キリスト教のコモン‑ウェルス : ホッブズの『リヴ ァイアサン』と現代
著者 小野 修
雑誌名 同志社法學
巻 59
号 2
ページ 127‑160
発行年 2007‑07‑31
権利 同志社法學會
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011187
キリスト教のコモン―ウェルス一二七同志社法学 五九巻二号
キリスト教のコモン ― ウェルス
―ホッブズの『リヴァイアサン』と現代
小 野 修
(六九七)
1 戦争の時代とホッブズ
一九九一年、ソ連が崩壊した日、筆者はそのことも知らぬままモスクワに到着した。十二月も暮れに近く、羽田空港を離陸したエアロフロートの機上から凍土のような地上の起伏がどこまでも続くのが見えた。
モスクワの北のシェレメチェヴオ空港に着地したあと、乗客はしばらく機内で待たされたあと、空港ビル近くの格納庫の前で降ろされた。ビルの電灯の乏しい光の下で乗客はひとかたまりになって検問所のようなところに連れて行か
れ、そこでパスポートと引き替えに、ベニア板の切れ端のような札を渡された。モスクワには何度も来たことのある私
は当然不満を憶えて抗議し、しかるべき受けとり書類を渡すよう求めたが無視された。行列の人々の多数は欧米人でそう心配することはない、という目で私をみながら先に進み、すぐその先に停車している大型コーチに乗り込んで行った。
キリスト教のコモン―ウェルス一二八同志社法学 五九巻二号
私は同行の二人といぶかしい気持のまま風呂屋の下足箱の札のようなものを握りしめて車内に入った。車は五十人ほ
どの客をのせて発車し、モスクワの北の労働者街の荒廃し切って淋しい高層アパートの並ぶ地区を抜けて郊外に出た。しばらく冬景色の中を走ってから青少年研修センターといった雰囲気のところで全員を降ろした。冷え冷えとした玄関
ホールで部屋割りがきめられ、日本から来た我々には固いベッドが三つ並ぶ小部屋があてがわれた。その夜、毛布一枚で、暖房も殆んど利かない部屋で眠れぬ一夜を過した。機内食らしい軽食が配られたがお茶も出なかった。夜中、私は
玄関ホールの辺りに出てみると、受付とみられる小部屋で自由に振るまわれたウォトカらしきものに酔って喋り合っている人も見られた。しかし、いったい何があったのか何一つ教えられずに夜が明けて、再び前夜乗った大型コーチに乗
り、今度は空港にビルに入った。ビル内は停電していて、いつもは賑わっている免税店は皆閉店だった。 私たちはモスクワで乗り替えるヨルダン行きのゲイトに行き、旅券を取り戻しやっと人心地がついた。私たちはバグ
ダッドの小児科病院に医療用の抗生物質を大量に運び込む使命を担って、経費も安く済むソ連経由の旅程を組んだのだった。
東京を発つ前、イラクの大使館に何度目かの訪問をして大使に会ってバグダッドの現状を尋ねた。その年の春、アメリカの巡航ミサイルがバグダッドの夜の闇を切り裂くように飛び交って次々に街を破壊する様子はCNNの実況放送を
見た私たちの脳裡を離れなかった。その光景を見て間もなく私たちはイラクの無辜の子供たちを救うために自分たちで出来ることをする決心を固め大使に会いに行った。
私たちはそれに先立つ十年前、一九七九年のベトナム軍によるカンボジア侵攻の直後に、京都で急遽立ち上げたNGOを通じて、タイ国境のカンボジアの三派連合政府支配下の難民村で暮す人々の支援をはじめて十年の経験を積んでい
た。ベトナム軍がカンボジアを撤退した一九九〇年後は、当時世界最貧国の一つと云われたベトナムの支援に集中した。 (六九八)
キリスト教のコモン―ウェルス一二九同志社法学 五九巻二号 その頃ベトナム南部の水郷地帯は大洪水による壊滅的状況にあり、我々は学校や教育施設の復興に力をいれている最中でもあった。私共はアメリカと(日本を除く)多国籍軍の勝利に沸く頃、五百万円の寄付を集め、バグダッドの小児科
病院に送る抗生物質の医薬品を購入し、十個ばかりの大型ダンボールに詰めてアンマンに送っていた。 モスクワを離陸した便はアンマンに向う最後の便で、それは私たちが成田を発った最後のモスクワ行きのソ連の便で
あったのと同じで、そのあと便の再開まで、しばらくは運行は中止されていた。アンマンからどのようにしてバグダッドに入るのか、それが問題であった。バグダッドへは空港機便はない。車で砂漠を横断するしかなかった。しかし、医
薬品を山と積んだ車をどうやって無事にバグダッドに送り込めるのか、税関をどうパスするのか。医薬品はイラクへの禁輸措置の対象であった。数日が空しく過ぎ、アンマンでクリスマスを祝う行事にも招かれた。我々は赤新月社を訪れ
て特別許可を願い出た。係官は﹁総裁は今帰られたところです﹂という。私は車寄せから大型の乗用車がゆっくり発進するのを目撃し、門の前で道路に出ようと一旦停止したところにとび出して両手をひろげて車を止めた。
私たちはこの総裁の指図で特別許可証をもらい、その夜、アメリカ製のランドクルーザーをやとって徹夜で砂漠を越えた。真夜中、運転手は二時間の仮眠をとりたいと云うのでOKした。私が車の外に用を足しに出ると仔牛ほどもある
野犬がこちらを伺っていた。バグダッドへ入る橋は爆破されていて、その近くに仮設の橋が危かしく架けられていた。
朝早く、私たちは小児科病院に到着した。院内を見学し、患者の子供たちにも会い、我々の運んだ医薬品がどう使われるかの説明もうけた。そのあと、バグダッドの街の様子を車で見て廻った。ユーフラテス河にかかる大橋が真中辺でV
字型に折れ曲っていた。河沿いの浄水場がいくつも破壊されていた。河沿いのレストラン街はさびれて人影もなく、官庁街に入ると高層の庁舎のほとんどは立ってはいるがすべての窓は内部から噴出した爆発エネルギーでこわれていて、
シェイドや照明器具が夥しく窓枠に垂れ下り、化物のトウモロコシの実の様子で真青な空を背景に無残な姿で立ってい
(六九九)
キリスト教のコモン―ウェルス一三〇同志社法学 五九巻二号
た。カメラを向けると警備員が﹁とるな、撮影禁止だ﹂と走ってきた。国際ニュースで有名になった待避壕のあるアマ
ーリア地区に入るとキリスト教教会とユダヤ教のシナゴーグが隣り合わせのブロックに並び、どういうわけか、この辺りは神戸や広島の焼趾のようにすべてが破壊され、あたりは瓦礫の山ばかりであった。アマーリアの待避壕に避難した
住民がここで数百人爆撃で死去した。厚さ数メートルの掩蔽を貫通した特殊な弾頭を備えた巡航ミサイルはプログラム通りに目的物を破壊した。その弾頭があけた直径三メートルほどの穴は何重にも重なる鋼鉄製の棒の網が飴のように曲
り、その向うに碧い空が見えた。狂った女の人が大声で叫びながらこの地下室の壁をたたき、また叫んでは壁の前に崩れるように坐って泣いていた。爆撃があってから半年近く経っているのに、この地下室のはしに設けられた祭壇には供
花があふれていた。 私たちは官庁の高層ビルで唯一爆撃を免れた高層ビルの外務省を訪れた。建物は無傷で広々としたエレベーターホー
ルの高層部分の窓から見おろすバグダッドの町は静かに煙っていた。永遠の過去からこの地に存在したバビロンとともにメソポタミヤ文明の華とも云われるこの世界最古の都にとって戦争と平和とはいったいどういう意味を持つのか、そ
こに住む人々にとっての幸福の未来とは何か―一瞬の想いのうちに筆者の脳裡に浮かんだのは、トマス・ホッブズの次の言葉であった。戦争の時代の帰結として生ずる状態においては、とホッブズは続ける
勤労のための余地はない。なぜなら勤労の果実が確実ではないからであって、したがって土地の耕作はない。航
海も、海路で輸入される諸財貨の使用もなく、便利な建築もなく、移動の道具およびおおくの力を必要とするものを動かす道具もなく、地表についての知識についての知識もなく、時間の計算もなく、学芸もなく文字もなくそし
てもっともわるいことに、継続的な恐怖と暴力による死の危険があり、そのため人間の生活は、孤独でまずしく、 (七〇〇)
キリスト教のコモン―ウェルス一三一同志社法学 五九巻二号 つらく、残忍でみじかい。(『リヴァイアサン』第十三章)
二〇〇三年に米軍首動による第二次イラク進攻以来、イラクの国内難民は三年余の現在、すでに二二〇万人、シリアに逃れたもの八〇万人、ヨルダンに逃れたもの七〇万人、その他エジプト、イラン、レバノンに逃れた数を合わせると
二〇万に達する。米軍の死者の数は二〇〇六年の終りまでに三千人を越え、アメリカの与論は徐々に撤退を求める声を昂めつつある。
イラクの首都バグダッドの連日のテロ発生のニュースはその現場のむごたらしい状況や病院に運び込まれる一般市民負傷者の映像とともに日常化している。バグダッドでは一日平均三百五〇人がテロで死亡、イラクからは月平均一〇万
人が国外に避難していると報ぜられている。バグダッドにはかって、サダム・フセインの時代、東京の神田に匹敵する三百軒の書店が軒をつらねていたが、今はかろうじて一軒が無人の本屋街で店をあけているに過ぎないという。米軍に
対するテロ行為から、人口的に多数派で選挙で優位を占めたシーア派にたいする旧支配層のスンニ派によるテロ、それに対する仕返し、この内戦状態に移りつつあるイラクの国民に、どのような未来が待ちかまえているのであろうか。
古代ギリシャ、ローマの古典古代から、ルネサンス、近世を経て現代に至る数々の戦争の時代を描いた数々の古典の中で、東洋史は除くとして、現在の中東の状況までを把握する手だてとなる名作は多いとは云えない。しかし、解答は
意外にも最も古い時代に用意されていることにやがて気付くことになる。ホメロス、ツキジデス、ヘロドトス、そしてプラトン、アリストテレスの作品が浮かぶ。これらはすべて古代ギリシャの時代のものである。これと並んで旧約と新
約聖書、さらに、ムハンマドの『コーラン』が考えられる。
(七〇一)
キリスト教のコモン―ウェルス一三二同志社法学 五九巻二号
これらを総合的に一括しながら、科学と宗教の葛藤と市民社会の誕生の苦しみを説いてくれる政治哲学者はいないも
のか。それはマキャヴェリではないし、J・J・ルソーやJ・ロックでもない。 それはトマス・ホッブズ(一五八八―一六七九)である。ホッブズの最初の出版物はツキジデスの『ペロポネソス戦
争史』(一六二八年)の英訳であった。ホッブズはギリシャ語に堪能で、最晩年に著書が発禁の憂き目にあったとき、彼は八十一才でホメロスの『オデッセイ』を、更にその七年後に『イリアッド』を完訳している。
ホッブズの畢生の大作『リヴァイアサン』(一六五一年)は、後年、彼自身の手でラテン語に訳出された。まだ、英語よりラテン語の方が国際的に通じる時代であった為と思われる。『リヴァイアサン』は邦訳も三種類出版された。本
稿では読み易く携帯に便利な水田洋訳の岩波文庫版を用いることにする。
2 政治哲学者の誕生
ホッブズがなぜ国家や法の理論に関心を持つようになったかという基本的な問いについては、ホッブズが伝記作家ジ
ョン・オーブリに語った自分自身の誕生の背景などから伺い知ることができる。 ホッブズは一五八八年四月五日の聖金曜日の朝、ウェストポートに近いマームズベリの牧師トマス・ホッブズの長男
として生まれた。その朝、母親はスペインの無敵艦隊が英国本土に攻め上って来つつあるという現実を考え、上陸となれば国中はどのような混 カタストロフィ乱になるかを恐怖のうちに想像するうちに産気に満ちて双児を生み落した。﹁私と恐怖の双子
である﹂Twin at once, both Me and Fear とホッブズは自伝の詩文に書きのこしている。 ホッブズは父親の洗礼名、トマスを受けついだ。この洗礼名こそはホッブズを歴史的大思想家にするにふさわしいと (七〇二)
キリスト教のコモン―ウェルス一三三同志社法学 五九巻二号 思われる。筆者が想起しうる限りでも、トマスの名を持つ歴史上の思想家として、トマス・アクィナス(神学者)トマス・ア・ケムピス(神秘家)、トマス・ベケット(カンタベリ大司教・聖者)トマス・モア(人文学者・聖者)などの
ほかに、アメリカ独立革命の父トマス・ジェファソン、トマス・カーライル(歴史家)と限りがない。トマスはキリストの十二使徒の一人で理性的で実証的な典型的だった人物の名である。この使徒にまつわる逸話はヨハネによる福音書
にある。 トマスは自分が一緒にいないときに墓から甦ったイエスが弟子たちの前に現われたという話をきいて、﹁私は、その
手に釘あとを見、私の指をその釘あとにさし入れ、また、私の手をそのわきにさし入れてみなければ決して信じない﹂と云い張った。
八日後、トマスがイエスの弟子たちと戸を閉め切った家の中にいたとき、イエスが皆の中にあらわれ﹁皆、無事ですか﹂と云われたあとトマスに﹁あなたの指をここにのせて、私の両手を見てごらん。それから手をのばして私の脇にさ
し入れてみなさい。疑うのをやめて信じなさい﹂トマスは﹁わが主、わが神﹂と答えて言った。イエスは彼に言われた。﹁あなたは私を見たから信じたのか。私を見なくても信じられる人はどんなに幸わせか﹂(ヨハネ二〇― 二四― 二九)
ホッブズが少年期から自分の洗礼名をどこまで意識して育ったかは別として、平凡な田舎牧師の父親の生涯とは全く
異なる輝かしい歴史的人物になる道が彼の前に次々に用意されると、ホッブズ自身は楽々と上層階級の集団に融けこみ、時代の変遷のまま社会的頂点にまで浮上して行った。彼の叔父のフランシスは手袋業を営む裕福な人であったが子
供がなかったので、すでに秀才のほまれのある甥のトマスをオックスフォードのモードリン・カレジに入寮させた。ホッブズは少年の頃に秀才ばかりが数人通ったウェストポートの私塾の若い先生に認められ、夜九時頃まで皆と猛勉強を
した。十四才のときにはギリシャのエウリピデスの悲劇『メディア』をラテン語の詩文に全訳するまでになっていた。
(七〇三)
キリスト教のコモン―ウェルス一三四同志社法学 五九巻二号
一六〇三年オックスフォード大学に入学、彼はメランコリックで瞑想的な性格で、人目につかぬところで学課を即座に
暗記してしまう髪の黒い学生であったので学友からはクロウ(からす)と仇名をつけられていた。 一六〇七年オックスフォード大学を卒業する頃、モードリン・ホールの学寮長にすすめられて後の第二代キャヴェン
ディッシュ伯爵となる二才下のウィリアムの小 ペイジ姓、つまり付け人となることをすすめられた。ウィリアムの父はホッブズが秀才であるから必ずや息子の成長に役立つと思ったのだった。ホッブズはこのウィリアムに従って鷹狩りや狩猟に
付いて行き、会計も担当した。そういう生活に入ってラテン語を危く忘れるところだったので、彼はアムステルで出版されたシーザーの言行録の袖珍本などを携えることにして、待ち時間に控えの間で読んだりした。結局、それから二〇
年間ウィリアムに仕え、学友としてまた御用掛りとして充実した年月を過した。その間、彼らは欧州も旅し、近代科学の曙を迎えつつあるイタリアで自然科学と数学の研究の必要に目覚めた。このことが、ホッブズが後に『リヴァイアサ
ン』を人間の感覚と知覚の概念づけの上に科学的推論に基づいて政治と宗教の全体系を緻密に組み上げて行く基礎段階として役立った。
風光明媚のイタリアやフランスを旅し、あるいは滞在しながら、﹁馬上であれ、車中であれ、船中であれ、わが心はつねに己が哲学を真剣に考究しつつあり、実在とは事物とは、何を根拠として、しかじかの事柄に名を付し、内面の幻
想が脳の産物だとしても、見し夢は失せぬ、また光学により造影を繰り返すも可なれば、物理を学びし者は先ず運動こそが根底にありと知る。運動とは何か。運動のなし得ることは何か。物質、運動、これらに私はとり組まねばならぬと、
真剣に考えるうちにイタリアでの時は過ぎ行きたり⋮﹂(自伝詩 The Verse Life)と書いている。 この時期、ホッブズが﹁最も真剣に心中に抱いた﹂(I was most Intent on my philosophy)全領域は『リヴァイアサン』
の第九章の終りに付せられた科学の分類表である。ホッブズはその全体を﹁科学、すなわち諸帰結についての知識、そ (七〇四)
キリスト教のコモン―ウェルス一三五同志社法学 五九巻二号 れは哲学ともよばれる﹂Science, that is knowledge of Consequences: which is called also philosophy と示し、その哲学を、二分している。片方は自然哲学、即ち今日我々が自然科学と呼ぶ領域、もう一方を社会哲学、即ち政治体の惹き
起す帰結の科学の領域とした。 興味深い点は自然科学の諸分野の中に音楽、倫理学、詩学、さらには契約にかんする司法の科学までもを包括して、
今日の大学の研究分野の区分を先取りするかのような大胆な発想が示されていることである。他方、ここには医学ないしは生理学などの名称はなく﹁人間の属性の帰結﹂を扱う学の中に埋め込まれている。歴史学や宗教学の名称も不在な
のは、社会科学である政治学の中に当然包括されているとされていたためと考えられる。 この分類表の次の頁からはじまる第十章は力、即ち Powerという小見出しがついており、『リヴァイアサン』の全構
造の重量はこの章によって支えられていると見られるほどの大胆さと説得性をもって綴られており、この章のみを独立してとり出しても、彼が仕えたフランシス・ベイコンの磨き上げられたエッセイにひけを取らない。
ホッブズはこの第十章のはじめの部分で、﹁ひとが持っている力とは将来得になると思われるものを手に入れるために、その人が持っている手段であり、生 オリジナルれ持ったものと、手 インストルメンタル段として持っているものとがある。﹂
﹁生 ナチュラルまれつきの力とは、身体または精神の諸能力の優越であり、異常な強さ、容姿、慎慮、学芸、雄弁、気前のよさ、
高貴さのようなものである。手段的なというのは、これらによって、あるいは運命によって獲得された力であり、それをさらに獲得するための道具であり手段である。たとえば、財産、評判、友人、人々が幸運とよぶ神のひそやかな働き
がそうである。すなわち、この点での力の性質は、名声に似ていて、進行するにつれて増大するものなのであり、あるいは重い物体の運動に似ていて、それは、進めば進むほどますますはやくなるのだ﹂
これに続く部分に、『リヴァイアサン』の心臓の部分とも云うべき、重要な同意の論理が交響曲の最初のモチーフの
(七〇五)
キリスト教のコモン―ウェルス一三六同志社法学 五九巻二号
ように、さり気なくあらわれる。
﹁人間の力のなかで最大のものは、きわめて多数の人びとの力の合成であって、それは同意によって、自然的または社会的な一人格に合一され、その人格は、かれらのすべての力を、コモンーウェルスの力がそうであるように、かれの
意志にもとづいて使用しうるか、あるいは、一党派の力や連合した諸党派の力がそうであるように、それぞれのものの意志にもとづいて使用しうる。従って、召使をもつのは力であり、友人をもつのも力である。なぜなら彼らは結束した
力だからである﹂(以上訳は岩波版第一巻百五十頁による)
力を政治理論の基本概念とするこの着想は約三百年後のヒトラーとナチズムの台頭期に英国ではバートランド・ラッセルの『権力』POWER, its social study(1938)によって一般的読者を惹きつける脚光を浴びることになった (
。 1)
また、ほぼ同時期にドイツのカール・シュミットにより、﹁ホッブズの政治理論におけるリヴァイアサン﹂Der
Leviathan in der staatslehre des Thomas Hobbes (1938)がハンブルグで公刊された。これは内容的には純然たるホッ
ブズの政治哲学的位置づけとして今日でも充分に説得性を持っており、ナチズム礼讃ではなく、むしろ歴然たるホッブズ礼讃の優れた論文である。この論文の中で、近代刑法学の父とされるアンセルム・フォイエルバッハが有名な﹁心理
強制一般予防説﹂を創唱して、刑法学上の罪刑法定主義を貫徹させたが、これはホッブズの創造した法概念の適用の一事例にすぎない。この定式はその表現に至るまで決定的にホッブズに遡るもので、彼の刑罰概念・犯罪概念はホッブズ
の創造した法概念体系の枠内にある (
。価点るいてえ加を評は応対てし通を後戦で数戦でるいてい抜を群中多の論ズブッホのく前な切適つ 代かに等教宗、史。古んはトッミュシ、深すズ且潔簡に解見のブるッホで識学な甚 2)
これに比してドイツ出身で後に英国経由でアメリカに渡ったレオ・シュトラウスは一九三六年に民主主義論の先駆と (七〇六)
キリスト教のコモン―ウェルス一三七同志社法学 五九巻二号 してホッブズの学説をとらえ、初期のホッブズの政治観に見られる。﹁はじめに民主主義ありき﹂の強い主張が次第に後退して『リヴァイアサン』以降では﹁唯一安定的で、それだけに自然であるのは世襲的君主制である﹂(六三頁)と
いう保守的意見に落着くのを不満としているが、全体としてアメリカの政治学徒好みの綿密な討議がホッブズの主張に伴走するかたちで行われている。そのためホッブズの著作を読まずともこの解説書を読むことでホッブズが充分理解で
きるかのような錯覚を起させるほどである (
。ら面白く、また考えさせれるということは本当である はにかるが。読とは言え、シュトラウスをむ方より、ホッブズの原典を読む 3)
(
( 1ラで。るあがとこたれさ版出訳ッ) 宮東は』力権『のルセ隆
( 2カ』代国家の生成と挫折福、村出版、一九七二年近ンー長ル・シュミット著、尾) 龍一訳『リヴァイアサ
。論がれそ、し出提を文に地学大ドーォフスクッオ当のは出るあで版初たれさ版らクかスレプ・ンドンレラ、者著 and lisub pstfireoGenesis,Its hed, Its HOBBES, of Philosophy Political The , ssauBasis O ShicL5219, ssreo Pagf Cxf, oniv U—,3619d, ortn3())
3 平等から闘争、そして信約への理論
ホッブズが人間を機械のようなものと捕えている点では、デカルトと同じく当時フランスの知識人の間で共通の知識となっていた『人間機械論』(ルメートル)に依拠していたが、やがて常識となって行くこの知識を拡大して国家の生
成にあてはめたところに、デカルトを越える先見の明があったと思われる。デカルトは少年の頃からカトリック系の学
校に寄宿して、その庇護のもとにあり、成年となってからは軍属として生計を立てていたデカルトはすでに欧州一の強権国家であったフランスの国家権威に勝手な解釈を加えることは固く自らに禁じていたと思われる。彼自身は『宇宙論』
(七〇七)
キリスト教のコモン―ウェルス一三八同志社法学 五九巻二号
を書き上げた段階で、ガリレオにたいするローマ教会の異端審問がはじまったのを知ってその出版すら断念している。
他方ホッブズはデカルト同様、ガリレオを訪問もしているが、自らは英国教会の信徒でもあり、デカルトとの数理論上の論争も二人の属するパリの数学サークルからさほど評価されてもおらず、﹁地上最強の被造物リヴァイアサン﹂を一
つの人格に統一された国家、すなはち、コモン・ウェルスに重ね合わせる大胆な着想を怖れずに提示した。 群衆から単なる同 コンセント意や和 コンコード合以上の強い拘束力をもつ強固な結束と真の統一を信 コヴナント約によってつくり出し、それに威信 オウを もたせる共同の権力を与える―これが平和と防衛をもたらすための強さと手段を持った国家という一つの人格、即ち主権者を生み出すのである。
ホッブズは『リヴァイアサン』の第二部第十七章でコモン―ウェルスを次のように定義づけている。
それは﹁ひとつの人格であって、かれの諸行為については、一大群衆がそのなかの各人の相互の信約によって、かれらの各人すべてを、それらの行為の本人としたのであり、それは、この人格が、かれらの平和と共同防衛に好
都合だと考えるところにしたがって、かれらすべての強さと手段を利用するところにしたがって、かれらすべての強さと手段を利用しうるようにするためである﹂。―岩波文庫・水田洋訳
市民一人一人の信約に基いた共同体の意志国家としての権力の基盤を固めるというこの着想は、伝統的勢力を駆逐す
るためにも並はずれた構想として英国のピューリタン革命を担う反王党派議員の間でもてはやされた。 ホッブズの最初の法哲学理論、後に『法学原理』The Elements of Law(1640)として知られる基礎理論にはその基
本理念が明快に示されており、未だ手書き原稿、あるいはその写本のかたちであったが、友人の手から、やがては王党 (七〇八)
キリスト教のコモン―ウェルス一三九同志社法学 五九巻二号 派政府と決定的に対立する革命派の国会議員の中でまわし読みされるようになった。 この時期執筆者自身は、この状況では必ず内乱になると判断して身の安全を求めて四度目のフランスに待避中であっ
た。若い頃のホッブズは二〇代になってはじめて欧州大陸に旅し、フランス等に数年にわたって滞在、科学、哲学、宗教などについての先進的な時代的風潮に触れていた。英国では予想通りピューリタン革命が激化、クロムウェルの指揮
する議会軍がチャールズ一世の王党軍を各地で激破し、チャールズは遂に捕えられ、一時ウェイト島へ逃亡するが、一六四九年の暮に議会派の裁判にかけられて処刑された。英国は建国以来はじめての国王の空位時代を迎えた。長男のチ
ャールズは、亡命中であったフランスで戴冠してチャールズ二世となるが、英国に戻って復位したのは十年後の一六六〇年であった。
フランスに亡命したばかりのチャールズ二世は十才前後で、そのチャールズに数学教師として仕えた(一六四六―七)のは王室から信任の厚いホッブズであった。フランシス・ベーコンの侍従の一人で、ベーコンの覚え書きの作成もして いたが、ホッブズは彼の数学への学問的傾注のはじまりは彼が二度目(一六二九―三〇)に欧州に英国の貴族(クリントン公の息子)の家庭教師兼侍従として旅行したとき、ある屋敷の控えの間としての書斎で待たされたとき、テーブル
の上にたまたま展げてあったユークリッドの『幾何学原理』の第四七を眺めてその解答に疑念を持ち、惹き込まれて解
法を読んで納得したときには、幾何学の虜になっていた、とホッブズの伝記作家オーブリはホッブズ自身から聞いた話として書いている。
ホッブズはその後『リヴァイアサン』の執筆に傾注(一六四七―五〇)、書き上げた段階で、一六五一年ロンドンで出版し、本人はその翌年の一六五二年に密かに帰国していた。フランスでのカトリック派からの危害のおそれより、ク
ロムウェルの支配下での祖国の方が安全と見たのであった。当然、クロムウェルはホッブズを政治的顧問として自派に
(七〇九)
キリスト教のコモン―ウェルス一四〇同志社法学 五九巻二号
取り込もうと図ったが、ホッブズは丁重にことわって隠遁蟄居した (
、行年一五六一じ同たれさ刊の』ンサアイァヴリ。『 2)
クロムウェル派にたいする第一弁護 The first defeuce を出版したジョン・ミルトンは自ら志願してクロムウェルの文書係のラテン語による外交文書の作成にあたった。ミルトンは革命派を積極的に支援且つ参加したのに比べ、ホッブズ はクロムウェルの革命政権を支援する気はないが、事実上の政府(a de facto government)と認めていたと見られる。事実上の政府とは国民の平和と安全を保証する実質的な能力がある限りのクロムウェル体制(つまり、一六四九年のチ
ャールズ一世の処刑以降、一六五三年にクロムウェルが護 ロード・プロテクター国卿の独裁体制をひくまでの四年間のイギリス共和国 the Common wealth of England)を意味する。クロムウェル体制はその後反対派の離返を招き、シェイクスピア劇の上演
すらを禁ずる歌舞音曲不在の陰惨な独裁体制として凋落を重ね、遂にクロムウェル自身がマラリアで急死することで自壊してしまう。王制復古への道はこれで整い、チャールズ二世はロンドンに凱旋した。その行列を宮殿の門前で待ち受
けたホッブズを目ざとく見付けたチャールズは宮殿に伺候するように声をかけた。ホッブズは再び殿中人の仲間となった。
ホッブズは自らの観察を生かして、一六四〇年から六〇年までのクロムウェルの年代記を一六六八年完成し『ビヒモス』Behemoth と題した。地上に比類なき強大な『リヴァイアサン』に比べるとはるかに劣る河馬に似た怪獣の名を表
題とした。しかし、王の求めに応じてその出版を控えた。
4 ホッブズの戦争観と日本
ホッブズが戦争の恐怖によって生み落され、稀に見る戦争の優れた研究家となったことは、彼の生涯にわたる著作活 (七一〇)
キリスト教のコモン―ウェルス一四一同志社法学 五九巻二号 動が『ペロポネソス戦争史』にはじまって、八十才を越えてホメロスの二冊の戦記物の翻訳に至る厖大な著作をのこしたことからも伺いうる。その最も代表的な著作『リヴァイアサン』が全体として、人類はなぜ戦いを続け、至福を求め
ながら、戦乱の悲惨さに泣くのかということを証明しようとしていることは明らかであるのに、彼の契約理論の方が専ら注目を惹いてきたので、あまり知られていない。
ホッブズの戦争観の中心的構造は
1がるあで等平らな れま生は々人。
2のをこ。るなと敵てい抱信平不 い互は々人らか等に 3すたちの安全が必要とる自以上に征服行為を行う分。 をこの相互不信から先手うるとうとして戦争が生ずの
は、守勢にたつだけでは長期に生存できないためと考えるためである。
4感競争心、不信、るそして名誉欲。あ 中人間の本性のにが三つの戦争原因。
)おが態状いなくしかも常てっなに闘戦ついり恒的つ数勢状のクライの年こにこばえ例。(るす在存ま 5争な的常日はでろこといい戦てれさ立確が力権治政に争での る。戦るす対に人各人状各、りまつ。るあに態あ
6り、外出時には武装した、錠旅先で警備の人を同伴し施 いこうしたことを信じなとにいう人も寝るときは扉す
れば、言外に戦闘状態にあることを認めていることになる。(日本では戦前、外出時家に施錠する人は稀であった)
7ち、彼らの王や権力者たはて、すべての時代にたえもし か個々人が戦争状態になっとた時代や地域があったず
互いに嫉妬を抱いて剣闘士のように互いに武器をつきつけ目を注いでいる。 その証拠に国境に行って見れば、要塞や守備兵や鉄砲、隣国にたいするスパイの目が浴がれていて、これが戦
争の姿勢である。(勿論例外もある。ネパールとインドは国境があってなきが状況でヤミ商人からマオイストが
(七一一)
キリスト教のコモン―ウェルス一四二同志社法学 五九巻二号
自由に出入りしている)
でなろこといなが法、くはは法にろこといなが力権に不通戦性徳な要主のつ二の時は正と瞞欺と力武。いなはの 8 、事何はていおに争戦ら不かるあでとこういうこも正。観いなが地余の在存は念ので正不正、邪正。いなは共
ある。ここでは所有権も支配権もなく、各人が手に入れうるものだけが、それも保持している間のみ、自分のものであるにすぎない。
(『リヴァイアサン』第十三章) ホッブズが列挙するこれらの事項は、今日ますます現実味を帯びて我々の国際事情の理解を補足してくれるように思
われる。
ホッブズが三〇代前後で晩年のフランシス・ベイコンに書記として仕えていたころ、英国の海運業界は衰退したスペインにかわってアジアに進出していた。ジェイムズ一世から家康宛に交易を求める書簡が送られてきたのはその頃であ
る。すでに秀吉が南米でのイエズス会の侵略的体質を見破って、宣教師の取締りと処刑、スペインとポルトガル船の打ち払いを行って以来、家康はプロテスタントの英国、オランダとの交易には積極性を示していた。日本での厳格なキリ
スト教徒迫害が行われたのは島原の乱(一六三七―八)で、家光の鎖国令はこの三万五千人のキリシタンの処刑を契機に厳格となり、翌年鎖国体制が完成した。
欧州諸国が先を争ってアジア、アメリカ、アフリカと殖民地獲得競争に狂奔しはじめたその時期に日本は逆に国の門戸を閉ざし、小窓から異邦人を警戒を以って眺めた。秀吉の時代の﹁朝鮮征伐﹂の大いなる痛手で海外侵略の愚行を学
習したにせよ徳川幕府の外国勢力への過度の警戒心は、黒潮にまもられ、人民人口の十分の一が士族という戦闘能力に (七一二)
キリスト教のコモン―ウェルス一四三同志社法学 五九巻二号 守られて二世紀半にわたり外国の侵略を許さなかったが、これによって日本はキリスト教諸国による世界の領土分割競争から完全に遅れをとることになった。
ホッブズの『リヴァイアサン』には﹁戦争に行くときにギリシャの指揮官が自分たちの楯を思い思いの図柄を彩り、ローマ人は家族の標章を伝えたが、それがゲルマン民族を経て英、仏、西、伊などの伝統になったが、アジア、アフリ
カ、アメリカの民族のあいだでは、そういうものは決して存在したことがなかった﹂(『リヴァイアサン』第十章)という断言が残されているが、彼がもし関个原合戦の絵巻を見ることができたら、家紋つきの旗差し物をつけた何千もの武
士をみて驚嘆したであろう。十七世紀当時、日本の総合的軍事力に勝る国は世界中のどこにもないことを、ホッブズのみならず、どこの国も、国民自身すら気付いていなかったのである。日本は戦国時代優れた銃砲刀剣の輸出国ですらあ
ったが、二百数十年の後ペルリ提督が品川沖に鋼鉄艦隊を引き率れて現れたとき、お台場にあった大砲は何と張り幕に描かれただまし絵であった。勿論、このことが日本国民の不名誉であったわけではなく恥でもなかった。考え様によっ
ては、カリフォルニア州よりも小さい国土面積の日本が、やがて強いられた戦争を戦って敗れ、その後焼跡から復興に立ち上り、世界第二の経済大国になったという事実は、その根本的で潜在的な民族的な力量がこの島国の中で鎖国の間
も営々と積み上げられていたからこそ可能であった。いったい日本以外のどこの国が二百五十年も鎖国を続けることが
できるだろうか。鎖国に徹しうること自体が日本民族の実力だったのであるから誇りにすらすべきことである。
ふり返って欧米諸国の歴史を顧みるとき、その大方の国々の歴史は戦争の歴史であった。しかもその戦争のすべてが多かれ少なかれ領土侵略を目標としていた。そこにはオスマン・トルコ軍がウィーンを包囲したときにスレイマン大王
が示した仁慈のあらわれとしての、降伏を待っての長期的な包囲陣と遂には攻城戦のもたらす惨事を避けて撤収したよ
(七一三)
キリスト教のコモン―ウェルス一四四同志社法学 五九巻二号
うな例はあまりない。―これは今もトルコ国民が誇りとして、籠城側が三日月(クロワサン)型にパンを焼いてイス
ラム勢力の旗印を食べて対抗したという逸話を一笑する古事として持ち出す話である。私たちはごく最近起ったコソボやスレブレニツッアで起きた残虐事件を忘れていない。ウィーンからさほど遠くもないところで今も昔ながらの異教徒
間の怨恨がくすぶり続けている。 欧米の歴史を見るとキリスト教団が如何にその古代から現代に至るまで戦争と侵略を続けてきたかという事実に我々
は改めて驚かされる。驚くのは日本人と多分旧殖民地の人々であろう。日本は二〇世紀に入ってから欧米を見習って近隣諸国に出兵したので、すでに世界分割は大筋に終ったものと考えていた欧米諸国に大きな衝撃を与えた。これは分裂
した小共和国のゆるやかな連邦を組んでいたドイツやイタリアが植民地戦争に出遅れて、二〇世紀になってからアフリカや中東に触手をのばし、似たような侵略衝動に駆られてアジアに進出した日本と三国協定を結んで第二次世界大戦に
突入して破れたことの大前提であった。 アジアの植民地宗主国のABCDFなどの食卓テーブルの席は十九世紀にすでにきまっていたが、日本はそこに同席
させてもらえないことを不当として中国、あるいは仏領印度などに進出、石油をはじめとする多くの資源を輸入に頼っていた日本は国際連盟を脱退などを通じて孤立の道を歩み、とりわけ中国侵攻をやめる様に求めるアメリカからの経済
制裁を受けた段階で真珠湾奇襲を行い勝算もない戦争に突入して破れた。軍事的勝敗が道徳規準とは全く無縁のものであることは軍事史を学ぶものには明白であるが、敗戦後日本の指導者は当然のことながら勝者による裁定を受けた。彼
らが敗けるとわかっている戦争に踏み切ったことを咎めることができるのは後世の人間であるにせよ、なお戦うことを選んだのはおそらく日本独特の封建的士道の精神からくるものであって、そこには健 けなげ気さはあっても商人的な打算はな
かった。 (七一四)
キリスト教のコモン―ウェルス一四五同志社法学 五九巻二号 日本が戦って敗れた結果、大東亜共栄圏の諸国のすべてが欧米の植民地化の軛 くびきから解放されて独立した。ホワイト・ハウスのみるアメリカ合衆国史では太平洋戦争は﹁よ グッド・ウォーい戦争﹂であるとされているが、日本もまた大東亜戦争を結果か
らしてみればよい戦争だったとして、日本にみならずアジアの諸国民から評価されてしかるべきなのである。 かつて社会的に身分上の差別があった時代に比べると、今日では世界的に平等意識は一般化し、国際化の日常性は社
会秩序があると見られた欧米の先進諸国においても社会不安の種は流入する何百万という移住労働者の存在と政治的宗教的対立が軍事的対立に発展し、遂には恒常的な戦争状態に落ち込んでいるイラクはもとより、イスラエルの一九四八
年の建国以来延々と続く、隣接パレスチナ、シリア、レバノンとの戦闘体勢の持続、更には二十七年前からの国交断絶状態の続くイランとアメリカの関係も同じである。
二千一年九月十一日にアメリカで起きた同時多発事件は、アメリカの本土の中にイスラミストの敵対的勢力が存在しつづけるという恒常的戦闘状況の心理的強迫観念をアメリカ市民の中に定着させ、それを権力奪取の好機と見た新保守
主義勢力が短期間に中東への軍事進攻の計画をねり上げ、国連の了承をとりつけることもせずに大量破壊兵器の製造保有の疑いをイラクのサダム・フセイン政権に向け、父親のブッシュ政権がやり残したと信ずるサダム・フセイン政権の
打倒に討って出てすでに三年、今日の惨怛たるイラク国民の実情はかつてのベトナム戦争を上まわるものである。米軍
のもたらしたイラク国民への犠牲の大きさはサダム・フセイン時代の規模を越えている。アメリカの憲法は戦時の大統領に議会に優越した指揮権を与えており、現大統領が今日新に二万余の増派をイラクに向わせる要請を覆すことは難し
いとされる。イラクで戦うアメリカの兵士たちは何のために戦っていると自覚しているのか。その中にはグリーン・カード(就業許可証)保持者でアメリカの市民権を得るために応募する若者たちもいる。
このような状況が日本の若者たちには生じていないという最大の理由は日本国憲法九条のためではないし、日米安保
(七一五)
キリスト教のコモン―ウェルス一四六同志社法学 五九巻二号
条約の為でもない。それは日本が過去における海外植民地であった従属国を保有しておらず、日本の海外援助の凡そす
べてが相手国に対する恵沢的な性質をもったものであって軍事的拠点の保持の目的でもなければ、将来の地下資源の収奪の為の先行投資でもないからである。日本が国連分担金の世界第二位の拠出国であることは、日本が安全保障会議の
常任理事国になる為の何らの得策にもなっていない。日本は米国が分担金の支払いを国連決議への不満の表明としてかなりの長期を拒んだりしたことなど批判したことすらない。日本国民は全般として国連に過大なほどの信頼と期待を抱
いて今日まで貢献してきたが、その背景に国連で拒否権を持つ主要国が旧敵国であり、その戦後の日本復興への資金供与への恩義をとりわけ米英にたいして記憶しつづけているからである。
日本の対外戦争や植民地争奪戦の経験の短さから、また日本の地理的に極東の島国であることから、日本本土が地政学的にも侵略の脅威にさらされることが極めて小さいことは、いわゆる﹁平和憲法﹂をこれほど長く改正せずに保持し
つづけられた理由である。その国民が地震などの自然災害は別として、戦争の脅威を自分の身の上に全くと云ってよいほど感じずにすむ世代を次々に生み出して来たのもそのためである。これは喜ぶべきことかもしれないが、戦争の惨禍
に日常的にさらされている中東やアフリカ、あるいは専制的支配下におかれているアジアの辺境の人々などへの同情心を持ち得ずにいる人々を生じさせた。
わが国の物質的には豊かであっても精神的には稚なさすぎる状況が、日本人の傍観的な態度を生み出しており、これはやがては日本の世界的孤立を招きかねないという不安を、戦中派あるいは戦後派の世代の人間に抱かせるのである。 (七一六)
キリスト教のコモン―ウェルス一四七同志社法学 五九巻二号
5 ソ連崩壊後のロシア
本稿の冒頭でソ連崩壊直後のモスクワの空港のことに触れたが、我々がイラクへ医薬品を運んだあと、ヨルダンから
空路モスクワに戻った。日本への帰国便の連絡のため、一日ホテルで待機することになったので、同行の二人のはじめてのモスクワ市内見学に随行した。
大型の観光バスが運行していることも、町の様子も、ヨルダンで知った。ソ連崩壊という事態を全く感じさせないのは不思議に思えた。しかし、観光バスがモスクワ市内に入り、赤の広場に近づいたとき、ガイドがマイクをとって立ち
上り、﹁皆様、右手の緑の大きな建物をご覧下さい。元ソ連共産党本部でございます。現在、活動を停止させられているため、閉鎖されております﹂と言った。私は一応成程と思ったが、レーニンによる建国以来、これまで七〇年も続い
てきたこの組織が活動を停止させられたのが信じられない気持で、その近辺に全く人通りがない様子に改めて注目した。 観光バスはクレムリン宮殿の前で止まり、乗客はいつものきめられたコースで庭園や聖堂などに案内されたが、以前
のような物々しい警備もなく、立止ったり、カメラを向けたり、石段に腰をおろしたりする人をきびしく追い立てるようなこともなかった。帰りバスは形通りのように小じんまりしたみやげ物店の前に停った。客はバスから降りた観光客
だけで、売り子はいつになく親切で、すべての値札が店じまいのため破格に値下げされていた。『ソ連の社会主義芸術』という大型豪華本が窓ぎわにあって、それには十分の一の値段がついていたので荷物にはなるがすぐ買い求めた。
ソ連はこの一九九一年の年末に崩壊したが、それまでに、ロシアを代表するエルツィンがベラルーシュ、ウクライナ
の三国代表とひそかに協定を結んで独立国家共同体 Common-wealth of the Iudependent Nationsをつくって、ゴルバチョフ大統領の辞任した場合のソ連の崩壊にそなえて準備を整えつつあったことを私たちは後になって知ることになる。
(七一七)
キリスト教のコモン―ウェルス一四八同志社法学 五九巻二号
ホッブズが法の実効的支配の確立保持こそが国家存立の平和的条件であるとした正にその事態が教科書通りロシアの
首都で目立たずに進行していたのである。軍隊、警察、諜報組織がエルツィンの首相府に完全に掌握されて治安が守られた上でいて、唯一の政党であったソヴィエト共産党の活動が停止されていた。この段階では、そのあとしばらくして
起ったロシア立法府庁舎のホワイト・ハウスを占拠した共産党分派の反乱など、エルツィン首相の命令で繰り出した一台の戦車の砲撃の前にあえなく潰滅してしまう寸劇的事件でしかなかった。しかも、この様子はメディアによってレア
ルタイムで放送され、世界中の主だったニュース・ソースから流れ、陣頭指揮をとるエルツィン首相の一挙一動がはるか日本の一般家庭のTVにまで中継で映し出された。
﹁力があるという評判は力である。なぜなら、それは保護を必要とする人びとの帰依をひきよせるからである﹂とホッブズは『リヴァイアサン』第六章に書いている。﹁すでに力をもっている人びとの、愛想のよさは、力の増大である。
なぜなら、それは愛をえるからである﹂ エルツィンがゴルバチョフにはないユーモアと愛すべき要素をも備えていたということも、彼の人気の秘密であっ
た。エルツィンが破綻寸前のロシアの政治体制を建て直すために、自分の後継者にウラジミル・プーチンというKGB出身の小柄で秀才の柔道家を選ぶ﹁慎慮﹂prudenceも有していたことは、その後のプーチン首相がロシアを立て直し
たことで示される。 慎慮とはとはホッブズによると、﹁ある人が、当面の企図をもっていて、多数のものごとを見わたして、それらがど
の企画にどう役立つかを判断する仕方が多くの経験と記憶に依存していてありきたりのものとは大差があるとき、それを慎慮とよぶ(前出第八章)﹂と書いている。政治は結果が大切であり、エルツィンがソ連共産党モスクワ支部長であ
った時代、モスクワ近郊にあった建築史上の逸品とされた木造の教会を爆破したことを咎める意見があったにせよ、ソ (七一八)
キリスト教のコモン―ウェルス一四九同志社法学 五九巻二号 ルジェニーツィンの糾弾したソ連のスターリニズムの所産である『収容所列島』を破綻させ、ソヴィエト共産主義による一党独裁にかわって西欧並みに近い選挙を行うためにかつての仮想敵国アメリカから多数の民主制選挙の専門家と夥
しいサポーターを招いて行うなど、冒険とも曲芸とも言える大転換を通じて亡国の憂き目を救ったのは彼の偉大な功績と云うべきであろう。当時、ソ連が各地に保有していた核兵器の数は相当なものであり、原子力潜水艦の配備にしても
緊急体制に備えたものであり、モスクワ政府の信頼性がワシントン政府に充分納得できるものでなければ事態は最悪の緊張を惹き起す可能性があった。アメリカからは黒海の保養地に飛んだベイカー国務長官がソ連の解体を事前に知らさ
れており、エルツィン首相はワシントンのホワイト・ハウスのブッシュ大統領(父)を電話で呼び出して事情を伝え、了承をとりつけて万全を期したのは核大国の指導的位置にふさわしい人物の慎慮ある判断であった。
6 イエス受洗の地で
一九九〇年代の半ば筆者の属するNGOはヨルダンのある大型NGOに招かれて国内の貧村の復興を求められた。NICCOがバクダッドの小児病院支援を行ったこと、大洪水後のメコンデルタの寒村の学校復旧計画の成功でヴェトナ
ム教育省からは金賞を授けられた評価が昂っていた時期であった。我々はこの時期新たに中部ベトナムに近い山村の少数民族の部落への学校と保健所建設と、それに更に近接する数百ヘクタールの原生林の無差別乱伐をやめさせ、野焼き
の伝統に代わる永続型有機農法(Permacnlture)を広めるプロジェクトを進行させつつあった。
ヨルダンで我々が乾燥型気候に応じた新たな試みに踏み出したのはこの頃であった。湾岸戦争の際、サダム・フセインに与したヨルダン国民は戦後当然のように国際的制裁を受けた。クウェートで働いていたパレスチナ系労働者がヨル
(七一九)
キリスト教のコモン―ウェルス一五〇同志社法学 五九巻二号
ダンに流入し、ヨルダン国民の人口比率の半分以上をパレスチナ人が占める状況に更に約百万のパレスチナ人を背負い
込むことになっていた。ヨルダンのフセイン国王はかねてから柔道家でもあり、親日派として知られていたが、パレスチナ人によるテロの国内問題で痛手を負わされてから、パレスチナ人の同化策を採用、イスラエルにたいしてはエジプ
トと共に友好関係を結んでいた。 私たちが復興策の実行にとりあげたのは死海の東岸の辺境の寒村で、一九六七年の第三次中東戦争の際にはそのあた
りまでイスラエルの水陸両用戦車が対岸から進攻してきたということだった。私たちの貧農支援プロジェクトが成功しはじめると、評判を聞きつけた欧米のNGOが陸続とそれぞれの救援の旗をかかげてつめかけたので、村は一種のブー
ムタウンに変りはじめた。私たちは数年後更に貧困な地域を選んで北上した。 私たちは次に、地球上で最も低い海抜マイナス五百米あまりの、死海の北、ヨルダン河のほとりの土地を選んだ。こ
こは第三次中東戦争(一九六七年)当時、戦火を怖れて避難してきた数十万人のパレスチナ難民のためのキャンプ・サイトとなったところである。長らく政府の接収地域に指定され、放置されていた広大な土地からどこかを選ぶことにな
った。接収が解除されることになり、本来の土地所有者に返還される時期に情報を得た。約四ヘクタールの全くの平坦地を農地化する提案である。現場を見て驚かぬ人はいなかった。見渡す限り硬い赤土でぬり固めたような土地は、大型
輸送機の離着陸につかわれたものと思われ、立木ひとつなく、羊の骸骨がころがっていた。指定の土地の周辺は羊の放牧地とにわかづくりの茄子畑があるだけで、ヨルダン河の流れる西の方角にはエルサレムに続く高い山々とラマラ周辺
の町、北西にはエリコ(ジェリコ)の城塞跡の三角の山々が並んでいた。ふり返って東の方角を見ると、予言者モーセが頂に立って従者たちに﹁あれが約束の土地である﹂と西の山の方角のカナンの土地を指し示したという曰く付きのネ
ボ山が見えた。そこまで最短距離で数キロであったが、当時西側の登山道はヨルダンの軍用地で立入禁止であった。 (七二〇)
キリスト教のコモン―ウェルス一五一同志社法学 五九巻二号 読者は、それがどうしたというのか、と筆者が横道に入るのをいぶかる向きもあるだろうと思う。筆者にしてみれば、このヨルダン河のほとりにプロジェクト現場を設けたこと故にホッブズの政治哲学とキリスト教信仰の関連をより深く 読み解くことができるようになったということで理解を求めたいところである。 私たちのプロジェクト・サイトは、ちょうどヨルダン河の東側のほとりのベタニヤ(ヨハネ一―二八)とよばれてい
たあたりで、ここは﹁ヨハネはらくだの毛で編んだ着物を着て、腰に皮の帯をしめ、イナゴと野蜜を食物としていた﹂(マタイ三―四)荒野がひろがっていたところである。ヨハネはヨルダン河のほとりの全地方に行って、罪のゆるしを得さ
せる悔改めのバプテスマを宣べ伝えた。民衆は救い主を待ち望んでいたので、みな心の中でヨハネのことを、もしかしたらこの人がそれではなかろうかと考えていた。そこでヨハネはみんなに向っていた。
﹁わたしは水でおまえたちにバプテスマを授けるが、わたしより力のあるかたが、おいでになる。わたしには、
そのくつのひもを解く値うちもない。このかたは聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう﹂(ルカ三― 一六)
そのころ、イエスはガリラヤを出てヨルダン川をわたり、ヨハネのところにきてバプテスマを受けようとされた。
ヨハネは﹁わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか﹂と言った。イエスは﹁今は受けさせてもらいたい。こうすることが神のおぼしめしなのだ﹂と言われたので
ヨハネは従った。洗礼を受けるとイエスはすぐ水から上られた。すると天が開き、神の御 み霊 たまが鳩のように下りながらイエスを照し出した。そのとき天から声がして言った。﹁これはわたし自身の息子である。わたしが気に入って いる息子だ﹂(マタイ三章十三―十七)
(七二一)
キリスト教のコモン―ウェルス一五二同志社法学 五九巻二号
いま、そのベタニアでの洗礼の地に簡素な見晴し台が建っていて、その前に最 ファースト初のバプティスト教会跡地の標柱が立
てられている。この見晴し台が建った頃、私たちはすぐ近くで緑化につとめている団体として特別許可を得て古代ローマ時代の出土品なども見せてもらった。見晴し台からヨルダン河に流れ込む広々とした湿原の葦の間に、キリストの洗
礼の頃から毎年新芽を出しながら生きつづけているというオリーヴの古木が見渡せた。ローマから法王ヨハネ・パウロ二世がここを訪れてミサを奉じたのはその後間もない頃であった。
―7 キリスト教のコモンウェルス
英国史を見ると、最初にキリスト教を英国に伝えたのはケルト系のアイルランド人修道僧であったとある。アイルランド人はスコットランドを建国した民族でもあった。シーザーによってガリア、即ちフランスを中心とする西ヨーロッ
パ一帯を支配していたケルト民族が征服されて一部はフランス西部やスペイン、あるいは海峡を越えてブリテン島やアイルランドに逃れて移住した。キリストの使徒たちによって、それまでローマ帝国で広く信仰されてきた多神教にかわ
って、キリスト教が徐々に信者をふやして行った。それは一神教としてのユダヤ教の伝統の上に立ちながら、全く異る信仰体系を持ったものであった。キリスト教は先にエール(つまり今のアイルランド島)にひろがり、ブリテン島には
ローマ軍が三世紀にわたる駐留を解いて帰国してから上流支配層からはじまって徐々に拡った。 ブリテン島に対するノルマンの征服が行われたのは十一世紀で、征服王ウィリアムには北方人種(つまりヴァイキン
グ)の血が流れており、それ故に英国にそれまでの欧州大陸風の伝統に新たな海洋民族的な征服欲のようなものを与え、英国の統一と防衛を固める基礎を築いた。ヘンリー二世はその血筋を引き、英仏海峡をまたいで拡がる英国の領土をロ (七二二)