東 南 ア ジ ア研 究 20巻3号 1982年12月
資料 ・研究 ノー ト
水 田 ミ ナ ン ガ
サ グ ン ・ ト ラ ジ ャ の 一 枚 の 水 田 を め ぐ る 社 会 人 類 学 的 覚 書 き
山
下
晋司*
U,
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nga:
An AnthropologicalNoteofSa'dan Toraja Rice CultivationShinjiY AMASHITA*
This paper,partofa largersocialanthroI pologlCalstudyoftheSa'dan ToraJaPeopleof South Sulawesi,Indonesia,deals with agrlCuト turallifeonthebasisofobservationsmadefrom September1976toJanuary1978. Thedominant mode ortheiragrlCulturalsystem varies from wet-rice cultivation to dry-丘eld and swidden cultivation,dependingon the ecologicalcondi -tionsortheparticularreglOn. Here1presentan ethnographicaccountofavillagewherewet-rice cultivation dominates,rocuslngOnaparticular 丘eld:UmaMinanga. Eachwet-ricefield(〟ma)in theSa'danTorajahasitsownname,andthefield in question iscalledM inanga("Mouth of a
Ⅰ
は
じ め
に
こ の 小 論 は, ま ず サ ダ ン ・ トラ ジ ャ の 農 業 を 概 観 し, 次 に筆 者 が 現 地 調 査 の 期 間 中 , 詳 細 に観 察 す る こ と の で き た 一 枚 の 水 田 を 社 会 * 広 島大学総合科学部 ;Facultyoflntegrated
Artsand Sciences
,
Hiroshima Universlty,
1-ト89Higashisenda-machi,Naka-ku,Hir o-shima730,Japan
1)本稿 は, サ ダ ン ・トラジ ャに関す る 筆 者の社 会人類 学 的研究 の一環 を なす。 調査 は 昭和50
River")afteritsgeographicallocation.
First,Idescribethesocialrelationscenteringon thisonefieldinthesettingofahierarchicalvillage society,with specialrefTerence to the relati on-shipbetweenthewealthylandowner,a member orthenobility,andthepoortenantcultivatorsor lowerclass. Ithentracehow this缶eld wascul -tivated and managed in the agrlCulturalyear 1976-77,andconsideritsecologlCal,economic, andritualimplications. Finally,Ievaluatethe socialchanges of the 1970S. This approach revealshow theSa'danTorajabehaveandthink irlrelationtotheirricefield. ,I 人 類 学 的 に 検 討 す る こ とを 目的 とす る
。
1
) 検 年度 文 部省 ア ジア諸 国派遣 留学 制度 によ る 筆 者の イ ン ドネ シア滞 在 中に行 わ れ, タナ ・ト ラジ ャ県で の 滞 在期 間 は1976年9月∼1978年 1月 の16カ月 間で あ る。 この調 査 にお け る筆 者 の主要 関心 は, 彼 らの儀礼生 活 にあ り, 本 稿 の テ ーマで あ る農業 に関 して は 副次 的な調 査 しか行 な って お らず , 調査 も 十分 とは言 い 難 い。 に もかか わ らず 本稿 を ま とめ ることに な った の は, 京都 大学 東南 ア ジア 研究 セ ン ターでの 束 イ ン ドネ シア にお ける 農業 の比較 研 究 に関す る セ ミナ ー (1981年7月 ) に参 加 し, 本稿 の骨子 を 発表 させ て いただ いた こと によ る。 お招 き くだ さった 前 田成 文教 授 を は じめ, セ ミナーで 貴重 な コメ ン トを いただ い た各位 に感謝す る。東南 アジア研究 20巻3号 図1 タナ ・トラジャ県 討 の 対 象 と な る水 田 は ミナ ンガ
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という固有名 を もつが ,筆者 は この水 田 ミナ ンガが,1
976/
77
年 の農耕暦 において,どのよ うな生態学 的 ・社会経済 的 ・宗教儀 礼的状況 下 に経営 ・耕作 されたかを記述 ・検 討 してみ よ うと思 う。 ミナ ンガ 田に焦 点を しぼ る理 由 は, この水 田が住 み込 んだ家 の前 に位 置 して いた ことか ら,筆 者 は 日々 この水 田を観察す ることが で 普, この水 田 とともにサダ ン ・トラジ ャの稲 作 の1年 を H経験''した とい う実感 によ る も ので あ り, さ らに, あ る意 味で は偶然 によ っ て与 え られ た この事例 の検討 を通 して, サ ダ ン ・トラジャの一枚 の水 田を め ぐる民族誌 と で もよぶべ き ものを提 出 してみたい と考 え る か らで ある。 サ ダ ン ・トラジャとよばれ る人 々は, イ ン ドネ シア, ス ラウェ シ島内陸 山地部,サ ダ ン 川上 流域 に居住す るプロ ト・マ レー系 の民族 集 団で あ る。 今 日, 彼 らの 大部分 は 南 ス ラウェシ州 タナ ・トラジャ県
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に居住 し, 県人 口は約3
2
万人(
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年) で あ る。彼 らはひ とつ の民族集 団をなす3
7
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Sulaw esi keca〃7a/m 7 A.Mengkendek B.MakaleC.
Sangalla' D.SanggalangiE.Ramtei)a() F.Sesean G.RilldillgAll() H.Saluptltti f.BnnggaKaradeng ちのの,県 内の諸慣行 は かな りの地域的偏差 を示 し [山下
1
978:76-7
7
], ここで取 り上 げ る水 田 ミ ナ ンガ は, きわ めて ヒエ ラル キカル な社会構成 を もつ県南部 に位 置 して い る。 それゆえ, この事例 か ら得 られ る彼 らの稲作 生活 に関す るモデル は, 県全体 に適用 で きる とい うよ りも県南部 の社会 的 コンテ クス トを濃厚 に反 映 した もの で あ る こ と 杏, あ らか じめ ご承知 いた
だきたい。
II サ ダ ン ・トラジ ャの兼業 :概 親 (1) エ コシステム サダ ン ・トラジ ャ (以下 たん に トラジ ャと よぶ) は,8
00-1
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の 山地 に居住 してい るが, その生業 は,焼畑 で はな く, 棚 田によ る水 田耕作 で あ る。 しか し, 水 田耕作民 と い って も,彼 らの文化 を検討 してみ る と,東 南 ア ジアの 山地焼畑耕作民 に特徴 的 な文化要 素 (水牛 ・豚 の供 犠祭宴, 巨石 の設立, かつ て の首 狩 り慣行,船型 モチ ー フの使用 な ど) を濃厚 に保有 して い る。 また,表 1に示 され るよ うに,技術 的観点 か らみて も, 川 もし く は山腹 か らの湧水 を溝 ない し竹樋 で ひいた村 の慣行濃蘭 (
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が せ いぜ いの ところで(
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%) 描, いわゆ る天水 田
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の カ テゴ リーに属 す る。つ ま り, トラジャの水 田 は, 自然を改造 した稲 の "養殖場M(
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ab-rication ofan aquarium) [Geertz
1
963:
31
]
とい うよ りも,熱帯 の多雨地帯 とい う自 然条件 を利用 した ``自然水 田川 とい った方が山下こ永日 ミナ ンガ 表 1 タナ ・トラジャ県の水 田のカテゴ リ- (県統 計 :1975年) Mengkendek
2
loo0
0 弓
tら Makale Sangal_h' Sanggalangl■I i 30(loo) 宅 RantePao Sesean RindingAllo 7∩() Saluputti BonggaKaradeng 計 (ha) (O%) ⅠⅠⅠ ⅠⅤ 計 (ha) 575 I,674 2,349 575 772 I,3475
0
0
1,401 2,101 350 4,546 4,996 900 372 1,272 798 1,304 2,402 25() 2,149 2,399 1,198 1,848 3,04()辛Ipengairan technis (技術涯概), TTpengairaflSelengah lechnis (半技術港概), IIIpengairansederhanapedesaan(村の慣行港概),
IV tadahhujan(犬 水 田) 表 2 タナ ・トラジャ県の耕地面積 (県統計 :1975年) (i) 一 般 に水 田耕 作 は トラ ジ ャの生 業 とい え る け れ ど も, 表 2に示 され る よ う に, 焼 畑 耕 作 も県 内周 辺 部 で 行 わ れ て お り, ま た水 田面 積 は県 内 で か な りの バ ラ ツ キが み られ る。 こ う し た こ と は各 地 の生 態 学 的 な 条 件 を 反 映 して い る と考 え られ るO つ ま り, ボ ンガ カ ラデ ンや リンデ ィ ンガ ロ と い っ た 水 田 比 率 の 低 い 郡 は, 森 林 や 水 田 に適 さ な い 土 地 を 多 くか か え て お り, 水 田 よ り も畑 地 (常 畑 , 焼 那 (kecamakzn) (面碑比水凹ha%)「苫 畑 焼 畑畑 菜地 園ha畑 地 合 計 (tegalall)Lla(由ngJ(〆kayangan) (面積比%) Mengkendek 2,349(6.5)l10,671 1,181 193 12,0-15(33.5) Makale 1,347(12.8) 2,119 795 195 3,109(29.5) Sangalla' 2,101(9.7) 6,852 420 125 7,397(34.3) S。_nggalangi' 4,996(10.8) 1,1.95 4,535 300 6,030(13.1) Rz-1.ntei.)aO 1,272(17.5) 727 529 120 1,376(19.0) Sesean 2,402(7.1) 6,473 1,117 260 7,850(23.3) RindingAllo 2,399(5.2) 6,208 1,738 245 8,191(17.8) Saluputti 3,046(12.1) ll,537 1,237 227 13,001(51.5) BonggaKaradeng 1,325(1.4) 43,858 1,756 123 45,737(46.8) 妥 当 で あ る
。
2
)
こ う した水 田社 会 と焼 畑 社 会 の 中 間 的 位 置 を 占 め る とい う トラ ジ ャ社 会 の像 は, タ ナ ・ トラ ジ ャ児 全 体 の 水 田 の位 置 を検 討 して み る と一 層 明 確 に な る。 2) トラジャ語で水 田は 〟∽αとよばれ, この語 は 陸田もし くは 焼畑地を 意味す るイン ドネシア 語の huma に明 らか に対応 している。 この こ とは, トラジャが かつて焼畑 による陸稲耕作 民で あ った ことを 推測せ しめ (cf.Furukawa 畑 ,菜 園) が 卓 越 し, リンデ ィ ン ガ ロ北 部 の 県 境 か ら中央 ス ラ ウ ェ シに か けて の 地 域 で は, 水 田 は な く な っ て し ま う。 逆 に, ラ ンテ パ オや マ カ レの よ うな水 田比 率 の高 い郡 は, サ ダ ン川 沿 い の 肥 沃 な 谷 間 盆 地 に位 置 して い る。 す な わ ち, 生 態 学 的 な 条 件 に 応 じ て , トラ ジ ャ社 会 は [1982:58]),また彼 らの水 田が いわば "水のた まった畑''(前記 セ ミナーでの高谷好一教授の 教唆) であることを示唆 している。 筆者の居 住村のあ る住人 (30歳 くらい) によると, 彼 の 幼少時 (したが って20-30年前) には陸稲 は かな り広 く栽培 されてお り, それが今 日 ト ウモ ロコシや キ ャッサバの畑 に 変わ ってい る とい う。 また田中は, 商 ス ラウェシ,ル ウ県 の 移民 に よる 農業開発 に おいて ,"焼畑的水 田''(sawahladang)とよばれ る焼畑 と水 田の関 係を考え る上で, 興 味深 い事例を 報告 ・検討 して いる[Tanaka 1982:93-96]。東南 アジア研 究 20巻3早 表3 タナ ・トラジャ県の面積 と人 口(県統計 :1975年) 那 (keca77∽hm) 面積(km2) 人口(人) 人口密度(人/km2) Mengkendek 360.00 32,538 90.4 Makale 105.50 36,547 346.4 Sangalla' 215.85 21,570 99.9 Sanggalangi' 461.08 54,811 118.9 RantePao 72.50 22,748 313.8 Sesean 336.37 40,267 119.7 RindingAllo 461.40 41,463 89.9 Saluputti 252.21 40,694 161.3 BonggaKaradeng 977.00 21,862 22.4 水 田型 か ら焼 畑 型 に至 る偏 差 を示 す 。 (ii) トラジ ャにお いて も, 水 田の展 開 と 人 口密 度 の間 に は密接 な相 関関係 が あ る (義 3参照 )。 マ カ レとランテパ オの 2郡 はおの お の町 の区画 を もち, 恒 常 的 な市 場 ・店 舗 が 存 在 す る。人 口密度 は,1km2当 りマ カ レで 346.4人 ,ラ ンテパ オ で313.8人 とい う高 さを 示 して い る。 他 方, ボ ンガ カ ラデ ン郡 の人 口 密 度 は22.4人/km2で, これ はいわ ゆ る外領 イ ン ドネ シアの平均値28.9人/km2(1978年 ) に 近 い [Indonesia,Biro Pusat Statistik 1977/78]。 (iii) 県全 体 の水 田比率 は6.6%, 人 口密 度 は96.4人/km2 で あ る。 この数 字 は, 山地 とい う条 件 , 一般 に石灰岩 質 のやせ た地 味 を 考 慮 に入 れ る とき, け っ して大 きな発 展 の余 地 を 残 し た も の で は な い (cf.Nooy-Palm [1979:13])。 前 述 の よ うに, 水 田比率 と人 口密度 の低 い ところ は,生態 学 的 な条 件 に起 因 して い るので あ る。また, 県人 口は1930年 の186,269人 か ら1975年 の312,656人 と約66% 増 加 して お り, この増加 した人 口に対 して県 全体 の水 田 17,697ha (1971年 ) か らとれ る 米 (約 40,000t)は, 県民 全 体 にふ り当て た とき,
1
年 の うち7
カ月 分 しか な い とい う計 算 が あ る[Crystal 1974:148]。す なわ ち, 生 態 学 的 に は, トラジ ャの水 田耕 作 は1970年 376 代 に は伝 統 的 エ コ シ ス テ ム の 限 界 近 くまで きて お り, 新 しい技 術 を導入 しな い限 り, 増 大す る人 口 圧 を吸収 す る余 地 はほ とん どな い よ うにみ え る。 事 実, これ を裏 づ け るか の よ う に, 1960年 代 よ り "出かせ ぎ'(merantau)現 象 が み ら れ は じめ,70年 代 に はその傾 向が 一層 強 ま って い る。
3
) 他 方,70年 代 よ り政府 指導 の もと新 品種 の採 用 ,二 期作 の導 入 が一 部 で試 み ら れ,80年代 に は, この試 み は さ ら に拡大 され,恐 ら く技 術 港潅 (pengairantec h-nis)も導 入 され る と予想 され る。 畑 作 につ いて, 次 に簡単 にふれ て お く。 畑 作 物 と して 主 要 な もの は, トウモ ロ コ シ, キ ャ ッサバ, サ ツマ イモ, 豆類 , バ ナ ナ, お よび コー ヒー と野 菜 で あ る (表4参 照 )。 と 表4 タナ ・トラジャ県の主要農産物 (県統計 :1975年) 作 物 作付面積(ha) 収 穫(t) 水 稲 * 19,374 66,744 キャッサバ 3,013 29,265 トウモロコシ… 1,623 973 サツマイモ 1,741 15,502*
1970年の統計では作付面積は17,686ha,収穫 量 は約40,000tとされている[Nooy-Palm 1979:13] 。 **茶谷ほかによると作付面積は 4,695ha,収穫 量は2,816t(1971年)[茶谷ほか 1981:5]。 ***収穫量は1971年[同所]。 くに 最 初 の 三 つ の 作 物 は, 稲 刈 り前 の2∼ 3 カ月 間 の "空 腹 期"に は重 要 な食糧 源 とな る。 前 述 のよ うに, 多 くの住民 は米 を 1年 を通 し 3)出かせぎにおいて 貯え られた富は, とりわけ 祭宴において消費 され,1970年代には これに よって 伝統的な儀礼の執行が 活発になるとい う興味深い現象がみ られる。山下 :水 田 ミナ ンガ て 食 べ るほ どの収 穫 を見 込 め な い の で あ る。 コ- ヒ- と野 菜 は 換 金 作 物 と して 重 要 で あ る。 コー ヒーの作 付 け はオ ラ ンダ植 民 地 政 府 到来 (1906年 ) 以 前 に さか の ぼ り, と くに19 世 紀 末 に は コー ヒ ーの利 権 を め ぐって "コ -ヒ-戦 争 門 が み られ た ほ どで あ る [Volkman 1980 :52-54]。 コー ヒー栽 培 が成 功 した年 に は, トラ ジ ャの儀 礼 が盛 大 に な る とい わ れ る [Nooy-Palm 1979:13]。野 菜 ,と くに キ ャ ベ ツ, トマ 1,, ジ ャガ イモ とい った新 種 の野 菜 は, 彼 らの食 卓 に の ぼ る とい うよ り, 新 し い換 金 作 物 と して 県 外 の 都 市 部 へ 輸 送 され る。 1970年 代 に は, トラジ ャの観 光 地 化4) に と もな う交 通 網 の 改 善 の結 果 , この傾 向 に拍 車 が か か り, トラジ ャは良 質 の 高 原 野 菜 の産 地 と して知 られ るよ うにな って きて い る。 最 後 に, 次 の 点 に注 意 して お きた い。 す な わ ち, 水 田 と畑 作 の対 置 は, 儀 礼 ・象 徴 的次 元 にお いて重 要 な意 味 を もつ とい う点 で あ る。 水 田 か らとれ る 米 は生 も し くは 神 々
(
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eata) と 密 接 に 結 びつ いて い るの に 対 し, 畑 作 物 (と くに トウモ ロ コ シ) は死 と 象 徴 的 に結 び つ い て い る [山下 1979a:8]。 (2) 生 態 学 的 時 間5) 降雨 は 彼 らの稲 作 に 直 接 の 影 響 を 及 ぼす(
水 田 の 大 部 分 は 天 水 田で あ った こ とを 想起 せ よ)。 も っ と も,表 5, 図2か ら も うか が え るよ うに ,降雨 パ タ ー ン は県 内 で か な りの偏 差 を 示 す 。 一 般 に, 雨 期 はア ジア 大 陸 か らの 表5 タナ ・トラジャ鬼の降雨量 (県統計 :1967- 1976年平均) 202 249 286 云汀 喜盲6 425 440 川1m1 60(1 5()0 iou 300 200 100 0 …6 7 8 9 10 ll "i-21 131 93 131 113 136 192 251 計 298 些旦 230 228 401 1 2 3 1 5 6 7 8 9 10 11 12(month) 図2 タナ ・1、ラジャ県の降雨量 (県統計 :1967- 1976年平均)4
)
トラジャの 観光地化に関 して は ク リスタルの 論文を参照[Crystal 1977]。1970年代 は, ト ラジャの 社会史 における 大きな転換期である が, この社会変容 は, 一方において観光,他 湿 った モ ンス ー ンの影 響 を受 ゅ,1
1月 に は じま り 4- 5月 まで 続 く。 風 向 き の変 わ り 目, 対 流 性 降雨 の た め,4
月 が 降雨 量 の ピー クで ある。 7- 8月 は オ ー ス トラ リア 大 陸 か ら の乾 燥 した南 東 風 の た め 降雨 量 が 減少 す るが, 雨 期 /乾 期 の 区別 は そ れ ほ ど 明 確 で は な い。 一 般 に, よ り山が ちな 県 北 部 方 において出かせぎを軸 に生 じている。 5)この概念 に 関 して は, エヴァンス ・プ リ チ ャー ドを参照[Evans-Pritchard 1939]。東南 アジア研究 20巻3号 表 6 サダン ・トラジャの生態学的時間 月 指標 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 1.雨 2.日の出の位置 3.星 見 4.羽 蟻 雨 期 乾 期 ー満 期 + +-1l女の季節〝(南-.北)(夏至) "男の季節〟(北-南) (冬至) "明け方の季節〟 や背の季節〝 ≠隠れる季節〝 "明け方 _a)季 節 'J 5.稲作 ('儀 礼 ) 6.食 糧 (栄 ) 7.祭 宴 …_ー _… ー_- _…ト …ー…_ー___=_一一.W . 羽 責と.ー」 播 種 田植 え 収穫 田起 最 も欠 乏
最
も豊富
こし は県 南部 よ り雨量 が多 く, この差異 は稲 作 サ イ クル の差 異 と して あ らわれ る (県北部 は県 南 部 よ り一 般 に2-3カ月 サ イ クル が早 い)0 しか し,いず れ にせ よ , トラジ ャはイ ン ドネ シアの多雨地帯 (年 間雨 量2,032mm 以上 ) の カテ ゴ リーに入 り[Peltzer 1963:4],気 温 は高度差 によ る差 異 はあ るが年 間を通 して 一 定で,筆 者 の居住 村 (標 高約1,000m)の場 令,朝 18oC, 日中25oC前 後 で あ る。 降雨 のパ ター ンは,彼 らが "年目(taun)を 知 覚す るた めの最 も基本 的 な指標 で あ る。 し か し,彼 らの "年目 は降雨 によ って のみ知 覚 され るわ けで はない。 表6に 示 さ れ る よ う に, い くつ か の 自然 およ び文化 的 な指標 が, 彼 らの =年"-生 態 学 的 時間 を知 覚 す るた め に用 い られ て い る。 (i) 日の 出の位 置 :タナ ・トラジ ャ県 は 赤 道 よ り若 干南 に位 置 して い るので, 日の 出 の位 置 は,夏至 と冬 至 を極 と して南 北 に移動 す る。 この観察 か ら,彼 らは1年 を, 日の 出 の 位 置が 南 か ら 北- 移動 す る "女 の 季 節" (faun baine)と, 北 か ら南 へ 移動 す る "男 の 季 節"((aunmuane)に分 ける。 この分類 で は, 前 者 は,雨 期 によ って特 徴 づ け られ る稲作 労 働 の季 節 で あ り, 後 者 は,乾 期 によ って特 徴 づ け られ る収穫 と儀 礼 の 季 節 で あ る と さ れ る。 (ii) 星 の観察 :観察 の対 象 とな るの は, 大熊座 (bunga'),オ リオ ン ・ベル ト(lemba), 378 南 十字 星 (manuk) な どで あ るが, こ れ らの星 のみえ方 に応 じて,彼 らは 1年 を三分 す る。 す なわ ち, これ ら の星 は, (9 "明け 方 の季 節'' (Jα〟〝 melambi':1
1月下 旬-3月 下 旬 ) に お い て は 明 け 方 に, ④ "背 の 季 節" (Jα〟〝 makareng:3月下 旬∼7月下 旬) にお いて は 膏 に 観 察 さ れ, ③ "隠 れ る 季 節''(faun sumu'duk:7月下 旬∼1
1月下 旬 )において はみ え な い。 この 星 兄 は,pentirolaunan-"年 見" とよばれ る。 この場 合, 最 も重 要 な 時 期 は,⑨ か ら(カに移 る時期(
1
1月下旬 ) で あ る。 とい うの も, この時期 は本 格 的 な雨 期 が 到来 し,稲作 を 開始す る と き に 対 応 して い る。 隠 れ て いた星 の 出現 は,彼 らに新 たな稲 作 サ イ クル の は じま りを告 げ る指標 で あ る。 (iii) 羽蟻 の 出現 :羽蟻 (podong)は年 に 1度 だ け雨 期 が は じま る ころに土 中か ら出て くる とい う。6) それ ゆ え, 羽蟻 の 出現 は, 雨 期 の到来 -稲作 開始 の もうひ とつ の指標 で あ り, 羽蟻 と り (mepodong)は,稲 作 開始直前 の年 中行 事 とい った観 が あ る。採集 され た羽 蟻 は, 食用 に供 され, その脂肪 は彼 らの大好 物 の ひ とつ で あ る。 (iv) 食 糧 (莱) の 状 態 と祭 宴 の 執 行 : 前 述 のよ うに,1970年代 に入 って県 内の一 部 6)これ に 関して は, ある インフォーマ ン トが 語った次のような 興味深い民話がある。 すな わち, ブル ・パ ラ(BuluPala')という名の男 の子に関する民話の 結末部で, ブル ・パ ラは 鶏 とともに 天へのぼり星になる。 妹と犬があ とを 追 ってゆこうとするが, 天へはゆけず, 彼 らは 地中へ入 り羽蟻 になる。 羽蟻 は雨期の 直前に地中か ら出て くるが, これは 年に1度 の両者の 出会い- ブル ・パラと鶏は 雨の, 妹 と犬 は羽蟻の形で- であると解釈されるO山下 :水 田 ミナ ンガ で二 期作 が試 み られ は じめた ものの, 大部 分 の水 田 は降雨 パ タ ー ンを利用 した伝 統 的 な一 期作 で経 営 され て い る。 これ で ゆ くと,収 穫 前 の
2-3
カ月 は 米 の欠乏 した 時 期 で あ り, 米 の豊富 な収 穫 後 の2-3
カ月 と 顕著 な 対照 を示 す 。 そ して,収 穫後 の農 閑期 は トラジ ャ の儀 礼 の季 節 で あ り,彼 らの主 要 な祭 宴 は こ の食糧 豊 か な農 閑期 に 最 も頻 繁 に 執 行 され る。 これ は,生 態 学 的 にみ て, きわ めて 自然 で あ る。 以上 の よ うな諸 指標 か ら構 成 され る生態 学 的 な時 間 の 中で,彼 らの稲 作 が展 開 され て ゆ く。 そ して, こ う した稲 の生 育 サ イ クル に規 定 され た生態 学 的 な時 間 は,彼 らの村 落生 活 に最 も基本 的 な リズ ムを提 供 して い るO(3)
土 地所 有 彼 らの土 地 の諸 範 噂 の うち, 所有 および相 続 の対象 とな るの は,水 田のみで あ る。 他 の カテ ゴ リーの土地 , た とえば畑 地 は,近 年畑 作 物 が商 品化 す る中で,価 値 が認 め られ は じ め, そ の所有 権 を め ぐる訴訟 が起 こって い る が,伝統 的 に は,用 益 権 が 問題 にな る ことは あ って も,所 有 ・相 続 の対象 で はなか った。 この点 は屋 敷地 も同様 で あ る。 空 地 や水牛 の 牧 地 は共 有 され (とい うよ り, 所有 者 が いな い とい った方 が 正確 か も しれ な い), 森 は以 前 は神 々の もので あ った とい うが,現 在 は政 府 の管理下 にあ る。 もっ と も, これ らの土 地 に各人 が植 え た有用 植 物 (コー ヒー, バ ナ ナ, コ コヤ シ, サ トウヤ シ,竹 な ど) は,私 的 に 所 有 され て い る。 水 田の所有 様 式 は大 別 して2通 りあ る。(i)
双 系 も し くはア ンビ リニア ル な親 族 集 団 によ って共 有 され る水 田で ,一般 に uma nene'-"先祖 の水 田M とよばれ る もので あ る. この場 合,当該 の親 族 集 団の世 代 深度 に応 じ, 次 のふ たつ が区別 され る。 (a)遠 い祖 先 (25 世代 を越 え る こ と もあ る) か ら出 自す る親 族集 団(tongkonan)によ る共 有 田で ,umamana' -"家 宝 田"(Indo.-sawahpusaka),あ るい は uma tongkonan-"トンコナ ンの 水 田" な い しumagaronto'-"(木 の) 幹 の水 田" とよば れ る もので あ る。 この先祖 伝 来 の水 田 は他人 に売買 ・譲 渡 して はな らな い 。(b)近 い祖先 (通 例
4-5
世代 ) に由来す る親 族集 団 によ る 共有 田で,uma dianna-"貯 え られて い る水 田" とよばれ る もので あ る。 これ は, 成 員 の 合意 が あれ ば,他 人 に売買 ・譲渡可 能 で あ る。 こ う した共有 田か らの収穫物 は, 当該 の親 族 成 員 間で分 け られ る こ と もあ るが,分 けず に 保 存 し共 同 の祭 宴執行 の際 に消 費 され る こ と もあ る。 と くに収 穫量 が少 な く成 員数 が多 い 場 合 , したが って ひ と り当 りの分 け前 が とる に足 らな くな って しま う場 合 ,後 者 の傾 向が 強 い。 (ii) 第 2の様 式 は, 私 的所 有 で あ る が, これ に は 当 人 が 新 た に 開 い た 田 (uma di -garaga),購入 した もの (umapangali),お よび 遺産 相続 した ものが含 まれ る。 水 田の売 買 ・ 相続 に際 して, 水 田の評 定 は, トラジ ャの富 の基本 的尺 度 で あ る水牛 を媒介 と して な され る。 た とえ ば,2,000kutu'(kutu'-栄 :5束 で約1
gに相 当) の稲 が とれ る水 田 は, 水牛 1頭分 に当 る とい うよ うに。 トラジ ャには村 落 が所 有 して い る水 田 はな いので, す べ て の水 田 は上 記 ふたつ の タイプ の いず れ かで あ る。両 者 の比率 が どの くらい か とい う点 に関 して は,筆 者 は十 分 なデ ー タ を有 して いな い。 印象 的 に は, さま ざまな世 代 深 度 で の共 有 田 はか な りの比率 を 占め るの で はな いか と思 われ る。 と くに世 代 深 度 の浅 い共 有 臥 た とえ ば祖 父 母 の代 の私有 田を, 孫 の世 代 が分割せず に共 同経営 して い る事 例 は頻 繁 に見 出 され る。 この こ とは, 水 田の所 有 関係 を複雑 に して お り, それ ゆえ, 筆 者 の 居住 村 の村役 人 の ひ と りは, トラジ ャで は土 地台 帳 を作 る こ とは不可 能 だ とい う。東南 アジア研究 20巻3号 土 地 (水 田) の相続 にお いて は,性 別 ・長 幼 を 問わず, すべ て の子供 は原 則 的 に同等 で あ る。 相 続 は親 の生 存 中に行 わ れ る こと もあ るが,通 常 は親 の死後 ,葬 儀 の挙行 後 に行 わ れ る。 葬儀 は,遺 産相 続者 に とって戦 略 的 な 位 置 を 占め る。 とい うの も,土 地 ・水牛 ・葬 儀 の間 に は興 味深 い 円環 が み られ,単純 化 し て いえば,土 地 は葬儀 にお ける貢献 度一 水 牛 の供 犠 頭数- に応 じて分割 ・相 続 され る [山下
1
9
7
9
a:26
-
2
8
]。 こう して, 相続 にお け る平等主 義 は, 葬儀 にお ける水牛 供 蟻 の経 済 学 ・政 治学 を通 して競 い合 わ れ る こ とにな るので あ る。 こう した葬儀 の コ ンテ クス トの 中で水牛 を 必要 とす る場 合, あ るい は子供 を学校 に入 れ る とか病 気 で入 院 した とか で現 金 が必要 な場 令, 自分 の水 田を担保 に して, 水牛 や現 金 を 得 る こ とが あ る。 これ が ,me
nt
oe
'
(Ind0.-gad
al
')とよばれ る慣行 で あ る。 この場合 ,水 田の所有 権 は変 わ らないが,水牛 もし くは現 金 が返済 され るまで, 当該 水 田の収 穫物 は相 手方 に渡 る。 この質入 れ慣 行 は, 口頭 の了解 に基 づ いて行 われ るた め, と くに長 期 に亙 る 場 合,記 憶 の相違 な どか ら所有 権 の混乱 を ま ね き, この慣 行 に起 因す る訴訟 は実 に多 い。 しか し, 村 人 に とって, この慣行 は 手 軽 な "村 の銀 行M と して機 能 して い るわ けで あ る。 tII 水 田 ミナ ンガ さて, 次 に水 田 ミナ ンガの検 討 に移 ろ う。 (1) 水 田 ミナ ンガ とプア ン ・ミナ ンガ 水 田 ミナ ンガ は, タナ ・トラジ ャ県 南部 の メ ンケ ンデ ック郡 テ ィ ノ リン村 タ ン テ ィ部# (
Ke
c
amat
anMe
n
gke
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k
,
De
s
aTi
nor
T
'
n
g
,
Kampu
n
gTan
gt
i
)
に位 置 して い る。 テ ィノ 7) ン村 の人 口 (戸 数) お よび土 地利用 パ ター ン は表7,8に示 され,これ によ る と,この村 の 土地利用 率 は水 田1
9%
,畑 地2
0
%,人 口密度 は1
55
人/km
2で, トラジ ャの 中で は この村 が生 態 学 的 に開発 され た地 域で あ る ことを示 して い る。事 実, この村 は, 北 に隣接す るカ 表7 ティノ リン村の
人 口(村 役 場統計 :1975年) kamp74ng(
部落 ) 人 [j 戸数 (^^7度 汽 ,1.angtl 1,070 210 214.0 Ke'pe' 774 169 119.1 Tinorlng 588 107 189.7 Randanan 627 114 149.3 Bala 741 150 119.5 Padang 873 186 203.0 BatuRondon 797 160 139.8 Pangrorean 1,058 234 151.1 表8 ティノ リン村の土地利用パターン(村役場統計 :1975年) kampu
n
g
(部 落) 水 田 畑 住 居地 森 故 地 その他 総計(ha) Tangti 160 110 100 70 50 10 500 Ke'pe' 140 130 130 - 130 120 650 Tinoring 50 40 90 - 60 70 310 Randanan 100 70 120 - 65 65 420 Bala 110 80 100 - 130 200 620 Padang 60 120 100 40 100 10 430 BatuRondon 30 90 110 170 165 5 570 Pangrorean 150 200 150 80 100 20 700 380 ン ドラ村(
De
s
aKandor
a)
とと もに, 旧 メ ンケ ンデ ッ ク首 長 国 の 中核 地域 を構 成 して いた。 ミナ ンガ とは "河 口" の 意 で あ る。 つ ま り, 山腹 に 展 開 され る棚 田を水 系 にた とえ る こ とが で き る とす れ ば, この 田 は この "水 景" (waterscape)の 中で谷底 の山下 :永田ミナンガ 部 分 , あ た か も川 が 海 に注 ぐ部 分 に位 置 して い る。 立 地 条 件 と して は, 高 所 か ら流 入 す る 養 分 の た ま った 肥 沃 な部 分 で あ る。 高 度 は約
1
,
000m
, 広 さ は2-3ha
, トラジ 1,で は ま れ にみ る大 き な 田 で あ る。 この広 大 な 水 田 の 名 に因 ん で , タ ンテ ィ 部 落 の こ の一画 (R.T.) は同 様 に ミナ ンガ とよ ば れ , この 区 画 に は6
9
戸 ,4
0
2
人 が 居 住 して い る (表9
参 照 )。 水 田 表9 タ ンテ ィ部落の人 口 (村役場統計 :1
9
7
5
年) R.T.(区) 人 口 戸 数 A'Batu 95 19 Karang1
3
0
27 Barana 167 33 Tangti 256 55 Minanga 402 69 の 西 側 に は, 国道 が 走 って お り, 県 庁 所 在 地 マ カ レま で は1
2km
,南 ス ラ ウ ェ シ州
の 州 都 ウ ジ ュ ン ・パ ン ダ ン ま で は 南 へ 約3
00km
の 距 離 で あ る O この 国道 と水 田 の南 側 の あぜ 道 が 交 差 す る と こ ろ に,1
9
7
7
年7
月 ま で テ ィ ノ り ン村 の村 長 だ ったH
氏 の 家 と村 役 場 が 位 置 し, 小 高 くな った 水 田 の東 側 に は, ヤ シの 木 立 と竹 林 に 囲 まれ た この水 田 の所 有 者 プ ア ン ・ミナ ンガ の 屋 敷 (慣 習 家 屋 ) が あ るし) プ ア ン ・ミナ ンガ, ミナ ンガ の "ブ ア ンリ (pLLang:県 南部 の 王 族 層 に対 す る尊 称 ) と は 通 杵 で , 閲 有 名 を ラ イ ・ア ンデ ィ とい う。 年 齢7
0
歳 く らい の 女 性 で , 筆 者 の フ ィール ド滞 在 中 の家 主 で あ った 人 物 で あ る。 彼 女 はマ カ レ地 域 の王 族 層 (プア ン) の 出 で , 県 南 部 の 王 族 層 の 中で も最 も純 粋 な 王 族 層 の血 ("白 い血 M) を誇 る ひ と りで あ る。1
93
0
年 代 に, か つ て の メ ンケ ンデ ッ ク地 域 の首 長 プ ア ン ・ メ ン ケ ンデ ッ クの第2
妻 とな った の ち, この 地 に移 り住 ん だ 。 両 者 の 間 に は1男 1女 が あ り, 息 子 のA
氏 は当 時 タ ナ ・ トラ ジ ャ県 県 知 事 (bupati) で あ った . 夫 プ ア ン ・メ ンケ ンデ ッ ク は1
9
5
8
年 に死 去 して お り, ま た 自 ら も年 老 い た現 在 , マ カ レ在 住 の娘 の 家 で 暮 す こ とが 多 い が , そ れ で も稲 作 期 間 中 は ミナ ン ガ に住 ん で 農 作 業 の 監 督 に 当 り, 亡 き 夫 の "城 " を 守 って い る とい う観 が あ る。 ま た,前
述 の 旧村 長H
氏 は, 彼 女 の 異 母 弟 に 当 り, 何 か につ けて 彼 女 の相 談 役 を つ とめ て い る。 水 田 ミナ ンガ は,夫 プ ア ン・メ ンケ ンデ ッ ク の遺 産 の ひ とつ で あ った 。 彼 の 葬 儀 は,1
9
61
年 に行 わ れ , そ の 際 , 今 日の カ ン ドラ村 お よ び テ ィ ノ リン村 を 中心 に散 在 す る総 計7
0
枚 , トラ ジャの稲 束 に して31
0,
4
0
0
束 (約6
2,
08
0
β)
に の ぼ る 水 田 は, 彼 の ふ た りの 妻 の 間 で 分 割 ・相 続 され る こ とに な った。7) これ に よ っ て , プ ア ン ・ミナ ンガ は そ の う ちの 半 分 , 宿 束 に して1
5
7,
8
0
0
束 (約31,5604)と評 定 され る35枚 の水 田 を 相 続 して い る。 水 田 ミナ ンガ は, そ の 中 で 最 も大 き な水 田 で , 年 間2
4,
000
莱 (約4
,
8
00
8)
の収 穫 が 見 込 まれ る 田 で あ る。 因 み に, この 相 続 の た め に, プア ン ・メ ンケ ンデ 、ソクの 葬 儀 に お い て , 大 多 数 の 水 牛 が , 他 の 妻 の名 と と もに プア ン ・ミナ ンガ の 名 に お い て 供 犠 され て い る (前 述 の水 田- 水 午 - 葬 儀 の 円環 を 想 起 せ よ)0 夫 か ら相 続 した 水 田 と は別 に, 彼 女 は 自分 自身 の血 縁 関 係 に よ って 相 続 した 水 間を もマ カ レ ・メ ン ケ ンデ ッ ク地 域 に も って お り, こ れ らの こ とは彼 女 を トラ ジ ャで トッ プ ク ラ ス の 大 土 地 所 有 者 に して い るO こ う した富 と純 粋 王 族 と して の 血筋 , ま た 県 知 事 の 母親 とい う今 日的意 味 で の社 会 的 威 信 を 背 景 に, 彼 女 は, 筆 者 が 属 任 した村 落 社 会 ミナ ンガ の社 会 ヒエ ラル ヒ- の基 軸 を な して い た わ け で あ る。 そ して , 水 田 ミナ ンガ は この "女 領 主 " の最 も重 要 な 富 の源 泉 で あ った 。 (2) 水 田を め ぐる社 会 ・経 済 関 係 プ ア ン ・ミナ ンガ (以 下 た ん に プ ア ン と記 7)プア ン ・メンケ ンデ ック には 3人 の 正 妻 が あ ったが,第3妻 には子供がな く, 遺産相続 者の対象か ら除外 された。東 南 ア ジア研 究 20巻3号 す) のよ うな大土 地 所有 者 の場合, 当然所有 して い る水 田のす べ てを 白身 で運 営 ・耕 作 す る こ とはで きな い。 水 田所有 者 (toma'uma) は必 ず しも水 田運 営 者 (tomendulu')あ るい は耕 作者 (topariu)で はな
い。
この点で, 分 益慣 行 (mendulu')お よび小 作制 (topariu)に 言及 して おかね ばな らな い。 分 益慣 行 にお いて は, 地主 は適 当 なだれか - つ ね にで はないが, 多 くの場合 親族 の者 - に水 田の運 営 を依頼 す る。 依頼 され た者 (tomendulu')は, そ の 田の運 営 ・耕 作 に責任 を もち,収 穫物 は地主 と運 営 者 の間で二 分 さ れ る (mendulu'とは "二分 す る" の意 )。 こ の場 合,運 営者 は 白身 で 田を耕作 す る こと も あ るが,小 作 (topariu)を雇 うこ ともあ る。 後 者 の場 合,運 営者 の取 り分 の うち, さ らに 半 分 は小作 にゆ き,小 作 が複数 の場 合 は, そ の取 り分 はさ らに彼 らの間で分 け られ る こ と にな る。 例 を,筆 者 が居 住 した タ ンテ ィ部 落 に とろ う。 この部落 で プア ンが所 有 している水 田 は, 表10に整理 され る 8枚 で あ る。 これ らはいず れ も彼 女 の私有 田で, この うち ,A∼E は, 彼 女が夫 か ら相続 した 田,F,G は父 親 を通 じて,H
は購入 によ って得 た もので あ る。 運 営状況 を み る と,A は,数年前 娘 が入 院 した 際 マ カ レの 中国人商人 に質入 れ され て お り, 蓑 10 タ ン テ ィ部 落 に お け る プ ア ン ・ ミナ ン ガ の 水 凹 水 田 収穫量(莱) 耕 作 状 況 AB 24,4,000000 Makaleの中国人に "質入 れU(mentoe') Minangaの小作15人が耕作 C 3,000 Lが管理 (mendulu') D E 3,7,000000 BatuKila'の小作8人が耕 作 Hが管理 F 2,000 // G 1,000 Qが管理 382 前述 の よ うに, この場 合借 金返済 まで収 穫権 は相 手 方 に移 る。B,D,H は, 彼 女 が直接小 作 を使 って運 営 して お り (Bに関 して はの ち に詳述),残 りの C,E,F,G は, おの おの運 営者 に依頼 し, 彼 らが おの おのの小作 を使 っ て耕作 して い る。C の運 営 者 L氏 はかつ て プ ア ン ・メ ンケ ンデ ックの部下 で1977年 8月 よ りテ ィノ リン村 新村長 にな った人 物 で あ り, E,F の運営 者 は 彼 女 の 異 母弟 で 旧村 長だ っ たH
氏 , そ してG
の運 営者 は彼 女 のkaunan garonto'-先祖代 々 にわ た り 主 従 関係 に あ る "奴隷M で ミナ ンガの "屋 敷番/料理人''で あ るQ で あ る (この場 合 は夫 が小作 )。 こ う し て,例 を タ ンテ ィ部落 に とって み ただ けで も, 社会 関係 が水 田を媒介 と して "生 き られ て い る''のが わか る。 プア ンは こう した関係 を マ カ レ ・メ ンケ ンデ ック地 域 の あ ち こちに もっ て お り, これ が "女領 主''と して の彼 女 の社 会 ・経済 的な基盤 で あ る。 焦 点を さ らに一枚 の水 田 ミナ ンガ (表10の B)に しぼ ってみ よ う。 この 田 はプア ンの直 接管 理 の もと,彼 女 の屋 敷地 の裏 手 を 中心 に 居住 す る15人 の小作 によ って耕作 されてい る。 彼 らはい ず れ も貧 しい "奴隷層''(kaunan)の 出身 だが,前 述 の Q の よ うに プア ン と伝統 的 な主従 関係 にあ る 日奴隷M で はな い。 ミナ ンガ は1930年代 に プア ン ・メ ンケ ンデ ックが この地 に郡役場 を設 置 した あ と開 けた比 較 的 新 しい集 落 で, 彼 らの多 くは他 村 か らの移住 者で あ る。 したが って,彼 らは先祖代 々にわ た るプア ンの小 作 とい うよ り,毎年 の稲 作 の は じめの契 約 によ って成立 す る小 作 で あ る。 また,少 な くと も現 在彼 らは小 さい なが らも 自 らの 田を もって い る。 もっ と も,彼 らの 田 は一家 を支 え るに は とうて い足 らず , それ ゆ え プア ンの よ うな富 者 の小 作 を しな けれ ば な らな いのだ けれ ど も。 ひ とつ の問題 は, 契 約 関係 で あ るはず の プ ア ン と小作 の関係 が, 日常 的 な対面 関係 の 中山下 :水 田 ミナ ンガ で伝 統 的 な主 従 関係 に変 質 し, 小 作 制 が伝 統 的 な 社 会 秩 序 を 存 続 させ る機 能 を 果 た して い る とい う点 で あ る。 制 度 的 に は "奴 隷 制" は オ ラ ンダ植 民 地 政 府 に よ って解 体 され ,今 日 "カ ウナ ンり (奴 隷 ) の語 を公 の前 で発 す る こ とは タブ ー とされ るO しか し, 実 質 的 に は, 小 作 制 を通 して 次 にみ る変 容 を争 み な が ら も 保 存 され て い る。 水 田 ミナ ンガ の社 会 関係 の 基 軸 は, この プ ア ン (王 族 /地 主 ) とカ ウナ ン (奴隷 /小 作 ) の 関 係 で あ る。8) と ころで , 先 にふ れ た生 態 学 的 理 由 か らの 出かせ ぎ現 象 は,
1
97
0
年 に は きわ め て一 般 化 して お り, 表1
1にみ る よ うに, と りわ け若 者 表 11 テ ィノ リン村の年齢別人 目構成 (村 役場 統 計 :1
9
7
5
年 ) 一、-\ ー Jtlam♪.,Jllg(部落) Tangtl Ke'pe Tin()ring Randanan Bala Padang Batu Rondon Pal,_grDream 0 -9 10-1718-25 26-40 4C 2 0 5 4 9 3 1 1 7 1 4 2 1 8 8 3 3 ?山 2 2 2 2 2 9 ︼ 1二ti 170 333 1r三7 3 6 2 nU 6 0 = 引 H 8 3 4 6 8 9 日H 187 106 5 9 9 7 137 109 1/′6 170 154 121 138 157 146 82 169 119 193 132 167 2351 958 2,0651,103 885 1,3671,088 層 の トラジ ャ離 れ が著 しい。 そ の結 果 , 小 作 は高 齢 者 が 多 くな るが , 彼 らの 間 で も農 閑 期 な どを利 用 した一 時 的 な 出か せ ぎが しば しば み られ るO ミナ ンガ の 小 作 の う ち,6人 は1 -3カ月 間, 隣 のル ウ県 の政 府 の 開墾 ・移 民 プ ロ ジ ェ ク ト に 出かせ ぎ に 出 か けて い る。9) こ う して , 出 かせ ぎ は富 者 の 田 に しが み つ か 8)この社会的背景 は, 筆者が別の報告で 扱 った もの と同質である [山下1
9
7
9
b]。 9)先 に挙げた報告の中で, M中は, ル ウ頻の移 民先 における トラジャを, ブギス との対比に おいて描いている。 すなわ ち, 新たな環境に よ り柔軟 に対処 し商品作物にも配慮す る ブギ スに対 し, トラジャ はきわめて水凹志向的で ある[Tanaka1
9
8
2:
9
3
]
。
な くと も彼 に米 を与 え る道 を提 供 し, 独 立 を 好 む 者 は 小 作 よ り 出か せ ぎを 選 ぶ こ と に な る。 この た め, と くに県 北 部 の ラ ンテパ オ地 域 で は, 小 作 が 不 足 し, 収 穫 物 の分 配 比率 が 地 主 1に対 し小 作2とい うケ - ス もみ られ る ほ どで あ る。 10) ミナ ンガの場 合 , 折 半 が原 則 で あ るが , この比 率 も必 ず し も伝 統 的 な もの で はな い。 以 前 は, 小 作 の労 働 に対 して 食 べ させ る (1日米 1β) だ けだ った とい う。 も う1点 , ミナ ンガ にお け る変 化 を 記 して お く。 伝 統 主 義 的 な プア ンに対 し, 異 母弟 のH
氏 は進 取 の気 に富 ん だ近 代 主 義 者 で,1
9
7
7
年 に は, この村 で は じめて 二 期作 と トラ ク タ ーを導 入 した。 彼 は, ラ ンテパ オ で生 じて い る小 作 不 足 の事 態 は近 い将 来 に この村 で も 起 き るだ ろ う と予 測 し, また, 年 を と った小 作 を扱 う こ とは, 機 械 を扱 うよ り もは るか に 難 しい とい うo この トラ ク タ ー導 入 の結 果 , 彼 の小 作 は 前年 の12人 か ら6人 に減少 した 。 因 み に プア ン 自身 ,1
97
7
年 度 の稲 作 の は じま りに は この異 母 弟 の言 動 を か み しめ な くて は な らな くな る。(3)
ミナ ンガ の稲 作 サ イ クル :1
9
76
/
77
年 前 述 の 生 態 学 的 時 間 に沿 った1
9
7
6/
7
7
年 の ミナ ンガ の稲 作 の サ イ クル は, 表12に整 理 さ れ る。 (i) ミナ ンガで の本 格 的 な雨 期 の到 来 は 11月 末∼12月 初 めで あ る。 この 自然 の リズ ム に規 定 され な が ら, 稲 作 の 開始 を画 す るの はmarindl'ngbambaお よ びmaTlgkalo'bubunと よ ば れ る儀 礼 で あ る。 前 者 は "門 に垣 を め ぐ らす''とい う意 味 で , 共 同体 の 四 方 に シ リ ・ ピナ ン (キ ンマ の葉 に ビ ン ロ ウ ジの 実 , それ に石 灰 を 混 ぜ た もので , 通 常 噂 好 品 と して用 10)ランテパオ地域 は,社会構成がよ りデモクラ ティツクで,人 々はよ り独立的な性格を もっ てい る。それゆえ, この地域 にはよ り多 くの 出かせぎがみ られ,それにともな う小作不足 がよ り顕著である0
東 南 ア ジア研 究 20巻3号
表 12 水 田 ミナ ンガの稲 作 サ イ クル (1976/77年)
日 付 儀 礼 労
働
197612.6(110-19--21
?)
3m〃ZZZ昭'akalPoiZilolkoolnn(ogbpan由n田植 え開始儀礼)baubmubnakan(a)(崖TL)田植 え5 ma'ma'bb〟
iunngkun(gka'panクワに よる田起 こ し)血 nakan(田開 き)27-31
′
/
19771.2- 46-10 代 を手 で こね返 す)〟(+′/ ma'te
p
oDanhZnakan-苗 12-1415 man-苗代 の異物 除去)gamb〟(+o'man(播 種 )gromok
j
如nkZmk m 16-17 ma'bingkun 2.25-26 ma'tePo(田 を手で こね返 す) 28 ′/ 3.1- 7 ′′ 25-31 〃昭ngrOmOk(田中の異物 除去) 4.1- 2 // 3 3- 4 3- 9 5.45-ll8.32200-31 manhwら し)wngnmangayak((田植 え)田植 えの ための地 な
終 了儀礼)ZZisrau慧 ubabbaanne)(憲莞 )
pemanタme乃αn'ntpoigkndirdooalnbunno'bg(gb羽 蟻 と り)an(ubambun星見)a mema'pario7le (ak(収穫 )除草)
9.3- 58 ma'Pma'umma'〝an昭'ban′/kg7polkut
a
egl1mbmZ
antko'u'Enanw
ae((Par稲 束 を作 る)(稲 山 を作 る/乾燥 )(稲 の運搬 )庭 の整地)(収穫 物 の勘 定)e(稲番)20 〝∽ngro'Pa'(大 きな稲 束 を作 る)
27 ma'ma'bliakgia
'
+
(分 配)hnganalang(稲束を垂ll) 1976/77年 の ミナ ンガで は この儀 礼 は行 われ なか った。 一般 に稲 作 サ イ クル に沿 った小 儀 礼 は,各人 あ るい は広義 の各 "家族" の "熱 意 に応 じてM と り行 われ る。 また,象徴 的 に 垣 を め ぐらす ことによ って ,共 同体 の 内部 空 間を神 々の 力 で 満 たす とい う モ チ ー フ は, ma'bugi'lompo とよばれ る共 同体 レグ ェル の 農 耕 ・豊能 儀 礼 において よ り顕 著 な形 で み ら れ る [山下 1980:16-17
]
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384 い られ る)を 捧 げ ,稲 作 期 間 中 悪 霊 が こ な い よ う願 う儀 礼 で あ ろoll)後 者 は ,山井 戸 を 清 浄 に す るり と い う意 味 で , 井 戸 (泉 ) へ ゆ き (ミナ ン ガ の 場 合 , 水 田 か ら1
00
mば か り離 れ た と こ ろ に あ る プ ア ン常 用 の 井 戸 ), 清 掃 した の ち , こ の 井 戸 の 水 を 用 い て 竹 筒 料 理 (pa'piong)12)に よ る 米 飯 を 作 り, ま た 井 戸 の 傍 ら (東 北 隅 )13) で 脚 の 白 い 鶏 (sel -ld)14)を 井 戸 の 神 に 対 して 供 犠 し, 同 様 に 竹 筒 で 料 理 す る。 供 犠 した 鶏 の 肝 で そ の 年 の 吉 凶 が 占 わ れ る 。 こ の 儀 礼 は水 田 ミナ ン ガ の 小 作 ふ た り に よ って 行 わ れ , 竹 筒 で 料 理 した 米 飯 と鶏 は , 神 に供 され た の ち , 小 作 と プ ア ン の 家 族 に よ って 食 さ れ た 。 ま た , 今 日 の 部 落 (kampung)に 12) 日常 の料 理法 が ,屋 内で ,女性 によ って ,主 に煮 る とい う方 法 で行 われ るの に対 し,竹 筒 料 理 は儀 礼 の際 の料 理 法 で,屋 外 で ,男 性 に よ って ,焼 くとい う方 法 で行 わ れ る。 13) トラジ ャの空 間観 念 にお いて は,東 および北 , あ るい は両 者 が重 な り合 う東 北 は,生 も し く は神 々 と結 びつ き,西 お よび南 , あ るい は西 南 は, 死 ・死者 ・祖 先 と結 びつ いて い る(cf. 山下 [1979a:7-8])0
III下 :水 Ellミナ ンJ/ ほ ぼ相 当 す る儀 礼 共 同体 (bua'も し くは pe -nanian とよ ば れ る,
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.山下
[1978:79]) に お いて , この井 戸 に関す る儀 礼 を最 初 に行 うの はtobunga'lalan-"道 を 開 く者"とよ ば れ る農 耕 祭 司 で あ る。 す なわ ち, 彼 が 自 らの 井 戸 で この儀 礼 を行 い, 彼 の 田 に降 り耕 作 を 行 う こ とに よ って は じめ て, 共 同体 の成 員 は 各 自の稲 作 を 開 始 す るわ けで あ る。
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)
農 耕 祭 'inま各儀 礼共 同体 に ひ と りず つ お り, 」机i]体 を構 成 す る トン コナ ンに お い て 世襲 され る役 職 で あ るo 彼 は, この農 耕 開 始 期 の儀 礼以 外 に も, 共 同体 レグ ェル で もた れ る農 耕 ・豊 故 儀 礼 な どに お いて きわ めて 重 要 な役 割 を 果 た す [山下 1980:8]。 (ii) 稲 作 労 働 の 最 初 の 段 階 は 田 起 こ し(ma'bungka'-"開 ぐ ') で , これ は クワ 16) で
土 を掘 り起 こす (ma'bingkun)作 業 で あ る。 トラ ジ ャで は水 牛 は基 本 的 に農作 業 に は使 用 され ず , も っぱ ら儀 礼用 の供 犠 獣 と して 存 在 す る。17) 田起 こ し作 業 は まず 苗 代 (pant ana-kan)を起 こ し, 次 い で 田全 体 を 起 こ して ゆ 14)鶏の (とくに脚の)色 と供犠対象 (神 々,初 先など)の対応に関 して は別稿を参照 [山下 1980.'20-21
]
0
15)ブギス ・マカッサルで は,最初の耕作の対象 となるのは,共同体の祭礼凹, とりわけ首長 (王) の 水田で あ り, その後 村人一一般が 耕 作をは じめる (crTakaya[1982:154],‖olt [1980(1939):29])。 トラジャでは, 農耕に関 す る役職 は首長 (王)制の廟 こ一本化 されて お らず,首長 と農耕祭司 (平民層の出身)の 二元制がみ とめ られ る。 また,.県北部では農 耕祭司は toindo'padang-"大地の母" とよ ばれ る。 16)クワがいつ ころ導入 されたかについて は明 ら かでない. 彼 らの 伝統的な農具 はpekallと よはれる鉄 もしくは木製の掘棒であ り, これ は今 日で も土地を開 く作業や畑作 において活 用 されている0 17)とはいえ,きわめてまれではあるが,水牛に よる型排をみかけることがあり,型桝を意味 す る トラジャ語(tengko)も 存在す る。 しか しなが ら, トラジャは基本的には型を ともな く。 ク ワに よ る出起 こ しの あ と, 次 に手 で 田 を こね返 す (ma'tepo)。 また 地 中 の石 , 異物 な どを取 り除 く(mangromok)。こ う した作 業 もまず 苗 代 か らは じめ られ , 苗 代 が 終 わ った ところで, 1月 15日に播 種 (mangaTnbo')。播 種 はい わ ゆ るば らま きで あ る。 そ の後 , 田植 え に向 けて先 の作 業 を 田全 体 に拡 げて ゆ く。 こ う した 土 地 活 性 化 の 作 業 は, 後 述 の よ う に, 彼 らの水 間労 働 の非 常 に 大 き な比 率 を 占 め て い る(〕 (iii) 播 種 の2カ月半
後 , 田植 え が行 わ れ た の は降雨 量 の最 も多 い4
月 の初 旬 で あ る。 旧植 え に際 して はと くに顕著 な儀 礼 はな いが, チマ キが作 られ る(mdpokon)。凹植 え の準 備 作 業 と して , 苗 の 活着 を よ くす るた め, 田ぞ りを使 って水 田の 地 面 を な らす 作 業 (man g-ngarak)が行 わ れ る。 田植 え は線 ひ きをせ ず ラ ンダ ム に行 わ れ , これ は小 作 の労 働 とい う よ りは女 性 を 中心 と した近 隣 住 民 た ちの手伝 い (ma'tundu)に よ って行 わ れ るO この特 別 労 働 に対 して以 前 は食 事 を ふ るま うだ けだ っ た とい うが , 今 日で は収 穫 後 1日につ き稲 10 束 (約2B) が 支 払 わ れ る.(iv) 田植 え終 了後 の
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月4
日, 田植 え の 無 事 終 了 を 祝 し, 稲 の成 長 を願 う小 儀 礼 ∽α-kalolo pantanakan が行 わ れ て い る。 夕刻 祖先 に対 して 脚 が 黒 い鶏 (Jenteklotong)杏, 翌 朝 神 々 に対 して 脚 が 白 い鶏 を供 犠 す る。 この 儀 礼 は,3人 の小 作 によ って , 水 田 ミナ ンガ の東 北 隅 の あぜ 道 で 行 わ れ て い る。 前 述 の井 戸 に関す る儀 礼の とき と同様 , 米 飯 と鶏 の竹 筒料 理 が 作 られ る。 この あ とは,必 要 に応 じ わない "山地型''の稲作文化のタイプに属す
る (cf.Takayal1982:170-171],Furukawa
L1982:60])。また,
t
fl起 こしの際に水牛にH をふませ る桝作法(palulu:cf.Tanaka[1982: 83])を,筆者 はフィール ド滞在中実兄 してい ないoただ し,収穫後のfllに水Jトを入れて Hj をふませ,残 った稲の茎を肘に混ぜ るとい う 方法 はい く度かみかけている。東南 ア ジア研 究 20巻3号 て 除 草 (mdforak)が行 わ れ るが ,基 本 的 に は 稲 の成 熟 を待 つ 日々が続 く。 降 雨 量 は徐 々 に 減 少 して ゆ き, 稲 の線 が 太 陽 の も と鮮 や か に 映 え , トラ ジ ャの1年 の 中で最 も美 し くの ど か な季 節 で あ る。 しか しな が ら, 同 時 に この 時 期 は米 が欠 乏 した 山空 腹 期" で もあ る。18) (Ⅴ) 8月 に入 る と稲 は成熟 して くる。 この 稲 の結 実 を人 々 は matasakmopare-"稲 は も う熟 した/完 全 にな った",あ るい は matuamo paye-"稲 は年 老 い たM と表 現 す る。 こ の 時 期 に は, た とえ ば大 きな音 を 出 して はな らな い, 葬 儀 で供 犠 した獣 肉を 食 べ て はな らな い とい った タブ ーが 課 せ られ る。 これ は, この 時 期 の "稲 魂M (deata pare)が と くに うつ ろ いや す い と され る こ とや , 彼 らの儀 礼 の範 噂 の 中で 稲 作 は "神 々M に関 す る範 噂 に属 し, 死 と関連 した こ と と混 同 され て は な らな い と い った考 え方 に 関連 して い る。8月 3日に行 わ れ た ma'kalobe-lobe とい う 儀 礼 で, この タブ ー ほ よ り明確 に印 され る。 早 朝 , 穂 摘 み 用 の ナ イ フで , 稲 を茎 (guntu'-"ヒザ")の と ころで , つ ま り収 穫 -穂 摘 み の とき よ り長 め に摘 み取 る (male unguntu')。 この 摘 み 取 っ た稲 穂 を あぜ 道 に穂 を 北 へ 向 けて 置 き, この 上 に1組 2枚 の 白檀 (sendana)の葉 を3組 並 べ , そ れ に竹 筒 料 理 した 米 飯 と シ リ ・ピナ ン を のせ る。 これ は "田 の主''(ampuuma) -の供 物 で あ る。 ま た 台 所 (dapo')の 東 北 隅 で も同様 の もの を "台 所 の神目 (deata dapo') に対 して 捧 げ る。 残 った稲 はゆ で , 乾 か し, 実 を つ ぶ して 食 べ られ る。 このつ ぶ した 米 (pangbate)を 細 竹 (bulo)の薬 で包 み , 台 所 の
18)稲の成長期 に,ma'bulungpareとよばれる稲 の成熟を促進 ・祈願する儀礼が行われ ること がある。県北部ではこの儀礼 は毎年 もたれ る とい うが,筆者が居住 した地域で は数年 に1 度だ とされ る。 筆者は,1977年の 7月 に, ティノ リン村の他部落で行われた ものを観察 す る機会を得, これについて は別稿で報告 し た [山下 1980:5-7
]
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386 東 側 の壁 につ き刺 す 。 これ に よ って , 収 穫 期 の食 物 に関す る タブ ー (鶏 卵 , バ ナ ナ, コ コ ナ ツ ,トウモ ロ コ シ ,そ れ に葬 儀 の 肉 の禁 食 ) に服 して い る こ とが 印 され る。 最 後 に, ひ ょ うた ん の器 (kalobe)に水 , 古 銭, お よ び "袷 た くす る" とい う名 のつ い た数 種 類 の植 物 を 入 れ , 米 倉 の軒 に置 く。 "冷 た い"(sakke)状 態 は, 健 康 ・安 全 ・幸 福 と結 びつ い た 観 念 で , トラ ジ ャの宗 教 観 念 に お いて 最 も基本 的 な もの で あ る [山下 1980:19-20]。 (vi) 稲 刈 り (mepare) は8-9月 初旬 に か けて 行 わ れ て い る。 稲 刈 り 開始に 当 って pa'bulo-buloとい う 儀 礼 が 行 わ れ て い るが , これ は前 述 の ma'kalobe-lobe と同様 な儀 礼 で, 初 穂 が 田の主 と台 所 の神 に捧 げ られ て い るO この あ と, 大 き な稲 束 (pangrakanも し くは indo'pare-"稲 の母'') が地 主 と小 作 の 数 だ け 作 られ る。 これ を 売 買 す る こ と は タ ブ ーで あ る。19) そ れ か ら本 格 的 な収 穫 が は じ ま る。 刈 入 れ も田植 え と同様 , 女 性 を 主 と した近 隣 住 民 の手 伝 い (ma'kangkan)を必 要 と す る。 先 にふ れ た よ うに, 稲 刈 りは穂 摘 み用 の ナ イ フ (イ ン ドネ シア語 で ani-ant, トラ ジ ャ語 で rangkapan とよ ばれ る) を用 い た いわ ゆ る穂 摘 み で ,摘 み取 った あ と,直 径 1.5 cm く らい の稲 束(kutu')を 次 々 に作 って ゆ く (ma'kutu')。 熟 練 者 で100束 く らい が 1日の刈 取 り量 で あ る。 夕方 , 収 穫 した稲 が あぜ 道 な い し 地 主 の 庭 に 並 べ られ , 通 例 刈 取 り量 の 10分 の 1(も し くは12分 の 1) が 報 酬 と し て支 払 わ れ る。 そ の後 , 小 作 が 稲 山 を 作 り (ma'poko'), 乾 燥 させ るO この期 間 中, 小 作
は 稲 が 盗 まれ な い よ う 毎 夜 稲 の 番 を す る (umkampapare)。広 大 な水 田 ミナ ンガ の収 穫 に は, のべ 人 数 に して 約300人 , 日数 に して 約
2
週 間余 を 要 して い る。 19)このpangrakanあるいはindo'pareの処理法 (食用か, 種粗用か, あるいは儀礼用か) に ついては,手 元の資料か ら明 らかでない 。山下 :水 田 ミナ ンガ (viュ) 刈入 れ 完 了 後 の 9月20日, 稲 束 が
庭 に並 べ られ, この年 の 出来 高 が勘 定 され る
(ma'bangunan)。東西 (lako)×南 北 (rekke)で 計 算 され , 勘 定後 , 小 作 に よ って
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束 を1
束 に結 わ え る作 業 (mangro'pa')が 進 め られ る。 この ro'pa'とよ ばれ る束 は, 約1
6-大 人1
日分 の消 費 量 と考 え られ る単 位 で , この 大 き さの束 で 稲 が米 倉 に納 め られ る09
月2
7
日, 稲 が 十 分 に乾 燥 した ころ, プア ン (地 主 ) と 小 作 の 間 で , 収 穫 物 の 分 配 が 行 わ れ て い る (ma'bagi)。,い わ ば水 田 ミナ ンガ経 営 の決 算 で あ る。 そ の後 ,プ ア ンの取 り分 の稲 が,米 倉 は 順 々 に積 まれ (ma'll'ka'),収 納 され る (langan alang).
(viii) トラ ジ ャの 稲 作 の 1年 を しめ く く るの は Tlla'rambubanneとよ ば れ る収 穫 儀 礼 で あ る。 これ まで の諸 儀 礼 が少 人 数 で 外 部 か らはほ とん ど 目立 た な い よ うな形 で行 わ れ て い た の に対 し, これ は稲 作 サ イ クル に沿 った 儀 礼 の う ち最 も大 きな もの で あ る。 プ ア ン は この た め に豚 を 1頭 供 蟻 , 参 加 者 もプ ア ンの 家 族 と小 作 た ち の ほか に, プア ンの ミナ ンガ にお け る トン コナ ン- タ ンテ ィ部 落 を代 表 す る トン コナ ンで,BuntuTangtiとい う名 を もつ - の関 係 者 , お よ び近 隣 の村 人 が 参 加 して い る (計5
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人 く らい)。 豚 は to ma'lunu とよ ばれ る役 職 者 20) (奴 隷 層 ) を 中心 とす る 数 人 に よ って 解 体 され , 慣 習 に の っ と った 肉 の分 配21)が 行 わ れ た の ち,竹 筒 で 料 理 す る0 20)こうした役職 は,前述の儀礼共同休の中で序 列づ けられ,また儀礼執行に向けて組織 され た各 トンコナ ンにおいて世襲 され る。 また, タンティ儀礼共 同体のように トンコナ ンの数 が多 く (計12個),同 じ役職が複数ある場合, 儀礼執行 にBgして トンコナ ンの "系列化"が み とめ られる。た とえば, ここでの事例のよ うに 首長格の トンコナ ンBuntuTangtiが儀 礼を もつ場合 は, 特定の トンコナ ンA と B がおのおのtoma'lunu役,tomasserek役を つ とめるというよ うに。 21) ここで詳述す る余裕 はないが,た とえば,神 料理 した 肉 は, 米 飯 (竹 筒 で 料 理 した もの , お よ び通 常 の土 製 の壷 で炊 い た もの),22)チマ辛 (bulundakお よ び katupaとよ ばれ る) な ど と と もにバ ナ ナの葉 の上 にのせ , さ らに シ リ ・ピナ ン, ヤ シ酒 , 水 を そ え て , 神 々 と祖 先 に供 え る。 神 々へ の供 物 (pa'kande dea(a)
はtomasserek とよ ば れ る役 職 者 に よ って , 米 倉 の 床 (東 側 ) で供 され , 祖 先 へ の 供 物
(pa'kandetodolo)は トン コナ ンBunluTangti
の代 表 者 (toparenge
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)
に よ って , 屋 敷 地 の 西 側 に しっ らえ られ た竹 製 供 物 台 に のせ て 供 され る。 そ の後 一 同共 食 とな り, 参 集 した近 隣 の村 人 も御 馳 走 に あ りつ く。24)共食 後 , 莱 粉 を水 で溶 い た もので ,家 屋 ,米 倉 ,ウス な ど に 白 い 印 を つ け る(massura'baba)。これ は稲 魂 が 逃 げ 出 さな い よ うにす る呪 術 と結 びつ い て い る と思 わ れ る。 この 印 に よ って 関係 者 は 稲 作 に 関す る禁 食 か ら解 放 され ることに な る。 稲 作 の サ イ クル は品種 に よ って 異 な り, た とえ ば プ ア ンの異 母 弟 H 氏 の場 合 , 12月 の 田起 こ しはは ば 同 時 で あ るが,2月 中旬 に 田 植 え,7月 に は収 穫 し, 一 部 の水 田で は二 期 作 を試 み て い る。 水 田 ミナ ンガ の稲 作 サ イ ク ル は伝 統 的 品種 (parekasalle)を使 った最 も へ 供物を 捧げる役職(toma'pesung:tomas -serekによって行われる) は tondanaとよば れる胸の部分を,首長のような社会的高位者 はbukulesoとよばれ る後脚大腿部を受 け取 る, とい うように儀礼の中での役職,社会的 地位 によって,然 るべき肉の部位が分配され る。 22)米飯 はもちろん儀礼執行者のカマ ドで も炊 か れ るが,参集者の方 も上製の炊飯壷 (kurl'ng) に入れた米飯を持参す ることがある(ma'kur -1'ng)Oこれ らの 米飯の一部 は, 神 々もしくは 祖先-供え られ,また共会 され る。 23)トンコナ ンBuntuTangtlは1960年代未 に 現 在のプア ンの屋敷地内に建て 直されたが (ト ンコナ ンは集Ei]と同時に家屋を も指す), 代 表者 はプア ンではな く別人である。 24)彼 らが動物の肉を食べ ることができるのは, 儀礼の ときのみである。東南 ア ジ ア研究 2()巻 3号 長 いサ イ クル で あ る。 通 例 で は,8月 l机 こ収 が わ か る。 つ ま り, 小 作 の労 働 (近 隣者 に よ 種 は完 了, 以 後 農 閑期 は各 種 儀 礼 の季 節 とな る手 伝 いを 除 外 ) の うち, 日数 に して59日中 り,11月 中旬 にな る と人 々 は雨 期 を告 げ る星 の45日, のべ 人 数 に して745人 中 の552人 ,す を み, 羽 蟻 を と り, 新 しい稲 作 の サ イ クル に な わ ち小 作 の全 労 働 量 の約75%は, この た め 入 って ゆ くこ とにな る (前 掲 表 6参 照 )O に投 入 され て い るG 表13 水 田 ミナンガの労働状況 (1976/77年) nO. 期 間 作 業 内 容 日数 のベ人数 (1) 12.10-1.17 クワによる田起 こ し (ma'bingkun) 25 286 (2) 1.15 # * (mangambo') 1 15 (3) 2.25-3.7田を手でこね返す (nw'tePo) 10 134 (4) 3.25-4.2田中の異物除去 (nwngromok) 9 117 (5) 4.3-4.4田植 えのための地な らし (7m ngngarak) 2 30 (6) 4.5-4.9田植 え (manhman)(9-小作による 5 73 (7) 4.3-4.9田植 え ( 〟 )②-近隣者の手伝い 7 149 (8) 5.5-5.ll 除 草 (ma'twak) 7 90 (9) 8.20-9.5稲刈 り(mePayle)-近隣者の手伝 い 15 300 注 1. 表中の 日数 ・のべ人数 は,小作のひとりが収穫物の分配のため記録 し ていた メモ か ら算 出 した。 期間は, 各作業の開始 と終了 日を示 し, た とえば,(1) はクワによる田起 こしの作業が,1976年12月10日か ら 1977年1月17日にかけて,断続的に計25日間行われた ことを示す。 1月以降は1977年度の 日付である(表12も参照)0 2. 表12中の,苗代を手で こね返す作業および苗代の異物除去の作業 は, この表の (3),(4)には算入 されていない。 これ らの作業 は,その期 間の主たる作業であるクワによる田起 こしの合間に,少人数で行われ た 。 3. 田植えおよび 稲刈 りの作業 は, 主 に小作以外の 近隣者の 特別労働に よって行われる。田植えに関 して は,収穫後に与える報酬のためのメ モが とられていたが,稲刈 りは,その場で報酬が支払われ るため,の べ人数 は概算である。収穫中あるいは収穫後の小作の主た る仕事 は, 収穫物の処理作業であるが, これは記録 メモに入 ってお らず, この表 にも算入 されていない。 (9)の項 は, もっぱら近隣者の手伝い労働で ある。 (4) 水 田 ミナ ンガ の経 営 :労 働 ・儀 礼 ・分 配 以上 の1976/77年 の水 田 ミナ ンガ の経 常 を, 次 に労 働 , 儀 礼 , 収 穫 物 の分 配 とい う観 点 か ら整 理 して お こ う。 (i) 労 働 :この年 度 の水 田 ミナ ンガ の労 働 状 況 は表13に整理 され る。 これ を み る と, 稲 作 労 働 の場 合 , 田植 え に至 る まで の土 地 の 活性 化 作 業 に大 きな比 重 が 置 か れ て い る こ と 388 一 方 , 田植 え と収 穫 は一 時 期 に集 約 的 な 労 働 力 を 必 要 と し, これ は小 作 以 外 の近 隣住 民 , と くに 女性 の特 別 労 働 に よ って い る。 ミナ ンガ 田の場 合 , 田植 え は 7日間 で149人 ,収 穫 は15日間 で 概 算300 人 の労 働 力 が投 入 さ れ て い る。 この特 別 労 働 力 の提 供 は しば しば相互扶 助(gotong royong)とい う 語 で と らえ られ る けれ ど も, 無償 の奉 仕 で は な く然 るべ き報 酬 が 支 払 わ れ る。 そ れ ゆ え, 田植 え と収 穫 は 貧 者 に と って米 を得 るた め の きわ めて重 要 な機 会 とな る。 表14に は水 田 ミナ ンガ の小 作 た ちの労 働 日数 が 示 され て い る。 これ に よ る と, 約10カ月 間 の ミナ ンガ の稲 作 期 間 中, 彼 らが小 作 と して 実 際 に拘 束 され る の は50日前 後 で あ る。 残 りの 時 間 は, 自分 の 水 田 の耕 作 ,別 の 田 の小 作 ,あ るい は 出か せ ぎ な ど に使 わ れ て い る。 しか し, 彼 らに と って 水 田 ミナ ンガ の小 作 に よ って 得 る こ との で き る米 は,生 計 の大 きな源 泉 の ひ とつ で あ る。 (ii) 儀 礼 :稲 作 労 働 はそ のつ ど完 結 す る 類 の労 働 で はな く, 労 働 の意 味 はサ イ クル全
山下 :水 li]ミナ ンガ 表14 水 出 ミナ ンガの小作の労働 と報酬 小作 (toZwn'u) 労働 日数 報酬 1 55を 2 56 55i ) ー ヽJ ) 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 n川■川 ︼ iZq nⅦ■川U ntJ U l つ] 6 9 1⊥ 1 6 0 3 0 5 8 2 2 5 4 5 4 4 4 4 4 0 5 0 0 0 0 5 0 0 5 0 0 0 0 0 0 0 1 9 2 「⊥ 5 0 3 5 5 0 4 7 .4 5 8 2 2 6 5 5 5 5 6 5 5 4 5 4 4 4 754(日) 8,140(莱) *16- 19は,臨時の小作。 体 を通 して与 え られ る性 質 の もの で あ る。 tl] 起 こ しが 意 味 を もつ の は, 稲 が 結 実 し収 穫 す る とき にお い て で あ り, この 目的 に 向 か って 労 働 が 段 階 づ け られ る。 この段 階 は, 稲 の生 育 段 階 に対 応 して お り, そ の折 り 目 ご とに儀 礼 が 挿 入 され , 労 働 の意 味 が 印 しづ け られ て
ゆ く
。 この人 間 と稲 の 関 わ り の 中 で 興 味 深 い の は, 彼 らは稲 の成 長 を人 の一 生 との類 比 に お い て み る という点 で あ る。す な わ ち,稲 の未 熟 /成 熟 は,"若 い"(mangura)/"老 い た''(matua)とい う語 で と らえ られ , 稲 の結 実 期 にお い て さま ざ ま な タブ ーが 課 せ られ るの は, 人 の葬 儀 に お い て 同様 な (た だ し内容 の異 な った) タブ ーが 課 せ られ るの とよ く似 て い る。 つ ま り, いず れ もい わ ゆ る移 行 期 に多 大 の関 心 が 払 わ れ て い る。 ま た, 何 年 に1度 か の共 同 の 豊 能 儀 礼 で は, 稲 作 は性 交 の メ タ フ ァーで と らえ られ , 稲 の結 実 は子 供 の誕 生 と解 釈 され る [同上 論 文 :18]。 これ に よ る と, 男 の 田 起 こ しは性 交 と, 女 に よ る田植 え は受 胎 と解 釈 で き, 稲 刈 り女 は産 婆 の役 を 担 う こ とに な ろ う。 いず れ に して も, 稲 作 は 胃袋 の 問 題 で あ る けれ ど, 同時 に思 考 の対 象 で もあ り, ト ラ ジ ャの宗 教 に お い て は, 人 間 に と って の死 とい う矛 盾 は, 稲 とい う毎 年 死 と再 生 を 繰 り 返 す 植 物 的生 の メ タ フ ァーに お い て "解 決'' され る [Yamashita 1981:16-17]。 (iii) 分 配 :1976/77年 の水 田 ミナ ンガ の 経 営 決 算 の 詳 細 は表15に示 され る。 この年 の 収 穫 総 量 は,22,385束 (Ⅰ)で , これ か ら水 田 経 営 の た め の諸 経 費 が 稲 束 に換 算 され 差 し引 表15 水凹 ミナ ンガの経営決算 (1976/77年) Ⅰ 収穫 総 量 :22,385束---① ⅠⅠ 諸 経 費 :6,425束--・② (内 訳 ) 1翌年 の ための種板(banne) 2土 地 税(sima/ipe血) 3田植 え手伝 い(∽〃'tundu) へ の報 酬 4 村 開 発 費 (純 益 の 3% ) 5肥料 , 農薬 6乾 期 の 水汲 み 7稲 束 を作 るた め の竹 ひ ご (bunu') 8庭 の整地 (Pangyante) 9稲 番 (J氾'kampajおre) 10 大 きな稲 束(