著者 菊地 照夫
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 65
ページ 42‑45
発行年 2006‑03‑24
URL http://hdl.handle.net/10114/10838
本書の著者高梨修氏は東京出身の生粋のヤマトンチュ(大和人)である。そのような箸者が琉球弧の世界にⅡを開かれていったのは、法政大学文学部日本文学科に入学し、外間守善教授のもとで沖縄学を学んだことによる。大学院に進学すると、文学ではなく考古学を専攻し、伊藤玄三教授のもとで琉球弧の考古学を研究した。そして博士課秘の蝋位取得後、川らの研究のフィールドである奄美大鳥に移り住み、精〃的に調侮研究活動を展開し、次々と大きな成果をあげていったのである。この間名瀬市立奄美博物館に職を得て今Ⅱにいたる。二○○一一一年には沖純学の発展に貢献した膝史学・民俗学の研究者に剛られる比嘉春潮賞(沖繩文化協会)を受賞しており、現在奄美諸島の考古学研究の第一人者であることは誰もが認めるところであろう。本書は、そのような高梨修氏の最初の論文集である。本書のタイトルにみえるヤコウガイとは熱梢海域に生心するリュウテンサザエ科の大型巻貝でⅡ本木士地域には生息しない。らでんその貝殻は古くから螺釧の工塗云原材として用いられている。著者が奄美大島に赴任した一九九○年前後から、同島北部で、そのャ 高梨修著
『ヤコウガイの考古学」
〈書評と紹介〉 法政史学第六十五号菊地照夫 コウガイの貝殻を大還に出土する遺跡(士盛マッノト遺跡、川兇崎遺跡等)の発見があいついだ。そして一九九七年、著者は名瀬巾の小湊フワガネク遺跡の発掘調査を担当するのであるが、ここからも大量のヤコウガイが出士するのである。著者はこのような遺跡を「ヤコウガイ大雄川士遺跡」と命名し、本井ではこのヤコウガイ大還出t遺跡をてがかりとして琉球弧の考古学の兄仇しがはかられ、文献史学の研究成果との摺り合わせがおこなわれる。それによってⅡ本史の古代~中仙に並行する段階の奄美諸島史の実像が明らかにされていくのである。本書には大きく一一つの探題が提示されている。その第一は奄芙諸島における古墳時代椛行期~平安・鎌倉雌行期のt器繍年についてである。これまで奄捷諸島の考古学研究においては、Ⅱ小史の古墳時代~平安・鎌倉時代と肱行する約一○○○年間はt器編年が確立しておらず、そのため、これまで発掘調査成果が確実に蓄積されているにもかかわらず、遺物や遺構の帰属年代を確定することができず、結果として多くの考古資料が年代不詳のままとされていた。ヤコウガイ大鼓出土遺跡を歴史的に位置づけるためには、何よりもその帰属年代が確定されなければならず、基礎的研究としての土器編年は大前提の作業なのである。幸いなことに著者の担当した小湊フワガネク遺跡の第二川調森区から川瞭な文化胴の嘔蝿を確認することができ、川調査区の川士土器を基準としてその他の遺跡出土の土器の様式・タイプを照らし合わせて土器編年の検討を行うことが可能となった。その結果、スセン常式土器段階(古.
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新の二段階に分類)Ⅱ古墳時代並行期、兼久式土器段階(I~Vの五期に分類)Ⅱ古墳時代終末~平安時代後期並行期、類須恵器段階Ⅱ平安時代後期~鎌倉時代並行期という奄美諸島の土器編年を確立した。本書の前半はこの士器編年の解明に費やされている。第二の課題は、ヤコウガイ大敗出土遺跡をめぐる諸問題の考察である。ヤコウガイ大量出土遺跡の出士土器が奄美諸島特有の兼久式土器であり、その編年が確立されたことによって、M遺跡の帰属年代がおおよそ七世紀~十一仙紀に相当することが明らかとなった。これによって川遺跡について、これまでの文献史学や美術史の研究成果を踏まえて、その性格や歴史的位樅づけを検討することが可能となり、七世紀以降中央政府・古代国家が積極的に南島に進出し交流をおこなっている事実、正倉院宝物や中尊寺金色党等、奈良~平安時代の工芸品や建造物に装飾として大量の螺釧が使川され、その原材がヤコウガイであるという猟爽から、魅美人島のヤコウガイ大量出土遺跡の大量のヤコウガィ只殻は本土地域に螺釧の原材として搬出するために集積されたものであり、奄美諸島をヤコウガイ交易の拠点と位置づける。また同遺跡からは相当数の鉄器が出土しており、ヤコウガイとの交換物資として本土側から鉄器が搬入されたとみる。従来奄美諸島・沖繩諸島の鉄器普及の時期は十二世紀以降といわれていたが、奄美諸島ではヤコウガイ交易を契機として沖縄諸島よりも先に鉄器が蒋及していたと指摘する。さらに、十一世紀に奄美諸島の徳之島で突然開始ざれ十円枇紀まで稼動したカムィャキ占窯跡群で生産され沖縄諸
書評と紹介 島・先烏諸島に流通する類須恵器もヤコウガィ交易との関係で理解する。本土における螺釧工芸は十一一~十三世紀にもっとも盛行するが、著者はそれを支えるヤコウガイを恒常的に本士ヘ供給するシステムとして類須恵器の流通をとらえる。すなわちその流通をヤコウガイ生息地域である沖純諸蝿・先島諸島からヤコウガィ只殻を獲得する手段ととらえるのである。著者はこのようなヤコウガイ交易を、経済人類学者ポランニーの提起する「非市場交易」としてとらえ、モデル化を試みる。それによればこの交易は律令社会の上部階層の身分動機による活動であり、島蝋地域から運び州される輸出財はヤコウガィのほかホラガイ・赤木・桜椰等があり、本土地域から運び込まれる輸入財は鉄であった。南方物産を求める律令社会側の交易人たちは島唄地域の交易集幽と特定関係が結ばれており、頻繁な接触のあったことが想定され、このようなヤコウガイ交易を支えていた島唄社会は首長によって束ねられていた複合社会であったとみる。従来奈良時代~平安時代並行期の琉球弧の島襖社会については、未だ漁携採集経済段階の原始社会が徴まれていたとみるのが一般的な理解であったが、これに対して鈴木靖氏は文献史学の側から古代国家と南島との交流の実態を追究し、当時の琉球弧の島蝋社会には「階級社会以前の階層化された社会、すなわち平等社会ではない採集経済社会がすでに営まれていた地域があるのではないか」
という問題提起をおこなっ冠・著者はヤコウガイ大城川北遺跡や
当該段階の奄美諸島の遺跡から多数の鉄器が出土しており、社会の中にすでに鉄器が普及しているという事実から、奄美諸島では四
社会階層が発達していたとみることができ、ヤコウガイ大量出土遺跡の実態こそ鈴木の見解を裏づける証左となると述べている。本書の第三の課題は沖縄本島中心史観を克服した琉球弧の歴史の再構築を行い、奄美諸島史を見直すことである。琉球弧をめぐる従前の歴史学研究は、琉球王国論に収敵される潮流が強く、奄美大島や先島諸島は琉球王国という独立国家が育んだ社会文化の地方展開を知るための補助資料として対象化されるという傾向があり、このような沖縄本島中心史観ともいうべき歴史理解が、国家誕生以前から沖縄本島が歴史舞台の主役で在りつづけてきたような錯覚さえ生み出し始めているという〕ヤコウガイ大量出土遺跡の歴史的位置づけの評価をめぐっても、これを
唐代螺釧の原料需要に対応した動態と理解すa謎、またこの説を
受けて沖縄諸島をヤコウガイ交易の中核地域に位置づけ、交易社会の段階発展がその後の琉球王国形成をもたらしたとすh誠が提
起されているが、これらの説はヤコウガイ大量出土遺跡が琉球弧全域に満遍なく分布するという誤った認識に基づいて立論されており、同遺跡が奄美諸島に集中して分布するという事実を無視していると批判する。これに対して著者は、奄美大島がヤコウガイ交易を通じて琉球弧における国家境界領域の拠点として機能していたと主張するのである。その視点はもはや琉球弧だけでなく広く日本列島全体に及んでいる。著者は、古代国家の北と南の「化外」の地への進出・交流とそれに伴う同地域の文化・社会の状況が対比できることを指摘する。すなわち北海道では古代国家との交流により擦文文化 法政史学第六十五号が成立し、社会に鉄器が普及するが、奄美諸島のヤコウガイ交易、兼久式土器の文化は擦文文化に対比されるべきものであり、さらに擦文文化の背後にオホーツク文化が存在していたように、琉球弧では奄美諸島の兼久式土器文化の背後に沖縄諸島のアカジャンガー式土器文化が存在したという対応関係をみる。さらに九世紀後半~十一世紀に本州最北端津軽半島の五所川原須恵器窯跡で生産され北海道全域に流通した須恵器と十一世紀~十四世紀に奄美諸島徳之島のカムィャキ古窯跡群で生産ざれ琉球弧全域に流通した類須恵器との関係、鎌倉時代、得宗被官として東北十三湊を拠点に交易活動を展開した安藤氏と、同じく得宗被官として所領を奄美大島まで拡大していた千竈氏との関係、北方の防御性集落と琉球弧のグスクとの関係などにもふれ、列島南北の国家境界領域を対置して奄美諸島の拠点的性格の歴史的位置づけを比較史的にとらえる視点が提示されているのである。以上大雑把な内容の紹介となったが、本書にはこの紙幅では取り上げることのできなかった重要な問題が他にも多く論じられており、またここでの紹介が必ずしも著者の意を正確に伝えていない恐れもある。諸賢には是非とも本書を手にとって月を通していただくようお願いしたい。本書の内容についての評価は、いずれ考古学専門の研究者による本格的な書評や今後のこの分野の研究の中で論じられていくことと思われるので、ここでは一読して感じたことを簡単にコメントしておきたい。本書の最大の成果は、古代~中世並行段階における奄美諸島の 四四
実像が、ヤコウガイ大量出土遺跡、ヤコウガィ交易の考察を通して解明されたことである。奄美諸島を、後に形成される琉球王国の周辺という位置づけではなく、広く日本列島全体を視野において南の国家境界領域に位置づけ、その拠点的機能を奄美諸島が果たしていたことを考古学の立場から明らかにしたのである。奄美諸島の土器編年が提示されたことも重大な成果である。考古学について私は専門外であり、これを正当に論評する立場にはないが、少なくとも今後の奄美諸島・琉球弧の考古学の調査・研究において重要な指標となることはまちがいない。本書の特徴として、これまでの文献史学の研究成果を積極的に吸収して論が展開されているという点が指摘できる。そのため本書を通じて文献史学からもヤコウガイ交易・ヤコウガイ大量出土遺跡にアプローチすることが可能となり、本書の成果は文献史学による南島史研究、古代・中世の国家史研究にも直ちに還元されるであろう。また本書では、古代~中枇前期段階の琉球弧と東北地方北端~北海道を国家境界領域と称して対偶的にとらえる比較史的視点が提示されているのであるが、この視点から、今後の琉球弧の雁史研究では北力史の研究成果を踏まえた新たな論点や課題が提起されてくることが予想される。同様に琉球弧・南島史の研究も北方史研究に刺激を与えていくであろう。本書の成果を踏まえた琉球王国形成論が今後どのように論じられていくかも興味深い。この点、上述の比較史的視点からすると、北方において擦文文化とオホーツク文化がどのよう融合してアイ
書評と紹介 ヌ文化が形成されるかという問題ともリンクするテーマである岩う。
本書「あとがき」によれば著者は本書執筆中病気を患い、長期にわたって入院したという。聞くところによれば最悪の事態をも覚悟するほどの大病で、著者は本書を遺言のつもりでまとめたとも伝え聞く。幸いその後健康をⅢ復しへ現在は以前にも増して糖〃的に調査研究活動をおこなっているとのことである。著者の健康と今後の佐々の研究の発腱を祈念しつつ柵兼したい。(1)鈴木靖比「南島人の来朝をめぐる基礎的考察」(田村円滞先生古希記念委員会編「束アジアと日本」歴史篇、吉川弘文館、一九八七年)。鈴木氏は一九八六年度、法政大学大学院に出講しており、同年一二月一五日のゼミでこの論文の内容の講義をおこなったが、淵時修士課程に在籍していた著者はこれを聴講している。このときの衝撃が著者の学問形成に大きな影響を与えたという。(2)木下尚子「貝交易の考古学」(「季刊沖縄」第二二号、沖縄協会、一九九九年)、同「開元通宝と夜光貝」(高宮贋衛先生古希記念論集「琉球・束アジアの人と文化」f巻、M論集刊行会、二○○○年)。(3)安皿進「沖縄学l交易を軸に発展したサンゴ礁の島々」(シ口内シ二○○【「古代史がわかる。」朝H新聞社、二○○二年)。〔一一○○五年五月刊A5判一一九三頁四八○○円十税同成社〕
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