中心として
著者 若松 良一
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 52
ページ 26‑35
発行年 1999‑09‑30
URL http://doi.org/10.15002/00011362
筆者は昭和六十年春に埼玉県の学芸員に採用され、九年間を埼玉県立さきたま資料館に奉職した。そこでの主要な職務は史跡埼玉古墳群のいくつかの古墳の発掘調査と、その成果を基礎とした古墳の保存整備事業であった。保存整備とは遺跡の保存措置を第一とし、これに復原などの整備を加える専門手法のことで、遺跡の保存と活用の両立を目的としている。このような業務は学芸員の業務としては特殊なものと考えられがちだが、博物館が遺跡を研究対象とし、それらを野外展示資料として取り込んでいくことは、新しい潮流のひとつといえる。本稿では、筆者が経験した埼玉古墳群将軍山古墳の保存整備事業を中心に遺 はじめに 法政史学第五十二号
遺跡の保存整備と活用
l埼玉将軍山古墳の場合を中心としてI跡の保存整備を取り上げ、その歴史研究と生涯教育に果たす役割について考えてみたい。
古墳は地上に突出した土木構造物であり、墳丘は千数百年来大きな破壊を生じずに保存されて、安定した状態を保っている。このため、古墳の整備で最も簡便な手法は、墳丘に生じた雑木雑草を処理し、現状のまま、保存と活用を図る方法である。この方法は、経費が低廉で、かつ、遺構の保存が図られろ点がメリットで、広く行われているところである。しかし、巨大古墳を除けば、周堀は埋没している場合が多く、墳丘の葺石や埴輪なども目にすることができず、多 古墳整備の方法と活用の形
若松良一
|ヱハくの見学者にとっては不満の残るところであろう。したがって、地域を代表するような古墳で、保存と活用の目途の立つものを選択し、あらかじめ解明すべき課題を設定した上で、十分な組織立った発掘調査を実施できるならば、積極的な史跡整備を図ることが許されよう。神戸市の大型前方後円墳五色塚古墳や長野県更埴市の前方後円墳森将軍塚古墳などは、その代表例といえよう。ともに、墳丘に葺石を貼る本格的な前方後円墳であり、それを全面的に復原し、円筒埴輪等のレプリカを復原設置することによって、古墳の築造当時の威容を示せた点で、効果は絶大である。また、共に資料館を近傍に設置し、出土遺物を展示し、学術的成果を木目細かく公開している点で高く評価されるべきである。具体的な整備手法について補足するならば、まず、墳丘の整備では、墳丘の上に堆積した表土をはずすことによって築造当時の表面が現われ、葺石を貼った古墳なら、それが出現するわけだが、完全な状態で保存されているわけではなく、崩壊した部分が少なからず存在しているはずである。それでは、このオリジナルな葺石を補修すれば、そのまま公開と保存がはかれるかといえば、答えはノーである。日常の雨水や時には集中豪雨などによる土砂崩壊の危
遺跡の保存纏備と活川(済松) 険に直接晒されることになり、実際にその結果を招くようなことがあれば、取り返しの付かないことになる。このため、五色塚古墳と森将軍塚古墳ではオリジナルな葺石は埋め戻し、その上に葺石を復原している。ところで、葺石は前方後円墳の構成要素の一一一大要素に挙げられながら、東日本では葺石が施されていないものが少なくない。たとえば、埼玉古墳群の場合では、すべての前方後円墳が該当することになる。これらを整備する場合、墳丘表面の保護を図ろために厚さ五○センチメートルほどの被覆土を滑落しないように叩き締めて、その仕上がり表面は芝や姫笹などで植栽する手法が広く行われている。これは、根張りの良い植物で雨水による表土の流出を防ぐことが目的であり、手入れを行えば景観上も美しいというメリットがある。次に、墳丘上に埴輪の樹立が確認され、その位置や本数を明確な根拠を持って復原しうる場合は、埴輪の復原設置が課題となってくる。実物の埴輪は欠損しているし、重要な考古資料であるから、復原品を用いることになるが、実物から型取りを行って化学樹脂で製作したレプリカを用いる例と素焼きの模造品を用いる例とがある。前者は経費が高く、退色による塗り直しなどのメンテナンスを要する。
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後者は経費は安いが、壊れ易く、心無い投石などのいたずらも目立っている。近年では、有田の陶磁器業者の開発した丈夫なセラミック陶器製の埴輪が注目され、型作りによってコストダウンも図れるため、採用が増加している。古墳整備で意外と厄介なのが、周堀の復原方法である。近畿地方の天皇陵やこれに準ずる大型前方後円墳の多くは古くから濠の水が農業用水として活用されてきた歴史があり、水が張られているが、波浪等による土砂の侵食が、墳丘や堤の崩壊を招いている。このため、史跡の整備を行う場合、周堀を水堀に復原することには問題がある。そこで、立体的に堀を窪地として復原する場合は、排水施設を設ける必要がある。埼玉古墳群の二子山の外堀部分で採用されている菖蒲田などは、見学者に人気があり、ソフトな整備手法として評価されても良いのではなかろうか。他方、周堀に水の溜まるのを完全に避ける整備方法として、平面表示法がある。これは周堀の範囲を自然石やタイルなどの回線でしめし、かつ、その内部に砂利や砂を敷き均して表示するものであり、雨水の抜けなどもいい。しかし、若干は窪んでいないと周堀を表現したことが分りにくく、説明を要することになる。このため、筆者が担当した 炊政史峨輔灯LLがワ
埼玉古墳群の瓦塚古墳の史跡整備では、周堀を仕上がり面で三○センチメートル下げる立体表示とし、排水のために厚さ一五センチメートルの栗石を入れ、その上を厚さ五センチメートルの砂利で仕上げる手法を採り、さらに透水管を埋設して排水の効果を上げた。ただ、少し気になるのは、古墳の堀底には本来砂利が敷かれているものと考える小学生もあるという指摘である。この問題をクリアーするためには排水効果は低下するが、透水性の高い土で仕上げる方法も検討してみる必要があろう。しかし、アンッーカーや透水舗装は今のところ、素材感が人造的で史跡整備には馴染まないようである。古墳整備のもう一つの目玉はなんといっても埋葬主体部の見せ方であろう。比較的手間の掛からないのは横穴式石室で、構造がしっかりしているものであれば、そのまま石室の内部を公開することも可能である。しかし、横穴式石室は一見堅牢なように見えても、自重や地震、地盤沈下などの影響を受けて石室に歪みを生じている場合が少なくない。このため、内部への立ち入り見学を万全なものとするためには、群馬県高崎市綿貫観音山古墳や埼玉県行田市八幡山古墳のように石室をいったん解体して、地耐力の検査を行い、地盤の補強などを行った上で、石室を組み直し、
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弱っている石材は新材と入れ替えるなどして、さらに後込め部分をコンクリートで補強したり、壁面の裏側において鉄筋で石材同士を繋ぐなどの補強措置を行う必要がある。石材の強度や形状がまちまちなので、机上での構造計算は困難であり、経験豊富な石工の技術を不可欠とする難工事であり、近年では大型の天井材の確保なども容易ではない。壁画古墳の場合は、さらに空調施設などを必要とするが紙数の関係からここでは割愛する。埋葬主体部が竪穴系のものである場合、その公開手法は異なってくる。横穴式と違って、直接に太陽や雨水の影響を蒙るためである。埼玉古墳群の稲荷山古墳の場合、かつては第一主体部の礫榔、第二主体部の粘土櫛とも簡単な覆屋を設けてオリジナルを公開していたが、十年余りの間に風雨の浸食を受け、傷みが認められるところとなったので、国庫補助を受けて史跡整備を行うこととなり、専門家の指導を受けて、オリジナルは砂を被覆して埋め戻し、礫榔については実物から型取りした精巧な人工樹脂製のレプリカを遺構の直上に設置し、粘土櫛についてはタイルを用いて外郭線を表示し、その内部に砂を入れる平面表示を実施し、今日に至っている。オリジナルの保存を第一に考えた最善の方法と思われるが、樹脂製のレプリカは人工彩色
遺跡の保存整備と活用(若松) の太陽光による退色が不可避であり、既に塗り直しを実施している。森将軍塚古墳や山梨県中道町甲斐銚子塚古墳などの竪穴式石室においても、自然石もしくはタイルによる石室範囲の回線表示と砂利の敷詰めによる平面表示が採用されているところであり、オリジナルは埋め戻し保存が図られている。そのことを補うために、前者では麓に森将軍塚古墳館を設置し、展示室中央に精巧なレプリカを設置しているし、後者でも、山梨県立考古博物館の展示室内に分り易い縮尺模型(断面形)が展示されている。(ご史跡埼玉古墳群の整備について埼玉県教育委員会は昭和四二年度、全国にさきがけて、さきたま風土記の丘建設事業に着手して以来、国指定史跡埼玉古墳群の保存整備事業に取り組んで来た。昭和六二年度までに二子山古墳を始め、何基かの大型古墳の周堀復原と稲荷山古墳の主体部の発掘調査とその復原展示、丸墓山古墳の墳頂部の盛土整備など、部分的な保存整備を実施してきたところであるが、昭和六三年度からは、初めて古墳全体を対象とする保存整備事業に取り掛ることになり、墳 ニ埼玉将軍山古墳の保存整備事業
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(二)整備着手前の将軍山古墳将軍山古墳は稲荷山古墳から辛亥銘鉄剣が発見されるまでは、埼玉古墳群で最も有名な前方後円墳であった。それは、明治二七年に村人が発掘を行い、大量の優れた副葬品を出土し、『人類学雑誌』に成果が公表されていたからであった。しかし、このとき石室の石材の多くが抜き取られ、後には、墳丘上に民家が建てられるなどして、古墳は荒廃し、見学はおろか、保存さえ危ぶまれる状況に置かれ 丘の崩壊が懸念され緊急性の高い瓦塚古墳から着手することとなった。瓦塚古墳の保存整備事業は、復原のデータを得るための事前調査と、保存修理工事を組み合わせて、四年次計画で実施し、平成四年三月に竣工したが、筆者は平成元年度から竣工まで担当者としてこの事業に専従した。平成三年度には、瓦塚古墳に続く整備対象古墳を将軍山古墳とすることが決まり、保存状態などを確認するための発掘調査に着手することになった。筆者は当初から三年間にわたって、この事業に従事し、基本設計なども行った。
平成三年度には、すでに民家は立ち退いて、県有地化がなされていたが、前方部の東半部が削られて、危険な崖面 荒廃し、見学は』ていたのである。 法政史学第五十二号
となり、同様に後円部も石室の石材が崖面に露出し、その一部が崖下に落下しているという状況にあった。また、墳丘には樺などの大木が立ちはだかり、人間の立ち入りを阻むほどの状態にあった。しかし、将軍山古墳は墳丘の保存状態が良好でないという欠点ゆえに完全復原を前提とした徹底的な発掘調査が求められる結果となり、保存整備工事も思い切った方法を採用できるという点で極めて魅力的なものとなった。
(三)工事に先行する発掘調査の成果保存修理工事に先行して平成三年度から着手し、平成七
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第1図整備前の将軍山古墳
年度まで継続的に実施した発掘調査では、国指定史跡としては異例の埋葬主体部の発掘調査が文化庁によって許可された。稲荷山古墳以来、実に一一三年ぶりのことであった。後円部は二段築成の墳丘上段部分のほとんどが削り取られ、おまけに東半部は下段部さえ失われていたが、その東側崖面を精査したところ、横穴式石室の床面の礫床と壁面を積み上げるための石材のうち、基礎として埋め込まれた根石が残存することが明らかとなった。このため、石室推定部分の上面の表土を慎重に取り除いて、掘り下げていったところ、遺体を安置するための床面礫床が幅二メートル、長さ三・一一メートルのほぼ南北を主軸とする長方形に遺存し、その外側に接して根石の残存が部分的に認められた。この根石は石室の平面プランを復原するに足る残り具合であり、玄門が玄室からみて左側に取り付く、いわゆる畿内型片袖石室と呼ばれるものであった。また、大型の前方後円墳にしては石室の平面規模が小振りであることも意外であったが、この二点は将軍山古墳の横穴式石室が初源的な横穴式石室であることを示しており、あらためて、年代の再検討が迫られることになった。幸い、今回の調査では副葬品の一部が残っており、めぼしいものでは、馬胄の破片、桂甲の小札、鞍金具、鉄鎌、
遺跡の保存整備と活用(若松) 金環、須恵器片、銀製空玉、ガラス王などがあった。これらは明治時代に出土した副葬品に接合するものもあり、過去の資料がまちがいなく将軍山古墳の出土品であったことを追認する結果となった。副葬品の組み合わせと須恵器の特徴などから考えられる製作年代は、六世紀後半でも古い時期と推定可能であった。また、前方部の墳頂部中央には木棺直葬墓が検出され、ガラス玉が多数副葬されていた。これについては、全く予期せぬ収穫であった。墳丘の発掘調査では、後世の改変が著しかったが、築造当初の墳丘がそのまま保存されている部分を選んで、データを集積していった結果、後円部の直径が当初の推定値よりもかなり小さく、逆に前方部の幅が広いことが確認され、発掘調査前の全長一○二メートルという推定値は、九○メートルに改められ、後円部直径は三九メートル、前方部幅は六八メートルという値が確定した。また、立面設計については、前方部の中段と後円部の現存部上面の一部に一一段築成の一肩部にあたる幅二メートルほどのテラスが確認された。そこからは、二メートル程の間隔で円筒埴輪が検出されたが、埴輪はもっと上の墳丘斜面からも出土しているので、墳頂部にも巡っていたとの推定が可能であった。なお、後円部西側のくびれ部付近には幅一四メートル、
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長さ一二メートルの平面プラン台形状の大きな造り出しが遺存しており、この付近からは須恵器類が多量に出土したので、葬送儀礼に関係する施設と推定された。周堀は調査の結果、他の埼玉古墳群中の前方後円墳と共通する長方形の二重周堀となることが確認された。一部、県有地の外側にはみ出しているため、全体を調査することができなかったが、墳丘中軸線で反転すると、内堀の前方部前面での幅は約一○○メートルとなり、幅一○メートルの中堤を介して、その外側を巡る外堀は、幅が一二~’四メートルあった。この外堀は後円部造り出しの西側において、幅二五メートル程切れ、その両端が外側に鉤型に突出しており、中堤の造り出しとなることがわかった。
(四)整備計画の策定と設計発掘調査で得られた情報を基に、当初策定された整備案は次のようなものであった。|墳丘の樹木をすべて伐採し、保存状態の良い西側の墳丘を築造当初の姿に復原する。二墳丘の東側の崖面は古墳の断面となっており、築造の工程が良く示されているので、科学樹脂でコーティング等を施して積極的に見せる工夫をする。 法政史学鯖万十二号
三床面の遣存する横穴式石室については、新しい石材を補って天井部まで復原するか、壁面の三段目程度まで復原し、覆い屋を設ける。四二重の周堀を浅い立体表示で表示する。五埴輪の複製品を墳丘と中堤に立てる。この原案を専門家によって構成される史跡埼玉古墳群保存整備協議会(座長柳田敏司)に諮ったところ二と一一一については問題があり再検討することになった。また、文化庁の担当調査官に指導を仰いだところ、土居断面の保存は現在の技術では困難なので、最も状態の良い部分を剥ぎ取って活用し、不安定勾配を解消する意味でも、思い切って墳丘全体の盛土復原に切り替えてはどうか。また、石室については上部を復原するか覆い屋を設けるか良く検討するよう助言があった。また、経費的に従来の文化庁の補助金(史跡保存整備事業)では今回は不足することになろうから、史跡等活用特別事業に昇格させたいとの意向を伝えられた。これらの指導事項について、さきたま資料館の学芸課で検討を重ね、協議会に諮って承認された基本計画は次のようであった。|墳丘の全体について完全復原を行う。二横穴式石室については、現存する床面のオリジナルを
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尊重し、抜けている根石を補った上で、これに覆い屋をかけて見学を可能にする。三横穴式石室を立ち上げないことによって、魅力が半減するので、代表的な副葬品を選んで、複製品を製作し、これを床面において見学を可能にする。四周堀を水が溜まらない程度の立体復原とする。五円筒埴輪と器財埴輪の複製品を墳丘中段と墳頂部及び造り出しに立てる。これらの要目のうち、墳丘の盛土復原と石室の覆い屋とは相互関係の擦り付けが必要であり、技術的な検討を要することになったが、これを克服する手法として考えられたのが、後円部の東側から石室上部にかけてドーム状の覆い屋を設けて、内部を石室見学用の施設にしようという新案であった。我が国では前例はないが、韓国の天馬塚古墳でこれに似た方法が採用されていることから、技術的には可能ではないかということになり、協議会の承認と文化庁の賛意を得ることができた。ただし、不特定多数の集まる建物であるため、劇場並の安全対策が求められ、階段設計の配慮や非常口と避難誘導灯、非常警報施設の設置が条件となった。また、管理上の必要から、管理人を配置することとなり、受付室と放送施設、水道、水洗便所も必要となっ
遺跡の保存幣伽と派川(折松) た。いつぽう、石室は一定の温湿度を保たないと保存環境が悪くなるため、二十四時間体制の空調を設け、見学室との間に大型のガラス窓を設置する必要が生じた。今回の整備は、このような建築物を含み、その設計と建築確認申請があるので、初めてコンサルタントに設計と施工管理を委託することになった。しかしながら、史跡整備の要目を達成するのは担当者の責任であり、消防、道路、下水等の確認や折衝は担当者が行い、基本設計の材料をすべて整えた上で、設計を依頼し、予算の枠内での工法などをコンサルタントと十分につめていくというスタンスを保
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第2図後円部墳丘と展示室の関係
つことができたc今回、若干苦労した点として、横穴式石室の補充石材の 法政史栽第五十二号
第3図横穴式石室の展示(写真提供埼玉県立さきたま資料館)
棺床面に馬具や武器などさまざまな副葬品の復原品を配置してある
調達と副葬品の復原品の製作があった。石室材はいわゆる房州石であり、軟質凝灰質砂岩の大型の礫に、穿孔貝が巣
穴を無数に空けた特異な石であった。産地は千葉県金谷付 近の海岸である。運搬技術の未発達な古墳時代に一五○キ
ロメートルも離れた場所から石材を入手していたことは将軍山古墳の石室の最も際立った特徴といいうる。このため、産地の千葉県金谷から保田の海岸を訪ね、補充材に適
したものの探索を行った。幸い、オリジナルと全く同質のものが海岸の磯場に発見できたので、地元の海岸を管理する組合の許可を得て、調達することができた。いつぽう、副葬品の複製展示に当たっては、なまじ古色を付けた精巧な樹脂製のレプリカよりも、製作当時の輝きと色彩、素材感をもったものが一般の見学者にとって分りやすい物になるのではないかという考え方から、甲冑や矛、大刀などの金属製品は金属素材、石皿は石素材、ガラス玉はガラス製でという具合に素材にできるだけ忠実な復 原品の製作に努めた。この復原品の基となる実物資料は東
京国立博物館、東京大学、個人蔵などに分かれており、しかも一個の冑を国立博物館とさきたま資料館が別々に所蔵
しており、それらが接合するなどという事実もあった。このため、事前に副葬品の種類と個数、素材や製作技法など面
を十分研究しておく必要があった。古墳の発掘調査と工事を進める多忙な時間を差し繰っての調査研究であったので、必ずしも十分とはいかなかったが、こうした取り組みが基となって、我が国二例目の馬冑の復原が完成したり、将軍山古墳の副葬品を集めた展覧会を開催できたり、さきたま資料館の調査研究報告に考古学的な観点から論文がいくつか発表されたり、将軍山古墳をめぐる考古学的な研究が高められたことは大変有意義なことであった。史跡整備という事業の中で、これらの成果を再構築し、今日、研究者ばかりでなく、多くの社会科見学の児童生徒や成人の観光旅行者等の見学に供することができ、喜んでもらっていることは、まったく史跡整備担当者冥利に尽きる。ちなみに、平成九年四月に将軍山古墳館と命名され供用が開始された施設を訪れた人は一年間で一二万六一一一○一人に達し、近年一四万人前後まで落ち込んでいた県立さきたま資料館の入館者の増加のきっかけとなった。オープン以来、さきたまの新名所を唱って職員一丸となってPRに努めた苦労の賜物でもある。
おわりに筆者が、県立さきたま資料館の学芸員の立場で担当した
遺跡の保存整備と派用(若松) 参考文献埼玉県立さきたま資料館編集『史跡埼玉古墳群整備事業報告書l将軍山古墳l』’九九七埼玉県立さきたま資料館編集『史跡埼玉古墳群整備事業報告書1瓦塚古墳l』一九九八 将軍山古墳の保存整備の仕事を中心に、遺跡の保存整備と活用について陳べさせていただいた。共通テーマである歴史研究と文化財との関係では、遺跡を発掘調査し、さらに史跡整備する過程での研究成果と出土品を論文や展示など、さまざまな形で公開しながら、最終的には史跡整備という形で体現し、将来的な保存と活用を図る一連の流れを示した積りである。このような形の文化財への取り組みがもっと普及し、文化財保護や学校教育、生涯教育、さらには歴史研究の上で大いに活用されることを願って筆を欄くことにしたい。最後になりましたが、将軍山古墳の整備事業において常に厳しい指導と暖かい助言をいただいた諸先生方に厚く感謝申し上げると共に、今春、急逝された亀井正道先生にこの小文を捧げ、香華とさせて頂ければ幸いです。
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