韓 日における古代都城 の高級織物生産 と使用
―服飾制度成立期 を中心 に 一
安 宝 蓮
1序
論2.韓
日古 代 服 飾 制 度 の 成 立 と展 開3
服 飾 制 度 にあ らわ れ た織 物 名 称 と遺 物4.高
級 織 物 の 製織 、 お よび拡 散5,結
論要
旨
古代東 アジア文化圏において、服飾制度は令 によって定め られるものであ り、都城の成立 と 密接 な関係 にある。一般的に、服飾 は衣服の種類 によるシルエ ッ ト、色彩、材 質の組合せ によって完成 されるため、服飾制度は三種類の要素 に対する規定 をその内容 とする。制度面 として考える際に、衣月R の種類や色彩 に制限をお くことは、非常 に明確 であ り、かつ効果的な方法 とみ られる。 これに比べ、織 物 はその種類が多様で、位階の等分 を煩雑 にす る可能性が高い。ttR飾制度のなかで織物 に対する項 目は 過度に省略 された り、あるいは複雑 になっていた りする。それほ ど服飾制度において織物の種類 を厳格 に区分す ることは、高次元の諸要素だ といえるだろ う。韓国 と日本の古代都城では、多 くの種類 の織物 遺物が確認 される。大部分は麻織物で、服飾はもちろんの こと、生活用品さらに産業用にと全般 的に使 用 された普遍的な織物である。一方、武寧王陵、水村里古墳 、王興寺址、陵山里、天馬塚、仏国寺釈迦 塔の ような遺跡では、錦、綾、羅、紗、お よび刺繍片 (繍
)の
ような高級織物が集中的に確認 される。日本の場合 で も、正倉 院に加 え平城京や古墳か ら類似 した織物が出土する。 これ らは麻織物 と対照的 に、冠帽、飾履、鈴帯、環頭大刀のような高級服飾威信財や、舎利荘厳か ら発見 される点は注 目に値す る。 と同時 に、 これ らは文献 に登場する服飾制度の織物名称で もある。本研究 は、韓国 と日本の古代都 城遺跡か ら確認 された遺物 と文献 を検討することで、服飾制度の成立 と都城内の高級織物生産、お よび 使用 に関す る関係性 を見出そ うとす るものであると同時に、古代都城研究の一面 を明 らかにしようとす るものある。
キーワー ド
古代織物
服飾制度 前
国立扶余文化研究所
329
1.序 論
古代 東 ア ジア文化 圏 において、服制 は令 によって定め られ る ものであ り、都城 の成立 と密 接 な関係 にあ る。衣服令 の制定 は、 ほかの制度 と別個 に存在す るので はな く、政治制度の一 部分 として存 在 す るた めであ る。古代 国家 において、律令が 国家 を体系 的 に運営す るための 核心 的 な規範 であ る とい うことは、文献 を通 じてす で に知 られてい る事実である。 しか し、
文献 史料 もや は り断片的であ るため、古墳 や都城 といった建築史的資料や、土器、瓦、金属 製装 身具 な どの考古遺物 に対す る研究 に よって裏付 け されなければな らない。
古 墳 副 葬 品 と寺 院 か ら発 見 され る舎利荘 厳 具 に は、服 飾 と関連 す る遺 物 が散 見 され る が、 その出土 品 目が概 して一致す る こ とは注 目に値 す る。 この よ うな様相 か ら推測 して、
それ は古代 国家が徹 底 的 な都 市計画 に よって都城 を整 えなが ら、葬 制風俗 が変化 す る過程 で発生す る現象 と考 え られ る。古墳 や寺 院遺跡 自体 は、高 い地位 を有 す る者 の専有物 であ るた め に、 出土 品 に は威 信 財 と して用 い られ る よ うな服 飾 遺 物 を含 むの で あ る。 それ ら は、金属 、 ガ ラス、玉 製装 身具が大 部分 であ るが、埋 蔵環境 に よって は織物が 出土す るこ ともあ る。そ の ため、古墳 や寺 院か ら出土す る装 身具や 出土織 物 は、古代都城 の服飾制度 を研 究す るための具体 的な研究資料 となるのである。
一般 的 に服 飾 は、個 人 的 な嗜好 に よって選択 され る場合 が多 い。 しか し、服飾 が制度化 され た際 には法 に もとづ くこ とになるため、 強制力 を もつ。服 飾 着用 を法 と して定 め るの は、服飾制度 の 目的が 、 身分秩 序 を視覚 的 に明示 す るこ とにあ る こ とに よる。服 飾 は、衣 服 の種 類 に よる シルエ ッ ト、色彩 、材 質 の組合せ か ら完成 され るため、 これ ら三種類 の要 素 に よって服 飾 制 度 の 内容 が 決 まる こ とにな る。 身分や官等 に よって、許容、禁止 され る 衣服 の種類 、色彩 、材 質 を詳細 に区分 して明示 し、 身分 ご とに制 限す るこ とが制度 の基本 原則 で あ る。 身分 の高 い者 には、許容 され る衣服 の種類 、色彩 、材 質があ り、 身分 の低 い 者 には法 に よ り着用 を禁止す る といった差別化 を行 うのである。
制 度面 か ら詳細 に検 討 す る と、衣服 の種類 や色彩 に制 限 をお くこ とは、非常 に効 果 的 な 方法 とみ られ る。 一 方 、織 物 文様 や製織技 法 は、近距離 で も容易 に区分す るこ とが で きな い ほ ど微 妙 な差異 で あ り、服 飾制度 として定 め るには困難が あ った と考 え られ る。 それ に もか か わ らず 、服飾 制 度 に織物 に射 す る項 目が必ず含 まれ る理 由 は、織物 自体 が有す る生 産 的価 値差 のためで あ る。生 産的価値 とは、す なわ ち貨 幣的価値 につ なが る。言 いか えれ ば、 身分が高 い者 で あれ ばあ るほ ど高級織物 を好 み、 それ に よって身分 と権威 、富 を誇示 す る心理 を充足 させ る。 そ のため に、織物 の使用 に制限 をお くのであ る。
本研 究で は、古代月R飾 制 度 の核 となる織物 に汁す る実質的な研 究 を試み る。月及飾制 度上 の 織物名称 と、 日韓古 代都城遺跡 と隣近の寺院遺跡か ら出土 した、 あ るいは伝世 した織物 資料
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を比較検討 す ることによ り、服飾制 度 と織物生産 に関す る関係性 を見出す ものである。
2.韓 日古代服飾制度の成立 と展 開
一 般 的 に、韓 半 島 におけ る品階別服 飾制 度 の制 定 は、律 令体 制 とともに中国か ら流 入 し た とされ てい る。実際中国の場合 、身分 に よる服飾制度 は、隋の大業
6年 (610)の
段 階で す で に成 立 して い る。北周 の外 戚 で あ る楊 堅 が全 国 を統 一 した の ち、 隋 の文帝 は律 令 と制 度改 革 を断行 した。 隋 は、魏晋 南 北朝 の諸 文化 を継 承 した こ とか ら、制 度 の改 革 は隋代 以 前 にす で に存 在 して い た とみ られ る。韓 半 島三 国 の服 飾 制 度 の制 定 時期 は、 遅 くとも6世
紀 以 前 で あ るが 、 衣服 の色 調 お よび材 料 に よる身分 区別 は、 ず いぶ ん以前 に始 まって いた のである。 この ような点か ら、三国時代の服飾制度が中国の魏晋南北朝、特 に
5〜 6世
紀 の服飾制度 と密接 に関連 していることが推定で きる。『三国史記』 に伝わる高句麗、百済、新羅の律令制定時期 をよくみれば、高句麗は小獣
林王
3年
(373)1、 新羅では法興王7年
(520)2で ぁる。百済 は、武寧王陵出土誌石 に刻まれた「不従律令」以外 に、「待令
Jの
記録がない。ただ、律令の存在 と施行時期 に対す る法制 史的研 究結果 を参考 にすれば、おお よそ古爾王代、近 肖古王代、あるいは5世
紀 後半か ら6世
紀前半 とみている3。̲方
、服飾制度が整 え られたのは、百済の古爾王27年(260)、 新羅の法興王
7年 (520)で
、高句麗の場合、官等 に関す る記録のみであ り、服飾制度 に関す る記録 はない。ただ、
F旧
唐書』、 『新唐書』 の記録 に、身分 によって冠帽の 色に差異 な どを設けた とい う内容が参照 されるが、正確 な時期は不明である。日本の場合、韓半島三国に比べて服飾制 も制定時期が遅れるが、短期 間に急速な変化 を みせ る。 日本が古代国家の形態 を整 えは じめたのは、
6世
紀末葉の大和政権か らである。日本 は
4〜 6世
紀か ら中国はもちろん、百済 とも緊密 な接触 を通 じて文化 と社会におお き な変化 を受 けなが ら、特 に百済 と新羅、 中国の隋、唐 の文化 的な影響 を受 けた。5世
紀 頃、百済王仁 の漠字教育 と五経博士 によって、儒教、医学、易学な どが伝 わった。 また、仏教 の伝授 も特記す るに値す る事項である。そ して
6世
紀後半、聖徳太子が政権 を掌握 し て隋 と新羅か ら積極的に制度 を受け入れるようになった。定期的な施行 をとお して先進文 明 と制度 を受容するようになったのである。短期 間の文物受容のなかで も、服飾制度 は数 回にわた る衣服令 を とお して変化 してい く。推古天皇11年
(603)の
冠位12階4、 大化の7色
13階5.19階
6、 天武朝の朝服の色 によ る位階表示、奈良時代の衣服令 などである。特 に、 日本最初の服飾制度 といえる603年の冠 位十三階の制定は、韓半島の服飾制度を積極的に反映 した もの と考えられる。11世紀末 に記 された 『扶桑略記』 には、「飛鳥 に法興寺 を建 て、仏寺刹 を奉安す る際に も、大臣蘇我馬子 をは じめ とした100余人すべてが百済服 を着た」 とい う内容が記録 されて
い る7。 法興寺 (飛鳥寺
)は
、588年 か ら596年 に竣工 され た寺刹 で、6世
紀 末 の倭 人が百済 服 を着用 していた もの と推 測 され る。続 く603年 には、衣服 制定が あ ったが、形式的 な衣服 令 で あ り百済 の服 飾 の風 が 一 度 に消 え る こ とは なか った はず で あ る。 む しろ、 三 国統 一 を 図 った新 羅 に吸収 され なか った人 々が韓 半 島か ら 日本へ 渡 来 し、大 化 と天武 の服 飾 制 度 に まで影響 を及 ぼ したのであ ろ う。そ こで、 日本 の服 飾 制 度 に影響 を及 ば した百 済 と新 羅 の服 飾制 度 の 内容 が どうで あ った のか、現存す る文献 の内容 をまず検 討す る こ ととす る。百済 は比較 的簡 略 で、百済 の衣服 は高句麗 と類 似 す るが、朝拝 祭祀 の際 には冠両側 に羽毛 の ような装 飾 が あ った こ とを知 る こ とがで きる。 身分 、 お よび地位 に よる服飾 の差異 と して は、帝 の色 、冠飾 の材質 をあげ るこ とがで きる。
其飲食衣服 、典 高麗 略 同。若朝拝祭祀、其冠両廂 加翅、戒事則不 。
官有十六 品 (中略
)奈
卒 、六 品。 己上冠飾銀華。将徳、七 品、紫帯 。 施徳 、人 品、名帯。固徳 、 九 品、赤 帝 。季 徳 、 十 品、 青帯 。対 徳 、十 一 品、 文督 、 十 二 品、皆 責帯 。 武 督 、 十三 品、 (中略
)剋
虞 、十六 品、皆 白帯。『北史』巻九十四
列伝第八十二 新 羅 の服 飾 に関す る記 録 は百済 よ り詳細 で あ る。先 述 の よ うに、 法興 王代 の律 令 頒布 と 同時 に百 官公服 制 の施行 が あ り、朱 、紫 に よって身分序列 を区分 した こ とが わか る。 『三 国史記 』 色 服 条 に は、 法 興 王代 の服 飾 制 度 が記 され て い るが 、 衣服 は もち ろん、 笏 の材 質、 冠 の色 に よって 区分 した こ とを知 る こ とが で きる。 また、「 猶 是 夷俗 」 と し、 法興 王 代 の服飾 制 度が 中 国 的 で は ない こ とを明確 に記 して い る。 中国式服 飾 制 度が 導入 され たの は、真徳王
3年 (649)と
後代 の こ とで あ り、 それ以前 まで は高句 麗 や百済 の服 飾制 度 の影 響が大 きか った と考 え られ る。法興王七年春正 月。頒 示律 令。始制百官公服 、朱紫 之秩 。
F三国史記』巻四
新羅本紀第四 色
服
新 羅 之初 。 衣服 之制 。不 可 考色 。 至 第二 十 三葉 法興 王 。 始 定六 部 人服 色 。 尊卑 之 制。猶是夷俗 。至 員徳在位二年。金春秋入唐 。請襲唐 儀。玄 (太
)宗
皇 帝詔可 之。兼 賜衣帝。遂還 来施行 。以夷易華。文武王在位 四年。又 革婦 人之胃R。 自此 己後。 衣冠 同
於 中国。 『三国史記』巻三十三
雑志第二
日本では、638年の冠位制の廃止以後、韓半島か らの北方文化の流入が途絶 え、大陸 と直 接交渉 した結果、華麗 な染織物の製織法が流入 した とい う記録がある。 しか し、 日本 は668
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年 か ら882年 の間に新羅 に36回 の使 臣 を派遣 したのに比べ 、中国へ は同期 間に
7回
の使 臣 を 派 遣 した にす ぎない8。 なか で も大宝律令 が制定 された701年 には、 日本 の使 臣は もっぱ ら 新 羅 にのみ派遣 され、唐 には使 臣 をただの一度 も派遣 しなか った。 日本 国内 にお ける7世
紀 中頃 の唐風 の流行 は、 中国 との直接 通交 に よって形成 された とされ るが、使 臣の派遣状 況 を考 えれ ば、韓半 島 を経 由 して受 け入 れ られた可能性 は排 除で きない。特 に奈 良時代 の 民 俗 、生活風 習が韓半 島三 国のそれ と非常 に類似 す る点で、服飾 ・織物文化 につ いて も古 代韓半 島か ら日本へ、 その流行が伝播 した可能性が高い。
文 献 上 の記録 に差 が あ るが、 日韓服飾制度 はその構 成 と服 飾面 において類似 点が見 出 さ れ る。 また、服 飾制 度の内容 お よび服飾 品の規定が簡略 であ る。 おお よそ官位 ご とに服 飾 に違 い を もたせ てい る。衣服 の種類 の なかで最 も多 く登場す るの は、冠 と帯 であ る。色 調 につ い て は、 国 ご とに色 の秩序 の順序 は異 なるが、色調 に よる区分 が存在 す る とい う点 は 明確 な事実 であ る。最後 に、織物 の種類 に言及 した記述 が ないため、 身分 に よって制 限 さ れ る織物の種類 を把握す ることは難 しい。
参考 として、統一新羅の興徳王の服飾禁制
(834)を
よ くみ ると、官等の代 わ りに骨品 によって表衣、袴、内裳、表裳、内衣、半腎、措桔の ような衣服 の種類、紫・緋 。青・黄 の色調区分、そ して、それぞれの衣服 に必要な織物の使用 に制限を設 けている。統一新羅 は、三回時代の諸文化 を継承 したため、興徳王の服飾禁制 に登場す る織物の名称が、百済 や統一以前の新羅で も生産 されていた織物であった可能性は排除で きない。3.服 飾制度 にあ らわれた織物名称 と遺物
織 物 は服 飾 制 度 を規 定す る際、最 も核 となる要素 であ る。衣服 の種類 、 シルエ ッ ト、色 調 が直接 的であ りなが らも単純 な基準 であ る とす れば、織物 の種類 で区分す るこ とは複雑 で、高次元 的な諸要素 となる。
織 物 は、原料 に よって、植物性繊維 であ る麻織物 と綿織物 、動物性繊維 である絹織物 と 毛織物 の四種類 に大 き く区分す るこ とが で きる。 しか し、文献 に記録 され た織物 の名称 を 羅列 してみ る と、 ̀布、麻、綿、絹、練、錦、 吊、羅、綾、綸、紗、紬、結、絶、綺、段 、 彩 (来)、 繍 、原 、褐 、 毛布、監能
,耗
託 、 障 日'な ど多様 であ る。織物名称 の多様 さは、原料 だけで はな く、製織 時の組 立 て構 造、精練過程 、組織 の厚 薄、密度 な どに よって区分 され織 られていた ことを意味す る。
実際、文献記録 を証明するような織物遺物の出土事例 は多 くない。最大の理由は、たい へ ん古いために現在 まで遺存する可能性が低い点にあ り、発見 されたとして も有機質の特 性上、外気への露出 と同時に容易 に劣化す ることにある。 したがって、現在 までに発見 さ れた大部分の織物 は、実物がそのまま完全 に出±9した というよ りは、金属や土器などの遺
物 に銹 着10した織物痕跡 (布痕
)と
して確認 され る場合がおおい。錆 で覆 われた織物 は金属 錆 に よって変色 して 固 くな り、事実上繊維 固有 の物性 は、 ほ とん ど消失 してい る とみ られる。
百済 と新 羅 の遺 跡 か ら実物 がその まま出土 した例 は、武寧王 陵 と陵 ア ンゴル古墳 、 陵 山 里寺址 、天馬塚、仏 国寺釈迦塔 な ど、非常 に限定 的で ある。 これ らは古墳 や舎利装置 とい う、外部の空気か ら遮断 された埋蔵環境内で保存 されていた という共通点 を有す る。出土 当時には鮮明なもの もあるが、大部分が空気 中に露出 したことで脱色や金属錆 によって変 色 し、本来の色 を推定す ることは困難である。ただ、顕微鏡 による調査 をとお して材質、
および組織、用途や付着状況を知ることがで きる。
調査 をとお して明 らか となった古代織物 は、麻 と平絹が大部分である。特 に、麻織物 は 衣服材料以外 に生活用品など、 さまざまな用途に活用 された。袋や風 呂敷の ような用途 と して、物 を包んだ状態で出土 した例が多い。例 えば、羅州伏岩里
3号
墳5号
石室墓出土刀 子の刃部には、織物で数回 くるんだ痕跡が確認 されている。産業用織物 として最 もよ く見 られる例 は、瓦 を製作す る際に用い られる瓦棉 を麻布のよ うな荒い布 で包 む もので、瓦内面 にその織物痕跡 を容易 にみ ることがで きる。 この よう に、産業用の織物 は細かい繊細 なもの よ りは、強 くて丈夫でなければな らないために、絹 織物 よりは麻織物が適当である。一方、 日本の場合、漆 を精製す る際 に鉄分 と微細 なほこ りを除去す るための濾 し布 として使用 した織物が多量 に確認 されているH。 それだけでな く、高松塚古墳、キ トラ古墳か ら出土 した漆片内側 には、板材が歪 まない ように麻織物 を 付着 させた様子12も観察 されている。 また、刀子の袋や鞘か らも発見 されるが、 これは織物 を緩衝材 として活用 した り、接着力 を高めるための充填、お よび塑形剤 として活用 した も の とみ られる。平澤大秋里遺跡では、土器片 を接合す る際に麻織物 を使用 した例 も確認 さ れている硝
。
つ ま り、麻織物 は古代社会 において最 も普遍的で実用的な織物であ り、衣服材料 だけで
第1図
平城京 出土漆濾 しの 麻織物
第 2図
高松塚古墳漆棺の麻織物 第3図
平澤大秋里2号溝状遺構 出土大型甕片付着麻織物
韓 日における古代都城の高級織物生産と使用
な く各種 道具、お よび生活用 品 を製作す るの に活用 されていた とみ るこ とが で きよう。一 方、麻 織物 と対照 的 に、冠帽、飾履 、鈴帯 、環頭大刀 な どの服飾遺物 か ら確 認 され る織 物 もあ る。紗 、羅、錦、綾、練 の ような組織 の織物 であ るが、大部分 が絹 糸 を使用 して製織 し、威 信 財 と と もに発 見 され てい る こ とが注 目され る。 文献 記 録 をみ て も、上述 の織 物 は、王 また は富貴 の者 の衣服 、公会 の参加 や 出使 時の衣服材料 であ る こ とか ら、高級織物 に分類 され る。
本 章 で は、服飾制度 において紗 、羅、錦、綾 の ような高級織物 に関す る文献記録 を詳細 に検討 し、実際の出土遺物 に対す る調査 内容 と比較検討 してみ ることとす る。
1)羅
織 物 と紗 織 物高級 織 物 の なか で も、特 に薄 くて軽 い もの と して羅織 物 が あ る。 中 国の F説 文』 に、
「羅 は鳥網 の よ うだ」μ
とあ り、
F釈
名』 に は、 「 文様 が あ り、密 度 が疎 な もの」15と ぁ る。通常 の織物 は経 糸 を平行 に配列 しなが ら緯糸 と織 ってい くが、羅織物 は経糸 を互 い違 い に織 るために 自然 と空間がおお く生 じ、半透明の織物 となるのである。羅織物 は、交差 す る経 糸 を
2糸
、4糸
、6糸
、8糸
ずつ交 互 に1条
に織 り上 げ、緯糸 と 撚 りなが ら文様 をつ くる。8糸
が1条
をな し、緯 糸 と撚 りなが ら文様 をつ くるが、緯 糸 は4糸
の組 み糸 で大 くつ くり、経緯糸 の太 さに違 い を もたせ る。網 の ような4経
撚 りをつ く るため には、縦長方 向 に4糸
の経糸が一組 とな り撚 りをつ くる際、 その撚 りの穴 の間に横 長方 向か ら緯 糸が通 る ように精密 に撚 る こ とで独特 の質感 と隙 間 を有す る ようになる。羅 の外見 は、一見す る と編織物 (網捩・ 籠捩)や
か ご (籠織)に
み え るが、羅織物 は本質 的 に経緯糸の区分 をな して製織す るため、編織物 とみ ることはで きない。古代 にお け る羅織物 の実物 は、
2〜 3世
紀 に編年 され る平壌 近郊 の楽浪王HT墓 出土 の菱 文羅崎、4世
紀初頭 の加耶 の福泉84号 墳 か ら1点
、5世
紀 の玉 田古墳群 か ら4点
、6世
紀 前 半 の道項里古墳群 か ら1点
ンとともに、仏 国寺釈迦塔 か ら羅織物 の風 呂敷 のほか に も数点の 残 片略が発見 されている。そ して、百済文化 圏の遺跡 において羅織物が初 めて確認 されたの
:寛
たが、武寧王陵で も用 途未詳の羅織物藝聾 :揺20が橿離
最 y,Iヾ
近 報 告 され た。近 年 で は、王興 寺址 舎利荘
厳 具 と弥勒 寺址 西 塔 か ら出土 した舎利荘 厳 具 に も羅織 物 が含 まれ てい た。 また、 文献 にあ らわれ る「羅冠 」 を端 緒 と して逆 三角 形 冠 飾枠 を調査 した結 果、 数点 の羅 が追加
で確 認 され た。 しか し、逆 三角形 冠飾枠 を
第4図
武寧王陵出上の羅織物
文献記録 上 の羅冠 と してみ る こ とは難 しい。 た だ し、羅冠 に使 用 され た羅織 物 の参 考 とす る こ とので きる資料 である と考 え られ る。
中国で は漠代 以後 、多 くの種類 の冠が発達 し、高句麗 と百済で羅冠別を用 いた とい う記録 が登場す る。冠 は地位 、 または身分 を象徴 す る格調 高 い頭飾 り (首飾
)で
あ り、羅 は古代 は もちろん朝鮮王朝時代 にいた るまで、冠 の材料22と して使用 され るほ ど高級織物 であった ため、その使用 は比較 的身分が高い者だけに許 された。冠 の材 質 となる羅 は、三 国時代 か ら使用 された。特 に高句麗 で は、 白羅、青羅、緋 羅、
お よび紫 羅23でっ くった冠 を使 用 し、 百済 の王 は烏 羅 でつ くつた冠 (烏羅 冠 )24を 使用 し た。統一時代 になる と、羅 は練 羅、越羅、布紡羅、野草羅 な ど、 よ り細分 され る。 また、
羅 の使 用 も六頭 品 と六頭 品 の峡頭 だ け に許 され25、 上 述 の各種 羅織物 でつ くられ た服飾 の 使用 は、真 骨 か ら四頭 品 にいた る まですべ て禁止 され た。後代 の記録 で はあ るが、
F増
補 文献備 考』 に も高句 麗東 明王 10年(27)に
「庶民 の文彩紗羅衣 を禁ず る」 とい う記録 があ る。他 の織物 に比べ て製織 上 の労力 を多 く必要 とす る羅 は、上流層 だけが使用 す る こ との で きる高級織物 であ った。服 を作 る際 に も使用 されたが、服飾制度 の中で も特 に冠帽 を作 る際 に使用 した織物 であった ことを知 ることがで きる。羅冠 につ い て は名 称 だ けが残 ってお り、具体 的 な形 態 と材 質、着 用 方法 につ い て は正確 にわか らない。 ところで、高句麗古墳 の壁 画や定林寺l■出土 の塑像 の よ うな発掘 資料 に、
羅冠 と推 定 し得 るい くつ か の遺物 が あ る。 それ は、 高句 麗安岳
3号
墳 や徳興 里 古墳 壁 画 の 墓主像 に表 された羅冠 と、定林寺l■出土例 にみ られ る籠冠である。まず、 高句 麗壁 画 の羅冠 は文献 に登 場 す る王、 また は百 官 の冠 帽 と して認 識 されてい る。 また、 これ は漢代 か ら隋唐代 までの中国の籠冠 と類似 す る もの として把 握 され、羅 も 網捩、 または籠捩26と も呼 ばれた ように、材質上 の類似点が看取 される。
中国の籠冠は、まばらに編んだ織物の上に漆を塗 り高 く立てて固め、内側が透けてみえ ることが特徴である。徳興里古墳壁画の墓主が着用 した冠 もやは り、内冠 として崚を着用 して内側が透けるようにしている。 ところが、漢代か ら唐代 までの中国の文献記録には、
籠冠、噴籠がよく記録 されているのに比べて、羅冠の記録をみつけることは困難である。
反対に、三国に関する文献では籠冠を着用 したという記録をみつけることがで きない。た だ、籠冠 と類似 した羅冠が、高句麗 と百済の王と官克を中心に着用された可能性が高い。
籠冠は、恵文冠 ともいう。「恵」はヒグラシを意味するが、冠の材質が繊細で軽 く、蝉
の羽のようであるためである
27。また、恵は細 くてきめが粗い編織物 を意味することもあ
り、斉では凍 しいことを称えて恵と呼び、軽 くて細い麻布のものを着ることもやはり恵 と
ぃった
28とぃぅ。 ̲方 、後代の籠冠は普遍的に着用されるため、藤
29のような材質を使用 し
たと伝える。これと対照的に、高句麗 と百済の羅冠は籠織に比べて高級織物である羅を使
韓 日における古代都城の高級織物生産 と使用
用 した点が、 中国の籠冠 との最 も大 きな相違 とい うこ とがで きる。羅 は、練や籠織 よ りも 多 くの製織 労 力 が必 要 で、 さ らに独 特 の質感であ るため、籠織 に比べ て相 当高級 な織物 で あ る とい え る。籠織 と同様、冠 の材料 と して羅織物 の短所 を補 う とともに、 中国風冠 の流 行 で羅織 物 の上 に漆 を塗 った と考 え られ る。 この ような点で、羅冠 は当時 の国際性 と固有 性 を反映 してい る とみ るこ とがで きるので ある。
一方、 日本 の場合 、漆紗冠 または漆紗篭冠 といい、 「紗」 とい う薄 くて粗 い組織 で冠 帽 を製作 し、 その表面 に漆 を塗 った とい う文献記録 と実物が残 ってい る。古代 の紗 は、経糸 と緯糸 の密度 をまば らに させ て平織 りで編 んだ絹織物 で、薄 くて軽 く、製織 の特性 上、蚊 帳 の よ うに透 けてみ えるのが特徴 であ る。 この ような特徴 のため、方空紗 、 また は方 目紗 ともい う。経糸 または緯 糸
2列
ご とに、空 間 をおいて織機 した りす る。 中国の場合 は2糸
織 り織物 を紗 羅 と呼ぶ こ とが あ り、平織 りの紗 を平紗 として区分す ることもある。
平 城 京 か ら出土 した漆 紗 冠 の実物 が現存 してい るが、非常 に粗 く編 んだ平織 りであ る。
『冠 帽図会』 図説 に武礼冠が描 かれてい る。 これ は紹蝉 と蝉文 の金臨 を付 けた中国の霧蝉 冠 、す なわ ち籠冠 の形態 とたいへ ん類似 す る。冠 の材 質 も、や は り平織 りの紗 で ある。朝 鮮 半 島 で は、 平壌 石 巌 里212号墳 か ら出土 した紗 織 物 が あ り、 平織 りの紗 織 物 とみ た りも す るが、経 糸 だ けで な く緯糸 に も
2糸
を用 いて製織 した、 たいへ ん特異 な形態 の織物 であ る。羅 は、 武寧王 陵出土 の織物片 と天安龍 院里
9号
石榔 墓 出土 の心 葉 形 金具 表面 の2糸
撚 り の羅30を除 けば、後期百済 の逆三角形冠飾枠 に ともなって発見 されてい る例。すべ て6世
紀 後 半 に比 定 され る遺物 で あ る。韓 国 にお いて、古代織物 自体 が残存 してい るこ とが稀 であ るた め速 断す る こ とはで きないが、羅織物 が付着 した冠飾枠 は銀製冠飾 とともに発 見 され第6図
平壌石巌里古墳出土の 紗織物
第7図
『冠帽図会』
の武礼冠 第5図
平城京出上の漆紗冠
337
てお り、羅 は上流層 の なかで も王族 と六 品の冠 に使 用 された と推 定 され る。 また、 これ ら はすべ て撚 りの ない こ とか らみて麻糸や毛糸で はな く絹糸 を利用 した こ とを知 る こ とがで きる32。
具体 的 な飾 りは不 明であ るが、逆三角形冠飾枠 をなす鉄枠 の表裏面 か ら数重 の織物 を巻 いた痕跡 が発 見 されてい る。特 に、逆三角形 の隅部分 には、羅織物 の他 に数種類 の織物 も 確 認 され る。羅織 物 は非常 に薄 くて軽 いだけで な く、伸縮性 が よ く、冠飾枠 を作 りやす い 織物 であ る。
扶余 陵ア ンゴル古墳 出±33の逆 三角形冠飾枠 中央 の突出部分 には、麻布
3重
、左右両側 に 平絹2重
ず つ 、総7重
の織物が挟 まれている。 その下 に も数重 の織物層 (5× 1 4c)が
敷 か れ てい るが 、 この位置 でのみ数重 の織物層が付着 してい る。針 穴が一定 の間隔であ き、冠 飾枠 の最 も内側 には細密 な平絹織物 と麻織物 、最 も上側 に粗 い紗 とともに羅織物 が幾重 に も付着 してい る。
4重 1条
で織 った羅 であ る。扶 余王興寺址 出土例 も、織物 の種類 はほ ぼ一致 してお り、特 にこれは王子が着用 した可能性が高い。最後 に、弥勒寺址西塔舎利荘厳具34から発見 された紗、羅織物があ る。 これは
4経
撚 りの 羅織物 の下地 に練 金 糸1列
を枠 で囲んで さ し縫 いで 固定 させ 、 その内狽Iは赤 色 糸 で縫 い と りを珀 した方 向 を維持 し繰 り返 しなが ら面 をまば らにふ さいだ平繍 であ る。唐代 の法 門寺 地宮 中室(708)出
土舎利荘厳具 のなか には、紅色羅織物 の下地 に練金糸で刺繍 を入 れた半」(̲̲
̲ :\
/
第 8図
後期百済の逆三角形冠の推定図 (前面、側面)
i離 韓
第10図
扶余王興寺址出上の逆三角形冠飾枠の羅織物 (× 63)、
紗織物 (× 63)
/ 一
ヽ︲ 中
け﹂けレ
第9図
扶余陵 ア ンゴル古墳 出土 逆三角形冠飾枠 の羅織物
韓 日における古代都城の高級織物生産と使用
腎 、案裾 、 ス カー ト (裾 )、 袈裟 が あ る。 一方、仏 回寺釈迦塔 か らも羅織物 が多量 に確 認 され た。古代東 ア ジア地域 で生産 され る羅織物 は当時の最 高級織物 であ り、舎利荘厳 の形 式 を揃 える品 目であ った こ とが推測 され る。
2)錦
織 物 と綾 織 物古 代 の錦 は、経糸や緯 糸 に二種類 以上 の色 糸 を使用 して多彩 な文様 を重組織 で織 った も の35をいい、比較 的厚 みのある高級絹物 の一種類 である。 『説文』 に、錦 は「裏 邑に編 む文 様 が あ る絹 で吊 と金 に准ず る もの」36と ぁ り、後漢末 の劉 熙 が記 した F釈 名習 には、錦 は
「金の ような重量 で交換す るほ ど高貴 な もの」37とぁ る。
韓国において、錦織物 は
3世
紀 にすでに製織 された。すなわち、三韓時代か ら公会のあ る時や出使時 に身に付 ける衣服の材料 として使用 されていたのである。高句麗で も扶余 と 同様で、公事 に集 まる際や有級者の衣服 として錦織物が使用 された。百済では王の錦織物 のズボ ン (錦袴)を
、新羅では富貴者のために錦織物 に各種の刺繍 と色糸 (錦繍雑采)を
加 えて帽子 を作 ったという記録38がぁる。
錦織物の製織方法や文様 に関する記録 はない。 しか し、出土遺物 をとお して古代 には経 錦が最初 に発達 し、 さらに
7世
紀頃には西アジアか ら練錦製織方式 を受容 しなが ら発展する過程がわかる。 また、錦織物の下地組職は、平組織や綾組織でつ くられる。
『三国史記』 には、新羅榊徳王
4年
(651)1こ王は自ら太平歌 をつ くり、錦 を織 って唐の 皇帝 に捧 げた とい う記録39がぁる。 また、聖徳王22年(723)と
恵恭王9年
(773)│こは、唐 に朝霞紬、魚牙紬 を、景文王
9年
(869)とこも朝霞錦、大花魚牙錦、小花魚牙錦、四十升 白魯布40匹 、三十升結杉段40匹を送った。朝霞紬、魚牙紬、韓錦の記録 は、F新
唐書』 や『日本書紀』 にもみ られる40。 錦織物 は、高級織物 として唐や 日本への朝貢、お よび賜与品 として活用 されていたのである。
特 に朝霞錦 と朝霞紬 は、新羅の特産物 としてみ られる。 『説文』 に、朝霞 は「赤雲気 也」 と記録 されているが、 これは「赤い機通、赤い雲気」 を意味す るものである。朝霞 は 赤色系統 を象徴 し、朝霞錦はまるで朝霧 を連想 させ る一種の絣文様の織物 (Ikat)と考えら れる。一方、大花、小花 は具体的な花文様ではな く、大型文様 と小型文様 を示す。東アジ アにおいて大型文様の使用 は、主に錦織物や綾織物 に認め られる。
百済の錦織物 は、水村里古墳群 と武寧王陵、弥勒寺址か ら確認 されている。水村里古墳 群は、440年代 に推定 される百済の古墳群で、織物 は大部分が金鋼や鉄器遺物 に伴 って確認 された。そこでは絹 と麻 を含み文様 をもつ綾織物 (紋綾)、 編織物、錦織物 など、上位階 層で使用 される織物が多数発見 されている。武寧王陵出土織物の大部分 は、数種類の織物 が付着 している固ま りの状態や、小 さな切れ端の状態であ り、小 さな織物片が正確 にどの 遺物 に属 した ものなのかわか らない ものなどが多い狙。
339
武寧王陵出上金銅飾履 内か ら分離 した織物
̲̲..̲‐
―・―
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で 、大 きさが金銅 飾履 の半分程 度 の ものが あ る42。 色調 は、金属が錆 びて織物 に吸着 したた め青色 を帝 びてお り、 固 まった状 態 で あ る。
外 側 は錦 織 物 で 覆 わ れ てお り、 内側 に数枚 の 麻 織 物 が 重 な り、端 は結 び 目飾 りとな っ てい る。 これ は、金銅 飾履 の 内側 に履 い た錦履物 で あ る可 能性 が推 定 され る。経錦 片 の裏面 に は、平絹織物 と苧麻織物 が
5〜 6重
程 度 で幾重 に も重 な って い る。 これ は、経 錦 の裏面 に 第11図
金銅飾履内側 に付着 した織物 平絹織物 とともに手麻織物 を重ねて貼 り合 わせ ることで、履物の底 を作 る際 に使用 した も のであろう。
経錦織物の前面 にはZ撚 りの撚 り糸を使用 して、
V字
に連続的に刺繍が施 されている。す ぐ裏面 にも3列
の 目を粗 く縫 っているが、 ここに使用 された糸は太 さと色調 を異 にす る。おそ らく、 目を粗 く縫 うことで数重の布 を固定 した後、撚 り糸 を使用 して輪郭線 を縫い と りで飾った ものである。本返 し縫いの ように、後 ろか ら針 をさす方法で、上下二重線総
4
列 を表現 した。 これ以外 にも、濃茶色の平絹織物片か らかが り縫い (Button h01e stitch) 技法 と鎖縫い (Chain stitch)の刺繍跡 も確認 された。新羅の天馬塚か らも、下地が紫色、下地の裏面は赤色で、文様表面は赤色、文様裏面 は 紫色の経錦が発見 された。錦 は、経糸 に染色 した色糸 と
2糸
や3糸
の経糸 を重ねて配 し、表面 にあ らわれる経糸 をかえなが ら文様 を織 った経錦 と、緯糸にさまざまな色の糸 を数重 重ねて配 した後、緯糸で文様 をつ くる緯錦 に分類 されるが、出土遺物か らみて、緯錦が盛 行 した時期 は
7世
紀中葉以後である。 この ような錦織物の服飾 としての遺存例 はないが、高句麗東岩里壁画残片 には、スカー ト(襦
)や
ズボ ン (袴)に
多彩 な色調の格子文様 をみ ることがで きる。一方、古代 の綾 は綾組織で織 られた織物 を意味す る。綾線が規則的にあ らわれるのが特 徴で、組織 に変化 を与 えなが ら文様 をつ くり上げることもで きる。古 くか ら中国の機織物43 では、平組織 の織 り目に綾調織や浮織か ら文様 をつ くり上げるものをさすが、 日本ではこ れを綾織物 に含め、平地綾文綾 として分類 している。 日本では、平組織錦 に綾組織で文様 を織 った錦織物のように文様 を織 ることがで きるとい う点は共通す るが、錦織物が相 当厚 いのに対 して、綾織 ははるかに薄い。 したがって、綾織が錦織物の替わ りに生 じたわけで はない。 しか し、
6〜 7世
紀 を前後 して華麗 な緯錦織物が登場す るとともに、錦織物 を補 助 した り、ほのかな質感 によって緯錦織物の華麗 さをやわ らげる高級素材 として、綾織物韓 日における古代都城の高級織物生産 と使用
第12図
天馬塚出上の経錦 を使用 したので はないか と考 える。
第13図
平安南道順川東岩里壁画残片
綾織物 に対す る文献記録は、高句麗 と百済には伝 わってお らず、統一新羅の興徳王の服 飾禁制 にみることがで きる。記録 には、男性 の内衣 。半膏・機、女性 の表衣 。内衣 。袴・
半腎・措祐・抱 。穣 な ど、数種類の衣服材料 として綾織物が使用 されたことを教 えて くれ る。綾織物 は、錦織物 に比べて多様 な用途で使用 され、錦織物 よ りは簡単な製織技法で文 様 も表現することがで きる。
ここでは、現存する綾織物遺物 をとお して当時の綾織物 を検討することとする。
ソウル歴史博物館 に所蔵 される金銅飾履 は百済時代の もの とみ られるが、正確 な出土地 と年代 は不明である。 この金銅飾履の内側か ら、組織が粗 い麻織物 とともに撚 りのない 2
×2c面の
2/1の 3枚
綾組織織物が確認 された。綾織物の位置は、履物足元部分の鳳風紋 を 透彫 した穴の間にある。履物の外見 を考慮 して、綾織物 を使用 した と考 え られる。瑞 山富 長里か ら出土 した透彫金銅冠帽の織物 もこれ と類似 した用途である。2/1の 3枚
綾織物 は、新羅の天馬塚出土遺物で もみ られる。天馬塚 出土織物は腐食が著 しく、破片であるために全体文様 を確認す ることがで きないが、銀製帯金具、飾履 な どに 付着 していた とい う点で、百済の金銅飾履 と用途面で類似す るとみることがで きる。仏国 寺釈迦塔舎利荘厳具のなかにも数点の綾織物が発見 された。大部分 は2/1、 3/1の
経綾 織であ り、文様部分 は1/5〜 1/7の
緯綾織 として表 されている。仏国寺釈迦塔舎利荘厳具 には、金銅製舎利外金 の風 呂敷 として使用 された と推定 される 横33cm、 縦
28cm大
の綾織物がある。 この綾織物 は、経綾織で織 った散′ミ文様の織 り日に、直径約11.5cm枠 のなかに主題文様が対称 をな して配 され、中央 に菱文 を緯綾織で織 った綾 組織連珠文のそれ と同 じである。 したがって、 シルクロー ドか ら出土す る織物や、 日本正 倉 院に所蔵 された織物 と比較 しうる重要な資料 と考 え られる。 これ と類似す る織物がlR飾
第14図
ソウル歴史博物館所蔵金銅飾履 内側の綾織物
第15図
仏回寺釈迦塔出土の綾織物 に使用 された例 を、北斉徐顧秀墓
(571)出
土品にみることがで き、単位文様の大 きさが20〜30cm位の連珠文が、4t、 鞍の縁装飾 に用い られている。そ して、唐代の間立本
(601?〜
673?)が
描いた『歩輩図』のなかの、吐春使臣禄東賛の赤色抱 にもある。釈迦塔出土綾織物の文様の配置お よび構図は、連珠環が連 なった連珠文ではない。 しか し、枠内に主題文 様 を配置す る実紋の形式 は、古代 シルクロー ドを中心 に発見 される錦織物や綾織物の文様 配置および構図 と類似 している。
一方、 日本の服飾制度で織物名称が確認 されるのは、681年の「王子以下庶民 にいたるま で、すべての服 に使用す る錦、繍、綾 など、その他 にさまざまな ものを着用す るが、それ ぞれの身分 によって使用 しなさい」 とい う内容が唯―である。そ して、聖武天皇 と光明皇 后が752年、東大寺本尊の慮舎那仏開眼式に参加す る際、王后礼服 として白綾袷抱
1領
を着 用 したという記録 と、正倉院緑綾抱がある。3)平
絹 織 物先 に列挙 した多様 な絹物の名称のなかで、「吊」 と「絹」は絹物の総称 として使用 され る。特 に、絹の場合 には平織 りに製織 された絹織物 を意味す る。平織 りの絹織物 は、絹以 外 にも「絶」 と「紬」 をあげることがで きるが、主に絹 を紡いだ短繊維 (Staple)の 絹 を意 味する。一般的に絹、絶、紬が、平絹織物 を代表するといえる。
興徳王の服飾禁制 を参考 にすれば、錦、綾、羅の次に、絶、絹、紬 とい う順 に記録 され てお り、平絹織物は錦、綾、羅 よりは価値が落ちることがわかる。 また、絶、絹、紬 にも質 的な差異があった とみ られる。同 じ平絹織物 にあって も細分 して名称 を区別 した ということ は、織物 自体が有する貨幣的な価値のためである。無条件に細 くて美 しいといっても、良い もの とは限 らない。一例 として絶 と絹の差異 をよくみると、絹は繊細なのに比べ、絶 は荒 く て太い糸で製織 されたものをいう。 ところで、興徳王の服飾令 をみると、絹 より絶がさらに 高級であったことがわかる。特に、古代 日本の絶織物 は、朝貢、進上品 として活用 され、絶 は荒いが独特の肌触 りをもった平絹織物の一種類であった と考えられる。
韓 日における古代都城の高級織物生産と使用
平 絹織 物 は、麻織物 を除いて最 も広 範 囲 に使用 された衣服材料 と考 え られ る。平絹 は、
高級服 飾 の最 も基本 となる織物 で、使用範 囲が広 いだけに生産量 も多か ったであ ろ う。錦 と綾織物 の よ うな華麗 な織物 は表地用 であ り、裏地 に用 い るには適 さないためであ る。 こ の ように平絹 は、裏地 をは じめ として各種 の上・下衣 や帽子、足 袋 をつ くる際 に も使用 さ れ たで あ ろ う。
6世
紀 中頃の百済使 臣が描 かれてい る 『梁職貢 図』 や、平城京 か ら出上 し た木簡 の絵 に も、文様 のない織物 の上着 (抱)と
ズボ ン (袴 )、 帽 の着用が認め られる。基 本 的 に、絶 と紬 は平 絹織 物 で あ るた め に柄 が ない。 そ の代 わ りに、 爽績 、蝋緬 (膜 績
)の
方法 で級 染 して文様 をつ くり上 げた りす る。 この こ とは、 日本 の正倉 院に所蔵 され る絶織物 か ら製作 された抱 、袴 な どの服飾遺物 か ら確 認す るこ とがで きる。爽練 は、 防染 に よる染色技 法 の ひ とつで、織物 を一定 に折 り、文様 を彫 り出 した版 木 に密着 させ た後、版 木 間 に染 料 を注入 して染色 す る技 法 であ る。絶織物 の荒 い肌触 りは、級染 す る際 に他 の 織 物 よ りもさ らに防染が容易 で、染料 もよ く浸透す る。古代 の 日本 で は、製織 に よって文 様 を織 り出す錦 と綾織生産は、技術 的な面 において限界があったため、絶織物の ような平 絹織物 に文様 を染色す ることによって高級織物 を生産 した と考 えられる。 日本の古文書 に 絶織物が よく登場することも、 これを裏付ける。
正倉 院所蔵の純織物でつ くられた抱 は、大歌抱、紫絶抱、白絶単抱、紅絶単抱残欠など がある。基本的に九い盤領襟 に筒袖、右41形態である。従来、抱 は最 も外側 に着 る衣服で あるが、朝服 として抱 を着用 したことか ら推測 して、朝服の意味 も有 している44。 正倉院所 蔵のttは楽人が着用 した ものであるが、当時の粗服 を推測す ることがで きる資料である。
とくに大歌抱の場合 には、表地は緑綾織、裏地 に白色絶織物 を用い、それを重ねて製織 し た ものである。表地 と裏地はすべて織幅
1尺 9寸
であ り、今 日の約56cmを活用 して製作 さ れ た。 これ は布杉 に使用 された麻織物 の直幅
2尺 5寸
よ り狭 い ものである45。
絶織物のような平絹織物で つ くった服飾 を確認すること ので きる視覚資料 は、 きわめ て少ない。遺存する絵画資料 としては、中国梁の武帝 (502
〜
557)の
在位40年 を祝 うた めに訪問 した外 国使節の姿 を 描いた『梁職貢図』 と、日本 平城京 か ら出土 した木簡 の第16図
『梁職貢図』 (541〜
542
第17図平城京出土木簡 年)(中国国家博物館所蔵)
絵 をあげることがで きる。
4)そ
の他:麻
織物 、綿織 物 、真 綿46文献記録 において綿織物 と判断 されるものは、 『翰苑』、 『三国史記』、 『冊府元亀』
に表れた「 白量布」がある。文献上の白髪布 は、韓半島で生産 された ものではな く輸入 さ れた綿織物47でぁる。 よって、当時の綿織物 は高級織物であった と考 えられる。古代の綿織 物 は、木綿ではな く草綿か ら採取 した とい う。文献上の白憂布 は、最近、扶余陵ア ンゴル 古墳か ら出土 した遺物 において確認 され、高句麗 をは じめ として、百済 と新羅で綿織物 を 使用 していたことがわかる。 また、出土綿織物 は白色ではな く黄掲色 を帯びてお り、短い 種子毛 を使用する草綿か ら作 られた綿織物である可能性が高い。
『通典』、
F後
漢書』、 『三国史記』 には、「綿」 と「縣」の記録が残っている。 これは繭 か ら産出された縣である。繭か ら繊維 を紡 ぎ取 る絹織物 は長繊維へ とつ らなるが、 この古 代の縣は短い絹糸 を撚 ってつ くった絹織物の一種類で、木花か らつんだ綿織物ではない。綿は、後代 に登場す る真綿 (雪綿子
)で
ある。F三国史記』 の「安勝 に綿十五称 を送 った」という記録 において も、称が秤 を意味する漢字語で、綿の重 さの単位名称 と考えられる。
第18図
扶余陵寺出上の綿織物
武寧王陵出上の雪綿子の塊
韓 日における古代都城の高級織物生産 と使用
公 州武寧 王陵 出土遺物 の なか には、茶色 を呈す るおお きな固 ま りが あ る。 これ は経 糸、
緯 糸 の交 差 に よる織 造 点 が み られ ない こ とか ら、織 造 され た もので はない。綱 い繊 維 が練 られ てお り、繊維弾性
(Resihence)が
残 って い る。繊維 を分析 した結果 、 絹 糸 で あ る こ と が 明 らか となった48。4.高 級織物の製織、お よび拡散
韓 国お よび 日本 を含 む東 ア ジ アの機 織 文 化 は、 お お か た中国 を起 源 と して い る た め、現 在 日本 に残 って い る織 物 と織 機 は中 国 か ら韓 半 島 を経 由 して発展 した可 能性 が 高 い。 考古 学 に よる出土織 物 だ けで は資料 の保 存 状 態 が 良好 で は な く、織物 本 来 の色 や 文 様 を研 究 す るの には限界が あ る。 しか し、文献 史料 に残 ってい る古代韓 国の織 物 に関す る記 述 をよ く 検 討 す れ ば、紋織 物 を含 む多様 な織 物 が登 場 す る こ とか ら、常識 的 に、 当 時 の韓 半 島 にお いて も高機 を用 いて製織 していた と推 定で きる。
韓 半 島で はい ち はや く
3世
紀 以前 に錦 織 が製織 され たが、特 に雲 布錦 、 五色 錦 、 紫 地級 文錦 な どの記録49が伝 わ る。三 国時代 には絞級 染 な どの高級染織技術 の水 準 を有 して いた こ とか ら、押 し染 めや浸染 の歴 史 は、 は るか に遡 及す る もの と考 え られ る。 また、 染 色 だけ で な く刺繍 や金銀箔 に よる作 業 も可 能 で あ ったため、実際、織物 の色彩 は華麗 で あ つた ことだ ろ う。
古 代 国家 で は、織 物 生 産 を国家 的次 元 で奨励 した。 『三 国史記』 の記録 に、 百 済 蓋 薗王 は472年、北魏 顧祖 に錦織 物 を送 り、北魏 王か ら礼状 を受 けた とい う内容50がぁ る。 これ は 百 済文化 圏の公州水村 里 、武寧 王 陵、弥勒寺址 か ら出土 した錦織物 が、 国内、特 に都 城 内 で製作 された可能性 を裏付 ける重要 な史料 と考 え られる。
高旬麗 において も、紫 地級 文錦 、五色錦、雲布錦 な ど、錦織物が生産 され た こ とを知 る こ とが で きる。新 羅 で は真 徳女 王が太平歌 をつ く り、 これ を支様 として織 った錦 を製作 し て唐 に捧 げた とい う記録51がぁ る こ とか らも裏づ け られ る。特 に統 一新羅 時代 に至 り、瑞 文 錦 、大花魚牙錦 、小 花魚牙錦 、朝霞錦 を唐 に貢物 と して送 った とい う記録52がぁ る。
一方、新 羅で は嘉俳 (宮中 で 陰暦
8月
15日 に行 われた遊戯)に
機 織 り競 争 を した とい う 記録 を とお して、 国家 的 な次元 で織 物 生 産 を奨励 した こ とを知 る こ とが で きる。 また、景 徳 王 (742〜 765年 在位)以
前 か ら、朝 霞房 、染 宮 、紅典 、蘇房典 、錦 典 、 綺 典 、 麻 典 、曝典、毛典のような官が存在 し、高級織物の生産に国家が直接的に関与 していた ということ
は、たいへん重要な事実である。官衛 は染色 と製織、織物の種類 によって分け られ、毛や
度の場合にも各工程別に編成 された官衛は、比較的体系的な運営方式だといえる。 こうし
た官衛では、宮中で所用 される服飾一揃 とその他生活用品を含めて、国家次元で賜与 され
る品 目を生産 したのであろう。官行 には「母」 をは じめとする 6名 か ら
23名が置かれた
が、母 は首長級職人 として、母の下 には また数名 の技術者が存在 したのであろう。
古 代 日本 の染織 文化 は、 中国か ら直接 影響 を受 けたので はな く、主 に韓半 島か ら影響 を 受 けて発 展 した と考 え られ る。 当時、 中国で はな く韓 半 島か ら伝 来 した 日本 の重要 な染織 文化 に対す る文献記録 をみ る と、次 の とお りである。
まず、
F日
本書 紀』 に よれ ば、2世
紀 後 半 、 百 済 の 肖古 王 が 日本 の使 臣で あ る岡波 移 に 彩 絹 な どを下 賜 した とい う記録が あ る。 『古事記』 には、 「百済 は呉服、西素 の二人 を送 ったが、かれ らは秦 製織 の先祖」 と記 してい る。 [日本書 紀』 には、応神天皇14年 (283) に「百済 王が縫衣工女 を送 った」 とい う明確 な記録 とともに、雄略天皇7年 (463)に
は、百 済 か ら錦 部 定安 那錦 な どの一 派 が 河 内 国錦 部 方 に定住 した とい う記録 が あ る。 同14年
(470)に
は、漢織 、呉織53、 衣縫 す る姉 妹 が 日本へ 来朝 して大和 国桧 限野 に定着 し織縫 を 伝授 した、 これ らが後 に飛 ′ミ、伊勢 の衣縫 部 となった54とぃ ぅ。日本 は、
2世
紀 後 半 か ら3世
紀 、 そ して5世
紀 にか けて、韓 半 島か ら染織 と製織技 術 を 輸 入 した。552年の仏教 の公式 的 な伝 来、6世
紀 末 の聖徳 太子 に よる摂 政 に よ り、 少 な く と も推古 天皇 時代 まで は、韓半 島の染織 文化 が 日本 に直接 的 な影響 を及ぼ した と考 え られ る。 当時の直接 的 な文物交流が、 日本 で も高級織物 を生産す る契機 となったであろ う。百済 と新羅 の高い水準の製織技術 は、『冊府元亀』、F日本 書紀』、『三国史記』、F唐会要』、
『正倉 院古 文書』 を とお して も証 明 され る。統 一新 羅 で生産 され た織物 は、 中国や 日本以 外 に西 域 に まで輸 出 された。 この よ うな なか、679年、681年 、685年 、688年 、752年 な どに わ た って 日本 が輸入 したの は、錦 、綾 羅、錦 綾 、彩 絹 、絹、繰錦、霞錦、藍 の ような高級 織 物 で あ った。 天武 天皇 10年
(682)に
も霞錦 を送 った記録 があ り、 日本では これ以後、製 織技 術 を習得 して案子錦 を織 るまで に発 達 した とい う記録 が あ る。 「実子錦」 は枠 文様 を 施 文 す る錦織物 で、 当時最 も流行 した連珠 文錦 もこれ に属 す る。 この ように、統一新 羅 の 高 い水 準 の染織物 の輸入 によって、 日本 の高級織物 製織技術が高 まったのであろ う。F源氏物語』 には「高麗人の緋錦綺共」 とい う記録があるが、 これは天武天皇、持統天 皇代の霞錦 と考 え られる。韓半島をとお して伝 来 された もので、遺物 としては法隆寺伝来 の広東錦、正倉院の東大寺銘墨書をもつ腰裳 などに秘錦がある。
錦織物 の他 に、羅織物 も大陸か ら伝 わって きた と想定 される。中国の場合、 はや く漢代 か ら製織 されたが、 日本 にいつ伝来 されたかについては明確ではない。ただ、仲哀天皇
9
年(200)に
新羅 よ りもた らされた齊 にみ える「金銀彩色及綾羅練絹」55の記録が最 も古 い。羅の製織技術56に関 しては、応神天皇14年(413)以
来、中国か ら羅 と紗の織法が伝来した とみ られる。
日本が近隣諸国に送った織物の内容 を とお して、製織技術の水準 を知ることがで きる。
主に貢物 を送 る際に 日本で生産 された織物 を送 り、その種類 は絲・綿・絹・絶 の範囲 を超
韓 日における古代都城の高級織物生産 と使用
える もので は なか った57。
709年 、美濃絶30匹58を新 羅へ 、734年に は美濃絶 と手織絶 各200匹を中国 に朝 貢 した記 録59がぁ る。
絶 は一 般 的 な平 絹 織 物 の ひ とつ で あ り、 荒 く太 く 製 織 され るが 、繊細 な絹 よ りも高級 品 とみ る こ と が で きる。 美濃絶 は、美濃 地方 の特 産 品 と して把 握 され る。 当時 、 日本 で は貢 物 と して使 用 され る ほ ど、高級織 物 の一種 と して絶 を生 産 した こ とを 知 る こ とがで きる。
日本 の平城 京 長屋 王 (676〜
729)氏
田ヒ宮 区域 か ら出土 した木簡 に も、絶 の生 産記録 が み られ る。木簡 には総 180字 が墨書 され て い るが 、 主 要 な内容 は 日本 の伊 勢地 方 で どん ぐ りを用 い て染 色 した純 織 物 を進 上 し、 これ らが大 御 服 、 御 下 裳 、 揮 の材 料 と して需給 された こ とを物 語 って い る。
伊 勢地方 は、『日本書紀』雄略天皇14年
(470)の
記録 か ら、百 済か らの渡来 人 に よって織 物 製織 が始 まった所 である。 したが って、木簡 にあ らわれた伊 勢 地方 の絶織物 製織 や、 どん ぐ り染色 法 は百 済 の製 織技術 と無 関係 ではなか った と考 え られ る。美濃 と伊勢地方 は、奈 良の東北 方 に位 置す る地域 で、現在 まで織物生産地 として有名 である。 また、
川 と海 に接 している とい う点か ら、織物生産地であ る扶 余 や公 州 と共通点 が見 出せ る。 これ らの地域 は、服飾律令 にともなって都城 内で需給 され る高級 織 物 を生産す る供給地 として、 国家 的 な次元 で発展
した可 能性 が高い。正倉 院 に現存 す る平織 りの絹が絶 と分類 されるこ とや、平城 京 内 か ら 出土 した絶織物 の残 片 を とお して、都 城 内で よ く用 い られた絹織物 の一種 であ った こ とを 知 る こ とがで きる。
5。
結 論
以上 、古代服飾制度成立期 に出現 す る古代都城 の織物名称 と、現存す る遺物 を詳細 に検 討 して きた。服 飾制 度 の一要素 と して、織 物 は製織 特性 上 の微 妙 な差異 を有 し、上 下 の 区 平城京出土木簡に記録された伊勢地方の絶生産
御 加 橡 煮 遣 絶 汁 匹 之 中 伊 勢 絶 十 匹 大 服煮 今 汁 匹 宮在 純 十 匹井 対 匹煮 今急 ミ進 山 方 王
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分が容 易 で は ない。 また、 文献 にあ らわれ る織 物 の 名称 は多 様 であ る。 なか で も、服 飾 制 度 に関す る文 献 記 録 と現存 す る遺物 を通 じ、 高級 織 物 と して分類 す る こ との で きる もの に は、紗 、羅、錦 、絶、繍、 自憂布 な どが あ り、各 々の内容 は以下の とお りである。
紗 、羅 織 物 は、 高級織 物 で薄 くて透 け る素材 で あ る。 服 飾 制 度 の なか で は、冠帽 を製作 す る際 に必ず使 用 された こ とを知 る こ とが で きる。 薄 くて透 け るだ けで な く、仲縮性 が良 いためで あ る。広 くみれ ば、東 アジアの服飾制 度成 立期前後 に流行 した古代漆紗冠、漆紗 籠冠 の発 達 と流 行 とも密接 に関 わる高級織 物 で あ る とい え る。
錦 、 綾 織 物 もあ る。特 に錦 の製織 は相 当 に古 く、 公 会 や 出使 時 に着 用 され る公式 的 な衣 服 の素材 であ る。文献 を とお して、錦織物 でつ くったズ ボ ン、帽子 な ど衣服 の種類 を知 る こ とが で きる。 また、現存す る遺物 か ら、抱 、裳 、履 物 な どの素材 と して使用 された こ と がわかる。製織方法が相 当に複雑であるにもかかわ らず活用度が高い とい うことは、それ だけ多 く生産 されていた ことを意味す る。特 に錦織物の製織技術 は、 中国への輸出をお こ ない、製織技術 を日本 に伝 えるほ ど優秀であった とみ られる。統一新羅時代 に至 り、特産 品として発展 し西域 にまで輸出するほどであった。
一方、綾織物 はいち早 く幾何学的文様構 図の機織物 として出現 したが、綾織物 に関す る 文献記録が登場す るのは比較的遅い。遺物 をみて も、その上限は
6世
紀後半頃である。綾 織物の遺物 をよ くみると、案文型式の ように錦織物 との類似性が発見 され、華麗で高価 な 錦織物 を補完 して発展 したのではないか と考 えられる。服飾制度か らは確認 されないが、文様のない絶織物 の ような平絹織物 もまた、高級織物 として各種衣服 の表地 と裏地 に使用 された。 また、絶織物 に爽績、蝋績 (眼績
)の
方法で 級染 して文様 を染め上げた りした。 このことは、正倉 院に残 る絶織物 である抱、袴 などの 服飾遺物 をとお して確認す ることがで きる。古代 の 日本 国内では、他織物 に支様 を染色す ることによって高級織物 を生産 した と考 えられ る。 これ以外 にも、各種刺繍 などを加 えて 織物の価値 を高めた り、一部上流層では白藪布 の ようなイ ン ド産輸入織物 を使用 した りし た。高級織物 は服飾制度成立以前か ら生産 されたが、服飾制度の成立 をとお して高級織物 と しての価値 を確立 させ、 これを契機 として都城 内での需要が増加す るようになった と考 え られる。 また、制度上 は登場 しないが、実際の生産 において織物 をつ くる原糸の重 さ、染 料の量、織物の幅などの生産体系 もまた、徹底的に整理・規格化 していたであろう。
織物 を織 る機織の技術 は、古代か ら現代 にいたるまで中枢技術であった とい うことがで きる。特 に高級織物の生産お よび製織 は都城隣近で行 われた とみ られ、製織技術 と生産量 もやは り国家的な次元において直接統制 していた と考え られる。