シンポジウム報告
早稲田大学芸術週間 2017 年度 シンポジウム
早稲田大学所蔵資料に見る日蘭関係史研究の今後
―洋学文庫、富田万里子コレクションを通して―
報告
日時:2017年10月21日㈯ 13:00~16:00(12:30開場)
会場:早稲田大学 27号館地下2F 小野記念講堂 主催:會津八一記念博物館
【開会挨拶・主旨説明】
13:00 ~ 13:10
塚原 史
(會津八一記念博物館館長)【基調講演 1】
13:10 ~ 13:50
富田 万里子
【基調報告 2】
14:05 ~ 15:00
植松 有希
(板橋区立美術館)15:20 ~ 16:00
小林 邦久
(早稲田大学図書館資料管理課長)プログラム
會津八一記念博物館 研究紀要 第19号
あいさつ・趣旨説明
塚 原 .史
會津八一記念博物館館長
ただいまご紹介に預かりました、會津八一記念博物 館館長を勤めております塚原と申します。さきほど、
柏㟢くんからもありましたが、本日は台風接近という ことで、大変お足下の悪い中を、関心の高い方々にお 集まりいただき、大変感謝しております。厚く御礼申 し上げます。
講演に先立ちまして、本日の催しの趣旨を簡単に説 明させていただきたいと思います。
早稲田大学の図書館は日本の大学の図書館でまさに トップクラスの規模で量、質とともにレベルの高い図 書館ですが、そこには洋学文庫という大変貴重なコレ クションがございます。また、私どもの會津八一記念 博物館でも、画家の富田万里子様が非常に貴重なコレ クションを寄贈して下さいました。早稲田大学はこの ような二つの貴重な日蘭関係の資料を所蔵しておりま す。これらの資料の詳細というものは、専門の研究者 の研究が進んでおりますが、今後の研究に資すために このような形のシンポジウム「早稲田大学所蔵資料に 見る日蘭関係史研究の今後――洋学文庫、富田万里子 コレクションを通して」を開催させていただくことに なりました。
このシンポジウムを開催することによって、江戸時 代に日本でほとんど唯一の西洋との交流の窓口であっ た長崎において、江戸時代の人々が西洋の文明、文物 に触れることができた、そのことの資料、そして詳細 な記録のようなものが明らかになるのではないかと 思っております。
江戸時代の西洋の学術研究というものはみなさんご 存じのように蘭学と洋学ですが、この蘭学の導入史と いうものが、今回、御三方のお話を通じて明らかにな
るのではないかと思っております。
また、本年2017年には、東京で長崎版画を中心とす る重要な展示が開催されておりました。一つは、板橋 区立美術館で『長崎版画と異国の面影』展が開催され ました。また、會津八一記念博物館でも『富田万里子 コレクション 長崎版画』展が開催されました。二つ の展示はすでに終了しておりますが、そういった展示 をもとにしてどのようなことが明らかになったか、そ して、そのような展示において主催者の方々がどのよ うなことを伝えたかったか、そういったことについて 洋学文庫コレクションとあわせて、みなさんにここで ご理解いただければと思っております。
(紹介しながら)それでは、これからお話いただく富 田万里子先生でございます。それから、板橋区立美術 館の植松有希先生でございます。それから、早稲田の 図書館の資料管理課長の小林邦久先生でございます。
富田万里子先生は本学校友で朱葉会という画家の団 体がございますが、その会員の画家でございまして、
富田先生の絵はこの建物に入ったところの入口の向 かって右側のところに掛かっております。富田先生は ご自身の絵のモチーフにするために長年にわたって日 蘭関係の資料を収集されてこられました。そのコレク ションについて学生をはじめ広く知っていただきたい ということで、長崎版画88点、西洋版の日本関連古地 図56点、陶磁器80点、計224点のご寄贈をいただいて おります。
本日はまず、はじめに富田先生よりご自身のコレク ションについてお話いただきますが、個人でこれだけ のコレクションをお集めになるのはたいへんなご苦労
があったと思われます。この場をかりて厚く御礼を申 上げます。
また、次にお話いただく植松有希先生は板橋区立美 術館の学芸員として『長崎版画と異国の面影』展の企 画を担当されました。本日は長崎版画全般について、
仔細にお話しいただくことになっております。また、
小林邦久先生は本学図書館の資料管理課長として洋学 文庫の管理をされております。本日はその洋学文庫全 般についてお話しいただくことになっております。
というようなことが本日の概要でありますが、本日 は、皆さんの中にお気づきの方もいらっしゃると思い ますが、10月21日ということで、早稲田大学の創立記 念日にあたっております。1882年10月21日でございま
すので135周年ということになりますよね。このよう な日にこういった企画をもてることをうれしく思って おりますが、と申しますのも、「都の西北」に
「東西古今の 文化のうしほ 一つに渦巻く 大島国の」
という言葉がありますよね。まさにこの「東西古今の 文化のうしほが渦巻く」というその原点をたどると、
未知なる交渉史にたどり着くのではないかと考えられ ますので、そのような意味でも早稲田大学で開催する ということに少しでも意味があればと思っておりま す。ということで簡単なご挨拶に代えさせていただき ます。
どうもありがとうございました。
會津八一記念博物館 研究紀要 第19号
阿蘭陀関連資料と私の人生
富.田 万里子
(朱葉会・日本美術家連盟・洋学史学会)会員
ただいま、ご紹介いただきました富田でございま す。私の懐かしい学生時代を過ごした思い出深い會津 八一記念博物館。こちらは旧図書館になります。こち らにささやかな阿蘭陀関連資料の寄贈、展覧会の開 催、図録の刊行、また、その上このような講演の席を いただいて、私にとってたいへん光栄で深く感謝申し 上げます。
さて、私の講演が若いみなさまにお役に立つかどう か不安ですが、ご清聴よろしくお願いいたします。私 は都立駒場高校を昭和37年(1962)に卒業し、その 春、本学教育学部に入学し、昭和41年(1966)に卒業 した者です。その後、結婚、出産、子育て、介護と女 性としての人生を歩んでくるとともに、画業にもいそ しんできました。現在は女流画家の美術団体朱葉会、
朱葉会は日本で最初の女流画家の会です。与謝野晶子 が命名しまして、100年近くの歴史があります。朱葉 会会員、日本美術家連盟会員、および学会では元の日 蘭学会の会員、および洋学史学会の会員として活動し てきました。その間、人生の厳しい制約の中で自分の 身の丈に合い、かつ、自分の感性と意志で、こつこつ と絵のモチーフとして阿蘭陀関連資料の古伊万里、古 地図、長崎版画を収集してきたところ、もう50年近く の歳月が走馬灯のように経過してしまいました。そ れは私の人生そのものであり、よろこびもあり、悲し みもあり、無念もありました。私の収蔵品は資料に過 ぎません。古伊万里については、実際ヨーロッパの食 卓等で使用され、古地図については一冊の地図帳では なくて、ばらした地図帳の一枚です。さらに、長崎版 画は流通した末、役目を終わった品です。以上のとお
り、美術品として収集したものではありません。収集 の折のエピソードをここで2、3お話しさせていただ きます。
まず、古伊万里についてお話しさせていただきま す。もう遠くなりましたが、私が学生の頃、長崎に遠 縁が住んでいましたこともあって、たびたび好きな長 崎の港町を歩き、絵の取材を重ねてきました。長崎の 人はよそ者をあたたかく受け入れてくれる風土があり ます。その時の思い出深い光景として、江戸時代の旧 長崎街道、これを終着点長崎県庁に向っていた途中、
勝山町の旧サント・ドミンゴ教会跡地近く、古美術店 のショーウインドーに、今でも謎のコンプラ瓶(「染付 コンプラ瓶」、TM-C-47、図1)が目にとまりました。
見つめていると、店のご主人が奥から出てこられて、
不思議そうに私に話しかけてきましたので、お尋ねし たところ、ご主人も何に使ったかわからないと言われ ました。私にとっては、染付に絵のモチーフになるよ うな横文字が書いてある不思議な瓶ですので、西洋画 を描く私は絵のモチーフにぜひ欲しいと思いました。
ところが値段の交渉に入っ たところ、なんと東京までの 学割の汽車賃の3倍以上の値 段でした。私の財布と相談し たところ、汽車の中での3食 の食事代と東京でのバス代を 除いて全額をお支払すること で了承をいただきました。私 が早稲田の学生ということを
知ってか、若い人を育てたい 図1 染付コンプラ瓶、
TM-C-47
シンポジウム― 基調講演
阿蘭陀関連資料と私の人生
というご主人の気持ちとご厚意をありがたく頂戴した のです。当時、東京へ帰る急行の雲仙号は、まだ蒸気 機関車が牽引し、二等客車に一日中、26、7時間の長 旅で、車中、着替えの洋服に包んで、大事にこの謎の コンプラ瓶を抱えていた私は、読み書きもままならな い、江戸時代の無名の陶工が、見たこともない聞いた こともない、この謎の瓶の作陶、制作にあたった、そ の苦闘と努力の賜物を肌で感じていました。東京に着 いた時は、顔も浅黒く、洋服も煤だらけでした。今ま で何十年間もの間、私のアトリエの一隅においてあり ました。この間、絵画の行き詰まり、人生の苦しいと き、悲しいとき、この謎のコンプラ瓶を見ますと、が んばりなさいよと励ましてくれるように私には映るの です。
この謎のコンプラ瓶に書かれた横文字はどこの美術 館、博物館で調べても未だ不明で、私の考えではおそ らく無名の陶工が、スペルを間違えて書いたのではな いでしょうか。スペルを間違えたおかげで、学生の私 が手に入れられたのかもしれません。その後、昭和45 年の秋、1970年、有田の陶芸家たち7人がヨーロッパ を視察し、輸出古伊万里を発見したニュースがあり、
大きく報じられました。そして、その5年後1975年に 古伊万里の里帰り展が東京のデパートで開催され、私 の持っている輸出古伊万里と同じようなものが展示さ れているのに感激したのを今でも覚えています。それ から17年後、私もドレスデンでこれらの品々と再会す ることができました。その後もドレスデンには2回訪 れています。
それが縁で古伊万里の故郷、佐賀県有田に旅したと ころ、明治の中期、今から120年前です。有田の山間 の小さな白川小学校、今は有田小学校になっておりま す。こちらの校庭になんと大隈さんが立たれていたの です。大隈さんは明治6年、1873年に明治政府が最初 に参加したウィーン万博の日本総裁を務めておられた のです。村人に外貨獲得、すなわち殖産産業としての 焼き物の重要性について、この白川小学校の校庭で督 励の演説をなさっていたのです。また、さらに焼き物 の神様を祭った皿山の氏神、陶山神社にある大隈さん の揮毫の碑等を見て、大隈さんの有田の焼き物にかけ る情熱に心揺さぶられました。
次に、古地図の収集のエピソードをお話しいたしま す。この話も、もう40年近く前になるでしょうか。長
図2 東インド図、TM-B-2
會津八一記念博物館 研究紀要 第19号
崎駅の近くにあるNHK長崎支局の脇を上ったところ が西坂です。そこは26聖人殉教跡地で、26聖人のレ リーフ記念碑、舟越保武作があります。わかりにくい のですが、このレリーフの裏手には、日本二十六聖人 記念館があります。この記念館は奇しくも、會津八一 記念博物館と同じ設計者で、早稲田大学教授、今井兼 次先生の作で、會津八一記念博物館の常設展示室の大 空間と同じ、目を見張る大空間の建物です。その館内 で今は亡くなられた故結城神父さまから、結城神父さ まがローマでご購入された西洋古版日本地図のご説明 をいただきました。無学無知の私には驚きと感動でし た。当時、日本人でもあまりわからない日本地図。ま して、いわんや、世界地図の中で、極東の日本の位置 まで描かれていたのです。これは西洋文明が優れてい る証です。この十数点の展示品の中にオリテリウスの
「東インド図」(TM-B-2、図2)、1570年作、元亀元 年、信長の時代になります、これがありました。この 島をベニス人マルコ・ポーロがジパングリと命名した と榜記されています。地図と東方見聞録がつながって いた。これには感銘を受けました。
西洋に近い方から、大航海時代の探検で、インド、
マレー半島等はかなり詳しく正確に記入されておりま すが、(地図を指しながら)極東の日本は、これです、こ の一塊でございます。この日本の傍らに、ベニス人マ ルコ・ポーロが、この島をジパングリと命名したとこ こに榜記されております。この地図をご覧になってく ださい。難破船、海獣、大きな怪獣のような魚。航海 は危険で、さぞおそろしかったのでしょう。人魚もい ます。大帆船もあります。古地図にはロマンがあり、
まるで絵画のようです。神父さまからご説明いただい たあと、再び西坂の丘に立った時、美しい長崎港、鶴 の港、長崎港は鶴の港とその頃申していました、鶴の 港が眼下に開け、レリーフの聖人たちもこの長崎港を 見下ろしています。この長崎港は西洋への玄関口とい う印象を強く受けました。西坂から長崎港を見下ろし た風景が長崎版画で国内へ、シーボルトの『日本』の 本で海外へ伝えられたのです。
こちらが、長崎版画の「長崎港図」(TM-A-4、図
3)です。こちらがシーボルトの『日本』の中の「長 崎港図」(TM-B-56、図4)です。出島は今と同じ位 置にありまして、出島の中の建物は現在復元されてい ます。遠くの山の稜線、それから昔の番所です。小町 番所、西泊り番所、高鉾島、これらは昔のままで、当 時の江戸時代の面影を今も色濃く残しております。残 念ながら、現在はビルの林立で長崎港は見えなくなり ました。そのあとのエピソードとしてメルカトル「中
図3 長崎港図、TM-A-4
図4 長崎港図、TM-B-56
図5 中国図、TM-B-9
阿蘭陀関連資料と私の人生
国図」(TM-B-9、図5)、慶長11年、1606年、関ヶ原 の戦いから6年後との出会いです。その地図には、洋 上、日本の傍らに十字架上の殉教徒に槍を向ける絵 を大きく載せ、慶長2年、1596年の西坂の丘の大事 件、長崎26聖人の史実を註記しています。(地図を指し ながら)これが日本です。日本の傍らにこのように大 きく、槍を向けている26聖人殉教の図が描かれており ます。この地図を見てみますと、朝鮮は島になってお ります。中国は、この架空の大きな湖がたくさん描い ておりまして、ここに風車。おもしろいと思います。
万里の長城、大帆船、大きな怪獣のような魚。この地 図の特徴は、この海上の波紋がたいそう美しいことで す。事件発生から、ヨーロッパに伝わるには、当時困 難な危険を伴う航海で、片道1年近くかかった時代で す。この地図が事件の8年後には、もうヨーロッパで 刊行されたということは、この事件があまりにもキリ スト教徒にとって衝撃的であった証拠です。
話は変わりますが、この事件より、およそ14年前に なりますが、天正遣欧少年使節が、1582年、天正10 年、本能寺の変の頃です、長崎を出発し、ローマで ローマ教皇グレゴリウス13世に謁見し、8年後、1590 年、天正18年、秀吉が天下を統一した頃、長崎に寄 港、その使節団が持ち帰っ
たおみやげに、先にお話し したオリテリウスの「地球 の舞台」の地図帳があった のです。この献上品「地球 の舞台」を時の権力者秀吉 が見たかということは未だ 不明です。しかし、奇しく も前田青邨の代表作「羅 馬使節」が、今は會津八 一記念博物館の代表収蔵 品となっております。こ の作品とオリテリウスの
「地球の舞台」の地図帳の うち、「アジア図」(TM-B- 1、図6)、「タルタリア図」
(TM-B-5、図7)、「東インド図」(TM-B-2、図2)、
「中国図」(TM-B-4、図8)とが、この會津八一記念 博物館で、実に400数十年振りに再会したのです。私 には感無量のものがあります。
この4枚の地図の日本は想像できないような形をし ております。「アジア図」(TM-B-1、図6)の日本は これです。この一塊です。こちらは、アラビア半島等 はかなり詳しいですが、極東の日本はこのようです。
「東インド図」(TM-B-2、図2)はさきほどご説明し ましたので、省略しますが、日本はここです。「タル タリア図」(TM-B-5、図7)の日本はこちらになりま す。ユーラシア大陸とアメリカ大陸が分離しておりま す、この地図では。そして、この間に未知の海峡、ア ミアン海峡が描かれております。ランタンのこのテン トの中のこの首長、この地図はこの額台が見事です。
地図の額台はどれもたいへん絵画的で見事なものが 多いのですが、特にこの「タルタリア図」(TM-B-5、
図7)の額台は絵画的で見事です。「中国図」(TM-B- 4、図8)の日本はここになります。この地図は西が上 になっております。古地図は必ずしも北が上に上がっ ておりません。この地図は西が上です。それで日本は こちらになります。本州の琵琶湖がこのように大きく
図2 ロンシャンの礼拝堂、扉の内側
図6 アジア図、TM-B-1
會津八一記念博物館 研究紀要 第19号
描かれていて、九州と本州 を二分しております。オリ テリウスの日本図等から始 まった西洋古版日本関連地 図は約300年かけ、進歩と 後退を繰り返しました。そ の300年間の変化と装飾的 に美しい地図に惹かれ収集 してきました。また、絵画 のモチーフとして採用して きたのです。
最後に長崎版画、長崎絵 についてお話しさせていた だきます。私が卒業した頃 の昭和41年(1966)初冬頃 でしたか、寒さ感じる頃、
私は長崎の丘の上で美しい 長崎港を写生した後、長崎 県立美術博物館、現在は建 て替わって長崎歴史文化博 物館になっております、こ ちらに立ち寄りました。偶 然にも「内田コレクション 長崎版画・泥絵展」が開催 されていました。この内田 コレクションは現在、長崎 歴史文化博物館の収蔵品と なっております。江戸の鎖 国時代に、この長崎の地で 日本人がオランダ、中国、
ロシア等を題材にした版画
を制作し、国内に流通していたことを初めて知りまし た。それは私にとって驚きと驚嘆でした。この長崎版 画との出会いがコレクションへとつながったのです。
コレクションにまつわるお話を二つさせていただき ます。まず、長崎版画の「阿蘭陀婦人の図」(TM-A- 30、図9)についてお話しさせていただきます。オラ
ンダの商館長ヤン・コック・ブロンホフの家族は、文 化14年(1817)来航、来日。200年前、歴史の記録に 残っている最初に日本に来航した西洋女性です。(絵 を指しながら)ブロンホフ婦人です。妻のティツィア・
ベルフスマ31歳、乳母のペトロネルラ・ムンス23歳、
息子ヨハネス1歳5か月。この「阿蘭陀婦人の図」
図7 タルタリア図、TM-B-5
図8 中国図、TM-B-4
阿蘭陀関連資料と私の人生
(TM-A-30、図9)は長崎版画でも最も美しい版画 の一つです。版画に描かれた阿蘭陀婦人の姿は、髪は 赤縮れ、赤い珊瑚のイヤリング、ネックレス、貴婦人 が着るレースの洋服。乳母の服も異国のジャワ更紗。
日本ではジャワ更紗はたいそう貴重な珍しいものでし た。ジャワ更紗を着ております。手にはビードロ、そ れから葡萄酒、ソファーに座り、茜色の更紗の敷物。
帽子や靴を身につけた姿は、現代の私たちから見れ ば、平凡でごく普通の「阿蘭陀婦人と乳母の絵図」に 過ぎません。しかし、長い鎖国時代、西洋婦人が日本 に来航した最初の女性です。当時、ちょん髷を結い着 物を着て、下駄または草履を履いている江戸時代の 人々にとっては、初めて目にして、驚きと好奇の眼を 見張ったに違いありません。
この版画の原画は川原慶賀で、磯野文斎との合作と 言われています。江戸時代の若い浮世絵師、磯野文斎 は、文政6年(1823)以降、長崎版画の版元、大和屋 に入婿しています。それ以後大和屋版は、合羽摺りを 主とした素朴な長崎版画から、江戸仕込みの多色摺 り、洗練された画風に変化しております。阿蘭陀婦人
の図の版元印、この瓢箪印の中に大和屋と書いており ますのは、これは大和屋の比較的後期に属する票印 です。
次に、早大版と他版の違いをご説明いたします。
早大版はこちらです。こちらは他版(「阿蘭陀婦人の 図」、長崎歴史文化博物館蔵)になります。婦人につ いては、スカートのレースのあるなし、上着も洋服 の模様が違います。ヨハネスのズボンの模様のあるな し。ムンスのペチコートの模様のあるなし。貴婦人の スカートにレース模様があるものが、現存しているの は、早大版と神戸市立博物館版の2枚と思われます。
レース模様のない版は、私は今まで4枚、4か所で見 ております。
次に肉筆画のブロンホフ家族図について、お話しさ せていただきます。早大版のブロンホフ家族図(「ブ ロンホフ家族図」、TM-A-52、図10)です。東京大 学版のブロンホフ家族図(「阿蘭陀加比丹幷妻子等之 図」、東京大学総合図書館蔵)です。寄贈させていた だいた「ブロンホフ家族図」が、今年の春、板橋区立 美術館で開催の「長崎版画と異国の面影」展に出陳、
出品展示されました。その「ブロンホフ家族図」の箱 の中に入っていた、今から86年前の東京朝日新聞、昭 和6年7月22日と昭和6年7月28日の切り抜きをその 時、東大の松井洋子先生にお見せしましたところ、東 大収蔵の「阿蘭陀加比丹妻子等図」の箱の中にも入っ ている新聞記事と全く同じですとのこと。これには びっくりし、驚きました。
その新聞記事の内容を簡単にご紹介させていただ きます。「現在、東大の収蔵画となっている「阿蘭陀 加比丹妻子等図」が発見された昭和6年、英国人ボク サー氏の手にわずか千円で渡ってしまうことを聞いた 東大の中村博士は、この貴重な絵図の海外流出に非常 に悔しがられ、中村博士はじめ関係者のご尽力で、図 書館への寄付金千円を流用し、ボクサー氏のご厚意も あってか東大に買い戻された」というものです。
この東大、早大両家族図「阿蘭陀加比丹妻子等図」
と「ブロンホフ家族図」(TM-A-52、図10)の本当の作 者は誰なのか、どのような経緯、経路をたどって現在 図9 阿蘭陀婦人の図、TM-A-30
會津八一記念博物館 研究紀要 第19号
に至っているか、さらに、なぜ同じ新聞の切り抜きが 両絵図の箱の中に入っていたのか、謎が深まるばかり です。私は絵を描きますので、画家の目線から見ます と、早大版「ブロンホフ家族図」は群像で、人物には それぞれの動きと表情、性格まで表現されています。
デッサンがしっかりしており、不自然さがどこにもあ りません。群像は難しいのですが、構図も抜群です。
ブロンホフ婦人が、乳母ムンス、子供ヨハネス、それ をあやしている召使のマラティ、この3人の塊を右手 前に先導しています構図です。ブロンホフ婦人の腕、
それから、こちらの右側の空間もそれを強調しており ます。視線をたどってみますとブロンホフ婦人と乳母 は視線で会話しております。マラティはヨハネスをあ
やして視線で会話しています。現代の画家でもここま では描けない。江戸時代にこれだけ描けるのは驚きで す。江戸時代、西洋画への模索をしていたのが長崎版 画です。それを指導したのがシーボルトであり、フィ レニューフェであり、フィレニューフェから西洋画法 を教えてもらったのが、川原慶賀、石崎融思等です。
もう一つ申し上げますと、これは同じように見えま すが、東大版と神戸市立博物館版「ブロンホフ家族図」
です。神戸市立博物館版の「ブロンホフ家族図」には、
ここに川原慶賀のしゃれた帽子のサインが入っていま す。人物を見ますと、頭でっかちで体形は日本人の体 形をしております。しっかり座っているようには、ま だ骨格が描かれていません。東大版の方は、伝川原慶 賀となっておりまして、人物の頭が小さくて、体形も 西洋人の体形をしております。この時代、西洋人がア ジア・アフリカ・南北アメリカの人物、文物を描いた 絵図、文献はあるのですけど、その逆は、私はほとん ど見たことがないです。たとえば、ベトナム人がフラ ンス人を描いた、インド人が英国人を描いた、インド ネシア人がオランダ人を描いたというものを、私はそ の逆をほとんど見たことがないです。私見ですが、こ の時代、長崎版画は唯一、東洋人が西洋人を描いたも のです。それは、日本人がすぐれている証拠です。
ここでも大隈さんは若き日、幕末の激動の時代、こ の長崎でフルベッキに出会い、英学を修められ、早稲 田大学の源流、致遠館を設立され、そこで遊学者に教 授し、さらに、その地の役人として貢献されました。
大隈さんの長崎時代の雰囲気を今に伝えるのが、この 長崎版画、長崎絵です。
絵描きの端くれとして、私も卒業させていただきま した。先に二度も申し上げましたように、私にとって 共に歩んできた人生そのものの阿蘭陀関連資料が早稲 田大学にも縁が深いもので、その資料を寄贈させてい ただき、たいへん光栄に思っております。最後に貴重 なお時間をいただき、ご清聴、まことにありがとうご ざいました。
図10 ブロンホフ家族図、TM-A-52
長崎版画にみる阿蘭陀
植.松 有.希
板橋区立美術館
みなさま、こんにちは。今、ご紹介いただきました 板橋区立美術館の植松と申します。今日はこのような すばらしい場所で発表させていただくことに大変恐縮 しております。私は「長崎版画にみる阿蘭陀」という ことで、先ほど富田万里子さんのコレクションのお話 がありました中で、特に長崎版画を取り上げてお話し したいと思います。
実は最初にご紹介いただいたように板橋区立美術館 で昨年度の末に「長崎版画と異国の面影」展という展 覧会を開催しました。私が長崎の博物館に10年ほど板 橋に行く前に勤めていたという経緯がありまして、こ の展覧会を企画したのですけれども、その時にこちら の會津八一記念博物館さんにもコレクションがあると いうことで声をかけていただいて、調査にお邪魔させ ていただいたりしながら、勉強させていただいたとい うこともあって、今日、こんなご縁を感じて発表する 運びになりましたことを感謝申上げます。
時間もあまりないので、早速ですけれども、今日は 長崎版画にみる、特にオランダのお話ということでし ていきたいと思います。今日、最初にご覧いただいて いるのは、実は私が撮った写真です。長崎の駅の方の 福済寺というところから撮ったものだったという風に 記憶しています。なかなか撮るのが大変なんですけれ ども、先ほどご覧いただいていたような長崎の港の様 子、版画とは全然違いますよね。変わってしまいまし たけど、ちょっと見てみたいなと思います。(画像を指 しながら)長崎港です。こちらに今、女神大橋という のが架かっていますが、こういう風に番所があった ところが、今は三菱の造船所になっておりまして、こ
こにごっちゃりとあるんですけれども、出島がもう埋 め立てられております。長崎の駅の方、こちらなんで すけど、こういう風に長崎は江戸時代からずっと埋め 立てられて拡張してきた町で、きれいな港なんですけ れども、非常にびっしりと、ぎっしり町の中が密集し ております。後でもう一回、長崎の景色をご覧いただ きますけれども、これがほぼ現在の長崎で、先ほどご 覧いただいたこちらと、ちょっと角度が違うのです が、似たような風景になっております。
これがもとになりました、こちら(「長崎港図」、
TM-A-7、図11)がお持ちの貴重なコレクションにな りますね。文錦堂という版元が出したものです。先ほ どは、大和屋の話が富田さまの方から出ましたけど も、こちらには文錦堂という版元の判子があります。
大和屋とライバルのような感じで活躍していた文錦堂 という版元がありました。そちらが摺ったものです。
皆さんのお手許にレジュメがあると思いますが、それ の一頁目の下の方に西村貞さんという研究者の方が書 かれた長崎版画についての思いというものを一字一句 そこに書き記しております(註1)。これを読むと長く なってしまうので、皆さんで後でじっくりお手許で 味わっていただければと思うんですけども、長崎版画 は、やっぱり江戸の浮世絵と全然雰囲気が違うんです よね。言ってしまえば、江戸の浮世絵は、凄く江戸っ 子、洗練された技術も高くて役者絵、美人画、風景画 という風な感じだと思いますけれども、長崎のものは 異国趣味、エキゾチックな雰囲気というものを非常に 大事にしていて、また、技術もちょっと江戸のものに は及ばないところがありますが、それが凄く、長崎の 版画独特の何処にも無いような、素朴でありながら、
シンポジウム― 基調報告 2
シンポジウム― 基調報告 1
會津八一記念博物館 研究紀要 第19号
異国的な雰囲気も運んでくれるような、そういう長崎 の匂いというような、町のたたずまいのようなものも 伝わってくるような、こういう良さが長崎版画には あります。私もこれ(西村貞の文章)は好きな言葉なの で、またじっくり見ていただきたいと思います。
今日の内容なんですけれども、大きく二つに分けま した。一つ目は入門編です。長崎版画とはどんなも のっていうことを大体半分の時間で皆さんにマスター してもらおうかなと思います。もう一つはちょっと応 用編で「あるオランダ人の家族図をめぐって」。これ はさっきのお話で出てきたので大体予想がつくと思う んですけれども、今からちょうど200年前に長崎に、
日本にやって来たオランダ人の家族の姿をめぐって、
ちょっと面白いことが分かったり分からなかったりし たのでお話ししたいと思います。私の話はこんなカ ジュアルな感じなので、皆さん気楽に聞いていただけ ればなと思います。
(スライドの写真を見て)びっくりですよね。「坂の町・
長崎」。私は平地に住んでいたんですけれども、私も 東京から長崎にやって来て、最初にびっくりしたの が、この山並にびっしりとへばり付くように建ってい
る家々なんですね。まさに土地がないんですよ。それ でこういうような山並の中にも縦横無尽に家が建って いて、とにかくびっしりとしています。そんなおかげ で長崎は今、新三大夜景の一つとして、なんとモナコ とかと一緒に認定されているようなのですが、本当に 夜景は綺麗な町なんですね。
ちょっと長崎のご紹介をしたいと思います。坂で す。次がこちらです。お盆の時に精霊流しというすご く有名な行事があります。さだまさしの歌に「精霊流 し」というしっとりとした感じの静かに個人を見送る みたいな歌があるんですけれども、私もそういうイ メージでいたのですが、あちらに行って度肝を抜かれ たのは、この8月15日というか、12、3日ぐらいから ですね、お墓で花火をしているんですね。それから、
精霊流しも全然静かじゃなくて、爆竹を鳴らしながら 町中を練り歩いて、けっこう毎年怪我をしたりとかで すね、火事になったりすることもあるんですが、元々 は中国からやって来た文化なんです。まあ、坂の町で あり、墓の町であります。お墓ももちろん、本当に山 並にびっしりと埋め尽くされていて、あちらの写真な んかすごいですよね、どこまで家があるのかという感 じでたくましい長崎の人たちの暮らし振りを見ること 長崎港図、TM-A-7、図11
長崎版画にみる阿蘭陀
ができます。
墓、坂ときて、最後に「長崎くんち」というものが あります。これはちょうどこの間終わったばっかり で、毎年10月の7、8、9の3日間で行っています。
元々長崎は、貿易で町中には豊かな人たちが多かった ので、何か祭りで発散をしようとか、それからキリス ト教徒ではないですよという証明にもなりますので、
長崎の諏訪神社という所に町々で奉納して行く踊りと か船とかがあります。やっぱり奉納するものも、こう いうような、一番上のものが「コッコデショ」と言っ て、凄く有名なものなんですけれども、お神輿を振り 上げるという非常に日本的な感じのものなんです。そ れが「和」ですね。それから中華の「華」ですけれど も、蛇じゃ踊おどりというものがあります。「蛇じゃ」といっても 龍のことなんですけども、元々は長崎にやって来た中 国人たちの行事を長崎の人が教えてもらって、長崎く んちでも奉納するようになりました。最後が「蘭」で すね。今日の主役ですけれども、江戸町という所が奉 納しているオランダ船です。江戸町はちょうど出島の 隣にある所で、近くでしたので、こういったオランダ 船を奉納しているのですが、長崎の文化というのは、
日本と中国とオランダ、「和」、「華」、「蘭」で分から ん文化という風にも言われたりしています。ちなみ に、さっきの墓と坂と、最後が長崎くんちがですね、
くんちばかと言って、非常にお祭りが大好きなので、
墓、坂、馬鹿と言うのが一つ長崎の文化を説明する 時の印みたいにもなるんですけれども、本当に長崎く んちには長崎の全てが、ある意味この3日間の祭りに 入っているといっても過言ではないぐらいで、こうい うような町です。
先ほどもちょっと出ていましたけれども、長崎がど うしてこういう特殊な都市なのかというと、いわゆる 鎖国をしていた時に唯一、中国とオランダの窓口だっ たからなんですが、最近では教科書で「鎖国」という 言葉がどうも消えつつあるらしい。もう消えている教 科書もあると思います。それで、何て言われている かというと「幕府の対外政策」とか、そんな風な言い 方をされているようなのですが、「鎖国」という言葉
は、元々は江戸時代にケンペルという人が書いた日本 の本をオランダ通詞の志し筑づき忠雄という人が「鎖国」と 訳したことから始まっているのですが、当初の考え方 とは少し違っていて、鎖の国と書くと本当に閉ざして いる感じがしますよね。(図を見せながら)ただこんな 風に見ていただくと分かるように、案外日本は、日本 というか琉球とか朝鮮とか蝦夷地は、他の所にもいわ ゆる「四つの口」と言いまして、海外との交流や貿易 を行っていました。なので、最近ではそんな風な言い 方をしたりします。特に長崎は中国、オランダとの貿 易をして、幕府の直轄地として長崎奉行が治めていた という非常に特殊な土地でもありますので、日本の他 の土地よりも、「和」だけじゃなくて、「華」と「蘭」
があったというような背景があります。なので、長崎 の風景画というとやっぱりこうなるんですよね。青で 囲んだところが、オランダとか西洋に関係するところ です。港を見ればオランダ船、出島、それから、開国 した後は大浦の居留地というところがありまして、西 洋人たちが住みました。今日はちょっと話題にならな いんですけど、中国、唐船、中国の船、中国人たちが 荷物を入れていた新地蔵、それからちょっと切れちゃ いましたけど、唐人屋敷といって、出島と同じように 中国人も唐人屋敷の中で暮らしていました。ただ中国 の船の方が圧倒的に貿易高、貿易量、人も多かったの で出島のおよそ倍以上の広さの中で、中国人たちは暮 らしていました。
まだまだ長崎観光案内みたいになってしまうんです けれども、中国に関係するものは非常に古くて、とて も多いんですね。私も長崎に行く前、長崎のイメージ というのは、やはり一つは原爆が落ちたというイメー ジがあって、二つ目はオランダとかそういうイメージ がありました。ところがですね、長崎の町に実際に暮 らして、肌で体感してみると中国の文化の方が凄く根 付いているんですね。町中をちょっと歩いた中でも、
中国のお寺があります。一番古いところからいくと、
崇福寺という、こちらは国宝に指定されているんです けども、中国の福建の人たちが拠り所にしていた所 で、こういう建築も中国式のものになります。こちら
會津八一記念博物館 研究紀要 第19号
は、観光客なら絶対に行く楽しい眼鏡橋、これもやっ ぱり中国の黙もく子す如にょ定じょうという禅僧が造った日本で最初の アーチ型の橋になります。それから、唐人屋敷。これ は埋め立てられていないんですね。やっぱり塀があり まして、当時の面影を今も感じることができます。そ れから、今中華街として非常に賑わっている、これも 元々は先ほど申上げた荷物置き場(新地蔵)だったわ けですね。やはり中国というものがとても多いし、年 中行事の精霊流しも中国だったりします。非常に中国 色が強いなと思いました。一方、鎖国中の西洋文化の 面影を感じさせる建物はあんまりなくて。やっぱり、
出島ですね。これは、ちなみに現在の出島です。(画 像を指しながら)ここ以外全部陸地で埋め立てられて、
扇形の面影はどこにあるのといったら、ここらへんが ちょっと曲線になっているので、ここだけ感じること ができます。この水門というところから貿易品が入っ たんですけれども、今ここは路面電車が通っている道 路になっております。こちらの大浦天主堂、最近、世 界遺産などで色々言われていますが、元々は26聖人を 祭るための教会ですけれども、こちらのグラバー邸も 浦上天主堂も全部いわば鎖国政策が解かれるかという 幕末の頃に残ったものなので、案外と古いものではな いんですね。
ちなみに、長崎の人はちゃんぽんが大好きで、あれ も中国文化ですが、リンガーハットという凄く有名な チェーン店がありまして、長崎でも人気なんです。あ のリンガーは、トーマス・グラバーと言うのはイギリ スの商人ですけれども、実はリンガーさんという人 も商人でいまして、リンガーハットというのは、リン ガーさんの小さいお家という意味なんです。ハットだ と帽子だと思われそうですけれども。まあ、そういう ところからつけているように、長崎というのは本当に 中国、それから意外に少ない西洋の街並みの面影とい うのがありますが、そんな風にして異国情緒というも のを今も観光資源にしているくらい古くからそれで食 べてきたというところがあります。
そこにきて長崎版画です。皆さんのお手許に長崎版 画の特徴を全部書いているので、それは後で持ち帰っ
て見ていただきたいのですが、前半だけちょっと大事 なところを申上げます。江戸時代の中期以降、大体 1740 ~ 50年くらいに長崎版画は起こったと言われて いるんですが、それ以降幕末、ちょっと明治まで、長 崎で版行されて、主にお土産ものとして受容された、
中国やオランダなどの人物・文物・風俗・事件などを 画題とした木版画を長崎版画と言います。異国趣味が 大事です。それから様々な呼び名がありました。お土 産ものとして証明するものとしては、本当にお土産品 として売っていたのかということですけれども、こち ら(「垤菲列奴富之妻」、神戸市立博物館蔵)は女性像 です。フィレニューフェ婦人という人の肖像を描いた ものですが、それに関してちょっとメモ書きが貼り付 けられておりまして、文政13年(1830)に長崎のお土 産品として、新潟県の小千谷の方の人たちが持って 帰って、お土産にしたんですよ、というようなことが 書いてあったりします。それからこちらの方はです ね、鷹見泉石が自分でアレンジして、恐らく貼り付け たであろう貼りまぜ屏風(「貼交屏風」、古河歴史博 物館蔵)ですが、それの中に長崎版画の象の図(「象 図」、神戸市立博物館蔵)がありました。鷹見泉石は ブロンホフに会っていまして、オランダの名前をも らったりしている人なんですけれども、やっぱりこう いうものを持って帰っているんですね。それから、こ れは私もびっくりしたんですけれども、こちらの右側 が中国の版画(「蟷螂を持つ唐子図」、神戸市立博物館 蔵)で、左側が長崎版画(「三人唐子」、神戸市立博物 館蔵)です。一見するともう全然見分けがつかないく らいよく似ています。長崎版画は、元々は中国の蘇州 版画やお正月に飾る年画などを源流にしたと言われて いて、まさにそれを体現するものなんですけれども、
長崎にやって来た人たち、あるいは長崎在住の中国人 たちの需要を満たしたのではないかと思われるくら い、中国版画とそっくりのものがあります。これもあ る意味お土産品であり、長崎市内の需要というものも 土産物だけではなく、考えた方がいいのではないかと 思いました。
それがこちらの物もそうなんですね。ちょっと見分
図2 ロンシャンの礼拝堂、扉の内側
長崎版画にみる阿蘭陀
けがつかないくらいぼろぼろなんですけれども、真 ん中が長崎版画(「関帝図」、日本通運株式会社蔵)で す。右側の方が台湾の年画です。いつのものかは分か らないんですけれども、本当にそっくりですよね。そ れから左側の方(「関帝図」、長崎歴史文化博物館蔵)
は掛軸になっているのですが、長崎の唐絵目利きが描 いた物です。唐絵目利きという絵師で輸入品の鑑定な どを行う人なんですね。なぜ関帝なのかというと、長 崎は商売の町です。商人の町なので、商売繁盛を願っ て冬至の日にですね、関帝さんは商売の神様でもあり ますので、床の間にそれを掛けるという習慣がありま した。なので、左側の絵の様な関帝の掛軸は凄く多い んですけれども、中央のような版画もそれに見合うも のとして、恐らく消費されていったのではないかなと 思います。そしてその源流がこのような所にあるので はないかなと思います。長崎版画はその起こりからし て、やはり中国の影響がかなり大きいと感じられます。
長崎版画は大きく二つあります。先ほどからずっと 私がお見せしているのが、左側(「阿蘭陀人」、長崎歴 史文化博物館蔵)にありますような異国趣味に特化し た一枚の絵です。とにかく異国情緒というものが売り ですから、これが大事なんですね。実は私も長崎版画 に初めて出会ったのは、長崎のカステラ屋さんで松翁 軒という長崎にしかない老舗なんです。そこでカステ ラを買うと絵はがきをくれまして、本当に長崎版画み たいですよね。その柄がたしかこれだったんですね。
あと松翁軒のカステラの包み紙が(スライド右側にある 地図を指して)こういう地図(「肥前長崎図」、個人蔵)
の包み紙になっていまして、今も多分同じものを使っ ていると思うんですけれども、そういうものがあった ので、本当にお土産ものですよね。そういった異国趣 味の物。それから、実用的な地図類というのが長崎版 画では非常に大切でした。国内の遊学者、沢山の旅人 が特別な思いを持って、長崎にやって来ておりますの で。地図が無いと始まらないですよね、旅は。と言う ことで、実は地図類も非常に多かったんです。
今、私は長崎版画、長崎版画と言っていますが、
往々にして江戸の浮世絵もそうですが、当時からそう 呼ばれていた訳ではないですね。と言う訳で、こうい う色々な人が色々な言い方をしていますが。当時の言 い方としては、あまり統一されていなかったようで、
長崎絵と言ったり、あるいは摺り絵といったり、後々 の時代になると、ここらへんが地元感があるなと思う のですが、おらんだサンの絵とか、ハンコとか、そう いうような言い方をしていたようです。やっぱり美術 品として鑑賞するというよりは、あまりにも身近にあ りすぎるので、特にこういうような名称で呼ばなけれ ばいけないというのがなかったんだと感じさせるお話 しだと思います。
さて、長崎版画に描かれているものを早足で見て行 きたいと思います(「阿蘭陀人之図」、神戸市立博物館 蔵/「唐人之図」、神戸市立博物館蔵)。やっぱり人物 というものがすごく多いですね。こちらの針屋という 版元は、長崎版画のごく初期のもので、最初期のもの になります。この時代は、まだ手で彩色を施しており ます。黒い線のところだけが摺りで、あとは手彩色に なっています。やっぱり中国とオランダをセットで売 り出すことが多いので、このような図がありますね。
また出てきましたが、長崎版画(「阿蘭陀人之図」、神 戸市立博物館蔵)と蘇州版画(「楊柳湖畔亭図」、海の 見える杜美術館蔵)を少し比較して見ました。これだ とちょっと見づらいかと思いますが、オランダ人の足 のところに小さな斜線、細かい斜めの線が入っていま す。実は、蘇州版画にも入っていまして、このような 人物の体とか、あるいは風景の波のところとか、そう いったところに銅版画のような細かいものを入れると いうのが、初期の作品にだけは出てきます。やっぱり 長崎版画が中国経由で、さらにこの中国のものは、西 洋の銅版画をもとにしているということで、西洋、東 洋、日本という風に伝わっていって、めぐって長崎版 画ができたんだなということを感じさせます。
それから、もう一つが船です(「阿蘭陀船入津ノ 図」、長崎歴史文化博物館蔵/「唐船荷揚之図」、神戸 図2 ロンシャンの礼拝堂、扉の内側
會津八一記念博物館 研究紀要 第19号
市立博物館蔵/「ストンボート之図」、神戸市立博物 館蔵)。船をここまで主役にしている絵とは、ちょっ と日本にもあまりないんじゃないかと思います。船絵 馬という絵馬の中にこういうのがありますね。航海の 安全を願う大きめの絵馬がありますが、絹や紙に描か れているもので、ここまで船だけを描いたというもの は、日本の絵画の中でも特異なものではないかと思い ます。やっぱり、オランダ船、唐船、それから、こち らの方は幕末になってきますと、蒸気船が入ってきま す。「ストンボート」と言うのはスチームボートのこと で、蒸気船のことなんですけれども、このような船の 人気がありました。やっぱり、車とかバイクがかっこ いいみたいな感じで、こうした外国の舶来の未知なる 乗り物というものに、当時の人々は興奮したようです。
それから、出島の絵(「出島阿蘭陀屋屋舗景」、神戸 市立博物館蔵)もあります。こういう詳細なものは初 期の版元しか描いていなくて、そのあと全然出てこな かったのは、なにか特別な意図があるのかなとも思 いますが、上空から見た、出島のこのような詳細な図 も初期のものにはありました。出島の中での様子を描 いた長崎版画も非常に多いです。出島というものがあ ります。それから、中国人が住んだ唐人屋敷という区 間があります。出島の中で行われていたであろう、こ ういった医療系の絵(「ヲランダ人外科療治之図」、神 戸市立博物館蔵)とか、お食事の絵(「阿蘭陀人食事 之図」、長崎歴史文化博物館蔵)、それから中国人が書 画を楽しんだりしている絵(「唐館書房之図」、長崎歴 史文化博物館蔵)があります。出島や唐人屋敷の中に 日本人の女性が入ることは禁止されていましたけれど も、唯一の例外で丸山遊郭にいる遊女たちは入るこ とができたんですね(「唐館部屋の図」、長崎歴史文化 博物館蔵)。そのような様子を描いています。ただ、
長崎版画の版元とか絵師たちは、特別な絵師ではあり ませんので、この中に入ることも容易ではないんです ね。なので、先ほども出てきた川原慶賀とか石崎融思 という特別な絵師から聞いた話とか、あるいは彼らが 描いた絵をもとにして描いているので、ちょっと現実
とずれているところがあります。
そ れ で、 も っ と ず れ て い る の が こ ち ら な ん で すね(「阿蘭陀人康楽之図」、神戸市立博物館蔵/
「HOLLAN」、神戸市立博物館蔵)。この中で一番リア リティがあるのがこちらだと思います。カピタンがい てジャワ人の召使たちがこういう風に運んできたりす る、出島の中のお食事の様子なんだなというのが分か りますが、こちらの方はですね、架空のイメージした オランダの暮らしなんですね。と言うのも、オランダ 人女性がいるのが、まずおかしいということとか、し つらえの様とか色々あるのですが、長崎版画は実物を 写して描いたのかというと、そうではなくて、多分に 異国のイメージをかなり盛り込んで描いていることが 多いので、そこを気をつけていただければと思います。
それから、最後に事件ですね。長崎にやって来る ちょっと怪しい人々とか怪しげな船とか、そういうも のをいち早く伝えるというか、瓦版みたいな役割もし ていました(「オロシヤ人之図」、長崎歴史文化博物館 蔵/「魯西亜整儀写真鑑」、神戸市立博物館蔵)。(スラ イドの2枚の絵を見ながら)両方ロシア人なんですけれど も、ロシア人がやって来るのは、やはり不穏なんです よね。開国とか通商を求めてやって来ますので、両方 とも軍服を着ています。レザノフとプチャーチン。レ ザノフは失敗してしまいましたけれども、プチャーチ ンの来航はペリーが来た年と同じ年ですね。1853年で 長崎開港への大きな動きになりました。それぞれの描 き方が違いますので、技法の話もしたいと思います。
初期の長崎版画は一番左側のもの(「阿蘭陀人食事 之図」、長崎歴史文化博物館蔵)になりますけれど も、墨で摺っていて、それに手で彩色をしています。
色に斑があるので、大体分かるかと思います。長崎版 画で一番多い技法が、これは合か っ ぱ ず り羽摺と言う風に読むん ですけれども、西洋でいうステンシルみたいな感じ で、そこに絵がありますが、渋紙の中を色の形にくり ぬいて、黄色だったら黄色というのを上から塗って、
紙を取ると黄色い部分だけが塗られている感じになり ます(「オロシヤ人之図」、長崎歴史文化博物館蔵)。
長崎版画にみる阿蘭陀
非常に安価で手早くできるという意味で、お土産品と しては量産ができる良さがありますが、やっぱり色だ まりができたり、斑ができたり、あとちょっとずれ ちゃうんですね。それから、一番右側のこれ(「魯西 亜整儀写真鑑」、神戸市立博物館蔵)は江戸の錦絵と 同じく多色摺になっております。このような技法があ ります。じゃあ、多色摺が出てきたから、合羽摺はも う無くなったのかというと、そうではなくて、幕末ま でずっと合羽摺も廃れずに継承されていきます。
事件のもう一つ。これが後半のお話に私がしたい と思っているブロンホフの家族が200年前に日本に来 てしまったという大事件です(「ブロンホフ家族図」、
TM-A-52、図10)。ただ、外国人の女性の姿というの が今まで描かれていないのかというと、描かれている んですよね。なぜなら、長崎版画はイメージを盛り込 んでつくられていますので、たとえ見たことがなくて も、イメージして描いたり、向こうから舶来して来た 西洋人女性の絵を見て、見よう見まねで描いたりと、
色々やり方はあります。(スライドを指しながら)これは 二つで対なんですけれども、中国人の親子とそれから オランダ人のカップルですね(「阿蘭陀人」、長崎歴史 文化博物館蔵/「大清人」、日本通運株式会社蔵(東 京国立博物館寄託))。オランダ人のカップルは、これ は恐らく古い作品なので、まだブロンホフさんが来て いない頃のものだと思います。今日は中国の話はあま りできないのですが、ちなみに、中国の子供というと 唐子というものがそもそもあるので、実はけっこう長 崎版画の中には中国の子供がよく描かれております。
中国の美人と言うのも蘇州版画を通してやって来てい るので、描き易かったんでしょうね。こういう親子の 睦まじい姿ですとか、母子像とかはけっこう描かれて います。右側のこのような絵(「楊柳湖畔亭図」、海の 見える杜美術館蔵)が長崎に舶来していたので、左側 のような絵(「大清婦人図」、神戸市立博物館蔵)も自 然に描かれるようになりました。唐子というのは、そ れ以前に日本には、ずっと定着していた中国の子供の 姿ですので、長崎版画でもそれはごく普通に自然に扱
われています。ただ、西洋の子供というのは見たこと がなかったので、それまでの絵には描かれていなかっ たんですね。ブロンホフの家族がやって来たことに よって、描かれるようになったと言っても過言ではあ りません。
さて、ここでちょっとブロンホフについて勉強して いきたいと思います。ヤン・コック・ブロンホフとい う人で1779年生まれ1853年死去。長崎出島のオランダ 商館長に在位していたのが、来日した1817年から1823 年の間でした。ブロンホフは元々軍人で、当時のヨー ロッパというのはかなり動乱が起こっていましたが、
そこで活躍をしました。それ以前にも、最初は荷にぐらいやく倉役 という、一番偉いオランダ商館長の次の役割、商館長 を補佐する役割として、来日しています。ヘンドリッ ク・ドゥーフという人がすごく有名な商館長なんです けれども、その人を補佐したりですとか、イギリスが 攻め込んで来て、出島が横取りされそうになった時に も、それを護ったりですとか、それからオランダ通訳 のオランダ通詞たちにこれからは英語も凄く大事にな るということで英語の指導もしたりして、かなり貢献 していた人なんですね。日本で最初の英和辞典の『諳あん 厄げ利り亜あ語ご林りん大たい成せい』の編纂に貢献したりもしました。や はり、それらが認められたのでしょう。偉くなって再 び帰って来るということで、1817年に商館長として任 命されました。
ブロンホフは先ほど、鷹見泉石や大槻玄沢とも交流 があったと申しましたが、二度に渡って江戸に参府し て、多くの蘭学者と交流をしたり、あるいは街道沿い にサインを残したりとかしています。オランダには 今たくさんの日本コレクションがありますが、最初 にやったのがこの人だという風に言われています。
特にこの1817年に何が起こったのかというのは、先ほ ど富田先生からもお話しがありましたけれども、家族 を連れて来ちゃったという、今まで前例がないことで した。実はですね、来たことはあるんです、西洋人の 女性とか。たとえば、遭難、難破してしまったとか、
避難するとか、そういうような特別措置として来たこ
會津八一記念博物館 研究紀要 第19号
とはあるんです。でも、このように正面切って堂々と やって来たのは本当に初めてのことでありまして。こ ちら(「阿蘭陀加比丹幷妻子等之図」、東京大学総合図 書館蔵)は、川原慶賀のサインがあるのでそうだと思 いますが、当時、川原慶賀が描いたものです。(人物 の)年齢などはこの作品の箱書きにあったものをその まま書いたのですが、ブロンホフが39歳、乳母が若く て23歳、妻31歳、マラティという召使の人が33歳で、
ヨハネスくんは多分来たときは1歳5か月くらいなの かな、2歳という風になっていますが、このような 家族たちです。
これは実際に見て描いたのだということが箱書きに 書かれています。長くなってしまうので、大体の意味 なんですけれども、この年の夏にオランダのカピタン が妻や子たちを連れて長崎にやって来た。非常に珍 しいので、公儀において人物を写させて、その中の 一枚を大通詞の末永甚左衛門というのが貰いました ということが書いてあります。この末永甚左衛門とい うのはオランダの大通詞で、この来た年から間もない 1822年、ブロンホフの江戸参府に一緒に行っているん ですね。なので、幕府に献上するためにこれを描いた のかという風にも考えられたりしますけれども、とに かく、実際に見て、目の前にして描いたということが ここから分かると思います。先ほど沢山の種類があ ると(富田先生が)お話しされましたが、これ(「ブロ ンホフ家族図」、個人蔵)は現在所蔵先が分からなく なっていて、1897年の論文の中にモノクロで載ってい たのですが、どうやらこのような似たものがあったよ うです。まったく同じ構図になっている。それから、
これ(「ブロンホフ家族図」、神戸市立博物館蔵)が神 戸市立博物館本ですね。ちょっと人物がこちらの方が すらっとしていて、7頭身くらいなんですけれども、
(こちらは)かなりずんぐりとしております。慶賀の 作品と言われております。それから、こちら(「ブロ ンホフ家族図」、ライデン市・オランダ国立民族学博 物館蔵)の方をご覧いただきたいのですが、ちょっと 違うなと思いますね。ブロンホフがいなくて、女性3 人が主になっていて、それから、息子のヨハネスくん
が乳母に抱っこされているというもので、これも唐絵 目利きという長崎奉行の御用絵師で公の仕事をしてい た石崎融思という人が描いたものになります。こちら もやはり実際に見て描いたと考えられておりまして、
ブロンホフがいないんですね。
色々なパターンがあるなと思ったので、レジュメの 二頁目の下にも書いてあるんですけれども、ブロンホ フ家族図にはずいぶん色々な形式があるなという風に 感じまして、ちょっと分類してみようかなと思いまし た。融思のものは、今まで見た慶賀のものと少し違う 感じなので、覚えていただければと思います。この形 式をちょっと集めてみました。東京大学図書館のもの とか神戸市立博物館のものとか、先ほどの所蔵が分か らないものですとか、それから、これはライデン市・オ ランダ国立民族学博物館が持っているものだったと思 います。あと、こちらの方がブロンホフの子孫が持っ ていたものかと思います。ちょっと所蔵が色々ですけ れども、このあたりは基本的に同じ構図になっていま すね。こちらだけ、ちょっと体形が少し日本人に身近 な感じにアレンジしているのかなと思いますが、基本 的にこういう長椅子があって、ブロンホフの方をみん なが見ていて、端っこにいるとはいえ、ブロンホフが 中心になっていて、視線はこちらに集中しています。
対してこちら(「バタヴィアのVOC上席商館員P.ク ルノとその家族」、アムステルダム国立博物館)の方 はですね、奥さんが中心になっているという、女性だ けの群像表現になっているので、うーんと思いなが ら、じゃあ、オランダの家族図というのが元々あるの だろうなと思って、いい資料があったので、良かった なと思ったのですけれども。バタヴィアはオランダ東 インド会社の総督府があったところですが、そこの株 式会社、オランダ東インド会社の社員たちの家族図が ありまして、大体ちょっと年代が上がりますけれど も、このような物がありました。商館員を中心にし て、多分奥様とかなんですよね。女性たちがいて、召 使たちがやはり描かれています。椅子には座っていな いけれども、大体オランダの家族図の形式というのは 横長に群像表現をするようなんですね。こういう舞台