一 、 大学教員 としての 三十五年 本日 は、 最終講義 にご 参集 いただき ありがとうございま す 。 私 は、 昭和五十五年 ( 一九八 〇)に 神戸 の 甲南大学 の 専任 の 講師 とし て 教員生活 を 始 めて 二十五年間勤 めました 。 平成十七年 ( 二 〇〇 五 )に ここ 京都女子大学 に 移 って 十 年 にな ります 。 三十五年 に 亘 る 教員生活 を 送 って 来 て、こ の 三月 をもっ て 一区切 り 付 ける こと になりました 。 今日 は その 最終講義 となりま す。 講義 は、 学生 があっ て 初 めて 成 り 立 ちま す か ら 、 今日 の 出席 の 方 を 含 めて、 今 まで 受講 され た 数多 くの 学生 の 方々 にまずお 礼 を 申 し 上 げたい と 思 いま す。また 、 同僚 の 先生方 、 職員 の 方々 にも 十年 に 亘 って お 世話 になりましたの で、 お 礼 を 申 し 上 げたい と 思 いま す 。 特 に 今年度 は 退任 が 予定 さ れ て いましたの で 、 本学 における 最後 の 学会活動 とい う こと で 学会 を 三 つも 引 き 受 け て しまいました 。 四月十九日 の 和歌文学会関西例会 、 五月十八日 の 和 漢 比 較文学会国内 女子大國 お 第百五十七号 平成二十七年九月三十日
平安朝文学の
「
白
」
の世界
新
間
一
美
特別例会 、 十月十一 ・ 十二日 の 中古文学会秋季大会 です 。 四月 には 大谷俊太先生 に、 十月 には 坂本信道先生 、 中前正 志先生 、 大谷先生 にお 世話 にな り 、 いずれ も 盛会 のう ち に 無事 に 終 える ことが でき ました 。 院生 、 学生 にも お 手伝 い いただき ました。ありがとうございました。 さて、 六十五歳 にもな り 、だ んだ ん 白髪 も 増 えて 来 ました 。 こ の 頃 は 予想外 に 眉 も 白 くなりはじめまし て 、 「 眉 び 雪 せつ 」 とい う 京都大学 に 入学 した 四十五年 ほど 前 に 覚 えた 漢語 を 思 い 出 しました。 幕末 の 漢詩人 の 藤井竹外 が、 桜 で 有名 な 奈良 の 南 の 吉野山 で 詠 んだ 「 芳野懐古 」と いう 絶句 がありま す 。 古陵松柏吼天 颷 古陵 の 松柏 天 てん 飆 ぺう に 吼 ゆ 山寺尋春春寂寥 山寺春 を 尋 ぬれ ば 春寂 せき 寥 れう 眉雪老僧時輟帚 眉雪 の 老僧 時 に 帚 は くこ と を 輟 や め 落花深処説南朝 落花深 き 処 ところ 南朝 を 説 く 後醍醐天皇 の 御陵 がある 如意輪寺 で 詠 んだ 詩 です。 「 落花 」の 中 でほ う き を 持 つ「 眉雪 の 老僧 )1 ( 」の「 眉雪 」と い う 語 が、 眉 が 白 くな っ て 来 た 自分 の 身 に 関 わ っ てき ました 。 「 眉雪 の 老僧 」なら ぬ 「 眉雪 の 老教授 」で す が 、 退任後 は「 教授 」 でもなく なるの で 、 「 眉雪 の 老博士 」 、 「 眉雪 の 老研究者 」と な り そうで す 。 東京 の 高校 で 学 び、 大学 に 入 る 直前 に 初 め て 家族 で 吉野山 を 訪 れ ましたの で 、 こ の 詩 もその 頃 の 思 い 出 に 繋 がっ て い ま す 。 さて、 本日 は、 平安朝 の 文人達 はこ の 老 いに 関 わる 「 白 」と いうこ と を 文学 の 主題 とし て 考 えて い た と いうこ とを 中心 にお 話 ししたい と 思 いま す 。 題 は「 平安朝文学 の「 白 しろ 」の 世界 」と 読 むこと にしま す 。 本題 に 入 る 前 に、 まず 一通 り 今 まで の 私 の 研究 につい て ご 紹介 したい と 思 いま す。 平安朝 の 文学 、 特 に『 源氏物語 』 を 中心 とし て、 仮名文学 における 漢文学 の 受容 を 考 える とい う こ とが 研究 の 中心 です。
[ 新間一美先生退職記念小特集 ] 単著 は、 次 の 三冊 がありま す 。 『 源氏物語 と 白居易 の 文学 』 和泉書院 ・ 平成十五年 〈 二 〇〇 三 〉A 『 平安朝文学 と 漢詩文 』 和泉書院 ・ 平成十五年 〈 二 〇〇 三 〉B 『 源氏物語 の 構想 と 漢詩文 』 和泉書院 ・ 平成二十一年 〈 二 〇〇 九 〉 右 の 三冊以外 に、 最近唐代伝奇 の『 遊仙窟 』 関係 の 論文 を 多 く 書 い て おりま す の で 、そ れを 退任後 に 一冊 にま と め て 出版 したい と 思 って い ま す 。 共著 ・ 共編著 とし ては、 次 のようなものがありま す 。 『 白居易研究講座 』 ( 共編 ・ 全七冊 ・ 勉誠社 ) 『 田氏家集注 』 ( 小島憲之監修 ・ 共著 ・ 全三冊 ・ 和泉書院 ) 『 新撰万葉集注釈 』 ( 共著 ・ 既刊二冊 ・ 和泉書院 ) 『 田氏家集 』は、 菅原道真 の 若 い 頃 の 漢詩 の 先生 で、 岳父 ( 妻 の 父親 ) で もあった 島田忠 ただおみ 臣 の 漢詩集 です。 監修 され た 故小島憲之先生 は、 大阪市立大学 に 勤 め て おられ ました 。 私 は 京都大学 に 非常勤講師 とし て 来 てお ら れ た 先生 の 授業 を 受講 し、 先生 の 研究 の 方法 を 学 んで 今 に 至 って い ま す 。 『 新撰万葉集注釈 』は、 一応私 が 代表 を 務 めて い る 新撰万葉集研究会 の 編著 で、ま だ 未刊分 がありま すの で、 退任後 は 完結 を 目指 しま す 。 主 な 論文 は、 最近数年間 に 書 いたもの を 除 いて、 右 に 挙 げた 拙著 に 収 められて いま す 。 その 中 からいくつかご 紹介 しま す 。 昔 から 作品 の 始 めと 終 わり 、 と い う こ と に 関心 がありました 。 論文 につい て も 研究生活 の 初 めの 院生 の 頃書 いたもの と 最近書 いたもの を 取 り 上 げま す。
院生時代 に 初 めて 活字 になったのが、 『 源氏物語 』の 始 めの 桐壺 の 巻 に 登場 する 桐壺 の 更衣 に 関 する 論文 です。その 頃 は、ワープロ・パソコンがまだ 普及 する 前 ですの で 、 本当 の「 活字 」の 論文 で した。 原稿 はも ち ろ ん 手書 きで す 。 ① 「 李夫人 と 桐壺巻 」 ( 『 論集 日本文学 ・ 日本語 2 中古 』 阪倉篤義監修 ・ 角川書店 ・ 昭和五十二年 〈 一九七七 〉 ) A 所収 二番目 が、 大学院 の 博士課程 を 出 る 時 に 書 いた 、 『 源氏物語 』の 最後 の 巻 であ る 夢 の 浮橋 の 巻 の 末尾 につい て の 論文 です。 ② 「 源氏物語 の 結末 につい て ― 長恨歌 と 李夫人 と ― 」 ( 『 国語国文 』 昭和五十四年 〈 一九七九 〉 三月 )A 所収 この 二本 の 論文 は、どち らも 白居易 の「 新楽府 」 中 の「 李夫人 」 詩 や「 長恨歌 」に 関 わり ま す 。 『 源氏物語 』の 始 めと 終 わり をま ず 論 じ、 中間 につい て は ゆっくり と 人生 を 掛 けて 研究 しようと 思 っ て いました。 三番目 に 活字 になったのは 『 古今和歌集 』 の 序文 につい て の 論文 でし た が 、 実 は 四番目 の 唐代伝奇 の 「 任 じん 氏 し 伝 」 と 『 源 氏物語 』 と の 関 わり を 指摘 した 論文 を 大学院時代 に 先 に 書 い て いました。 出版社 の 事情 で 出版 がか なり 遅 れた の で すが、 おそらく 私 の 論文 とし ては 一番知 られて いるの で はない で しょうか。 ③ 「もう 一人 の 夕顔 ― 帚木三帖 と 任氏 の 物語 ― 」 ( 『 源氏物語 の 人物 と 構造 』 笠間書院 ・ 昭和五十七年 〈 一九八二 〉 ) A 所収 「 任氏 」はもと もと 妖狐 で、 絶世 の 美女 に 化 けて 男 を 魅了 しま す。 こ の 論文 は 夕顔論 ですが 、 今日 の 主題 の「 白 」と も 関係 がありま す の で 、 あ と で 言及 しま す 。 『 源氏物語 』の 構想論 とし て、 光源氏 の 生前部分 を 正篇 、 死後 の 部分 を 続篇 とし て、 二 つに 分 ける 考 え 方 がありま す 。 三年 ほど 前 にその 正篇 の 最後 に 当 たる 幻 の 巻 につい て の 論文 を 書 き ました。
[ 新間一美先生退職記念小特集 ] ④ 「 源氏物語正篇 の 終焉 ― 幻巻 と 謝観 「 白賦 」 ― 」 ( 『 東 アジア 比較文化研究 』 十一号 ・ 平成二十四年 〈 二 〇 一二 〉 六月 ) この 論文 で 扱 った 晩唐 の 詩人謝観 の「 白賦 」 ( 「 白 はく の 賦 」 ) が 平安朝 では 、 か なり 重要 であ る と 思 って い ま す 。 白尽 くし の 内容 となっ て おり、あ とで 詳 しくご 紹介 しま す 。 最近 は、 平安朝以外 の 時代 のも のも 少 し 書 いて い ま す 。 芭蕉 につい て の 論 もありま す 。 ⑤ 「 白居易 ・ 能因 ・ 芭蕉 の「 三月尽 」― 白河 の 関 へ ― 」 ( 『 白居易研究年報 』 十五号 ・ 近刊 )2 ( ) この 論文 がもうす ぐ 出版 され る 一番新 しい 論文 です 。 「 白 」 字 を 含 んだ 「 白河 の 関 」を 中心 に 執筆 しました 。 『 奥 の 細道 』の 旅 で 白河 の 関 を 越 える 時 に、 芭蕉 に 随行 した 曾良 が、 咲 いて い た 白 い 卯 の 花 を 取 り 上 げて 、 「 卯 の 花 をか ざし に 関 の 晴 れ 着 かな 」と 詠 んで い ま す。 『 奥 の 細道 』には 、 「 石山 の 石 より 白 し 秋 の 風 」の 句 もあり 、 芭蕉 も「 白 」に 拘 りがありました。 二 、 「 白 」と 和歌 平安朝文学 では 、 「 白 」がど の よう に 表現 されて い るで し ょ う か 。 「 白 」に 関 わる 和歌三首 を 例 とし て 挙 げましょう。 平安朝中期 の 西暦千年頃 に 藤原公任 ( 九六六 ~ 一 〇 四一 )によっ て 編纂 され た 『 和漢朗詠集 』は 、 上巻 が 四 しい 時 じの 部 、 下 巻 が 雑 ぞうの 部 から 構成 されて い ます が、 そ の 雑部 の 最後 が「 白 はく の 部 」と な っ て い ます 。 そ の 最後 の 作品 、す なわち 全体 の 終 わり に 白尽 くしの 次 の 歌 が 置 かれて い ます 。 ⑴ しらしらししらけたる と し 月 かげ に 雪 かき わ け て 梅 の 花折 る この 歌 は 撰者 の 公任 の 作 と 言 われ て い ま す 。 『 和漢朗詠集 』の 漢詩句 には、 白居易 の 句 が 多 いの ですが、 こ の 歌 は、 同
集 の 交友部所載 の 白居易 の 詩句 「 琴酒詩友皆抛我 、 雪月花時最憶君 」 ( 琴酒詩 の 友 は 皆我 を 抛 つ、 雪月花 の 時最 も 君 を 憶 ふ) に 用 いられ た 「 雪月花 」を それ ぞれ 白 いも のと し て 詠 み 込 み、そ れ に 白髪 の 自身 の 姿 を 加 え て いま す )3 ( 。 二首目 は、 『 小倉百人一首 』に 見 える 凡 おおし 河 こう 内 ちの 躬 み 恒 つね の 初霜 と 白菊 の 歌 です 。 ⑴ よりは 百年 ほど 前 の 歌 で、もと は 『 古 今和歌集 』 所載 の 歌 です。 ⑵心 あて に 折 らば や 折 らむ 初霜 のお き ま どはせる 白菊 の 花 ( 秋下 ・ 白菊 の 花 を 詠 める〔 二七七 〕 ) 凡河内躬恒 は、 延喜五年 ( 九 〇 五 )に 撰 ばれ た 『 古今和歌集 』の 四人 の 撰者 の 一人 です。 意味 は、 当 て 推量 で 折 りましょ うか 、 初霜 が 置 いて そ の 白 に 紛 れて いる 白菊 の 花 を 、 となりましょう 。 霜 と 花 の 白 さについ て の 解釈 の 例 とし て 、 角 川文庫版 『 百人一首 』の 島津忠夫氏 の 注釈 を 挙 げましょう。 旧版 ( 初版昭和四十四年 〈 一九六九 〉 ) と 新版 ( 平成十一 年 〈 一九九九 〉) がありま すが、 こ の 部分 につい て は 同 じで す ( 傍線 、 新間 ) 。 石田吉貞氏 が「 定家 は 白 の 色 にと く に 艶 を 感 じたの で あるから 、 こ の むせかえるばかりの 白 の 饗宴 には 、 胸 のと きめ き を 感 じたに ち がい ない」 と 言 われて いる こ とは、いかにもと 思 われる。 島津氏 は、 石田吉貞氏 の『 百人一首評解 』 ( 有精堂 ・ 昭和三十一年 〈 一九五六 〉 ) を 引用 して い ま す。 石田氏 の「 む せ かえるばかり」の 「 白 の 饗宴 」と いう 言葉 を 昔読 んで、 主観的 な 印象批評 とい うよ うに 感 じ、 も う 少 し 客観的 な 説明 が 必要 だと 思 いました。 島津氏 の「 新版 」で は 、 次 のように 漢詩 との 関 わ りについ て の 言及 もありま す 。 なお 、 新大系 の 脚注 には 、 「 菊 を 霜 に 見立 てる の は 漢詩 に 学 んだ 表現 」と して『 白氏文集 』の 「 満園花菊鬱金黄 、 中有 二 孤叢 一 色似 レ 霜 」を あげ るが 、 片桐洋一氏 は、 『 躬恒集 』の 「 月影 に 色分 きがた き 白菊 は 折 りて も 折 らぬ 心地 こそ す れ 」 と い う 類似 した 発想 の 歌 をあ げ 、 「 初霜 の 白 さと 菊 の 白 さが 見 る 者 を 惑 わせる と い う 趣向 は、 躬恒独特
[ 新間一美先生退職記念小特集 ] の 機智 であ っ て、 漢詩 の 影響 では ない 」 と い う ( 古今集全評釈 ) 。 「 新大系 」は 、 小島憲之 ・ 新井栄蔵両先生校注 の『 新日本古典文学大系 古今和歌集 』 ( 岩波書店 ・ 平成元年 〈 一九八九 〉 ) を 指 しま す 。 校注者 のお 二人 は 私 の 大学院時代 の 先生 です し 、その 頃 にこ の 本 を 執筆 されて い たと いうこ と も あ り 、 この 注 には 関心 がありま す 。 挙 げられて いる 白居易 の 作 は、 『 白氏文集 』 巻十一 「 重陽席上賦 二 白菊 一」 〔 二七七四 〕の 句 です 。 中 に 引用 されて い る 、 白 さが 惑 わせる と い う 趣向 は 漢詩 の 影響 では ない 、 と い う 片桐氏 の 説 には あとで 反論 したい と 思 いま す 。 三首目 は、 『 源氏物語 』の 夕顔 の 巻 の 歌 です。 公任 の ⑴ の 少 しあ と く らいの 頃 の 作 と 思 われま す 。 ⑶心 あて に そ れ か と ぞ 見 る 白露 の 光 そへたる 夕顔 の 花 ( 夕顔 ・ 一二五 )4 ( ) 夕顔 の 君 が、 夕顔 の 花 に 関心 を 持 った 光源氏 に、 花 を 載 せるよ う に と 贈 った 扇 に 書 い て あった 歌 です。 「 心 あて に 」 の 言葉 から ⑵ の 躬恒 の 歌 を 意識 して 作 られ た こ と が 分 かりま す 。 白 い「 夕顔 の 花 」に「 白露 」を 配 して い る と こ ろ は 、 「 白菊 の 花 」に 白 い「 初霜 」を 配 した 躬恒 の 作 に 倣 った と 考 えられ ま す 。 三 、 白衣 の 美女 ― 妖狐 「 任氏 」と 夕顔 の 君 ― ⑶ の 夕顔 の 巻 の 和歌 では 、 白 い「 夕顔 の 花 」が 登場 しま す 。その 歌 を 光源氏 に 贈 った 夕顔 の 君 が 狐 の 化身 であ る 絶 世 の 美女 「 任氏 」と 関 わり が あ る こ と を 論 じたの が 、 論文 の ③ で す 。こ のこ と は 修士論文執筆中 に 気付 き、 書 き 入 れ ました 。 任氏 は、 伝菅原道真撰 の『 新撰万葉集 』に 登場 しま す 。 こ の 歌集 は、 万葉仮名 で 書 かれ た 和歌 に、 そ れ を 翻 訳 したような 七言絶句 が 付 されて い ると いう 特異 な 形式 の 歌集 で、 寛平五年 ( 八九三 )の 序文 が 残 って お り 、 十二年
後 に 編纂 され る 『 古今和歌集 』を 理解 する に は 重要 な 歌集 です 。 こ の 歌集 につい て は 、 小島憲之先生 が 大学院 の 演習 の 時 に 取 り 上 げ て おられ ました。その 延長 で 現在詳 しい 注釈 を 刊行中 です。 秋 の 野遊 を 詠 んだ 上巻秋部 の 和歌 の 左 の 漢詩 に「 任氏 」が 登場 しま す 。 秋之野野草之袂歟花薄穂丹出手招袖砥見湯濫 ( 秋 の 野 の 草 の 袂 たもと か 花 すすき 穂 に 出 て 招 く 袖 と 見 ゆらむ ) 秋日遊人愛遠方 秋日遊人 遠方 を 愛 す 逍遙野外見蘆芒 野外 に 逍遙 して 蘆芒 を 見 る 白花揺動似招袖 白 き 花揺 れ 動 きて 招 く 袖 に 似 たり 疑是鄭生任氏嬢 疑 ふらくは 是 れ 鄭生 が 任氏 の 嬢 をとめ 歌 は、 秋 の 野 を 逍遙 して い る と 花薄 ( 尾花 )が 揺 れ 動 いて( 美女 が) 招 い て いるようだ 、の 意味 ですが 、 詩 の 方 では 具体的 に「 鄭生 」の 「 任氏 」の 名 が 出 て 来 ます。 唐代伝奇 の「 任氏伝 」を 読 むと 狐 の 化身 であ る 絶世 の 美女 の 任氏 が 白 い 衣 を 着 て 街 で 鄭生 と 出逢 い、 鄭生 の 愛人 となる と い う 話 になっ て おり 、そ れを 踏 まえ た 詩 です。 尾花 の「 白 い 花 」 が 女性 の 着物 のたもと に 見 えるの は 、 任氏 の「 白衣 」に 理由 がありま す 。 「 任氏伝 」は 、 八世紀末 に 沈 しん 既 き 済 せい によっ て 書 か れ ました。 後 の 宋代 には 、 白蛇 の 化身 の 美女 を 主人公 とす る「 白蛇伝 」 が 生 まれ ます が 、 そ の 前身 の 作品 と 言 えましょう 。 任氏 が 白 い 衣 を 着 て いるのは 、 もと もと 白狐 の 物語 で あったから と 推測 できま す 。 その 白 い 衣 を 着 た 任氏 と 男主人公 の 鄭生 ( 鄭子 )と の 出逢 いは 、 次 のように 描 かれて い ます 。 偶値三婦人行於道中 。 中有白衣者 、 容色殊麗 。 鄭子見之驚悦 。… 白衣時々盼 睞 。 意有所受 。 ( 偶 たまたま 三婦人 の 道中 に
[ 新間一美先生退職記念小特集 ] 行 くに 値 あ ふ。 中 に 白衣 の 者有 り。 容色殊麗 なり。 鄭子之 れを 見 て 驚悦 す。 … 白衣時 より 々 より に 盼 はん 睞 らい す。 意 に 受 くる 所有 り。 ) 「 盼 睞 」は、 流 し 目 で 見 るこ と で す 。 鄭生 は 一目惚 れで す が 、 任氏 の 方 も 鄭生 に 関心 がありました 。 鄭生 は 任氏 の 家 に 連 れて 行 か れ 、その 後 、 任氏 は 鄭生 の 愛人 にな ります 。 沈既済 より やや 後輩 の 白居易 も 任氏 を 詩 に 詠 んで い ま す 。 十世紀前半 にわ が 国 で 編纂 され た 外来佳句撰 の『 千載佳 句 』 ( 大江維時撰 )に 、 白居易 「 任氏行 」 ( 別名 「 任氏怨歌行 」 ) の 逸文 が 四句二十八字分 だけ 残 って い ま す 。 「 長恨歌 」 が 西暦八 〇 六年 に 作 られて い ます の で 、その 頃 の 作 でし ょ う 。 こ の 作品 は『 千載佳句 』にだけ 残 って い た と 思 われ て いたの ですが、 宋代 の 佳句撰 の『 錦繡万花谷 』にも「 任氏行 」 四句 が 残 るこ と が 、『 全唐詩外編 』 ( 中華書局 〈 一九八二 〉 ) によっ て 知 られ ました 。そ れが 『 千載佳句 』にも 残 る 白居易作 の 逸文 であ る と い う 指摘 がなかったの で 、 その ことを 指摘 した 論文 を 書 き ました )5 ( 。 新出 の 四句 を 挙 げましょう。 蘭膏新沐雲鬟滑 蘭膏新 たに 沐 して 雲鬟滑 らか なり 宝釵斜墜青糸髪 宝釵斜 めに 墜 つ 青糸 の 髪 蟬鬢尚随雲勢動 蟬鬢 尚 なほ 雲勢 に 随 ひて 動 く 素衣猶帯月光来 素衣 猶 なほ 月光 を 帯 びて 来 れり 「 素衣 」が 白 い 衣 で「 任氏伝 」の 「 白衣 」に 当 たりま す。 入浴 して 、 髪 を 結 い 上 げ、 白 い 雲 のもと、 白 い 月 の 光 を 浴 び て 白 い 衣 を 着 た 美女 の 任氏 が 鄭生 のもと に や っ て くるような 場面 だと 思 いま す。 「 雲 」 「 素衣 」 「 月光 」など が 白尽 くし となっ て おり、 縁語関係 にありま す 。 「 任氏伝 」よりもさらに 白尽 くしの 女性 とし て 詩的 に 造型 されて い ます 。 一方 、 夕顔 の 巻 を 見 ます と 、 狐説話 を 背景 とし てい る こ とが、 光源氏 の 夕顔 の 君 に 対 して の 次 の 言葉 から 分 かりま す 。 〔 源氏 〕 「げに、いづれ か 狐 なるらむな。ただはかられ たまへかし」
( 夕顔 ・ 一三九 ) これは 、 あ な たか 私 かの ど ち らかが 狐 なの で し ょ う ね 。 た だ 騙 され な さ い よ 、と 言 って、 夕顔 を 夕顔 の 宿 から な に が しの 院 に 連 れだそ う とする と ころ です。 溯 って 、 夕顔 と 光源氏 が 出逢 う 場面 では、 「 白 」が 強調 され ます 。 白 き 花 ぞ 、おの れひと り 笑 ゑみ の 眉 ひ ら け た る。 … 〔 随身 〕 「かの 白 く 咲 ける をな む 、 夕顔 と 申 しはべる」… 白 き 扇 の、 いたう こ がしたる を 、 〔 童 〕 「こ れ に 置 きて 参 らせよ。 枝 もなさ け なげなめる 花 を」 と て 、 ( 夕顔 ・ 一二二 ) 心 あて に そ れ か と ぞ 見 る 白露 の 光 そへたる 夕顔 の 花 ( 夕顔 ・ 一二五 ) 十五夜 の 夕顔 の 宿 、 明 け 方 にな にが しの 院 へ 行 く 直前 では、 さ らに 白 が 強調 され ます 。 八月十五夜 、 隈 なき 月影 、… 白妙 の 衣 ころも うつ 砧 きぬた の 音 も、 ( 夕顔 ・ 一四 〇) 白 き 袷 あはせ 、 薄色 のなよよかなる を 重 ね て 、…いさよ ふ 月 に 、ゆくりなくあくがれむことを、 女 は 思 ひやすら ひ、 と かくのたま ふ ほ ど 、にはかに 雲 がく れ て 、 明 けゆく 空 い とを かし。 ( 夕顔 ・ 一四三 ) この よ う に 、 夕顔 の 巻 は 白 い 夕顔 の 花 に 始 まり 、 白 い 衣 を 着 た 夕顔 の 君 の 姿 を 中心 にし て、 白 い 扇 に 雲 や 月影 を 配 し、 白尽 くし となっ て いま す 。その 描写 の 源泉 とし て 白尽 くしの 美女 「 任氏 」を 考 える 必要 がありま す 。 この 白尽 くしは、 単独 で 出 て くるの で は なく、 巻 の 並 びか ら 申 しま すと 、 続 く 若紫 の 巻 は「 紫 」の 色 が 取 り 上 げられ 、 その 次 の 末摘花 の 巻 は 「 く れ なゐ」の 色 とい うよ うに 、 色 で 巻 が 並 ん で い る とい う こ とに も な っ て い ま す 。 紫式部 の 物語 を 書 く 上 での 工夫 が 感 じられ ま す 。
[ 新間一美先生退職記念小特集 ] 四 、 青女 ― 霜 と 雪 の 女神 ― もう 一 つ『 新撰万葉集 』 上巻 の 冬 の 部 から 「 白 」に 関 わる 歌 と 詩 を 取 り 上 げましょう 。 ⑵ の 躬恒 の 初霜 と 白菊 の 歌 と 関 わる 、 菊 に 霜 が 置 くと いう 歌 です。 吾屋戸之菊之垣廬丹置霜之銷還店将逢砥曾思 (わ が 宿 の 菊 の 垣 ほに 置 く 霜 の 消 えかへり て も 逢 はむ と ぞ 思 ふ) 青女触来菊上霜 青 せい 女 ぢよ 触 れ 来 きた る 菊上 の 霜 寒風寒気蕊芬芳 寒風寒気 蕊 ずい 芬芳 たり 王弘趁到提樽酒 王弘 趁 おもむ き 到 りて 樽酒 を 提 ひつさ ぐ 終日遊遨陶氏荘 終日遊 いう 遨 がう す 陶氏 が 荘 歌 は、 菊 の 上 に 置 く 霜 がす っかり 消 え て しまうように、 死 にそうに 消沈 して も あ な た に 逢 おうと 想 っ て いる、 の 意 です。 詩 の 中 では 、 菊 に 置 く 霜 と、 九月九日 の 重陽節 に 客 を 迎 えて 酒 を 飲 む 陶淵明 の 姿 が 描 かれて い ます。 太陰暦 の 九月 は 晩秋 ( 季秋 )で す が 、こ こ は 霜 の 歌 、 詩 とし て 冬 の 部 に 分類 されて い ます 。 詩 に 見 える 「 青女 」は、 霜 や 雪 を 司 る 女神 で、 今 の 雪 ゆき 女 おんな に 当 たりま す。 唐代 の 類書 の『 初学記 』 ( 霜 )に 『 淮南子 』 を 引 いて 、 霜 の 神 の 青女 につい て、 「 青女出以降霜 」 ( 青女出 づるに 降霜 を 以 つて す ) と 記 しま す。また 、 『 淮南子 』の 高誘注 を 引 いて 「 青女天神 、 主霜雪 」 ( 青女 は 天神 にし て 、 霜雪 を 主 つかさど る) と 記 して い ま す 。 「 王弘 」は、 同 じ『 初学記 』の 九月九日部 に 引 く『 続晉陽秋 』の 記事中 に 登場 しま す。 陶淵明 が 九月九日 に 菊 を 摘 ん でい る と 「 白衣 の 人 」が 来 ま す 。そ れは、 知 り 合 いの 王弘 の 使 いで 、 酒 を 持 って 来 て 陶淵明 に 振 る 舞 った と い う 話 です。
『 新撰万葉集 』で は 、 王弘自身 が「 樽酒 」を 持 って や って 来 たように 詠 まれて い ます 。 この 『 新撰万葉集 』の 歌 や 詩 に 関 わる 歌 が『 古今和歌集 』に 残 って い ま す 。 わが 宿 の 菊 のか きねにおく 霜 の き えかへり て ぞ 恋 しかりける ( 恋二 ・ 寛平御時后宮歌合 の 歌 ・ 紀友則 〔 五六四 〕 ) この 歌 は『 新撰万葉集 』 歌 の 異伝 で、 一部 が 異 なっ て い ま す 。 花見 つつ 人 まつ 時 は 白妙 の 袖 かと の み ぞ あ や ま たれ け る ( 秋下 ・ 菊 の 花 の 下 にて 、 人 の、 人待 てる 形 を よめる・ 紀友則 〔 二七四 〕 ) この 歌 は、 詞書 から 、 菊 の 花 のもとで 人 を 待 って い る 様子 の 人形 が 置 かれて い る 洲浜 を 詠 んだも の で あ る こ と が 分 か りま す 。 人形 は 陶淵明 に 見立 てら れ 、 菊 を 見 て 王弘 の 白衣 を 着 た 使 いを 連想 させ て いるの で 、 こ の 菊 は 一般的 な 黄菊 では なく 、 白菊 であ る こ と が 分 かりま す。 『 新撰万葉集 』の 詩 の 菊 も 白菊 に 霜 が 置 い て いるさま を 描 いて い る と 読 めな くもありません 。その 場合 は、 白菊 に 白 い 霜 が 置 き、 白 い 衣 の 人物 が 取 り 合 わさ れ てい る こ と に な り 、 躬恒 の ⑵ の 歌 に 近 い 状景 です。 『 和漢朗詠集 』の 撰者 の 藤原公任 にも 「 青女 」を 詠 んだ 歌 がありま す 。 冬 のはじめつかた、 観音偈 げ もと より 久 しう 御読経 にめさ れ ぬ と 聞 こえたりければ 霜 はや みう つろふ 色 は 菊 の 花 をと めの 袖 もかく こ そ は 見 め かへし をと めごが 袖 ふる 霜 のう ち は へ て た わ まぬ 菊 の 心 とを 知 れ ( 公任集 〔 四五 〇〕 〔 四五一 〕 )
[ 新間一美先生退職記念小特集 ] ある 女性 が「 観音偈 」を 読経 しな くな ったと 聞 いて 公任 が 贈 った 歌 です 。 霜 が 置 いて 菊 の 花 の 色 が 変 わ ったように 、 変 わ ら な い は ず の「を と め 」 ( 天女 )の 衣 の 袖 の 色 も 変 わっ た 、 あ な た の 強 く 見 えた 心 も 変 わ っ て しまった 、 と いう 冷 や かしの 意味 でし ょ う 。 衣 の 色 が 変 わっ た と い う の は 、 仏教 で 言 う「 天人五衰 」を 踏 まえて い ます 。 「 五衰 」の 一 つに 天人 の 清 らか な 衣 が 穢 れ る と い うのがありま す 。 それ に 返 した 女 の 歌 は 、「を と め 」を 「 青女 」に 見 なし て い ま す 。 青女 が 袖 を 振 って 一面 に 置 いた 霜 であ る け れ ど も 、 その 霜 にもず っ と 弱 るこ と の な い 菊 の( 強 い) 心 であ る こ と を 知 りなさい、の 意 です )6 ( 。 『 和漢朗詠集 』 ( 冬部 ・ 霜 〔 三六九 〕 ) の 紀長谷雄 の 詩序 にもこ の 「 青女 」の 姿 が 垣間見 られ ます。 紀長谷雄 は、 菅原 道真 の 門人 です。 晩学 だったの で 、 道真 と 同 じ 年 です。 閨寒夢驚 、 或添孤婦之砧上 閨 ねや 寒 くし て は 夢驚 く、 或 いは 孤婦 の 砧 きぬた の 上 に 添 ふ 山深感動 、 先侵四皓之鬢辺 山深 くし て は 感動 く、 先 づ 四皓 の 鬢 の 辺 りを 侵 す 題 に「 青女司霜 」 ( 青女霜 を 司 つかさど る) と あっ て 、 神秘的 な 青女 が 人間世界 に 霜 をもた ら すさま を 詠 んで い ま す 。 ( 街 の) 奥深 い 寝室 では 、 霜 の 寒 さに 眠 って い る 人 を 起 こさ せ 、 一方 で 砧 を 打 つ 独 り 身 の 女性 のもと に 霜 が 置 いて い ま す。 砧 の 上 には 白 い 練 (ね りぎ ぬ)が 置 か れ て いるの で 、 白 い 霜 が 白 いね りぎ ぬに 重 なっ て い ま す 。 深山 では 霜 の 寒 さが 山 に 住 む 者 の 思 いを 動 かす 、 ま ず 商山 の 四皓 の 白 い 鬢 に 白 い 霜 が 置 く、 の 意 です。 「 四皓 」は、 四人 の 白 い 者 の 意 で、 秦 の 始皇帝 を 避 けて 商山 に 籠 もった 白髪頭 の 四人 の 隠者 を 指 しま す 。 五 、 菅原道真 の「 白 」― 白梅 と 白菊 ― 躬恒 の ⑵ の 歌 は、 霜 と 白菊 の 取 り 合 わせ でし た が 、 少 し 前 の 菅原道真 の 詩 に 雪 と 白梅 の 取 り 合 わせ が 見 られ ます。
『 菅 家文草 』の 貞観十五年 ( 八七三 )の 作 を 挙 げましょう。 宮中 での 正月 の 宴 の 詩 で、 清和天皇 の 命 で 列席 の 文人達 が 共 に「 春雪早梅 に 映 ず」の 題 で 詩 を 詠 んで い ま す 。 早春侍宴仁寿殿 、 同賦春雪映早梅 、 応製 〔 六六 〕 早春 に 宴 に 仁寿殿 に 侍 し、 同 じく「 春雪早梅 に 映 ず」 とい ふことを 賦 す。 製 に 応 ず 雪片花顔時一般 雪片花顔 時 に 一般 上番梅 楥 待追歓 上番 の 梅 楥 追歓 を 待 つ 氷紈寸截軽粧混 氷紈 寸 きだきだ に 截 き りて 軽粧 を 混 ず 玉屑添来軟色寛 玉屑添 へ 来 りて 軟色寛 ゆた かな り 鶏舌纔因風力散 鶏舌 纔 わづ かに 風力 に 因 りて 散 ず 鶴毛独向夕陽寒 鶴毛 独 り 夕陽 に 向 かひ て 寒 し 明王若可分真偽 明王 若 し 真偽 を 分 つべ くは 願使宮人子細看 願 はく は 宮 きうじん 人 をし て 子細 に 看 しめよ 白梅 の 上 に 雪 が 降 り、 一様 に 見 えて 見分 けがつかないさま を 詠 ん で いま す 。その 白 い 中 で 梅 と 判断 できるの は 、 鶏舌 香 ( 丁字香 )に 似 た 香 りが 早春 の 風 によっ て か ろうじ て 散 る こ と によっ てで あり 、 雪 と 判断 できるの は 、 鶴 の 白 い 毛 に 似 た 雪 だけが 夕陽 に 冷 たい こと からです。 「 鶏舌 」 と あるの で 紅梅 と 解釈 されて 来 ましたが、 白梅 でな け れ ば な ら な いと いうこ と を か つて 指摘 しました )7 ( 。 最後 の 二句 は、 それ ほど 判別 がつ き にくいの で、 明王 は、も し 真偽 を 分別 しようと 思 うの ならば 、 宮人 ( 宮女 の 意 ) に 子細 に 見 させなさい、 と 結 んで い ま す 。
[ 新間一美先生退職記念小特集 ] 道真 は、 雪 と 梅 との 真偽 を 天皇 に 判断 せよ と 提言 して い ま す 。 暗 に「 明王 」 ( 賢明 な 君主 ) で あ れ よ、 と 天皇 に 提言 し、 自分 がそのような 提言 がで き る 賢臣 であ る こ と を 主張 し て いる こと になりま す 。 実 は、 「 春雪映 二 早梅 一」は、 唐 の 尚書省 の 試験 ( 省試 )の 題 で、そ れ を わ が 国 では 正月 の 宴 の 詩題 とし て 用 いて い る ので す 。 文人 は 力量 を 試 されて い る 面 があるの で 、 道真 はそ れに 応 えよ う と し て いま す。 ここ に 見 える 、 詩 は 君主 が 臣下 の 賢愚 を 見 る 手段 であ る と い う 考 え 方 は、 和歌 におい て も 主張 さ れ て いました 。 次 に 挙 げる『 古今和歌集 』の 二 つの 序文 に 記 されて い ます 。 古 への 世々 の 帝 、 春 の 花 の 朝 、 秋 の 月 の 夜 ごと に 侍 ふ 人々 を 召 して、 事 につけつつ 歌 を 奉 らしめたま ふ 。 … 心 ご ころ を 見給 ひて 賢 し、 愚 かな りと 知 ろし 召 しけむ 。 ( 紀貫之 ・ 仮名序 ) 古天子 、 毎良辰美景 、 詔侍臣預宴筵者 、 献和歌 。 君臣之情 、 由斯可見 。 賢愚之性 、 於是相分 。 所以随民之欲 、 択 士之才也 。 古 の 天子 、 良辰美景 ごと に 、 侍臣 に 詔 して、 宴筵 に 預 る 者 をし て 、 和歌 を 献 らしめたま ふ 。 君臣 の 情 、 斯 れに 由 りて 見 るべ く、 賢愚 の 性 、 是 に 於 いて 相分 る。 民 の 欲 する と ころに 随 ひて 、 士 の 才 を 択 ぶ 所以 なり。 ( 紀淑望 ・ 真名序 ) 「 春雪早梅 に 映 ず」の 詩 を 詠 んだ 時 、 道真 はま だ 二十九歳 です。 晴 れの 場 での 作 の 中 に 政治上 の 主張 を 穏 やか に 籠 めて いま す 。 躬恒 の ⑵ の 歌 が 生 まれ る 背景 には 、 新大系 が 指摘 する よ う な 白居易 の 霜 と 白菊 の 相似 もあった で しょうが 、 道真詩 が 主張 する 、 も の の 真偽 を 判断 すべ きとい う 雪 と 白梅 の 詩 もあった ことを 指摘 したい と 思 いま す 。
六 、 謝観 「 白 の 賦 」と 国文学 以上 、ご 紹介 しましたように 「 白 」の 世界 はさま ざ ま で すが 、 平安朝 におい て 最 も 影響 があったのは 、 晩唐 の 詩人 の 謝観 が 作 った「 白賦 」 ( 白 はく の 賦 )と いう 作 であ る と 思 いま す 。 これは、 白 に 関 わる も の を 列挙 した 作 で、 わが 国 の『 和 漢朗詠集 』 『 新撰朗詠集 』だけ に 逸文 が 残 って ます 。 ①暁入梁王之苑 、 雪満群山 。 暁 あかつき 梁王 の 苑 に 入 れば、 雪 ゆき 群山 に 満 てり 。 夜登庾公之楼 、 月明千里 。 夜 よる 庾 ゆ 公 の 楼 に 登 れば、 月 つき 千里 に 明 らか なり。 ( 和漢朗詠集 ・ 巻上 ・ 雪 〔 三七四 〕 ) 漢 の 梁王 の 兎 と 園 えん は、 謝恵連 の「 雪 の 賦 」 ( 文選巻十三 )で 有名 です。その 兎園 における 雪 の 白 さと 、 武昌 の 南楼 におけ る 月影 の 白 さを 対 にし て いま す 。 南楼 は、かつ て 東晉 の 庾亮 が 登 って 月 を 愛 でた と こ ろ で す。 ②秦皇驚歎 、 燕丹之去日烏頭 。 秦皇驚歎 す、 燕丹 が 去 りし 日 の 烏 の 頭 かしら 。 漢帝傷嗟 、 蘇武之来時鶴髪 。 漢帝傷嗟 す、 蘇武 が 来 きた りし 時 の 鶴 の 髪 。 ( 和漢朗詠集 ・ 巻下 ・ 白 〔 七九八 〕 ) 秦 の 始皇帝 は 燕 の 太子 の 丹 たん を 人質 とし て、 もし 烏 の 頭 が 白 くな り、 馬 に 角 が 生 えた らお 前 を 帰 そうと 言 ったそう で す。 ある 日烏 の 頭 が 白 くな り 、 馬 に 角 が 生 えて、 始皇帝 は 驚 き ました 。 前漢 の 蘇武 は、 匈奴 に 囚 われ て 十九年 を 過 ごしま した 。ある 時 、 白 い「 帛 きぬ 」に 自分 はま だ 生 きて いると い うことを 書 いて 雁 の 足 に 結 び 付 けました 。そ れを 武帝 が 見 て、 蘇武 を 召還 する と 蘇武 の 頭 は 真白 で した。 これが 「 雁信 」 の 故事 ですが、 丹 の 故事 と 組 み 合 わせ て 隔句対 にし て いま す 。 ③寸陰景裏 、 将窺過隙之駒 。 寸陰 の 景 かげ の 裏 うち に、 将 まさ に 隙 ひま を 過 ぐる 駒 を 窺 はむ と す 。
[ 新間一美先生退職記念小特集 ] 広陌塵中 、 欲認度関之馬 。 広陌 の 塵 の 中 に、 関 を 度 わた る 馬 を 認 めむ と す 。 ( 新撰朗詠集 ・ 巻下 ・ 白 〔 七四五 〕 ) 『 荘 そう 子 じ 』で は 、 人 の 一生 を 隙間 を 通 り 過 ぎる 白 い 駒 ( 若 い 馬 )に 喩 えま す 。 この 白 い 駒 は、 太陽 の 光 を 意味 しま す 。 また 、 詭弁 で 有名 な 公孫竜 が、 白馬 は 馬 では ない 、 と い う 説 をもっ て 関所 を 越 えた とい う 故事 がありま す 。 陌 は 道路 の 意 で、 隙間 を 通 り 過 ぎる 白 い 駒 と 関所 を 通 り 過 ぎる 白 い 馬 を 対 にし て いま す 。 謝観 は 日 の 光 と 白 い 塵 の 中 に 白 い 馬 の 姿 を 認 め、 こ の 二 つの 故事 を 対 にしたの です 。 この 「 白 の 賦 」を 用 いた 日本 の 作品 を 紹介 しま す 。 一条朝 の 文人 の 大江以 もち 言 とき が 九月尽 の 詩 を 作 って い ま す。 太陰暦 の 九月 は、 秋 の 終 わり の 月 なの で 、 九月 の 終 わり は 秋 の 終 わり で す 。 九月尽 の 詩 は、 秋 を 惜 しみ 、 秋 を 見送 るこ と を 内容 とし ま す 。 「 秋未出詩境 」 ( 秋未 だ 詩境 を 出 でず) の 題 で 秋 を 擬人化 した 詩 を 作 って い ま す 。 文峯案轡白駒景 文峯 に 轡 くつばみ を 案 ず 白駒 の 景 かげ 詞海艤舟紅葉声 詞海 に 舟 を 艤 よそ ふ 紅 こう 葉 えふ の 声 ( 和漢朗詠集 ・ 巻上 ・ 九月尽 〔 二七六 〕 ) 秋 は、 馬 に 乗 ったり 、 船 に 乗 ったりし て 人間世界 を 去 って 行 きま す 。 文人 はそ れを 見送 るの ですが 、その 最後 の 姿 を 描 きま す 。 詩 を 作 る 世界 の 峯 ( 文峯 )で は、 白 い 秋 の 光 がくつ ば み を 抑 えて まだ 留 まっ て いる 、 海 ( 詞海 )で は、 船 を 準備 する 音 が 風 が 立 てる 紅葉 の 声 のように 聞 こえる、 と い う 意味 です。 かな り 以前 に『 源氏物語 』の 葵 の 巻 の 車争 いの 段 に「 白 の 賦 」が 使 われ て い る と い う 論文 を 書 き ました )8 ( 。 もの も 見 で 帰 らむと したまへ ど、 通 り 出 でむ 隙 もなき に 、 「 事 なりぬ」 と 言 へば、さす が に、つらき 人 の 御前 わた
りの 待 たるるも 、 心弱 しや。 笹 の 隅 にだ にあらねば に や 、 つれ な く 過 ぎたま ふ につ け て も 、 なか なか 御心 づくし なり。… 大殿 のは、 しるければ、 まめだ ちてわ たりたま ふ 。 御供 の 人々 う ち かし こ まり、 心 ばへありつつ わ たる を 、 おし 消 た れ たるありさま、 こ よ なうおぼさる。 かげを のみみたらし 川 のつ れなき に 身 の 憂 きほ どぞい と ど 知 らるる と、 涙 のこ ぼ る るを、 人 の 見 るもは し たなけれど 、 目 もあ やなる 御 さま 、 容貌 の、 い と ど し う、 出栄 を 見 ざら ま しかばと おぼさる 。…ほ ど ほ ど に つけ て 、 装束 、 人 のありさま 、いみじく とと のへたり と 見 ゆるなかにも 、 上達 部 はい と 異 なる を、 一所 の 御光 には おし 消 た れ ためり。 ( 葵 ・ 七一 ) 牛車 を 並 べた 葵 の 上側 の 力 で 六条御息所側 の 二台 の 牛車 は 後 ろに 押 し 下 げられて しまいました 。 御息所 は、 か ろ う じ て 牛車 の 隙間 から 騎馬 の 光源氏 の 姿 を 見 ます が 、 そ の 時 に「 身 の 憂 き ほ ど 」 を いよいよ 知 るこ と に な り ます 。 「 笹 の 隈 」 「かげ」は 、 『 古今和歌集 』の 「 笹 の 隈日 の 隈川 に 駒 とめ てし ばし 水 かへ 影 をだに 見 む」 ( 神遊 びの 歌 〔 一 〇 八 〇〕 ) を 引 いて い ま す。こ れ は「 日 ひる 女 め 」す なわち 天照大御神 を 詠 んだ 歌 と さ れて いま す の で 、 ここで は 光源氏 は 光 かがや く 騎 馬 の 神様 のように 描 かれて い ます 。す なわち 隙間 を 通 り 過 ぎる 光 で あ り、 「 白 の 賦 」の 「 寸陰 の 景 かげ の 裏 うち に、 将 に 隙 ひま を 過 ぐる 駒 を 窺 はむ と す 」と いう 状景 と 似 てきま す 。 「 景 」は 以言 の 詩 では、 擬人化 され た 騎馬 の 秋 の 光 で した。 生 きて いる 光源氏 の 最後 の 姿 を 描 く 幻 の 巻 では、 「 白 」に 関 わる 描写 が 多 く 現 れま す。 この 巻 では、 紫 の 上 が 亡 くな っ た 翌年 の 正月 から 年末 まで の 光源氏 の 悲 しみが 順序立 てて 描 か れ ま す 。その 年末 の 描写 を 挙 げましょう。 御仏 ぶつ 名 みよう も、 今年 ばかりに こ そ は、 と お ぼせばに や、 常 よりも こ と に 、 錫杖 の 声々 など あはれ に おぼ さる。… 雪 いたう 降 りて、 ま めや か に 積 りにけり 。 導師 のまかづる を 、 御前 に 召 して、 盃 など 、 常 の 作法 よりもさし 分 せた まひ て 、 こ と に 禄 など 賜 はす 。… 御覧 じ 馴 れた る 御導師 の、 頭 はや うや う 色変 り て さぶらふ も 、 あはれ に おぼ さる。
[ 新間一美先生退職記念小特集 ] … 梅 の 花 の 、 わ づ かにけし きばみはじめ てを かし きを 、 御遊 びなどもありぬべけれど 、なほ 今年 まで は、 も の の 音 ね もむせびぬべきここち したまへば 、 時 によりたるもの 、う ち 誦 じな どばかり せさ せたま ふ 。ま ことや 、 導師 の 盃 のつい で に、 〔 源氏 〕 春 まで の 命 も 知 らず 雪 のう ち に 色 づく 梅 を 今日 かざ し て む 御返 し、 〔 導師 〕 千代 の 春見 るべき 花 と 祈 りお きてわ が 身 ぞ 雪 とともに ふ りぬる …その 日 ぞ 出 で ゐたまへる 。 御容貌 、 昔 の 御光 にも また 多 く 添 ひて 、ありがたくめ で たく 見 えたま ふ を 、 この 古 りぬる 齢 よはひ の 僧 は、あいなう 涙 もとど め ざりけり。… 〔 源氏 〕 もの 思 ふと 過 ぐる 月日 も 知 らぬまに 年 もわ が 世 もけふや 尽 きぬ る ついた ち のほ ど の こ と 、 常 より ことなるべく と 、 お き て さ せたま ふ 。 親 み 王 こ たち 大臣 の 御引出物 、 品々 の 禄 どもな ど 、 二 なうおぼしまうけ てとぞ。 ( 幻 ・ 一五二 ) これが 幻 の 巻 の 末尾 で、す な わち 正篇 の 終 わり で す 。 「 仏 ぶつ 名 みよう 」は 、 一年 の 罪障 を 懺悔 し 払 うために 仏 の 名 を 唱 える 年 末 の 行事 です。 雪 が 降 り、 白髪 の 導師 が 登場 し、 白梅 の 花 が 咲 いて 新年 を 迎 えよ う と する 中 で 光源氏 の 最後 の「 御光 」 が 強調 され ます 。こ の 白尽 くしの 場面 が、 『 和漢朗詠集 』の 最後 の 白 の 部 の 内容 と 似 てい る と 三木雅博氏 が 指摘 されて いま す )9 ( が、 私 もそ れを 認 めて 詳論 しました 。そ れが 、 冒頭 で 取 り 上 げた 論文 の ④ です 。 こ の 描写 の 背景 に 葵 の 巻 と 同 じく「 白 の 賦 」を 考 えたの です。 その 論文 の 中 で、 菅原道真 の 最晩年 にも 「 白 」を 強調 した「 春雪 」の 作品 がある こ とに 言及 しました。 ここで は 、「 白
菊 」の 詩 をま ず 挙 げま す。 道真 は、 延喜三年 ( 九 〇 三 ) 二月 に 没 しま すが、 そ の 五箇月前 の 延喜二年九月末 に、 「 初霜 」 の 後 の、 「 雪 」と 見 まごうばかりに 白 い「 白菊 」の 詩 を 作 って い ま す 。 秋晩題白菊 秋晩 に 白菊 に 題 す〔 五 〇 五 〕 涼秋月尽早霜初 涼秋月尽 く 早霜 の 初 め 残菊白花雪不如 残菊 の 白 き 花 雪 も 如 かず 老眼愁看何妄想 老眼愁 へ 看 る 何 の 妄想 ぞ 王弘酒使便留居 王弘 が 酒 の 使 ひな ら ば 便 ち 留 めて 居 かまし 雪 よりも 白 い「 残菊 」の「 白 き 花 」を 見 て、 白 い 衣 を 着 て 陶淵明 のもとを 訪 ねた 王弘 の 使 いの 姿 を「 妄想 」し て い ま す 。 『 古今和歌集 』の「 花見 つつ 人 まつ 時 は 白妙 の 袖 かと の み ぞ あ や ま たれ け る 」と 同想 ですが 、 白菊 を 愛 しながらも 孤独 の 憂 いの 中 に 沈 む 道真 の 心 が 窺 われま す 。 翌延喜三年正月 に 詠 んだと 思 われる 最後 の 詩 は、 大宰府 の 雪 を 白梅 に 見 なし て 詠 んで い ま す 。 さき ほど の 「 白菊 」 詩 の 三箇月 ほど の ち の 詩 です。 謫居春雪 謫居 の 春雪 〔 五一四 〕 盈城溢郭幾梅花 城 に 盈 ち 郭 に 溢 れて 幾 ばくの 梅花 ぞ 猶是風光早歳華 猶是 れ 風光 の 歳華 を 早 くす 雁足粘将疑繋帛 雁 の 足 に 粘 ねやか り 将 も つて は 帛 きぬ を 繋 けたるか と 疑 ふ 烏頭点著思帰家 烏 の 頭 かしら に 点 著 ちやく して は 家 に 帰 らむこ と を 思 ふ この 辞世 とも 言 える 詩 は 一見絶句 に 見 えま すが 、 後聯 は 対句 にな っ て いる こ と から 律詩 の 前半 と 思 われま す 。 白梅 の
[ 新間一美先生退職記念小特集 ] ような 雪 、 雁 の 足 に 結 ばれ た 帛 のような 雪 、 烏 の 頭 に 付 く 雪 を 詠 んで い ま す。こ の 詩 の 後聯 は「 白 の 賦 」の 「 秦皇驚 歎 す、 燕丹 が 去 りし 日 の 烏 の 頭 。 漢帝傷嗟 す、 蘇武 が 来 りし 時 の 鶴 の 髪 」を 用 いて い ま す ) 10 ( 。 烏 の 頭 の 雪 は 丹 が 自国 の 燕 に 帰 るこ と が で き た 機縁 になっ て いま す し、 雁 の 足 に 付 いた 雪 は、 「 雁信 」の 故事 では 蘇武 が 漢 の 都 に 帰 る 機縁 となっ てい ま す 。 道真 は 同 じ 故事 を 使 って は い ます が、 白菊 を 見 て 王弘 の 酒 の 使 いを 思 い 出 したの と 同 じく 、 雁 の 白 い 帛 や 白 い 烏 の 頭 は 雪 を 見 て 妄想 して い る だ け で す 。 丹 や 蘇武 のようには 都 に 帰 れない ことを 前提 にし て 詠 んで い る と こ ろ に 道真 の 悲劇 がある と 言 えましょう。 道真 は、 「 白 の 賦 」を 用 いて 人生 の 最後 の 詩 を 白 い 雪 を 取 り 上 げて 詠 んだ の で す 。 残念 ながら 武帝 のようには 、 醍醐天皇 に 道真 の 気持 ちは 伝 わらなかったよう で す 。 翌月 の 二月二十五日 に 道真 は 大宰 府 で 五十九歳 の 人生 を 終 えました。 『 和漢朗詠集 』に は 白 の 部 があっ て 、「 白 の 賦 」の 一部 や 公任 の 作 と 言 わ れ る 「 しら しら し」 の 歌 が 配列 されて い ます 。 それ が 作品全体 の 最後 に 置 かれて い るとこ ろ に、 公任 の 結局 すべ て の 最後 は 白 であ る と い う 世界観 が 窺 われま す 。 『 新 撰朗詠集 』も それを 踏襲 して い ま す 。 最後 がなぜ「 白 の 部 」な のか、と いう 議論 が 多 くな されて い ます。 例 えば、 『 平 家物語 』の 冒頭 の「 沙羅双樹 の 花 の 色 」で 知 られて おりま す よ うに 、 釈迦 の 最期 の 涅槃 ( 死 )の 時 には 、 沙羅双樹 な ど 世界 が 白変 しま す。また 、 道家 の『 荘子 』で は 、 「 虚白 」は 悟 りを 意味 する 語 で、そ れ が 「 白 の 部 」と 関 わる とい う 説 ) 11 ( もありま す。 私 とし ては 、 こ の 「 虚白 」 説 とともに 、 「 白 の 賦 」の 影響 や、そ れ を 用 いて 作詩 され た 道真 の 最後 の 詩 の 影響 が 大 き い の で はないか と 考 えて い ま す 。 光源氏 の 最後 が 白尽 くしになっ て いるのも 道真詩 や 『 和漢朗詠集 』 の 「 白 の 部 」の 影響 があった と 考 えま す。 さまざまな 平安朝 の「 白 」の 世界 を 紹介 させ て い ただき ました 。 こ の 講義 の 最後 に、 そ れ で は 、 も し 一言 でま とめ
ると す れ ば 、 「 白 」と は 何 かと いうこ と を 考 えましたの で そ れを お 話 ししま す 。 「 白 の 賦 」の 「 寸陰 の 景 かげ の 裏 うち に、 将 まさ に 隙 ひま を 過 ぐる 駒 を 窺 はむ と す 」と いう のは 、 『 荘子 』に 基 づく ことはさ きほ ど 申 し 上 げましたが、 典拠 は「 知北遊篇 」の 「 人生天地之間 、 若白駒之過隙 、 忽然而已 」 ( 人天地 の 間 に 生 まるるは、 白駒 の 隙 ひま を 過 ぐるが 如 し、 忽然 たるのみ) と ある ところ で す。 『 荘子 』の 注 の 一 つの 唐 の 成 じよう 玄英疏 には「 白駒 は 駿馬 なり 。 亦 また 日 を 言 ふなり」 とあっ て 、 「 白駒 」を 太陽 と 見 なし て い ま す 。 「 白 の 賦 」で は、 隙間 を 通 り 過 ぎる 一瞬 の 白 い 駒 を 詠 ん で いま すが、そ れは 空 をわ たる 太陽 の 光 だと 理解 されて お り、 人生 の 時間 で も ありました 。 「 白 」と は 何 か。 一瞬 の 白 い 光 は 時間 で あり、 短 い 人生 そのもの で ある と いうのが 今日 の 結論 です。 これをもっ て 最終講義 とさ せ て い た だ き ま す。 ご 静聴 ありがとうございました。 注 ( 1) 源順 の 「 河原院賦 」 ( 本朝文粋巻一 ) に 「 向 レ 誰兮談 二 往事 一、 一両白眉僧 0 0 0 」 と ありま す 。 竹外 はそ れを 意識 し て いたのかも 知 れま せん 。 ( 2) 平成二十七年三月 に 刊行 さ れ ました。 ( 3) この 「し らし らし」 歌 は、 月 の 光 の 中 に 白髪 の 老人 がい て 、 花 に 向 かっ て いま す 。その 点 、 次 に 挙 げる 白居易 「 杪秋独夜 」 〔 三三八四 〕 に 想 を 得 たと 思 いま す ( 白居易 の 詩番号 は 花房英樹氏 の「 綜合作品表 」によりま す ) 。 「 無 レ 限少年非 二 我伴 一、 可 レ 憐清夜与 レ 誰同 。 歓娛牢落中心少 、 親故凋零四面空 。 紅葉樹飄風起後 、 白鬚人立月明中 0 0 0 0 0 0 0 。 前頭更有 二 蕭條物 一、 老菊衰蘭三両叢 」 。 な お 、 第三聯 ( 頸 聯 )は 『 千載佳句 』 ( 秋夜 )に、 第四聯 ( 尾聯 )は 、 『 和漢朗詠集 』 ( 蘭 )に 摘句 さ れ て おり、 有名 な 詩 で した。 ( 4) 『 源氏物語 』 の 引用 は 新潮日本古典集成 により、 巻名 と 頁数 を 記 しま す 。 なお、 引用 の 歌番号 は 『 新編国歌大観 』 により、 『 菅家文草 』 『 菅家後集 』の 作品番号 は 古典文学大系 によりま す 。
[ 新間一美先生退職記念小特集 ] ( 5) 拙稿 「 日中妖狐譚 と 源氏物語夕顔巻 ― 任氏行逸文 に 関連 し て ― 」 ( 『 甲南大学紀要 』 文学編七十二 ・ 平成元年 〈 一九八九 〉 三月 ) A 所収 。 ( 6) 拙稿 「 五節舞 の 起源譚 と 源氏物語 ―を と め ご が 袖 ふる 山 ― 」 ( 『 大谷女子大国文 』 二十八号 、 平成十年 〈 一九九九 〉 三月 ) B 所収 。 ( 7) 拙稿 「わ が 国 における 元白詩 ・ 劉白詩 の 受容 」 ( 『 白居易研究講座 第四巻 日本 における 受容 ( 散文篇 ) 』 勉誠社 ・ 平成六年 〈 一九九四 〉 ) B 所収 。 ( 8) 拙稿 「 源氏物語葵巻 の 神事表現 につい て ―かげを のみみたらし 川 ― 」 ( 『 甲南大学紀要 』 文学編九十九 ・ 平成八年 〈 一九九六 〉 三月 )B 所収 。 ( 9) 三木雅博氏 「 『 和漢朗詠集 』の 部立 「 白 」に 関 する 考察 ―『 和漢朗詠集 』の 構成 ならびに 周辺 の 文学 を 視野 におい て ― 」 ( 『 源氏 物語 と 漢文学 』 和漢比較文学叢書十二 ・ 汲古書院 ・ 平成五年 〈 一九九三 〉 、 三木氏 『 和漢朗詠集 とそ の 享受 』 所収 ) 。 ( 10) 川口久雄氏 が『 菅家文草 菅家後集 』 ( 日本古典文学大系 )の 中 で 指摘 されて い ます 。 ( 11) 菅野禮行氏 が 主張 されて い ます 。 同氏 『 和漢朗詠集 』 ( 小学館 ・ 平成十一年 〈 一九九九 〉 ) の 解説参照 。 道真 における 「 虚白 」 につい て は 、 拙稿 「 白居易 の 諷諭詩 と 菅原道真 ― 新楽府 「 牡丹芳 」 詩 ・ 「 白牡丹 」 詩 の 受容 を 中心 に ― 」 ( 『 白居易研究年報 』 十二号 ・ 平成二十四年 〈 二 〇 一一 〉 十二月 ) 参照 。 〔 附記 〕 本稿 は、 平成二十七年一月二十日 ( 火 ) 四講時 に 京都女子大学 J 校舎 J202 教室 で 行 なわ れ た 最終講義 に 基 づき ます 。 内容 につい て は 、 一部加筆 しました 。 当日 は、 卒業生 、 院生 、 学生 の 諸姉等 から 花束 、 記念品 をい ただき ました。また、 夕方 より 懇親会 も 設定 し て いただき ました。 感謝申 し 上 げま す。 ( 元本学文学部教授 )