて貧しかった鋤。この結果,

多くの論者が指摘するように,裕福な有力地主 家族と貧しい小作人の間で,庇護者と従属者と いうP・C関係が形成され,有力地主家族の支 配力が強められたのである。

 P・C関係とは,「構造的な友情関係を有す

る二者の特別なケースであり,そこでは社会経 済的に高い地位の者(パトロン)が,低い地位 の者(クライアント)に対して保護と利益を与 えるために,その影響力と資源を用い,クライ アントは個人的なサービスを含む一般的な支持 と援助をパトロンに提供して報いる」Baと定義 される。恩に報いることを動機づける価値観で あるウータン・ナ・ローブ(utang na loob)が 物語るように,伝統的なフィリピン社会では報 恩に価値が置かれていた。こうした価値観が,

P・C関係を支えていたのである。

 しかし,当選するのに十分な小作人を持つこ とは,普通に考えれば不可能である。有力地主

家族は,P・C関係に加えてコンパドラスゴ

(compadrazgo)制と呼ばれる儀礼親族制を用い,

非親族にまで家族関係を拡大し,選挙の票集め に利用した⑬。さらに,工業化の進んだ地域で,

有力家族はリゲル(lider)と呼ばれる集票人を 持っていたことも指摘されている㈱。それは選 挙に特化した,短期的,物資的報酬に基づく関 係であり,理論的にはP・C関係よりも政治マ

シーンに近い㈲。

 P・C関係は,より無限定的で感情的な関係

であるが,政治マシーンは,道具的で,取引的

な性格が強く,より選挙に特化された限定的な 関係である。しかし,垂直的な動員が行われる 点,そこでの投票行動は「所属」や「イデオロ ギー」に基づくというよりは,特定の便益との

「交換」である点で共通している。それゆえ,

どちらも政治的クライアテリムズと考えること ができる。政治マシーンに関する議論は,社会 経済的な変化に伴い,70年代以降指摘されるよ うになった㈹。また,買票もフィリピンでは伝 統的に蔓延していたが,河田が指摘するように,

これも限定的,取引的交換としての投票行動と 考えることができる。同様に,政治的クライア ンテリズムに含めることができよう⑳。

 さらに,こうした政治的クライアンテリズム による平和的な支配だけではなく,フィリピン の選挙が「3G」(銃,私兵団,金)と言われ ることから,よりネガティブな政治的暴力によ る支配も伝統的に存在していことも明らかであ る㈱。物理的な暴力は,政治的クライアンテリ ズムには含められない「強制」という要素を持 つ。しかし,投票行動が合理的か非合理的かと いう点からすれば,いずれも非合理的な投票行 動になる。つまり,こうした非合理性こそが,

フィリピンの政治社会の特徴だと言える。

 こうした非合理的な手段による有力家族支配 は,小選挙区制とも関係していた。比例代表制 に比べて,小選挙区制は,日常的な互恵関係に 基づくP・C関係のようなパーソナルな関係に よって票を獲得するには,有利な制度であった。

また,比例代表制,大選挙区制と比べると,小 選挙区はゼロサム的な制度であり,候補者間の 競争を激化させ,政治的暴力の使用をエスカ

レートさせたのである。

 選挙制度と政党制の関係に関しては,サル

(8)

トーリが,政党制が構造化されている場合とい ない場合を区別して議論している。簡単に要約 すれば,候補者が個人的な影響力で当選し,所 属政党の持つ意味が低下している場合,政党制 は構造化されていないとされる。逆に,党の持 つイメージで候補者が当選すれば,政党制は構 造化されているとされる。小選挙区と構造化さ れている政党制の組み合わせでは,選挙制の削 減効果が発揮され,政党数が減少する。小選挙 区と構造化されていない政党制の組み合わせで は,全国的な規模での削減効果は生じないが,

制限的,削減的選挙区効果が現れ,選挙区内で は2人の候補者による競合が促進される39。

 政党制の構造化度を計ることは困難だが,

NPとしPは有力家族の集合体にすぎず,小選

挙区内では,裕福な有力家族自体が支配的で あったことからすれば,フィリピンの政党制が 構造化されていたとは言い難い。つまり,フィ

リピンでは小選挙区制によって,全国規模での 政党数の削減効果は生じないことになる。

 しかし,小選挙区制とそれに伴う有力家族支 配,それらの結果でもある構造化されていない

政党制は,大統領制下のNPとしPによる二大

政党制を支える重要な機能を果たしていた。裕 福で党からの自律性が高い小選挙区内の有力家 族にしてみれば,政党への所属は,政策やイデ オロギーによるよりも,自分の選挙区の支持を 高め,当選に有利にするためのものであった。

すなわち,政党はバトロネージとポークバレル を手にいれる権力への「ブローカー」なので あった。そのため,有力家族は,政権党となる

可能性が高い,LPかNPを選んだ。そして有

力家族は,公共事業予算,各種利権の配分や政 治資金の提供を大統領から受ける代わりに,自

己の地盤から票のとりまとめをしたのである。

 こうした有力家族の強さのために,NPとしP は有力な国家指導者によって上から組織された ものではなく,有力家族によって下から組織さ れたものになったと,ランデは指摘している。

政党は,組織としての統一性を持つよりも,地 方の利益により規定されるものとなったのであ

る㈹。

 しかし,2党とも,イデオロギーや政策に

よって組織の結束が保たれているのではなく,

バトロネージを求める有力家族の連合体にすぎ なかったのであるならば,ゼロサム的な大統領 制の下では,ポークバレル,バトロネージに容 易にアクセスできる政権党が当然有利で,その 支配が続くはずである。実際,勝った政権党は,

大統領選挙後の第1回目の州知事選挙で,75%

から82%の勝利を収めているしω,大統領選挙 にしても,ロハスの後にキリノ,マグサイサイ の後にガルシアと,政権党の勝利が続いている

(表1)。しかし,政権獲得後の第2回目の州 知事選挙では,政権党の勝率は50%から66%と 下がる幽。政権党の支配も,2期以上は続いて いない。なぜであろうか。それはフィリピンの

政治文化の1つである,打算的な実利主義に

よって説明されうる㈲。

 トンプソンは,1つの政党が長く大統領職を 掌握すればするほど,限られた政府の資源をめ ぐって内部争いが激しくなり,政権党のメン バーは見返りが少ないと感じ始めるようになっ たと指摘している。さらに,次の大統領選挙で 勝ったら,それよりも大きなパイを与えること を約束して鞍替えを促すことで,野党が勝利を 収めたと,彼は指摘している㈹。独立を直前に 控えた46年の選挙でLPが勝利したのも,61年,

(9)

65年の選挙で野党が勝利したのも,より大きな パイを求める打算的,実利的な政治家が支持を 変更したからなのであった㈲。

 しかし,全ての議員が政権党に吸収されるわ けではない。その理由は,ワーフェ膨が指摘す るように,パイが同じで所属議員を増やせば,

それだけ分け前が減るからである㈲。こうして 2つの政党を中心に,打算的,実利的なエリー

トの間で,ポークバレルの分け前をめぐるバー ゲニング政治が行われていた。

 また,この時期の上院について見ておくと,

上院でもNPとしPの候補者が多くの議席を獲

得していて,第3の政党が当選者を出すことは,

ほとんど不可能であった(表2)。そしてNP

としPの上院候補者には,ほぼ例外なく州知事 か下院議員,政府高官であった人物が選ばれた。

上院は全国区で選ばれるという性格から,下院 議員,州知事などの地方レベルと大統領という

ナショナルレベルの間にあって,大統領となる ための重要なステップと考えられていたのであ

る。

 この時期のNPとしPは,強い政党と言える

であろうか。強い政党とは,ランデによれば,

(1)長期間持続して存在できる安定性,(2>全国レ ベルから地方レベルまでの組織的な深さ,(3)政 策等の点で内部的な統一性,を持っている政党

を意味する㈲。

 長期的な安定にしても,選挙での勝利も,政 党の持つ政策やイデオロギーによって有権者の 支持を得た結果というよりは,地方の有力地主 家族がポークバレルを得ようとして政権党とな

りうる政党を選んだ結果であった。極端に言え

ば,NPとしPが強かったというよりは,単に

有力家族が強かっただけのことであった。その

ため,党の結束力は弱く,鞍替えも頻繁に起 こったのである。また,組織的な深さにしても,

政党の政策やイデオロギーが下位レベルにまで 浸透していたと言うよりは,単に便益との交換・

によって上位レベルと下位レベルの政治家との 問に垂直的な関係が築かれていたにすぎなかっ た。従って,政権を獲得し,多くの議席を保持 していたからといって,それが必ずしも政党の 強さを意味するわけではない。

 以上のように,有力家族支配,それを生みだ し促進した家族のあり方,強い家族主義,社会 構造,そして大統領制,小選挙区制といった,

複数の要因の相互作用の結果,フィリピンでは イデオロギーと政策に基づく政党は成長しな かった。そして2大政党制は,大統領制の下で の,打算的,実利的な有力家族による支持の変 更に主として支えられていたのである。

 こうして26年間続いた二大政党制は,マルコ スが戒厳令を布告し,議会と政党の活動を停止 したことで終焉を迎える。78年には,戒厳令下 であったとはいえ,暫定議会選挙が行われたが,

結果はマルコスの「新社会運動」(Kilusang Bagong Lipunan KBL)の圧勝で終わった。84 年に行われた議会選挙では,野党勢力もかなり

の議席を獲得したが,選挙はマルコスのKBL

に優位になるように操作されたもので,健全な 複数政党制と呼べるものではなかった。そして マルコス体制崩壊に伴い,政党が流動化し,ほ とん どの政党がアキノの下に結集した。その結 果,政党は反マルコスという特徴しかもたない

ものとなってしまった。アキノ政権は,こうし た状況から出発したのである。

 しかし,革命後の政党の弱さの原因を,こう したマルコス体制下の政党政治の崩壊と流動化

(10)

128

にのみ求めるのは正確ではない。その根本的な 原因は,政治制度,根強く残るフィリピンの政 治文化,そして社会構造とその変化ρ相互作用 に求められるのである。

第3章 革命後の政治制度の概要と社会    変容

3−1革命後の基本的政治制度の概要

 革命後のフィリピン共和国は,87年憲法に基 づき㈹,戒厳令前と同じ大統領制と二院制を採 用している。大統領に関しては,任期は6年頃,

再選はいかなる場合も禁止した(第7条4節)。

独裁体制に対する予防措置である。選出方法は,

戒厳令前と同様に,有権者から直接選ばれる。

最低得票数の規定はなく,決選投票は行われな い点も同じである。

 議会は上院,下院の2院からなる(第6条1

節)。上院は24人から構成され(同条2節),任 期は6年である(同条4節)。下院は250人を超 えないで構成され(同条5節),任期は3年で ある(同条7節)。選出方法は戒厳令前と同じ で,上院は全国1区完全連記制,下院は小選挙 区を採用している。ただし,上院議員は連続し て2期を超えての在職,下院議員は連続して3 期を超えての在職を禁止した点で,戒厳令前と

は異なっている(第6条4節,第6条7節)。

戦後に見られた政治的王朝化に対する予防措置 である。また,98年の選挙から,下院では定数 50人を比例代表制で選ぶ政党リスト制が導入さ れている㈲。

 各議会に与えられた権限を見ると,戒厳令前 と同様に,アメリカの二院政と似ている。下院 先議の原則が規定されており,歳出法案,関税 法案,公債増額授権法案,地方債法案および個

(表4) 農業部門と非農業部門における労働人   口の推移(%)

農業部門

非農業部門

1956年 59.0 31.0 1965年 56.7 43.3 1977年 51.5 48.5 1980年 48.6 51.4

1990年 45.2 54.8

1996年

4L7

58.3

(出所)蕗粥躯㎎S嬬昌昌 狗α沁OD私各年度より作   成。

別適用法案については,下院が先議することに なうている。上院は修正を提案し,または修正 に賛同することができるとされている(第6条 24節)。他方で,上院には条約批准権が与えら れている。条約もしくは国際協定は,上院の総 議員の3分の2以上の同意がなければ効力を発

しないと規定されている(第7条21節)。

 以上のことから,大統領の再選禁止,上下議 員の再選制限,選挙区増設による下院定数増加

と政党リスト制を除き,革命後の政治制度は,

戒厳令前とほぼ同じものとなっている。

3−2社会的・経済的・文化的条件の変化  しかし,制度はほぼ同じであっても,戦後か

ら約半世紀を経る間に,社会構造は大きく変化 した。特に工業化,都市化,マス・メディアの

発達は(表4,表5,表6,表7),伝統的な

社会を打ち壊し,いわゆる大衆社会の空間を拡 大させている鋤。

 大衆社会を出現させる政治的条件である普通 選挙権は,すでにアメリカ植民地時代に成立し ていた。しかし,戒厳令前は,人口の約70%が 農村部に住み,労働人口の約6割が農業部門に

従事していた(表4,表5,表6)。さらに貧

(11)

(表5) 農業部門・工業部門・サービス部門の対GDP比(%)

農業部門 工業部門

サービス業部門

1970年 P980年 P990年 P996年

28.9 Q5.6 Q2.3 Q1.0

29.5 R6.1 R5.5 R5.7

41.6 R8.3 S2.2 S3.4

(出所> P履ψ働θ∫観お批α 距α幼oo㍍各年版より作成。

(表6)都市と農村の人口   推移(%)

都市 農村

1970年 P980年 P990年

31.8 R7.3 S8.6

68.2 U2.7 T1.4

(出所) Ph粥妙πθ∫励お批α 掬αゆoo鳥目年   版より作成。

(表7)テレビ,ラジオ,新聞の普   及率(1,000人当)

テレビ ラジオ

新聞

1960年 1 22 21 1974年 17 43 18 1985年 27 91 40 1990年 44 141 56 1993年 47 143 50

(出所)The Statistical Division, Department for Economic and Social Informat置on aロd Policy Analy・

sis, S鰯鶴粥α γθα吻嶢各年版より作成。

(表8) 貧困層割合

全体

都市部 農村部

1961年 59.25 56.91 60.33 1965年 51.47 42.66 55.54 1971年 52.23 38.57 58.66 1985年 53.94 50.18 55.94 1988年 44.24 36.90 48.27 1991年 44.59 50.77 41.13

(出所)Arsenio M. Balisacan, Po研けひγb癩9α伽   翻4P6麗瞬螂Po肋野.4 P毎1∫妙吻P275ρ6    勿2,Quezon City:University of the Philip・

  pine Press,1994, p.28, Table 2,4 より作   成。

富の格差が顕著な二層社会であったため(表

8),多くの非エリートは,伝統的な農村社会 内で裕福な地主エリ 一トに依存する貧しいクラ イアントにすぎなかった。

 しかし,革命を経て90年代になるまでには,

工業化,都市化による社会的流動化が進み,そ れまであった伝統的,垂直的な関係が切り崩さ れた。これにマス・メディアの発達が加わった ことで,大衆社会の空間が拡大したのである。

 ただし,フィリピンの大衆社会を,先進国の それと同一視することには留保が必要である。

社会全体の生活水準が著しく向上した先進諸国 とは異なり,都市部では中間層は比較的多いも のの働,全体としてゐ増加はあまり見られない こと(表9,表10),都市化,工業化による社 会的流動化が進んでも,極端な貧富の格差に特

徴づけられる二層社会構造がいまだに解消され ていないことから(表8),フィリピンの大衆 社会は,綿貫の指摘する「危機における大衆社 会」と「常態における大衆社会」という2つの 側面を併せ持っているように思われる。前者は 危機における大衆の病理的三門が生み出した極 限的常態としてのナチ社会の研究,後者は戦後 アメリカ社会のホワイトカラー層の研究から,

それぞれ生み出された系列である働。

 大衆社会における社会的・政治的状況の規模 の拡大と複雑化は,知的水準の向上に関わらず,

マスメディアによる擬環境創出機能によって,

社会機構と政治機構の理解可能性を低める。こ れによって,危機においては,状況の意味を求 めて単純な教義とスローガンに強制的にとりす がる危機階層の心理を生み出す。常態において

(12)

130

(表9) フィリピン全体の新旧中間層の割合 1965年 1975年 1985年 1994年 新中間層 9.61% 9.95% 10.30% 10・01%

旧中間層 7.97% 9.54% 12.52% 14.27%

合計

17.58% 19.49% 22.82% 24.28%

(出所)International Labour Officeが毎年出す,}rθαy   β・漉σLαb㎝γ∫嬬弼爵の1971年版,1976年版,

  1986年版,1995年版より筆者作成。なお,新中間   層は,田巻の定義に従い,(1)専門・技術職,②行   政・管理職,(3)事務職の雇用主・自営業者・雇用   者,旧中間層は,加納の定義に従い,(1)販売職,

  ②サービス業従業者,(3}製造業従事者,(4)不明の   雇用主・自営業者として算出した㈹

(表10)都市部と農村部の中間層の割合 1965年 .1975年 1985年 1995年 都市部

̲村部

23.74%

T.09%

24.93%

R.92%

20.83%

T.72%

17.90%

U.20%

(出所) フィリ.ピン政府が出すしの伽F碗ら65年5月号,

  75年8月号,85年度版,95年1月号より作成。旧   中間層に関しては,資料が雇用主と雇用者の区別    していなかったため,算出できなかった。

(表11) 92年上院選挙結果 1.Vicente C. Sotto皿(LDP)

2.Ramon B. Revma(LDP)

3.Edgardo J. Angara(LDP)

4.Ernesto F. Herrera(LDP)

5.Alberto G, Rolnulo(LDP)

6.Ernesto M. Maceda(NPC)

7.Orlando S, Mercado(LDP).

8.Neptali A. Gonzales(LDP)

9.Heherson T. Alvarez(LDP)

10.Leticia R. Shahani(LAKAS−NUCD).

11.Blas F. Ople(LDP)

12.Freddie N. Webb(LDP)

13.Gloria Magapaga1−Arroyo(LDP)

14.Teofisto T. Guingona, Jr.(LDP)

15.Santanina T. Rasul(LAKAS・NUCD)

16.Jose D. Lina, Jr.(LDP)

17.Anna Dominique Coseteng(NPC)

18.Arturo M. Tolentino(NPC)

19.Raul S. Roco(LDP)

20.Rodolfo G. Biazon(LDP)

21.Wigberto E, Tanada(LP・PDP〜LABAN)

22.Francisco S. Tatad(NPC)

23.John Henry Osmena(NPC)

24.Agapito A. Aquino(LDP)

芸能界役者 芸能界役者 上院議員 上院議員 上院議員 上院議員 上院議員 上院議員 上院議員 上院議員

マルコス時代の労働雇用大臣 下院議員,元バスケットボール選手 元大統領の娘,元貿易産業省事務次官 上院議員

上院議員 上院議員

下院議員,芸能界役者 マルコス時代の外務大臣 下院議員

元国軍副参謀長 上院議員

マルコス時代の情報大臣 上院議員

上院議員

(出所)COMELEC.

(13)

(表12) 95年上院選挙結果 1.Gloria Magapaga1−Arroyo(LDP)

2.Raul S. Roco(LDP)

3.Ramon BMagsaysay, JL(LAKAS−NUCD)

4.Franklin M. Drilon(LAKAS・NUCD)

5.Juan M. Flavier(LAKAS−NUCD)

6.Mirialn Defensor・Satiago(PRP)

7.Sergio Osmeia皿(LAKAS・NUCD)

8.Francisco S. Tatad(LDP)

9.Gregorio Honasan 10.Merdelo B. Fernan(LDP)

11.Juan P. Enrne(LP)

12.Anna Dominique Coseteng(NPC)

上院議員 上院議員 元大統領の息立 前司法省長官 前保健省長官 92年大統領選次点 元大統領頭 上院議員

(無所属)マルコス時代の中佐 前最高裁長官

下院議員 上院議員

(出所)COMELEC,

(表13) 98年上院選挙結果 1.Loren B. Legarda・Leviste(LAKAS・NUCD)

2.Renato L. Cayetano(LAKAS−NUCD)

3.Vincente C. Sotto皿(LAMMP)

4.Aquilino Q. Pimente1, Jr.(LAMMP)

5.Robert Z. Berbers(LAKAS・NUCD)

6.Rodolfo G. Biazon(LAMMP)

7.Blas F. Ople(LAMMP)

8.Joh且Renner Osmena(LAMMP)

9.Robert S. Jaworski(LAMMP)

10.Ra皿on B. Revilia(LAKAS−NUCD)

11.Teofisto T. Guingona Jr.(LAKAS・NUCD)

12.Teresa Aquino・Oreta(LAMMP)

女性ニュースキャスター 前大統領主席法律顧問 上院議員,芸能界役者 元上院議員

前内務地方自治省長官 前上院議員,元国軍参謀長 上院議員,元労相 下院議員

元バスケットボールスター 上院議員,芸能界役者 前司法省長官,元上院議員 下院議員

(出所)COMELEC.

は,受益感による満足に由来する全体的認識の 断念や,消費性向の増大による知識と行動の分 離による知識の消費化として,全般的な政治的 非活動とムードに左右されやすい他人との同調 性の強い状況が生まれる翻。リースマンのいう

シンボル操作にかかりやすい「孤独な群衆」,

「他人志向型」の大衆である岡。

 そして大衆社会が生み出す無力感と孤独感は,

危機階層の心理を極度に高揚させ,その不安と 焦燥は,カリスマ的指導者への一体化を生み出

す。常態における受益階層では,「荘漠たる不 安」を生み出し,娯楽や消費志向を増大させる。

娯楽,消費による政治的無関心が進み,政治に 対する態度,行動は,娯楽,消費における動機

と関心によって導かれる。そして政治的指導者 のパーソナリティの魅力に対する喝采として発 散されるのである岡。

 常態における大衆社会は,例えば,95年の地 方選挙で,マニラ首都圏を中心に6人のテレビ タレントが当選していること劒,全国区で選出

(14)

される上院選挙で,芸能人,ニュースキャス ターが上位で当選し,逆に伝統的な政治家であ るエンリレ(Juan P. Enrile)はぎりぎりの当選,

同じく伝統的な政治家の代表格であるミトラ元 ド院議長(Ramon V. Mitra)は落選しているこ とによく現れている(表11,表12,表13)。危 機における大衆社会は,次章で検証するように,

98年の大統領選挙でエストラーダが当選したこ とに端的に現れていると言える。

 もちろん,人口の約半数がいまだに農村に住 み,労働人[ 1の約40%が農業部門に従事し(表

4,表6),小作農の割合も91年の時点で

56.5%であったフィリピンでは聞,伝統的な政 治空間は,縮小しつつあるとはいえ,依然とし て大きいと言える。

第4章 革命後の政党なき民主主義

4−1 大統領選挙に伴う多党乱立  (1}1992年の大統領選挙

 92年の大統領選挙では,大統領候補の数は最 終的に7人になり,比較的多かった醐。まず上 下両院で最大の勢力を誇っていた「フィリピン 民主の闘い」(Laban ng Demokratikong Pili・

pino・LDP)では6Q,2人の有力候補が党公認の 座をめぐって争っていた。ミトラ下院議長と,

91年3月にLDPに入党した2月革:命の立役者,

ラモス元国防長官(Fidel V. Ramos)である。

この争いは,91年11月30日に行われた丁丁予備 選挙で,ミトラが勝利を収めたことで決着がつ いた。しかし,党の公認を得られなかったラモ スは,選挙直前の92年2月に「ラカス・キリス

ト教民主主義連合」(LAKAS−NUCD)を結成し て出馬を表明した。そしてアキノ大統領は,最 終的にはミトラの要請を退けて,ラモスを後継

候補に指名した。

 与党第2党のLPは,戒厳令前と比べると,

かなり弱体化していた。88年の地方選挙後に,

一時は上院三役を独占するまでに勢力を拡大し

たが,LDPが結成されると弱体化する。選挙 が行われるまでに,LDPは下院で勢力を拡大 して145議席となっていたのに対して,LPの

議席数はわずか18になっていた馴。LPの大統 領候補には,サロンガ(Jovito R. Salonga)上院 議員,副大統領候補にはギンゴーナ(Teofisto T.Gingona)が選ばれたが,公認に漏れたエス

トラーダ上院議員Goseph M. Estrada)は,ラ

モス同様に離党して「フィリピン大衆党」

(Partido ng Masang Pilipino・PMP)を結成し出 馬を表明した。しかし,資金不足のため,コ

ファンコ大統領候補(Eduardo Cojuangco Jr.)

と最終的には連合を組んで,副大統領候補とし て出馬することになった。

 与党第3党で,中道左派の社会民主主義の

「フィリピン民主党一人民の力」(Partido De・

mokratikon PhilipinQ−Lakas ng BayanニPDP−

LABAN)では切,委員長で上院議員のピメン

テル(Aquilino Q. Pimentel)が,対立候補なし で大統領候補に選出されていた。しかし,ピメ ンテルは最終的に出馬を断念し,思想的に最も 近いLPと連合協定を組み,エストラーダ同様 に副大統領候補として出馬した。

 一方,野党勢力は,分裂した三派のNP,す

なわちNPラウレル派, NPコファンコ派, NP エンリレ派が,それぞれ正統性を主張していた ために,分裂状態にあった。しかし,選挙直前,

選挙管理委員会がラウレル副大統領(Salvador H.Laure1)のNPを正統派と認めたことで,ラ ウレルがNPの正式な大統領候補となった。こ

(15)

(表14) 1992年選挙結果

得票数

順位 政  党 上院 下院

Ramon V。 Mitra 3,316,661 4 LDP 16 83

Eduardo M. Cojuangco, Jr. 4,116,376 3

NPC

5 30

Fidel V. Ramos 5,342,521 1 1LAKAS・NUCD 2 49

Jovjto R. Salonga 2,302,124 6 LP・PDP−LABAN 1 7

Imelda R Marcos 2,338,294 5

KBL

0 4

Salvador H. Laurel 770,046 7 NP 0 6

Miriam Defensor・Santiago 4,468,173 2 PRP 0 0

(出所)COMELEC.

のため,マルコスのクローニーであったコファ ンコは,選挙直前の92年1月,マルコス時代の

KBLの一派を集めて「民族主義国民連合」

(Nationalist People s Coalition=NPC)を結成し,

大統領選挙に出馬した。エンリレは,下院への 転出を決めた。

 残る2人は,すでに90年12月に「人民改革

党」(People s Reform Party=PRP)をつくり,

出馬を表明していた元農地改革省長官サンティ アゴ(Miriam Defensor−Sa批iago)と, KBLの イメルダ・マルコス元大統領夫人(lmelda R.

Marcos)であった。

 86年の選挙では,反マルコス,反独裁か否か という明白な対立があった。しかし,この選挙 では,争点もほとんどなく,各政党間の政策の 違いもほとんど見られなかった㈹。

 以上の選挙前の動向から,全体的に政党が弱 いことがわかる。4つの政党は,選挙直前に有 力な大統領候補によって結成されたばかりのも

のである。既存の政党に関しても,NPとしP

は戒厳令前の勢力にははるかに及ばなかったし,

78年に結成されたマルコスのKBLも,下院の

議席数はわずかで,その勢力の衰えは否めな

かった。サンティアゴのPRPに至っては,下

院候補を持たず,数人の上院候補をたてただけ

であった。選挙結果をあわせてみれば(表14),

獲得議席数の少ないPRP, KBL, NP, LP, PDP−

LABANの弱さが,明らかに目立つ。

 (2)1998年の大統領選挙

 98年の大統領選挙は,92年の選挙よりも多い 10人の大統領候補によって争われたが,そこで は92年目同じ傾向が見られた。まず,92年に当

選したラモス元国防長官の政党LAKAS・NUCD

は,92年の選挙後に起こった大規模な党移籍と,

95年の中間選挙での圧勝によって,最大勢力を

誇っていた鱒。このLAKAS・NUCDでは,8人

が党の公認を得ようと争っていた。その中でも

有力視されていたのが,デヴィラ国防長官

(Renato de Villa)とデヴェネシア下院議長

(Jose De Venecia)であった。デヴィラは,ラ モス大統領と同じような経歴の持ち主で,参謀 長官,国防長官を歴任し,97年6月にLAKAS・

NUCDに入党していた。これに対してデヴェ

ネシアは,92年の政権交代以来,下院議長を務 めて影響力を拡大してきた伝統的な政治家で あった鱒。最終的にはラモス大統領の決断で,

97年12月にデヴェネシアが公認候補に選ばれた。

 これに対して,公認から漏れたデヴィラは,

LAKAS−NUCDを離党し,選挙直前の98年1月

(16)

6日目「民主改革党」(Para sa Demokratikong Reporma・Reporma)を立ち上げて出馬を表明し た。同様に,党公認の大統領候補になれなかっ たフィリピン慈善宝くじ事務局議長モラトは,

「高潔な国民党」(Partido ng Bansang Maran・

gal・PBM)での出馬を表明した。

 一方,野党側は,与党に対抗するため,野党 統一候補を擁立する動きを見せていた。そして 97年6月11日に,エストラーダ副大統領率いる

PMP,アンガラ上院議員率いるLDP,マセダ 上院議員率いるNPCが連合を組み,「民族主

義フィリピン民衆の闘い」(Laban ng Maka・

bayang Masang Pilipino=LAMMP)を結成した。

党公認の大統領候補にはPMPのエストラーダ,

副大統領候補にはLDPのアンガラがそれぞれ

選ばれた。

 また,LDP所属の上院議員アロヨは,アン ガラとの対立から,97年1月にLDPを離党し,

LDPを離党したメンバーが結成したばかりの

「自由フィリピン連盟」(Kabalikat ng Malayang Pilipino・KAMPI)に入党し,その大統領候補と なっていた。しかし,最終的には与党LAKAS・

NUCDに入党して,副大統領候補になった。

同じくLDP所属の上院議員ロコは,大統領選 出馬のためにLDPを離党して,97年10月,新 党「民主行動党」(Aksyon Demokratiko=

Aksyon)を立ち上げ,出馬を表明した。92年 の大統領選挙で,ラモスに僅差で敗れたPRP

のサンティアゴは,野党連合への参加を拒否し,

PRP単独で大統領選に出馬した。また,上院 議員タダッドも,大統領選出馬のためにLDP

を離党し,97年12月に新党「国民のための大連 合」(Gabay ng BayanニGAB)を結成していたが,

最終的にはサンティアゴのPRPと連合を組み,

副大統領候補になった。

 以上の7人の大統領候補に加えて,警察出身 のマニラ市長リム(Alfredo Lim)がしP,実業 家のデュムラオ(SanUago Dumlao Jr.)が「国 民回復運動」(Kilusan para sa Pambansang Pagpapanibago=KPP),元セブ州知事のエミリ オ・オスメニャ(Emilio Osmena)が立ち上げ たばかりの自党「地方分権のための進歩的な運 動」(Probinsya Muna Develipment InitiaUve=

Promdi),エンリレ上院議員が無所属で,それ ぞれ出馬を表明した鱒。また92年同様に,争点 のない選挙戦であった㈲。

 92年の大統領選挙と同様に,全体的に政党の 弱さが目立つ。大統領選挙に伴い,影響力のあ る人物によって,Reporma, Aksyon, PBMなど の新党が選挙前につくられている。またサン ティアゴのPRP6♂,ロコのAksyon,モラトの

PBM,エミリオ・オスメニャのPromdi,イメ ルダのKBLの5政党は上院候補を1人も立て られなかった。デヴィラのRepormaは8人,

デュムラオのKPPは5人立てたが,リムの LPはわずか2人であった。12人立てることが できたのは,LAKAS−NUCDとLAMMPだけで

あった㈲。つまり,大統領候補を擁立する9政 党中7政党が上院候補なしか,候補を擁立する だけの党組織の強さを持ち合わせていなかった のである。さらに選挙結果から,政権党であっ

たLAKAS・NUCD以外は,3党連合のLAMMP

がある程度の議席を獲得しただけで,ほとんど の政党が議席を獲得できていない(表15)。つ

まり,LAKAS・NUCDとLAMMP以外の政党は,

程度の差はあるが,大統領候補擁立の役割しか 果たしていなかったと言える。そうした政党の 数は,92年の大統領選挙の時よりも多くなって

(17)

(表15) 1998年選挙結果

得票数

順位 政  党 上院 下院

Jose de Venecia, Jr 4,268,483 2 LAKAS−NUCD 5 110

Joseph M. Estrada 10,722,295 1

1LAMMP

7 58

Alfredo Lim 2,344,362 5 LP 0 14

Renato de V董1丑a 1,308,352 6 Reporma 0 5

Emilio Osme負a 3,347,631 4 Promdi 0 4

Raul Roco 3,720,212 3 Aksyon 0 1

Miriam Defensor Santiago 797,206 7 PRP 0 0

Santiago Dumlao Jr. 32,212 9 KPP 0 0

Manuel Morato 18,644 10

PBM

0 0

Juan P. Enrile 343,139 8 無所属 0 0

(出所)大統領候補の得票数,上院の議席数については,Yasmin Lee G. Arpon.℃ongress can・

  vass almost done, B鷲s伽θε3 W捌d,1998年5月28日付,下院の議席数は, Yasmin Lee G.

  Arpon, Lakas members oppose coalition with LAMMP、 B駕3惚s3慨副¢1998年6月2日付。

いたのである。

 なぜ大統領選挙に伴い,新党が多く結成され るのであろうか。その理由は,まず戒厳令前と

は異なり,勝利がほほ確実なLPやNPのよう

な政党が存在しなくなった点に求めることがで きよう。しかし,最も重要なのは,大衆社会が 拡大し,それに伴い政治マシーンの効力が低下

したことで,結成したばかりの新党が政権党に 十分対抗できるほどの票を獲得できるように なったことである。

 92年の選挙では,最大の政党組織を誇る LDPのミトラは,結成したばかりで党組織が 弱いLAKAS・NUCDのラモス,党組織がほとん どないPRPのサンティアゴの得票数よりも少

なかった。当選したラモスに関しては,アキノ 人気が92年の選挙まで影響を与えていたこと,

人口数が多い地域から支持を得たことが勝利に 結びついたと,ランデは分析しているぴ0。しか

し,ラモスと接戦を演じたサンティアゴは,伝 統的な政治家ではないばかりか,出入国管理局 長時代の汚職取締の実績を売り物にしただけで,

ラモスのようにアキノの支持も,強力な組織も,

同盟相手もなかった。そのかわりのメディアを 通じて不正や汚職撲滅を訴え続ける,彼女の戦 闘的,カリスマ的な姿勢,巧みなスピーチが,

都市部を中心に多くの大衆を引きつけたのであ

る⑳。

 98年の選挙でも,政権党の候補は敗れた。当

選したのは,LAMMPのエストラーダ副大統領

であった。エストラーダの勝因は,映画俳優を 通じて獲得した個人的人気と,「貧困層のため のエラップ」という単純かつ明確な標語によっ て獲得した富裕層の支持と貧困層の圧倒的な支 持に求めることができる(表16)。言い換えれば,

エストラーダの勝利は,常態における大衆化が もたらす社会心理の冷ややかな麻痺と,貧困層 における危機の大衆化がもたらす危機とアノ ミー,そこから生ずる社会心理の熱狂,単純な スローガンに取りすがる危機階層の心理の結果 であったと言えよう。

 これに対して,政権党LAKAS−NUCDのデ

ヴェネシアは,92年の大統領選挙で敗れた

(18)

(表16)S㏄ial Weather Stadonsによる社会経済階級別出口調査結果

全体

ABC(8%) D(71%) E(21%)

Joseph M. Estrada 38.8 23.9 37.9 47.7

Jose de Venecia, Jr. 16.5 12.6 16.6 17.7

Raul S. R㏄o 13.6 27.0 13.4 8.8

Emilio Osme皿a

1L7

6.7 12.0 12.5

Alfredo Lim 9.3 19.5 9.2 5.5

Renato de Villa 4.7 6.7 4.9 3.0

IMi,i、mD,f,。,。,San,i、g。

3.0 1.5 3.6 1.6

Juan P. Enrile 1.4 1.0 1.5 1.2

Ime且da R. Marcos 0.9 0.7 0.7 1.5

Santiago Dumlao Jr 0.2 0 0.2 0.4

Manuel Morato 0.03 0.4 0 0

(出所)S㏄ial Weather Stationsのホームページより作成(httpノ/www.sws.org.ph/〉

  なお,ABは富裕層, Cは中流眉, Dは貧困層, Eは最貧困層を表す。

LDPのミトラのように,バトロネージを築い て,約160人のLAKAS・NUCD議員が支配する

下院の議長になった伝統的な政治家であった。

ただし,デヴェネシアは,現職大統領ラモスの 後継指名を受けていた点で,ミトラとは異なっ ていた。しかし,得票率はわずか16%で,結成 したばかりのAksyonのロコと,地方政党とも

言われたPromdiのオスメニャの得票率と大差

はなかった。

 戒厳令前と異なり政権党が負けるのは,前章 で指摘したように,社会変容によって,垂直的 な関係が支配的な伝統的空間が崩壊したことで,

政治マシーンの効力が薄れたからである。実際,

社会経済的に豊かになった地域では,政治マ

シーンはあまり効力を発揮しないという分析結 果も出されている四。当選した大統領の政党と 議会の第1党が異なるのも,政治マシーンの効 力がなくなってきている証拠である。そしてす でに指摘したように,P・C関係と比べると,

政治マシーンそれ自体も,短期的,物質的報酬 に依存するため,互酬関係において抜け目のな

い計算が働き,感情性が希薄になり,道具性が 増すため,より不安的な性質を持っている。

 98年の大統領選挙で,フィリピン・デイ

リィー・インクワイアラー紙のドロニラ氏が,

「人気がマシーンをうち破る」とタイトルを付 けたように㈱,政治マシーンに代わって動員能 力を発揮しているのが,「候補者個人の大衆人 気」である。フィリピンでは,所属政党よりも 候補者個人のパーソナリティが伝統的に重視さ れる傾向があったが,大衆社会の進行によって,

その傾向がより顕著になったと言える㈹。

 もちろん政権党の候補者も,かなりの票を集 めているから,政治マシーンが全く効果を失っ たわけではない。政治マシーンの動員力を,個 人人気の大衆動員力が上回ってきたのである。

92年のサンティアゴの例が示すように,大衆社 会が進行した結果,メディアを通じたカリスマ 的な姿勢によって,政治マシーンと同等かそれ 以上の動員を行うことが可能になっている。

 従って,新党の乱立によって政党が弱体化す る原因は,制度的にはパーソナルでゼロサム的

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