西東京市
市民
の
戦
争体験記
( 二
)
目 次 発刊にあたって 昭和十八年より昭和二十年迄の体験物語︵内田稔︶ 豊川海 軍 工廠空襲に お い て の被爆の記︵遠藤綾子︶ 学徒勤労動員の思い出︵ 小 島恵美︶ 防空壕の想い出︵高林 義勝︶ 下町大空襲︵土井安代︶ 中島飛行機工場 で の爆撃体験︵古内竹二郎︶ その日︵山川千代︶ 私の 少年時 代 は戦争 だ った︵横 山年 三 ︶ 1 2 5 7 10 11 14 18 21
第二 集 発刊にあたって 昨年 ﹃ 西 東京市 市民の戦争体験記 ( 一 ) ﹄ を 発行し、 今年は ﹃ 西 東京市 戦争体験記 ( 二 ) ﹄を 発 行 し ま し た 。 こ こ に は 、 戦 争 の 中 でどのようにして生きてきたか、 ど のようにして 親が、 兄 弟が、 友 人が、 戦 争の犠牲になったのか。 そ の体験が記されて います 。 活字 の行 間 か ら ﹁ 助 け てく ださい。 もう このような こ と は 二度 と 起 こさ ない でく ださい﹂ という声 が、 聞 え てくるようです。 一人一人の苦 しみの体験 は 、 そ れぞれ違っ て いま す。 しかしそ れは みな戦争が引 き起 こしたもの で す。 現在も地球上のど こかで 地 域紛争が起き、 人 が殺し殺され、 戦 争 によ って 撒き 散らされ た 地 雷によ っ て 手 足が 吹き 飛ば され 、 命 を 落 とす 人が 後を絶ち ませ ん。 私たちは、 日 常の ﹁平和﹂ な生活に慣れると、 目 の前の こ としか 見 えなくなりま す 。 六 十四 年前 は、 日本も 戦 争をし ていま し た。 一 九四五年以降 に 生まれた ﹁戦争を知 ら な い 世代﹂ と 呼ばれ る 人も六 十五歳を迎 え ま す 。 西 東 京 市の宣言文にあるように ﹁ 地 球 上 か ら戦 争を無くし﹂ 平和な世界を築い てゆくために、 そ の時何 が 起きて い たのか、 何故 こ の ようなこ とが起きたのか、 何故 こ の ようなこ とを 未然 に防ぐこ とが 出来なかったのか 。 戦 争を未然 に防ぐには 何 が必 要な のか 。 これ等 の こと を考 え、 学び、 そ して行 動 し て い く こと が、 戦争 を 止めさせ、平和を築い てゆく第一歩だと思いま す 。 今後も西東京市の非核・平和宣言事業として ﹁地球上から戦争をな く す ﹂ た めに、 次 世代へ戦争体験を語り継ぐ ﹃ 戦 争体験記﹄ を 発行 し てい きま す。 体験をお持 ち の方はご連絡ください。お待 ち しておりま す 。な お 、 発行の性質上 西東京市 在住、在勤の方、又は旧 田 無町、 旧 保谷町で の体験をお持 ちの方に限 ら せ て い た だい ておりま す。 市民参加 ですすめる 西東京市の非核・平和宣言事業 西東京市の非核・ 平和宣言事業 は、 市民参加のもと で 積極的に すす めて います 。 今から六 十五年前、 一 九四五年四月十二日、 田 無駅前に一 ト ン爆弾 が 落 とされ 多 くの人が犠牲になった日を祈念して、 こ の 四月十二日を ﹁平和の日﹂ と条例 で 定め、毎 年多様なイベントを開い て いま す。 ま た夏には、 若 い人にも広島、 長 崎の体験を学 ん で もらおうと、広島 や 長 崎 で の 原爆慰霊祭へ出席し被爆者の体験などの 話も聞く機会を設 けていま す。 さらに非 核・ 平和 コンサート、映画会、 学習会など、年 間を通して事業をすす めて います 。 非核・平 和事 業へのご 意見、提案 など、そして ご協力いただけ る 方の連 絡 もお 待ち して います 。 非核 ・平 和をすす め る 西東京市市民の会 西東京市
昭和十八年より昭和二十年迄の体験
物語
西東京市谷戸町 内田稔 一九二五年 ︵ 大 正 十四年︶ 生 昭和一七年十二月、 長 野県松代商業学校を時節がら繰上 卒業 。 翌 年一月大 田 区 蒲田 駅近 く の 新潟 鉄工所 ︵ 社 員 六千 人︶ に入社 し ました 。 会社は軍 需工場で 、 入 り口 の門 には 、 軍 隊 の憲兵が二名 、 警 戒し て い ました 。 工場 は 二 階程の大 きな 軍艦の ヂ ーゼ ル エ ンジ ン を 造 っ ており ま し た 。 当 時 会 社に入ると自動的に徴用令により、 徴用になりました。 産 業戦士 です。 自由に退職出来なく、 地方からの社員の中に は、 ホ ー ムシ ッ ク に な り 、 実 家 よ り ︵ チ チキ ト ク ︶ の 電報 を打 って も ら って 帰った が バレて 、 戻され た 者もお り ま し た。 会社の 社 員食堂のご飯は 白 米 で 無く蜀黍 ︵コウリヤン︶ と大豆粕の混食 で した。 戦局に 対 し、 当時 軍 隊 は南 方のガ ダ ルカ ナル島、 北方は アリューシャン列島のアッツ島に て 玉砕。 叉 四月十八日に、 山本五十 六海 軍 連 合艦隊司令長官が ソロモン 群島上空 で 戦 死 した ニュー ス を聞かされ ま した 。 逐 次兵隊さんが戦 死 致し、 消 耗 戦 に入って いる感じで あ りました。 早 くも南 方 の兵隊要員の補充が必要になり、 昭 和十八年十二 月十 四日 付け に て 政府は陸 軍 特 別幹部候補生制度九二二号発令、 年 齢十五歳以上一九 歳迄の男子を志願により適 正合格者の 採用の募集 を 始めまし た。一市民とし て 国を 守るか、 軍隊に 入り東洋平和、 家 族、 国家を守るか考え て 願 書を出しました。 試験は目黒区の東京工 業大学で 行 い ました。 後日合格通 知 が 届き ました。当時 軍 隊 に入る事は生きて 帰らない覚悟が 必 要 でし た。 入 隊 先 は 水 戸 市 郊 外の 水 戸 陸 軍 航 空 通 信 学 校 に 決 ま りました 。 昭和十九年に入ると蒲田駅近くの 商 店が家を壊し建物疎開 が始まり、 政 府も東京空襲がある 事を予感し て い た様 です。 昭和十九年 四 月 一 日に 兄と従兄弟が校門迄、送って く れまし た。時に十 八 歳 の 春 で す 。 お互い瞼に浮かぶ最後の生き別れ の感じで した 。 全 国 からの入校者は 二 千四百名で 十 二ヶ中 隊 、飛行機に乗 る通信の適格者は 十中隊 で ︵二 百八名︶編成 され 、仲間に台 湾出身の呉 君 、朝鮮 出 身の金山君 、 大川君、 三人 とも一 七 歳 です。朝六時から教育 と 訓練、食 事、自習を含め、夜九時迄 勤務し、通 信 機材 取り 扱 い は教官 と 一 対 一の 特訓 です。 通信 が出来る頃、飛行服を着、落下傘を持ち 九九 式双発高等 練 習 機に搭乗し 、 離 陸 する と、 命は飛 行 機に預 け まし た。高度三 〇〇〇メートル、飛行 中 操縦士よ り、車輪が 故 障し脚が 出な いと、報告があり、上官と相談、 海 岸に胴体着陸を決め ま し た。整備士 も 同乗し て お り 、懸命に点検、修理し て 無 事を得 ました。敵に向かい飛行機の中に て の通信 は 強靭な精神力が 必要 で 、 教 育 訓 練 の 中 で上半 身 裸に て 剣 道の 一 本 勝負致 し 、 捨て 身 と 決 断 力 を 体 得 す る 事 が 出 来 ま し た 。何日か後の二回目は海上飛行 で 高度三〇〇〇メートル 近くに て 、 突 然機体が落下し頭を天井に打ちました。 操縦 士か らの報告 は、 エアポ ケ ットに入り約五〇〇メートル落 ちた話 です。 海に 落 ち なく て助かり まし た。 今度 は三 回目 で編隊 で の通信 訓 練 です。 三機編 隊 で夕方飛び た ち、 仙 台 上空に て 、 折 り返しましたが、 帰り は暗くなり、 他の二機 が見当たらなく、操縦士 は 夜間着陸の経験 は 無い話です 。 迷走に近く、 学校に通 信連絡致し、 灯火管制 中 で したが飛 行場に誘導灯の点灯依頼し無事着陸しました。 し かし他の 二機は未帰還 です。 総務係は事故遭難を想定致し留守家族 に、 遭難連絡手配しましたが、 翌日宇都宮飛行場に二機不 時着した連絡が入り落着しました 。 学校の教育期間の 規 則は一年半 で 卒業 で し たが 戦局が 厳し くなり 九 ヶ 月 に 短 縮 さ れ、 十 二 月末に 卒 業し 内地、 外 地を含め、各航空部隊に転属命令が発令されました。 翌年一 月 同期 四名 は飛行場のある 水 戸陸 軍航空通信 学 校本校飛行隊に配属になりました。 敷地内に は兵舎が二四 棟、格納庫四棟ありましたが、大部分は空 き 状態で し た 。 飛行隊は 通 信教 育中 の見習士官数 十名で す 。 二月 に入っ たら毎日の如く、 米グ ラ マ ン戦闘機が水戸上空に飛来し て 来ました。 飛行隊の通信演習があり飛行服を着 て 、 落 下 傘 を持ち二 人 で 飛行 場の端の 飛行機に 乗る べく 飛行場の 中 程に おる と き に空襲 警 報が 鳴り既に グ ラ マン 戦闘機が 群 れ に て 、 急降下致し待機中の双 発飛行機数機が銃撃を受け ました。 危なく二人 で 近くの飛行機の掩体壕 ︵エンタイゴ ウ︶ に避難しました。待機中の飛行機には 直 ぐ退避命令が出 て 飛 び立ち ま すが、グラ マ ンが後ろ か ら 狙い何機か撃墜され又上 空で は空中戦をし て 、 隼戦 闘機一 機 がグ ラ マ ン戦 闘機二 機 に 囲まれ 撃 墜され 操 縦士 は亡くなり、地上の我 々はなすすべも ありません。戦死者の 通夜があり 衛 兵勤務に 就 き ました。更 に飛行機の 格 納庫二棟 がロケット弾の被害を受け 、火災を起 こ し 、兵舎にも爆弾を投下、歩行 者 も機銃掃射を受けて何人 か負 傷しました 。 又 防 空壕にも ロ ケ ット弾 が 落ち 避難し て い た七人が即 死 で す 。 側にいた同期の寺崎 君 は負傷し入院、米 軍B 29爆撃機が多数 編隊に て 毎日の如く水戸市の上空を飛 行し て 通 過します。 B 29は高度一 万 メートル で 、 部隊 も高射 砲を撃つが八千メートル以上届きません。戦闘機が一機攻撃 に飛来しました が 、群がるグラ マンに撃墜さ れ 、 戦 死 し た 操 縦士の遺体は 二日後 に 発見され 血染 めの服に落涙を禁じ得ま せん で し た。 地上からは狙 われ るの で 、﹁撃つな﹂ の 命令 です。 五月頃に は移動の関係か人影も少なくなり兵舎も大分空い てき ました。三月十日の東京大空襲の時、水 戸 の朝は晴 れて いましたが、午後は煙 で 曇 りまし た 。八月一 日、夜間水 戸 市 はB 29延べ百 十 機で 焼夷弾の無差別攻撃を受け 、 一 夜にし て 灰燼となり 消 えました。人的被害 が無い事を祈り、ただ自然 界の一個人 に 近い心境 です。焼 夷 弾 は 大 き い 弾 筒に 子爆 弾を 何個か包み 投 下し、地 上約百メートルの所に て 、 ピカ ーと光 り 破 裂し、 そ の 明 る さ は花火の 感 じ です。笛 の 様に 風を 切り
ヒュー、 ヒューと音立 てて 落 ち て 来 ます。 不 気味 です。 同 期で 外 出 中 の 岡 村 君 、 須 藤 君は 二日 の 朝 無事 に帰 隊 し ま し た。 翌朝焼夷弾の不発弾が兵舎の 回 りの地面 深く何発も模 様の様に落ちており、 通信の見習士官が拾い調べておる時 に爆発致し、 顎を骨折しました。 こ の頃、 水 戸陸 軍 航 空通 信学校に女子挺身隊 ︵ 女子学生︶ が 勤労奉仕に来 て 若 い兵 が緊 張し、感動して い ました 。 益 々 空爆が激しくなり、 飛行隊 は飛行場隣地の松林の中 に四〇名入る穴を数棟堀り隊員が屋根を架 け 、 所謂三角兵 舎を造りました。 全員 兵舎に疎開し、 雨になると床は水浸 しになり、 ジ ャングルの中の様な生活が始まりました。 八 月頃、 米 軍 の 艦隊が大洗海岸沖を遊弋 ︵ ユウヨク︶ し て い るニュースがあり、 東 京を目指し米 軍 が 九十九里浜に上陸 するのか潜水艦より水戸が艦砲射撃を受 けました。 夜 空が 光 り 発射音がドー ンと聞 こ え、 着弾、 如 何なるか、 考 える 余裕 はありま せん。 八 月六日に は広島に、 八 月九 日に は長 崎に 原子爆 弾 が落 ち、 無 線 機 で 上官が 傍 受し、 話 し て く れ ました。 八月 十三日 に 航空通信の大演習が長野県で 行 われ る事 になり先発隊 で 上 田に向かい、 通信機材を上田陸 軍 飛 行学 校に 据え、 駐 屯本部を別所温泉の 花 屋旅館にしまし た 。 旅 館は 疎開 児 童 にて 満 館 になって い ま した 。 到 着後 長野聨 隊 区司令部で 所 要を済ませ城山公園を通り、 長 野駅に向かう 途中突然 、 空 襲警 報が鳴 り 、 雲 の 隙 間 よ りグラ マ ン戦 闘機 が何機も連続に急降下し始め長野駅にロケ ッ ト弾を落とし、 駅は炎上する被害を受 けました。夜遅く上田駅迄開通し、駅 前 で 野宿し、八月 十五日は上田陸 軍 飛 行学校に無線機が 据え て あ り玉音 放 送を聞きました 。 上田の飛行学校で は皆 、 戦 地 に向かったのか人 は見 えません。 八 月十六日に水戸の学校に 戻りました。通信の見 習い士官が 軍 刀抜い て 、立木を切り 暴 れており、 飛行隊長が 説得し治まりました。 飛行隊 は先 輩が 少なく、残 務 整理 を命 ぜら れ、 任 務 は飛行機 、銃剣 類 他兵器 を飛行場の 中 に並べての点検作 業で し た 。 全 て 鉄 屑 と 化 し 、 今 迄 の 過 去 と 歴 史 は遠 くな った思 い です。 命 令 に て 鉾田 の 飛 行場も視察し、兵舎はガ ラ ンとし て 無人になり、兵舎の 中 に 一歩入った途端に蚤の 大群が豪雨の如く、飛び跳ねて 襲 い か か っ て 来 ました。是に は閉口しました。 昭和二十年に入り八月の終戦迄に 同 期の者と上官が特別攻 撃隊に て 十 六 名散華さ れ ま した 。残務整 理も終わ り九月二十 日に帰宅 す べ く水戸駅 より貨物列 車 に 乗 り長 野に向か い ま し た。途 中 上 野 駅の 上空 は米 軍 の 戦闘 機編隊が 鳥の 群 れ の 如 く 乱舞し て 威 圧 をか け て いまし た 。 上 野 で 乗り 換えた列車 は 長 野に向かい、 車窓より 外を見ると次第に暗く なり、街の 灯 が 見え てきて 平 和の有り難さを、じわじわ感じ て き ま した。
豊川海
軍
工廠空襲
におい
て
の被爆の記
西東京市南町 遠藤 綾子 一九三〇年︵昭和五年︶生 私が空襲に遭ったのは愛知県豊川市に在った海 軍 工廠 です。海 軍 工 廠 に つ い て 一 寸 説 明 しま すと 昭和十四 年十月 十 五日 着工 昭和十八年頃 完成 総面積 九十万坪 建物 七百 棟 機械部、 火工 部、 光学部、 指揮兵 器 部等八つの 部 以上のような広大な規 模の 軍 需 工場 で し た。 私達が 学 徒動員令 に 基 づい て就業し たのが昭 和十九年 秋 旧制女学校二年生の時 ︵十四歳︶ そ こ に 二十年八月迄いた ので す が 、 米 軍 の 爆 撃 を 受 け た の が 同 年 の 八 月 七 日 。 その 日は数日前から毎 日のように偵察飛行らしいのが来 てい たの で 、 ま た かという感じ で 退 避命令の出るのが遅く、 全 員退避令 が出 て 防 空壕に入 る や いな や爆弾が バンバン 落 とされ 、 恐怖を通り越し て 、 私 た ち は壕の中で た だただ震 え て いただけという状態だったの で すが、 後 になって 知っ たと ころでは、当日の空襲状況は 昭和二十年八月七日 P 51戦闘 機に護衛 さ れ たB 29、一二四機来襲 午前十時十三分∼十時三十九分迄の二十六分間に 爆弾三二五六 発 八一 四トン投下 豊川海 軍 工廠に働い て いた人 五万六千人、内学徒六千人 戦死者 二五四四人 〃 四五二人 負傷者 一万 人 ︵内同 級 生死者六 人︶ 日本戦闘機の迎撃 は無 以上の記録を読んだ だ けでこ の 空襲のすさまじさを想 像し ていただけるの で はないか と思 いま す。 ところで 、 こ の私はというと 工 場横の防空壕に女子挺 身隊 の方々 、 及び同 級 生数人と 爆 撃 終了まで 恐怖にお ののきな が ら入 っ て い た の で すが 、弾が一つ 落 ちる度に 壕の内壁 は 崩 落 し、その都度足を抜い て い つ で も動け る ようにと 、 体験者の 挺身隊のお姉さん方 の 注意 で そ の 動 作を繰り返し て いたのが、 空襲 中止 でホッとし た とたん再び 落 ち て きた 弾の 故 で 入 口 が 崩 れ て埋まっ てしまい、 ﹁ いよ いよ 自分も こ れでお終いか ﹂ と 覚悟した のが再び挺身隊のお 姉 さんが﹁皆で叫びましょう。 交互に叫ん で ここ に人 が居る こ とを知らせま しょう﹂との励 まし で 、 皆 で ﹁助けてー﹂と何回も何回も叫び、漸くそ れ を 聞き つけ た男 子 工 員 の 方々 数 人 のシ ャ ベ ル に よ り 助け 出され﹁正 門 に 向って 走 れ ﹂ という指示 に 従い 、 二 、 三 人の友 人 と夢中で 走ったの です。 ただ 壕を出 て 驚いたこ とは 、 た くさんあった 工場が一つ も無く、 そ こここ から煙が上がり、 地上は死者、 負傷者が ゴロゴロ。 ブ スブスとくすぶって い る煙り で 目も開けられ る 様 な状 況 で はなく、 おま けに 自分たちの入 っ て いた壕の 両側は 一 つは 直撃 で 大 き な 穴 に な り 、 一 つは 潰れて メ チャ メチャという惨状 で し た。 そ こ で同じク ラスの友人が亡く なりまし た。 正門への距離 ですが、 私の所属し て いた工場から二 百 メ ートル位だったと思います が、 通り道は死体ゴロゴロ、 地 を這 う大小の炎、 負傷 者の苦痛の 声 、 そ の 中 を足袋ハダシ で逃げたの です。 不思 議 な ことに 自分自身 は 火傷 程度 だっ たの です。 しかし敵は非情 で した。 そ ういう私たちを見逃すまいと、 超低空飛行 で グラマン戦 闘 機が少 し で も 動い て い る人 間 に向って 機銃掃射をするの です。 伏せたり、 走ったりを繰 り返しながら外へ出たものの、 途中で ﹁ 助けてー﹂ と 手を 差し 出し てきた人﹁ 水 を、 水を﹂と言った人、 ﹁ 一緒に連 れて って ー ﹂ と必死に なって 見 つめ て い た 人 、 物 を言う気 力も無く目だけで 救いを求 め て いた 人、 その 声が、 目 が 未 だ に 私の中に残って い るの です。 その時の私は逃げるのに 夢中で 助 け る 余裕も 無 く 、 置き 去りにした 人たち に 対す る 罪悪感と逃げ切った自分を恥じ疎ましく思っ て い ます。 確かその二、三日後からだと思 いますが、 空 襲の後片 付け が始まり、 大 き な 死体 は生 き 残 っ た 男子工員 が穴を掘っ て 葬 り、 私たち女 学生 は手作 業 で 焼 跡 の 片 付 けを しまし た が 、 千 切 れ た手足をいっぱい集め た記憶があります。 軍手 等 、 私 た ち女 学 生 に は 支 給 さ れ な い の で 素 手 です 。 地 下足袋の底 か と思 っ て 拾ったのが 人 間の足の その 部分だ っ た の で 思 わ ず悲 鳴をあげたのを憶え ています。 生き 残った 友 人たちも 思いは 同 じで 、皆 語る の が イヤで 若 い頃 は避 け て いたよ う に 思いま す 。 六 十 歳 を 過 ぎた頃か らポ ツポツと話 せ るように なり、今は年一回の同窓会の最後 を 飾 るの は豊川 海 軍 工 廠時 代の 話 です。 戦争 はい けま せん。 絶 対い けま せん。 一 発の 弾が総 て の人 々 の身体と心をメチャメチャに壊し、全て を無にし て し まうの です。 私の 心の 中に 未 だ に 在 る﹃見 捨 てた﹄ と いう 言葉の 重 さ は 一生背負って 行く十字 架だと思って います 。
学徒勤労
動員の思い出
西東京市芝久保町 小島恵美 一九二八年︵昭和三年︶生 太平洋 戦 争の さなか、 私達 は女 学生時 代 を過 ごし た。 当 時旧 制高等女 学校の殆ど は五年 制 だったが、 私 たちの年 代 のみ 四年 生 で 卒 業 させら れ た。 戦争 もたけな わとなり 校内 で勉 強 す る ど こ ろ で は な い 時 世 と な っ て し ま っ た 。 四 年 生 になっ て 間もなく 学徒勤労動員とし て軍 需工 場 で 働く こ と に な り 、 私 たち の学校は 、 中 島航空金属田 無製 作所 ︵後 に皇国第一七一八工場と変更され る ︶ と 、 朝 比奈鉄工所の 二手 に分 かれて 出 動す る こ と に なった 。 それ まで も戦 時下 にあっての学校の 授業は当時の 軍 国 乙女の育成に役立つ ようなものが多く、 例 えば運 動 会 で の分列行進などもその 一つで 、 日頃 の訓練 の みせ どこ ろ と なって い た 。 クラ スご と の 二列横隊の前に立つ指揮者 の号令﹁分列に前へ ︱ 進 め﹂ 。で マーチ に 合わ せて 行 進 し ﹁ かし ら︱ 右﹂で 一 斉 に 壇上の校長先生に敬礼。 ﹁なおれ ﹂ 。 で 再び直進 ・ そ の迫力 に拍手がおこ ったものだった。 私 の 声がとお るとの こ とで 、 号令はいつも私 の役だった。 そんな こ ともあって か 中島へ の入所式の際の宣誓は代表 で私に、 との命を担任から受け た。 昭和十九年六月 二 日の当日 、気の小さい私は宣 誓 を読み上 げる際、緊張のあまり足は ガクガ ク 震え、声もふ るえ、 手 の ひら は汗 でび っし ょり 。和紙に毛 筆 で 書 き上 げた字の墨 は 汗 でに じ み 、 べ と べ と に な っ てし ま っ た 文 書 を 所 長 さ ん に 手 渡 した 時の恥ず か しさは忘れ ら れ な い。 その後私 たち四名は軸承工場の 中の一隅、 溶 接場に配属さ れ、 昼 夜 二 交 代に 分か れ て 工 員 さ ん た ち と共 に 作 業 を す る こ と に なった。女子学徒 で は 始 め て の経験だ と聞かされ た 。カ ーキ色の作 業服に黒め が ねをか け 、酸素ボン ベ を背に火 花を 散らしなが ら の作業はたやすいもの ではなか った。ズボ ン は 火の粉 で 小 さ な穴 だら けとな っ た 。 夜 勤 の時 に夜食 と し て ま わ っ て く る雑炊の入った バ ケ ツ の音が聞こ え ると 、お 腹を空 かし て い る 私 たち の胸 はとき め き、注がれ る 雑炊にのどをな らしたもの だ った。 待って た 待って た 雑炊が きたよ きた きた 今夜 こそ うわ ず み で な く したず み を と詠 ん だ 友 だ ちの 歌に 笑いなが ら 同 意し ていた。 日を 重 ね るうち に ﹁ お しゃ か﹂を出すこ とも少なくなり、他 の 工員さ んたちと肩を並べられるようになった。その 頃私 の咽は白く ただれて 痛み高熱が で た。診療所︵現田無病 院︶で 診 察の結 果、ジフテ リ アと診断 されすぐに 武 蔵工場の病院に送ら れ 、 隔離入院した。の ちにその病院も爆撃 さ れたと聞か された。 退院後し ばらくし て再び軸承工 場の現場事務所に戻り 事務 をとった 。次 に勤労 課 に勤 め最後に仲良 し の 友だち と 二人監督官室に 配属 され事務の仕事をした。 こ の 友人 は東京女子 医専 ︵今の東京女子医大︶ に合格し、 私 より一足先に退所 した 。 こ の 頃はすで に空 襲も激しくな り、 中 島 の方 向に向かっ て 来 る敵機の襲来は連日の 如くになった 。 ﹁ 大本営発 表・ 大本営 発 表 ﹂ 。と ラジ オ の 声 と 同時に ウ
∼
と一つ 大 きく 鳴り 響く 警戒 警報の サ イ レ ンの音。 間もなく ウ∼
ウ∼
ウ∼
と小刻みの空襲警報のサイレン。 と 、 彼 方の上空か ら敵機B 29の編隊が不気味な唸りを上げてやって く る。 急 いで 防 空 壕へ と と び 込 む 。 バー ン バ ー ン と 敵 機 め がけて 打 ち上げる 高射砲弾 は中 々届か な い。 日本の 戦 闘機が時 折体 当たりし て も 火を噴い て 落 下し て く るのみ。 あ て られたB 29は ゆ ら ゆらと 揺れ た ま ま飛 行し続けて 行 って しまう 。 そ れをみるの は 胸が痛み悲しかった。 のち には 艦 載 機も 飛 ん で き て 、 遠 距 離待避で 林 の 中 を 駆 け 逃 げ る 者たち を めがけ 低 空飛 行で パラ パラと 銃 撃を加 えつつ頭上を過 ぎ 去 っ ていく。 頭を抱え て 草 むらに ひ れ伏 すと上から木の枝葉が落 ち てくる。 生 き た心地 は しなか っ た。 その頃 だ ったか 田 無駅に 一 トン爆 弾 が落ちたとの情報 に帰りの電車 の ことを 案じつつ帰途につき 田 無駅近くに たどり着いたと き 、 一 体駅 はど こへやら⋮⋮その時の周囲 の状況を思い出すこ と はでき な い。 とにかく湖のような大 穴があい ていたように思う。 た だ呆然とたたずん でいたよ うな記憶がある。当然電車は 通 る は ずがない。鷺宮の自宅ま で歩 い て 帰 っ た。 その日だけで なく徒歩 で 通 った日も何回か あ った。朝早く 工場に出か け る私を見送るため、 母 は毎朝通 りの曲がり 角 で 私の姿が見 えなくなる ま で 見送っ て くれた。 或いはこれが最 後か も⋮⋮ と いう思 い が互いに働い ていたよ うに思う。 そんなある日、 監 督官の一人○○中尉はた め 息まじりに ﹁ 日 本はもう負 け るぞ﹂とつぶやくの を 聞いた。 必勝の信念に燃 え る 軍 国 乙女は そ の監督 官 を 睨 みつけ た 。戦争も 終わ りに近 づいた頃、 私 は進学先 の 学 徒動員 の 地、長野 県の中込に 旅 立 つこ と に なっ た 。 監 督 官 か ら 頂 いた 感 謝 状 を 手 に 中 島 航空 金 属で の さ ま ざ ま な 体 験 を 思 い 返 して い た 。 第二の動員先の中込 で は 始 め て 顔を合わせる新入生た ちと の寮生活が始まった。そ こ で の 作 業 は 広 い空地に生え ている 背丈ほどもある雑草の除去と開墾が主な仕事だった 。 日頃ひ もじさ に あえいで いた者たち に とって かなり 厳 しい労 働 だっ た。 栄養失 調 の せ いか 作 業 中によ く 貧血を お こし ふらつ い た ものだった。夜は大きな蚤としらみに悩まさ れ た が、そんな 日々 も そ の地で 迎 えた 終戦 と 共 に終った 。 終戦 の日何か不 審 な雰囲気を感じた の で 、 皆 が寮の室の中 で待 機 し て い る と こ ろ へ、 天 皇 陛 下 の 終 戦の 詔 勅 の あ っ た こ とを代表者が告げ知ら せに来た。 し ばらくの 沈黙に堪え き れ ず皆嗚咽となり遂に互いに肩を抱き 合って 泣 き じ ゃ く った。 終戦。 こ の地 で の 学 徒 勤労動員 生活とも別 れ を告 げ、 再び荷造りをし て 東京に戻った。 痩せ 衰えた姿で 我 が家に辿りついた私を、 母 は 涙 で 迎 え て くれ た 。 敗戦 と 共 に国を支えて いたは ず の心 棒は 倒れ 、 全 ては崩 れ 落 ち た。 国 も 、 社 会 も 、 生 活も、 健 康ま でも。 そ の惨めなどん底から、 日本は這い上がり、 見 事に立ち上が っ て 、今日を築く こ と が出来たのだが ・ ・ ・ 戦争 は恐 ろしい。世界の 平 和を願っ てやまない。
防空壕の想い出
西東京市芝久保町 高林 義勝 一九四 二年︵昭和十七年︶生 昭和二十年、 終戦近く、 私 は千葉県船橋市に住ん で ま し た。 母親、 姉 六歳、 私 四歳、 妹 二歳の四人家族 で した。 父 親は私 が 生まれて 直ぐ に徴兵され 、 母親一人 で 頑 張って ま した 。 その頃、 夜 に なると、 空襲警報のサイレンが鳴りま す。 東京を空襲 す る 爆 撃 機 が く るか ら です。 夜、 寝 て いる と、母親が﹁起 き なさい﹂と3人の子供に 大 声で 言った 。 防空壕に 避難 する 為 です。 母 は 灯りが 洩 れないように、電灯に黒布を被せ ま した 。 そし て 、 子 供 を連れて 防空壕に避難するのが、 日 常的に 成 っ て ました。 防空壕に入る前、 母親が東京の方を見 て ﹁ 空 が 赤 く燃え て いる ね﹂と言っ て まし た。 防空壕は近所の人が庭に掘っ て くれたもの です。 畳三枚、 大人がやっと立て る 深 さで 、 ム シロ を被せただけ です。 土の 壁に姉が 描い た絵が貼 っ て あり まし た。 ある日、空襲 警 報のサイレンが鳴り、何時もどうり母 親は 電灯に黒布を被せ ました。しかし、何故 か防空壕に避難 しませ ん で し た 。 そして 母 が言いました 。 ﹁爆弾が落ちたら、如何しようも無いから、 こ の まま寝 て い ようね﹂・・・と。今、想えば 、 母は心身ともに疲れ 切 っ て いたのかもしれ ま せん。 四歳で し たが、今 で も 強烈に思い出します。下町
大空襲
西東京市谷戸町 土井安代 一九二三年︵大正十二年︶生 あの大空襲を私は荒川区南千住 で う けました。 以 前に住 ん で いた三河島の家は 屋敷疎開 で 壊 され 、 田 舎に疎開した 知人の 家 を借り て いまし た 。 その頃はもう寝巻に着がえ て 寝 る習慣も無くなり、 毎 晩 の空襲に 備えて モ ンペ の姿のままモソモソと布団にもぐ りこ む 日 々 で し た 。 は じ め の う ち は 警 報 の鳴 る 度 に 防 空 壕 に避難をしたものの、 一晩に何度となく鳴 る 不気味な警 報 の サ イ レ ン に も慣 れ、 ラジ オの 流 す 空襲 情報 を 聞 い て 、 こ のあたり は大丈夫 と思えばフトンの ぬくもり に身をまか せながら、真暗な中 で ラジ オ の 声 に 耳を傾 け ていまし た 。 その頃は炭のたくわえもなく、 一度起 き ながらなかなか体 が暖まらず、 暖房は焼け 跡 から拾っ て く る オ キ位で し たか ら。 その日もそう で し た。 外の様子 を見に出た父に ﹁ 今夜 は いつもと違う、 早 く防 空壕に入らなく て は﹂ とせ かされて 、 外に出ました。 遠 くの 空が真赤になっ て いました。 近 所 の 人と 共同で 掘 った 壕は平 地 に穴を掘 り、 横穴式 に 半畳程 の 広さのもの で した。 近 所の人と身を寄せ合っ て 入りました。 国防服にゲ ー トル姿の 父は 、隣組の責任者とし て 竹の先にほ ぐした縄を と りつ けた防火はた きを持っ て 見 回りに行 きまし た 。 はじめ は 遠くに見えた火 が だんだん近くに迫って くるよ うで す が 、 み ん な 身 を 固く して 壕 に お り ま し た 。 大き な B 29が何機 も 飛んで く るのが 夜 目にもはっき り見 えます。 黒い巨大なはげたかのようなB 29に む けた高射砲の 玉なの で し ょ う。何本も何本も火の線が夜空に向けて 発射さ れま す。 B 29は ゆ う ゆ うと 、 飛 んで い ま す 。 パラ パラ 、 パ ラ パ ラ と細長 い かたまり を落としま す 。焼夷弾 で し ょう。 火 は だん だん近 く なり、 近 くの被服廠 も 燃え出し まし た。 レ ン ガ の高い塀に 囲 ま れ たそ の 建 物 は 、 入 口に はい つも銃を持 っ た 兵隊が立っ て いるのが見えました。 火は燃え盛って 望 楼を包みます 。﹁ 早く逃げなければ 、 早 く 逃げれば よ い のに﹂と、みんなで気をも みました 。火はもう 塔の上ま で 届 き そ う で す 。﹁アッ﹂ と思う間もなく、 黒いシル エットのよ う な塔の上の兵隊が真 さ か さ まに 落 ち ました。銃 を持ったまま、 そ れは影絵のよう で した。 その夜 は 一晩中、 防空壕 で 過ごしました。 何 度も何度もB 29は来 まし た。 その 度にパラ パ ラ と焼夷弾を落としました。どうか私のと ころ に は落 ちま せんよ う に、 助かり ま すよ うに、 B 29の姿 が見え る たびに祈り ま した。東の空が白み 、やっと夜 が あけまし た。 長い 長い 夜 で した 。 ﹁今日も死なない ですんだ﹂ 見渡す限りの焼け野原とは 、 こ の こ と で した。 残 ったのは 、 ︵※︶こ の 一画だけ。 歩 けば 二十分は かかる南千住の駅の高いプ ラ ッ トホ ームがはるかに見えます。 そ こ ま で ず ぅ っと焼 け 野原で す 。 焼け 出され た 人たち が 知 人 をた よって 歩 いて 来 ました。 顔 も 手足も真黒けになっ て 、 や っと たどり着いた 人たち は 口々 に昨 夜の 空 襲 のすさ ま じさ を か た り ま し た 。 ﹁地獄のようだ ﹂ ⋮⋮ と言いました 。 二 時間あまり で 十万 人が死にました。 二日位たって 用事で 駅 まで 行き ました 。 地面は ま だ あ の 夜のぬくもりが残って いるよう で し た。 誰が片づけたのか、 焼け 跡は 焼け ぽっ く い が 積 み重ね ら れ 、 焼け トタ ン が 乗せ て あ り、 ど こ が通り だ か わ かりません。 駅のホ ー ムを目あ て に 、 こ こだろ う と 見 当をつけ た 道 を 歩 き ま した 。 五 分も 行か ないう ち に 行 き止まり です。 目の前 は ト タ ンが何 枚 も 積み重ねら れ 、 そ の下から炭のようになったものがのぞい てい ます。 ﹁ ハッ﹂ と 思 っ て よ く見 る と 、 そ れは人形の腕 でし た。 積 み 上 げ た ト タ ン の 下 に は 、 焼 け死 ん で 炭 の よ う に な った人 間 の 死 体が 重 ね ら れ てい たの です。 道路 だと思 ったのは 、 片 付け の人の通った跡 だ ったの です。 周りの 山 は、 死人の 山 だったの です。 急い で 元の所ま で 引 き 返し て大通りを見つけ 、 駅 に着 き ました。 国 電 は動い て いました。 死 人の山の間を歩い て も 、 そ れ ほど怖 さ は感じません。 戦 争なんだから仕方がない︱ ︱。 勝たな け れば ︱︱と、 鬼畜米英に憎悪を燃やし て いま した 。 戦いが終 っ て 、街に 明 かりがつ きまし た 。 灯 火管制 で 真暗 だった町に一せいに灯りがついたの で す 。 ネオ ンもなく 、星だけ が輝く あ の頃 の家々 の 明 か りは暖か で、 な つ か し く 、﹁ あ の 灯 り の 下 で 、 家 族 が 肩 を 寄 せ 合 っ て生 きて いるの だ ︱︱﹂と思うと涙が出てき まし た 。 うすい雑炊 をすす り 、 配 給され た小麦 粉 をトウ モ ロコ シ粉に混ぜて 焼い て 食 べ 、 いつも空腹だったけれ ど、夜には 、 ぐっす り 眠 れ る 素晴らしさ。 ﹁平和になったの だ。 これ からは死んだ人の 分ま で 生 き な ければ ︱ ︱﹂としみじ み心 に誓いました 。 戦 後 何 年 かた って 、そ の 時 私 は 常 磐 線 に 乗って い ま し た 。 電車が亀有 を 出 て 、日 立製作所の 巨 大な煙 突 から炎が夜 空に 立ち昇るの を、 ぼんやり窓からながめ て い ま し た。満員 電車 のとな り に立って い る 女の人が話しかけてき ました 。﹁私は あ れを見る たびに 気 が 狂 いそ うに なる ん で す﹂ 。 こ の人 はあの 空 襲の日、背 中 に赤ん坊 を背負い幼い娘の手を引い て火の 中 を 逃げたそ う です。 気が つ い た時 娘 の 手が離 れ 、 い なくな っ て いたそう です 。背中の 赤ん坊もいつの間にか 死ん で い たとい う こ と です。 煙突 のあの﹁ほ の お﹂を 見 ると、手 から 離 れ て し まった 娘 や、赤ん坊 を 思い出し てたまらな く なるとい うの です。 あの 日の見知らぬ母親の悲 しみ は夫を 戦 場に送 っ た妻 や、手 塩 に かけて 育 て た 息子をむざむ ざ と 戦死させて し まっ た 母 親の深 い悲しみ と共に、 生 き ている限り 消 える ことはない で し ょ う。
戦争 は む ごい。 負 け て も、 勝っ ても⋮ 。 二度と戦争はやっ てはいけない⋮⋮、 そ の た めに は 、 私 ので き る こ と は 何 で も し よ う と 思 い ま す 。 ︵※︶ 一 九四 五 年 三月 十日 の東京大 空 襲
中島
飛行機工場で
の爆
撃
体
験
西東京市富士町 古内竹二郎 一九二七年︵昭和二年︶生 一九四一年 ︵ 昭和十六年︶ 十二 月八日、 学校へ行くと駅 前の商店の子が ﹁ 日本とアメリ カが戦 争 を始めたぞ﹂ と言 う。そのと き 私は国民学校高等科二年︵いまの中学二年︶ だった。 農 家 の 私 の 家 に は ラジ オなど無か っ た。 商店の 子 はい ち早 く ラ ジ オ で 開 戦 の ニ ュ ー ス を 聞い て来 たの だ っ た。 そのあ と 担任の先生から ﹁ ア メ リ カ やイギリスと戦う ことに な っ た 。 小 国 民 とし てし っか り 頑 張 ら な け ればな ら ない﹂ と のお話があった。 真珠湾への奇襲攻撃 ・ マレー沖 開 戦 の 勝 利、 マニ ラやシンガポ ール ・ ラ ング ーンの 占 領な ど、 日本 軍の電撃的な進撃、 勝 利に次ぐ勝利のニュースに、 私は血わき 肉 おどる思いがした。 こ うした情勢の中で 、 私 の中島飛行機多摩製 作 所への就職が決まり、 翌年の四月 二 日に入 社 し た 。 多摩工場は海 軍 用 のエンジンを作る目的 で 、 前年の十一 月 に 完 成 したば か り で あった 。 私は多摩の第 一期養 成 工 で あり一年間は一般教養や機械工 学と工作実習を学び、 翌年 の四月、 エンジンのピストンとクラ ンクを結ぶピストピン を生産す る機械職場に配 属 され た 。 柳沢 二丁目 に あった 独 身寮︵現、 都 営住宅 ︶ から通 勤 し て いた。そ の頃の千川 上 水 には 水車 があ り 、 エ ボ ナ イ ト の 原料を 粉 砕 し て い た 。 早大 の プールは 無料だったの で 、 友達と泳ぎ に いったもの で ある。 当時、 飛 行機の生 産 は 戦争 する 上 で 国の 至 上 命令 であ り、 昼・夜二交 替 や三交替 の 二十 四時 間フル操業 で あった。 最盛 時に は正規社員 ・ 徴用工 ・ 学徒動員あ わ せ て 五万の 労 働者 で 、 月産約二千台くらいの エンジンを生産し て い た。 軍 需 工 場 だ ったの で 、 憲 兵や 軍 の 監督官も工 場 を常時ま わって 監 視し て いた。 こ うした生産活動をし て いた中島を、 アメリ カ 軍はB 29による東京空襲の第一目標としたの で あ る。 一九四四年︵昭和十 九 年︶十一 月一日の昼 す ぎ に 空襲 警報 がで た す ぐ あ と 、 工 場 の 一 万 メ ー ト ル 上 空 を B 29一機が銀翼 を光らせ 、白く長い飛行機雲を引 き ながら東から西の方へ飛 んで 行く のが見えた 。 工場 の周 りには 多 く の 高 射 砲 陣 地があ り、 B 29に む けて 撃つのだが、 七∼八千メートルくらい で 爆 発し 、敵 機まで 届 かなかった の が腹立た し か った 。こ の日は 偵察だけだったの で 何 事もなかった。後 で 知 ったこ と だが、 こ の とき 工 場 の全 景を 航空 写 真 ではっき りと撮って いたの で ある。 十一月 二 十四日、昼食のた め食堂に行く途 中 、突然ドカン ドカンと今ま で 経 験した こ とのない大き な音がした。 ﹁空襲 だ 。 すぐ防空壕 に 入 れ ﹂と いう声がし た の で 、急 い で 近くの 壕 に 入った 。 ズシン、ズシンと 地響き が す る た び に、壕の土が崩 れ る ので 生き た 心 地 も し な かっ た 。 静 か に な っ た ので 外へ 出て み ると、 今 ま で 自分たち が働い て いた 工場が燃え、 表玄 関の時計台が無惨にも壊 れ て い た。 焼夷爆弾の硫黄や 工場 の油 の燃 え る 臭い がす るな か、 地下道 の 入り口付近 に 避 難 して 直 撃 を 受 け 、 負 傷 や 死 亡 し た 人 た ち が運 ば れ て い っ た 。 ︵記 録によるとこ の日 、 B 29八十八機が中島を集中的に爆 撃し、 二 百 五 十キロ爆弾三十八発、 油脂焼 夷 弾十 四発が工 場内に落下し、 死 者七十八名、 重 軽 傷者八十余名を出した︶ 。 これがB 29による東京空 襲の始まり で あった 。 会社はこ のとき ま で 工 場外へ の 避難を禁止して い た が 、 犠 牲者 の多 いのに驚い て こ の 禁止令を解除した。 そ れ 以 来、 空襲警報 がなると南は三鷹 ・ 武 蔵境、 北 は保谷駅近くま で 避難す る 人の波が続いた。 爆撃による 破 壊 や 、 退 避による 労働時間のロス で 、 生 産 量は大幅 に減った 。 こ のた め会社は 生産 設備 の分 散 ・ 疎開 をはじめた。 私も十二月 の 末に西東京市保谷町六 丁目にあ った山口自転車 ︵ 現在 は住宅地になって いる︶ に 機械とと もに移 っ た。 しかし、 中島といくらも離 れていなか っ たの で 、 はずれ弾が落ち危険度は同じくらいだった。 あると き 避難し て いた防空壕の すぐ近くに一トン爆弾が落 ちて 、 半 分生 き 埋 めになり夢中ではい出したこ と がある。 出 て 見る と土の塊が雨のように降り、紙などが空中 で 舞 っ て い た 。 後で 一軒 の家 が 直 撃を 受けて 跡 形 も な く な り 、 家 族 の 方 が 五人亡くなったこ とを知った。 また、 時 限爆弾を落とされた夜の恐 ろ し かったこ とも忘 れられない。照明弾が 落下傘 で ゆ っ くりと落 ちてきて 、工場 や 住 宅が真昼のよう に 照らされ 、 警 報が解除され た後でド カ ンドカンと時限爆弾が爆発し、 こ わ く て 仕 事が手につか なか った。 そ の他に航空母艦から飛び立ったグ ラ マンやP 51など の攻撃も恐 ろ しかった。あるとき機銃掃射を受け 農家の 納 屋 に逃げ 込 ん で 難を逃れたこ と が ある。傷ひ と つ負わ ず に す ん だこ とが不思議なくらい で ある。 東洋一の 近代設備を誇った中島の工場も、 敗 戦ま で 十 数回 の空襲をう け 、爆弾約五百 発以上が命中し完全 に 廃墟となっ た。保谷市内も流 れ弾が落ちて 多くの被害を受けた。 いま思う と戦争とは、多大な人 命の死傷者 と 大量の物 質の 破壊 で あ っ た 。平和な時代に暮らし、戦争の ない世界を作っ てい きたい と 思 っ ている 。 保谷市と中島飛行機 それ から六 十 年あ まり後 、 ゼ ロ 戦 ︵ 旧日 本 軍 戦 闘 機 ︶ など のエ ンジンを 作って い た ﹁ 中 島 飛行機武藏製作所﹂という 工 場の跡地 はいま、武蔵野市役所 や NTT研究 開発 センタ ー 、 都 立 武蔵 野中 央公園 、 武蔵 野北 高校 、公団 住 宅、国 鉄 アパー トなどがある一帯になりました。 中 島飛行機武蔵製 作 所の経 過につい て 、 以下簡単に記します。 一九三七年 ︵ 昭和十二︶ 三 月、 麦や大根を作っ て いた畑に、 陸 軍 専用の エ ンジ ン を 作る﹁ 武 蔵 野 製作 所 ﹂ の 建 設が始 ま り
ました。 一九三八年五月に完成すると、 東京工場 ︵現 ・ 日 産荻 窪 工 場 ︶ から 転勤 した 人たち と 募集 され た 人 た ち で 、 操業を始めました。 一 九三九年 ︵昭和十四年︶ 今 度 は その 隣に、 海 軍 用 のエンジンを作る ﹁多摩製作所﹂ が 建設され 、 一九四一年十一月から生産を始めました。 一 九四三年の十 月軍 需省など の 要 請で 、 両 工場 が一緒 に な り ﹁武 藏製 作所﹂ となりました。 こ の 工場は中島飛行機のみならず、 日本全体 で も 重要な 飛行機のエンジン生産工場 で し た。 東西が約一一〇〇メー トル、 南 北が約五〇〇メートルで 五 十六万平方メートル以 上あり、 建物は 二 十四万平方メートル位ありました。 特に、 ﹁多摩製 作所﹂ は 、 ド イツのクル ッ プ 工 場をモデル に した といわれ 、 三 階建て 四 階建て が 六 棟 あり、 そ のほ かに歯車 や工 具工 場 も あ っ て、 そ れ ぞ れ の工 場が地下 道 で 結 ば れ て いました。 材料や外 注部品は 、武蔵境 駅からの引込線で 搬入され 、 地下室 で 熱 処理や砂吹 き 作業がなされて い ました。 一階 で はクラ ン クシャフトやシリンダーなどの重い部品、 三階 で は軽合金を含む小物部品、 二階 で ピストン関係の部品を作 り、 そ れ らの部品をエレベーターなど で 二階の組立工場に 集中し、 エンジンを完成させて いました。 完 成品は試 運 転 した のち 引込線で 搬出す る という、 一貫した 流れ 作業方式 を採用し ていました。 今 で は当たり前の こと ですが、 当時 とし ては斬新で 画 期的な生産方式で した。 構外にあ った病院に も 地下道を通って 行 けました。地下道 の総延長 は七キロメートルもあったと言われ て い ます。 保 谷 市内には 、従業員の社宅や女子寮を含む 独身寮などがありま した 。また大き な 食堂 や娯楽施 設もありました 。 いまの東伏 見四∼五丁 目あたり は、保谷銀座 といわれ る く らい商店が並 び、に ぎ わっ て い ました。 武 藏 製 作 所 に は 、 最高 時 、 約 五 万 人 の労 働者 が 昼 ・ 夜 二 交 替 や三交替 で 働 き 、 月 産 約二 千台 のエンジン を 製造し て いま した 。そこ に は正規 従 業 員 のほ か、徴 用 された 人 や学徒動員 され た 十 六歳 前後 の男女も 働いていました 。 民間 会社でも軍 需工場だった の で 、監督官や憲兵隊も工場内を常時まわって 監視 して いました 。一九四 五 年 四月 、政府は中 島 飛 行 機を軍 需工廠官製公布にもとづい て 、 工場を借り上げ武藏製作所は、 第一 軍 需 工廠・第十一 製造廠となりまし た。 こうし た 生 産 活動を 続 け て きた 武藏 製作 所 を 、 ア メ リ カ 軍 は東京空襲の第一目標としました。 一九四四年 ︵ 昭和十九年︶ 十一月 二 十四日の初空襲以来、 十数回に及ぶB 29や艦載機に よる爆弾攻撃を受け ました 。 投下され た 爆 弾の総量は 約 三千 トンとい わ れ て い ます。そのため 生 産不能と なり機械な ど は 各地に疎開しました。 そし て 武 藏 製 作所は廃墟と化し てしま いました。 目標を外 れた爆弾は、保谷、武蔵野、田無、練馬などに落 下しました。特に保谷市内の柳沢、東伏見、富士町、本町周 辺の被害が 大 きか ったの です。
戦後、 工 場跡地 は グ リ ーンパ ー ク野球場やアメリカ 軍 の 高級将校宿舎 やアメリカンスクールなどになりました。 そ れが 取り壊 さ れ て 現在の 姿 に な っ て いるの です。
その日
西東京市柳沢 山川 千代 一九二五年︵大正十四年︶生 昭和二十年三月 十 日の大空襲の十万人の死者 ( 筆舌 ではつくしが た い ) 昭和二十年三月十日戦争も激しくなり、 こ の 頃は連日連 夜昼となく夜となく警戒警報、 空襲 警報のサイレンが鳴り、 毎夜のようにサーチライトが空をに ぎわ し、 米 軍 のB 29爆 撃機の攻撃に国民皆が心も体も脅かされて お りました 。 国 内 で は、 衣食共に、 皆 配給 で満足 な 食料 は無 く、 その 上い つ来るか わ か らぬ空襲 で 、 生 き た 心 地がありません。 そ こ へ親友のお父上が二月二十五日の空襲 で 、 消 防団の仕事中、 ︵当時、 若 者 は軍 人とし て 出征をし て い たため、 残りの人 達 で 消防団を作って い た︶ 、焼夷弾の直撃に遭い、即死と 伺 っ て私 は友達の 勤め 先に 伺う ことに し まし た。 朝、 防空ズキン、 水と少々 のい り米、 豆 少々 など 、 家 に あ っ た食品 を リュッ ク に入 れ、 今日 は空襲がありま せ んよ うにと 祈 りつつ、 早稲田 よ り州崎行市電に乗りました。 永 代橋を渡り、 お不動様の門前町を車中より見ながら、 や は り静かに守られて いるのだな、 今日は ま だ警 報も無く良 か っ た な と 思い つ つ 、木場 を 過ぎ 、東 陽 町 、砂町で 下車 し、汽 車会社のある 運 河 を渡り、友のいる会社で 再 会をしました。 友は ﹁私 の父は家具職人 で 、﹃ お 前 達三人娘には 、 最 高のタ ンスを造っ て あるからいつ で も お嫁に行け る よ﹄と言っ て 、 楽しみにし て いました。 ﹃ 元気な若者を戦争 で ﹁ お国のために﹂ と町の 皆 々様に一 針づ つお願いし 千 人 針 を作 っ て 送り出 す が、 ﹁勝 つまでは戦 う ﹂という言葉のよう に な る のか﹄といった 父は 、家族を残し て 亡 くなり、余りにもあっけなく か わいそ うで 、 そ の上 満 足 な 葬 儀も 出 来 ず﹂ と 泣 いて お り ま し た。私 も慰めようも無く、共に手を取 り合 って 泣き ま し た 。 何時 来 るか わ か らぬ警 報 を気にしつつ、 ﹁ 病気も出来ないし、 死ねな いわ ね ﹂ と語りな がら友と砂 町 で別れ 、 私は早稲田方 面、友 は亀 戸 方 面 と 再会 を約束 し まし た。 州崎より市 電 で門前仲 町、永代橋 を 渡り日本橋、 大手町、 神保町ま では警 報 もなく良かったと、電車 の 中の方々 も思っ て い ら し たと 思い ます。九段 下 を飯田 橋 の方に曲がろ うと し たその時、 警 戒警 報が 鳴 り 、ほとんど同 時に 空襲警 報 、 あ っ という間に周りの 家 々 の電気が消え、 町 は真暗になりました。 すぐに飛行 機 の爆音、 今ま で 来 た暗い道の後 方が﹁ こ れ は 普 通で は な い﹂ 空 が 明 る く 真 赤 に 見え 、 ド ン ド ン と い う よう な 不 気 味 な 音、空 に は 水 色 の 様 な 銀色 の よ う な サー チラ イト が 何本も電車の中 か ら見 えました。その中、何十機もの飛行機 の姿 が見えてき ま した 。 命 を 考え 、切羽 詰 りながら もこ ちら の空 にも来 る の か 、今は死にたくない、 生 き る、 早く終点の早稲田と願っ て 、 そ の後は 無 我夢中で 暗い道を走り帰りました。 空 襲がなかな か解除され な く暗闇 で 、 食 事とい っ て も オ ジ ヤを食べ 、 今 で は 考えられ ぬ配給配給 で 勝つま で は ガ マンガマンと言 って いた 思い が あ ります 。 百機以上B 29でやら れ ている と 、 ラ ジ オ 放送 で下町が 大 変大変、 深川方面がやられて い ると聞 き 、 眠 る こ とも出来 ず大 変大 変みんな逃げて 、 死なない で と 祈りました。 明日 は、 会 社 、 と にか く ど う な っ た のか 、 た だ町が な い、 大変 な情報 だ け、 再会を約束した友を気にし ておりました。 二 日目、 早 稲 田 から東陽町ま で 歩 こ う と休みをもらい、 私 が 行 っ ても どう なる もの でも な い け れ ど、 半 月 前 お 父 上 を 亡 くし た 友 を思 う と 、 い ても た っ ても い ら れず、 家 に あ る 食 品と水 を リ ュ ック に入れ 、 防 空 ズ キ ンを かぶ り、 ﹁すっ か り下町 が ︵全滅した︶ ﹂とい う ニ ュ ース に押され 、とに か く早稲田、 九 段下、 神 保町、 大 手町、 日 本橋 と歩 き 、 砂町 を目指 し て 、 ﹁今 日は 空襲が あ りません よう に﹂と 祈 って お り ました 。 時々お 会いす る人達の様子、 町 の様子は 、 変 わり な い よ う に と 思 い ま し た。 必死 で日本橋 近くなり 大 き な荷物を背負いまた風呂敷 包を抱え、 な んともいえぬ姿の方々とお会いするようにな り、茅場町 あ たり から 、気がつくと髪の 毛が 灰をかぶり、 目から 黒 い泪を流 し、 ﹁ ひ ど い ひ ど い﹂と泣き な がらどこ にいらっし ゃ るのか、 なんとも声をか け る こ とも出来ませ んで した 。 永代橋に近づくにつれ、 ﹁ 大 変 だ 大変 だ﹂ ﹁困 った 困っ た﹂ と大 きな声 で 叫びながら来る女の人 は、 頭に灰をかぶり、 目か ら黒い 泪 を流し、 ﹁地獄 だ 地獄だ ひどい﹂ と言う何人 もの人にお会いしまし た。私も永 代 橋を渡り 始め、二日前に 見た 景色との余りに違 いすぎ る 深 川 の町がまる き り廃墟 で 、 足が震え歩 く 気力が無 くなり立ち尽くしまし た。その後、何 人かにお会 い しましたが、皆涙の跡があり、 モンペをは き 、 何かを持 ち﹁地獄 地獄 ﹂と 言 い な が ら 歩 く姿 に 、 私 も かけ る言葉が見 つ かりま せ ん。二人 でいらした一 人の 方が和 ボ ウ キの短いのを大切そうに持ち、 若い方が困ったように私に ﹁ こ の戦 いは いつまで 続くの か しら ﹂と言 い な が ら ﹁ 母は 三味 線 と思 っ て い る の で す﹂ とおっし ゃり ながら涙 を流し、 日 本 橋 の方 に歩いて い か れ ま した 。 二 日 前の 深川 との違 い すぎる 瓦 礫 の 山に、 ま だま だく すぶ って い る 所、生き 別れた方 が 、 自分 の居場 所 を 焼 け 焦 げた 木 の切れ 端 に、落ち 着く場 所 を 書 き 、 放 心 状態の方々 が まだ ま だ沢山いら っ し ゃ いま し た 。 門 前 仲 町交 差点 を渡り き っ た 所 で 、 アス ファル ト が 熱 さで ゆ る み、ハダ シで 逃げ たで あ ろ う 足跡が七、 八 ほど、小さいの、大 き いの、そのそば に 真っ黒 く焼 けた死 体 を目の前 にし て 、 ﹁ 戦 争 は だめ だ、か わ い そ う、 どうしたら いいか﹂二 日 前に見た門前仲町と は 全く違い、泣 き な がらに ど うする こ とも出来ず見 て みない ふ り、一礼 をし ﹁ご めんなさ い ﹂ 一言で 通 り過ぎ ま した 。
それ から東陽町、 砂町へと見 て みないふ りをし、 先へ 急 いだ 。 木 場の運 河 にさ しかかると 、 橋の周 り の様子が変わ り、 運 河 の中を見て 、 驚 き ました 。 普通の人が お 身内か、 運河に 浮 か ぶ 、 何 人 か の 死 体、 頭の 毛 が 燃え、 熱 さの ため 運河に 飛 び 込 み 助 か り たか っ た でし ょうに 、 そ こ に そ の 死 体 を 引 き 上げ、 こ の 場 で焼 い て いま す。引 っ 掛 ける棒 で 、 引 き 上げる何体かを見た こ とは、 これは これは誰にも語る ことが 出 来 ず 、 地 獄のよ う な、 足 が 震え、 足 が 動 か ず 、 逃 げたく て もただただ立ちすくみ、 運 河の両側の炎から、 皆 助かり た く て 、 飛 び込 んだ木場の木の上を火がなめ た 。 そ れで 地獄絵の如くと、 泣 き ながら引 き上げ、 木の上に人を 置き 、 焼 く よ う な 話を 聞き ま し た 。 や っ と自 分 に か え り 、 この こと は 誰 に も 言 い ま す ま い 、 助 けよ う が 、 手 だ す け が 出来なかったのか、 生 きたく て 又夢もあったと思うと、 か わいそ う でく やし く て 、 思 い出 すとつ ら いつ らい思 い 出 で す。 私は これは一生話さずと思 っ ておりましたが、 戦争 はだ め、 自分の 命 を大切にと思いつつ、 友の家は全部焼 け まし たが 全員無 事 を知り、 安 心 し た けれど心が寂しく、 こ の 日 は帰り 道 をただただ、 自分の気を持 ち直 すだけ で 、 た だ た だ来 た道を朦朧としながら歩 き 、夜 遅く帰りました。
私の少年時代は戦
争だった
西東京市田 無 町 横山 年三 一九二八年 ︵ 昭和三年︶ 生 一、空への憧 れ 私が八才の時、 日 中 戦 争が始まり、 十六才 で 終戦となっ た。 世 は 正に 軍 国 主義時 代 、 男 子 た る も の国の 為 に 死 ぬ こ と は 本望 とい われ てい た頃 です。 中 学 生に な っ て工 場動員 で徹 夜 勤 務 を する よ う に な り 、 何 時 、 空 襲 を 受 け て死 ぬ こ と に な る かも知れ ない 時代で し た 。 当 時 の少 年達の憧れ は 少 年 飛行兵 で した。 私 も海 軍 甲 種飛行予科練習生に志願し、 三重海 軍 航空隊奈良分遺隊に入隊しました。 軍 隊 生活の 厳 しさは あ る程 度覚悟して い ました 。 二、通信術で 鍛えられ る 予科練の教科は 、 一般学科 ・ 軍 事学科等盛沢山 で す 。 モ ールス通信の習得 は飛行兵とし て不可欠 です。 最初から一 分 間 六十 字の ス ピ ー ド で受 信 す る こ と が 要 求 さ れ まし た。 毎 晩 夕食 後に 講堂 で指 導を受 け まし た。 符号 は ・ │の組 み 合わせで 、 イ ロハ四 十八字 の他 に記号や数字など 、 一 寸聞 き洩らしたりすると五∼六字飛ん で し まいます。 ミ スがあ ればゲンコツやバッター ︵ 軍 人 精 神 注入棒︶ の制裁が待っ ていま す 。 二 ヵ 月 で完 全に 受信 せよ という 命 令 です。 モ ー ルス通信 が取得出来ると発 光信号の 学習が こ れ に 続 き ま す。 夜、 電球 を 点 滅し てモ ールス 符号を受信 しま す。 ﹁ ま ばた き﹂ する と 符 号が 切 れ て別の 符 号 に な っ てし ま い ま す 。 し た がって 、 長時間眼を閉じない訓練をす る 必 要 があり、涙がボ ロボロ出 てき ました。 三、手旗信号 手旗信号 は右手に赤、左手に白 の旗を持っ て 上下左右 斜に 手を振っ て信号を送り ます。手の 振 り方が正しくないと、受 信者が混乱します 。基本とな る手の振り方 、 角 度 が厳 しく指 導され 、 正しくないと手旗 で 容 赦 な く叩か れ たもの で す。時 には 、手を振 り上げ た 姿 勢 で 三 十分 以上も そ のまま 待 たされ た こ とがあり まし た。 制裁 だったの です。 四、 連帯責 任 軍 隊 生活 は団結し て任務に当たる こと です。一人のミ ス が 任務の遂行に支障を及 ぼすことが あ ります。 一人 で も ミ ス が あると厳し い 制裁が待 っ て いまし た 。就寝後に叩 き 起 こされ て ア ゴ︵拳 骨 で 頬 を何 回も殴る︶ やバッター︵ 軍 人 精神注入 棒で 尻を 何回 も 叩 く︶は 毎 晩 の よう にあ りました 。と言って ミスをした者を怨 むことはありま せ ん。 教員から見ると、 我 々 新兵の行動 は 歯がゆく 見えたのか も 知 れ ま せ ん。そ れ は 私 が 後輩の指導 練 習生とし て 、 その任についた時 に感じまし た 。 教員は第一 戦 で戦闘に 参加し て きた歴戦 の勇 士 です。中には ガダル カ ナル 島の激戦地を体 験 され た方 がおり、その苦 戦 の 状況を教訓と して 細 か に教えて く れ ました 。 後方 から の補給 が絶 たれ 、 草 は言うに 及ばず鼠を捕え て 食 べ たそう で す。体力は みるみるうち に消耗し て 、 骨 と 皮 ば かりになり、 戦死 した戦友の遺体を埋葬出来 ず落葉を集 め て 掛 けて や る の が精一 杯 だったという こと です。 五、予科練教育中止となる 我々 の教 育 が 進む に 従 い 各 地 に 航 空 隊 が 開 隊 され 、 奈 良 から 清水海 軍 航空 隊に転 属 とな りました 。 飛 行兵長に進 級 し 、 操縦 ・偵 察 に 分か れ て 専門 課程に 進 む頃と な った時、 戦局の逼迫により資材 ・ 人 員等の余裕がなくなり予科練教 育は 中 止 と な りました 。 予 科練習 生 も本土 防 衛のた め に陸 戦隊編 成 とな っ て 、 沿 岸防 備 ・ 飛 行 場 警 備等に 当 る こ とに なりまし た。 六、 震洋・ 桜 花基地 建 設 我々 が 最 初 の 任 務 に つ い た のは 震 洋 基 地 の 建 設で した 。 震洋というのは木 製 の モーター ボートの前部に爆薬を装 備し た特攻艇 です。 清 水 は駿河湾に面し て いるの で 特攻艇 基地に最適の要 件 が 整 っ て いたの だ と思 いま す。 施設 部隊 に協力し て建設に従事しました。 震洋基地 建設の途 中か ら、 我 々 は、 桜 花 基地 建設を命ぜら れ、 後輩達と 伊豆半島の熱 海峠 に派遣され ま した 。 桜 花とは、 ロケ ット で 上 昇して 敵 艦を攻撃す る た め に開発された戦 闘 機 で す 。 熱海峠の山中 に桜花を 発進させ るた めのカタパルトを建 設 す る た め 、 山 中の宿舎に居住し て 、 後輩を指導し乍ら作業に従事しまし た。 作 業 の途 中 で 転属 を命 ぜら れ横 須賀 軍 港 に着 きまし た 。 七、特殊潜 航 艇出撃 横須賀 軍 港内 に待機中 、 ﹁ 鮫 龍 が出 撃す るぞ。 ﹂ という声 が 聞こ えて き た ので 、戦友 と 桟 橋 へ駆 け つ け る と 、 今 し も五 隻 の鮫 龍が出撃す る ところで した 。鮫 龍とは小型の特殊潜 航 艇 です。南 方 の 戦 場に向 っ て出撃 す る と ころ でし た。 乗員 に は 予科練の先 輩 がいます。二度と戻 っ て 来 られない先輩達 を 見 送るのに言葉が出ません で した。 皆 、無言 で 帽子を振っ て 見 送る だけです。涙が 溢 れて 止まり ま せん で し た。 これ程悲惨 な別れはない で し ょう。我 々 も 何時かはこ の 様な立場に な る かも知れないと感じました。 八、海 軍 水陸両用 戦車隊 へ いよ いよ 我 々 も陸戦隊 へ配属 さ れる ことに な りまし た 。横 須賀鎭守府第十六特別 陸戦隊︵十 六 特陸︶ で す。私の所属し た 十 六 特 陸第 二中 隊は千 葉 県 富 浦町 に駐 屯し て い ました。こ の部 隊は 水陸 両 用 戦 車 隊で 、戦 車の正 式 名 称 は 特 二式 内火 艇 といい、海上に浮いている所は漁船のように見えました。 こ の戦車は 、海 軍 が 上陸作戦 用に開発したもの で 、 百八十 両 以 上生産されました。 こ の 戦 車の訓 練 は瀬戸内海の情島︵ Q 基 地と呼ばれた。 ︶ で 行 われ 、 軍 事機密のため水陸両用 戦車とい う名称は 使用しません で し た。 この基地から南方へ出撃 し 多 くの先輩は散華され 、 一人の生還者もありません で し た。 我 々 は そ の留 守部 隊 に 配 属 され た の で し た 。 我々も 海 軍 に 水陸 両 用戦車 が あるとは夢 に も 思 って いませ ん で し た の で 、実物に 接した 時 は驚き ま した。まし て 、 こ の鉄の箱が海に浮か ぶ と は 、 当 時 の 新 聞に こ の 戦車 の 写 真が掲載されたこ とはなかっ
たの で国 民 は 知り ま せ ん で し た 。 こ の 部 隊の 任務 は敵が 本 土に 上 陸 し た 場合、 背 後か ら攻撃 し て敵に 打 撃 を 与える こ と で した。す で に サイパン島、硫黄島が米 軍 の 手に落 ち 、 沖 縄 に も 戦火が 拡 大し て、 本土 防衛 に 時 間 の 余 裕 はな く、 一 旦 、 出 撃す れ ば 生 還 し な い 特 攻 隊 に 来 た の だ と 、 ひ しひ しと感じました。 九、通信兼機関銃 戦車で の 配置 は指揮 ︵ 車長︶ 、 操縦、通信兼機関銃、戦 車砲 です。 私の 担 当 は通信 兼 機関 銃 で 、 機 関 銃 席の横に通 信機が設置されて いるの で 、 一 人二役になります 。 当 時の 通信機器は真空管式で 電力の消費量も多く、 機器の大きさ や 電 池は 、 今 とは 較べ ようもない程大き く重いも の で した 。 通信は電鍵を叩い て モ ールス符号 で 交信します。 我 々 は 既 に モ ールス通信 は 習得し て いたの で 、 こ れが生か さ れ る時 が き たと胸が わく わくし て きまし た 。 後 は通信 機 の 操 作に 馴れ るだけで す 。 戦車は 海 岸 の 松林の中 に分 散し、 隠 蔽し てあ り ま す。 訓 練 の 第 一 は 周波 数 が 指 示 さ れ 、 全 車が そ の 周波 数に一致 する こと です。 一 号 車と二 号 車が交信 し て い る間に他車は その電波を傍受し て 受 信調整 の 時間を短 縮 するよ う に し ま す 。 何 回か 訓 練を重 ねる 中に交 信 の時 間を 短縮す る こ と が出来るようにな りました 。 当 時は現在のよ うなエアコンの設備がなく、 松 林の中とはいえ蒸し風呂の よ う な暑 さの 車内 です。 訓 練 と は いえよ く 耐えら れ たもの と思 いま す。 車外に 出 た時、 海 風の涼しか っ た こ と、 高原 の涼しさとはこ の ようなも のかと 思 いました 。 十、射撃訓練に入る 通信機の訓練が終わったこ とで 、いよいよ 射 撃訓練 に 入り ました 。 射撃場は 館山海 軍 砲術学校の射撃場 で す 。 機銃を 撃 った時の発 射 音 は 車外に出るの で、車内 では、引金を引 い た 時の﹁カチッ﹂という音だけで し た 。機銃は一発ずつ発 射 す るように調 整 出来ます。最初の一発 は夢中 で 撃ったの で、車 長からよく狙えと注意 され ました。落着い て 照準器を覗 く と 標的がよく見えてき ま した 。呼 吸 と 引金を 引 くタ イミングが 大切 である こ とを知り まし た。 十一、隊長に命を預け る 昼夜を問 わず猛訓練が続 き 、任 務の遂行に 明 け暮 れ る 日が 続いた 昭 和二十年八月のある日 、夜半に﹁至急中 隊本部に集 合せ よ。 ﹂という命 令 がありました 。暗闇 の 中 、 本部 に 集 合。 隊長より﹁ 大島南方に 敵 機動部隊があり本土に接近中、 これ から空 襲 や艦砲射撃があるかも知 れ ない。貴様達の命は隊長 が預かる。 そ れ ぞれ の 故 郷に向っ て 、 最期の 別 れ の 挨拶 をし よう。 ﹂ と言われ ました。 覚悟し て いたとはいえ、 こ れで 十六 才の生涯が 終 るのかと一瞬涙が滲 ん でき まし た。入隊以来一 度も帰省し て いない故郷の風景 や 家 族の顔が 脳裏を掠め て い きま し た 。 特 攻隊 で出 撃 し てい っ た 先 輩 達 の 心 情 が わ か っ た ような気がしました 。 それ から戦車 に戻って 、燃 料、弾薬を 満載し て 、 戦 闘準備が 急ピッチ で進めら れま した。夜が 明 け てきた頃、 車 内を見回 すと、我 々は 、弾薬箱の隙間にいまし
た。 砲塔の 内 側に はピカ ピ カの 真鍮が 光 る 砲 弾 で 、 ぐ る っ と 囲 まれて お り、 直撃弾を 食らえば あの世行き と いう状況 で し た。 し ば らくし て 辺りの静けさ に気がつく。 どうなっ ている の か と 思 っ ている と 、 戦 闘 配 置解 除 の 連 絡 が 入 り ま した 。 大 島の見張所が誤報を出したというこ とで した 。 こ こで緊張感が一気に崩れて い き ました。 命拾いしたのだ か ら有難 い と思 わな ければなりま せん。 こ れが実 戦 であ った なら、 い ま 生 存し ている人の何人がと考える と、 平和の 有 難 さ をしみ じみ 感じずに はいら れ ま せ ん。 復員し て 田無駅 に着いた 時、 爆撃の跡生々 しく、 駅 前には大穴が出来、 ホ ーム は飛 ばさ れ て 木造のホ ームに な っ て いまし た 。