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<研究ノート>明治期における尾崎行雄の選挙(1) : 第七回総選挙の諸相

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第七回総選挙の諸相

著者 田中 麻愛, 渡辺 穣

出版者 法政大学史学会

雑誌名 法政史学

巻 69

ページ 70‑80

発行年 2008‑03‑24

URL http://doi.org/10.15002/00011559

(2)

尾崎行雄は、明治二十三年の第一回総選挙から二五回もの連続当選を果たし、六三年に及ぶ議員生活を送った人物として著名である。本稿においては、尾崎が経験した二五回に昇る選挙から、第七回総選挙を取り上げて、その特異性に焦点を当ててみたい。第七回総選挙は、明治三十五年八月十日に実施された。これは、帝国議会が創設されてから初めての任期満了によるものであり、第一四議会で改正された選挙法が適用される総選挙でもあった。この改正選挙法により、衆議院の定 法政史学第六十九号

研究ノート

明治期における尾崎行雄の選挙(二

はじめに ’第七回総選挙の諸相I

(1)数は一二○○から一二七六に増員となり、選挙権の要件である「納税額一五円以上」も一○円まで減額されて有権者数が増大した。また、小選挙区制が大選挙区制へ変更されたことに伴い、尾崎の選挙区は三重県第五区(度会・志摩・南牟婁・北牟婁郡、定員二名)から、郡部選挙区(郡部全域、定員七名)へと範囲を広げた。議席数.有権者・選挙区の拡大は選挙戦を一変させ、三重県郡部選挙区でも、七名の定員に対して、一七名もの候補者が乱立しながら議席獲得を争った。尾崎にとっては、政友会から出馬する初の総選挙ということとも合わせて、非常に重要な選挙であったにも関わら

田中麻愛 渡辺 穣

七○

(3)

(2)ず、根底{と揺るがすほどの苦戦を強いられている。なぜ、それまでの好調さを一変させるような苦戦に陥ったのか、その経緯を見ていきたい。

森本確也は、尾崎にとっては第一Ⅲ総選挙以来のM志という存在で、第三M総選挙からは何一政党・同一選挙区から共に当選を果たした人物である。志摩郡有数の人地主で、県内全域に豆り強い影響力があった森本は、尾崎支援の立役者でもあり、また彼の残した森本確也宛尾崎行雄(3)書簡は後世の研究に寄与している。その森本は、第七同総選挙には川馬せず、尾崎への支援のみに徹するという体裁を執っていた。しかし、当初は森本にも出馬の意志があり、尼崎との間に紛糾があったと考えられる。森本進退Ⅲ題に関しては、すでに前年末から兆候が見受けられていた。小生は二十年間の政治生活に於て未曾有の辛労と勉強を致し居候為め、乍思老兄の進退事件を迂延せしめ候段、不悪御諒察被下度候。今や政府と政友会とは共に危機一髪の間に在り。其解決を見るは蓋し一二週間の内に在らん。老兄の進退も其間御猶予被下度候。将又

明治期における尾崎行雄の選挙()(田中・渡辺) 森本確也進退問題と好友会 之に関する御事由は凡て伏藏なく承りたる後、善後の(4)計を講したく存候問、秀以て御猶予可被下候。尾崎は、問題が浮上した森本に対し、政情が不安定な時期であるため、進退の決定を暫く保留するように促している。確かに、第一六議会の予算案撫議などで、政友会総務委員だった尾崎は多忙であった。それでも、進退問題を棚上げにされた森本にとって、遺恨が残ったことは想像に難くない。そして年が明けた明治一一一-五年二月一二日付の書簡では、関係悪化を危倶した尾崎が、森本との面会を望んでいる。尾崎は明治一二十四年十二月一一一十日より明治一一一十五年一月二十日まで東京から離れており、この期間に森本が尾崎の意図を誤解する事態へ陥ったと考えられる。小生は毫も貴下の心事を誤解せすと信ず。小生が新開氏をして天春柴原等に「貰下が無川難題を申募る旨」を吹聴せしむると云うに至ては伝聞の誤りにて、小生は貴下の希望を貫徹するの手段にも成ん乎と存じ、首として右二氏に協議を依頼したるなり。小生が永井、天春、栗原等に協議するは貴下の希望なりしと記憶(5)す。伝聞は誤謬を生じ易し。百事御面談可致候。当時、政友会内部では、明治三十四年末の井上角五郎・田健治郎・重野謙次郎ら軟派三氏除名に伴う混乱が続いて

(4)

いたため、尾崎はこれを解消すべく奔走していた。そして(6)同時に、別の渦中に森本もあった。しかし、天春文衛・栗原亮一ともに三重を立脚地とする旧自由党派の議員であることからも、むしろ原因は、半年後に控えた政友会が初めて臨む選挙ではないかと推測される。実際に森本との間で面談が行われたのか、さらには森本の進退問題に発展が見られたのかについては、定かでない。森本の進退問題が完全に決着したのは、実に選挙Ⅱ前の七月中旬であった。伊勢新聞社主の松本恒之助による調停が諮られ、森本の出馬辞退という形で収まった。(前略)去る九日尾崎氏が森本氏を聚遠楼に往訪したる際、森本氏の口より自己は志摩、南牟婁に拠り貴下は度会を勒し此の区川を確守し互に相犯さずらんことを期したしとの旨を以て、立の意を言明したるも当時尾崎氏は此事は他の同志にも諮りたる上にて何分の確答をなすべしとて要領を得ずして快を別ちたるが、我社の松本は旧第五区の形勢尾崎氏に不利なる上、森本氏の立つ以上は双方の不利なるを看取し宇治山田に赴きて尾崎、森本両氏間に調停を試み又度会郡の有志白井清栄門氏とも会見し三子者の問に奔走尽力したる結果森本氏も志州牟婁有志の推戴に依りて他の地方との 法政史学第六十九号

関係を思慮し成算の立ざるに非るを以て立候補を決心こそしたれ、固より尾崎氏に対する多年の交誼上尾崎氏の分野に侵入してまで当選を欲望するの意思は豪末も之なき事とて釈然として解け翻然として悟り、自己逐鹿の念を断ちて一意専心尾崎氏を翼くるとを誓言す

るに至りし(以爪蝋)

記事から見られるように、森本は七月上旬に至るまで出蛎の意欲を持ち続けていた。しかし、調停が成立したことにより、ようやく尾崎は森本との「共倒れ」を回避することができ、支援の確約も取り付けた。このことを証明するように、同日付の伊勢新聞には、森本が出馬辞退とともに(8)尾崎推薦の立場を表明する特別広生口も掲載されている。だが、調停成立は選挙一ヵ月前という極めて遅い時期であった。合わせて尾崎は議会開会中と同様に、政友会総務委員として党務に奔走し、多忙なⅡ々を送っている。これらの原因により、尾崎は地盤間めが不十分な状態だったと一一一一回えるだろう。後述する浜田国松に関しても、この隙を衝いて宇治山田に侵食したのではないかと考えられる。尾崎が地元での選挙活動に専念しきれなかった様子は、伊勢新聞の記事からも窺うことができる。◎好友会と尾崎氏

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(中略)十九日夜好友会員の重なる人々は古市町某所に会合せし際今後尾崎氏を援くるに於ては此際氏の覚悟に付反省を促し置くの必要あるを認め氏を其席上に招きてHく君が過般来当地方に於ける遊説は浩干の効果を奏せしや当の味方たる政友会側に於ては栗原氏に意を寄するもの多くⅡつ同氏は志摩郡を始め南北牟婁郡及び一志、度会に捗りて地盤を固めつ、あるも君は何れの地を以て立脚地とせらる、や今後の覚悟こそ大(9)事ならんとの忠一一一一口を提して反省を促したる(以下略)好友会とは、度会郡や甘色である宇治山川町を中心とす(皿)る尾崎の中核支援組織であった。本来は改進党から続く流れを酌む組織で、政治的な立場においては進歩党系(憲政(、)本党)に属する。しかし、憲政本党を離反した尾崎ではあったが、好友会は彼に対する支援の姿勢を変えることはなかった。その好友会が尾崎に対して、向らも地盤同めを意識するように強く促している。長年に一旦り尾崎を全面支持してきた好友会が、これほどまで高圧な態度を示す背景には、本来は進歩党系であるという政治的信条を捨ててまで支援に徹しているにも関わらず、それでも地盤固めが緩やかな尾崎へ焦燥感を抱いたためであろう。さらには、栗原亮一の躍進も好友会を動揺させていた。尾崎・森本・栗

明治期における尾崎行雄の選挙二)(川中・渡辺) 公同会とは度会・宇治山田を中心としたⅢ第五区の政友会系組織であり、創設時は自由党系だったが、隈板内閣期では憲政党の成立に伴い好友会との合同を諮った経緯もある。この時期においては、政友会の発足や、尾崎の憲政本党脱退・政友会参画を通じて、名目上は政友会三重県支部の公認候補である尾崎へ支援する姿勢を見せていた。しかし、公同会が発足弩時より支持していたのは、志摩郡鳥羽町出身で第一回総選挙から第一○回総選挙まで旧三重県第一区より衆議院議員に連続当選し、板垣退助内相の秘書官 原の鼎立という事態は、のちに森本の出馬辞退で避けられたものの、依然として栗原は尾崎の地盤を脅かしつつあった。尾崎にとっては、政友会における同志であるはずの栗原から脅かされる地盤、政友会とは反日しながらも尾崎という人物に心酔して地盤を守る好友会といった、複雑な関係に立脚しなければならなかった。斯くの如き複雑な選挙地盤に対して、尾崎の認識は極めて甘かったのではあるまいか。森本進退問題に関しても、同様な認識の甘さが原因と一一一一口えるだろう。それが、ひいては得票の低さとして具現化することになる。

二公同会との相克

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や大蔵省参与などを歴任した、栗原亮一であった。栗原は、実質的な公同会の領袖だったと言える。尾崎と公同会との相克は、第三回総選挙にまで遡る。第三回総選挙では、自由党と改進党との対立が顕在化し、一一一重県第五区でも自由党系組織(当時の名称は正義会)と好友会との間で熾烈な選挙戦が行われた。正義会は柴原が第一区に立脚していたため、栗原の推薦する白山党公認候補者への支援を行っていた。これら自由党公認候補は、ことごとく尾崎側に敗れ、尾崎をして「南勢での]無鳥郷の

蛎螂」などと椰楡するに至る。第五区を中心とした改進党

優勢の様相は、改進党が進歩党へ、正義会が公同会へと

f脱した後も変わらなかった・公同会とは、尾崎や好友会

により苦汁を飲まされ続けてきた存在であった。しかし、第七同総選挙においては、郡部選挙区という大選挙区制へと変わったため、初めて公何会は栗原への戒接支援が可能

となった。これらの経緯により、公同会は政友会系組織であるものの、公認候補たる尾崎へ対する支援などは画餅に過ぎず、実質的な栗原のみへの支援に終始した。一方の好友会も、前述の通り、進歩党系であるにも関わらず、以前と変わらぬ尾崎支援の姿勢を堅持していた。このような組織的アイ 法政史学第六十九号

デンティティの違いから、郡部選挙区は特に旧第五区内での調整が諮られなかったようであり、公同会と好友会で票を奪い合う対立構図になっていた。表面上は公何会と好友会の呉越同舟にも見えるが、実際は以前と同様な、自由党対進歩党という形式であることに変化はない。選挙後の開票結果を受けて、尾崎は森本へ書簡を宛てているが、同志であるはずの栗原との選挙戦や、公同会との相克が如実に記されている。先般来は非常の御尽力に領り候段、感謝の至に御駆候。公同派は投票の前夜磯部にて凡そ百票を栗原側に引付けたりと申居候。如何なる手続きにて、どの村々を攻めたるにや。将来の参考ともなるへき儀に付、確実なる事迩御取調置被下度候。前地受持の方面も悉く竹原の有となれるが如し。是亦御取調の上御一報相願

腱腱・

書簡で描かれている磯部村とは、志摩郡管下でも川答志郡の外縁に位置する。旧答志郡は鳥羽出身の栗原が強い影響力を保持しており、その旧答志郡の磯部村に隣接して、森本の居住する旧英虞郡鵜方村が存在する。二大勢力圏の境界に立地する磯部村は、選挙の毎に公同会と、進歩党尾崎寄りである森本との間で激しい暗闘が行われていた。第

|ノリ

(7)

七回総選挙でも志摩郡の集票活動は磯部村が争点となり、雪辱に燃える公同会が有利な得票戦を展開した。そして、直前に至り一○○票余を栗原側へ奪取されたことは、尾崎にとって大きな脅威となった。公同会に関連する人物では、栗原の他にも、その立候補(焔)によって尾崎へ影響を与豈えたのが竹原撲一であった。竹原は、厳密に一一一一口えば公同会員ではないものの、自由党での活動歴も古く、政友会三重県支部常任幹事を務めており、Ⅲ第五区の南牟婁郡が立脚地であることとも合わせて、公例会の客員といった存在であった。その竹原に、尾崎は南牟婁郡において惨敗を期している。前記の書簡に依れば、尾(随)崎は南牟婁郡での集亟不を前地という人物に一任していたようだが、その成果は芳しくなく、多くの票が竹原に流れた。尾崎と栗原は政友会の公認を得ての出馬となったが、竹原は政友会の推薦を得られないまま単身出馬へと踏み切っている。南牟婁郡においての実力は高いものの、郡部選挙区全体で考えれば決して有力候補とは言えない竹原が、非推薦での州馬を決意した背景には何があったのだろうか。(Ⅳ)竹原は地価修正問題をめぐる見解の相違から、第二回総選挙の際に尾崎非推薦という立場を表明しており、以後も

明治期における尾崎行雄の選挙(二(田中・渡辺) 第七同総選挙で注目すべき点としては、浜田図松の立候補も挙げることができる。巧選こそ果たせなかったもの

の、初陣にして第九位・一九六七祭を獲得して紅旭、その

存在感に尾崎は驚嘆したであろう。当初の浜田は好友会に所属しており、積極的に尾崎への支援を行っていた。浜田が好友会に入った時期は定かでないものの、明治三十一年には好友会の重鎮である白井清

樅腿などとともに、大石正巳の第四区婿入りという重要な 事案に参画した経緯が孔旭、すでに好友会の内部では若年

ながらも役員的な地位にあったと想像される。その浜田 尾崎との間に長い確執が残った。竹原にとっては自己の当選を目標に据えた選挙というより、反尾崎の感情から臨んだ選挙であったとも考えられる。選挙活動の様子を見てみても、投票Ⅱ吹前に選挙事務所を構えているのが南牟婁郡(旧)ではなく宇治山川という尾崎の本拠地であり、その剥き出しの対抗意識を窺うことができる。もちろん竹原の得票数

は尾崎に及ばなかった籾、南牟婁郡のみを見れば、尾崎二 一Ⅲ票に対して竹原五七九票と圧勝であ燗、彼の立候補は

確実に尾崎へ痛手を与えたと考えられる。

三浜田国松の立候補

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は、第七回総選挙に非公認で立候補したため好友会を除名(型)処分とされた。しかし、旧自由党派で公同〈君の西田周士口を通じた、票の獲得に成功している。どのような経緯で集票が可能となったのだろうか。◎公同会の内証一昨十四日開票せし度会郡衆議院議員選挙の結果は既報の如くなるが中栗原氏の得票は僅々四百五十一票にして公同会派の予期せし約七百票より減ずること実に三百票なりしが此間の消息に就て伝ふるものは曰く個は全く間際に至り西川周吉氏が自個の掌中に在りし栗原氏の得票数より三百余票を割きて私に濱田氏に譲りたる結果に外ならず然ればこそ濱田氏の得票は意外に多数なりしとのこと暴露するに至り昨今公同会派中熱心に栗原氏を推したる面々の激昂甚しく遂に西田氏を公同会より除名すべしとまで憤激し為に容易ならざる内証を醸しつ、あるよしなるが何れ此問題は公同会派

の消長に関する宿痂ともなるべき模様なり(以収雌)

度会郡での選挙結果が出ると、栗原の得票は予想より一一一○○票余りも少ない数であった。これは、西田周吉による票の操作があったためである。西田は公同会の集票から三○○票も浜田へ流すという工作を行った。事実が明白とな 法政史学第六十九号

第七M総選挙は尾崎にとって極めて苦しい選挙となり、辛うじて当選を果たしたような観がある。それは、選挙両後での東京朝日新聞に尾崎の落選が報じられるほどであ(”)った。苦戦を呈した外的要因として、まず、旧第五区の内部で り、公同会の逆鱗に触れた西出には除名処分すら検討されている。では、何故このようなことが行われたのか。その

背景には、度会商工銀行頭取告発熟他の関与が推察され

る。この事件の被疑者こそ、西田周吉の父親である西田貞助という人物であり、事件の弁護を担当したのが浜田国松であった。父の弁護人ということから西田は、浜田に対して恩義を感じたことは想像に難くない。浜田へ有利に働くような票の操作を行った原因には、こうした人間関係が背後に存在していたためと推測される。浜田は続く第八同総選挙でも落選してしまうが、第九回総選挙以降は連続当選を果たし、尾崎に匹敵するような政治家への道を歩んでいく。この第七回総選挙を通じて宇治山川に地盤を築いた浜田は、肢終的には好友会・公川会・中立派の全てを併呑するに至る。

おわりに 七六

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は、公同会・好友会という支持派閥が協力はおろか相克を繰り返し、呉越同舟にすら至らない状態であったことが挙げられる。確かに尾崎の憲政本党離脱・政友会参画という事態が引き起こした問題ではあるが、政友会が決して一枚岩ではなかったという点は、注目に他するであろう。その結果、同志であるはずの栗原と熾烈な選挙戦を行わなければならなかった。加えて、南牟婁郡での竹原の反乱も尾崎を揺るがした。内的要因としては、党務に迫われ地盤固めが甘すぎたという、尾崎自身の選挙に対する姿勢が挙げられよう。選挙活動よりも政友会総務委員としての全国遊説を優先させたため、好友会からの大きな反発を招いた。森本進退問題も、紛糾を生じさせたのは、そのような認識の甘さが一因 また、好友会を除名処分されてまで単独出馬し、落選の憂き目を味わった浜田でこそあったが、この選挙を契機として確実に地盤を固め、後には尾崎から宇治山田という本拠地を奪う。さらには、古くからの同志である森本は、断腸の思いで出馬を辞退したものの、やはり遺恨が残ったと想像される。翌年の第八回総選挙では政友会を離れて単独出馬・当選し、尾崎との快を分かつ。 と想像される。

明治期における尾崎行雄の選挙(二(田中・渡辺) 「尾崎行雄伝」に依れば、第三回総選挙が最も苦しい選(犯)拳だったと記されている。しかし、得票数のみならず、前記で述べた外的・内的要因から考えても、この第七回総選挙こそ尾崎が最も苦戦した選挙だったといっても過言ではあるまい。ただし、尾崎にとっての第七同総選挙とは、苦戦以外にも注目すべき要素が多く含まれている。翌明治三十六年に行われた第八何総選挙で、尾崎は北勢での得票を一気に伸ばしているが、この北勢進出の契機となったのが第七回総選挙だったと考えられる。また、政治的信条よりも尾崎という人物を優先させて支援に徹した好友会の行為は、やがて号堂会式理想選挙に繋がる原型を醸し出したとも思われるが、これらの事項は後の研究に譲ることとしたい。

一一一一口(1)厳密な議員定数は一一一八一名であるが、北海道一一一区一一一名と沖縄一区二名には施行されなかったので、実際に施行されたのが選挙区一○五区選出議員数三七六名(市区七三名、郡部区一一九六名、島蝋四名、北海道三名)であった。(2)尾崎は第六位で二一四四票に過ぎなかった。続く第七位・海野謙次郎の二○九九票、郡部次点・深山一の二○一一二票、落選者第二位・浜田国松の一九六七票と比べても僅

七七

(10)

差であり、低迷と苦戦を窺うことができる。(3)国会図書館憲政資料室所蔵「森本確也関係文書」(以下、「森本確也関係文書」と略す)。なお、森本確也関係文書の詳細は、拙稿「森本確也宛尾崎行雄書簡紹介」(「法政史学」第六八号、平成十九年九月)に記した。(4)「森本確也関係文書」恥Ⅳ、明治三十四年十二月十七日付森本確也宛尾崎行雄書簡。(5)「森本確也関係文書」恥旧、明治三十五年二月一一一日付森本確也宛尾崎行雄書簡。(6)当時の森本は、三重県農工銀行取締役・一一一重銀行取締役の地位にあり、後に三重県農工銀行頭取となる。天春文衛は三重県農工銀行頭取、栗原亮一は日本興業銀行設立委旦、新聞貢は徳島県農工銀行設立委員、水井鼎六郎は駿豆銀行頭取を、それぞれ勤めていた。このようなことから、党内不一致のみならず、勧業・農工銀行を中心とした金融行政を通じて、なんらかの馴鰯が生じたとも考えられる。(7)国会M苦節新聞資料室所蔵「伊勢新聞[マイクロ版巨明治三十五年七月十五日二面。以下、国会図書館新聞資料室所蔵「伊勢新聞[マイクロ版皀は、「伊勢新聞」と略す。(8)「伊勢新聞」明治三十五年七月十五日二面。小生儀来る総選挙に付衆議院議員候補たるべく各地政友より勧誘を受けたるも従来尾崎行雄氏と根拠を同ふ 法政史学第六十九号

するに依り小生の候補を争ふは相互の不利なるは勿論同志勢力の消長にも関する次第に付這回は断然候補者たることを辞退し史に尾崎行雄氏を推薦す右謹告候也明治一一一十五年七月拾一一一日森本確也(9)「伊勢新聞」明治三十五年五Ⅱ二十三Ⅱ二面。(四好友会に関しては、前掲「森本確也宛尾崎行雄諜簡紹介」の解説にて、概要程度の説明を行った。(、)ここで改進党・進歩党を主軸とする、政党の推移を概述してみたい。改進党(正式名称は立憲改進党)は明治十兀年Ⅲ月に大隈重信を総理として結党された。自由党(正式名称は立憲自由党)と並ぶ自由民権運動期からの代表的な政党であるが、明治二十九年三月に進歩党へと発展的解消を遂げた。この進歩党は、明治三十一年六月に自由党と今川して憲政党となり、初めて政党主体の隈板内閣が成立した。しかし、党内不一致により四ヵ月で内閣は瓦解し、旧進歩党派は憲政党から締めⅢされ、同年十一月に憲政本党を結成した。一方のⅢn川党派を中心とする憲政党は、その大部が明治三十一一一年九月の政友会(正式名称は立憲政友会)創立に参加した。尾崎は、改進党結成当初からの主要構成員であり、そのまま進歩党・憲政党・憲政本党と党籍が移動した。ただし、政友会の創立に際し、尾崎は憲政本党を離脱してまで参加するという、やや理解に苦しむ行動を執った。 七八

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支援組織である好友会も、党籍の推移は尾崎と同一であった。しかし、尾崎の「政友会入り」に関して見れば、全面的な賛同を寄せていたのか、組織として政友会に党籍を移したかなどについて、その詳細が明らかになっていな

い。また、当時の「伊勢新聞』においては、「進歩党派・自由党派」との旧名称が頻出しており、地方政界では政友会・憲政本党といった新規組織のみならず、その背景にある旧政党派閥が重要視されている様相を窺える。これらの理由により、好友会や尾崎支援者に関しては、やや古いが「進歩党派・進歩党系」という名称を用いる。(、)「伊勢新聞」明治二十七年二月十一日一面。「蛎幅」などと尾崎を椰楡しているものの、「無烏郷」であるならば、対抗馬がいないということになってしまう。椰楡ではあるが、暗に口由党側が極めて劣勢である様相を表している。(囮)正義会は明治二十年代後半に解散したものと推定される。そして公何会の成立は明治一一一十一年であり、厳密に一言うならば、両者の間には断絶がある。ただし、同じ自由党系の組織であることや、恐らく構成員も大半が同一であろうと想像されるため、便宜上、正義会の改称が公同会であると記した。(u)「森本確也関係文書」恥四、明治三十五年八月十七U付森本確也宛尾崎行雄書簡。(巧)鵜殿村長・南牟婁郡会議員・’一一重県会議員・政友会三重

明治期における尾崎行雄の選挙(二(川中・渡辺) 県支部長などを長く務め、後の大正十三年には憲政史上鎧高齢の七三歳で衆議院議員への初当選を果たした。(咀)詳細は不明だが、井田村長・南牟婁郡会議員・同参事会員を務めた、前地春松であると推測される。(Ⅳ)鵜殿村村史繍さん委員会編「鵜殿村史通史編」(鵜殿村、平成六年)四四四~四四八頁。地租改正の際、概ね東日本に低く、西日本に高い傾向があり、地価の地域格差是正を求める声があった。明治二十三年の第一議会では、民党内部には地租軽減を地租率軽減で図ろうとする者と、地価修正に基づく軽減を要求する者とに分かれていた。そのような中で、三重県でも地価修正を求める声が高まり、南勢諸郡では志摩・南北牟婁・伊賀の一部が地価修肚を強く望み、逆に北勢諸郡と伊賀の一部は地租率を問題とした。南牟婁郡に地盤を置く竹原は、地価修正を真正面に捉えて地租率の問題などは排除したため、地価修正・地租率の両面是正を唱えた尾崎説を「併行論」であるとして強く反発していた。(旧)「伊勢新聞」明治三十五年八川九Ⅱ二町。◎竹原撲一氏昨R宇治山田吸霞園に本陣を裾へ頻りに有志者を会合して謀議を凝らし届れり(岨)竹原は第一一一一位・一一三六票に過ぎない。(別)「伊勢新聞』明治三十五年八月1’一一日二面。(Ⅲ)「伊勢新聞」明治一一一十五年八月十五日二面。度会郡の得

七九

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票だけを見ても、尾崎一一七七票・浜田六○四票・栗原四五一票であり、その健闘ぶりを確認することができる。(聖白井清栄門は、実質的な好友会の領袖であったと考えられる。なお、白井の経歴などに関しては、前掲「森本確也宛尾崎行雄書簡紹介」解説の註3に記した。(別)「伊勢新聞」明治三十一年二月十六日一一面。(皿)「伊勢新聞」明治一一一十五年七月二四Ⅱ二町。(空「伊勢新聞」明治三十五年八月十六U一面。(別)詳細は不明であるが、「伊勢新聞」に依れば、同行頭取であった辻村弥八による横領事件とされており、この辻村を操って利益を得ようとしたのが西田貞助だったらしい。なお、一見して単なる横領事件と思えるが、度会商工銀行は白井清栄門・森本確也ら好友会の有力者が取締役を勤める、いわば好友会の資金源であった。このため、川行の衰退は、好友会へ大きな影響を与えた。横領事件の数年後、度会商工銀行や親銀行である三重銀行の破綻を契機として、好友会は解散に至る。(〃)「束京朝Ⅱ新聞」川沿三十五年八月十四日一面。尾崎行雄氏落選十三Ⅱ津特発度会郡の投票箱延着のため明Ⅱ開票すること、なれり、尾崎行雄氏落選との確報あり(肥)伊佐秀雄『尾崎行雄伝」(尾崎行雄伝刊行会、昭和二十六年)囚九四頁。尾崎の恩師である門野幾之進が同一選挙区から出馬し、「門野は尾崎の教師である」などという日 法政史学第六十九号

[付記]本稿は、平成十五年度Ⅱ本史演習Ⅵ(学部近代史三年ゼミ)における成果の一つであり、川中麻愛氏のゼミ発表が基調となっている。その川中氏のゼミ発表を独立論文として纏めるように薦めた第二著者[渡辺]ではあるが、原稿が概成しているにも関わらず、ただ年月のみを浪費させてしまった。田中氏への謝罪の意も込めて、未完成部分に補筆したのが本稿である。よって、第一著者は田中麻愛氏であり、渡辺は第二著者となるが、文責は第二著者が負うものとする。前号掲載「森本確也宛尾崎行雄書簡紹介」に続き、本稿では明治期における尾崎行雄の選挙を具体化することができた。この成果は、すべて平成十五年度学部近代史三年ゼミ生の皆様に帰納する。謹んで関係者の方々に御礼を申し上げます。 由党側からの宣伝で不利な戦況になったものの、見事な演説で形勢逆転を果たしたという。 八○

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