• 検索結果がありません。

長田穂波日記1936年(3) : 療養所のなかの生の痕跡

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "長田穂波日記1936年(3) : 療養所のなかの生の痕跡"

Copied!
22
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

滋賀大学経済学部研究年報Vol.15  2008 一81一

〈資料紹介〉

長田穂波日記1936年(3)1)

一療養所のなかの生の痕跡一

長田穂波日記1936年(1)  『彦根論叢』第370号(2008年1月)掲載 長田穂波日記1936年(2)2) 『彦根論叢』第373号(2008年6月)掲載

阿 部安 成

皿.療養者の造形  高松駅まえにあるサンポート高松は,四国一 といわれる高層ビルで,春先には青松園のある 大島からもその高さが目立ってみえた。空気 の澄んだ冬にだけみえるかとおもっていたら, 2008年の真夏にも,大島からそれがくっきりと みえた。在園者も今年の夏は空気が澄んでいる というほどに,連日35℃近くの最高気温となっ た猛暑にもかかわらず,瀬戸内海の風は肌にも 目にもすっきりと心地よかった。  サンポート高松の30階には展望ロビーがあ り,そこから大島がみえる。指呼の間とも眼下 にもと形容できるほどの近さにおどろく。男木 島,女木島のむこう,小豆島のてまえに,大島 はその瓢のようだといわれるかたちをみせてい る。だがそれも,この高さからみるからであっ て,こうした高層ビルのない穂波の時代にひと が立つ地面の高さからでは,大島もこうはみえ なかったことだろう。 1)本稿は2002−2004年度科学研究費補助金基盤研 究(C)(2)「ハンセン病者についての歴史社会学研 究」と,2008年度財団法人福武学術文化振興財団 瀬戸内海文化・研究活動支援調査・研究助成「国 立療養所大島青松園(香川県高松市)における知の 集積と表明についての文化研究」の成果の一部で ある。 2)資料紹介の第1回を「1.オサダ・ホナミ」の 章から始めたところ,第2回では章立てを忘れてし  まった。いまさらではあるが,「ll.穂波の赤ペン」  と章題を追記する。 写真1 大島近景

難灘激暑

 穂波日記の1936年6月15日条に,「庵治浦に水 泳場の支度かな」と穂波が詠んだとおり,そう 高いところにゆかずとも大島からは,庵治や高 松がみえた。丘のうえからの眺めも,よい。  隣りの島がハツキリと浮き上って見えるやうに  成って居る。/澄み切った大空に,南に五剣,  北に小豆島が聲えて高い。丘に登って眺めると,  海面を彩る潮の流れが筋を現はして美しい。岬  の近くに孤舟点々として,釣を垂れて居るも風  情である。(「編輯後記」『霊交』第191号,1934  年10月10日。神) との,眺望だ。  かつては発動機船で40∼50分くらいかかっ た距離も,いまなら船で20分ほどと近くなった。 だが高松からも目にみえるほどのこの距離は, 壮健さんの社会と療養者の世界とのあいだにあ るけしてつめることのできない,絶対の隔たり だったのだ。大島とおなじように海で隔てられ た療養所である長島で,自治会の歴史を記した 刊行物が『隔絶の里程』(著作兼発行者長島愛

(2)

一82一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.15  2008 一口 雌饗 Ψ劉、蛎ウ鱒 構撚譲章  ロ   、’塀据 農﹁豊ご 鍵婆 華 写真2 大島南聴 骨園入園者自治会,発行所日本文教出版,1982 年)と名づけられたとおり,園に暮らす人びと にとって,島と対岸とのあいだの距離は,それ がたとえ30mほどだったとして,かけ離れた隔 たりと感じられたのだった。海が,むこうとこ ちらを分ける。長島には橋がかかったが,大島 ではそれも望めない。  療養所のなかで創作された作品は,園の外で はなかなかしつかりとみることができない。大 島で刊行された逐次刊行物の『霊草』や『藻 汐草』は,どちらも国立国会図書館になく, Webcat Plusで検索しても『霊交』は所蔵機関 がなく,『藻汐草』は関西学院大学図書館に「6 (4,6・12),7(1−5)<1937−1938>」との検索結果が でただけだった(2008年9月1日時点)。香川県 内公共図書館横断検索と岡山県図書館横断検索 システムでは,どちらの刊行物もみあたらない。 穂波日記にもでてくる『報知大島』と『ツバサ』 は3),いまのところ,まったくみつかってい ない。大島では壊してはっくるのくりかえし だったから,なかなかものが残ってないでしょ う,とは在園者の談だった。現在の霊交会教会 堂は1935年に竣工してから,その位置がかわっ 3)この両者の編集にも穂波はかかわっていた(「編 輯後記」『霊交』第177号,1933年8月10日。霊)。rツ バサ』は穂波日記1月2日条,2月16日条,2月18日条t 4月6日条。8月21日条などにもみえる。修養団支部  としての大島で発行されていた『ツバサ』は「不定 期発行」の刊行物だった(「編輯後記」『霊交』第 202号,1935年9月10日,同前第232号,1938年3月10  日。神)。 ていない。そうしたこともあって,教会堂の図 書室には,古い本が残っているのだろう。いま のところ,もっとも古い図書は,1897年の発行 である。  療養所での刊行物は,園相互に交換していた ばあいが多く,たとえば,青松園内にないもの が長島愛生園神谷書庫でみられることもある。 それでも本連載の(1)に記したとおり,青松園 内にもそのすべてがそろっていない穂波の著書 は,園外でみることもあまりなく,いまだにど こにあるかその所在すらよくわかっていない作 品もある。『霊交』については,発行されたそ のすべてがそろう可能性は低い。  穂波は,すでに示した単行本以外にも,自分 の思索を発表している。園内外のさまざまな媒 体に,それらの論稿が掲載されてきた。今回は, まず,『藻汐草』と『霊交』に掲載された穂波 の文章の目録を掲げることとした。以下の『藻 汐草』はすべて,青松園の文化会館内にあり,『霊 交』は,青松園の霊交会と長島愛生園の神谷書 庫にある分をそれぞれ示した。そのつぎに,以 下に掲載する穂波日記(1936年7月∼9月)の記

(3)

〈資料紹介〉長田穂波日記1936年(3)  療養所のなかの生の痕跡  (阿部安成) 一83一 載事項にかかわる情報を載せるとしよう。  『藻汐草」と『霊交jに掲載された穂波の論 稿をあげよう。『藻汐草』は,1932年4月10日に 第1巻第1号が,編輯兼発行人野島泰治によって 刊行された逐次刊行物である(表紙には「讃州 庵治モシホ社」とある)。最初の年は年2回の発 行で,それがだんだんと増え,やがて月刊となる。 ここには,在園者,園内外の医官,事務官,修 養団や慰問団などの人びとが文章を寄せている。 詩や短歌,随筆に訪問記といった内容の逐次刊 行物である。(以下の論稿一覧では,3:2−1は通 巻第3号;第2巻第1号,23;4は通巻第23号・4月 号の略記とした。なお『藻汐草』は合冊製本さ れているため,表紙の端がよくみえず,本来の 巻号表記を充分に把握できていない。そのつぎ に発行年月日,そして穂波の論稿表題の順に記 した。執筆者名は原文表記のままとした。*は 穂波の文章がないことをあらわす。文化会館所 蔵の『藻汐草』は製本版の奥付に,協和会文化 部による「大島青松園創立五〇週年記念合本」 と記されている。通巻第112号(1944年6月5日) に「予告/休刊の御知らせ/藻汐草も時局に即 応し,来月号限りて一時休刊干たすことに成り ました,即ち七月号を休刊号と致します」と記 されている。この記述からは7月号を刊行した うえで休刊とするか否かが不明瞭だが,第112 号6月号が綴じられた製本版に7月号はない。第 1巻第1号から第112号まで,欠号はない。ただ し号数の重複が2回ある。長島愛生園神谷書庫 の「長島愛生園「神谷書庫」収蔵図書一覧」と 題されたファイルにある目録では,『藻汐草』        マ マ   は「昭和7年4月∼昭和19年6月まで/124冊発 行」「昭和19年8月∼昭和23年6月まで/休刊」 となっていて,やはり昭和19年7月号が不明瞭)  『霊交』は,本連載(2)にも記したとおり, いま残っているところでは,霊交会図書室の第 106号(1927年8月1日)がもっとも古い。創刊は 1919年,1940年に「特高課の干渉と圧迫により, 十二月号第二六五号をもつて「霊交」誌を終刊 する」と記録されている4)。現在残っている『霊 写真4 『霊交』第106号表紙 交』はすべて,穂波が編集を担当している。  霊交は最初,毛筆にて八部出版より現在の一千  部門,つひに弐百四十丁目重ね,満二十ケ年と  なりました。 ことを言祝ぐ記述もある(「編輯後記」『霊交』 第239号,1938年10月10日。霊)。同号のべつな 欄(ほなみ坊「霊交第二百四拾号」)では,  霊交会の機関誌であったものが,何時の程より  か穂波の個人雑誌のやうになって居るのであっ  た。 との,穂波本人の感慨とも嘆息とも悔恨ともと れる文章もある。以下に記すとおり,現在残る 『霊交』で,穂波の署名がないものの,彼が書 いたと推察できる文章も入れれば,すべての号 に,穗波は寄稿している。(以下の論稿一覧で は,号数,発行年月日,編輯兼発行人名,所蔵 場所,表題の順にあげた。『霊交』は刊行の途 中で,号表記が巻号表記にかわり,またもとの 号表記にもどるが,このとき号数がずれている。 執筆難名は原文表記のとおりとした。*は執筆 者名の記載がないことをあらわす。『懇懇』は 欠号が多く,終刊号という第265号はいまのと ころない) 4)塔和子ほか編『霊交会一創立五十周年記念誌」  (大島青松園霊交会,1964年)。

(4)

一84一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.15  2008

         一

   『藻汐草』掲載穂波執筆論稿一覧 1−1,1932.4.10,長田穂波選「秋季俳句大八(大  島邸山会)秋季雑詠」/穂波生「大島の譜」 1−2,1932.9.5,出席者穂波ほか「俳句合評会」/

 三楽園穂波選「春季特別句集」/穂波生

 「詩 父なし娘(舞妓)」 3:2−1,1933.1.15,長田穂波「癩菌よ何処へ行  く」/穂波生「ぼん踊」/ほなみ「童謡大  波小波」/穂波ほか「試作句合評会」 特別感謝号,1933.3.30,長田嘉吉「奉答歌」/  長田穂波「御歌伝達式に列して」/節石大人  選「和歌/長田穂波」/節石宗匠選「俳句/  長田穂波」 5:2−3,1933.5.30,長田穂波「金字塔を建てむ」 6=2−4,1933.12.25,長田穂波「第二の薄明」 7:3−1, 1934.4.10, * 8:3−2, 1934.6.7, * 9:3−3,1934.8.15,三楽園穂波「帯革の燃え跡」 10=3−4,1934.9.15,三楽園穂波「なつかしき微笑」 11:3−5, 1934.ILIO, * 12:3−6,1934.1225,長田穂波「石井漠先生の  舞踊を観て」 13=4−1,1935.3.15,長田穂波「三等評論純文  芸と癩者」 14=4−2,1935.4.30,長田穂波「随筆松籟海鼓  (一)」/小塚龍生選「懸賞短歌佳作」 15=4−3,1935.6.!5,長田穂波「詩相愛の道」/  長田穂波ほか「故稲葉夫人追悼歌」/「島  の聖者/長田穂波君の著書」 16:4−4,1935.8.10,長田穂波「随筆松籟海鼓(二)」 17=4−5, 1935ユ0ユ, * 18:4−6,1935.11.1,長田穂波「随筆松籟海難(三)」 19=4−7,1935.12.1,長田穂波「随筆松籟海部(四)」 20=5−1,1936.1.17,長田穂波「歌集「藻の花」  に接して」 21=5−2,1936.2.5,長田穂波「随筆松籟海鼓(五)」 22=5−3,1936.3.5,長田穂波「随筆松籟海鼓(六)」 23=4,1936.4.15,長田穂波「随筆松籟海鼓(七)」 24:5,1936.5.15,長田穂波「随筆松籟海鼓(八)」 25:6,1936.6.5,長田穂波「随筆松籟海鼓(九)」 26=7,1936.7.5,長田穂波「随筆松籟海鼓(十)」 27=8,1936.85,長田穂波「随筆松籟海鼓(十一)」 9月号,19369.5,* 10月号,1936.10.5,* 30=5−11, 1936ユ1.5, * 31:5−12, !936.12.5, * 32=6−1,1937.1.5,長田穂波「修養団支部六周  年紀念感謝報告」 33:6−2, 19372.5, * 34:6−3,1937.3.5,長田穂波「霊波は躍る」/「随  筆続松籟海鼓(一)」 35:6−4,1937.4.5,長田穂波「故小林所長の胸  像に題す」/長田穂波「随筆続松籟海鼓(二)」 36=6−5,1937.5.5,長田穂波「随筆続松籟海難  (三)」 37:6−6, 1937.6.5, * 38:6−7,1937.7.5,長田穂波「随筆続松籟海鼓  (四)」/長田穂波選「ラヂオ詩壇」/長田穂波  選「短歌」 39=6−8,1937.8.5,長田穂波「随筆続松籟海鼓  (五)」 40:6−9,1937.9.5,長田穂波「随筆続松雑踏鼓  (六)」 41:6−10,1937.105,長田穂波「随筆続松籟岡岬  (七)」 42:6−11,1937.ll.5,長田穂波「随筆続松江海  鼓(八)」/長田穂波選「ラヂオ文芸「詩」」 43=6−12,1937.12.5,長田穂波「随筆続松籟海鼓  (九)」 44:7−1, 1938.1.5,目次に「続松籟海鼓長田穂波」  「是非読んで下さい長田穂波」とあるが落丁 45:7−2,1938.2.5,長田穂波「随筆続松籟海鼓  (終)」 46:7−3, 1938.3.5, * 47=7−4,1938.4.5,長田穂波「随筆落ち椿」 48:7−5, 1938.5.5, * 49:7−6, 1938.6.5, * 50:7−7, 1938.7.5, *

(5)

〈資料紹介〉長田穂波日記1936年(3)  療養所のなかの生の痕跡  (阿部安成) 51:7−8, 1938.8.5, * 52=7−9, 19389.5, * 53=7−10, 1938.10.5, * 54:7−11,1938.11.5,長田穂波「我らをして最  後の癩者たらしめよ」 55=7−G2,1938.12.5,長田穂波「修養団大島支  部設立八周年紀念報告」 56=8−1, 1939ユ.5, * 57=8−2,1939.2.5,長田穂波選「ラヂオ詩壇」 58=8−3, 1939.3.5, *  ママユ 58:8−4, 1939.4.5, * 59=8−5, 1939.5.5, * 60:8−7:6月号,1939.7.5,* 61:8−8, 1939.8.5, * 62:8−9, 1939.9.5, * 63:8−10, 1939ユ0.5, * 64=8−lt,1939.1L5,「友逝ける夜/長田穂波著  「穂波実相」より」 65;8−12,1939.12.5,長田穂波選「ラヂオ文芸/  「ものは」/たまるものは」 66=9−1, 1940ユ.5, * 67:9−3, 1940.3.5, * 68:9−4,1940.4.5,長田穂波「花輪の薫り」 69=9−5, 1940.5.5, * 70=9−6, 1940.6.5, * 71:9−7,1940.7.5,穂波生「大島スポーツ/春  季野球観戦記」 72:9−8,1940.8.5,長田穂波「帰島勇士歓迎之辞/  国旗ふりふり」 73;9−9, 1940.9.5, * 74;9−10, 1940ユ0.5, * しママユ 74=9−11, 1940ユ1.5, * 75:9−12,1940.125,大島キリスト教霊交会代  表長田穂波「感謝辞」 76:1 O−1, 1941ユ.5, * 77=10−3, 1941.3.5, * 78:10−4, 1941.4.5, * 79=10−5, 1941.5.5, * 80=10−6, 194L6.5, * 81:10−7,1941.7.5,長田穂波「三十三年の回顧録」 82:10−8, 1941.8.5, * 83:10−9, 1941.9.5, * 84:10−10, 1941.IL5, * 85:10−12, 1941.12.5, * 86:IA−1, 1942.1.5, * 87:11−3, 1942.3.5, * 88:11−4, 1942.4.5, * 89:11−5, 1942.5.5, * 90:tl−6, 1942.6.5, * 一85一 91:“ 一7,1942.7.5,長田穂波「随筆松籟煙毒(愛  汗の巻)」/長田穂波「詩ふるさとこひし」 92:11−8,1942.8.5,長田穂波「随筆松籟海瀬(坐  久成労)」/長田穂波「陸に近づけな」 93:11−9,1942.9.5,長田穂波「南洋の花」/長  田穂波「随筆松籟海鼓(美醜の巻)」 94=ll−10,1942.10.5,長田穂波「随筆松籟海  鼓(同化の巻)」 95=11,1942.ll.5,長田穂波「随筆松籟海鼓(戦  ひの巻)」 12月号,1942.125,長田穂波「随筆松籟海鼓(宗  教の巻)」/長田穂波「詩秋傷,秋晴る・日」 97;12−1,1943⊥5,長田穂波「随筆松籟海鼓(年  頭の祈)」 98=12−2,19432.5,長田穂波「随筆松籟海蝕(救  癩の巻)」 99=12−3,1943.3.5,長田穂波「随筆松籟海鼓(反  省の巻)」 100=12−4=4・5月号,1943.5.5,長田穂波「随筆  松籟黒日(会葬の巻)」 101=12−5=6月号,1943.6.5,長田穂波「随筆松  籟海鼓(愛誌の巻)」 102=12−6=7月号,1943.7.5,長田穂波「随筆松  籟海鼓(感激の巻)」 tO3:12−7:8月号,1943.8.5,長田穂波「随筆松  籟海鼓(陣頭の巻)」 iO4:12−8:9月号,19439.5,長田穂波「随筆松  神助鼓(報告の巻)」 105=12−9=10月号,1943.10.5,長田穂波「随筆  松籟海鼓(再認の巻)」 106=12−10=11月号,1943.11.5,長田穂波「随筆

(6)

一86一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.15  2008  松籟海鼓(癩哲の巻)」 107:12−11=t2月号,1943.12.5,長田穂波「随筆  松籟呼野(歳暮の巻)」 108:13−1,1944.1.5,入園者総代長田穂波「年  頭書辞」 109:13−2,19442.5,長田穂波「随筆松籟海鼓(本  分の巻)」 110:13−3:3・4月号,1944.4.5,長田穂波「随筆  松籟海際(玉砕の巻)」 111:13−4:5月号,1944.5.5,長田穂波「随筆松  籟海鼓(追悼の巻)」 112=6,1944.6.5,長田穂波「随筆松籟海鼓(感  恩の巻)」       一  ここで,日記に記載された事項にかかわって わかったことを記そう。  7月22日,23日,27日の条にみえる「田中先生」 とは,岡山医科大学の田中文男である。田中に とっては,大島療養所をおもうときに,穂波は 欠くことのできない在園者だった。このときの 田中の相談がなにか,それは日記にも記されて いないし,大島でのほかの刊行物でもそれを推 察できる記事は,ひとまずない。田中宛ての返 信が13枚だというから,小さなことがらではな かったのだろう。  田中の大島療養所との交流は,彼と大島療養 所初代所長の小林和三郎が高等学校からの「親 友」だったことに始まる。田中は,娘も誘って, くりかえし大島に贈りものや寄附をしていた。 所長や穂波だけでなく,いくつものつながりが 田中やその家族と大島の人びととのあいだにで きていった。そうした交流のなかで,療養者が 田中に謝意を示すこともあった(石本俊市「田 中文男先生に捧ぐ一「文芸春秋」読後記」『藻 汐草』通巻第26号7月号,1936年7月5日)。  穂波日記が書かれる前年の1935年に,田中は 二十数年ぶりに大島を訪れていた。そのときの 記録が,『大島療養所を訪問するの記』(田中文男, 1935年,非売品)とまとめられ,これは現在も 霊交会図書室にある。田中はその翌1936年にも 大島を訪問し,穂波日記の6月28日(日)条に,「田 中先生と岡山芸妓一行の御慰問を頂く。/歓迎 の辞をば述べる。先生に面会して語る」と記録 された。  このときの訪問は,ちょっとした出来事と なったようで,いくつもの記録が残っている。 1つは,療養所の編集になる『藻汐草』通巻第 27号8月号(1936年8月5日)。そこには,相判と して「岡山市芸妓慰問団を迎へて/(六月廿八 日於本館玄関前)/(前列向って左より五人目 田中文男先生)」のキャプションがついた写真 が載り,また,田中「岡山芸妓慰問団を同道し て⊥末沢政太「感謝」(これは田中のべつな寄 附に対して),飯崎吐詩朗「感激の賦」が掲げ られた。飯崎はそこで,「襖模様もあでやかな お座敷に,その至芸を誇るひとたちが,遥々, 然も辺鄙な孤島を訪れて下さいましたといふこ とだけでも,限りない喜びでありますのに,真 にやむ者の気持を理解して,心より倶に泣いて くだされた,あの場の息詰る様な感激は,遂に 永久に忘れ得ないであらふ」と感激をあらわに       よそしたうえで,「他目には華やかにこそ見えつれ どくるしき道を生くるひとらか」と詠んでいた。 感激の賜への返礼は,こころをこめて歌った所 歌だった(「むくゆべき何もあらねばせめても の念ひをこめて所歌を唱ひし」)。  2つめの,『霊交』第215号(1936年10月10日。 神)では,おそらく穂波による「編輯後記」に,「岡 山医大の田中文男博士の御構愛を会員は,特に 喜んで居ります。先生が故小林所長の御親友と してのみでなく癩問題特に大島療養所の為め, 一家揃って御祈り下さる事は,島の上下ひとし く感謝に充ちて居ります……私共も御一家の御 幸福を祈上てるます」と記されていた。  田中は,芸妓たちの「演芸」がおこなわれる にさきだって,その慰問の経緯と挨拶を在園者 に話している(それがさきの「藻汐草』の文章)。 そこではまず,昨年の慰問訪問にふれ,前出 の『大島療養所を訪問するの記』を刊行したと

(7)

     〈資料紹介〉長田穂波日記1936年(3)一療養所のなかの生の痕跡 『肉交』掲載穂波執筆論稿一覧 (阿部安成) 一87一 びi憲i.1.i 蒼 雌:コ軌’巴凝・跨 チ饗二三     一

駆逐i・i

騰繕

鷺継巨…1…鱒1}i壌:ぐ:墾聴1響}轡ツ讐翁

106 1927.8ユ 長田穂波 霊 交 会 ほなみ「セ・ラギ」/ほなみ「最近」/ホナミ「編輯後記」 112 1928.3.5 長田穂波 霊 交 会 穂波生「セ・ラギ」/長田穂波「神は凡てなり」/ほなみ「無代価の賜を1」/*「大 √ヨり」/保奈美「見るべきものは」/長田穂波「和歌」/穂波生「感謝欄」/*「編 S後記」 116 1928.6.1 長田穂波 霊 交 会 ほなみ「セ・ラギ」/長田穂波「回顧二十ケ年」/ほなみ「ふりかえり見て」/ zナミ「大島便り」/ホナミ「編輯後記」 120 1928ユ0.5 長.田穂波 霊 交 会 ホナミ「セ・ラギ」/長田穂波「窓外を望みつ・」/*「編輯後記」 122 192812ユ0 長田穂波 霊 交 会 ほなみ「セ・ラギ」/長田穂波「親心子心」/ホナミ「父を歌ひまつらむ」/長 c穂波「この養生くるや」/*「編輯後記」 125 1929.35 長田穂波 霊 交 会 ほなみ「セ・ラギ」/長田穂波「信仰の権威」/長田穂波「起ちませふ互に」/ ルなみ「俳句」/ホナミ「編輯後記」 132 192910.5 長田穂波 神谷書庫 長田穂波「大いなる幻(四,九,九)」/ほなみ「編輯後記」 133 1929.11.5 長田穂波 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「真?偽?」/三楽園「民謡」/ホナミ「会報」/三 y園「俳句」/*「編輯後記」 136 1930ユ.5 長田穂波 神谷書庫 ほなみ生「セ・ラギ」/穂波生「光世に来たれり(約一〇九)」/ホナミ「エバタ i二七〇二四)」/ホナミ「奇蹟は近し」/長田生「証人たれ」/長田穂波ほか「勅 閨i海辺巌)謹詠」/三楽園穂波「誰れぞ関件なき?」/*「編輯後記」 140 1930.5.1 長田穂波 霊 交 会 穗波「セ・ラギ」/長田穂波「悩める友よ」/穂波「日記帖」/穂波「信仰の勝利」/ 磨u編輯後記」 1娃1 1930.5.28 長田穂波 霊 交 会 *「セ・ラギ」/*「編輯子の附記」/長田穂波「生命価の瞑想」/ほなみ「日 L帖」/ホナミ 「編輯後記」 143 19308ユ 長田穂波 神谷書庫 穂波生「セ・ラギ」/*「編輯後記」 1艦 19309ユ 長田穂波 神谷書庫 穂波生「セ・ラギ」/穂波兄より[短歌]/ほなみ「俳句帖」/ホナミ「編輯後記」 145 1930101 長田穂波 神谷書庫 穂波生「セ・ラギ」/長田穂波「不景気知らずの法」/ホナミ「自然味」/長田生「迷 Mの存在性」/保浪「編輯後記」 146 1930111 長田穂波 神谷書庫 穂波生「セ・ラギ」/長田穂波「更に生命の第一歩へ」/穂波生「編輯後記」 147 1930ユ21 長田穂波 神谷書庫 穂波生「セ・ラギ」/長田穂波「聖恩郎山」/*「広告」/ほなみ「編輯後記」 148 1931ユ.1 長田穂波 神谷書庫 穂波生「セ・ラギ」/ホナミ生「編輯後記」 149 1931.2ユ 長田穂波 神谷書庫 穂波生「セ・ラギ」/長田穂波「敢へて問ふ(聖書研究)」/*「編輯後記」 150 19313ユ 長田穂波 神谷書庫 穂波生「セ・ラギ」/長田穂波「生命の真光」/穂波生「人生の坂」/穂波生「修 {団と私」/保奈美「編輯後記」 151 1931.4ユ 長田穂波 霊 交 会 ほなみ生「セ・ラギ」/長田穂波「甦る生命」/*「イエス甦り給へり(霊魂は H叩くより)」/穂波生「春が来た」/ほなみ生「神に活きよ」/穂波生「編輯後記」 152 1931.5.1 長田穂波 神谷書庫 *「セ・ラギ」/穂波生「編輯後記」 153 1931.6.1 長田穂波 神谷書庫 穂波生「セ・ラギ」/長田穂波「思想界の黎明期」/ホナミ生「編輯後記」 154 1931.7.1 長田穂波 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「病味俳味」/ほなみ「日記帳」/穂波生「島だより」/ 磨u編輯後記」 156 193110ユ 長田穂波 霊 交 会 *「セ・ラギ」/長田穂波「十字架の救ひ」/*「編輯後記」 1−1 1931.llユ0 長田穂波 神谷書庫 穂波生「セ・ラギ」/長田穂波「雨の夜を泣く」/長田穂波「おねがひ」/ほなみ「編 S後記」 1−2 1931.12ユ0 長田穂波 神谷書庫 穂波生「セ・ラギ」/長田穂波「信仰の境より」/*「編輯後記」/*「広告/ 刻W霊魂は羽ばたく/物語みそらの花/詩集霊二二ゆる/光れ輝け」 1.3 19321ユ0 長田穂波 神谷書庫 保奈美「セ・ラギ」/長田穂波「祝へ新年」/長田穂波「光りは祈りより」/ほ ネみ「なくてならぬ者」/長田穂波「自主たる修養」/*「編輯後記」/*「広告/ ?ーは羽ばたく/みそらの花/霊火は暗ゆる/光れ輝け」 1−4 1932.2.10 長田穂波 神谷書庫 保奈美「セ・ラギ」/長田穂波「我らのイエス」/ホナミ「万有無碍」/*「編 S後記」/*「広告/長田穂波著/小さき者」

(8)

一88一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.15 2008 舞癒ξξε灘∵・…:£:i乙二i.:三二乱…iL マ[耳脚”「口厄■鳳ユ瓢ら @画肌.ご∼   .  } 心 げ  o .げ  , , … R鴛難i騨ミ1:1鑑

墨継難。

羅ii難講篠i:};iii灘墨型1瀦灘麟〆零1議豊里i翼雛1奏

1−5 1932,3ユ0 長田穂波 神谷書庫 ほなみ「セ・ラギ」/長田穂波「祖国の為めに祈る」/保奈美「編輯後記」/*「広 吹^長田穂波著/祈の泉(小男)」 1−6 1932,4ユ0 長田穂波 神谷書庫 穂波「セ・ラギ」/長田穂波「高恩に悶絶ひ至る1」/ほなみ「即吟」/穂波生「編 S室より」 1.7 1932.5.10 長田穂波 神谷書庫 穂波生「セ・ラギ」/長田穂波「芽出度きこの夜」/長田穂波「耐へざる心もて iふ」/穂波生「俳句」/穂波「編輯後記」 1.8 1932.6.10 長田穂波 神谷書庫 穂波生「セ・ラギ」/長田穂波「荒野の祈」/長田穂波「仰ぎ見ずや」/ほなみ「何 黷ゥ易き」/ほなみ生「青葉(童話)」/穂波「暑を愛する」/ホナミ「編輯後記」 1−9 1932,7.10 長田穂波 神谷書庫 穂波生「セ・ラギ」/長田穂波「エホバに栄あれ」/保奈美「基督の本質」/ほ ネみ生「印度の空を望みつ」/ホナミ生「白百合の香り」/穂波即稿「五月雨ふ 閧竅v/*「編輯後記」 1−10 19328ユ0 長田穂波 神谷書庫 穂波「セ・ラギ」/長田穂波「夏十コ口/*「俺は無いよ」/ホナミ「俳句(試作)」/ 苳g「広告」/*「編輯後記」 1−11 1932,9ユ0 長田穂波 神谷書庫 穂波生「セ・ラギ」/長田穂波「神の永生に入れ」/保奈美「愚者」/ほなみ「羅 nの基礎」/ホナミ「俳句(夏雑詠)」/*「編輯後記」 1.12 1932.10ユ0 長田穂波 神谷書庫 穂波生「セ・ラギ」/長田穂波「新生」/保奈美「星を仰ぎつ・」/ほなみ生「島 ノなずむ」/ホナミ「俳句」/穂波[図書紹介1/*「編輯後記」 1−13 1932.11ユ0 長田穂波 神谷書庫 穂波生「セ・ラギ」/長田穂波「新生と物質界」/ほなみ生「うばひ返せ」/保 ゙美「秋の声」/穂波「雑詠」/穂波生「編輯後記」 1.14 1932ユ2.10 長田穂波 神谷書庫 穂波生「セ・ラギ」/長田穂波「聖誕につきて」/長田穂波「生命のさ・やき」/ キ田穂波「教育と宗教につきて」/*「編輯室より」/*「編輯後記」 170 1933,1ユ0 長田穂波 神谷書庫 穂波生「セ・ラギ」/長田穂波「新年を芽出度くせむ」/穂波生「黎明の黙想」/ キ田穂波「我が入信の動機」/長田穂波ほか「和歌 御勅題」/保奈美「聖詩読感」/ 磨u編輯後記」 171 1933.2.10 長田穂波 神谷書庫 穂波生「セ・ラギ」/長田穂波「神の如く完全かれ」/三楽園穂波「御歌を拝して」/ ルなみ「元旦記」/ホナミ「編輯後記」 174 1933,5.10 長田穂波 神谷書庫 穂波生「セ・ラギ」/長田穂波「故小林所長を偲ぶ」/ほなみ生「曇れる空」/ キ田穂波「社会生活の第一義」/保奈美「編輯後記」 175 1933.6.10 長田穂波 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「神は凡ての父なり」/保奈美「涙の中に咲く花」/ ルなみ「霊交会内容」/穂波生「偶感雑詠」/*「編輯後記」 176 1933.7.10 長田穂波 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「広告以上のもの」/ほなみ生「輝く太陽」/ホナミ生「血 フ無き社会」/をさだ「祈りの体験」/穂波生「誰か拳骨を下さい」/保奈美「即 瘁v/三楽園穂波「俳句 夏十題」/*「編輯後記」 177 1933.8.10 長田穂波 霊 交 会 *「セ・ラギ」/長田穂波「イエスの時代と現代の祖国」/編輯子「紹介」/保 ゙美「時代じゃなくて」/ほなみ「見るがま・に」/三楽園穂波「俳句十題」/ 磨u編輯後記」 178 19339.10 長田穂波 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「お嫁入りの話」/穂波生「何と言っても」/保奈美「日 {基督教」/ホナミ「臆うれし」/ほなみ「大島通信」/三楽園「俳句」/*「編 S後記」 179 1933ユ0ユ0 長田穂波 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「神を示せ」/穂波生「主なる神」/保奈美「紺碧の空」/ 磨u編輯後記」 180 1933.11ユ0 長田穂波 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穗波「恩寵こ・に二十年」/ほなみ「祈らずや」/保奈美「大 №スより」/穂波生「回春の太陽を世に送るについて」/*「霊交会歌」/*「編 S後記」 181 1933.12ユ0 長田穂波 神谷書庫 u楽しき話」/穂波生「魂は祈る」/ホナミ「主よこれでよろしきや」/保奈美「任*「セ・ラギ」/長田穂波「本当のクリスマスへ」/長田穂波「清算」/ほなみ ケきりて生命を得る」/*「大島たより」/*「編輯後記」 182 1934,1」0 長田穂波 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「試験紙」/ほなみ生「赤裸」/長田穂波「本当の生活」/ O楽石作「大島小唄」/保奈美「大島便り」/をさた生「うた雑詠」/三楽園「俳 蛛v/*「編輯後記」 183 1939210 長田穂波 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「勇めつはもの大丈夫だ」/ほなみ「小さきおの・き」/ 苳g生「鐘つく者」/ホナミ「寸言葉」/*「編輯後記」 184 1934,310 長田穂波 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「神へ1神へ1」/ほなみ「神へであれ」/長田穂波「建 総ユの瞑想」/ホナミ「神鏡は進む」/*「編輯後記」

(9)

〈資料紹介〉長田穂波日記1936年(3) 療養所のなかの生の痕跡一(阿部安成) 一89一 遜i忌.∼擬 @∴ .一げ 欝麟貞

鱗鍵

…轟鱗

隠元二瀬ii鑓響読響}忌寸〆響1…饗・1警誉ll灘i罫il警

185 1934,410 長田穂波 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「神のおさな子」/ほなみ「花は散る」/長田穂波「瞑 zと祈り」/穂波生「聖書の権威」/ほなみ「大島たより」/ほなみ生「短歌/ J角兄へ捧ぐ」/*「編輯後記」 186 1934.5.10 長田穂波 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「我は生命なり」/保奈美生「心の春」/おさだ・ほ ネみ「瞑想と祈薦」/ホナミ生「大島たより」/*「編輯後記」 187 1934.6ユ0 長田穂波 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「宝血の聖典」/ほなみ「大島便り」/*「編輯後記」 188 1934.7.10 長田穂波 霊 交 会 *「セ・ラギ」/長田穂波「おこたゑ」/*「大島便り」/*「編輯後記」 189 1934810 長田穂波 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「救ひとは聖なり」/穂波生「瞑想と二二」/霊交会一同, キ田穂波「暑中御見舞」/*「編輯後記」 190 1934910 長田穂波 神谷書庫 長田穂波「火は祭壇より」/ほなみ生「鼻ばかりの人間」/穂波生「瞑想と至正」/ さだ生「大島便り」/*「編輯後記」 191 193410ユ0 長田穂波 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「こは人の光なり」/ほなみ生「瞑想と祈藩」/穂波生「大 √ヨり」/*「編輯後記」 192 1934ユllO 長田穂波 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「謙遜になりて神を崇めよ」/ほなみ生「外島美談」/ 苳g生「奉教二十年」/ホナミ生「瞑想と祈疇」/*「編輯後記」/穂波「附記」 193 19341210 長田穂波 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「我らの祝意」/穂波生「瞑想と祈疇」/*「編輯後記」 194 1935ユユ0 長田穂波 神谷書庫 穂波「セ・ラギ」/長田穂波「更生への門出」/ほなみ「太鼓」/穂波生「瞑想 ニ祈疇」/霊交会一同,長田穂波「謹賀新年」/*「編輯後記」 195 1935.2.ユ0 長田穂波 神谷書庫 穂波「セ・ラギ」/長田穂波「我は斯く信ず」/ほなみ生「見たま・」/穂波生「瞑 zと祈禧」/穂波[図書推薦] 196 1935.3.10 長田穂波 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「醒めて活きよ」/穂波生「瞑想と祈疇」/*「編輯後記」 197 1935,4ユ0 長田穂波 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「福音の実証」/穂波「附記」/穂波生「瞑想と煉餌」/ 磨u編輯後記」 198 1935.5.10 長田穂波 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「寂蓼の深さ」/穂波生「瞑想と潮浴」/*「編輯後記」/ 磨m詩集雲なき空広告] 199 1935.6.10 長田穂波 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「献祝辞」/穂波生「大島相愛の道」/ほなみ生「当 冾フ筆記」/*「一寸お知らせ」/*「編輯後記」 200 1935,7ユ0 長田穂波 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「神的維新」/*「編輯後記」 201 1935,8ユ0 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「良心も救を要す」/三宅・長田「恩寵の花片(一)」/ 苳g生「詩(神経痛)」/穂波生「瞑想と祈薦」/*「編輯後記」 202 1935.9.10 長田嘉吉 i穂波〉 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「人間完成」/ほなみ「詩」/三宅・長田「恩寵の花 ミ(二)」/穂波生「即吟」/*「編輯後記」 203 1935ユ0ユ0 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「ざんげと感謝」/ほなみ「三景ニツ」/三宅・長田「恩 桙フ花片(三)」/*「編輯後記」 204 1935ユllO 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「聖霊に導かれて」/三宅・長田「恩寵の花片」/*「編 S後記」 205 1935.12.10 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「偉大なる哉信仰の自由」/三宅・長田「恩寵の花片」/ 磨u編輯後記」 206 1936110 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「真直に神へ1」/ほなみ生「は・こひし」/三宅・ キ田「恩寵の花片」/長田穂波「謹賀新年」/*「編輯後記」 207 1936210 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「天か?地か?」/*「編輯後記」 208 1936,310 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「天か?地か?(2)」/ほなみ「詩」/穂波生「編集 狽ノて」/*「編輯後記」 209 1936.4.10 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「光りは東方より」/*「編輯後記」 210 1936.5.10 長田嘉吉 i穂波〉 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「天か?地かP」/*「編輯後記」 211 1936.6.10 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「棒引きの生活」/三宅・長田「恩寵の花片」/*「編 S後記」

(10)

一90一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.15 2008 ’ξ鎗麟 齡v∵

il諺三ごi.騰謡糞 高Vヨ:∴驚掌.ゴ1諜購1・ 三彗璽…鍵轍塾ξ @   駕∼

黛擁:

難欝黒雲欝i強懸1警欝ll鍵ll溶響1欝ξ繕讐ll:妻

212 1936,7ユ0 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「祈薦と瞑想」/三宅・長田「恩寵の花片」/*「編 S後記」 213 1936,8ユ0 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「天か?地か?」/*「編輯後記」 214 !936.9.10 長田嘉吉 i穂波〉 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「細部閑談」/*「編輯後記」 215 1936.10.10 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「救ひより救ひへ」/穂波生「臆友らゆきぬ」/*「編 S後記」 216 1936.11.10 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「霊交会紀念日」/穂波生「研究 福音の扱ひ方」/ 苳g生「そくばくの言」/*「編輯後記」 217 1936.12.10 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「祝救主御降誕」/ほなみ生「静かな力よ」/穂波生「断 ミ集」/*「編輯後記」 218 1937,1ユ0 長田嘉吉 i穂波〉 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「年頭に題す」/穂波生「田家の雪」/ほなみ生「そ アばくの言」/*「黒崎幸吉先生を迎ふ」/*「新版雑誌紹介」/*「編輯後記」 219 1937,2ユ0 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「私は枳殻である」/穂波生「朝の梅が香/いたづら ツ子」/ほなみ生「瞑想と十三」/*「編輯後記」 220 1937,3ユ0 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「この子心」/ほなみ生「一粒の麦」/穂波生「楽し ゙とも狂ふな」/*「編輯後記」 221 1937,4ユ0 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「謝恩会」/穂波生「そのあしあと」/長田生「瞑想 ニ祈疇」/*「編輯後記」 222 1937.5ユ0 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「十字架の彼方より」/穂波生「詩 病窓明し/兵に 垂ョ(二,二六事件より一年忌て)」/おさだ坊「霊交余談」/*「編輯後記」 223 1937.6.10 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「聖書的信仰」/穂波生「俳風」/穂波生「エレミヤ」/ 磨u編輯後記」 224 1937.7ユ0 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「問題より祈蒔へ」/おさだ坊「霊交余談」/*「編 S後記」 225 1937.&10 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「神を神とせよ」/穂波坊「即詠」/穂波生「詩集 田 ノを読みで」/をさだ生「下交余談」/*「編輯後記」 226 1937,9ユ0 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/大島霊交会,長田穂波「暑中御見舞申上候」/長田穂波「昭和 ¥二年六月二十日集会席上凹凹」/長田穂波「集会感話筆記 三種の苦痛」/お ウだ生「錆夏子談」/*「編輯後記」 227 1937.10.10 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「昭和十二年六月十六日集会席上にて」/穂波生「旅 匤L」/おさだ生「昭和十二年八月十一日集会画工」/おさだ生「霊空」/ほな ン生「再度矢内原忠雄先生を迎ふ」/*「編輯後記」 228 1937.11.10 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「聖書の示す処」/穂波生「附記」/穂波生「恩寵 十三年」/ほなみ生「三十一文字」/*「編輯後記」 229 1937.12.10 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「聖誕と瞑想」/穂波生「くりすます・カロル」/穂 g生「宣言」/穂波「右御礼申上ます」/*「編輯後記」 230 1938ユユ0 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「ち・のこ・ろ」/穂波生「感謝譜」/おさだ生「新 N雑」/ほなみ生「私ともの越年」/*「編輯後記」 231 19382.10 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「この言は人の光なり」/をさだ・ほなみ「即吟」/*「編 S後記」 232 1938,3ユ0 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「所内ラヂオ」/穂波生「広瀬老兄を迎へて」/穂波生「藤 苺髄S集発行について」/*「編輯後記」 233 1938.4.10 長田嘉吉 i穂波) 霊 交 会 *「セ・ラギ」/長田穂波「祈り家の窓より」/ほなみ生「即吟七首」/穂波生「心 フ内に平和を建よ」/*「編輯後記」 234 1938,510 長田嘉吉 i穂波) 霊 交 会 *「セ・ラギ」/長田穂波「かはらぬ友達」/ほなみ生「即興吟」/穂波坊「随筆」/ 苳g生「復活への信仰」/*「編輯後記」 235 1938,6ユ0 長田嘉吉 i穂波) 霊 交 会 *「セ・ラギ」/長田穂波「詩篇二十六篇より」/ほなみ生「五月晴」/穂波生「は スらけ/石頭/随筆」/*「編輯後記」 236 1938,7ユ0 長田嘉吉 i穂波) 霊 交 会 *「セ・ラギ」/長田穂波「詩篇第十九篇」/穂波生「葬式漏話 残香」/穂波生「葬 ョ席話 残花」/*「編輯後記」 237 1938.8.10 長田嘉吉 i穂波) 霊 交 会 *「セ・ラギ」/穂波生「私は知らない」/ほなみ生「雑吟」/長田穂波「詩篇 謌齦ム」/をさだ・ほなみ「随筆」/*「編輯後記」

(11)

〈資料紹介〉長田穂波日記1936年(3)一療養所のなかの生の痕跡 (阿部安成) 一91一 三碗i.・.靴》 P羅幾  工. …ご,:究∴[:卸鮮罫諺 @了 @   貞 蕪論証暴i斐 灘麟…i。㌔  ;     、.

欝欝…誉欝譲ilil警…警総画∵響i……iil千歯…野

238 1938,9ユ0 長田嘉吉 i穂波) 霊 交 会 *「セ・ラギ」/長田穂波「端居」/穂波生「随筆」/ほなみ生「願ひ感謝との o版」/穂波生「附記」/*「編輯後記」 239 1938.1010 長田嘉吉 i穂波) 霊 交 会 *「セ・ラギ」/穂波[無題詩コ/長田穂波「血の痛み」/ほなみ生「たね蒔く 烽フ」/穂波坊「随筆」/穂波生「雑詠」/ほなみ坊「豊里第二百四拾号」/*「新 ナ広告」/*「編輯後記」 240 1938.11ユ0 長田嘉吉 i穂波) 霊 交 会 *「セ・ラギ」/長田穂波「御名の崇められむことを」/穂波坊「こ・に霊交 十年」/穂波坊「随筆」/*「広告」/ほなみ生「一滴」/*「編輯後記」 241 1938.1210 長田嘉吉 i国選〉 霊 交 会 *「セ・ラギ」/長田穂波「鐘が鳴る」/長田生「随筆録」/*「広告」/*「編 S後記」 242 1939ユ.10 長田嘉吉 i穂波〉 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「新天新地」/穂波生「療の元朝」/穂波坊「随筆」/ 苳g坊「即吟」/穂波生「報告欄」/おさだ生「浄財」/*「編輯後記」 243 19392ユ0 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「元日の二二」/穂波「附記」/ほなみ生「聖書研究余録」/ 苳g坊「いのり」/長田穂波「随筆」/編輯室より「附記」/*「編輯後記」 244 1939,3ユ0 長田嘉吉 i穂波) 霊 交 会 *「セ・ラギ」/ほなみ生「集会二二大略」/穂波生「何事も神の前にある」/長 c穂波「聖書研究余録」/ほなみ生「随筆」/ホナミ生「即吟四首」/*「編輯後記」 245 1939.4.10 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/穂波生「葬別席上にて」/ほなみ生「随筆」/穂波生「復活節」/ zナミ「聖旨はひずく」/*「編輯後記」 246 1939,5ユG 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「病床夜話」/穂波生「随筆」/穂波生「うた」/穂 g生「葬送席上感話」/*「後記」 247 1939,6ユ0 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/穂波生「天業とは何ぞや?」/長田穂波「尊皇愛国の真髄」/ ルなみ生「病床夜話」/ホナミ生「方舟の動物」/ほなみ生「無題」/穂波生「小 =v/ほなみ生「春はうれしや」/*「編輯後記」 248 19397.10 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/穂波生「愚となる勿れ」/ホナミ生「母のおもは神の愛」/ほ ネみ生「関また関」/穂波生「野島所長殿御尊父逝去と承りて即詠呈上せる」/ ルなみ生「病床夜話」/ほなみ生「雨中の百合」/*「編輯後記」 249 19398ユ0 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/ほなみ生「信仰によれる調和」/ほなみ生「一杯の冷水」/を ウだ生「納涼台」/*「編輯後記」 250 19399ユ0 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/*「祈は力なり」/穂波生「残暑」/ほなみ生「詩」/穂波生「病 ー夜:話」/ほなみ生「残されたる天地」/*「編輯後記」 251 193910ユ0 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/穂波生「具体的信仰」/おさだ生「鼻先説教」/穂波生「興亜 公日」/穂波生「附記」/ほなみ生「恵雨」/穂波生「涙の底」/*「編輯後記」 252 193911.10 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/*「恵に恵を加へらるべし/聖書に還れ/信じて進べし/見ざ 髀?mらざる処/大島に霊交会あり」/*「神の証明」/*「祈薦と瞑想/目的 ノ向かって進むなり」/*「編輯後記」 253 1939.12.10 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/*「瞑想」/*「反省」/*「編輯後記」 255 1940,2ユ0 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/*「新しき歌をうたへ」/ほなみ生「聖書余談」/穂波生「会 v表を見ての感」/*「編輯後記」 256 1940310 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/*「社説 新郎の友」/*「聖書余談」/ほなみ生「松の小島」/ 磨uせまき門」/*「編輯後記」 257 1940,4ユ0 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「永遠の人生観」/ほなみ生「オ一二二者1」/*「聖 送]談」/おさた生「平等のたまもの」/ほなみ生「子心の刹那のこゑ」/穂波生「満 x伝道を祈る」/*「編輯後記」 258 1940,5.10 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「聖霊」/穂波生「確かな御存在です」/穂波[弔辞1/ 苳g生「みたまの力」/ホナミ生「うた・俳句」/穂波生「リバイバル」/*「編 S後記」 259 1940,6ユ0 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「われは光なり」/*「聖書余談」/穂波生「菊池姉に」/ 苳g生「人の光りなり」/ホナミ生「即詠」/おさだ生「完勝を祈る」/*「編 S後記」 263 1940ユ0ユ0 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「祈りの一致」/穂波生「信仰上の話題」/ほなみ生 u洗礼」/ホナミ生「人生の勝利者」/穂波生「詩集 病床の祝祭を読む」/*「聖 送]談」/ホナミ「附記」/*「編輯後記」 264 1940.llユ0 長田嘉吉 i穂波) 神谷書庫 *「セ・ラギ」/長田穂波「永生の感覚」/編輯室「祝霊交弐百六拾四号発行」/ 苳g生「瞑想断片」/ほなみ生「おもりゆく病ひにも」/穂波生「輝けるもの」/ ルなみ生「国防と救癩問題」/*「編輯後記」

(12)

一92一 滋賀大学経済学部研究年報 Vol,15  2008 ころ2刷となり,総計2500部を配布したという。 すると,「始めて斯る療養所があると云ふこと, 並に世にも不幸なる方’々の多いと云ふ事を知っ た人が多いばかりでなく,斯る不幸なる境遇に 居らる・皆さんでも,かくの如く精神的に発奮 努力し,健康なる者よりも却って平安なる生活 を送って居らる・・人が聡くないといふことに敬 服し感激し,それに依って救はれた人々も響く なかったのであります」と,前年の慰問をふり かえっていた。  田中は訪問記を芸妓たちにも配った。その目 的は,  これによって,又失礼ながら不幸なる境遇に居  られるこれ等の人々の心を清くすると共に,此  の職業の人々は,日々種々の方面の人と話をす  る機会が多いのでありますから,これによって  癩病並に癩療養所に対する社会の人々の正しき  理解と同情を喚起する事に役立ってあらうと考  へたから だった。田中の訪問記が芸妓たちの「同情の心」 をうこかし,療養所慰問を彼女たちが「熱望」し, それをまた田中が「社会の不幸と辛酸を知って 居るこの芸者達の心の奥に湧いた真情程,純粋 なものは余り多くない」と誉め讃えたのだった。  この芸妓による療養所慰問は,田中の『多年 居雑録』(田中門下生同窓会爪弾第三号別刷, 1936年か。霊交会所蔵)にも記録されている。 これが3つめの記録となる。同書には,芸妓慰 問のときの田中の挨拶をふくめた田中「大島療 養所を訪問す」と,『報知大島』(7月5日。執筆 者不明)に掲載された「田中文男先生に謝す」, 『藻汐:草』8月一号に載った飯崎「感激の譜」(前掲) の3稿が収録されている。田中の文章には,さ きの『藻汐草』に掲載されたのとおなじ文章が 「私の挨拶」として再録されている。そこでは,  皆さん,金力を以てすれば,或は世界の名優を  此処に伴ひ来って皆さんにその演技を御覧に入  れることが出来るでありませう,然し必らずし  も,その心迄持って来る事は出来ますまい。本日,  ここをお訪ねした女達の総ては,皆その内にあ  る真心を捧げて来て居るものでございます。 と芸妓たちの「真心」を披露し,彼女たちを「貧 弱なる一行でありまずけれども,此の人達は岡 山に覧て,一流の人々であります」と讃える。 療養者と芸妓をまえにした挨拶をふりかえりな がら田中は,訪問記にうながされて芸妓たちが 慰問を希望したところ,「さて実行となると, 誰か勝手を知ったものがこれを引率して行かね ばならない。〔中略一引用者による。以下同〕」 私が連れて行けば何時でもまとまりさうだが, 教職にある私は大分これを躊躇した」との心情 も明かしていた。  慰問に訪ねた芸妓と世話人は16名。午後0時 30分から3時までの演芸は,「慰問者と病者との 問の呼吸がぴったり合した息づまる様な光景は, 私〔田中〕の今に隣るる事が出来ないところ」 となり,また芸妓たちにとっても,「『あの日の 舞台で踊った折ほど,からだ一杯で踊った気持 はこれ迄に無かった』と言ひ,且又皆が「良い 事をさして下さった』と言って涙を流して私に 御礼を言はれたことも,私としても有難くもあ り,軽いちらしく感じたことであった」という, 両者の体験となったと記録された。  「療養所内週報「報知大島」」から転載された 「田中文男先生に謝す」はまず,昨年の訪問記 発行とそして今回の芸妓慰問などへの感謝を述 べ,田中の挨拶を想起して,それをつぎのとお り示した。  『同行の芸者の人々は心から皆さんを慰めたい  と云ふ人々である。金力,権力によるならば,  はるかに優れた芸術家を,諸君に持って来るこ  とが出来やう。併し金力権力,強権によって真  実心,まこころを持って来ることは出来ない。  此の意味で蕪に同行した芸者の慰問は,仮令拙  い舞踊であるとしても尊いものである』との意  味のことをお話し下さった。芸者の方々の斯様     マ マ ユ  な御高情に謝すことは勿論乍ら,其お言葉は即  ち先生の尊いお姿である。 この謝意を記した療養者はさらに,「何物を以 って先生に応へる可きであるかを再思せねばな

(13)

〈資料紹介〉長田穂波日記1936年(3)  療養所のなかの生の痕跡  (阿部安成) 一93一 らない」とうけとめて,  いたづらに憐欄同情を得ることに足れりとする は乞食の愚劣と何ら選ぶところがない。私達は 自己の生活を反省自重し,益々人格的向上を図 り大島楽園化のために,失って得たところの此 の生命を結集しなくてはならない。〔下線は原文  の傍点〕       マ マ コとの決意を,「田中先生の御高志」への「真実」 の応答としたのだった。これをうけた田中は, この謝辞転載にあたって,さきの引用のとおり 傍点をつけたうえで,「此の訪問が単に病者を 慰さめた計りで無く,更に病者諸君の反省自重 に資したところがあるとすれば,望外の幸であ る」との「附記」をくわえた。  穂波は,この芸妓慰問について多くを記して いない。彼と田中とのあいだにあった相談も, その内容はわからない。穂波はただ感謝をあら わすだけだった,田中によるこの芸妓慰問は, 大島療養所にあるいくつもの「真心」や「真実」 の所在を明らかにした。だが,そこでの田中の 「躊躇」はなんだったのだろうか。もちろんそ れは,大学教官が芸妓を派遣するかのような所 為をめぐるためらいである。芸妓のなにが,彼 を躊躇わせたのか。艶やかな舞台の華やかな芸 妓たちは,他方で,社会の不幸と辛酸を知り, 苦しき道を生きるひとたちとみなされた。不幸 な療養者と不幸を知る芸妓たちとの交流の場に は,息がつまるほどの「まこころ」があらわれ た。それはまた,彼女たちの純真な慈愛の賜で あり,それへの療養者たちの応答が,所歌の斉 唱と,自己の生活への「反省自重」と,「人格 的向上」の誓いとなったのだ。一方通行の憐欄 と同情は自分たちを「乞食」に既めるだけだと の自尊が,あるべきものになろうとする自己彫 琢となってあらわれたのである。  田中は,芸妓にも療養者にもなることはない と確信する地歩を確保し,そこから芸妓のいじ らしさや,療養者の修養を幸とするのだった。 穂波はこうした出来事をどのようにみたのか。 いまはまだ,よくわからないことである。  さて,読書するひととしての穂波をみよう。 この7月から9月にかけては,薄田泣董『草木虫 魚』,『聖書辞典』,金井為一郎『支那開拓伝道 者ハドソン・テイラー伝』,土山鉄次『幽囚書 翰コロサイ書詳解』,『藤井武全集』第L4∼6巻, 内村鑑三『旧約十年』が,日記に記録された穂 波の読んだ書である。  内村,藤井,土山の著作については,本連載 (2)でふれた。ハドソン・テイラーの伝記に, 穂波はずいぶんとこころをうこかされたようだ が,霊交会図書室の同書には「大島霊交会蔵書 印」が押されているものの,穂波による書き込 みはいつさいない。  『藤井武全集』については,『遠交』第232号 (1938年3月10日。神)に,穂波が「藤井武全集 発行について」を記している。「彼の神学は,  ママ  彼れの生活を離れてみない点に於て,生々しい 血の叫びとなって居る,特に『薫の婚姻』は全 人類の内に理解者は少数であるまいか,日本に 生れし神曲である1」と穂波はうけとめ,「私 は聖書研究上に於て,彼れに学ぶ処甚多く,『藤 井校』の一生徒と思って研究しつ・ある」と自 己をさだめている。『黒の婚姻』は全集第1・2 巻に収録されている。霊交会図書室にある「藤 井武全集』第1・2巻(矢内原忠雄編,藤井武全 集刊行会,1939年,再刊)には,やはり「大島 霊交会蔵書印」がみえるが,この本には書き込 みがない。  霊交会図書室の蔵書は,穂波を知るにさいし ても,また療養所の生をとらえるうえでも意味 のある手がかりになる,とわたしはみている。 ただときおり,そうした期待を挫くように,あ るべき本がなかったり,あってよさそうな読書 の跡となる書き込みがなかったりする。あたり まえのことだが,残ったり残されたりしたもの は,後世に使われるなどと想定していないのだ から。 7月1日(水)

  EZD

読書/第二日目の聖書研究。『天

(14)

一94一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.15  2008  にまします我らの父よ』,これだけを約一時  間説く。/村田君と後にて信仰上の事を話す  よかりし/○勿体なやたずねて食って夏百日 7月2日(木)随筆集を読む/未だ未だ物の見  方の浅薄な自分と言ふものを教へらる・処あ  り/兎に角も未だ未だ勉強が必要なり/○集  い来て句会にき合ふ浜館

7月3日(金)聖書研究

7月4日(土)聖書研究/宮下兄永眠/0忠実

 な人は去り行き梅雨くらき 週末余白 0遠海に漁火みえて夕涼み/○納涼  や前の島より昇る月/O夕涼み月に輝く微笑  かな/O手作りの腰かけ出しぬ夕涼/〇五月   い つ  晴どこまでつ・く雨じゃやら   ミ ミ

7月5日(日)SS,集会,葬式/○露涼し恵

 の家の建つところ          しママコ7月6日(月)終日叫泣の随筆集を読む5)。/  物の見方と言ふ事について,種々に考えさ・  る・処がある/私自身としては淡白に過ぎる        ほ    のであるまいか?/○蛍火や水村の夜の静か  なる/(多田正夫氏退職さる)

7月7日(火)今日も読書と研究に終日す

 る。/宮内先生御一行を迎へて集会する/私  は今後は大いに自分の体験をバ語らむとす/  0行きがけて又戻りけり大出水 7月8日(水)夕べより体温下=を覚ゆ/主の  祈の研究を今日で終了。/次回は神より与へ  られるま・に又研究を致し覆い/0 7月9日(木) 少しく,気分悪く,大方ねて  居た/○そのま・に納涼して居り寝台車/○  磯そひに岬まで行く納涼かな/0縁に出て独  り涼める盲かな/○青年は角力はじめし納涼  かな 7月10日(金)今日も休む/○納涼に軽症の人  出きりたる/○人皇つた浜に出て来て涼みを  り/○流れ星を海の上に視て涼みけり/○  夕涼み朝の手紙を語り居り/○納涼や松籟 5)『草木虫魚』(創元社,1930年第23版,初版1929 年)か。霊交会所蔵の同書に書き込みはない。      の  海門療の庭    ミ ヒ 7月11日(土)この日も休/午後四時より十時  迄評議員会をバ開く。/大島の平和を大いに  考へる。/余は最近祈りの勘きを思ふ/神よ  祈らセ給へ/0 週末余白 7月12日(日)SS(大),集会=時,司会を受  く/高松の森本兄,出席さる・/成り出しも        ママコ  のと生る・ものとの相異を述べて,キリスト  の救ひを説く。/0/京都伊賀姉より祈を求  めらる・ 7月13日(月)錆夏閑談,八枚/今日は評議員  の話にて,半日すごしたり/○船にねてつぎ  つぎかはる景色哉/これを高知の藤井信子姉  へ送る。 7月14日(火)原稿十二枚/今日は評議員会あ  り/室長会あり,種々なる事務を執る 7月15日(水)霊交の編輯を終る/手紙を書く。  三通/田中静夫先生死亡との知らセあり/明  日よりは又勉強である/0 7月16日(木)今日は休み,読書すこし/疲労  して居ます。/北村老に手紙を書きます。/  灸をすゑてあげました/0 7月17日(金)長谷川敵先生より脇田政孝博士  を御紹介して下さる。/森作一氏より本二冊  送らる6)/信田義夫氏の葬式に行く/0

7月18日(土)書類作る/大西伴太郎丸昇

天。午後〇三十八分なり。/オゾーン療法の  し  マ    マ     ハンプレットが四冊届く。/大塚さんが又な  くなると言ふ。/0 6)京城府黄金町の培文堂森書店(または培文堂)の 森作市。この2冊がなにかはわからないが,かつて 森は穂波に『信仰生活に於ける勝利への道』(トー  レイ著,森渓川訳,培文堂,1934年)を送ったこ  とがあった。霊交会蔵同書の表紙見返しに「謹呈/ 長田穂波様/昭和九年九月二十五日/森渓川」の 署名がある。穂波はこの出版社から『回春の太陽』 を1933年に刊行した。『霊交』第192号(1934年ll 月10日置神)に森南川の著書『信仰と人生』『勝利 への道』(ともに培文堂)の広告があり,「附記   一本絶交誌は良書良品にあらずば決して紹介せ ず/穂波生」と記されている。

(15)

〈資料紹介〉長田穂波日記1936年(3)  療養所のなかの生の痕跡  (阿部安成) 一95一 週末余白 7月号g日(日)大西伴太郎乙の葬式司会/南面  居先生一行の俳句慰問と踊りの溶血とあり/  大塚兄の葬式が午後にあり/七時より所長と

 会見/0

7月20日(月)暑さのため休みたり/他より聖  者と視ても,彼れ自身としては,悩みと闘え  る弱い人であらふ・・…  しかし彼はその  悩をして生命人格の糧と善化して居る処に,  聖者と言はるべき価値がある1/0 7月21日(火)0うるさいと思ふこの世を逃れ  得ぬ,生命の悩み,今日も味はふ/悩みの中  に有るのか人生である。悩を逃る・事は出来  ぬであらふ。然し神は悩によって伸びる生命  を賦与して下さってある。感謝である1/0 7月22日(水)集会司会/田中先生の御相談に  答へるべく手紙記したれども,十分ならずし  て終る。/○祈り屋の奥にこもりて世の幸を  願ひ心をひたに=らかむ 7月23目(木)今朝は田中先生への返信を十三  枚認む。/慰問万才を見物に行く,面白いと  思った。/別に何もセずして雨の音を聞く。 7月24日(金)雑誌二冊読む。/俳句二十余り  造る/四十号へ行きウドンのこちさうになる,  甚だ甘味/いよいよ勉強を怠る。/○夏やセ  につい怠たれる読書哉 7月25日(土)今日は朝より読書す。/聖書辞  典を学ぶ。訓さる・処t多大なり/信仰である,  智慧でも学問でもない… 神である・・…  何事も神に由りて押下を仰ぐのである,聖旨  によるのである。/○所長碑や青年団の盆灯  籠 週末余白 7月26日(日)SS,集会/ていでん/今日は  室の天井を張って呉れるとて大騒動する。/  足継甚だ痛し。/午後六時頃に張り終へて,  掃除にか・・る。/○新しき天井張りて風涼し 7月27日(月)聖書辞典/ていでん/田中先生  より。一金五百円,ラヂオ設置/一金千二百  円,互助金のため慰安会へ/一金参百円,霊  交会へ/尚,但馬美方郡浜坂町へ御避暑との  御通信ありたり。 7月28日(火)東京より神学部の伊藤と言ふ田  所さんの友人が来られて集会あり。/ていで  ん/『自分も悩める者にしてキリストに活か  さる・事を証言する。我れキリストを誇る,  我れ何人にもこの事実を信じてゆずらず』 7月29日(水)○今日もまた暑い暑いで過ごし  けり/評議員の仕事を一寸として。/辞典の  研究す/何か内に物不足を霊の上に覚ゆ 7月30日(木)ハトソン,テイラー伝7)/神  よあなたは私の霊性を憐みて,テイラー伝を  机右に備へ置き下さった事を,有難く感謝を  いたします。/汝の誓約は我が上に事実とな  り給はん/アーメン。 7月31日(金)神よ,ハトソン・テイラーにな  し給ふた処,また彼れに書かしめ,言はしめ,  思はしめし処を,この小さき僕の上にも,そ  の如くなし給へ・・…  。/父なる神よ,  我が霊は新に力を得つ・あり,希ば汝の業を  我が内に活きてなし給へ。/僕こ・にあり用  ひ給へ…  アメン 8月1日(土)聖書研究/評議員の事務を取扱  ふ/慰問野球をバ見物する,五対零にて,患  者軍敗ける。/別に変りなし。 週末余白

8月2日(日)SS,集会/野球を聞く,演芸

 を聞く/○○事件ありたる由。/鉄道青年来       に  る,我=あり。/○夕立やラヂオを止めて終       ヒ  いけり 8月3日(月)今朝,江木長助兄昇天セらる/  青年団主催の晶評会あり/小雨ショボショボ  と降りそ・ぎて,涼しさの気た・やう。/予  は手紙記しつ・人生を思なり/○夕立の過ぎ  て軒端の思しずく 8月4日(火)宮内先生御一行を迎えて。午前 7)金井為一郎『支那開拓伝道者ハドソン・テイラー 伝』(日曜世界社,1936年)。霊交会所蔵同書には 書き込みがない。穂波はのちにこの出版社から,  『穂波実相』(1938年)を刊行する。

参照

関連したドキュメント

〔付記〕

  中川翔太 (経済学科 4 年生) ・昼間雅貴 (経済学科 4 年生) ・鈴木友香 (経済 学科 4 年生) ・野口佳純 (経済学科 4 年生)

平 成十年 度(第二 十一回 ) ・剣舞の部幼年の部 深谷俊文(愛知)少年の部 天野由希子(愛知)青年の部 林 季永子(茨城) ○

土肥一雄は明治39年4月1日に生まれ 3) 、関西

一方で、平成 24 年(2014)年 11

最近一年間の幹の半径の生長ヰま、枝葉の生長量

経済学研究科は、経済学の高等教育機関として研究者を

令和4年10月3日(月) 午後4時から 令和4年10月5日(水) 午後4時まで 令和4年10月6日(木) 午前9時12分 岡山市役所(本庁舎)5階入札室