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(1)

とマザリング

著者

川島 健

雑誌名

主流

80

ページ

1-23

発行年

2018-12-25

権利

同志社大学英文学会

URL

http://doi.org/10.14988/pa.2020.0000000186

(2)

福祉政策下の男性性

─『怒りを込めて振り返れ』とマザリング─

川 島   健

新しい男性性とマザリング

本稿は、福祉政策時代における男性性と母性という観点から、ジョン・オ ズ ボ ー ン(John Osborne) の『 怒 り を 込 め て 振 り 返 れ(Look Back in

Anger)』(1956)を再読する試みである。この劇作は戦後英国演劇の出発点

と評価されつつも、その露骨なセクシズムが批判の絶えない作品でもある。 ミシェレーヌ・ウォンドゥ(Michelene

Wandor)の『戦後英国演劇(Post-War British Drama: Looking Back in Gender)』(1987, 再版 2001)はその

先駆けともいえよう。主人公ジミーの暴力性をジェンダーの視点から読解す るその鋭利な洞察は、後のフェミニズム研究、社会学研究にも参照され た。1 ジミーのなかに一貫したセクシズムをみいだすそのような批評はしか し、作品の全体構成にたいする視点を少し欠いているように思える。ジミー の男性性は一貫性を欠き、揺らぎ続けている。 『怒りを込めて振り返れ』からジェンダーの複雑な様相を導き出すことが 本稿の目的となる。そのためにもジミーに苛立ちを与えるコンテクストを整 理することから始めたい。2 オズボーンは「怒れる若者たち」の代表的作家 とみなされる。その作品群の特徴としてアントニー・バージェス(Anthony Burgess)は階級移動を挙げている。

One of the big themes of Lucky Jim – and it is a theme to be found in many English novels, as well as plays (John Osborne s

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Look Back in Anger, for instance) of the nineteen-fi fties – is what

anthropologists call hypergamy. This means, literally, marrying above oneself , and one of the great aims of the post-war rebels is to conquer a woman who belongs to a higher social class than themselves. This is an aspect of the perennial class motif which bedevils British fi ction. (Burgess, 141)

「上昇婚(hypergamy)」はジョン・ブレイン(John Braine)の『最上階の 部 屋(Room at the Top)』(1959)、 キ ン グ ス リ ー・ エ イ ミ ス(Kingsley Amis)の『ラッキー・ジム(Lucky Jim)』(1954)など「怒れる若者たち」 の小説により文学的テーマとなった。そもそも文化人類学用語で、女性が格 下の男性と結婚することを避ける慣習を戒めるための概念が、1950 年代の 英国においては男性が格上の女性と結婚する傾向を表す言葉として使われ た。 戦後文学における上昇婚は成長物語と併せて考えた方がわかりやすい。 ジ ェ ド・ エ ス テ ィ(Jed Esty) は『 季 節 外 れ の 青 春(Unseasonable

Youth)』(2013)で、世紀末からモダニズムの小説が教養主義小説の規範か ら逸脱していることを指摘する。その屈折した成長物語が進歩という概念を 疑い、国家や帝国への批判となるという(Esty, 1-7)。このような議論は、 理論的枠組みの調整をしたうえではあるが、「怒れる若者たち」に適用する ことが可能だ。戦後英国は福祉国家体制の整備の時代と記憶される。1942 年に発表された通称 Beveridge Report は各種年金や保険制度を整備し、 すべての国民をその対象とすると提案した。「窮乏」、「疾病」、「無知」、「不 潔」、「怠惰」を 5 大悪と名指しその解消を目指したのだ(Beveridge, 6)。 教 育 法(Education Act)(1944)、 国 民 保 健 サ ー ビ ス(National Health Service)(1948)(以下、NHS と略す)の施行により、福祉国家体制は具現 化していく。国家が家族生活に介入し、福祉が拡大された母性として想像さ

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れていることをまずは確認しておこう。

このような福祉体制の確立により、母と子の関わりを軸に家族とコミュニ テ ィ が 再 編 成 さ れ て い く。 こ の 時 代 に D・ W・ ウ ィ ニ コ ッ ト(D. W. Winnicott) やジョン・ボウルビー(John Bowlby)によって基礎づけられる 児童心理学もその影響下にある。「どんなに悪い家庭環境の子どもでも、よ い施設環境の子ども」より問題が少ないというボウルビーは、家庭内の母子 関係を聖域とし、それを支える国家の役割を明確化する(Bowlby, 68)。子 育てこそが民主主義の唯一の基盤であると断言するウィニコットはそれに同 調 す る。 We know something of the reasons why this long and exacting task, the parents job of seeing their children through, is a joy worth doing; and in fact we believe that it provides the only real basis for society, and the only factory for the democratic tendency in a country s social system (Winnicott, 142)。社会の健全な発展のための家庭の根幹は 母子関係にあるというのがウィニコットの主張だ。母子関係を頂点に福祉政 策は制度設計されていく。戦後の出産奨励主義は経済、物資的支えとして母 性を後方支援する(Finch and Summerfi eld, 9)。ウィニコットの使用する 「マザリング」という概念は家庭内のケアだけでなく、それを支える政策の力 をも含蓄している。その意味で単なる母性とは区別されなければならない。3 母子関係を基盤に据える 1950 年代の福祉政策下では、新しい夫婦のかた ちが模索された。古いジェンダー規範に縛られた夫婦関係ではなく「チーム ワーク」と称されるような関係は「友人のような夫婦関係」(Finch and Summerfi eld, 7)ともいわれた。そのような関係に合致する「新しい男性」 という考えは、家事に積極的に参加することを推奨する。しかし一方、ウィ ニコットのマザリングの前提にあるのは母子の絆であり、父親はあくまでも それをサポートする役割に限定される(Winnicott, 5)。見逃せないのはそ れが男性性の限界を提示していることだ。

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obviously cannot come to terms with his mother by becoming a mother, in turn, and in due course. He has no alternative but to go as far as he can towards a consciousness of the mother s achievement. The development of motherliness as a quality in his character does not get far enough, and femininity in a man proves to be a side-track to the main issues. (Winnicott, 143)

ウィニコットは母親にはなれない男性の生物学的な問題を指摘しているわけ ではない。男性が母性を担おうとしても母親の代わりは務まらないという ジェンダーの問題を俎上に載せているのだ。子を育て養う家庭生活の本質と してマザリングを措定する児童心理学は、父親の存在を周縁化したのだ。 児童心理学の発達とマザリングの前景化は 20 世紀前半のイギリス社会を 特徴づけた男性的連帯と対照的な関係にある。『怒りを込めて振り返れ』の ジミーは 1930 年代を、男性的な絆が堅固だった時代として振り返る。それ はたとえばジョージ・オーウェル(George Orwell)が『ウィガン波止場へ の道(Road to Wigan Pier)』 (1937) を発表した時代だ。イングランド北部 工業地帯の荒廃を伝えるオーウェルは、それを無視してきたW・H・オーデ ン(W. H. Auden) な ど の 詩 人 た ち を the Nancy Poets (Orwell, 30-31) と呼ぶ。男性同性愛者の蔑称「ナンシー」を使用することで、労働者の困窮 を伝えるジャーナリズムを男の仕事と位置づける。国家が救えぬ貧困を救う のは男同士の連帯だというのだ。そのような関係を懐かしむジミーが暮らす 環境は、国家により設計されたマザリングによって整えられている。彼は男 性性の変容を目の当たりにしている。 「怒れる若者たち」が描くのは新しいジェンダー概念と対峙する男たちだ。 帝国主義の栄光は遠い過去となり、小さな国家に対応した福祉体制が整えら れつつある 1950 年代の英国で相対的な豊かさを享受して「怒れる若者たち」 は育った。経済的、社会的な地位よりも、女性の「征服(conquer)」によっ

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て成長の感覚を得る若者たちが夢中になるのが不倫だ。先に挙げたブレイン の『最上階の部屋』だけでなく、アラン・シリトー(Alan Sillitoe)の『土 曜の夜と日曜の朝(Saturday Night and Sunday Morning)』(1958)も独 身男と家庭を持つ女性との関係を描く。エイミスの『ラッキー・ジム』は不 倫ではないが、上司の家に保護される女性を奪う構図は不倫の変奏とみるこ とができよう。明るい家庭を建設するための「マザリング」の哲学にたいし て、家庭外恋愛は別の成長物語を提示する。家庭への裏切りには、相対的な 安定と母性中心の家庭生活への不信が混在している。 オズボーンもこのような変化に過剰なまでに敏感に反応した作家のひとり だ。『怒りを込めて振り返れ』での、下層中産階級であるジミーとインド帰 りの大佐の娘アリソンの格差婚も上昇婚の一種である。その設定を更新する のはやはり不倫だ。それに関しては後述するが、ここで触れておきたいのは その初演と同年に発表された「女のどこが間違っているのか( What s Gone Wrong with Women?)」(1956)と題されたオズボーンのエッセイだ。

[W]e are becoming dominated by female values, by the characteristic female indifference to anything but immediate, personal suffering (Osborne, Women , 256)。女性性は日常に従事し、革新性は男性の領域と いう彼のセクシズムが憂慮するのは、女性的価値の支配であり、男性の「女 性化」である。ウェンディ・ウェブスター(Wendy Webster)はオズボー ンにおいて、「新しい男性」と「古い男性」の相克があることに目をつける。 帝国主義時代の労働者階級のコミュニティに支えられている古い男性性への ノスタルジーがそこにはあるという(Webster, 205)。保護し/保護される 関係(マザリング)への両義的な感情は他の作家たちと共有されている。し かし、古き良き時代を取り戻せぬことの喪失感と未来を描けぬことの焦燥感 が『怒りを込めて振り返れ』を他の怒れる若者たちの作品から区別する。上 昇婚を果たしながらも、かつての階級社会を懐かしむような複雑な心性をジ ミーは示している。

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キッチンシンクの母性

『 怒 り を 込 め て 振 り 返 れ 』 が、 舞 台 に キ ッ チ ン が な い に も 関 わ ら ず、 kitchen sink drama と呼ばれる理由は、「キッチン」という場に込められ た家事空間の力学を問題にしているからだ。デビッド・シルベスター(David Sylvester)の 1954 年のエッセイに由来するこのカテゴリーはそもそもジョ ン・ブラットビィ(John Bratby)の絵画の社会主義リアリズム的特性を名 指すものであった。“The objects are piled up in a chaotic profusion which has something helpless about it, helpless because the painter seems to be saying, There s so much in the world, one can t hope to stop and organize it: there s only time to fi x it, to trap the whole mess as it is (Sylvester, 63)。ブラットビィが描くのは狭いフラットの室内だ。それは寝室、居間、 キッチンの分化を解消した多機能空間である。調理と食事の場を兼ねたキッ チンを背景に浮かび上がるのは消費物の氾濫である。溢れるモノはそれを収 納しきれぬ狭隘な空間を強調する。その背景には、配給の終了と福祉制度の 整備により相対的な豊かさを手に入れた若者たちが、モノを持て余してしま う現実がある。購入・消費するエネルギーにたいして、整理、整頓の欠如が 明らかになる。 『怒りを込めて振り返れ』の冒頭では、アイロンを黙々とかけるアリソン と新聞を散乱させ、紙面に読みふけるジミーとクリフが対比を形成してい る。4 家事の煩雑と日曜の午後の倦怠感が緊張感を高める。ここには生物学 的な母子関係はまだ顕在しない。しかしクリフの汚れたズボンを脱がし、ア イロンをかけてあげるアリソンのやさしさは「マザリング」とよべよう。 アリソンの you re like a child という言葉に、 Don t try and patronize me と返すジミーがそれを例証する(20)。問題はアリソンが完璧な「マザ リング」の主体ではないところにある。ジミーの苦しみに共感することの重

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要 性 を 認 識 し て い な が ら も、 It s those easy things that seem to be so impossible with us (24)と嘆息するアリソンはそれを諦めている。母性の 重要性を認識しながらも、それを表現できないジレンマに彼女は陥ってい る。アリソンには母性が重荷なのだ。彼女のアイロンがけは義務感によるも のであり、それゆえ倦怠感を生むことになる。ジミーはクリフとの戯れで女 性たちのアイロンがけを何度も妨害する(22, 79)。彼もまた母性なき家事 への苛立ちを隠さない。 先述した通りこれは不倫劇だ。アリソンの友人である女優のヘレナが巡業 のため、数日の宿を乞う。ジミーとアリソンの夫婦の住まいにクリフとヘレ ナが同居するいびつな四角関係は、アリソンの妊娠発覚と家出(里帰り)に よって終止符を打つ。しかしその不在を補うようにヘレナが代理妻の座に収 まる。その家庭内不倫は、妻にも半ば承認されている奇妙な関係だが、それ 以上に奇妙なのは、ヘレナがより強い母性を体現している点だ。それは第二 幕冒頭のト書きに明示されている。

Her sense of matriarchal authority makes most men who meet her anxious, not only to please but impress, as if she were the gracious representative of visiting royalty. In this case, the royalty of that kind middle-class womanhood, which is so eminently secure in its divine rights, that it can afford to tolerate the parliament, and seasonably free assembly of its menfolk. (36)

ヘレナは母性というより「母権的権威(matriarchal authority)」としてこ の一室に君臨する。議会や自由な会合を許可し、尊敬と敬意を集める、寛容 な権力の象徴としてのヘレナは古きよき時代の母権性を思い起こさせること をオズボーンは明記する。しかし、生物学的/法的に母親でも妻でもないヘ レナがここで示す母権性はあくまでもフィクションでしかない。そして皮肉

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なのは、そのような母権性が甲斐甲斐しくマザリングに従事することだ。強 い女ヘレナもアリソンと同じように家事空間に従属してしまう。

第三幕は第一幕と同様、日曜の夕方の気怠い場面で始まる。新聞を読む男 ふたりは同じ姿勢にあり、アイロン台もある。幕開けと同じ構図が再現され て い る が、 微 妙 な 違 い が ト 書 き に 指 示 さ れ て い る。“Alison’s personal

belongings, such as her make-up things on the dressing table, for example, have been replaced by Helena’s”(73)。決して広くない空間を自分のもので

専横するヘレナの戦略がさりげなく示唆される。女性が化粧品で存在感を示 すことはまた消費物の豊かさを表している。その一方でアリソンとヘレナの 背後にある洗濯物の山は、家事の必要を相も変わらず訴えている。ブラット ビィの描くキッチンシンクとの類似性は明らかだ。アリソンはその消耗品と ともに姿を消すが、その機能はヘレナによって滞りなく補完されている。家 政の機能は必要とされているが、それを担うのはどの女でも構わない。流産 し戻ってきたアリソンもまた再びヘレナと入れ代わる。 『怒りを込めて振り返れ』は母親たちを巡る物語といっても過言ではない。 アリソンとヘレナのほか、ジミーの親友ヒューの母親タナー夫人、ジミー自 身の母親、アリソンの母親への言及がある。それぞれの「母親」にたいして ジミーは激しい愛憎を示す。実の母親とは疎遠なジミーが、全く血縁のない タナー夫人に示す執着は、彼の母性への願望の複雑さを物語る。母性は代替 可能だ。それは空虚な記号として、常にシニフィエを待っている。アリソン とヘレナはそこにやってきて、「母親」という役割を交互に担っているだけ だ。あらゆる女性を母親化するその空間そのものが母性を帯びているかのよ うだ。その中心にいるようにみえるジミーがフェミニズムから批判を受ける のは当然であろう。終幕の場面で、ジミーとの子を流産し、傷だらけで戻っ てきたアリソンが彼と再び結ばれる。ウォンドゥはここを問題にする。 It is as if he had to destroy (and certainly glory in the destruction of) the possibility of motherhood in her in order to gain her as a mother for

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himself (Wandor, 46)。アリソンの流産はジミーが言外に望んだことであ り、男が言葉にせぬ欲望を女が実現してしまったことになる。アリソンは母 になることを諦め、結果的にジミーが彼女の母性を独占することをウォン ドゥは批判する。しかしこの劇作ではむしろ生物学的な母性に収斂しえぬ母 親業が問題となっている。そして女性たちをそこに押し込めてしまう力とし て「マザリング」が働いている。

プラカードとシャツ

『怒りを込めて振り返れ』の女性たちを描くキーワードのひとつは get used to だ。身分違いのアリソンが狭いフラットで「マザリング」に勤しむ 様子をみてジミーは Trouble is you get used to people (30)と皮肉交じり にいう。一方ヘレナはジミーの戯言を聞いたあと次のようにいう。 I m only beginning to get used to him (76)。家事が女たちの「母親」的機能 を養う一方、彼女たちの順応性はジミーの馴致しえぬ獣性を引き立たせる。 ジミーの暴力性が最も激しさを帯びるのが、アリソン、ヘレナ、クリフと囲 む食卓の場面であることは意味深い。食事がテーブルに並べられ、男たちと 女たちのあいだに緊張感が走り(46)、それがジミーの暴力性に火を点ける。 この場面のト書きを抜き出したルック・ジルマン(Luc Gilleman)の目的 はジミーの獣性を露わにすることだ(Gilleman, 60-62).“He roars with

laugher” (48); “His rage mounting within” (49); “He can smell blood again”

(53); “His axe-swinging bravado has vanished, and his voice crumples in

disabled rage” (56)。ト書きだけでもジミーの感情の高まりが手に取るよう

にわかる。しかしそのように表現されるジミーの獣性が食卓を背景にしてい る効果を見過ごすわけにはいかない。彼の獣性は女性たちに向けられるとと もに、目の前に食事として現れる豊かさにたいしても向けられている。そこ での彼の台詞をみてみよう。

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You ll end up like one of those chocolate meringues my wife is so fond of. My wife – that s the one on the tom-toms behind me. Sweet and sticky on the outside, and sink your teeth in it, (savouring every word) inside, all white, messy and disgusting. (Offering teapot sweetly to Helena.) Tea? (47)

戦中はじまった配給制度は戦後も続き、砂糖や紅茶の配給が終ったのは 1952 年だった(Howarth, 50-51)。『怒りを込めて振り返れ』初演時 1956 年 において、スウィーツは新たに享受されはじめた贅沢であった。また「チョ コレート・メレンゲ」の茶色い外観と白い中身の対照は、下層中産階級の男 と結婚しながらも、白人上流階級という出自を抜け出せないアリソンを揶揄 する。その言葉を「味わう(savouring)」ように発し、ヘレナに「優しく (sweetly)」お茶をすすめるジミーのパフォーマンスは、「メレンゲ」が体現 する甘美な贅沢へのアイロニカルな態度を表している。 「母親」的機能を養う家事空間とそこで供される嗜好品にたいする苛立ち。 両者のあいだの緊張感が『怒りを込めて振り返れ』の基調となる。1989 年 のテレビドラマ版制作を振り返り、オズボーンはジミーとアリソンの関係を 次のように説明する。

When Emma Thompson played Alison in Judi Dench s 1989 revival, I tried to explain that it was she, not her husband, who was the most deadly bully. Her silence and her obdurate withdrawal were impregnable. The ironing board was not the plaything of her submission, but the bludgeon and shield which were impenetrable to all Jimmy s appeals to desperate oratory (Osborne, Introduction , xii).

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家庭用アイロンは戦後社会の豊かさの象徴だ。それはアリソンに家事を与え るとともに、ジミーとのコミュニケーションを阻害してしまう道具でもあ る。アイロン台は主婦空間の砦であるとともに、ジミーとアリソンを隔てる 境界でもある。 劇作家のデビッド・エドガー(David Edger)は『怒りを込めて振り返れ』 の男たちの不幸を「革命のプラカードやマニフェストではなく清潔なシャツ を渡されてしまうこと」(Edger, 9)と表す。ジミーの長広舌は時に政治的 メッセージを帯びるが、「公」の場を奪われた言葉は他の登場人物から顰蹙 を買い、観客から失笑を招く。屋根裏部屋のフラットが唯一の舞台であるジ ミーの発話は、過激になればなるほど的外れに響く。シャツとアイロンが表 す相対的な豊かさのなかで、彼の政治的言説は荒唐無稽にも聞こえる。 アリソンのアイロンがけを背景にしたとき、ジミーとクリフが読みふける 新聞は外部の世界を室内に挿入するチャンネルとして機能する。例えば水爆 や階級に関するブロムリーの主教のエッセイを読むジミーは、クリフやアリ ソンに議論を吹っ掛けるが、それは深まることはない。ジミーがアリソンを 攻撃しはじめるのはそんなときだ。 Well, she can talk, can t she? You can talk, can t you? You can express an opinion. Or does the White Woman s burden make it impossible to think? (7)。「白人女性の義務」は、ラドヤー ド・キップリング(Rudyard Kipling)の「白人男性の義務( The White Man's Burden)」 (1899)に由来する。未開の非白人国家に文明を授ける責 務を神聖化するその詩は、米比戦争におけるアメリカの侵略行為を道徳的に 正 当 化 す る。 全 7 ス タ ン ザ の 冒 頭 は す べ て Take up the White Man's burden で始まり、白人男性の戦いを鼓舞する(Kipling, 528-29)。ジミー のいう「白人女性の義務」とはアイロンがけに代表される家政のことだ。し かし人種間侵略戦争に結びつけられたその義務は単なる家事の遂行ではな い。アイロンをかけ続けるヘレナに I m sick of seeing you behind that

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damned ironing board! と い っ た あ と、 I think you should have laid a Union Jack over it [the ironing board](84)と付け加える。家事の休止を 「国葬」の比喩で冗談にするジミーの言葉は皮肉以上のニュアンスを含んで いる。アイロンがけは「マザリング」の一部であり、福祉政策の家庭内表現 なのだ。 テクストを精査することにより、シャツとアイロンの巧妙な効果を明かす ことができる。クリフの汚れたシャツを洗い、乾かそうとするヘレナだが、 居間には干す場がないという。そしてクリフに自分の部屋にシャツを干すよ うに指南する。その場面に前後してクリフは家を出ることをジミーにそっと 告げ、男の友情は家庭の安逸の犠牲になるというジミーの嘆息をもたらして いた(83)。ここでは家事空間から駆逐される男性性がシャツによって表さ れている。同じような意味で、アリソンの到着に押し出されるようにしてヘ レナが去る場面での、ジミーの言動は注目に値する。 And if you can t bear the thought (takes up a dress on a hanger) of messing up your nice, clean soul, (crossing back to her) you d better give up the whole idea of life, and become a saint. (Push the dress in her arms.) (92)。汚れることを厭わぬ 生き方を唱え、それができぬヘレナを非難するジミーは、退室を促す際に清 潔な洋服を押し付ける。男性的な泥臭さの哲学が清廉を求める心性を排除す るのだ。 アイロンとシャツに象徴される「マザリング」は、5 大悪の撲滅を主張す る「ベヴァリッジ・レポート」のメッセージと響き合う。一方男たちが持つ べき「プラカード」にはどのようなスローガンが書かれていただろうか。 『怒りを込めて振り返れ』の初演の 1956 年は激動の年と記憶されている。2 月にはフルシチョフのスターリン批判があり、6 月はポーランドにはポズナ ン暴動、10 月にはハンガリー動乱とスエズ危機が起こる。これらの事件に より、社会主義の約束する未来が裏切られ、左翼的言説が拠り所を失う。ス チュワート・ホール(Stuart Hall)がニューレフト勃興期を回顧した文章

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がある。そこに綴られるのは、1956 年以降の英国社会主義の彷徨いであ る。5 オ ズ ボ ー ン 自 身 も 左 翼 言 説 の 空 洞 化 を 当 時 か ら 意 識 し て い た。

Socialism is the only political system which believes in human beings. Socialism is about people living together, and the sooner the leaders of the Labour party stop arguing about sugar and cement and wake up to the fact the better ( Fighting , 190)。労働党は生活の即物的(資本主義的) 豊かさではなく、本来の社会主義の目的を取り戻すべきという。前者が女性 的価値であり、後者が男性の領域だというオズボーンのセクシズムがここに も潜んでいる。しかし社会主義の本来の目的がなんなのか、彼の言葉は明確 にしない。

労働者コミュニティの男性性

社会主義の目的喪失は、明確な対象を持たないジミーの怒りに反映してい る。その言葉は空回りし、過激さを増していく。彼の言葉が空転するたび に、そこが家政に支配される空間であることを示される。清潔な服と温かい 茶を楽しむ余裕を持つジミーは目にみえる豊かさを超える価値を語ることが できない。 先述したように『怒りを込めて振り返れ』に「母」は複数存在する。ジ ミーとアリソンを仲たがいさせるのが、タナー夫人の臨終の知らせであるこ とは象徴的だ(60)。アリソンはすでに妊娠しているが、それを知らないジ ミーはタナー夫人の臨終の看取りに一緒に来ない彼女をなじる。帰宅後その 看取りの親密さをジミーは強調する。 She [Mrs Tanner] was alone, and I was the only one with her(72)。タナー夫人の死を語るジミーはヘレナか らアリソンの妊娠を告げられる。生と死の対比はジェンダーと家族の問題に 光をあてる。妻の妊娠という事実に動揺しながらも、ヘレナがそのタイミン グで告知したことを「女の浅知恵(female wisdom)」(72)と退けるとき、

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ジミーは血を分けた子の誕生(家族の拡大)を女の領域、そして他人の死の 看取りを男の領域とする。 「怒れる若者たち」が享受する相対的な豊かさは福祉政策の賜物であり、 その象徴として NHS が 1948 年に設立されたことはすでに本稿冒頭で触れ ている。しかし死者を看取るための近代的ホスピスの整備は 1960 年代後半 を待たなければならない。1957 年から 58 年にかけて行われた調査は、NHS 設立以降に浮上したターミナルケアの問題を取り上げ、 Homes for the Dying の資源欠乏を問題視する(Hughes, 9-10)。NHS が地域コミュニティ を崩壊させ、特に家庭で臨終を迎える幸福が稀になったという逆説があるの だ(Seymour and Clark, 71)。ジミーの看取りへの固執はこのような状況 を背景に考えなければならない。彼は、家族と福祉のネットワークから零れ たものを救いだす行為を英雄化し、そこに男性性の支えを求める。

ジミーの男性性の淵源は、スペイン内戦帰りの父親の孤独な死にある。父 を看取った 10 歳時の経験がジミーに大義を与えた。スペイン内戦が理念の ための戦いであるならば(Hobsbawm, 160)、ジミーの父の死はその理念の 喪失を意味する。 He would talk to me for hours, pouring out all that was left of his life to one, lonely, bewildered little boy, who could barely understand half of what he said. All he could feel was the despair and the bitterness, the sweet, sickly smell of a dying man(56)。父親が死に際に 息子に伝えようとした戦争の記憶は、正確に伝えられずに消えてしまった。 ジミーが父の記憶を伝えるために縋るのは言葉ではなく感覚だ。「苦く( bitterness)」、「甘い(sweet)」、「病的な匂い(sickly smell)」と味覚、嗅 覚の言語で語られることをここでは銘記しておこう。 父の臨終のとき、ジミーの母親はどうしていたのか。「マイノリティに関 心があった」とはいうものの、その対象は「賢く、スマートなものに限定さ れていた」(55-56)という実の母親の福祉への関心は、スペイン内戦で傷つ いた夫への憐憫に結びつかなかった。タナー夫人の際と同様に、「看取り」

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が男の営為とされていることが重要だ。またクリフが別れを告げたときの、 ジミーの惜別は「失われた、勇壮な大義」(83)を嘆くものであったが、そ れが女性を排した男性的親密さの中で発せられたこと、そして分節化しえぬ 感傷が感覚的言語によって伝えられたことを確認しておこう。 女性たちへの辛辣な態度とは対照的に、ジミーは父親世代の男性たちには 厳しくなりきれないところがある。格差婚である以上、ジミーの階級コンプ レックスは、植民地を治める大佐であったアリソンの父に向けられるはずだ が、彼にたいしても皮肉交じりが、共感を示している。 I can understand how her Daddy must have felt when he came back from India, after all those years away. The old Edwardian brigade do make their brief little world look pretty tempting (13)。アリソンの父を語るジミーの言葉は階 級コンプレックスではなく、共感と同情を表す。このように世代と階級を越 えた連帯を、ウェブスターは 1910 年代から 30 年代の戦争や帝国主義によっ て醸成された、労働者コミュニティの男性性のものと指摘する(Webster, 185)。それは福祉制度施行以前、国家において安定が保証されていなかった 時代に構築されたジェンダーである。

優美な男性性

『怒りを込めて振り返れ』に限らず、オズボーンの作品はノスタルジーを 基調とする。それは男のものであり、その憂いは英国の不安を代弁すると考 える評者がいる(Langford, 251; Kent, 325)。社会学的なアプローチが描く ジミーは、政治や社会への気負いを彼に認める。そしてそれは女性を家事空 間に押し込めるセクシズムに通じる。その点をウォンドゥやケントらのフェ ミニストは批判するわけだ。しかしすでに指摘してきたように、ジミーはむ しろそのような家事空間から女性たちを引きずり出そうとしている。そこで 展開されるジェンダーの諸相はもう少し複雑だ。終盤流産したアリソンが

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戻って来る。そこから導かれる、ジミーとアリソンの和解がウォンドゥから 批判されたことはすでに述べた。しかし、この場面はそれまで顕在しなかっ たジミーの側面を明らかにする。 久々の再会に苛立つジミーは鳴り響く教会のベルの音を罵り、タナー夫人 の葬式に花を送らなかったとアリソンを責める(92-93)。宗教的伝統(教会 のベル)とその権威に寄り添えなかった存在(タナー夫人)が対比される。 ジミーの関心は社会的不正義の摘発へと拡大していく。 The injustice of it is almost perfect! The wrong people going hungry, the wrong people being loved, the wrong people dying (93)。これは社会保障を約束しながらも、不 公平が温存されている現状への嘆きだ。アリソンの薄情さへの糾弾と福祉制 度の不均衡の訴えが同居する彼の議論は破綻しているのだが、一筋縄ではい かないのが、自らのロジックの不備をジミー自身が認識している点だ。不平 等への怒りが叫びとなって破裂する際の、ジミーの微かな惑いを見逃しては ならない。 Was I really wrong to believe that there s a – kind of burning virility of mind and spirit that looks for something as powerful as itself? The heaviest, strongest creatures in this world seem to be the loneliest (93)。「精神と魂の燃えるような男らしさ」など力強い詩的メッセージと、聞 き 手 に 承 認 を 乞 う よ う な 弱 々 し い 反 語 が 対 比 的 だ。 男 性 性(burning virility)への希求は女たちの許しを待っている。しかもその男性性は、「看 取り」がもたらすような弱いものへの連帯、帝国主義のエトスが育んだ労働 者たちの連帯ではない。自立と独立を可能にするこの男らしさはその代償と しての孤独を甘受する。階級的連帯ではなく、独りぼっちの英雄的力が頼み にされる。 この男性性は独自の淵源を持っている。そこでジミーのノスタルジーは戦 争(あるいは父)の記憶ではなく、アリソンに一目惚れしたときの思い出に 縋る。

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Do you remember that fi rst night I saw you at that grisly party? You didn t really notice me, but I was watching you all the evening. You seem to have a wonderful relaxation of spirit. I knew that was what I wanted. You ve got to be really brawny to have that kind of strength – the strength of relax. (93)

パーティで美しい女性を見つめるジミーの一方的な視線。男の視線を支配す るアリソンを支える力は「頑強さ(brawny)」と称される。それは先の「男 性性」の言い換えだ。アリソンの優美は腐敗した環境(that grisly party) からの独立分離を示している。それを可能にしているのは「頑強さ」と呼ば れる「男性性」である。ジミーはアリソンのリラックスした優雅さのなかに 男性的力強さをみいだしている。ここにはジミーを上昇婚へと導く格差への コンプレックスがみうけられる。

結婚後、ジミーはそのような優美さへの幻滅をおぼえたことを告白する。 I discovered that it wasn t relaxation at all. In order to relax, you ve got to sweat your guts out (93)。額に汗することの大切さを訴える言葉は労働 者の階級的連帯を前景化する。ここで「リラックス」の意味が変わり、労働 後の余暇を連想させるようになる。階級コンプレックスがジミーのアリソン との上昇婚を動機づけるが、結婚後それは労働者たちとの連帯への思慕に解 消される。ジミーの求める「男性性」は、女性性(アリソン)と男性性(労 働者)、独立性と連帯のアマルガムである。それらはみな福祉政策と「マザ リング」によって失われたとジミーは認識していることが重要だ。失われた ものがすべて男性性のアウラを帯びるのだ。その代償として相対的な豊かさ が獲得された時代、真の「リラックス」はなんなのか、彼のノスタルジーは 問いかけている。

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リスさんとクマさんごっこ

オズボーンは台詞の発声方法にこだわる作家だった。『怒りを込めて振り 返れ』でもジミーの台詞回しにアドバイスを残している。 Indeed, Jimmy Porter s inaccurately named tirades should be approached as arias, and require the most adroit handling, delicacy of delivery, invention and timing (Osborne, Introduction , x-xi)。 ジ ミ ー の 台 詞 は 攻 撃 的 演 説 (tirades)ではなく、抒情的独唱(arias)であるべきという指南だ。『怒り を込めて振り返れ』の続編『デジャヴュ(Déjàvu)』(1992)でも再度それ は強調される。ジミーのサディズムや反フェミニズムは誤解であることとと もに、その語りの基調は「アリア」であることが念を押される。「残忍で高 圧的な世界に常に駆り立てられている」ジミーの「感じやすい」性格は「マ イルドなしゃべり方」で最適に表現されるという( Author s Note , 279-80)。周囲のさまざまな力に容易に左右されるジミーの個性は主体的という よりも受動的だ。ジミー自身の台詞もそれを認めている。看取りを英雄化す る言葉がアリソンに響かないことに激高したジミーは次のようにいう。 One of us is crazy. One of us is mean and stupid and crazy. Which is it? Is it me, standing here like a hysterical girl, hardly able to get my words out? Or is it her? (57)。看取りと家事空間の分水嶺をジミーの言葉は越えるこ とができない。その境界で空転する言葉を吐き続ける自らを「ヒステリーの 女の子」と称するのだ。 彼に潜む受動性はその獣性や衝動性、暴力性と対置されるものではない。 上記の言葉も、弱さの吐露と暴力的な発話の綯い交ぜから出てくるものだ。 ジミーの受動性はその獣性の延長線上にある。彼の野蛮な言動は、安逸な家 事空間を脅かすものではなく、むしろそこから供される栄養を充分に得ての ものなのだ。 スチュワート・ホールがいち早く指摘したように、ジミーの言葉は政治的

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な問題と家政的な問題を並置する( Beyond , 217)。しかしそのような並置 が強調するのは、前者を語るときの言葉の淀みだ。福祉のもたらす安逸を批 判するときは雄弁だが、その外側にある問題に言及するときは言葉に詰ま る。父の死を看取ったジミーの経験(All he could feel was the despair and the bitterness, the sweet, sickly smell of a dying man)が味覚の言葉に よって伝えられていたことを思い出そう。「失われた、勇壮な大義」を語る 彼の弁舌は家庭の修辞学に支えられている。それはジミー個人の欠点という よりは狭いフラットの内部に社会的歪みが凝縮された時代の言説だというべ きであろう。

最後の和解の場面は、オズボーン最大の理解者であったケネス・タイナン (Kenneth Tynan)も the painful whimsy と難じるほど評判がよくない (Tynan, 113)。しかし、ジミーとアリソンが泣き崩れるように手を取り合 い逃げこむ「リスさんとクマさんごっこ」は、失われた大義と安逸な現在の 断絶を乗り越えるための虚構世界であり、戯曲構成上必要不可欠なパート だ。それはジミーの言葉で始まる。 We ll be together in our bear s cave, and our squirrel s drey, and we ll live on honey, and nuts – lots and lots of nuts (94)。この絵本のような世界が社会主義リアリズムと折り合いが悪 いのは当然だ。しかし食物と住居への言及がその世界を作り上げていること に着目しておこう。それは福祉制度が保証する安定と安逸のデフォルメであ る。衣食住があることの自明性を疑わない「リスさんとクマさんごっこ」の 世界ではじめて、ジミーは獣性をそぎ落とし、アリソンと折り合いをつける ことができる。それは豊かさに甘えざるを得ない自意識を麻痺させる枠組み でもある。 前節で述べたとおり、劇終盤、ジミーの言葉は「リラックス」をめぐる。 それは意外なところに見いだされる。「リスさんとクマさんごっこ」の前に 加えられたト書は次のようにある。“She relaxes suddenly. He looks down

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(94)。アリソンに「リラックス」をもたらすジミーの仕草はこれまでにない 疲労感を湛えている。フェミニズムからみればこの場面はジミーが母性を独 占しているようにみえるかもしれない。しかしこの戯曲で母性は個人に属す るものではなく、場が要請する役割であることを思い出そう。「リスさんと クマさんごっこ」は、ジミーの「マザリング」によってはじめられる。ここ でジミーは郷愁の対象であった男性性を諦め、求め続けた母性を自ら演じ実 現してしまう。彼の「優しいアイロニー」はアリソンに向けられているとい うより、虚構の設定で、デフォルメされたかたちでしか安逸を享受できない 自分自身にも向けられている。

最後に

『怒りを込めて振り返れ』が戦後福祉政策によってもたらされた相対的な 豊かさを前提にしていることは、「怒れる若者たち」の小説と同じである。 しかし自嘲的に階級上昇を目指す後者の展開とは異なり、保護し/保護され る関係を攪乱するその戯曲の構成とレトリックは、戦後の安定という状況に より深い洞察を与えている。 確かに「マザリング」にたいする違和感と女性嫌悪的言葉が混然一体と なっている幣はある。公的問題と私的問題の区別ができない作者の悪癖が反 映しているのだが、それを批判する以前に政策モデルとして母子関係が措定 されてしまい、それが様々な領域(例えば児童心理学)にまで派生してし まったことを、そして「マザリング」が普遍的なものとして想像されていた ことを問題にしなければならない。それは公的権力の家庭への介入ともいえ る事態だが、それが約束する相対的な豊かさは、あらかじめ批判の芽を摘み 取っていた。オズボーンが描くのは、安定を批判する言葉がその安定によっ て供される養分を啜る矛盾であった。ジミーの怒りは左翼言説が空洞化した 1956 年の状況を余すところなく表している。資本主義的な豊かさとは区別

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されるべき社会主義的豊かさとはなんなのか。家庭の安定を享受しながら、 そのような問いを発することは許されるのか。このような自意識がジミーの 言葉を空回りさせる。ジミーの獣性、女性嫌悪をそれだけで人格批判の材料 にすることはできない。その背景として男性性の失墜と母性の虚構があるか らだ。 20 世紀中葉の福祉政策は社会主義を破綻させた。ユートピアにもみえる その時代に要請される男性性の困難をオズボーンはみていたのだ。『怒りを 込めて振り返れ』で描かれたのは、新たな家族像、夫婦関係が構築される社 会と施政の矛盾を担わされたジミーが不可避的に野蛮に振舞ってしまうさま だ。今わたしたちに必要なのは、ジミーを取り巻くジェンダーの力学の変化 を分析することだ。福祉政策(マザリング)のもと、「男」はどのように構 成されるのか。本稿はその問いに答える試みの一端である。 註

1 ワォンドゥの影響を受けたフェミニズム研究としては Susan Kingsley Kent,

Gender and Power in Britain, 1640-1990 (London: Routledge, 1999)を参照。

その他、「歴史修正主義」的解釈としては Dan Rebellato, 1956 and All That:

The Making of Modern British Drama (London: Routledge, 1999)が代表作。

ク イ ア 的 な 批 判 と し て は Mark Ravenhill, Looking Back Warily at a Heterosexual Classic , The New York Times (17 Oct. 1999)を参照。

2 こ の 観 点 の 先 行 研 究 と し て は Alice Ferrebe, Already Seen? Look Back in

Anger, Déjàvu, and Postmodern Historiography , Yearbook of English Studies,

no. 42 (2012)を参照。

3 この問題に関しては遠藤不比人「「母性愛」の精神分析――ボウルビズムのイデ

オロギーをめぐって」(『愛と戦いのイギリス文化史 1951-2010 年』川端康雄他編、

慶応義塾大学出版会、2011 年)から示唆をうけた。

4 John Osborne, Plays 1 (London: Faber, 1996), 5-6. 以後本作からの引用は、本 文中に頁数を挿入して示す。

5 Stuart Hall, Life and Times of the First New Left , New Left Review, no. 61 (Jan-Feb., 2010)を参照。

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遠藤不比人.「「母性愛」の精神分析──ボウルビズムのイデオロギーをめぐって」. 『愛と戦いのイギリス文化史 1951-2010 年』川端康雄他編、慶応義塾大学出版会、

参照

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○安井会長 ありがとうございました。.