日本語における文タイプとその成分 : 第十部 文を 語る用語
著者 西田 稔
雑誌名 言語文化
巻 11
号 3
ページ 349‑437
発行年 2009‑01‑20
権利 同志社大学言語文化学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011527
349 日本語における文タイプとその成分―第十部 文を語る用語
日本語における文タイプとその成分 ― 第十部 文を語る用語
西 田 稔
序
たとえば、次の各文において、︵1︶cの﹁私が﹂の使い方には、それを使うべき何か特別な文脈がないかぎり、
あるいは、ある種の文体、たとえば小説の文体に属しているのでなければ、一般に奇異な感じが伴うだろう。また、︵2︶
aの﹁言っている﹂では、文脈として与えられているのでないかぎり、誰が言っているのか分からない。︵2︶a・
bのように、言っているのが﹁マスコミ﹂であるとすると、﹁マスコミは﹂も﹁マスコミが﹂も適切に文中に収まっ
ている。ただ、その際、そこでの﹁は/が﹂の使い分けが問題となるだろう。
︵1︶ a 今の政治はどこか変だと思う。b 今の政治はどこか変だと私は思う。
﹁言語文化﹂
11―3.
349― 437ページ 二〇〇九年. .
同志社大学言語文化学会
©西田 稔
西 田 稔 350
c 今の政治はどこか変だと私が思う。
︵2︶ a 今の政治はどこか変だと言っている。b 今の政治はどこか変だとマスコミは言っている。c 今の政治はどこか変だとマスコミが言っている。
このような文において、﹁は/が﹂が適切に使われているか、あるいはどのように使い分けられているかについて
語るためには、問題となる成分が文法用語でもって捉えられている必要がある。これまでも、名詞+﹁が﹂について
は﹁主語﹂﹁主格補語・主格﹂の用語が、また、名詞+﹁は﹂については﹁主語﹂﹁主題・題目﹂の用語が使われてき
ている。ところで、これらの用語はどこまで維持できるだろうか。たとえば、太郎がパンを食べ、花子がケーキを食
べる、という状況設定のもとで、
︵3︶ パンが太郎で、ケーキは花子だ。
と言うことができる。ここでは少なくとも﹁パンが﹂について﹁主格補語・主格﹂の用語は適さないように思われる。
また、
︵4︶ リンゴは花子が皮をむいた。
のような文では、﹁リンゴは﹂について、たしかに﹁主題・題目﹂の用語が使えそうである。しかし、例文︵1︶b
の﹁私は思う﹂、︵2︶bの﹁マスコミは言っている﹂の﹁私は・マスコミは﹂ついてもその用語を適用することは適
切だろうか。
本論﹁日本語における文タイプとその成分 (1)﹂のこの第十部は、まず、日本語文法の試金石とも言うべき﹁は/が﹂
351 日本語における文タイプとその成分―第十部 文を語る用語
の使い分けの問題を軸にしながら、日本語の文について、どのような用語のもとにどのような考え方にもとづいて語
るべきかについて検討する。そして、文について語るために必要となる﹁用言・体言・述語・述部・補語﹂などの用
語を統語カテゴリーとしてどのように位置づけていくかについて考えていく。
第一節 自立項と補語
本節では、文の構成要素のうちで︿体言+﹁は/が﹂﹀の構成をもつ成分について語るための用語の検討を行う。
︵一︶ まず、﹁序﹂でも掲げた次の二つの文を取り上げてみよう。
︵1︶ a 今の政治はどこか変だとマスコミは言っている。b 今の政治はどこか変だとマスコミが言っている。
例文︵1︶のa/bでは﹁マスコミは/マスコミが言っている﹂の﹁は/が﹂が適切に使われている。そこでは﹁は/
が﹂の使い分けの問題が関わってくるが、その点を除くと、名詞﹁マスコミ﹂と動詞﹁言っている﹂の間に︿主体―活動﹀という意味的な関係を見ることができる。それで、︿名詞+﹁は/が﹂﹀の名詞の意味的役割を示すために、少
なくとも「主体」の用語を使うことはできるだろう。
︵二︶ ところで、意味的役割として、一般に用言で示される行為・状態・現象などの主体を担う成分を「主語」と言
西 田 稔 352 えばどうなるだろう。英文法をはじめ、その影響下にある国文法でも﹁主語﹂の用語が使われ (2)、私たちはそれに馴染
んでいるために、日本語について説明する際にもそれを使うのが実際的に便利である機会はある。しかし、三上章の
﹁主語廃止論﹂以来、日本語の構文の記述に﹁主語﹂の用語を適用することの是非が議論を生んでいることもよく知
られている。たとえば、次の例文では名詞+﹁は﹂の方が主語か、名詞+﹁が﹂の方か、あるいはその双方かという
ことが問題になる︵例文はいずれも三上章﹃象は鼻が長い﹄から引用している (3)。ただし原文はカタカナ書きである︶。
︵2︶ 象は鼻が長い。
︵3︶ この本は父が買ってくれた。
︵4︶ 秋は、いろんな行事が続きます。
仮に﹁主語﹂という用語を使うとしよう。その場合に︵2︶~︵4︶の各文における主語はどれかという問題が生
じるが、答は﹁述語﹂の方をどのように理解するかで違ってくる。述語を活動・現象・関係などを表す用言に限定す
るなら、﹁鼻/父/行事﹂が主語となる。また、述語を﹁鼻が長い/父が買ってくれた/いろんな行事が続きます﹂
となっている述部の全体であると理解すると﹁象/この本/秋﹂が、あるいは﹁象/この本/秋﹂も、主語である。
︵三︶ 例文︵2︶~︵4︶のようなタイプの文について語る時、﹁主語﹂の用語の適用に関して次の二つの立場が対
立する。①︿名詞+﹁は/が﹂﹀の名詞に統一的な﹁主語﹂を認める。言い換えると、﹁二重主語﹂を認める。②︿名
詞+﹁が﹂﹀の名詞を﹁主語﹂または﹁主格﹂または﹁主格補語﹂と呼び、︿名詞+﹁は﹂﹀の名詞を﹁主題﹂または﹁題
目﹂と呼ぶ (4)。
︵四︶ もともと西欧の伝統では﹁主語﹂の語は論理的命題における﹁主辞/賓辞﹂の関係、それを言い表す文の﹁主
353 日本語における文タイプとその成分―第十部 文を語る用語
語/述語﹂の関係に由来する考え方のもとで使われてきた。それに対して﹁主題﹂の用語は、情報理論に属する﹁テー
マ theme/レーマ rheme﹂の﹁テーマ﹂、あるいは﹁話題 topic/評言 comment﹂の﹁話題﹂に対応している。言い換
えると、主述関係と題述関係は異なる観点でもって文の成分間の関係を捉えている。
︵五︶ ﹁主語・主格補語・主格・主題・題目﹂の中で、︿体言+﹁が﹂﹀の連辞を主格補語と呼ぶことには、それが用
言の補語として、用言を核とする用言句を構成する要素として語られるかぎりにおいては、問題がないだろう。たと
えば、
︵5︶ 今の政治はどこか変だとマスコミが言っている︵こと︶
という句表現では﹁マスコミが﹂は用言﹁言っている (5)﹂の主格補語となる。また、この主格補語となっている体言が
意味的に、﹁言っている﹂という活動あるいは状態の主体を表しているという点にも問題はないだろう。例文︵2︶
~︵4︶の﹁鼻が/父が/いろんな行事が﹂が﹁長い/買ってくれた/続きます﹂という用言に対してもっている関
係についても同じことが言える。一般に︿体言+格助詞+用言﹀の構成に見られる補語は格補語と言える。さらに、
格補語以外にも補語が設定できるなら、それらすべての補語を連用補語として位置づけることもできる。それで、体
言+「が」+用言の構成における︿体言+﹁が﹂﹀の連辞を、連用補語↓格補語↓主格補語の順で細分化される「補語」
という統語カテゴリーのもとで語ることが可能である。
︵六︶ たとえば、
︵6︶ a 太郎は煙草は吸わない。b 太郎が煙草を吸わない!
西 田 稔 354
のような、述語が用言である単純な文では、﹁は/が﹂の使い分け、あるいは﹁は/を﹂の使い分けの問題を離れて、
まずそれらの体言の意味的役割を捉えることが重要である。ここでの例で言うと、﹁太郎﹂はa・bいずれの文にお
いても﹁吸わない﹂という行為の主体であり、﹁煙草﹂は同じく対象である。
︵七︶ 例文︵6︶bの﹁太郎が﹂と﹁煙草を﹂に関しては、それらを形態=機能的に主格補語/対格補語と呼ぶこと
と、意味=機能的に﹁太郎/煙草﹂を主体/対象として捉えることは連動している。ところが、﹁は﹂を使う場合に
は事情が異なってくる。︵6︶aの﹁太郎は/煙草は﹂では、﹁は﹂自体は主体/対象という意味的役割の指定に全く
無縁である。そして、その観点からすると、この文は﹁太郎―煙草―吸わない﹂と単語を並べたのと変わるところが ない。しかし、そうであっても、︵6︶aのような単純な構成をもつ文においては﹁太郎―煙草―吸わない﹂と続く 単語間の関係から、意味的に︿主体―対象―活動﹀という要素が並んでいると明言することができる。このような場
合、︿体言+﹁は﹂﹀の体言の意味的役割の決定を、単語間での連携的解釈による決定と呼ぼう。
︵八︶ 例文︵6︶a・bでは、どちらの文でも、﹁太郎・煙草・吸わない﹂の三つの成分が意味的役割として︿主体
―対象―活動﹀の順で並んでいる。そして、bでは格助詞﹁が・を﹂によってその役割が明示されている。また、a
では単語間の連携的解釈によってそれが決定される。したがって、﹁太郎は・煙草は﹂のような表現においても﹁太郎﹂
を主体として、また、﹁煙草﹂を対象として語ることができる。ただし、連携的解釈は意味にもとづくものであるので、
単純な文においても一義的に決まらないケースに出会う可能性がある。たとえば、
︵7︶ 太郎は次郎も殴った。
という例では﹁太郎が次郎を殴った﹂という読み︵主体―対象―活動︶と、﹁太郎を次郎が殴った﹂という読み
355 日本語における文タイプとその成分―第十部 文を語る用語
︵対象―主体―活動︶が可能である。ちなみに、本論では国文法の係助詞と副助詞のうちの﹁は・も﹂だけを枠助詞
と呼び、﹁は・も﹂に特別な品詞的位置づけを与えている。そして、﹁は﹂における連携的解釈に関して述べたことは、
︵7︶の文中の﹁次郎も﹂についても適用できる。それで、﹁も﹂も含めて言うなら、︿体言+枠助詞﹁は/も﹂+述
語用言﹀のような単純な構成のもとで使われていて、連携的解釈により容易に意味的役割を決定できる場合には、「は・
も」を伴う体言についても「主体」と「対象」の用語を積極的に使えばよい。
︵九︶ ここで忘れてはならないのは、連携的解釈によっては捉えられない︿体言+枠助詞﹁は/も﹂﹀はいくらでも
あるということである。たとえば、太郎がパンを食べ、花子がケーキを食べるという文脈のもとで、
︵8︶ パンは太郎で、ケーキは花子だ。
と言えるが、ここで︿主体﹀の語を使うと、それが﹁太郎・花子﹂を指すのか、﹁パン・ケーキ﹂を指すのかが紛ら
わしいくなる。また、
︵9︶ リンゴは花子が皮をむいた。
のように、述部において述語用言が表す活動の︿主体﹀も︿対象﹀も﹁花子・皮﹂によってすでに埋められていて、﹁リ
ンゴ﹂に対しては連携的解釈の余地がなくなっているという場合もある。
︵十︶ このようなケースに対しては、︿体言+格助詞﹀を形態=機能的にまず補語として捉えたように、〈体言+枠助
詞「は/も」〉に対しても、それをまず形態=機能的に捉えておく用語があるとよい。それで、そこでの体言を自立
項と呼んでみよう (6)。すると、︵8︶︵9︶の﹁パンは・ケーキは・リンゴは﹂の部分に関しても、とりあえず自立項+
﹁は﹂として語ることができる。
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︵十一︶ ︵三︶の項で述べたように、体言+﹁は/が﹂の扱い方は基本的に、①﹁は/が﹂に統一的な﹁主語﹂の名
称を与える方式と、②﹁は﹂と﹁が﹂に対する名称を分けておく方式に大別できる。ここで、暫定的に前者を﹁統一
システム﹂、後者を﹁分離システム﹂と名づけながら、いくつかの例文の観察を行うとともに、その二つのシステム
による用語の利点・欠点についても考えてみよう。
︵十二︶
︵
。、郎が帰ってきたのでそb ろそろ食事にしよう太 10︶ のa 太郎は帰っているでう、そろそろ食事にしよ。
この二つの文のうち、︵
10ていう情報を与えい﹂るのでないのでとう︶﹂aの文は﹁太郎によついて﹁食事をし、
全体としての題述文ではないことを確認しておこう。ただし、この文は二つの文が﹁ので﹂によって等位的に結ばれ
た重文であるので、﹁太郎は帰っている﹂の部分についてなら題述文と見ることもできる。しかし、︵
10︶a・bの二
つの文を並べてみると、a/bの﹁太郎﹂はいずれも動詞﹁帰っている/帰ってきた﹂が表す状態の︿主体﹀である
と捉える方が理解がしやすい。―統一システムでは右のような議論にかかわりなく、﹁太郎は・太郎が﹂の﹁太郎﹂
は主語である、と言える。これは﹁主語﹂という用語の利点になる。ただし、同じ﹁主語﹂の語を用いているため、
体言+﹁は/が﹂の体言と述語との結びつき方の違いが見えにくくなる。―分離システムでは︵
10︶aの﹁太郎﹂
は主題︵以下、﹁主題・題目﹂の用語は﹁主題﹂で代表させる︶、︵
10︵格主・語主﹁くじ同語︶補格主は﹂郎太﹁のb・ 主格補語﹂は﹁主格補語﹂で代表させる︶である。―しかし、すでに述べたように、︵
10︶a・bの二つの文を並
べてみると、﹁太郎﹂はいずれも主体であると捉える方が理解がしやすい。ただ、構文的要素として語る場合に、意
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味的役割である﹁主体﹂の語をそのまま使うことには問題がある。それで、本稿では、用語の分離システムに組しな
がらも、﹁太郎﹂+﹁は﹂の自立項﹁太郎﹂が意味的に主体である場合、それを主体項と呼んでおこう。また、﹁太郎
が﹂は主格補語なのであるが、この用語は補語の形態を正確に言い表しているものの、意味的役割をそのまま反映し
たものではない。それで、ここで、﹁主格補語﹂の別名として主体補語という用語を導入しておこう。そうすれば、
たとえば︵
10較なり、この二つを比す語る場合に共通点と相と補︶項aの﹁太郎﹂は主体、体bの﹁太郎が﹂は主違
点が見えやすくなる。
︵十三︶
︵
11︶ 象は鼻が長い。
これは三上章の著書によって有名になった文である。この﹁象は鼻が長い。﹂をモデルとするタイプの文を本論で
は特徴文と呼んでいる。特徴文の分析は本稿でも重要な役割を果たすことになる︵第七節︶―統一システムではこ
の文の場合に、単文における﹁二重主語﹂を認めることになる。と言っても、等位に並ぶケースを除くと、同じ主述
関係の主語が二つあり、かつ、ひとつの単文の中で同じひとつの述語と結ばれているということはまず考えられない。
それに、明らかに主述関係で用言﹁長い﹂と結ばれているのは﹁鼻﹂である。しかし、﹁象﹂も主語であるので、ど
ちらが本当の主語か、という議論に巻き込まれないためには、﹁主語﹂の下位的な区別を設けておくか、あるいは説
明として結局﹁主題﹂﹁主格補語﹂のような用語に頼らねばならない。―分離システムでは﹁象﹂は主題、﹁鼻﹂は
主格補語である。
︵十四︶ 特徴文には他にも、
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︵
12︶ この家は周りが庭だ。 のように述部の意味的な主要部が体言になっているものもある。―統一システムでは例文︵
12︶についても主語+
主語+述語の構成を見ることになる。また、分離システムでは主題+主格補語+述語の構成となる。どちらのシステ
ムにせよ、︵
12だも、仮に判定詞﹁﹂うが用言であると主張の言︶﹂の文では﹁名詞述語をと認めねばならない。し (7)
ようとしても、
︵
13︶ この家は周りが庭よ。
のように、活用しない﹁よ・ね・さ・か・かい﹂のような語を使っても文は作れるからである。
︵十五︶
︵
。b いなわ吸は郎太は草煙 14︶ いなわ吸は草煙は郎太a 。 右の二つの文では、連携的解釈により、﹁太郎﹂が主体、﹁煙草﹂が対象である。―統一システムでは﹁太郎﹂が
主語であることは明白だが、﹁煙草﹂に対する構文的要素としての名称はない。したがって、たとえば﹁目的語﹂の
ような用語が必要となってくる。―分離システムでは︵
14﹂﹁のa。るあで題主は草︶煙﹁のbと﹂郎太﹁のa煙
草﹂とbの﹁太郎﹂については、それぞれ主格補語/対格補語が﹁は﹂の対比的用法のもとに置かれていると言うこ
とになるだろう。なお、どちらのシステムでも、bではaからの倒置が行われているという解釈も可能である。―本稿ではaの﹁太郎﹂とbの﹁太郎﹂に関して、先に﹁主体項﹂の用語を導入したので、それに倣って、a・bの﹁煙
草﹂についても「対象項」の用語を導入しよう。それぞれの文での最初の自立項に対して主題としての解釈、第二の
359 日本語における文タイプとその成分―第十部 文を語る用語
自立項に対して﹁は﹂の対比的用法などを語ることも可能だが、その前に﹁主体項・対象項﹂の用語で成分を捉えて
おくことができる。
︵十六︶
︵
15長い長がンリキは首。いが︶ 兎は耳。い長が象は鼻。
例文は三つの文からなるが、題材としては﹁鼻は象が長い。﹂だけを取り上げよう。ここでは﹁象﹂は、少なくと
も意味的に考えると、﹁長い﹂の主体であると見ることはできない。それどころか、むしろ﹁鼻﹂が﹁長い﹂の主体
と言える。―統一システムでは﹁鼻﹂は主語であり、述語は﹁長い﹂である。﹁象﹂についてはおそらく、﹁象は鼻 が長い。﹂で文頭にあった主語が形を変え文中に移動した、といった説明になるだろう。―分離システムでは︵
15︶
﹁鼻は象が長い。﹂の﹁鼻﹂は主題である。このタイプの文について述べた書物はあるが、﹁象が﹂と﹁長い﹂という
成分を形態=機能的にどう位置づけているかは不明である (8)。―本稿では第六節でこのタイプの文の扱い方について
述べることにする。
︵十七︶ 以上、体言+﹁は/が﹂の形態をとる成分について、統一的な﹁主語﹂の名称を与える方式と、用語の差は
あっても、基本的に体言+﹁は﹂と、体言+﹁が﹂に対する名称を分けておく方式を比較するために、例文にもとづ
いていくつかの観察を行ってきた。ただ、﹁主語﹂﹁主題・題目﹂﹁主格補語・主格﹂の用語をめぐる議論の本質は明
らかである。それは、主述関係と題述関係の統合と分離に関わる問題から生じていると言える。主述関係にもとづく
主語であれ、題述関係にもとづく主題であれ、西欧の言語では文の述語動詞︵=定動詞︶の前にひとつだけ位置する
ので、それらを区別なしに﹁主語﹂と言っても、専門的研究は別として、構文の実用的な説明において重大な問題を
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引き起こすことはない。ところが日本語では、﹁象は鼻が長い。﹂のような文において、題述関係と主述関係が重なる
形で二つの体言が述語用言の前に並ぶ。しかも、必ずしもそこでの﹁は/が﹂がそのまま維持されるとはかぎらない
し、また、日本語では比較的語順が自由であるので、語順の逆転も起こりうる。そのため、統一的な﹁主語﹂の名称
を使いながら述語用言の前の二つの体言を扱うことになる。その作業はかなりの困難をともなうことになるだろう。
︵十八︶ たしかに、すでに英文法と、英文法の影響のもとに作られた国文法に親しんでいる者にとっては、統一的な
﹁主語﹂の用語を使う便利さは否定できない。しかし、統一的な﹁主語﹂の用語の使用によって、﹁は・も﹂のように
構文的要素を示す機能はあっても述語用言との関係を明示する機能はもたない助詞と、﹁が・を﹂のようにそれを明
示することが主な機能である助詞との違いが見えにくくなるのも、この方式の重大な欠陥である。
第二節 構成的文
本節では、﹁文﹂という用語を使う際にどのような注意が必要であるかについて述べる。
︵一︶ フランスの言語学者ジョルジュ・ムナンは﹃言語学への鍵 (9)﹄の中で、文の定義が無数にあることを述べた後で、
それらの定義の基準を四つのグループに整理している。︵a︶まとまった思考を表す。︵b︶論理的命題の写し︵主辞
と賓辞、主部と述部、主語と述語︶。︵c︶音声的な休止と旋律曲線による分割。︵d︶書記上の目印。―さらにム
361 日本語における文タイプとその成分―第十部 文を語る用語
ナンはこの四つのタイプの定義のそれぞれに次のような批判を加えている。まず︵d︶は便宜的なものにすぎないか
ら基準としては退けられる。次に、︵a︶では心理学・論理学、︵b︶では論理学によって﹁思考﹂﹁命題﹂﹁主辞﹂﹁賓
辞﹂などが何を意味するのかが説明されねばならず、しかも﹁文﹂は必ずしも︵a︶や︵b︶の基準に従っていない。
そして︵c︶については、
︵1︶ 行け、走れ、飛べ、そして復讐せよ。
という例文を掲げながら、︵c︶の基準を採れば、この文が発音の仕方によって﹁一つ、二つ、四つ︵そして多分三
つでも︶の文を構成するだろう﹂と述べている )((
(。同書でのこれに続く記述で、ムナンは﹁文﹂の定義に関する彼自身
の考えは語らず、統語論の紹介に入り、品詞に基づく伝統的統語論、分析的統語論、変形的統語論、生成的統語論と
たどりながら、アンドレ・マルチネの機能的統語論に至っている。ムナンはマルチネ派であるので、﹁文﹂の定義に
関してはマルチネの考えを支持していると思われる。そのマルチネは﹃言語学の初歩 )((
(﹄の中で、従属節の述語動詞を
﹁疑似述語prédicatoïde﹂と名づけ、それを真の述語動詞から区別した後、次のように述べている )((
(。
﹁このことは文を、ひとつの述語、あるいは等位におかれたいくつかの述語にすべての要素が結びつけられてい
る言表であると定義することを可能にしてくれる。そして、この定義の中にイントネーションを介在させる必要
性を取り除いてくれる。﹂
逆にたどれば、例文︵1︶に関するムナンの指摘は、このマルチネの引用文中に言及されている抑揚の介入に関し
て、例を挙げて説明していると見ることができる。また、マルチネの定義を適用すると、例文︵1︶はおそらく四つ
西 田 稔 362 の文の並列 parataxisということになるだろう。
︵二︶ ただ、句読点の打ち方を考慮すると、例文︵1︶の原文を書いた作者コルネイユは全体をひとつの文として提
示しているように見える。そして文法的にはそれが四つの文の並列であるとするなら、あたかも発話の記録としての
﹁表現上の文﹂と﹁文法的文﹂との二つのレベルの﹁文﹂があり、時にはそれが一致しないことがありうるというこ
とになる。このことは、また、ムナンによってもっとも安易なものとして退けられた上記の︵d︶の基準︵=書記上
の目印︶にも注目することになる。と言うのも、例文︵1︶のような場合、構文の研究にとっては﹁文の並列﹂と言
えばよいが、たとえば、会話を写した、
︵2︶ 雨。/雨?/雨!
のような表現では、これも﹁文﹂であると言おうとすると、その場合にはそれを﹁文﹂としているのは句読法︵句点・
疑問符・感嘆符︶でしかなく、﹁雨﹂だけを取り出すと単語にすぎない、ということになるからである。また、︵2︶
のような表現では、それが﹁文﹂であるのか否かということ自体が問題になる。この点について考えるために、フラ
ンスの言語学者リュシアン・テニエールの言う﹁語句文﹂と、アメリカの言語学者ブルームフィールドの言う﹁文タ
イプ﹂を参考にしてみよう。
︵三︶ テニエールによる﹁文﹂の定義は﹁語を構成要素とする組織的集合﹂である )((
(。これと比べると、定義の仕方と
しては﹁述語にすべての要素が結びつけられている﹂という点が言及されているマルチネの定義の方が条件を絞った
言い方になっている。しかし、それ以上に大きな違いとなっているのは、テニエールでは﹁文﹂の傍らに語句文
mots-phrases︵または単項文 phrasillions︶という領域が設定されている点である。語句文は構造的に分析できず、せ
363 日本語における文タイプとその成分―第十部 文を語る用語 いぜい論理的語句文と感情的語句文に分けられる程度である。論理的語句文には不完全語句文、たとえば︽Voici votre chapeau!︾︵﹁ほらここにあなたの帽子が。﹂︶と照応的語句文、たとえば︽Oui.︾︵﹁はい。﹂︶がある。また、感情
的語句文は、礼儀に関するもの︵﹁すみませんが。﹂︶の他に、かけ声︵﹁それ!﹂︶、合図︵﹁しっ!﹂︶、擬声・擬態︵﹁パ
ン!﹂︶、感覚︵﹁痛っ!﹂︶、情動︵﹁おお!﹂︶、嘆き︵﹁まったく!﹂︶などを表す間投詞のタイプがある )((
(。テニエール
は語句文を語ではなく文に相当するものであるとしながら、はじめに﹁語を構成要素とする組織的集合﹂として定義
した文を語句文から区別する時には、前者を完全文phrases entièresと呼んでいる。また、語句文については﹁構造的 に分析不可能な語句﹂﹁文法的に組織されない﹂﹁統語的に文節されない﹂といった説明が加えられている )((
(。これらの
言い方は、ひるがえって完全文の方に、それが統語的に構成されるという視点を与えてくれる。つまり、語句文を除
くと、文はある統語的構成が与えられるとそこから無数の文が生成されるという特徴を持っている。
︵四︶ ブルームフィールドによると )((
(、各言語はそれぞれ固有の常用文形式 favarite sentenses-foromesのタイプをもっ ている。英語についての話ではあるが、常用文形式がそのまま文として用いられる場合には、彼はそれを全型文 full sentences と呼び、それ以外の形式が文として用いられる場合には小型文 minor sentencesと呼んでいる。全型文は二
つのタイプに下位区分される。ひとつは︽John ran.︾︽Who ran away?︾のような﹁シテ=動作組立﹂によるものであり、 もうひとつは︽Be good!︾のように﹁命令よりなるもの﹂である。前者では﹁定動詞finite verb﹂、後者では﹁不定詞 動詞 infinitive verb﹂が使われる。また、前者の﹁シテ=動作組立﹂によるものについては、特に﹁二肢文 diparite﹂ の﹁叙述文 predications﹂であると解説されている。全型文はおおむね伝統的な平叙文・疑問文と命令文を含むタイ プであると見ることができるだろう。他方、小型文は、一般には、︽This one.︾︽With whom?︾のように﹁補足的なも
西 田 稔 364 の﹂か、︽Dear me!︾︽John! Little boy!︾のように﹁感動的なもの﹂である。ただ、それ以外にも︽The more you have, the more you want.︾のように﹁格言的な﹂形式もある。小型文は全型文と比べると、いずれも省略的・断片的であるか、
あるいは慣習的に固定された表現であるところに特徴がある。その点で全型文の方は動詞をともなう文の生産的な構
成タイプとなっているので、全型文/小型文の区別はテニエールの完全文/語句文の区別に対応していると言える。
︵五︶ 例文︵2︶として掲げた﹁雨。/雨?/雨!﹂のような表現は、したがって﹁語句文﹂または﹁小型文﹂のよ
うな用語で捉えられるが、本稿では語句文と言うことにしよう。そして必要な場合には、語句文を除く文を構成的文
と呼ぶことにする。さて、ここで日本語における構成的文について検討してみよう。西欧の伝統的文法、たとえば英
文法では文の構成タイプを平叙文・疑問文・命令文︵さらには感嘆文︶のように分け、さらに平叙文についてSV/
SVO/SVC/SVOO/SVOCのような構成タイプに分けている。本論﹁日本語における文タイプとその成分﹂
でも、当初、平叙文・疑問文・命令文に類するタイプ分けを試みていたが )((
(、その後、日本語では、たとえば、
︵3︶ 太郎が次郎を殴った。
︵4︶ 誰が次郎を殴った。
︵5︶ 太郎は次郎を殴ったのか。
︵6︶ お前は花子を送っていけ。
︵7︶ 私が次郎を送っていこう。
のような文での構成を考えるとその種のタイプ分けの必要はなく、語彙または活用形のレベルでの話で済ませられる
ことが分かってきた。さらに、平叙文でも、日本語では主格補語を初めとするすべての補語、あるいは意味的役割と
365 日本語における文タイプとその成分―第十部 文を語る用語
しての主体や対象を担う語が述語用言の前に来て、しかも語順も比較的自由であるのでSV/SVO/SVC・・・
のようなタイプ分けも有効ではない。他方、主として日本語における﹁は﹂と﹁が﹂の使い分けの問題から、述部が
述語用言であるか、名詞+判定詞 )((
(であるかによって、文を少なくとも用言文/名詞文の二つの構成タイプに分けてお
く必要性が明らかになってきた。そして、最終的に日本語の文を成り立たせる最小限の成分からなる構成タイプを用
言文/体言文と呼び、定式化することになる )((
(のだが、この二つの構成タイプについては次節で述べることにしよう。
第三節 用言文と体言文
本節では、日本語文の基本構成タイプを考えるに当たって拠り所とした三つの説を紹介した後、用言文/体言文の
タイプ分けを提案する。
︵一︶ 日本語文の基本構成タイプとして本論で提起する用言文/体言文の定式は、一方においては佐久間鼎と三上章
による日本語文の分類と、他方においては金谷武洋によって導入された日本語の﹁基本文﹂の捉え方の延長上で考え
られているので、まずこの三人による分類をふりかえっておこう。
︵二︶ 佐久間=三上の分類については、﹃現代語法序説﹄に述べられている三上自身による説明を引用する )((
(。ただし、
例文は引用個所のすぐ後に挙げられているものを、本稿の筆者が引用文中に書き加えたものである︵なお、原文では
西 田 稔 366
例文はカタカナ書きである︶。
﹁佐久間文法の言いたて文︵平叙文︶の分類 )((
(は
一、物語り文
イ、性状規定
二、品定め文
ロ、判断措定
となっている。私はこれを祖述するものであるが、ただ内容本位の命名を、形式本位の名称に戻して次のように
改める。
一、動詞文 ︵例 : イナゴが飛ぶ︶
イ、形容詞文 ︵例 : イナゴはすばしこい/イナゴは有害だ︶
二、名詞文
ロ、準詞文 ︵例 : イナゴは害虫だ︶ ﹂
この引用文に述べられているように、佐久間=三上の分類は、佐久間鼎のものが意味=機能的観点から命名され、
三上章のものが形態=機能的観点から命名されているという違いはあっても、同一のタイプ分けになるのと、本稿で
は日本語文の構成タイプを話題にしようとしているので、以下、佐久間=三上の分類に関しては三上によるものを代
表として取り上げることにする。
367 日本語における文タイプとその成分―第十部 文を語る用語
︵三︶ 次に、金谷武洋が﹃日本語に主語はいらない )((
(﹄の中で掲げている日本語文の分類について見てみよう。金谷は、
英仏語におけるSV/SVC/SVO/SVOCの基本文型を紹介した後、次のように述べている。
﹁日本語の基本文は数が少なく、かつ驚くほど短い。St-Jacques (1971) も言うように、以下の3通りがそれで
ある。
︵さ︶ 名詞文:N - da ︵例 : 赤ん坊だ︶
︵し︶ 形容詞文:Adjective ︵例 : 愛らしい︶
︵す︶ 動詞文:Verb ︵例 : 泣いた︶
︵さ︶には﹁元気だ﹂なども含まれる。学校文法では形容動詞、日本語教室では﹁な形容詞﹂と呼ばれるものを
述語に含む文だが、文法的には名詞文となるにすぎない。なお、この﹁だ﹂はもちろん﹁です・でした・だった﹂
なども含んでいる。基本文とはそれだけで自立している文、という意味である )((
(。﹂
︵四︶ ところで、佐久間鼎は﹁言いたて文﹂についての説明に際して主語・述語の用語を援用している )((
(。その点から
見れば、三上は主語廃止論者であるので当然﹁主語﹂の用語は使わないが、先の引用文での用例にかぎって言えば、
国文法での主語・述語による﹁文﹂の説明 )((
(に出てくるような例文を挙げている。それに対して金谷の場合には、国文
法で﹁文﹂の説明に使われる主語にあたる部分をもたない、言い換えると述語だけで成り立つ例文を掲げている。﹃日
本語に主語はいらない﹄という書名からも伺えるように、金谷は三上章の主語廃止論の支持者であるが、彼は三上の
考え方を徹底させ、日本語文は述語だけで成り立つという主張を基本文の例文によって実践してみせていると言え
西 田 稔 368
る。
︵五︶ 金谷は三上説の支持者である。しかし、右に引用した三上の日本語文︵平叙文︶のタイプ分けと金谷の三つの
基本文における、﹁名詞文﹂と﹁形容詞文﹂の捉え方には大きな違いがある。金谷の引用文で触れられている﹁だ﹂
の位置づけとも関わりがあるので、この点を問題にしてみよう。
︵六︶ 三上の﹁イナゴは有害だ﹂は形容詞文であるのに対して、金谷の﹁元気だ﹂は名詞文である。三上は先の引用
文につづいて、国文法の形容詞と形容動詞を一本化し、後者を﹁ナ活用の形容詞﹂と呼ぶことを提案している )((
(。そし
て、﹃現代語法新説﹄では、従来の形容詞を﹁イ形容詞﹂、形容動詞を﹁ナ形容詞﹂、その双方︵あるいは片方でも︶
を﹁形容詞﹂と呼ぶように提案している )((
(。そして、この用語法は日本語教育の分野で実際に使われるようになった。
これに対して構文論の専門家のあいだでは、従来の形容動詞は、時枝誠記︿体言+指定の助動詞﹁だ﹂﹀、渡辺実︿状
名詞+判定詞﹀、寺村秀夫︿名詞的形容詞+判定詞﹀のように )((
(二つの成分に分割する扱いが有力である。
︵七︶ 国文法の形容動詞に対する三上の形容詞説、時枝・渡辺・寺村の二分説にはどちらもそれなりの根拠があり、
また用語上の問題もかかえている。その点について﹁きれいだ﹂という語を使って考えてみよう。―︵a︶﹁きれ
いだ﹂は意味=機能的には形容詞、たとえば﹁美しい﹂と同じグループに属する。﹁きれいだ﹂と﹁美しい﹂は同じ
位置で使え、意味的には同じ働きをするので、ひとつの機能グループにまとめることができる︵このグループを形容
詞類と呼ぶことにしよう︶。―︵b︶意味=機能的には﹁きれいだ﹂と﹁美しい﹂がひとつのグループをなしてい
るものの、形態=機能的にはこの二つは全く異なる性格をもっている。そのため、品詞的には﹁きれいだ﹂の方を形
容詞﹁美しい﹂から明確に分けておくべきである。―︵c︶形容詞類を単に﹁形容詞﹂と呼び、その中で﹁イ形容
369 日本語における文タイプとその成分―第十部 文を語る用語 詞/ナ形容詞﹂と分ける三上の用語法は、実際にそれを使う場合に不便と混乱をもたらすだろう。―︵d︶三上の
﹁ナ形容詞﹂は語幹﹁きれい﹂と活用語尾﹁だ/な/に・・・﹂に分かれることになり、たとえば、
︵1︶ この花、本当にきれいね/きれいよ/きれいかね/きれいかい。
といった表現を説明するに当たっては、﹁きれい﹂の部分について、国文法の﹁形容動詞﹂の用語を使った場合と同
じく、﹁ナ形容詞の語幹﹂と言わなければならない。ところが、例文︵1︶に見られる﹁きれい﹂は﹁きれいだ﹂の
語幹と言う以上の自立性︵純粋に形態的な観点からすると体言と同じ自立性︶をもっている。したがって、形態=機
能的に見れば﹁きれいだ/きれいな/きれいに﹂なども﹁きれい﹂+﹁だ/な/に﹂などに分けておくべきであり、
その点で二分説の方が理にかなっている。―︵e︶﹁きれい﹂は用言に属している )((
(ので、三上による分類表の﹁形
容詞文﹂の上位にくる﹁名詞文 )((
(﹂、および金谷の﹁名詞文﹂、さらには前項で言及した時枝の﹁体言﹂、渡辺の﹁状名詞﹂、
寺村の﹁名詞的形容詞﹂に見られる、﹁名詞・体言﹂の用語を﹁きれいだ﹂に関係づけるのは避けるべきである。
︵八︶ 以上のように、三上の形容詞説、時枝・渡辺・寺村の二分説の正当性を認めながらも、用語上の欠点を補うた
めに、本論では国文法の形容動詞を品詞的に性状詞と名づけることによって )((
(、品詞としての形容詞︵﹁美しい﹂︶から
区別し、正確な分析が必要な場合には、﹁きれいだ﹂を性状詞本体「きれい」+判定詞「だ」の複合体として捉えて
いる。実態としては性状詞本体﹁きれい﹂が無変化形容詞であり、判定詞は用言としての機能の展開を助けているの
である。そのため、例文︵1︶に見られるように、本体﹁きれい﹂は判定詞以外の成分と結びつくことができる )((
(。な
お、前項で触れたように、品詞としての性状詞と、品詞としての形容詞をまとめてひとつの機能グループとする場合
には本論では﹁形容詞類﹂の用語を使うことにしている。
西 田 稔 370
︵九︶ 以上述べてきたことは、初めに引用した三上の日本語文︵平叙文︶のタイプ分けと、金谷の三つの基本文に共
通して現れている﹁名詞文﹂と﹁形容詞文﹂の用語に関して、﹁イナゴは有害だ﹂を﹁形容詞文﹂に配している三上
の分類の方が、﹁元気だ﹂を﹁名詞文﹂に配している金谷のよりも理にかなっていることを示すためであった。他方、
日本語文の構成タイプを考える上では、述語だけで成り立つ文を基本文として掲げている金谷の主張は明快である。
それで、本論ではこの両者の利点を生かしながら、日本語の文を成り立たせる最小限の成分からなる構成タイプを次
の表のように定式化することにした )((
(︵表中の括弧内の成分は、実際には伴うことが多いが、なくても文が成立すると
いう要素である︶。
表1
用言文 : ︵構文項+︶︵項操作子+︶用言︵+述部操作子︶
体言文a : ︵構文項+︶︵項操作子+︶体言+述部操作子
b : 体言+「は/が」+体言︵+述部操作子︶
︵十︶ 表1では、すでに三上の﹁動詞文﹂と﹁形容詞文﹂が用言文という名のもとに統一されている。述語となる動
詞・形容詞・性状詞を用言の名のもとにまとめても構文的な問題が生じないと判断したためである。また、三上の﹁名
詞文﹂の用語をそのうちの﹁準詞文﹂にだけ適用することにし、しかも体言文と呼ぶことにした。と言うのも、名詞
を定義しようとすると、おそらく、﹁モノを表す﹂とか﹁モノの名前﹂のように言わねばならないが、﹁私・これ・こ
こ・今﹂のような指呼詞の指示対象、あるいは数﹁五﹂、色彩﹁青﹂・音階﹁ド﹂・位置﹁上﹂・文字﹁A﹂など、要素
371 日本語における文タイプとその成分―第十部 文を語る用語 を表す語の指示対象は﹁モノ﹂とは言えず、それでいてそれらの語は換入 commutation の観点から見て構文的に普通
名詞・固有名詞と同じ位置を占めることができるので、それらの語を含めるには﹁体言﹂の用語が相応しいと思われ
たからである )((
(。
︵十一︶ 表1の用言文と体言文aの定式は、日本語の文が述語用言または体言述部だけで自立するという考え方にも
とづいている。用言文では、たとえば動詞だけで、
︵2︶ あった!
のような表現ができる。体言文aでは、何かを目撃した時に通常用いられる、
︵3︶ 火事だ!
のような表現、あるいは質問の答としての、
︵4︶ ﹁そこにいるのは誰だ。﹂―﹁私です。﹂
のようなケースで使われる。ところで、前節で掲げた語句文、
︵5︶ 雨。/雨?/雨!
と次の例を比べてみよう。
︵6︶ 雨ね。/雨かな?/雨だ!
例文︵6︶では、話し手が聞き手に対して、︵5︶のように声の調子や抑揚によってアルコトを伝えるだけでなく、
アルコトを述べる形式が述部操作子﹁ね・かな・だ﹂によって提供され、それらが体言﹁雨﹂に文の述部としての資
格を与えている。また、﹁ね・かな・だ﹂のような述部操作子が、文を終わらせる成分として一般的に機能する )((
(とい
西 田 稔 372
うことも、︵6︶を語句文でなく構成的文とみなしうる理由となっている。たとえば﹁今の政治はどこか変だとマス
コミが言っている﹂という連辞は、
︵7︶ 今の政治はどこか変だとマスコミが言っていることは知っているが、私はそうは思わない。
のように、文として続けることができるが、
︵8︶ 今の政治はどこか変だとマスコミが言っているね。
とすると文としてそこで終わってしまう。確かに、表示助詞 )((
(﹁と﹂を使って、︵8︶を引用文として﹁・・・と太郎
は言った。﹂のように続けることはできるが、引用文はそれ自体が文である。
︵十二︶ 体言文にはもうひとつ別の定式化が考えられ、表1の体言文bがそれである。たとえば、
︵9︶ 花は桜。
と言う場合、この文は述部操作子を伴って、
︵
10さねだ桜/ね桜/桜︶ /よ桜/だ桜は花。
のようになるのが普通だが、それがなくても︵9︶のままで文として成立する。つまり、体言文bでは述部操作子が
なくても、体言+﹁は/が﹂+体言という名詞文ネクサス )((
(が文としての構成を支えている。そして、︵9︶の文でも、
何か︵=花︶についてアルコトを述べるという形式が成立している。その際、この例での﹁桜﹂は形式的に体言だけ
の述部となる。体言文の二つの定式のうち、aの方は、述部操作子が支えるなら体言ひとつでも文が成立することを
示し、また、bの方は、﹁は/が﹂︵さらに﹁も﹂も加えてよい︶で結ばれる体言が二つあれば、述部操作子の支えな
しでも文が成立することを示すためのものである。しかし、体言文の本領は体言からなる二項の間の関係を述べるも
373 日本語における文タイプとその成分―第十部 文を語る用語
のであり、また、何らかの操作子をともなう方が話し手の態度をより明瞭に表現できるので、例文︵
10︶のように、
aとbの定式が合流して使われる方が文としては安定する。
︵十三︶ 用言文/体言文に関する定式は、すでに述べたように、日本語の文が述語用言または体言述部だけで自立す
るという考え方にもとづいている。しかし、このことを明確に述べるためには、なお検討するべき余地がある。次節
ではその点について述べていく。
第四節 日本語の﹁文﹂
前節で紹介した金谷武洋の﹃日本語に主語はいらない﹄からの引用文の中に﹁基本文とはそれだけで自立している
文、という意味である。﹂という個所があった。ここでの﹁それだけで自立している﹂という言葉は、そこで示され
た例文も含めてそれを受けとるなら、日本語の基本文が述語だけで成り立つ、と言っているに等しい。この点につい
ては、同書中にも言及されている )((
(三上章の次の言葉を引用しておこう。
﹁主語を廃止すると、述語だけが残る。述語一つがセンテンスを背負うのである。西洋の文が主述の二本立
て (biparite) であるのに対して、日本文はいわば述語の一本立て (uniparite) である )((
(。﹂
本稿ではこの三上の考え方や、上記の金谷の言葉を踏襲しながら、日本語の文︵=構成的文︶は述語用言または体
西 田 稔 374 言述部だけで自立する、と述べてきた。ただ、このような言い方は主語―述語関係を離れた﹁述語﹂、あるいは﹁述部﹂
という用語の定義を必要としている。この点をも踏まえながら、本節では、一般的に日本語において﹁文﹂という用
語を使うとどのような問題点が関わってくるか、また、﹁文﹂をどのように定義しておけばそのような問題点に対処
できるかについて考えていくことにする。
︵一︶ 日本語の文について一般的に語るために、ここで若干の用語の整備を行っておこう。最小限の成分からなる構
成タイプとして示した用言文/体言文の定式の中では用言・体言は単語として想定されているが、実際の文では用言・
体言が修飾語や補語を伴っていることが多い。それで、特に一語であることを示す必要性がない場合には、文の構成
要素としての用言・体言は用言句・体言句と言うことにしよう。なお、この用語法では用言句・体言句がたまたま一
語で構成される場合をも含むことになる。
︵二︶ その結果、前節で掲げた表1の用言文の定式で、﹁用言︵+述部操作子︶﹂として示されていた部分は用言句+
述部操作子となる。そして、このまとまり全体を述部と呼ぶことにしよう。ただし、表1の定式とは逆に、述部=用
言句+述部操作子となる定式では、﹁用言句+述部操作子﹂がたまたま用言句だけで構成され、述部操作子を伴わな
い場合も含まれることになる。また、この新たな定式の中で、単語としての用言に言及する必要がある場合には、そ
れを述語用言と呼ぶことにする。
︵三︶ 表1における体言文aの定式の﹁体言+述部操作子﹂の部分については、同様に、体言句+述部操作子となる。
そしてこのまとまり全体を述部︵あるいは体言述部︶と呼ぶことになる。そして、体言文bの定式も同様に、体言句+
375 日本語における文タイプとその成分―第十部 文を語る用語
「は/が」+体言句となり、第二項となる体言句が名詞文ネクサスの構成に支えられて述部になる。
︵四︶ 次に、上記の用語の具体的な適用について、例文を掲げながら説明を加えていく。その際、﹁述語﹂あるいは﹁述
部﹂という用語を、﹁主語﹂を介在させずにどのように定義しておけばよいかについても考えてみよう。
︵1︶ a 太郎がきのう駅で財布を拾った。 b 太郎はきのう駅で財布を拾った。
﹁述語・述部﹂という用語は、おおまかに言えば、アルコトを述べる機能をもつ語句を指している。しかし、この
言い方は品詞としての動詞・形容詞・性状詞にも適用できるし、また、それらをまとめる機能グループとしての用言
にも適用できる。ところで、語としての用言には、一方では、それぞれの語が他の語とは異なる独自の意味内容とし
て出来事・活動・現象などのサマを表すという側面がある。また、他方では、用言というグループに共通する特徴と
して、コトとして述べるという一般的な機能をもっている。それでまず「述語」について、それを、コトを述べる一
般的機能から眺めた用言と定義してみよう。すると例文︵1︶a・bでは﹁拾った﹂が述語である。
︵五︶ それでは﹁述部﹂についてはどのように考えるべきだろう。述部操作子を伴わない場合、用言文の述部は用言
句でもあるので、例文︵1︶a/bに関しては、﹁拾った﹂から溯って﹁太郎が/太郎はきのう駅で財布を﹂のどの
部分までを用言句とみなせばよいかの問題になる。なお、︵1︶a・bどちらの文でも、意味的には︿主体+トキ+場+
対象+行為﹀の構成になっている。その際、文脈上、コトを述べているのは﹁拾ったこと﹂だけという解釈、﹁きの
う駅で財布を拾ったこと﹂の部分であるという解釈、その他の解釈がありうる。ただ、︵1︶aの方では、主体︵=
太郎︶を含め、﹁太郎がきのう駅で財布を拾った﹂の全体がひとつの出来事を述べているという解釈もできる。そして、
西 田 稔 376
文脈自由文としては︵1︶aは通常この読みになるだろう。この解釈のもとで捉えられるコトのスケールは、
︵2︶ 太郎がきのう駅で財布を拾った︵こと︶
という句でもって示されるスケールと同じである。このようにコトのスケールを最大限にとった場合の範囲に含まれ
る連辞、例文︵1︶aで言うと﹁太郎がきのう駅で財布を拾った﹂までの連辞が用言句である、と見ておこう。これ
は用言句としての︵2︶とも同じ形態を取り、また、通常の理解から言っても補語+用言は用言を核として形成され
る用言句である。それに対して、︵1︶bでは、その内容をコトとして言い表している用言句︵2︶と比べると、﹁太
郎は﹂の部分が独自の形態をとっているのと、また、意味的にも、主体︵=太郎︶を定めた上で、それについて﹁き
のう駅で財布を拾った﹂というコトを述べていると解釈できる。それで、︵1︶bでは﹁きのう駅で財布を拾った﹂
の部分だけが用言句であると言える。
︵六︶ 用言句は用言を核として補語・連体修飾語・連用修飾語が集まった句である︵ただし用言一語の場合もある︶。
ただ、日本語を扱う場合、たとえば例文︵1︶の中で﹁きのうは・駅では・財布は﹂のような形をした成分が現れた
場合、それがどのような資格で文の中に入ってくるのかが問題になる。それで、そのような問題が生じた時には、用
言句に対して全体としてひとつのコトを述べる機能をもつ連辞という定義を与えながら、︵2︶のような、用言句+﹁こ
と﹂の形をした句︵本論ではこれをコトの表示句と呼んでいる )((
(︶での用言句と比較することによって、文中での成分
がもつ役割を吟味していくとよいだろう。
︵七︶ 用言句は、語順や項の数を問わないとすると、最大、連体修飾語+補語+連用修飾語+用言︵ただし用言は語
順としても最後にくる︶のような構成要素からなる句である。ここで、核となる用言以外で用言句の中に含まれる構
377 日本語における文タイプとその成分―第十部 文を語る用語
成要素について、それらが用言の支配域の中にある、という言い方をすることにしよう。たとえば例文︵1︶a、あ
るいは句表現︵2︶で言うと﹁太郎がきのう駅で財布を﹂は用言﹁拾った﹂の支配域にある。この言い方を定式化す
ると用言句=支配域+用言ということになるだろう。﹁支配域﹂という用語は、﹁は/が﹂の使い分けを非常に語りや
すくする。たとえば、﹁が﹂と﹁は﹂だけが異なる、次の二文の意味の差について述べてみよう。
︵3︶ a 太郎が働かないので、生活が苦しい。b 太郎は働かないので、生活が苦しい。
例文︵3︶aでは主体補語﹁太郎が﹂が用言﹁働かない﹂の支配域にあり、主体としての意味的な役割が﹁働かな
い﹂という表現の中に閉じ込められるので、用言句﹁生活が苦しい﹂にまで及ばない。したがって、こちらは﹁私た
ちは生活が苦しい。﹂という文が表すような意味に理解されるだろう。それに対して、︵3︶bでは自立項﹁太郎﹂が
用言﹁働かない﹂の支配域には入らないので、用言句﹁働かない﹂の方が﹁太郎は生活が苦しい。﹂という文の中に
埋め込まれたものとして理解されるだろう。
︵八︶ 用言句は、話し手が述べようとする事柄についての個別的な様態︵=サマ︶と、事象としての把握︵=コト︶
を表現する。用言文の場合、日本語の述部は例文︵1︶a﹁太郎がきのう駅で財布を拾った。﹂のように用言句に終
わることもあるが、たとえば、
︵4︶ 太郎がきのう駅で財布を拾ったんだ/拾ったらしい/拾ったらしいんだよ。
の﹁んだ/らしい/らしいんだよ﹂のように、述語用言の後にさまざまな語句が累加されることが多く、そこでは事
象に対する話し手の観点・態度、あるいは聞き手に対する効果の調整、さらには話し手の感情などを表す機能をもつ
西 田 稔 378
語句が重ねられる。本論では、これらの語句の品詞的・機能的な区分の前に、それらの語句を述部操作子という名の
もとに一括している。それで日本語の﹁述部﹂については、本節のはじめに述べたように述部=用言句+述部操作子
として定式化できる。しかし、用言の支配域の考え方を生かすとすると、それをさらに述部=用言の支配域+述語用
言+述部操作子という形で使うこともできるようになる。︵4︶から文をひとつだけ選んでそれを例とすると、用言
の支配域﹁太郎がきのう駅で財布を﹂+述語用言﹁拾った﹂+述部操作子﹁らしいんだよ﹂となる。
︵九︶ 体言文の場合には、﹁述部﹂に関する定式は述部=体言句+述部操作子となるだろう。たとえば、
︵5︶ 犯人は太郎だ/太郎よ/太郎なのだ/太郎らしいんだ。
では﹁犯人は﹂以外の部分がすべて述部になり、また、﹁犯人は﹂の部分がなくても文として成立する。その際、用
言文の場合と違って、述部を成り立たせているのは述部操作子﹁だ/よ/なのだ/らしいんだ﹂である。ただし、す
でに述べたように、二つの項、この例では﹁犯人﹂と﹁太郎﹂があらかじめ連結されている場合、たとえば︵5︶で
の主張に続いて、有無を言わせず結論を述べるような場合には、
︵6︶ 犯人は太郎。
のように操作子がなくても文が成立し、形式的に体言﹁太郎﹂が述部となる。
︵十︶ 最後に、日本語に関して﹁文﹂の用語を使う際に留意すべき点について考えておこう。そのために、あらかじ
め﹁文﹂の定義を仮説的に提示し、それにもとづいて語ることにしよう。まず、文︵=構成的文︶に対して、形態=
機能的に互いに結ばれた成分によって構成され、ひとつの述部で終わる連辞の最大単位、という定義を与えてみる。
︵十一︶ ﹁形態=機能的に互いに結ばれた成分によって構成される連辞﹂―この表現は、﹁文の並列 parataxis﹂から
379 日本語における文タイプとその成分―第十部 文を語る用語 ひとつの文を区別するとともに、﹁言説・談話 discourse﹂からひとつの文を区別するために必要となる。第二節で、
︵7︶ 行け、走れ、飛べ、そして復讐せよ。
という例文を引用しながら文の並列について述べたが、この例で言えば、﹁行け・走れ・飛べ・そして復讐せよ﹂の
それぞれの部分は互いを結びつける形態を備えていず、また、結びつける語句も介在していない。たしかに最後の文
には﹁そして﹂という語が見られるが、これは﹁復讐せよ﹂という文を単に意味的にそれに先立つ表現に関連づけて
いるだけである。その点で、定義における﹁形態=機能的に﹂という言及が重要である。また、例文︵7︶の句読点
の打ち方を変え、
︵8︶ 行け。走れ。飛べ。そして復讐せよ。
と表記すると、これは文の連鎖としての言説・談話の原型となる。
︵十二︶ ﹁ひとつの述部で終わる連辞﹂―この表現は﹁複文﹂と﹁重文﹂をそれぞれひとつの文として捉えるため
のものである。本稿での文の定義は、基本的には第二節で紹介したアンドレ・マルチネによる文の定義を取り入れて
いる。ところで、文の定義にあたってマルチネが、ひとつには従属節の述語動詞を﹁疑似述語﹂と名づけ、それを真
の述語動詞から区別していることと、もうひとつには﹁︵ひとつの述語︶あるいは等位におかれたいくつかの述語﹂
という保留をつけていることを思い出していただきたい。つまり、文の定義にあたってはどうしても西欧文法で言う
﹁従位 subordination﹂と﹁等位 coordination﹂の問題がからんでくる。日本語文法で言えば﹁複文﹂と﹁重文﹂に関わ
る問題である。さいわい日本語では文︵=構成的文︶は述部で終わるので、文の定義に際してはこの問題を避けるこ
とができる。連辞A+連辞Bからなる連辞Cがあるとすると、Aが文であるか、節であるか、それとも句なのか、ま
西 田 稔 380
たは、Aに含まれているのが本当に述部なのか、といった問題、あるいはCは複文なのか、重文なのか、それとも単
文にすぎないのかといった問題にいっさい関わりなく、Bが述部で終わってさえすればCは文である。したがって、
ここでは定義における﹁ひとつの述部で終わる﹂という言及が重要な意味をもつ。なお、この言い方は、本節で扱っ
ている文︵=構成的文︶を、たとえば、
︵9︶ ひどい雨!
のような﹁語句文﹂から区別する役割をも担っている。
︵十三︶ ﹁最大単位﹂―この表現は、文の内部の構成要素となるか、あるいは文そのものとなる﹁句﹂と﹁節﹂か
ら﹁文﹂を区別するためものである。
︵十四︶ 以上、本節では﹁文﹂について語る際に必要となる﹁述語・述部・用言句﹂の用語について検討し、さらに、
文に定義を与えながら﹁句・節・単文・複文・重文﹂などの用語との関連性を概観した。つづく第五節では主として
用言文を使いながら、題述文の話題に入る。
第五節 題述文
本節では題述文における題となる成分の性質と、それに結びつく述部のあり方について検討する。