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近世長崎の自治について : 町役人の選任法を中心に

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Title

近世長崎の自治について : 町役人の選任法を中心に

Author(s)

小島, 小五郎

Citation

長崎大学教育学部社会科学論叢, 18, pp.一七-二七; 1969

Issue Date

1969-02-28

URL

http://hdl.handle.net/10069/33707

Right

NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE

(2)

近世長崎の自治について

|町役人の選任法を中心に|

小 島 小 五 郎

一、序言

二、町年寄の選任法 三、乙名の選任法 四、組頭の選任法 五、日行使の選任法 六、結 語 一、序 言  日本近世都市の自治の問題について論ずる場合、その論拠乃至例 証として長崎の自治組織にふれぬことは殆んどない。というよりは 長崎は常に大きく取り上げられておるのであるが、近世長崎の自治 はどのようなものと理解されているであろうか。  先ず豊田武前の﹁日本の封建都市﹂では長崎を大阪、堺、兵庫、 新潟、博多と並らべ、これらやその他の港町、経済都市と共に、城 下町とは違った町役人の選挙があり、城下町と異なって民衆の声が         町政に反映し、自由の空気があったとし、原田伴彦氏は﹁日本封建 制下の都市と社会﹂で、封建都市の中で城下町を中心とする政治都 市には特権的門閥宿老の世襲的統三下の御用的自治機関の性格を濃 厚に残すものが多いが、港町を中心とする経済都市では自治制が町 民階級の利益のための民主的性格の方向への傾斜を示すものが多い         とし、長崎はこの部類に属すると述べておられる。  本来自治とは如何なるものかについては、詳しくは政治学・法学 に委ぬるとしても、住民によって行われる政治、即ち住民によって 選ばれ、住民の声を行政に反映させるという事が自治制を考ゆる際 の最も重要な点かと思われ、この観点よりすれば両氏が或は﹁町役 人の選挙とか民衆の声が町政に反映﹂といわれ、又﹁町民階級の利 益のための民主的性格﹂とされ、その立場から長崎の自治を評価さ れておるのは至極妥当と思うのであるが、唯憾しむらくは、それを 立証する具体的事実を示さるることの少ない点である。固より近世 都市を全国的規模において綜観する場合は当然各都市の正確な個別 研究に基づかねばならぬが、さればとて一人のこれをよくし得ない ことも勿論であり、又すべての個別研究の完了をまつわけにも行か ない。  然し、だからとて余りにも安易に、それは城下町であるからと か港町であるからと、巨視的に一括概論しては真相を誤まる怖れな しとしない。ここに於いて改めて長崎の町役人はどのようにして選 任されたか、如何にも自治の名に値し、町役人はすべて町民によっ て選ばれたかを具体的に検討しておきたいと思うのである。  長崎を論ずる場合多く引用さるるのは﹁幕府時代の長崎﹂で、そ れは数十年前のものながら他に之を凌駕するものがないと見てか、 前記両氏も長崎の自治制を論ずる際の根拠としておられるが、 ﹁幕 府時代の長崎﹂は長崎の自治をどのように評価しておるかという       一七

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  長崎大学教育学部社会科学論叢 第一八号 に、その第六章政治の条の冒頭に﹁幕府時代ノ長崎政治ハ純然タル 自治制ナリ﹂と大きく断定し、又﹁最モ完全ナル自治制ヲ以テ明治 ノ世ニマデ及ボセリ﹂とも記している。そしてその﹁純然タル﹂と か﹁完全ナル﹂とかの論拠は、管見によれば﹁幕府ヨリノ奉行等ハ 箱黙垂棋制ヲ長崎地役人二受ケ⋮⋮町年寄等ハ随意二驕奢ノ生活ヲ 営ミ⋮⋮遂二 ﹁御老中でも手の出せないのは大奥と長崎金銀座﹂ ノ俗謡アルニ至﹂つた事と長崎の市政機関は﹁九名ノ町年寄ノ下二 各乙名アリテ之ヲ分轄シ、各町乙名ニハ各々組頭日行使ノ属スルア リテ学務ヲ処理シ町ニハ一町組、家ニハ五人組アリテ緩急相救ヒ相       ゆ 警メ⋮⋮井然トシテ素レズ﹂との二点に帰するようである。そして この故に長崎は純然完全の自治制であったというのであるが、その 籍黙垂操というのをその文字通りに事実と受けとり得るか、町年寄 等の驕奢をそのまま自治と解し得るのか、若し、いうが如くに御老 中でも手が出せないとあっては最早自治を越えて独立自由の都市で はないか。又町役人の制度の整然たるがそのまま完全な自治といえ るであろうか、なるほど長崎の町は町年寄以下町人によって運営さ れたが町役人が町人である事でそのまま自治なのか疑いなきを得な い。然もなおこの﹁幕府時代の長崎﹂に見ゆるところが多くの人々     に引用されている。近世長崎の自治の問題は改めて考えねばならぬ と思うのであるが、それには先ず最も重要な町役人の選任法より進 めて行こうというのである。 註 ①原田伴彦 日本封建制下の都市と社会、二七五頁−二七八頁。 ②豊田 武 日本の封建都市、一七九、一八○頁。 ③長崎市役所 幕府時代の長崎、第六章政治。 ④長崎市政六十五年史其の他殆んどこれによる。,

二、町年寄の選任法

一八  先ず長崎町役人を綜括して奉行との間に位した町年寄はどのよう にして選任されたか。これについては﹁惣町乙名の中から互選され    た﹂とするあり、町年寄という﹁その語源は役人のうち最も年長で         最も物知りの人を選挙したからこのように年寄というのである﹂と て日頃の町年寄は選挙によったというあり、又、 ﹁長崎甚左衛門に 属した博士のうち高嶋、高木、後藤、町田の四人の忍び居たるを秀 吉の奉行寺沢家より呼び出し町中の頭人と相定め写染の差引を任せ  ③ た﹂と選挙説に否定的なものもあるが、果して何れに従うべきか、 町年寄の各家について選任の事実を逐次検討して見た上にしたいと 考え、検討の史料としては主として長崎市立博物館蔵の﹁町年寄発 端由緒書﹂、 ﹁長崎御代官町年寄系譜﹂、 ﹁長崎御代官町年寄由緒 書﹂や長崎略史所収の﹁長崎名家略譜を用いる。いうまでもなく、 この由緒書や系譜の類は子孫が後世に書上げたもので、従って信冷 性に於いて欠くる頑なしとしないが、他に多くを期待し得ないとす れば町年寄家の一応の記録として之を利用するほかはない。 頭人町家  周知の如く、長崎の町年寄はその初めは頭人と称し、それは高 嶋、高木、後藤、町田の四家であった。これら四身が頭人となった のはどのようにしてであったかというに、高木家の由緒書では﹁永 禄年中長崎に来居住仕、長崎最初よりの頭人にて御座候﹂と見え、 高嶋家の由緒書は﹁頭人被仰付意訳は相知不発候﹂と記すのみで、 初めて頭人となった時の事情についての積極的な記述はない。従っ て﹁各地から集り来った人々の中から自然発生的に乙名が出来、そ の中から町全体の頭人が恐らく秀吉に任命され、町年寄として江戸

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        幕府に引継がれたのであろう﹂と推測する外はないし、又、 ﹁江戸 の町年寄樽屋の先祖はもと長篠合戦に出陣し、その後浪々して江戸 に出たが俗姓が卑しくないと町中の者がこれを敬い自然町の年寄と      なった﹂という如く、長崎町年寄も、早く絶えた町田家の記録は見 得ないから之を除き、高嶋、高木、後藤の三家は相当の武家に出自 し、いわば浪人の形で長崎に来着したと伝えておるから、事情は江 戸の樽屋に類するとも見られるし、これら四家の頭人となったの が、町民の選挙とか惣乙名の互選によったとかの説には否定的たら ざるを得ない。最初頭人となった時の事情については一応これに止 めるとしても、その後の事情はどのようであったか。  これら一家の内、町田家は早く亡びて殆んど伝える所がないが、 後藤家はその後代々相襲いで明治に及び、高嶋家は享保十八年作兵 衛音繧が家を弟茂健に譲り一代年寄となって以来両家に分れたが、 この場合は分家にすぎず、長崎御代宮町年寄系譜には﹁功により新 規召抱町年寄﹂と記し、惣町乙名の互選を経た様子はない。  高木家は代々当主が御用物役、嗣子が町年寄となっていたが、延 宝三年伝左衛門正信が別家を創立、この時から御用物役︵後に代官 兼御用物役︶の家と町年寄の家とに分れた。従ってこれにも乙名達 の選挙はなく、高木家としての分家が認められたというに止まり、 その後両家は世襲して幕末に至るのである。 薬師寺家  当初の四家についで町年寄家となったのは薬師寺家である。この 家は豊後大友氏の遺臣であった久左衛門が長崎に来たに発すると伝 え、初めは磨屋町の乙名であったが、寛文五年宇右衛門が外需乙名 中の入札によって常行事となり、元禄十年又三郎に至って町年寄に 任じ、その後世襲して幕末に及んだ。   近世長崎の自治について︵小島︶  外町の常行事は内町の町年寄と略論同格で、元禄十二年内町外延 を平等に取扱うに至って、常行事をも町年寄と改称したのであるか ら、薬師寺宇右衛門が外回乙名中の選挙によって常行事となったと いう事は、長崎町年寄は惣町乙名の互選によったとの説を支える有 力な一事例といわねばならぬ。 久松家  前記薬師寺宇右衛門が高木彦右衛門跡を承けて元禄十年乾町常行 事から内町町年寄となった跡をうけて常行事となったのは大村出身 の久松善兵衛であった。この場合善兵衛は宇右衛門と同じく外町乙 名の入札によって選ばれたのかというに必ずしも左様でなかったか と見える。薬師寺宇右衛門が辻市左衛門の遠流処分の跡をうけて常 行事となった時の事情を長崎市立博物館蔵のいわゆる長崎寛宝日記        は﹁外窄乙名中入札二而乱射申候﹂と明記しているにも拘らず、久 松善兵衛が常行事となった時の記事は同じく長崎三宝日記でありな       ﹂⑦ がら﹁常行一役久松善兵衛殿二被仰付候事﹂とあるのみで、そこに は乙名中入札等の文字は見えない。  この久松家の善兵衛︵西浜町久松家︶が明和七年その受用銀を分 けて弟土岐太郎に奉公させたいと願出て許され町年寄末席に仰付け られて本興善町の久松家が始まるのであるが、従って前述の高嶋 家、高木家の分家創出と同様で、乙名達の入札などは考えられな いゆ 福田家  祖先は肥後に発し浪人して長崎に来着、乙名を勤めた後、元禄六 年伝次兵衛が外町常行事となり、元禄十二年内町外町一同となった 時、久松善兵衛と共に町年寄となって子孫相襲ぐのであるが、元禄       一九

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  長崎大学教育学部社会科学論叢 第一八号 六年常行事となった時の選任法については長崎寛宝日記には何等の 記載がなく、福田家の由緒書にも﹁外舅常行特認召抱﹂とあるのみ である。  この福田家︵本紺屋町︶の利範が家を養子利孝に譲った後も町年 寄を続けて延享三年別家を認められたのが酒屋町の福田家である が、これ亦前述の久松家等と同類の分家で、そこには乙名の入札な どは考えられない。  以上長崎の町年寄家について、その町年寄乃至外字常行司となっ た時の選任事情を見て来たのであるが、その殆んどすべては幕府側 からの任命や世襲・分家の承認によるものであったと思われ、乙名 中の入札によったのは唯、薬師寺宇右衛門が寛文五年外学常行司と なった時のみである。常行司のみに入札が行われたというならば薬 師寺宇右衛門以外で常行司になった場合にも入札があったかという に、管見の及ぶ限りでは寛文八年東中町の小柳太兵衛が外町乙名中        ⑧ の入札で常行司になった例があるのみで、その小柳が延宝八年九月 廿四日御役御赦免となった後任には貨物宿老清田安右衛門が仰付け      られたが、その場合入札があったか否か明記されていない。清田が        貞一一旱二年病死した跡には本惨毒町の木谷与三右衛門が、木谷が元禄         六年役儀御赦免の跡には福田伝次兵衛が外弁常行司を仰付けられた が、これらの場合にも入札か否かは明記せず、唯仰付けられたとあ るのみである。同じ長崎寛宝日記で、時代も余り距たらぬ記事に薬 師寺、小柳の場合は﹁外曲乙名中入札二品﹂と明記したにも拘ち ず、清田家の場合にそれがないとすれば入札はなかったと考えねば なるまい。更に又、清田は貨物宿老から、木谷は内町なる本近習町 の乙名から、福田は唐人屋敷乙名から常行司となった事を思えば、 少なくともこの頃は、外町常行司といいながらも、内町外町を問わ ず貨物宿老とか内町の乙名とか、又は当初よりの唐人屋敷の乙名と       二〇 して数年の経験があるとか才幹閲歴を勘案して上より任命し民意に 問うことをしなかったかと思われる。  さきの薬師寺宇右衛門の隠居跡は子の又三郎が襲いで常行司とな り、即ち世襲した訳であるが、やがて元禄十年高木彦右衛門の跡を うけて内町の町年寄となり、又三郎の占めていた外町常行司には久 松善兵衛があてられた。この間の消息を長崎地異日記元禄十年十一 月廿七日条には次ぎの如く記してある。  従江戸申来黙坐高木彦右衛門殿年寄役跡目数年常行司相草占申候 薬師寺又三郎殿年寄役被仰付髪常行司役久松善兵衛殿二被仰付候事  元禄十年は未だ内町外町一同以前であるから年寄役とは内町の町 年寄で、若し入札によるならば内町乙名中の入札が行われねばなら ず、その場合、外町乙名中の入札によって常行三役について居た薬 師寺家が外町から入り来るということも普通は考えられないが、し かも猶敢えてしたのは幕府が数年常行司を勤めたという閲歴を認め たからであり.その理由を折角申し来ったというのは入札を用いな かった証左でもある。又、久松家が西浜町に移ったのは元禄十四年 高木彦右衛門の宅地を賜った時で、それまでは浦五島町に居たので あるから、元禄十年のこの時点に嘗ては内町なる久松善兵衛が外町 着行司となった訳で、之亦外町乙名中の入札の結果とは考え難い。  以上町年寄の選任法について要約すれば、町年寄は惣町乙名の入 札互選によるとの説もあるが、入札によった例を具体的に追跡しう るのは寛文五年と八年の外面常行司の場合のみで、その前後につい ては町年寄も外蓋常行司も入札によったと思われるものを未だ見出 し得ない。ケンプエルが初頃の町年寄は選挙によったというのは如 何なる実例があるのか明らかでなく、むしろ前述の如く、秀吉か誰 か、要するに支配者側からの任命によったと見るべきが妥当かと考 えられる。敢えて臆測すれば寛文頃外点常行司に見た入札の例をも

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ってケン。フエルは初期の町年寄は選挙であったと述べたのではない かとも思われるが、然し彼が﹁今は一般に父祖の功績によって子孫       ⑫ がその後を継ぐ﹂と述べた点については異論はなく、彼の長崎に滞 在した元禄頃にはもはや町年寄は世襲となり、即ち封建化が進捗し てその後長きに亘って長崎町年寄の諸家は世襲し、又は分家して例 の九家となっていたのである。而して町年寄の世襲や分家は願によ って幕府から許されるという形式によったのであって、ケンプエル も﹁後を継ぐには奉行の承認、ついでまた老中の承認を要した﹂と 記しており、さきに元禄十年薬師寺家が高木家跡をうけて町年寄と なった時の長崎寛宝日記に ﹁従江戸申来候者云々﹂ とあると述べ た如く、町年寄の任命は明らかに幕府からの示達によったものであ り、その後、久松家や福田家の分家の際もその願書を奉行を経て老 中に達し、幕府からの許可承認を得た次第である。 註 ①豊田武 ②ケンプエル ③崎陽群談 e。 ④箭内健次 ⑤豊田武 ⑥長崎学宝日記 ⑦ ⑧ ⑨ ⑩ ⑪ ⑫ 〃 〃 〃 〃 日本の封建都市、一七九頁。  日本史︵長崎県史、史料篇第三、 長崎︵日本歴史新書︶六七頁。 日本封建都市、一六五頁。  〃 ②に同じ。 寛文五年三月五日条。 元禄十年十一月二十七日条。 寛文八年十二月二十一日条。 延宝八年九月二十四日条。 貞享二年十十月条。 元禄六年十月条。 近世長崎の自治について︵小島︶ 二八○頁︶。

三、乙名の選任法

 粉々の乙名はどのようにして選任されたかについて記述した文献 は甚だ少ない。古くはケン。フエルが﹁乙名は古町々で住民が平等の 権利で投票して選出する。投票を開いた後、多数を得た人々の姓名 を請願書と共に年行司を経て奉行に提出しその人にその町の行政を        委ねられるよう請願するのである﹂と記し、近くは原田伴彦氏が ﹁乙名と町内の五人組の組頭は町民の入札、つまり選挙によってき      められた﹂とさるる位で、諸文献は乙名の実態については述べてい ても、その選任法については殆んど何等の記載をしていない。原田 氏がここに﹁五人組の組頭﹂といわるるのは乙名の補佐役としての 組頭を誤まったものかと思わるること後に述ぶる通りであるが、そ の組頭ならば明らかに町民の入札によったのであり、そのことは長 崎町年寄の﹁年寄共勤方書﹂や町乙名の﹁乙名勤方書﹂の類に明記 されて疑う余地はない。組頭にしてその選任法が入朴を用いたと明 記されておるならば、そして乙名も亦入口によったならば、必ずや 前述の勤方書の類に記述があるに違いない。しかもなお見当らぬと すれば乙名が選挙によって決められたという説には遽かには従い難 い。  前節町年寄の選任法の際、長崎写影日記には外野常行事の入札の 記事があると述べたが、若しやこの日記に乙名選任に入札を用いた 場合がないかと尋澱るに未だそれは見当らず、却って、次ぎに掲ぐ る宝永五年十月、十一月の条を見れば入札説はむしろ否定されねば ならぬかと思われる。 一右同子十月β町乙名行跡悪敷者共御しらへ御替被成候   東古川町中野弥三次被召上 此代り宇野九郎兵衛二被仰付       二一

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  長崎大学教育学部社会科学論叢 第一八号   本紙屋町小林弥右衛門被召上 此代り中村弥三右衛門二被仰付   伊勢町井筒勝助乱書上 此代り岡田吉郎左衛門二被仰付   今博多町鳴田猪兵衛被召上 此代り樺嶋六郎左衛門二被仰付   樺島町大塚権左衛門被召上 此代り豊後屋利右衛門   引地町多加仁八郎被召上 此代り山田林右衛門   右之通男召上又代リ役御入被成為事  一右同子十一月十三日二又々町乙名御替被成候   西中町麻生半左衛門被召上 此代リ田所七太夫君仰付   西上町樺島三郎右衛門被召上 此代リ石崎庄兵衛被仰付   中紺屋町松尾九郎兵衛被召上 三代リ釘屋与右衛門   西古川町新屋権平手前右欠落仕候此代リ霊前園崎右衛門被仰付   右之通御替被成増而代り役御入翼成候  即ち右によれば入札の文字が全然見えぬのみか、 ﹁黒斑黒影召上 又代リ役御入被成候﹂とか﹁御替被成候﹂とかの表現は町民の入札 を経たというより奉行側からの直接の任免、それも近代的な手際よ き一連の人事異動を思わしめる。然し細りに入札が行われたとする ならば、その結果としては殆んどすべての場合、乙名は当該町内か ら選出さるるが常識であろう。然るに右の異動で東古川町乙名とな        つた宇野九郎兵衛は寛文八年以来この宝永五年迄小川町の乙名であ ったから、若し中野弥三次免職後の乙名として宇野九郎兵衛を入札 したとすれば、東古川町の町民達は遙か桜町の丘を越えた西側の小 川町の乙名を自らの乙名として選挙したことになる。今博多町の乙 名に新任された樺島六郎左衛門も延宝元年以来この年迄西上町の乙    名であったし、西古川町の乙名となった前園崎右衛門は慶長十九年        先祖が潭州から渡来以後この宝永五年迄恵美酒町に居住して乙名で もなかったのに之亦遙かな西古川町乙名となったのであり、これら の事実を見れば、後任乙名を当該町民が選んだとは思えない。 ﹁元       二二 之書付﹂は文化八年付の長崎町乙名各家についての履歴の書付であ るが、これを通覧するに勿論早くから乙名家として世襲し文化八年 迄続いた家も多いが、約半数の四十上位は二度三度と居町を替え、 いわば乙名としての転任の形を示している。さきの宇野九郎兵衛を 例にとれば、宇野家は寛文八年小川町乙名、宝永五年東古川町乙 名、寛政四年東中町乙名へ転じているのであって、これらの事実か らすれば、長崎の町乙名は当該町民の入札によったとの説をその儘 受け入れるわけに行かない。  町民の入札によらぬとすれば当然支配者側が町民の意向とは無関 係に乙名を任命することになるであろう。前述の如く、遠く掛った 町の乙名が転任し来る実例の多いことがそれを物語り、乙名の選任 は奉行の下、町年寄達が長崎の全体的規模において進めたと思われ る。年寄石工方書には諸役人の役替又は加役について評議して申上        げる様仰付けられたら町年寄共は年番年寄宅に集って相談するとあ り、さきに見た乙名の諸役、それに伴う後任補充とかは長崎奉行の 命をうけて町年寄達が協議し、それを奉行が仰付ける形式がとられ たと思われる。 註 ①ケンプエル 日本史﹁長崎市街の取締りについて﹂ ②原田伴彦 長崎︵中公新書︶四六頁。 ③元之書付︵九州大学九州文化研究施設蔵︶。 ④  〃    〃  。 ⑤  〃    〃  。 ⑥安永四年、年寄共勤方書︵藤文庫︶。 の条。

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四、組頭の選任法

 組頭、日行使も長崎町役人の系列に入らぬでないが、彼等は乙名 を助けて町政運用に当るに過ぎぬから、町年寄、乙名と並べるのは 当を失する嫌いがないでない。然し、町役人の選任法、換言すれば 町役人の選任に町民の意志が反映したか否かの問題からすれば、こ れら組頭、日行使の選任法も決して無視する訳に行かぬ。  先ず組頭であるが、これは古くは小町に二、三人、大町は四、五 人であったのを元禄十一年一町に三人宛とし、毎年二月交替で、そ         の時町民の入札が行われていたのを明和二年からは組頭役は一生勤 とし、二人制に改めた。従って明和以後は組頭が病死又は退役の節        に町人中の入札が行われたわけである。何れにせよ組頭選任の場合 には町民の入札が見られたことは諸文献が一致し、 ﹁幕府時代の長 崎﹂にも、組頭は﹁箇所持ト称シテ土地ヲ所有スル町人ノ投票推薦       スル所ナリ﹂と明記して疑問の余地はない。  ところでその入札であるが、藤文庫の﹁諾々組頭明キ之節之仕 来﹂ ︵寛政四年︶によれば、 ﹁愈々組頭明キ有之智者町人とも見込 を以入札にいたし札高のもの組頭に申付候仕来二而﹂とあって、投 票による最高点者がそのまま組頭になるかに見えるが、実は必ずし        も左様でなく、年寄夏鳶方書に  入札相披キ札高之者人物等相糺筆算吟味仕候速急之者心々仰過度 旨相伺書聞済之上年番宅療呼寄組頭申付候事  とある如く、単純に票数だけで決定するのではなく﹁入物等相糺 し﹂て決定するというから、そこに乙名、町年寄等の意向の介入す る余地を残していたわけである。この由を具体的に示す実例として 興味のあるのは藤文三蔵の﹁組頭入札一件諸書付﹂一袋である。こ れは文化十二年桶屋町組頭桜木市兵衛病死跡の入札に関する一件書   近世長崎の自治について︵小島︶ 類であるが、この時の桶屋町での入札の結果は次ぎの通りであっ た。   烏山 利平       十四票   永見吉郎次      十三票   力武吉兵衛       六票   竹下金四郎      三票

  満川藤兵衛         二票

  後藤⋮弥七       二面示  この場合、得票数からは第一位の鳥山利平が任命される筈のとこ ろ、事実は第三位の力武吉兵衛が組頭となった。それは何故かとい うに、桶屋町が共に畑町組を形成していた古町、今紺屋町、大井手 町、今博多町の乙名達が連名で年番寄寄宛にコ番札の烏山利平は 奉行所門番であり、二番札の永見吉郎次は現在の組頭松本町平次の 甥に当るから三番札の力武吉兵衛に仰付けられたい﹂との願書を提 出したからによる。五町組乙名が連名で右のような願書を提出した というのは、この組頭は直接には桶屋町乙名の補佐役とはいうも のの五町組乙名達は五町組の制によって桶屋町についても連帯責任 を負うたからで、年番町年寄はこの五金組乙名達の意向を入札の得 票数よりも重く見て願書通り力武吉兵衛を桜木市郎兵衛の後任組頭 に任命したのであった。入札といいながらも得票数が最後まで決定 力をもつものでなかったというなら、投票によって民意を知り民意 の帰するところに従うというよりも為政者側の参考資料を得るため        に入札せしめたというに止まる。犯科帳にも組頭入札に関する記載 が見えるが、それには﹁組頭は一生の間乙名に引続く役で篤実に取 締に当る者だから乙名だけの見立で町内の帰伏をせぬ場合があって は不可ないから前々から入札申付けている﹂とあり、本来は乙名の 意志により決定してもよいものの、若し乙名の見立に不十分な場合       厚田

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  長崎大学教育学部社会科学論叢 第一八号 があっては不可ないから入札させたというのであるから、あくまで も支配者側が組頭を任命するための参考資料としての入札であり、 従ってそれは町民が主体的に行ったのではなくて﹁入札申付け﹂ら れたに止まる。  町民の入札が最終的決定力をもたなかったにせよ、得票数が全然 無視されるということはあり得ないから、そして受用高三百目で終 身、乙名につぐ町役人ともなれば組頭の選挙にはかなり活澄な選挙 運動も行われたらしく、その一例として寛政四年万屋町の組頭入札       ⑥      ⑦ 一件が犯科帳に見え、この事件を契機として町年寄から町々への触 が出され、  頼候者は勿論被頼候ものも替申付候問以来堅相慎頼ケ問敷儀致間 敷候  と厳しく戒めており、文化十二年には各町の町民が連判して、組 頭の入札については頼まれるとか頼むとか、又は内々の申合などは         しない旨を誓約せしめられている。  以上を要するに、長崎町役人の中で町民の入札を経たことの明確 なのはこの組頭であったが、それは町政に民意を反映させるという よりは乙名や町年寄等組頭任命にかかわる者達の参考資料を提供す る程のものであった。従って前述の如く、最高得票者が必ずしも任 命さるると限らず、又その開票に当っては年番年寄方に月役乙名、 組合町乙名、居町乙名も同席し、そこで札高の者の人柄等を糺明 し、決定したら長崎奉行に届けを済まし、その上で年番年寄宅に於        いて組頭役を申渡し、又そこで居町乙名が立合い誓詞させると乙名 勤方書には記してある。組頭は乙名補佐の小役ながら任命に当って は乙名限りでなく町年寄が寧ろその中心となった訳で、従って組頭 の退役願も年番年寄宛提出したらしく、安永七年桶屋町の組頭松本 仁平次が退役願を出した際も、本人の﹁乍恐奉願口上書﹂に乙名の 二四         藤惣太夫が奥書をして年番年寄薬師寺久左衛門と久松土岐太郎宛に 出しておる。 註 ①乙名勤方之事︵九大、松木文庫︶。 ②安永四年、年寄共勤方書及び同、乙名勤方書︵藤文庫︶。 ③幕府時代の長崎 一六五頁。 ④安永四年の乙名勤方書︵藤文庫︶も略々同様である。 ⑤犯科帳、八六の八、文化七年本下町水田屋新兵衛一件の条。 ⑥犯科帳、五八ノ三四、寛政四年万屋町組頭明跡入札の件。  犯科帳、=○、無番号、天保三年出来鍛冶屋町組頭入札出入一  件。 ⑦寛政四年、喜々組頭キ骨節之仕来︵藤文庫︶。 ⑧亥三月、組頭入札二付御請書連判状︵藤文庫︶。 ⑨安永四年、乙名勤方書︵藤文庫︶。 ⑩丁年六月、組頭役任免願書 松本仁平次︵藤文庫︶。

五、日行使の選任法

 次ぎに日行使であるが、これは町乙名の配下にあり、組頭の下で 町内の事務に従うというのみで、詳細にその任務等について記録し たものは少なく、管見に入る限りでは藤文庫に天明六年の丸山、寄         合の﹁両町乙名組頭日行使勤方書控﹂に組頭、日行使の職分、これ らと乙名との関係が窺える位で、従って日行使の選任の如きに触れ たものは見当らず、一般には恐らくは乙名により随意任免されたと 解されているかと思われるが、寓目するだけの史料から日行使選任 の実態を追って見たいと思うのである。         先ず藤文庫に﹁明和八年、日行使清吉跡目相続願﹂と称する五通 があり、これは桶屋町日行使清吉なる者が病身により御暇戴きた

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く、その後任には姉響たる袋町の久次郎を仰付けられたいと願出 て、その通りに落着した一件に関する文書であるが、最初に明和八 年十一月清吉初め祖母等親類五人が連印で右の趣旨を認めた﹁乍恐 奉謝口上書﹂が桶屋町乙名藤惣太夫宛差出され、次ぎに十二月には 清吉からの惣太夫宛同前趣旨の﹁乍樺心願口上書﹂と今紺屋町、大 井手町、古町、今博多町の即ち桶屋町の所属する五三組合の日行使 達連名の惣太夫宛同様の﹁乍揮奉願口上書﹂が出された。藤惣太夫 はこれに同意したと見えて、年番年寄高木清右衛門、福田十郎右衛 門宛、清吉の姉畳久兵衛は﹁吟味耕牛法論三拾弐歳相成人柄実体町 用茂可相勤者御座候間﹂跡抱仰付けらるるようにと願出て、十二月 遂に清吉に暇申渡し、久兵衛に宿直申付けると決定発令されてい る。この事から思わるるのは町役人の最低地位で町の使丁にすぎぬ 日行使であるにも拘らず、それを縁故者に譲り渡したいとする長崎 町人の町役人観であり、又五漏出の同役日行使が清吉らのために支 持協力した共同意識であり、更には日行使ですら年番町年寄が最終 的には決定したのであって乙名の一存で任免が行われなかった点等 である。         藤文庫には又、日行使和平太一件と称する三十一通がある。これ は桶屋町日行使和平太なる者が度々の不行跡を重ねたその都度の願 書、証文の類から遂に病身を理由とする退役願に及ぶ各種の書付で あるが、ここにも日行使任免の一例が見られる。前述の日行使清吉 一件の場合、五町組の日行使達が清吉の願意達成のため助力したと 述べたが、和平太の場合に於いても、明和四年三月五心組の日行使 達が連名で藤惣太夫黒和平太のために彼の不行跡を詫びる一札を入 れており、明和五年五月十六日には桶屋町町人惣代諸富嘉平以下町 人中及び桶屋町の借屋惣代文次郎外借屋中からの﹁乍琿口上書﹂が 桶屋町乙名藤惣太夫宛差出された。これらは﹁和平太は連々の不身   近世長崎の自治について︵小島︶ 持で退役仰付けらるるのは尤千万であるが、これまで数代勤めて来 た並行使役でもあるし、町中一統気節に思うから是迄通り勤めさせ て貰い度い﹂というもので結局それは聞届けられて退役にはならな かった。ところが翌六年九月又々不行跡の廉で乙名より遠慮を申付 けられ、この度は車町組の一たる今博多町の乙名北島和嘉右衛門が 意見を加え一札を入れさせて日行使を続けさすことにした。  翌明和七年四月置なると和平太から乙名藤惣太夫宛﹁乍恐口上 書﹂が差出され、それには﹁近年病身になったので退役を許された く、その跡には十五年前養子に出していた弟政之助を呼び戻すか ら、この者に相続させて貰いたい﹂旨を記した。乙名惣太夫はこれ に対し、 ﹁政之助は幼年で日行使としての役に立つまでは助勤を置 かねばならず、従って日行使の給銀半分はその助勤に与えねばなら ぬ﹂と答えたので和平太は当惑し、 ﹁受用銀が減っては困るから再 び勤めたい﹂と恵美酒町乙名伊東弥七郎にその執りなしを頼んでい る。この問題には今下町の乙名野口仁左衛門も関係したらしく、惣 太夫より仁左衛門宛の返答書の控が遺っており、それには又付箋が あって八月二十六日乙名会所でこの件について野口仁左衛門が東上 町乙名黒川信八郎・今博多町乙名北島嘉右衛門と語り合ったことが 知れる。このようにして和平太一件は藤惣太夫を難渋せしめたが、 結局は﹁和平太は再勤の願書や神文をも提出したが、これは数度の ことで信用しかねる、受用銀半減は嵩むを得ないし、不行跡の重さ なる者をこれ以上許しては町中の取締上よろしくない﹂と再勤を拒 否してこの一件は落着した。日行使和平太一件についての記述が冗 長に適ぎた嫌なしとしないが、日行使関係の史料の乏しきままに敢 えて詳細に報告し、小役人ながらも長崎町役人選任の事情の一端に 連なるものと見て参考的に述べておいた。  以上乏しい史料にすぎないが、之を要するに日行使に至っては勿       二五

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  長崎大学教育学部社会科学論叢 第一八号 論入札などあろう筈もなく、恐らくは乙名の任意選任するところで あったと思われるが、然し単に当該乙名の専断でなく、乙名会所で も取り上げられ、最終的には年番年寄に達しての任免であったこと は組頭とかわらず、長崎の町役人は日行使の末に至るまで町年寄の 統制下にあったことが知れ、又その任免について五町組合の乙名や 日行使が深い関心をもったところには五町組合の連帯感や日行使の 仲間意識ともいうべきものが思われる。五町組合については嘗って     述べたから之を略するが、日行使の仲間意識というのは広く長崎の 地役人が惣町乙名、惣町組頭といわれ、その他何れも同等の地位に あり、受用高を同じくし、各種の加役を共同の立場で仰付けられて いたという現実に基くかと思われる。例えば藤文庫の﹁差出中御請 書之謁﹂というのは、唐船方雑用の請書で、精荷役立合乙名及び年 番乙名に宛てたものであるが、それには日行使連と記し、日行使全 員が連印しておる。 註 ①天明六年、両町乙名組頭日行使勤方書控︵藤文庫︶。 ②明和八年、日行使清吉跡目相続願︵藤文庫︶。 ③自明和二年至明和七年日行使和平太一件︵藤文庫︶。 ④拙稿、長崎五三組考︵長崎大学学芸学部社会科学論叢第12号︶。 ⑤寛政元年酉六月、差出申御請書慰事︵藤文庫︶。

六、結 語

 以上近世長崎市政の主流と見るべき町年寄以下の町役人について その選任法を概略見たわけであるが、その要点を摘記すれば、町年 寄は惣町乙名の選挙により、乙名は町民の入札で決っだとの説も あり、而もそれは長い近世を通じての事かの如く述べられている       二六 が、長崎における町役人の選挙は無いではなかったにせよ、町民の 意志を町政に反映させるという意味よりも支配者側の参考としたに 止まるとか、或はその初期に僅かに外注常行司で見られたにすぎ ず、少なくとも元禄以後は世襲による固定化か、支配者側からの任 命が見られたのみで、城下町とは違った町役人の選挙があったと か、従って民衆の声が町政に反映したとかはそのまま近世の長崎に は適用し難いと思われる。蓋し長崎は、一応港町であり経済都市で ありながらも、又、堺、大阪等とその出発時は同類であったにせよ 江戸幕府の権力下に掌握されて官営貿易の場となった近世において はむしろ城下町であり政治都市であるかの色彩を濃厚にしたからで あろう。少なくとも町役人選任の観点よりすれば長崎の町役人は        ﹁特権的門閥宿老の世襲的統制下の御用的自治機関の性格﹂をもった と原田氏のいわれる城下町のそれに類すると見た万がより妥当かと 思われる。長崎における特権的門閥宿老とは町年寄に当り、 ﹁年寄 共勤方書﹂によれば、町年寄は年番として﹁地下役人御暇養子之願 其外諸役人身分二掛北諸願﹂を受付けて奉行へ伺い又届けをし、 ﹁諸役人役替記者加役﹂等を奉行の仰付けにより同役と寄合談合す         る。又組頭、日行使等小役の者に跡役申渡しや誓詞をさせる等、明 らかに町役人は町年寄の統制下にあり、そして又、それらは御用的 性格を次ぎの如くにして示している。  先ず、町年寄そのものが﹁年寄共勤方書﹂をもち、これに従って ﹁相勤申候﹂と如何にも奉行の御用を弁ずる立場をとっているが、 乙名には﹁乙名勤方書﹂、組頭日行使の末にも前掲の﹁両町乙名組 頭日行使勤方書控﹂で見る如き勤方書があった。乙名は本来の任務 たる居町支配のほか年番や年行事を勤め、会所その他での加役をも 仰付かったから、藤文庫にもこれらに関する勤方書が多数遺されて いる。乙名勤方書、年番乙名勤方書、年行事勤方書、会所目付画聖

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書、会所元方目付勤方書、乙名加役勤方書、定式臨時加役勤候乙 名、寅年加役割、亥年加役割等がそれで乙名はかくの如く多くの勤 方書の類を所蔵し、それらの末尾には必ず﹁右勤方之趣乍恐書付差 上申候﹂と記して乙名の奉行に対する姿勢を示したのであるが、又 彼等が乙名に任ぜられる際は誓詞を提出したのであって、藤文庫に も﹁町乙名起請文前書﹂が二通遺っている。なおこの種のものとし て藤文庫に多いのは分限帳の類で、御役順、長崎役人分限帳、加役 料帳等がそれであるが、以上通覧すれば、町乙名は就任時には誓詞 を提出し、勤方書によって勤務内容を誓約し、常に職員録、俸給表 の類を家に蔵するというのであって、全く近代官僚を見る思いがあ り、いわば御用的町役入の性格濃厚で、かくの如きが長崎町役人で あったとすれば、町人たるを誇るというよりは役人たるを誇るであ ろうし、民主的傾斜を之に求めてもそれは得難いであろう。大阪の 惣年寄︵長崎の町年寄︶は一定の給料をうけぬ名誉職であり、町年 寄︵長崎の乙名︶も単に公役を免ぜらるるのみであったし、堺でも 町年寄は一軒役免除と袴摺料という程度の収入で、職業的町役人で       はなかったというが、長崎の町役人は受用高は役向によって定まっ ており加役によって加役料が出るとなれば、町役人の気風にも大阪 や堺のそれとは異なるものが見られるに違いない。 ﹁身分者町人二        候得共、御扶持被下候分ハ勿論受用取之分ハ商売之町人ト者品違﹂ うとの意識が長崎町役人等にあったといえば、彼等に商売の町人即 ち一般町民の意志の反映を期待することは困難であったといわねば なるまい。 ︵史学教室︶ 註 ①原田伴彦、日本封建制下の都市と社会、  ②安永四年、年寄共勤方書︵藤文庫︶。  ③豊田 武、日本の封建都市、一七八頁。  ④長崎市史 風俗篇、=頁。 近世長崎の自治について︵小島︶ 二七三頁。 二七

参照

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