評議過程および処分の実態
著者 安田 寛子
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 57
ページ 1‑21
発行年 2002‑03‑24
URL http://doi.org/10.15002/00011414
慶応二年(一八六六)’○月、幕府は武蔵国橘樹郡・久良岐郡・都筑郡、相模国鎌倉郡の御拳場および御捉飼場(1)村々に対して、鷹場の「差止」を公布し、翌一二年(一八六七)四月には、関東全域の御拳場・御捉飼場に対して、改(2)めて鷹場差し止めを公布した。これに伴い、公儀鷹場制度においても関連役職の廃止などさまざまな変革が行われたが、中でも庶民にとっての大きな変化は、烏猟が条件付き(3)とはいえ解禁されたことである。新規に鳥猟を行いたい者は、運上金を納めて鑑札を受ければ許可されることになったのである。これにより、これまで鷹の餌の調達などの餌鳥御用を一手に引き受けてきた、御鷹餌鳥請負人およびそ
鷹場制度終焉と鳥猟鑑札制度(安田) はじめに
蘆場制度終焉と鳥猟鑑札制度
l鑑札回収をめぐる評議過程および処分の実態I(4)の「手先殺生人」、いわゆる餌差たちは職を失うことになった。そして、餌烏御用のために交付されていた焼印札、およびその照合のために村々に預けられていた判鑑の回収が命じられた。これは新鑑札制度のためにも不可欠なことであったが、その回収・処分が具体的にどのような経過を経て行われたかについては、いまだよく知られていない。そこで本稿では、焼印札・判鑑回収をめぐる幕府内部での評議過程、それに伴って回収にあたった餌鳥請負人らの動向を具体的に明らかにすることで、いまだ不明瞭な部分の多い、鷹場制度終焉期における幕府の動向と鷹場制度維持に貢献した、餌鳥請負人の実態を一層明確にしていきたいと考えている。
安田寛子
考察の対象とする焼印札と判鑑とは餌鳥御用のためのもので、「慶応三卯年四月、御鷹御廃止二付餌鳥請負人手先(5)殺生人共焼印札判鑑取上方之義調」によると、焼印札とは「殺生人共江渡置候焼印札」・「受負人共為仕入大坂表方餌鳥取寄候節、荷物附添之者江渡置候道中往来焼印札」の二種類であった。前者は餌差の鳥猟許可証であり、後者は鷹の餌となる餌鳥を、大坂から江戸へ搬送する際に必要となる往来札であった。また判鑑とは、それらに対応して関八州村々に交付された「村々江渡置候判鑑」、江戸から大坂までの宿々に交付された「道中往来札判鑑」の二種類であった。なお各鑑札については、以降それぞれ「餌鳥札」・「道中往来札」・「餌烏札判鑑」・「道中往来札判鑑」と表記する。ここでは、鷹場差し止めに伴って回収されることになったこれら焼印札と判鑑の交付状況についてみていきたい。まず、焼印札からみていくが、これは寛政期から引き続き使用されてきたものであった。次の史料は、寛政七年(6)(一七九五)二月一父付の触書の抜粋である。|御鷹餌鳥請負人手先殺生人共江焼印札相渡置候処、 法政史学第五十七号
焼印札と判鑑の交付状況 是迄之請負人共相止、此度水鳥問屋六人之者共江請負申付、焼印札も相改候間、当卯六月迄之内新焼印札引替殺生可致候間、当六月過候而古焼印札ヲ持殺生致候者有之候ハ、、其所二留置早速可訴候、尤前々焼印札請取置候得共当時殺生相止罷在候者共、改候新焼印札引替候筈一一、是又可得其意候、すなわち、これまで餌差へ焼印札を渡してきたが、今回、これまでの餌鳥請負人を止めて新たに水鳥問屋六人の(7)者へ奎調負を申し付けることになった。そこで焼印札も改めることになったので、当年(寛政七年)六月までの内に、新しい焼印札に引き替えて殺生することになったとある。さらに六月をすぎても古い焼印札を持って殺生する者があれば、その場所に留めて置いて早々訴えるようにということと、現在餌差渡世を休業中の者であっても、新焼印札に引き替えるので承知しておくようにとある・この時新たに請負を申し付けられた六人とは、本小田原町壱丁目伊兵衛・安針町七兵衛・本小田原町壱丁目茂兵衛・同町甚兵衛・同町仁右衛門・同町三郎左衛門後見情兵衛のことである。この時に交付された新規餌鳥札は八一一一六枚、他に道中往来札一四枚が、町年寄奈良屋市右衛門から餌鳥請負人へ渡され、関八州村々へもそのことが触れ流さ 一一
れた。しかしそれも、早くも翌寛政八年(’七九六)二月(8)には再び変更される。同年四月の触圭日によると、「ムマ般猶又吟味之上右六人之内、本小田原町壱丁目東国屋伊兵衛相残り、神田餌鳥屋敷伊勢屋伝兵衛差加江」と、六人の内伊兵衛以外の五人は請負を召し上げられ、そこに伝兵衛を加(9)えた一一人が請負うことになった。ただしこの時には焼印札・判鑑の改訂はされておらず、寛政七年のものがそのまま鷹場差し止めまで使用されることになる。実際、鷹場差し止め後に回収される焼印札がこの時のものであること(、)は、次の史料か》b確認できる。|焼印札五拾枚右者寛政七卯年中餌鳥会所右私江御預ヶ相成候分、取集奉差上候、以上、これは慶応三年(一八六七)七月八日付で、「下総国猿島郡沓掛村百姓二而鳥屋幸三郎」から南町奉行所に提出されたものであるが、この時回収された焼印札(餌鳥札)が寛政七年(一七九五)交付のものであることがわかる。|方、道中往来札も回収時の書付に、「去ル寛政七卯年二月(u)中、御改替之上拾四枚御渡一一相成」とあり、同様であった。次に判鑑についてみると、これは文政一○年(’八二
鷹場制度終焉と鳥猟鑑札制度(安田) 七)に再交付されており、それが幕末まで継続して使用された。文政一○年九月付の触書には「焼印札寛政七卯年相改メ其節右焼印札之判鑑相渡置候処、年数相立村方一一而判鑑所持之者少く殺生人共止宿差支候趣相聞候二付、此度猶(、)又右判鑑相渡候」とある。その状況がさ》bに詳しくわかる(田)のが次の史料である。寛政七卯年先役池田筑後守伺之上、御勘定奉行御目付申談、右焼印札判鑑在々江相渡置候処、年数相立村方一一而判鑑所持之もの少く、殺生人共之真偽相疑止宿等差支難渋いたし候趣相聞候二付、文政十亥年先役筒井肥前守方同之上、寛政度之振合を以御勘定奉行御目付申談、関八州村々井大坂迄宿々江尚又判鑑相渡置候、これは南町奉行駒井相模守信興から老中丼上河内守正直に差し出された、判鑑回収に関する同書の一部である。これによると、寛政七年に当時の南町奉行池田筑後守長恵(M)が、老中へ伺いの上、勘定奉行・目付と打ち合わせて焼印札および判鑑を発行したが、年数が経って村方に判鑑を持つ者が少なくなり、餌差の真偽を疑って止宿などに差し支えるようになってきた。そこで文政一○年にその当時の南町奉行筒井肥前守政憲から老中へ伺いの上、寛政度の通りに勘定奉行や目付と打ち合わせて、関八州村々や大坂まで
一一一
の宿々に判鑑を再交付したのだという。なおこの時、関八州村々に交付された餌鳥札判鑑の枚数は、三七一一六枚、引(胆)き替えに回収できたのは二一○四九枚であった。寛政期の発行枚数が不明なので、正確なところはわからないが、少なくとも六○○枚以上が焼失・紛失などとして処理された可能性がある。この枚数が多かったために、幕末期まで寛政期のものが残存している可能性を考慮したのであろうか、餌烏札判鑑の回収を命じた慶応三年(’八六七)八月五日(焔)付の触聿日には、「寛政七卯年・文政十亥年関八州村々江相渡」と、判鑑が寛政七年・文政一○年の両年に交付されたことが書かれている。ただし道中往来札判鑑回収の触書に(Ⅳ)は、「文政十亥年判鑑渡シ置」としか記されていないことや、文政一○年の再交付の理由を考えれば、大半は文政期のものと思われる。以上のことから鷹場差し止め後に回収の対象となったのは、寛政七年二月から六月までの問に引き替えられた焼印札と判鑑、文政一○年に寛政度の焼印札と対応させて再交付された判鑑ということになる。ただし、これは一斉交付の状況で、例えば焼失などの場合の、個別の再交付については別の機会に考えたい。 法政史学第五十七号
ここでは判鑑回収の触書発令に至るまでの、幕府側の評議過程についてみていきたい。まず、老中に伺書を提出するまでの、南町奉行・勘定奉行・目付らによる評議の模様を中心にみていく。慶応三年四月一一八日、南町奉行駒井相模守信興は、「御勝手御勘定奉行衆」宛ての、打ち合わせのための書付を、(田)公事方勘定奉行溝口伊勢守勝如に達した。御鷹餌鳥請負人手先殺生人共江焼印札相渡、関八州在々相廻候節、止宿其外差支無之為メ焼印札相渡置候(慶応一一年・’八六六)処、去寅十二月中御鷹御廃止二付、右餌鳥受負人辻〈差免、殺生人共江渡置候焼印札井受負人共為仕人大坂表方餌鳥取寄候節、荷物附添之者江渡置候道中往来焼印札共取上候二付、先役共右御先役方江懸合之上、御領井万石以下知行村々江渡置候判鑑井道中往来札判鑑とも取上方、関八州村々井大坂迄宿々触出之義、別紙之通相伺可申与存候、御差支之義者無之候哉、且宿々触書案之義者道中方之振合一一御取直、御差越有之候様致 二判鑑回収
1老中伺以前の評議
度存候、依之同書案触書案与も相添、此段及御懸合候、これによると、慶応二年一二月、「御鷹御廃止」に伴って餌鳥請負人も免除になり、餌差たち所持の餌鳥札と大坂から餌鳥を取り寄せるときに必要な、荷物付き添いの者所持の道中往来札を取り上げることになったので、今回、村々に渡してある餌鳥札判鑑と道中往来札判鑑の取り上げ方と、関八州村々および大坂までの宿々への触れ出しについて、打ち合わせたいとしている。そのため、前掲「焼印札判鑑伺書」の案文と「関八州村々御触案」・「大坂迄宿々(四)御触案」の各触書案を添》えて、差し支えはないかと聞いている。そして「大坂迄宿々御触案」については、道中方の方でそのやり方に直して達してもらうようにしたいともある。またここに「先役共右御先役方江懸合之上(中略)渡置候判鑑」とある「先役共」とは、前述したように、寛政七年当時の南町奉行池田筑後守長恵と、文政一○年当時の同役筒井肥前守政憲、「御先役方」とは同じく両年の勘定奉行および目付のことである。この打ち合わせに対する勘定奉行の返答は、「且大坂表之義者同所町奉行江貴様方方御達相成候方与存候、依之御同書御触案等江懸紙之上返却いたし候間、猶御勘考御取計
鷹場制度終焉と鳥猟鑑札制度(安田) 有之度、尤右之趣御存寄も無之候て、道中筋触達方之義者(別)改而御申越有之候様存候事」というものだった。すなわち、大坂のことについては大坂町奉行へ南町奉行から知らせること、そして伺書および触書案は懸紙の上返却するので、なおよく考えて取り計らって欲しい、ただし道中筋への触れ達しについては改めて打ち合わせて欲しいとある。そのためか、「宿々被渡置候判鑑者道中方役所江可差出も(Ⅲ)の也」という内容の「大坂迄宿々御触案」に対しては、懸紙がされていない。これを受けて、慶応三年(’八六七)五月一五日、「御目付中」宛の書付を目付松平伊勢守に達している。内容は「御勘定奉行打合候処、存寄無之旨申聞候、各様方御差支之義者無之候哉否、早々御挨拶有之候(皿)様」というもので、伺書案・触書案を添》えて、差し支えはないかと問い合わせている。これに対する目付からの返答が来る前に、勝手方勘定奉行小栗下総守政寧から、「代官(羽)右別紙之通申立、吠へ間為御心得写差進申候」と、五月付、「差向候事柄二御座候間、相模守殿江早々御廻方被成下度(別)相願候事」という聿已付が回されてきた。差し出しは上野国に在陣する、勘定奉行並木村飛騨守勝教である。それは(羽)「先般御鷹御廃止捉飼場御差止」になったのに、餌差辻〈が以前のように入り込み、元捉飼場は勿論、その他の村々を
五
も権柄に立廻り、人足等を差し出させて村々が非常に難渋しているので、早々に取り計らって欲しいというものであった。そこで南町奉行は、町年寄舘市右衛門を通じて餌鳥元請負人に対し、「餌差共取計方丼餌鳥札引上ヶ方之義」について問い合わせた。これに対し、餌鳥元請負人が五月(別)’’一一日付で、町年寄「舘御役所」宛に提出した書付には次のようにある。右札親之者江申談、元差配仕候餌差共江一人別二相達、村々立廻り候義決而不相成旨請書取置候様取計可仕哉一一候得共、右申上候通り多人数二而行届方如何可有之二八一一七)哉心配仕候義二御座候、何卒去ル文政十亥年九月中、関八州在町江餌差共無差支通行可致旨之御触流御座候間、今般御鷹御廃止二相成御用無之二付、猶又関八州在町共、餌差共止宿人足等不相成候趣之御触返し被成下置候様仕度、左も無御座候而者急速取締方速も行届申間敷与重々心痛仕候、(幻)餌鳥一工請負人は餌差辻〈取計方について、札親の者へ打ち合わせ、元差配していた餌差共へ一人別に、「村々立廻り候義決而不相成」という請書を取るようにするが、多人数のことであり、行き届かないのではないかと心配している。そこで文政一○年九月中、関八州在町へ餌差たちが差 法政史学第五十七号
し支えなく通行できるようにと触れたように、今回も関八州在町へ、餌差たちの止宿・人足などは「不相成」いう内容の触れを出して欲しいと願っている。そうでなければ、とても早急の取り締まりなどは行き届かないというのである。すでに南町奉行所ではその検討に入っていたわけだが、餌鳥元請負人の方からも求められたことになる。さらに五月二五日、餌烏元請負人は南町奉行所に呼び出されて尋ねを受け、申し立てを行った。これについては後述する。南町奉行はこの餌鳥元請負人の申し立てを添えて、小(羽)栗に対し次のように伝》えた。下々引合一一而者急速行届申間敷候二付、餌差共之内札親与唱候重立候もの呼出、早々焼印札取集、元餌鳥受負人共方へ相渡候様可申渡与存候、ここでいう「下々」とは、餌鳥元請負人たちのことを指している。彼らに任せていては餌差の所行への早急な対応など行き届かないので、餌差たちの内札親と唱える主立った者たちを呼び出して、早々に餌鳥札を取り集め、餌鳥元請負人方へ渡すように申し渡すとある。さらにこの後略部分で、餌烏札を取り上げた上は、今後餌差が在々へ廻村することはなくなるので、判鑑については回収のための触書発令を、勘定奉行・目付と打ち合わせ中である。それが済
六
ここでは老中に伺書が提出されてから、触書が発令されるまでの状況と、伺書および触書が、案文から正式書類となるまでの過程をみていきたい。これまでみてきた通り、南町奉行は勘定奉行・目付との評議を経て、老中への伺いを立てるところまでこぎつけた。そこで南町奉行駒井相模守は老中丼上河内守正直に対(犯)して、「焼印札判鑑同室曰」を差し出したのである。その一部は前掲したが、その後ろには次のような記述が続いてい
る。去寅十二月中御鷹御廃止二付、餌鳥受負人共差免候二付而者兼而在々江相渡置候判鑑取上ヶ、私方江引渡候様御勘定奉行御目付可申談処、左候而者格別手数も相掛候義一一而、殊二請負人手先殺生人共等江渡置候焼印札 (羽)み次第知らせると述べている。一方、ロロ付に対しては五月二一一一日、餌差の所行について勘定奉行から掛合があったことを伝え、急いで伺いを立てたいので早々に、先の打ち合(列)わせに対する返答が欲しいと伝えた。そこで五月一一五日、目付新庄右近直温より下ヶ札にて、「御掛合之趣拙者共方(Ⅲ)差支無之候」との返述□を得た。
鷹場制度終焉と鳥猟鑑札制度(安田) 2老中伺と判鑑回収の触書 之義者早々取上候筈二付、向後在々||而為引合候義無之全弄り一一相成候判鑑二付、右者在方掛御勘定奉行並御代官井領主地頭江取集、焼捨候積取計候方可然候間(中略)尤道中筋之義者道中奉行申談、右之趣相達候様可仕奉存候、依之御触書案相添此段奉伺候、以上、これによると、判鑑は回収後、南町奉行のもとに引き渡すよう勘定奉行・目付と打ち合わせるべきところであるが、それでは手数がかかりすぎるし、焼印札は早々に取り上げるはずで、今後判鑑は必要なくなるものであるとして、判鑑については「在方掛御勘定奉行並御代官井領主地頭」のもとに取り集め、その上で焼き捨てるように取り計らいたいとしている。そしてその内容で作成した、「関八州村々御触案」を添えて伺いを立てている。(羽)ところでこの触書案と伺聿己が、正式な老中提出書類となるまでの、具体的な修正状況についてみておきたい。南町奉行所で作成した触書案および伺書案に対し、勘定奉行所の方から懸紙をして戻されてきたことは前述した。しかしそれは大きく内容を変えるものではなかった。まず伺書案においては、文脈を整理し、字句の重複を避けるように修正されている。内容的に少し違いがみられるのは、南町奉行所案で「先年之御触書一一見合、関八州在々井大坂表迄
七
宿々御触書案取調入御覧申候、右一一而可然思召候ハ、、何れも御勘定奉行御目付申談候様可仕候」とある部分である。すなわち、関八州在々・道中筋共に触書案を取り調べて御覧に入れるので、それでよいということなら勘定奉行・目付と打ち合わせるという内容であるが、これを、今後は餌鳥御用がないので、判鑑は支配の領主・地頭で回収・焼き捨てるようにという触書を発令したいという内容と、「尤道中筋之義者道中奉行申談」と、道中筋については道中奉行と打ち合わせるという内容に変更している。より具体的な内容の伺書案となっているといえよう。触書案では、さらに修正は少ない。「御料者御代官私領者領主地頭江」とあるところの「御代官」を「其所支配」と直していることと、「右之通」漏らさず触れるようにという文一一一一口を加えている程度である。そして、南町奉行から老中に差し出された「関八州村々御触案」と「焼印札判鑑同書」は、ほぼ勘定奉行の懸紙通りに修正されたものになっている。すなわち南町奉行が先例を取り調べ、それについて勘定奉行が懸紙をしてわずかな修正を加え、目付は前述のようにそれで差し支えないと追認し、その結果南町奉行が指摘に沿った修正を加えて、老中へ伺いを立てられる段階に到達したわけである。 法政史学第五十七号
これに対して八月五日、老中稲葉美濃守正邦からは「伺之通相心得、別紙触案者懸ヶ紙之通り直し、向々江相達候(狐)事」との達しがあった。もっとも、懸ヶ紙はわずかな字句の変更のみで、触書案の内容を変えるようなものではな(閲)(妬)かつた。そして、同日付けで大目付・目付および一二奉行に対して、「右之趣可被相触候」と判鑑回収・直々の焼き捨てを内容とした触書の発令を命じている。これを受けて南町奉行は八月六日、「勘定奉行衆」宛の打ち合わせを勝手(師)方勘定奉行小出大和守秀実に達した。その中には、次のような記述がある。昨五日別紙之通御書取を以美濃守殿被仰渡候二付、右受負人共大坂表より餌鳥取寄候節、附添之者往来焼印札判鑑取上方之義兼而御懸合済之故、道中筋江御達有之候様致度、依之御書取写井御触書案道中筋御達案共差進申候、道中筋江御達相済候ハ、、猶御通達有之候様致度存候、道中往来焼印札判鑑取り上げについて、道中筋への達しとその完了報告を求めている。これについては九月に入ってから、公事方勘定奉行であり道中奉行兼帯の都筑駿河守峯暉と溝口伊勢守勝如が連名で、「道中筋宿々江相達置申(羽)候」との報告をしてきた。これを受けて九月二一一日、南町
八
奉行から勘定奉行に対し、道中筋への達しについては自分の方から大坂町奉行へも心得のために知らせておきたいとして、「宿々御触達」の写しを求めている。そこで東海道宿々への触書の写しが九月二八日にもたらされた。これは都筑駿河守・溝口伊勢守の連名で「東海道品川宿方守口宿迄、右宿々問屋・年寄」宛てとなっており、今後御用がないことと「宿江渡置候判鑑者一宿限り自分共役所江可差出(羽)もの也」ということが触れられている。そして大坂町奉行小笠原伊勢守長功・竹内日向守に対しては、九月二九日付で、道中往来札については南町奉行所に納められることになっているので、今後「餌烏差下方等之義二付及御掛合候(㈹)義無之候」と、宿々への触聿日の写しを添》えて達している。鷹場差し止め令から約一○カ月後、こうして、判鑑取り上げに関する触書は発令されたのである。すなわち南町奉行が勘定奉行・目付と打ち合わせ、その承認を得た後、老中へ同書を提出、さらにその承認を得て触書の発令となった。その発令は、多数の餌差統率と餌鳥札回収の責を負わされた餌鳥元請負人の要望でもあり、また餌差横行に難儀を訴える村方の民意を反映したものでもあった。残念ながら今回、支配の末端における取り集めの実際については言及することはできなかった。しかし幕府が大政奉還を受け
鷹場制度終焉と鳥猟鑑札制度(安田) ここでは、焼印札の回収をめぐる関係者の動向についてみていきたい。まず餌鳥元請負人が御用免除になってから、焼印札回収が始まるまでの経緯についてみていく。前述したように、慶応三年(一八六七)五月一一五日、「御鷹餌鳥元請負人伊之助幼年二付後見忠七郎」と「同伝兵衛」の両名は、南町奉行所に呼び出され、餌差たちの所行について次のような(岨)申し立てを行った。当三月九日御鷹餌鳥御用御差免被仰付候二付、右之趣急速兼而手二付罷在候餌差共之内、札親与唱重立候者江翌十日右夫々書面ヲ以申達侯得共、遠近二害日数四五日程相後候場所も有之候義二御座候、尤右札親之者 入れる一○月一四日までは残りわずかであることや、明治政府が明治三年(一八七○)九月、「御預有之候御鷹場御(皿)鑑札、相改可差出」と、村方に残されていた鷹場関係の鑑札回収を命じていることなどを考えると、充分な処分はできなかったと思われる。
一一一御鷹餌鳥元請負人と焼印札の回収
1焼印札回収までの経緯
九
共右夫々弟子餌差共江通達為致候筈二申付候、猶又引続当四月廿四日御焼印札返納可致旨被仰渡候二付、前書札親之者共江同廿五日右別紙を以夫々御焼印札取揃返納可致、且以来餌差共止宿人足継立等御用ヶ間敷義決而為致間敷段、厳敷申達候得共、遠路之場所者前同様之次第一一而日数相後し候方も有之候義二御座候得共、何分多人数之義、且身薄下輩之者一一面右様申達候義、中一一者心得違仕候者も有之哉、今般之蒙御尋何共(ママ)奉恐入候、猶此上共御焼印札引上方取急餌差共心得違之義無之様可仕候間、何卒以御慈悲此殿御聞済之程偏二奉願上候、以上、これは抜粋であるが、これにより、餌鳥請負人が餌鳥御用免除になったのは慶応一一一年(一八六七)三月九日のことであったこと、またこのことは、餌差共の内「札親与唱重立候者」に対して、翌一○日よりそれぞれ書面で知らせたことがわかる。しかし遠近により日数が四・五日程遅れる場所もあるとしており、また札親の者からは、それぞれ弟子餌差に対し通達させることになっているともある。そして四月二四日には、焼印札を返納するようにと命じられ、札親の者へは翌二五日より、それぞれ焼印札を取り揃えて返納すること、以後、止宿・人足継立などの御用がましい 法政史学第五十七号
①交付先と差紙送達最初に、餌鳥札の交付先についてみていきたい。まず一(㈹)八名の「札親与唱重立候者」が挙げられる(表1)。彼》bは史料上、自らを「鳥屋」あるいは「百姓」・「百姓二而鳥(“)屋」と記している。また彼一bを含む餌差は、幕府役人か》わ(妬)は「餌鳥請負人手先殺生人」とも呼ばれ、餌鳥一謂負人から(妬)「身薄下輩之者」とされる人々であった。その数は多く、前述したように寛政七年(一七九五)に交付された餌鳥札は八一一一六枚であった。しかしその頃から今回の餌鳥札回収までには七○年以上も経っており、途中札の移動があったり、紛失・焼失があったりしてそのまますべてが回収されることはなかった。そこで、ここでは回収時における餌鳥札の交付状況も合わせてみていきたい。 |○
ことは決してしないようにと厳しく達したとある。しかし遠路の場所もあること、多人数であること、また「身薄下輩之者」たちであることから、心得違いをする者もあるかもしれないとして、焼印札引上方については早急に餌差たちに心得違いがないようにするとある。このような経緯を経て、餌鳥札と道中往来札の回収が始まったのである。
2餌鳥札の回収
表1重立候札親与唱候者共く鳥屋〉よりの焼印札回収表
■■■■二=■
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■▲■■■=■l■■■■
堅醒嘉遡襲醒」Um1E葵鵜二軍製(8K田) 至'1着日住所名前差添人差紙宿引受宿備考枚数実際上納枚数6/3武州入間郡lll越久保町清七組頭忠兵衛馬喰町弐丁目勘四郎代吉蔵 馬Ⅱ食111丁壱丁目家主文蔵代福太郎 元受負人‘今日上納渡済 40′'
6/5野州都賀郡合戦場宿精一郎年寄藤太郎馬喰町弐丁目勘四郎代吉蔵 元飯田町家主権次代伊助 上納二付帰村22ノゾ
6/5日光道中粕壁在小淵村次助年寄勝三郎馬喰町弐丁目勘四郎代吉蔵 上納二付帰村50〃
6/4武州埼玉郡岩槻宿横町又右衛門町人代太右衛門 馬喰町弐丁目勘四郎代吉蔵 馬喰町弐丁目武左衛門代金兵衛 -卜先帰村45″
6/6日光道中幸手宿助七煩二付代馬蔵 年寄伝左衛門馬喰町弐丁目勘四郎代吉蔵 馬喰町四丁目幸太郎代直次郎 上納二付帰村37′'
6/4中仙道熊ヶ谷宿幸助組頭新太郎馬喰町弐丁日勤四郎代吉蔵 馬喰町三丁目吉兵衛代清助 -卜先帰村38″
6/6中仙道深谷宿市助組頭与惣右衛門 馬喰町弐丁目勘四郎代吉蔵 上納二付帰村15ノノ
6/4中仙道鴻巣宿善次郎組頭伊兵術馬喰町弐丁目勘四郎煩い二付代吉蔵 元受負人方今日上納5/29渡済 33'′
6/8上州群馬郡上埜惣社村安五郎年寄丑五郎馬喰町弐丁目勘四郎代吉蔵 一卜先帰村25″
6/6武州榛澤郡宮戸村竹次郎年寄伴助馬喰町弐丁目勘四郎代吉蔵 上納二付帰村22〃
6/7上州山田郡藤本村重吉組頭助左衛門馬喰町弐丁目勘四郎煩い二付代平助 元受負人方今日上納渡済 13″
6/6武州児玉郡傍示堂村平五郎事幸吉組頭直左衛門馬喰町弐丁目勘四郎煩い二付代吉蔵 上納二付帰村2010
6/8上州邑楽郡海老瀬村増蔵組頭茂右衛門馬喰町弐丁目勘四郎煩い二付代吉蔵 馬喰町壱丁目家主弥助煩い二付代保次郎 -卜先帰村16″
6/8日光道中古河宿大工町弥左衛門煩二付代総吉 組頭栄助馬喰町弐丁目勘四郎煩い二付代吉蔵 馬喰町壱丁目家主弥助煩い二付代保次郎 ~卜先帰村17ノ'
6/7下総猿島郡沓掛村幸三郎組頭源十郎馬喰町弐丁目勘四郎代平助 馬喰町壱丁目佐兵衛7月8日上納50ノノ
6/5下総猿島郡仁連町藤右衛門煩代組合百姓源七 百姓代仙右衛門 馬喰町弐丁目勘四郎代吉蔵 馬喰町弐丁目栄二郎代徹蔵 -卜先帰村1312
6/8上川邑楽郡青柳村庄七組頭平吉馬喰町弐丁目武左衛門代吉蔵 馬喰町壱丁目家主藤兵衛代理兵衛 上納二付帰村15″
6/3下総相馬郡平沼村Illl蔵名主彦右衛門馬喰町弐丁目勘四郎代吉蔵 -卜先帰村33″
六月五日付で餌鳥元請負人が取り調べて南町奉行所に提出した書付によると、一八名の札親に交付された餌鳥札の合計は五○四枚で、その内訳は表1の「枚数」欄に記したとおりである。しかし、その後の取り調べにより、実際に(〃)は四九三枚であったことがわかる。その内訳は表1に「実際上納枚数」として記したが、詳しくは後述する。これ以外に、「御府内餌差」その他餌鳥請負人から直に(帆)餌鳥札を配布している者たちが近在所々にいるという。その近在所々の者とは、「御府内餌差」の他には、「東海道筋戸塚宿市五郎」と「程ヶ谷宿金蔵」の二人の札親、「上総筋五井組・木更津組・早野組」と唱え、特に札親という者のない者たちであった。そのためその「重立候者共」に直接今回の申し渡しを行っている。しかし彼らへの交付枚数など詳細については、餌鳥札は残らず餌鳥元請人の方へ引き上げ、以来止宿・継立などはしてはならないと厳しく申し渡してあるということで、南町奉行へ提出の調査書には(側)「差除キ申候」と省略されている。また、前述した六月五(別)日付の聿已付にも載せられていない。これら餌烏札の回収については、前掲の五月一一二日付、餌鳥元請負人が町年寄(Ⅲ)「舘御役所」宛に提出した妻日付の後半部分には、次のようにある。 法政史学第五十七号
此度右御餌鳥御焼印札取揃上納可致旨、当四月廿四日被仰渡候二付、右札引上ヶ方之義者札親之者共方取揃、当五月晦日限り不残返納可致様申達し候得共、手広之義二付未夕取揃兼、当時弐百枚程取集、御焼印札御渡二相成候而右年来相立候義二付、焼失・紛失等有之、中一一者紛敷札等出来在町江横行仕候者も有之哉一一承り及、これによると、四月二四日に焼印札上納の仰せを受けたので、その引き上げ方については札親の者で取り揃え、五月晦日を限りに残らず返納するように達しているものの、いまだに揃わず、まだ二○○枚ほどしか集まっていないという。この二○○枚ほどというのが、前述の近在所々の者に配布していた餌鳥札であろう。そして餌鳥札御渡し以来年数が経っているため、焼失・紛失もあり、中には紛らわしい札まで横行しているらしいとある。そこで前述したように、南町奉行所から直接一八名の札親に対し差紙が送達された。その数は、仁連町と沓掛村へ一通、岩槻宿・小淵村・幸手宿・古河宿・海老瀬村・青柳村に一通、川越久保町に一通、鴻巣宿・深谷宿・熊ヶ谷宿・宮戸村・傍示堂村に一通、上埜惣社村・藤本村に一(皿)通、△□戦場宿に一通、平沼村に一通の都合七通であった。 一一一
②「着御訴」と餌鳥札の回収状況差紙を受けた一八名の札親たちは宿へ到着すると、「着御訴」・「着御届」・「御差紙二付着御訴」・「上」などと題した、宿への到着報告を行った。その一部は、宿泊先を変える止宿替願も兼ねたものであったが、連名での提出もあり、全部で一五通であった。表1には、これら「着御訴」から、札親の住所・氏名・差添人・差紙宿・宿を変更した場合の引受宿・餌鳥札上納に関する状況などを抽出して一覧にしてある。(岡)次の史料はこの「着御訴」の内の一通である。表1とともにみていきたい。下総国葛飾郡古河宿百姓弥左衛門煩二付代総吉、上州邑楽郡海老瀬村百姓増蔵奉申上候、今般私共江御尋之義被為在御座候間、早々可罷出旨御差紙頂戴拝見承知奉畏候、然ル処弥左衛門義ハ病気一一而取臥居罷出兼候旨相歎、無余儀総吉代与し而出府着御訴奉申上候、尤弥左衛門江御尋筋之義者総吉右肌無御差支御請答可奉申上候、且御差紙宿馬喰町弐丁目勘四郎方江着可仕之処、同所壱丁目弥助方ハ兼而懇意一一付、同人方江止宿替仕度、両宿懸合およひ候処、右障等無御座候間、何卒以御慈悲弥左衛門代引受止宿替御間済被
鷹場制度終焉と鳥猟鑑札制度(安田) 成下置度奉願上候、以上、南町奉行所宛に出されたものであるが、差し出しは弥左衛門代総吉および差添人栄助、増蔵および差添人茂右衛門、御差紙宿は馬喰町弐丁目勘四郎代吉蔵、引受宿は馬喰町壱丁目弥助代保次郎である。連名での到着報告はこの総吉と増蔵の他、市助・竹次郎・平五郎事幸吉らによる一通だけである。このことから、「着御訴」は同じ内容の差紙を受け取った者が、差紙宿が同じで、同じ日に同じ宿に到着した場合、連名で差し出していたということがわかる。また札親たちは「御尋之義被為在御座候間早々可罷出」という内容の差紙によって、それぞれ年寄・名主・組頭・百(別)姓代・町人代などを差添人として辻〈に出府している。差紙には餌鳥札返納について触れていなかったのか、当日餌鳥札を持参せず、ひとまず帰村するという者が一八名中八名(開)もいた。しかし餌鳥元一雨負人から一ヶ月以上も前に餌鳥札返納の連絡を受け、期日も五月末までとされていたことを考えれば、今回の差紙の趣旨も充分推察がつくはずで、餌鳥札を持参するのが当然のように思われる。それを持参しなかったというのは、多くは手先の餌差から回収できなかったということかもしれない。尾張家鷹場では、餌差が(冊)従来通りの鳥猟許可を願い出ている例もある。餌鳥札返上
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というのは、長年鳥猟で生計をたててきた者たちにとっては死活問題で、その取り集めが困難だったろうことは想像に難くない。しかし、一○名の者は上納の上帰村している。さらにこの内三名の分は、「此分私共江取集候間今日(訂)上納仕候」と餌鳥一工請負人から返納されており、その中の一人善次郎については、差紙以前の五月二九日、すでに餌(肥)鳥元請負人へ渡し済みであった。この一二名の餌鳥札の合計は八六枚、他の七名の分を加えると二六七枚となり、これは一八名全員からの回収総数四九三枚の五四パーセントにあたる。すなわち半数以上の餌鳥札が、呼び出しと同時に返納されているのである。さらに、最終的には七七三枚(後述)の餌鳥札が回収されることを考えると、今回の回収がかなり効率よく実施されたといえる。この他本論とは離れるが、この時の差紙宿は馬喰町弐丁目勘四郎が一七名を、同所武左衛門が一名を担当している。しかしこの内、勘四郎分の二名分だけは平助という人物が代を勤めているものの、それ以外は勘四郎分も武左衛門分も全て吉蔵という人物が代を勤めている。この差紙宿の状況も興味深い。次に、前述した枚数の差異についてみてみたい。まず一枚については、仁連町藤右衛門が一三枚の内一一一枚しか上 法政史学第五十七号
納しなかったことによる。同人が一九日、|二枚で納めようとしたので、餌鳥元請負人が調べのために出頭を命じら(別)れたが、結局一一一日に一二枚で受け取っている。残りの一(㈹)○枚については、六月七日付の次の史料か薑bその理由がわかる。武州傍示堂村平五郎江渡置候札数之義、御調之節心得違仕、先年之様等取調、其儘’一認奉差上、然ル処平五郎義、此度御焼印札上納仕候処、札数相違仕居候一一付、其段蒙御尋奉恐入、猶又取調候処、当平五郎代一一至り、札数相減改而拾壱枚渡置候義一一相違無御座侯、不取調心得違之段奉恐入候、何卒格別之以御慈悲此殿御聞之上、平五郎義帰村被仰付被成下置候様、偏一一奉願上候、以上、これは餌鳥元請負人の伊之助後見忠七郎と伝兵衛によって、南町奉行所に提出された願書からの抜粋である。六月(Ⅲ)五日の調査では、平五郎の分は二○枚となっていたのであるが、持参したのは一○枚しかなかったため、帰村させてもらえなかったのである。調べの結果、二○枚というのは以前のことで、今の平五郎の代になり、札数が減ったため、改めて二枚交付したのだとある。なお、この内一枚(他)は焼失したため、結局上納できたのは一○枚であった。
一
四
ところで、この傍示堂村平五郎渡し分の餌鳥札が減じたのには、焼失や紛失以外にも理由があった。万延二年(文久元年・’八六一)正月二六日、道中奉行兼帯の勘定奉行、酒井隠岐守忠行より町奉行衆宛に次のような掛け合い(岡)がなされた。木村薫平御代官所信州板橋村庄右衛門外弐人、不埒之取計致し候趣相聞候二付、薑平方おゐて一卜通相糺候処、(中略)餌鳥焼印札丼御本丸御鷹御用餌鳥武州傍示堂組仲会所平五郎手先与認候書付受取、鳥殺生致し候儀之旨申之、(中略)餌差之儀ハ御鷹餌鳥御用為取締焼印札渡置餌鳥屋共手先之殺生人相仕立、関八州内二限致殺生候儀之旨御申間、関外一一而者難相成儀之処(中略)鑑札所持いたし候段者不埒二付相当之御仕置可申付与存候得共、平五郎ハ先達而欠落致し候一一付、事実同人江御渡有之候焼印札二候哉真偽難相分、且右焼印札者関内外在方之もの江も御渡相成候儀二候哉致承知度、依之取上置候焼印札相添、此段及御掛合候、以上、この一件の発端は、関八州内に限るはずの鳥殺生が、代官木村薫平支配で関外である、信州板橋村において庄右衛門他二人によって行われていたことに始まる。勘定奉行が
鷹場制度終焉と鳥猟鑑札制度(安田) 確認したいのは、平五郎がいないために確認できない餌鳥札の真偽と、餌鳥札を関外の在方の者へも渡しているのかということである。そのため、回収した餌烏札を添えている。これに対し、南町奉行池田播磨守頼方は、同年三月、餌鳥請負人を町年寄舘市右衛門方に呼び出して取り調べた結(M)果を知らせてきた。それによると、餌鳥一祠負人がいうには、餌鳥札は「関八州之内在方之者」に渡しており、関外の者へは渡していない。また、欠け落ちした平五郎の伜幸(閲)士口に聞いてみたが、「親平五郎取扱之儀相分兼候」とのことである。しかし餌鳥札を調べた結果は、餌鳥請負人が渡したものに相違なかった。ただし、「小口張会所印」は自(船)分で張り紙をしたのか、「文字小振二相見江申候」ということであった。結局この一件は、庄右衛門他一人が答めを受け、餌鳥札は取り上げられて翌文久二年(’八六二)一(W)○月、餌鳥請負人に差し戻された。すなわち、この時平五郎分の餌鳥札の一部が、餌鳥請負人に戻されたわけであるが、失院したという平五郎の状況を考えると、他にも餌鳥札が同様の状況で、本来渡るべきでない人物に渡されていた可能性は大きい。そこには金銭の介在があったろうとも推察できる。このことから、餌鳥元請負人が上申書の中
一
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法政史学第五十七号(開)で、「中一一者紛敷札等出来在町江横行仕候者も有之」とする、紛らわしい札の中には、全くの偽造ばかりでなく、今回のように不正に流出した本物の餌鳥札もあったことがわかる。以上のような理由から、’八名の札親から集められたのは結局四九三枚であった。この内、六月五日の取り調べ時の枚数が三八枚で、回収時の枚数と差異がなく問題はないが、南町奉行所に対し、数の点で自己申告していた者がいる。熊ヶ谷宿の幸助で、その預かりは、本来四○枚であつ(的)たらしいが、「内弐枚千駄木餌鳥会所預ケニ相成」と由‐告している。おそらく必要なくなった餌鳥札を、餌鳥請負人に預けていたのであろう。その他の餌鳥札については追々集められていき、餌鳥元(、)請負人の伊之助後見忠七郎と「伝丘〈衛煩二付代金丘〈衛」は八月一二日、残り二八○枚を南町奉行所に上納している。しかし餌烏元請負人は、交付から年数もたっており、焼失・紛失もあり、六○枚ほど不足していることを承知して(Ⅶ)欲しいと願っている。回収できた餌鳥札は、全部で七七一二枚であった。しかし未回収に終わった餌鳥札もあり、その理由としては、焼失・紛失が挙げられているが、その他にも表だって述べられてはいないが、前述したように不正流 ここでは道中往来札の回収状況について、餌鳥元請負人による南町奉行所への上申書の記述からみていきたい。餌鳥札の回収が一応終了した八月一二日、道中往来札は(Ⅶ)七月中に回収した七枚の上納を達成した。残りは「未夕取(羽)揃兼候」という状態であったが、道中往来札の交付枚数はわずかで、前述したように寛政七年二月交付の一四枚だけである。その内訳は次のようになる。まず八月一二日に上納できたのは、駿州富士郡大宮町才次郎、同村山之郷逸平の各一枚ずつ、大坂備前嶋町河内屋四郎兵衛の二枚、そして前々より餌鳥請負人共方に差し置かれていた一一一枚である。この中で、河内屋四郎兵衛方が古(刑)くから御用を勤めていたことを一不す記述がある。右大坂表河内屋四郎兵衛江古来右渡来有之候処、寛政度御改之剛、猶又引替渡置候義二御座候、御餌鳥御用之節者何れも其向一一而餌鳥呼下候節者、私共方其御筋江御届奉申上候二付、当御奉行所様方彼地御奉行所様へ御達二相成、彼地御役所右四郎兵衛江餌鳥取集、差下可申趣被仰渡候義与奉存候、此殿御尋二付奉申上候、 失などもあったと思われる。
3道中往来札の回収 ’一ハ
餌鳥元請負人は尋ねを受け、大坂の河内屋四郎兵衛へは古来から道中往来札を渡していること、餌鳥を取り寄せる必要のある時は餌烏請負人から届け出て、その結果南町奉行所から大坂町奉行所へ達し、そして大坂町奉行所は四郎兵衛に餌鳥を取り集めて江戸へ送るよう仰せ渡してくれるようになっていると説明している。しかし近年はその必要(両)があまりなかったとも述べている。大坂表方呼下候義、近来関東筋差支無之候二付中絶仕(一八六一一)居候処、文久二戌年夏餌鳥差支候二付、同年五月右七月初旬迄、彼地方呼下御用奉相勤候、其後一切無御座候、すなわち、大坂表から餌鳥を取り寄せる「呼下御用」は、最近関東筋では餌鳥が差し支えることがなかったので中絶していた。それが文久二年(一八六二)夏、餌烏が差し支える事態が起こり、同年五月より七月初旬まで、大坂からの「呼下御用」を勤めた。しかしその後は一切ないという。また大坂からの「呼下御用」の中絶・再開に関わる事情については、文久二年三月九日、餌鳥請負人が「舘御役所」宛に差し出した、「御鷹餌烏請負人共大坂表堂鳩差(巧)下シ御達願」によってわかる。それによると、餌鳥の内、土鳩は夏には至って品薄になるため、大坂より年々「呼下
鷹場制度終焉と鳥猟鑑札制度(安田) 御用」を勤めてきたが、三○ヶ年程は中絶していた。しかしここ一一・三年以前より自然と土鳩が少なくなり、関東筋だけでは賄いきれなくなったため、今回再び河内屋四郎兵衛方へ掛合に及んだという。しかし四郎兵衛は、大坂でも土鳩は少ない上に、「天保度御改革」、すなわち天保一三年(一八四二)問屋組合の停止以後、「諸鳥問屋商売仕候者」が新規に三人も出てきたため、土鳩の取り集めは「|卜通」には出来がたいといってきたというのである。この願書は、それでは餌鳥御用に差し支えるので、江戸町奉行所から大坂町奉行所へ達し、さらに大坂町奉行所から四郎兵衛へ仰せつけられたいというものであった。またこのような願書は寛政一○年五月一七日にも町年寄の「奈良尾御役(両)所」宛に提出しており、一別例があることだとしている。こ(畑)れについては四月一九日にも追願いをしているが、四月二五日、町年寄舘市右衛門から餌鳥請負人に対し、「当時彼地御奉行衆江御掛合中二候へ共、一体久々中絶致し候義一一(ね)付、彼地都ムロも如何可有之哉」として、いずれにしても差し迫ったことであるから、関東筋で取り集め方に精を出し、差し支えないよう取り計らうようにと達せられている。しかし前述したように、五月から七月初旬まで「呼下御用」が再開しているので、この後、大坂町奉行から了解
一七
次に未回収の七枚についてみると、豆州君津郡山中村東四郎に一枚、駿州の駿東郡印野村市左衛門、同村覚左衛門、神場村惣左衛門、大御神村肋四郎、板妻村定右衛門らに各一枚ずつ、計六枚が渡されていることになっている。残り一枚については、駿州大宮町へ渡されたものの、安政年中に焼失したとされている。そこで、六枚が回収可能でありながら未回収な道中往来札ということになる。これらについて、餌鳥元請負人は「先達而中返納可致様飛脚差出(M)置」いたが取り揃》えられずにいるので、「急速取上上納」すると述べている。この回収が完了したかどうかは残念ながら不明である。以上のことから、餌鳥元請負人は焼印札の回収に際して、その配布先・枚数の把握から取り調べ、回収まで広く責任を負わされていたことがわかる。そして回収に際して が得られたということであろう。このような状況から、道中往来札の管理環境は良好ではなかった可能性もある。道中往来札は一四枚が交付されていたが、二枚は餌烏請負人の所にあったので、回収の必要な枚数は二枚であるが、八月一一一日時点で回収できたのはわずか四枚、すなわち三六パーセントと少なかったのは、このような事情によると4℃考えられる。 法政史学第五十七号
本稿では、鷹場制度終焉期における焼印札・判鑑の回収をめぐって、南町奉行・勘定奉行・目付・老中それぞれの間において行われた評議の過程、そしてその実施動向について明らかにした。このうち、焼印札の回収に際しては、餌鳥元請負人が配布先および枚数の把握から取り調べ、回収まで、南町奉行所の指示の下、可能な限り充分な働きをしたことがわかる。すなわち、幕末期という厳しい政局の中でも、指令系統の末端において充分な機動力が発揮されていたことがわかるのである。それは鷹場制度内でこれまで培われてきたもので、鷹場制度終焉においても重要な役割を果たしたといえる。このような末端における機動力が、近代へとどのように継続されていくのであろうか。今後の課題として考えていきたい。 一八
は、鷹場制度内でこれまでに培われてきた機動力が発揮されていたといえる。焼印札回収は、村々が難渋するという理由だけでなく、幕府の新たな鳥猟鑑札制度確立のためにも必要なことであった。そのため、その実施が厳しく求められたので、ある。
おわりに
註(1)「幕末御触書集成』第三巻一一○四三、『続徳川実紀』第五一局。(2)『幕末御触書集成』第三巻二○四五、「続徳川実紀』第五扁。慶応二年一○月、あるいは慶応一一一年四月の法令が出された時点で、鷹場が廃止されたと捉える向きもあるが、この時廃止されたのは鷹場役職などの制度であり、鷹場そのものは幕末まで存続することになる。法令上も、前者では鷹場は「御差止」、後者では「当分御用無之」とされている。そこで筆者は、この時の法令を鷹場「廃止」令とはせず、「差し止め」令と表記する。また、鷹場が差し止めに至った理由については、拙稿「近世鷹場制度の終焉l幕末軍政改革および諸改革の中でl」(「法政大学大学院紀要」三九、一九九七年)において考察している。(3)鷹場制度の終焉過程における変化については、拙稿「近世鷹場制度の終焉過程と維持組織」弓法政史学』五○、’九九八年)において詳しく検討している。(4)以降原則として、御鷹餌鳥請負人は餌鳥請負人もしくは餌鳥元請負人、殺生人は餌差と表記する。餌鳥請負人に関しては、拙稿「近世鷹場制度終焉期における御鷹部屋管理の動向l御鷹部屋洗掃除と餌鳥請負人を中心にl」(「地方史研究』二九○、二○○|年四月)、同「幕末期における餌鳥請負人の動向と「冥加」の実態」(「日本歴史』六三七、二○○|年六月)において考察している。他に、大友
鷹場制度終焉と鳥猟鑑札制度(安田) 一雄「将軍の鷹狩と江戸の鳥問屋」(「史料館研究紀要」二八、’九九七年)、根崎光男『将軍の鷹狩り』(同成社、’九九九年、’○○~’○二頁)がある。餌差に関しては、大友一雄「将軍の鷹狩と身分l御鷹の餌鳥御用と餌差l」(「国史学』’六一、’九九六年)、前掲根崎著『将軍の鷹狩り』(九三~’○○頁)がある。(5)「岡鳥水鳥問屋」四(旧幕府引継書、国立国会図書館蔵)。本稿記述は、特に註を加えない限り当該史料による。また当該史料「岡鳥水鳥問屋」は、以降「問屋」とのみ表記する。(6)「寛政七卯年二月関八州御触」(「問屋」四)。(7)天明七年二七八七)四月以降、半九郎・清兵衛・神田餌鳥屋敷家主伝兵衛が餌鳥請負人を勤めてきた。しかし寛政七年、南町奉行坂部能登守広吉による餌鳥値段引き下げの取り調べがあり、伝兵衛がそれでは「永々御請負者難仕」と主張したため、三人とも請負を召し上げられた。(「餌鳥会記録」六)。(8)「餌鳥会記録」六。(9)「寛政八辰年四月御触」(「問屋」四)。(、)「乍恐以書付奉申上候」(「問屋」四)。(Ⅱ)慶応三年八月一七日付「上」(「問屋」四)。(E)「文政十亥年九月御触」(「問屋」四)。(旧)慶応三年五月付「御鷹御廃止二付餌鳥請負人手先殺生人共江渡置候焼印札判鑑之義奉伺候書付」(「問屋」四)。以
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九
降「焼印札判鑑同書」と略す。(u)「焼印札判鑑同書」案には、この時の勘定奉行として石川主水正忠一房(公事方・道中奉行兼帯)の名が記されている。(旧)「問屋」’。(刑)「問屋」四・(Ⅳ)「問屋」四。(旧)「問屋」四。(旧)「問屋」四。(別)「問屋」四。(Ⅲ)「問屋」四。(皿)「問屋」四。(羽)「問屋」四。(皿)「問屋」四・(妬)前述したように、木村飛騨守においても、廃止されたのは「御鷹」、すなわち鷹に関わる行為や制度であり、捉飼場(鷹場)は差し止めとして認識されていたことがわかる。(別)「以書付奉申上候」(「問屋」四)。(”)札親とは、一部の餌差を取りまとめていた者たちで、これについては、前掲大友論文「将軍の鷹狩と身分l御鷹の餌鳥御用と餌差l」を参照されたい。(別)「問屋」四。(羽)「問屋」四。(別)「問屋」四。 法政史学第五十七号
(Ⅲ)「問屋」四・(皿)「問屋」四・(羽)「関八州村々御触案」・「焼印札判鑑伺書」案(「問屋」四)。(弧)「覚」(「問屋」四)。(妬)『幕末御触書集成」第一一一巻、二○四六。前掲拙稿「近世鷹場制度の終焉過程と維持組織」。(洲)「問屋」四。(師)「問屋」四。(邪)「問屋」四。(別)「問屋」四。(川)「問屋」四。(u)「明治三年御用留」(『小金井市誌編纂資料第十九編』鈴木英男家文書三)。(岨)「上」(「問屋」四)。幕末期の餌鳥請負人は、表向きは伊之助方と伝兵衛方となっているが、伝兵衛は名目上の存在で、伊之助方から暮方賄料を受け取っていた(前掲拙稿「幕末期における餌鳥請負人の動向と「冥加」の実態」)。しかし本稿では便宜上史料のままに記す。(蛆)「着御訴」・「着御届」・「御差紙二付着御訴」・「上」(以降一括して「着御訴」と表記する)・「関八州餌差札親之分名住調書」・慶応三年六月五日付「上」より作成(「問屋」四)。(u)「着御訴」(「問屋」四)。
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(妬)「問屋」四。(妬)「上」(「問屋」四)。(〃)慶応三年六月五日付「上」(「問屋」四)。(岨)慶応三年六月五日付「上」(「問屋」四)。(伯)「関八州餌差札親之分名住調書」(「問屋」四)。(別)慶応三年六月五川付「上」(「問屋」四)。(別)「以書付奉申上候」(「問屋」四)。(皿)「関八州餌差札親之分名住調書」(「問屋」四)。(田)「着御訴」(「問屋」四)。(別)「着御訴」(「問屋」四)。(閲)七月八日上納の幸三郎もコト先帰村」したと思われるので、八名の内に含めている。(閃)「川島清家支配亡(『国分寺市史料集』1)、前掲拙槁「近世鷹場制度の終焉過程と維持組織」。(印)慶応三年六月五日付「上」(「問屋」四)。(兇)慶応三年六月四Ⅲ付「上」(「問屋」四)。同日付「着御訴」とは別に提出。(印)慶応三年六月五日付「上」(「問屋」四)。(Ⅱ)慶応三年六月七Ⅲ付「上」(「問屋」四)。(田)慶応三年六月五Ⅱ付「上」(「問屋」四)。(他)慶応三年六月五日付「上」(「問屋」四)。(岡)「文久元酉年御勘定奉行方掛合御鷹餌鳥焼印札之儀一一付調」(「問屋」二)。この史料からは、「札親与唱重立候者」の一人であった平五郎が、その在地において「御本丸
鷹場制度終焉と鳥猟鑑札制度(安田) 御鷹御用餌鳥武州傍示堂組仲会所平五郎」として活動していたらしいことがわかる。(M)「文久元酉年御勘定奉行方掛合御鷹餌鳥焼印札之儀一一付調」(「問屋」二)。(価)「餌鳥焼印札真偽御掛合之趣取調申上候書付」(「問屋」一一)○(閃)「餌烏焼印札真偽御掛合之趣取調申上候書付」(「問屋」||)o(印)「問屋」二。(冊)「以書付奉申上候」(「問屋」四)。(的)「着御訴」(「問屋」四)。(、)慶応三年八月一一一日付「上」(「問屋」四)。なお、金丘(術については、前掲拙稿「幕末期における餌鳥請負人の動向と「冥加」の実態」において考察している。(Ⅶ)慶応三年八月一一一日付「上」(「問屋」四)。(Ⅶ)慶応三年八月一二日付「上」(「問屋」四)。(門)慶応三年八月一一一日付「上」(「問屋」四)。(N)慶応三年八月一七日付「上」(「問屋」四)。(市)慶応三年八月一七日付「上」(「問屋」四)。(冊)「問屋」二。(両)「上御鷹餌鳥請負人共差出候書付」(「問屋」二)。(耐)「上御鷹餌鳥請負人共差出候書付」(「問屋」二)。(門)「餌鳥受負人江口達」(「問屋」二)。(Ⅱ)慶応三年八月一七日付「上」(「問屋」四)。
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