スペインとイタリアにおける連邦主義的改革に関する一考察
―アスナール政権とプローディ政権の事例より―
1)池田和希 ・永田智成
1.問題意識 本稿は,スペインとイタリアの連邦主義的改革を比較することにより,連邦主義的改革の成否と 地域主義の過激化の間の関係に関する論点を抽出することを目的としている。スペインは周知の通 り,民主化以後自治州国家体制と呼ばれる自治州に権限を与えた政治制度となっており,近年はカ タルーニャの分離独立運動が激化するなど,地域主義が大きな政治争点となっている。対する第二 次世界大戦後のイタリアは,フランス型の中央集権的な政治制度として出発し,1970 年代以降分 権化改革が進められてきた。後述の通り,2001 年に地方制度に関する大規模な憲法改正を経験し, 連邦制に近い政治制度へ変容したと評価されることもある。しかしながら,北部の自治拡大を主張 していた北部同盟は近年地域主義的な主張を引き下げ,もっぱら反 EU・反移民政党として成功し ているし,イタリアの政治制度は確かに連邦国家的な要素を備えてはいるものの依然政治システム や政治文化は集権的なままである[Palermo and Wilson 2014]。この 2 カ国はいずれも連邦主義的 な政治制度を備えながらも,地域主義の政治的帰結は逆の方向に進んでいるのである。このように, なぜ似たような条件を有しているように見える 2 つの事例の帰結が異なるものとなっているのか, というのが本稿の問題意識である。 以下で,イタリアおよびスペインの連邦主義的改革の分析に入る前に,比較政治学における「分 権化」の理論的な捉え方をごく簡単に見ておきたい。というのは,以下で見る 2 つの事例はいずれ もそれぞれの国の文脈では「分権化」や「連邦主義的改革」と呼ばれるものである。しかしながら, 両事例を比較して明らかになるのは,同じ用語でも内実が全く異なるということである。そこで, 比較政治学において分権化はどのように捉えられているのであろうか。捉え方はいくつかあり,そ の 1 つ目が集中・分散という概念である。これは中央政府と地方政府の権限配分,つまりそれぞれ のレベルの政府が果たすべき機能の大小に関する概念である。第二に,融合・分離である。これは 中央政府と地方政府がどの程度協働して公的サービスを提供するかという機能面の協働度ないし重 複度に関する基準を指すものである。最後に,狭義の集権・分権である。これは地方政府がどの程 度中央政府から自律的に政治的な意思決定を行いうるかを指している[建林ほか 2008:300―301]。 これら 3 つの概念のうち,本稿にとって重要なのは「集中・分散」と「狭義の集権・分権」である。 それは,前者がイタリアにおける連邦主義的改革の内実を示しうる概念であること,そして後者が 1) 本稿は「平成 31 年度科学研究費補助金(若手研究)(課題番号 19K13611)」および「2020 年度南山大学パッヘ 研究奨励金 I―A―2」による研究成果の一部である。両国の地域主義の帰結において,地方政府が自律的な政治的意思決定を行えるか否かは,地域のア イデンティティの創出に関わる問題であることによる。 イタリアについては,イタリアにおける連邦主義的改革の出発点となった 1996 年の中道左派政 権における改革を事例として取り上げる。連合内に大きな分極性を抱えていた同政権は政権運営に 苦労するが,その中でも EMU 参加という大きな課題を達成するために様々な改革を進めていった。 その中の 1 つが行政の分権化改革である。その改革の目的はあくまで行政の簡素化にあり,地方政 府への権限委譲はそのための手段に過ぎなかった。一方,同時期のスペインはアスナール・中道右 派政権であったが,同政権もまた地方政府への権限委譲を進めていた。スペインでは党派性の観点 から,右派は分権化に反対するという印象が持たれていたが,中道右派のアスナール政権でも自治 州への権限委譲は進んでいた。アスナール政権は自治州の財政システム改革を行なったが,同政権 による改革が分権化を志向したという印象は持たれてこなかった[Grau Creus 2005: 268]。分権化 に反対であると見なされていたのにも関わらず,分権化を進めた背景には,同政権における国政お よび国政・地方政府間関係のパワーバランスが影響していた。同政権は議会で過半数を押さえてい ない少数派政権であり,閣外協力という形で地域政党の協力を得ていた。その見返りに財政面での 改革を進めたというものである。そして,当時のスペインの地方政府には国政与党である国民党 (PP)が与党を務める地域が多く,中央政府が地方政府へ影響力を与えやすいという政治状況があっ た[Grau Creus 2005: 269]。 しかし,国政与党 PP が地域政党と交渉を行い権限移譲を進める政治手法は,これまでのスペイ ンにおける地方分権の慣例を壊すものであった。1980 年代までのスペインでは二大政党である PP と社会労働党(PSOE)の間の合意を形成する形で地方分権を進めており,二大政党間と地域政党 間でのゲームが成り立っていた[Grau Creus 2005: 266]。そのような政治手法はスペインの上院が ドイツの上院のように地方政府を代表するような形になっていないことを考えても重要な役割を果 たしていた。 従来の政治的な慣例から逸脱したアスナール政権であったが,スペインにおける地方への権限移 譲の政治は,イタリアの事例と比較することで,それぞれの事例の研究において所与とされてきた 事柄を問い直し,それぞれの事例の位置付けを見直すことに繋がる。逆もまた然りで,イタリアの 分権化の政治をスペインの事例と比較することにより,その前提を問い直すことになる。 以下では,第 2 節と第 3 節でスペインのアスナール政権における改革とイタリアの中道左派政権 (プローディ政権およびダレーマ政権)における改革の詳細を追う。それぞれの改革の論点はそれ ぞれの国における分権化改革の政治的文脈に左右されるため,異なる論点を設定する。スペインの 分権化改革はすでに自治州にある程度の権限が移譲され,地域によりその権限が異なる状況が前提 にあるため,重要なのは地域政党や地方政府と中央政府との関係性や改革に対する反応である。一 方のイタリアではスペインほど権限移譲が進んでいない上に,スペインとは異なる全国画一的な分 権化の制度設計を採っているため,本稿が扱う 1990 年代後半から 2000 年代にかけての時期は,分 権化をめぐる政治の場は国政議会にある。それゆえ,スペインとは異なり国政と地方政府の関係で はなく,国政議会・中央政府における政治勢力間の関係が重要となる。したがって,第 2 節ではア スナール政権における改革の概要を説明し,それに対する地域政党との関係や反応に注目する。第 3 節では,第 2 節同様に,中道左派政権における改革の概要を説明し,改革がなされるに至る政治 勢力間の関係に注目する。最後に第 4 節でそれぞれの改革と改革を取り巻く政治過程を比較し,以 後で解くべき論点を抽出する。
2.スペインの事例―アスナール政権 アスナール政権は大きく 2 期に分けることができる。すなわち,2000 年総選挙までの政権前半 期と 2000 年から 2004 年までの政権後半期である。 政権前半期では,PP が占める議席の割合は下院定数の約 40%にあたる 141 議席にとどまったも のの,少数与党による単独政権を選択し,状況に応じて地域政党に閣外協力を求めるというスタン スをとった。政権後半期では,2000 年総選挙で PP が 181 議席を獲得し,下院において単独過半数 を獲得したため,地域政党との閣外協力を解消し,安定的な政権運営を行なえたのであった。 ところでスペインでは民主化期において,自治州国家体制と呼ばれる中央・地方体制が確立した。 スペイン全土を 17 の自治州で覆ったのである。この体制が導入された当初から,中央政府の権限 および州政府の権限は大枠でしか定まっていなかった。また中央政府の権限は交渉次第で州政府へ と委譲できるとされたため,カタルーニャやバスクといった地域の独自性を主張する地域政党は, 彼らがスペインとは異なるネーションであると主張し,自治権の拡大を要求してきたのである。 ところが PP はスペインを「複数ネーションからなるネーション」とは捉えておらず,スペイン において文化的多様性があることは認めつつも,スペインが単一国家であると主張してきた[Powell 2001: 571―572]。アスナールはまさにこの PP の主張を代表する人物であった。したがって論理的 には PP 政権であれば,分権化改革が推進されないはずであるが,実際のところはアスナール政権 下でも分権化改革は推進され,自治州国家体制の完成が目指されたのである。 そこで本節では,まず自治州国家体制の成立過程を振り返り,そのうえでアスナール政権が実行 した分権化改革をその目的と共に考察する。 (1)自治州国家体制の発展過程 ①自治州国家体制の導入 既に述べたように,自治州国家体制は,民主化期に導入された。しかし民主化期特有の混乱もそ の一因となって,自治州国家体制はその船出から複雑なシステムとなった。ここではその複雑さを 生んだ要因についてポイントを絞って確認したい。 まず 1 つ目のポイントは,当初,中央政府は特定の地域に限定しての自治権付与を考えており, 全土を自治州で覆う自治州国家体制が当初から想定されていたわけではないということである [Navarro 2014: 221]。ここでいう特定の地域とは,第二共和政(1931―1936)において,自治権を 獲得していたカタルーニャ,バスク,ガリシアの 3 地域を指す。この 3 地域に自治州設置が限定さ れていれば,自治州は特別な権利という捉え方も可能であった。ところが政府は,上記 3 地域を含 めて 11 の暫定自治州を設置したため,国土の大半が自治州で覆われることになったのである。 次に,上記ポイントに関連して,1978 年 12 月に成立した憲法には自治州に関する規定が盛り込 まれたにもかかわらず,政府が憲法起草委員会の議論に先行して暫定自治州を設置し,自治州の存 在を既成事実化したため,憲法の規定と実際の運用では齟齬を生じさせたことである。憲法の規定 では,全土を自治州で覆うということを想定しておらず,その証拠に,現在のスペインのことを指 すときに用いられる「自治州国家(Estado de las autonomías)」という文言は憲法には存在しない。 憲法では自治州の設置方法として,2 つのレベルが用意された。俗に言う低速ルート(第 143 条) と高速ルート(第 151 条)である。低速ルートにのっとれば,地方議会または住民の発議により自
治州の設置が可能となる。自治憲章に盛り込める自治権は,自治州設置からの 5 年間,憲法第 148 条第 1 項記載のものに限定される。自治憲章とは,自治権が規定されている,いわば自治州におけ る憲法である。このように低速ルートによる自治州設置は,手続きが比較的容易であるが,自治権 が誕生から 5 年間は制限されるという点がデメリットである。 他方,高速ルートによる自治州は,低速ルートによる自治州のように自治権が 5 年間制限されること はなく,憲法第 149 条に書かれている国家の排他的権限以外の権限について自治憲章に盛り込むこと ができる。しかし,自治州設置の発議のためおよび完成した自治憲章案の承認のためという 2 回の住 民投票が必要となるため,設置のハードルは一段と高くなっている。また自治憲章案は国会の審議を 経なくてはならない。この過程をクリアして高速ルートの自治州となったのは,アンダルシア州だけで ある。 このように憲法では自治州の設置方法が明記されたものの,暫定自治州が憲法の公布より前に存 在していたこともあり,実際のところ憲法の規定にしたがって任意のルートを選んで設置された自 治州はほとんど存在しなかった。歴史的自治州と呼ばれるカタルーニャ,バスク,ガリシアに関し ては,自治州設置の発議のための住民投票を経ずとも高速ルートの自治州になれると規定された経 過規定第 2 条が憲法に特別に設けられた。 またバスクとナバーラの併合については含みを持たせ,バスクとナバーラがかつて有していた歴史 的特権法(fueros)の復活を憲法の追加規定に明記した。その他,カナリア諸島やアフリカ大陸にあ るセウタとメリーリャの両都市には,将来的に自治都市になれるように別の規定が設けられたのであ る。 3 つ目のポイントとして,自治州国家体制のグランドデザインが用意されていなかったことに関 連して,憲法において中央政府と州政府の権限が明確な形では規定されていないことである。憲法 第 148 条第 1 項において,自治州の所管事項が列挙されているものの,第 2 項では第 149 条で定め られた中央政府の排他的所管事項に反しない限り,自治州設置から 5 年経過すると,自治憲章の改 正によって自治権の拡大が可能になると定められている。また,中央政府の権限を自治州へと委譲 できるとする規定もあり(第 150 条第 2 項),州政府と中央政府の交渉次第で,いかようにも自治 権の拡大が可能となるシステムとなった。 4 つ目のポイントとして,当初,自治州を一部の地域に限定した特権として考えられていたことに由 来して,自治州間の権限に差異が生まれてしまったことである。憲法は,高度な自治権を有する州と低 度な自治権を有する州という分け方をしているわけではなく,第 143 条と第 151 条は,あくまで完全な 自治権を得るまでのスピードで区別しているに過ぎない。しかしながら,実際のところ,高速ルートの 自治州と低速ルートの自治州は,そのまま高度な自治州と低度な自治州と読み替えられてしまっている。 さらにバスクでは自治州設置当初,構想に反対していた関係から,中央政府はバスク側の妥協を 引き出すため,州内で徴税する国税を自由に州財政に組み入れることが出来るという経済協約 (concierto económico)(特別財政制度)を提案した。その結果,バスク自治州が誕生することになっ たものの,他の自治州が中央政府の交付金を基本とする財政制度が採用される中で,バスク州とバ スク州への合流に含みを持たせたナバーラ州で特別財政制度が採用されることとなった。自治州国 家体制は誕生時から財政システムにおいて非対称性が存在したのである。 ②自治州の非対称性の解消に向けて 1981 年に成立したカルボ=ソテロ政権は,自治州設置における高速ルートと低速ルートの権限に
差異があることが問題であるとし,その差異をなくす必要があるとした[Calvo-Sotelo 1990: 103― 121]。
当時の野党であった PSOE も首相の意向に同意し,与党民主中道連合(UCD)と PSOE の間で 自治州協定が締結された。その内容は憲法で規定された自治州設置に関する 2 つのルートに由来す る権限の差異を埋め,また新たに 6 つの自治州を創設して,全国 17 自治州による自治州国家体制 を発足させるというものであった。 この与野党間の合意は,1981 年 7 月に自治プロセス調整組織法(LOAPA)として成立したが, 自治州は単なる行政区分ではなく特権であるという立場をとるカタルーニャ州政府とバスク州政府 が憲法裁判所に提訴し,その結果 LOAPA の条文のうち,憲法の条文を修正していると考えられる 部分が違憲と判断され,中央政府が目指した高速ルートの自治州と低速ルートの自治州の差異をな くすという試みは,この時点では達成されなかった[Pelaz López 2011: 52]。 1988 年になると低速ルートによる自治州も設置から 5 年が経過したため,自治権の制限がなくなっ た。そのため,1991 年には多くの自治州が自治権を拡大するため,自治憲章の改正に踏み切った。 当時のゴンサーレス政権(PSOE)は,自治州の権限に関する最終的解決を目的として,1992 年 に野党 PP との間で自治州協定を締結した。両党は,固有の言語,島嶼性,歴史的特権(derecho foral)を除き,高速ルートによる自治州と低速ルートによる自治州の間で有する権限が異なること を正当化する根拠法がないことを確認し,全自治州に対して新たに中央政府の権限を委譲すること で,高速ルートによる自治州と低速ルートによる自治州が有する権限の差異をなくしたのであった。 自治州協定を反映した結果が,1992 年 12 月に成立した「憲法 143 条によって成立した自治州へ の権限委譲に関する組織法」である。同法により,新たに 32 の自治権が全自治州に付与され,高速 ルートと低速ルートによる自治州の権限の差は,固有の地域性を除き,保健・医療の運営権限の有 無とバスクとカタルーニャの州警察のみとなったのである[Mora 2015; 中島 2012:86―87;Pelaz 表 1 自治憲章制定年および改正年一覧 自治州名 自治憲章制定年 自治憲章改正年 カタルーニャ 1979 2006 バスク 1979 アストゥリアス 1981 1991, 1994, 1999, 2002 アンダルシア 1981 2007 ガリシア 1981 2002 カンタブリア 1981 1991, 1994, 1998, 2002 アラゴン 1982 1996, 2007 カスティーリャ・ラ・マンチャ 1982 1991, 1994, 1997, 2002 カナリア 1982 1996, 2018 ナバーラ 1982 2001, 2010 バレンシア 1982 1991, 1994, 2006 ムルシア 1982 1991, 1994, 1998, 2002 ラ・リオハ 1982 1994, 1999, 2002 エストレマドゥーラ 1983 1991, 1994, 1999, 2011 カスティーリャ・イ・レオン 1983 1988, 1994, 1999, 2007 バレアレス諸島 1983 1994, 1999, 2007 マドリード 1983 1991, 1994, 1998, 2002 出典:[Aja 2014:118]
Constitución Española (http://www.congreso.es/consti/estatutos/index.htm) (Last accessed 17/09/2019)
López 2011: 54―55]。この権限委譲に伴って,いわゆる低速ルートの自治州は自治憲章の改正を行なっ ている。この第 2 回の自治州協定に基づいて権限委譲がなされたことにより,自治州国家体制は一 応の完成を見るのである。表 1 はこれまでに自治憲章を改正した自治州とその改正年の一覧である。 (2)アスナール政権と自治州国家体制 ①第一次アスナール政権 こうした自治権平準化の動きに対して,カタルーニャとバスクは,自治権を歴史的自治州の特権 であるとし,全ての自治州が同格ではないというスタンスを崩さず,更なる自治権獲得を要求した。 他方,冒頭で述べたように,1996 年の総選挙で PP が勝利し,アスナール政権が成立したものの, 少数与党政権であり,円滑な議会運営には地域政党の協力が必要であった。 実は,より一層の自治権拡大を狙うカタルーニャとバスクは,ゴンサーレス政権末期より,中央 政界の状況を利用していた。政権政党であった PSOE は,1993 年の総選挙で過半数を割り込んだ ため,下院において 17 議席を得ていたカタルーニャの地域選挙連合である集中と統一(CiU)お よびバスクの地域政党であるバスク国民党(PNV)に閣外協力を求めて政権を維持した。CiU は閣 外協力の見返りとして,州内で徴税される個人所得税など 15%を自治州の財源に移転できるとい う協定を中央政府と結び,共通財政制度を採用している全ての自治州にその財源移転が適用された。 CiU も PNV も各自治州議会において,与党であった[Pelaz López 2011: 56]。
PP は,地域政党の協力を得て政権を維持するという PSOE の対応を非難したが,PP も 1996 年 の総選挙において下院の過半数を獲得できなかったため,CiU および PNV に閣外協力を求めた。 PNV との良好な関係は,最初の数か月しか続かなかったが[González-Calleja, et.al 2015: 315],CiU とは良好な関係が維持され,その結果がマジェスティック協定と呼ばれる PP と CiU の間で結ばれ た叙任・統治協定である。この協定では,①国会および州議会での双方の首班指名において協力す ること,②中央集権の象徴とされた各県に配置されていた内務省の出先機関である県知事を廃止し, 各州の政府代表が任命する政府副代表を配置すること,③ EU のスペイン常設代表部(REPER) に自治州担当顧問を置き,自治州代表が欧州委員会の専門委員会に参加することなどが定められた [中島 2012:88―89]。このような形で,自治州側は新たな自治権を獲得したのである。 冒頭で述べたように,PP はスペインの地域的多様性を認めないスタンスを保持してきた。アス ナールはそのスタンスを体現する人物と考えられており,それを考慮すれば,地域の多様性に貢献 することになる自治州国家体制の発展ないし自治州への更なる権限の委譲には消極的であることと なり,その印象は多くの研究で共有されている[Tusell 2005: 129―131]。確かにゴンサーレス政権 期は最も多く中央政府から自治州へと権限を委譲しており,その総数は 1368 にものぼる[Mora 2015]。しかし既に述べたように,地域政党の協力がないと政権が維持できないという状況もあり, アスナール政権が少なくとも自治州国家体制の発展に関する歩みを止めたことを証明するデータは なく,1993 年に PSOE との間で締結した自治州協定の流れを遮断するようなことはしなかったの である[Grau Creus 2008: 93]。 例えば,1998 年 1 月にカタルーニャ州議会で可決された言語政策法は,カタルーニャ以外の地 域において,一般には 1983 年の言語に関する合意に対する挑戦と受け止められた。カタルーニャ 語を教育言語とすることを柱とする同法は,法律家から違憲であると主張され,カタルーニャの知 識人からもスペイン語話者への差別を助長する法律であると非難されていた。カタルーニャ州議会 における PP は,言語政策法案に対して反対票を投じる意向を示していたが,アスナール政権はそ
れを認めず,州議会の採決において PP は棄権したのである。 その他,1998 年にはカタルーニャ州において治安警備隊から州警察へ交通整理権が委譲された。 既に 1993 年にゴンサーレス政権との間で合意がなされていたものであったが,自治憲章の改正を 行なわずに,憲法第 150 条第 2 項の規程を用いて,特別に権限移譲がなされたのであった[Powell 2001: 594―595]。 マジェスティック協定の効力は,1999 年のカタルーニャ州議会選挙の後の首班指名でも見られ た。長期政権を維持していた CiU のプジョルの勢いに陰りが見られ,辛うじて第一党の地位を確 保したものの,獲得票数において初めてカタルーニャ社会党(PSC)に抜かれたのである。言語政 策法のこともあり,州議会においてプジョルと PP の関係は必ずしも芳しくはなかったが,PP の 協力を得て,結果的に最後となるプジョル政権が維持されたのである[Powell 2001: 598―599]。 アスナール政権前半の課題は,1999 年 1 月 1 日に開始が予定されていた統一通貨ユーロの初期 メンバーになることであった。政権掌握時点では,スペインはマーストリヒト条約で定められた収 斂基準 4 つのうち,満たしていたのは 1 つであった。しかし 1997 年から 1999 年には年平均経済成 長率が 3.5%に達する好景気に支えられ,1998 年 5 月にはユーロの初期メンバーになることが確定 した。 収斂基準を満たすうえで最大の問題が累積債務残高であった。ユーロ参加基準の上限は対 GDP 比 60%であったが,アスナール政権発足時には 70.1%であった。財政赤字の主な要因は,保健医 療や失業手当,年金,政府関連企業の赤字に加えて自治州財政の赤字であった。財政赤字の削減に 伴って,自治権の拡大が図られていくことになった。 財政赤字削減に向けて,アスナール政権は EU が求める以上の市場の自由化と規制緩和に着手し, 特に政府関連企業の民営化が大きな成果を上げた。まず石油元売りのレプソル,通信分野のテレフォ ニカなどが民営化され,続いて第二弾としてイベリア航空などが民営化された。その払い下げ益は 約 4 兆 9000 億ユーロに達した。また,スペインの国営企業の数はかなり絞られることとなり,ス ペイン国鉄,郵便,国営放送,国民宿舎(Parador)などのみとなった[Powell 2001: 578―581]。 自治州財政の赤字に関して,中央政府は自治州政府に対して財政運営の責任を求め,自治州の財 政自治が拡大された。その目的のため,国から移転される税について規制,徴収,運用管理を行な う権限が自治州に委譲された。1996 年より個人所得税は国税から州税との共有税となり,30%が 自治州財政へと移転されることとなった。また自治州間の経済格差にかかわらず基本的サービスを 均質化するため,自治州間の財政的連帯が図られた[Powell 2001: 576―578; 中島 2012:88]。 このようにアスナール政権による自治州政策は,国家財政赤字の削減に主眼が置かれ,そのため の自治州への権限委譲であった。また同時にそれは際限なく自治州への権限委譲が続く自治州国家 体制に終止符を打とうという試みでもあった。1999 年には大学以外の公共教育機関の自治州への 移管が完了した。また厳密には第二次アスナール政権のできごとではあるものの,2001 年には国 立保健機構(INSALUD)を廃止して,保健・医療分野の権限を全ての自治州政府に移管した。こ のインパクトは非常に大きく,前者については,全体で 157,000 人の公務員が移転の対象となり, 9,000 億ユーロが中央政府から自治州政府へと支払われた。例えばカスティーリャ・レオン州にお いて,委譲された教育機関は 937 校,職員 29,300 人,生徒は 430,000 人であった。後者について言 えば,委譲を受けた 10 州の合計で総額 2 兆ペセタに相当し,140,000 人の職員,83 の病院,35,000 床のベッドが委譲対象となった[Tusell 2005: 423; Pelaz López 2011: 56―57; Aja 2014: 63]。自治州へ 委譲されたこの新たな権限の財源を賄うため,2001 年に自治州財政制度の改革が行われ,共通財
政制度を採用している全ての自治州に対して,州内で徴税される個人所得税のうち州財政に組み込 まれる割合を 33%に引き上げ,また消費税についても 35%を移転し,その他様々な国税が 40%か ら 100%の間で州財政に組み入れられたのである[González-Calleja, et.al 2015: 324; Mut y Utande 2011: 74―75]。
こうして公共支出のうち自治州支出が占める割合は,自治州国家体制が発足した直後の 1985 年 で は 10.5 % だ っ た の に 対 し, 一 連 の 改 革 が 完 了 し た 2002 年 に は 約 30 % に 達 し た の で あ る [Domínguez Martínez, et.al. 2006: 239]。
②第二次アスナール政権 2000 年 3 月に行われた総選挙では,PP が 183 議席を獲得し,下院での単独過半数を得た。その 後の首班指名では,CiU および PNV が協力し,202 票を獲得してアスナールが首相に選出された [Tusell 2005: 431]。 第二次アスナール政権では,第一次政権と異なり,下院での単独過半数を背景に,強硬な政策が 目立った。例えば,2001 年に成立した大学組織法(LOU)は,68 大学中 61 大学の学長が反対す る法案であった。同法の目的は予算の削減であり,1998 年において大学関連予算支出は対 GDP 比 0.96%だったのに対し,同法施行後の 2001 年には対 GDP 比 0.84%に減少している。また 2002 年 には義務教育における宗教教育の復活などを柱とする教育品質組織法(LOCE)を可決させた。 LOCE は実行に移されなかったものの,上記事例はいずれも諸勢力との事前交渉が行われないまま 実行された,第二次アスナール政権を象徴する出来事であった[Tusell 2005: 442]。 下院で単独過半数を獲得した第二次アスナール政権は,CiU などの地域政党の協力を必要としな かった。アスナールはプジョルに対し,協定の破棄を通告した。また中央政府から委譲可能な権限 はすでに全て委譲したとして,自治州国家体制の完成を宣言したのである[González-Calleja, et.al 2015: 315]。 アスナールによる協定破棄は,CiU がアスナールの首班指名において協力したにもかかわらず, 何も見返りが得られないことを意味した。そして,新たな自治権の獲得が望めない中で,カタルー ニャにおいて,CiU の支持率の低下は免れず,スペインからの独立推進派であるカタルーニャ共和 左派(ERC)が支持を伸ばした。プジョルは,自らの政界引退を表明し,後継者にマス(A. Mas) を指名したが,2003 年のカタルーニャ州議会議員選挙において CiU は第一党の地位を確保したも のの,PSC と ERC を中心とする左派三党連立政権が発足し,23 年に及ぶ CiU の長期政権が幕を閉 じたのである[González-Calleja, et.al 2015: 324]。 2004 年には総選挙が行われた。第二次アスナール政権は,一定期間を除き,PP が PSOE の支持 率を上回っていたので,下馬評では PSOE が PP に肉薄する可能性はあったものの,PP の勝利が 予想されていた。また,アスナールは総選挙に出馬しないことを表明し,後継者にラホイ(M. Rajoy)を指名した[El Mundo 1 de septiembre de 2003]。
しかし投票日の 3 日前にマドリード近郊線列車爆破テロが発生した。192 人が死亡,負傷者は約 1500 人に上った。中央政府は十分な根拠もなく,バスクのスペインからの独立を主張するテロリ ストグループであるバスクと自由(ETA)の犯行であると断定したが,それは誤りであった。有権 者は透明性のない政府発表を批判し,その結果,PP は下院で 148 議席にとどまり,下馬評を覆す 形で PSOE が 164 議席を獲得して政権交代が達成されたのである[González-Calleja, et.al 2015: 330]。
3.イタリアの事例―プローディ政権 (1)プローディ政権以前の連邦主義的改革 プローディ政権における連邦主義的改革を見る前に 1990 年代以降のイタリアにおける連邦主義 的改革の推移をまとめる。イタリアは国家統一期以降,フランス型の中央集権国家として出発した。 その基本的な性格は第二次世界大戦後も変わりなく,州(regione)・県(provincia)およびコムー ネ2)(comune)に区分される三層制を採用していた(共和国憲法旧第 114 条)。以下,第二次世界大 戦後のイタリアにおける地方自治の出発の形態について説明し,そこからどのように変化していっ たのかを説明する。 先述の通り,イタリア共和国は州・県・コムーネの三層制の地方自治を採用したが,中でも州は 憲法が定める原則にしたがって固有の権限および機能を有する自治団体と規定された(憲法旧第 115 条)。そして,県およびコムーネは共和国の総括的な法律が定める範囲内での自治団体と定め られた(憲法旧第 128 条)。このように,三層制において,州のみが憲法上の自治権を持つ地方公 共団体とされた[高橋 2008:67]。 共和国憲法によって,州に与えられた自治権は①規範定立上の自治,②行政自治,③財政自治権 である。第一に,州の立法権に関しては,憲法が限定列挙する事項について「国の法律の定める基 本原則の範囲内で」行使され,「国の利益および他の州の利益に反してはならない」とされる(憲 法旧第 117 条第 1 項)。このように,州に対しては国との競合的立法権のみが保障されることとなっ た。また,旧第 123 条第 1 項で憲法および法律の範囲内での憲章制定権が,同条第 2 項で規則制定 権が与えられている。ただし,旧第 123 条第 2 項で規定されたのは,「共和国の法律を執行するた めの規定を定める権限を法律により州に委任することができる」というものであり,決定する権限 までは与えられていない。 第二に,行政自治においては,州に帰属する国との競合的立法事項についてのみ,行政権能も州 に帰属するという権限の並行主義(parallelismo delle funzioni)が採用された。そして,国は法律 によってその他の行政権限の行使を州に委任することができ,州は通常その権限を県,コムーネも しくはその他の地方公共団体に委任し,またはその機関を利用して行う(旧第 118 条第 1 項)と定 められた。第三に,財政自治権については,州は共和国の法律で定める形式と範囲において,財政 上の自治権を有する(旧第 119 条第 1 項)とされているものの,その具体内容は法律事項となって いる。また,旧第 119 条第 2 項では,州の通常業務を遂行するのに必要な財源を確保するために州 税の課税権,国税の一部の州への配分を認めるとされている。このように「州」という主体を憲法 に規定してはいるもの,行政自治・財政自治共に州に与えられた権限は決して大きくはない。憲法 で表向き州への分権化を規定している一方で,イタリア中部地方に共産党の支持基盤が集中してい ることから,州に大きな権限を持たせた際に中部において共産党を与党とする地方政府が誕生する ことを恐れた国政与党がなかなか州への権限移譲を進めなかったという政党政治の力学に左右され た部分がある。このような背景から,イタリアにおける連邦主義的改革は,共産党への警戒が薄れ, また中央政府に共産党が関与するようになった 1970 年代以降になってようやく進展することとな る。 2) コムーネは日本で言うところの市町村に当たる基礎自治体である。
1990 年になると,1990 年法律第 142 号で,戦後初めて地方自治に関する総括的法律が成立し, 以後,分権化を拡大する流れを加速させることとなる。1990 年法律第 142 号の主な特徴は以下で ある。まず,従来は州にのみ与えられていた憲章制定権と規則制定権が県およびコムーネにも与え られた。そして,コムーネを「固有の共同体を代表し,自らの利益を管理し,その発展を促す地方 団体」と定義し,住民サービス,地域共同体・地域整備および土地利用,経済発展に関する行政権 能を有する主体として位置付けた。また,地方の公共サービスの運営形態として,第 3 セクターへ の委託に加えて,特殊企業,非営利団体,地方団体を主たる株主とした株式会社によることを可能 にし,コムーネの行政における新公共管理の側面を強化した。最後に,州と地方団体との対立ある いは混乱を回避すること,両者の役割・権限の明確化,および意思疎通を目的とした「州・地方団 体会議(Conferenza Regioni-Province e Comuni)」が恒常的な機関として設置された。同会議は, 州と地方団体の双方の代表者からなる3)[高橋 2008]。
そして,1993 年法律第 81 号によって,地方レベルにおける政治的代表性を確保する改革が行わ れた。同法によって,市長(sindaco)および県知事(presidente della provincia)が絶対多数制に よる直接選挙で選ばれることとなった4)。立法府と行政府は分離しており,首長に議会を統括する 権限はない。また,行政府を構成するメンバーは地方議員を兼任することはできない。首長は行政 府のメンバーの任免権・罷免権を有している[Vandelli 2015: 32―33]。このような特徴を見ると, イタリアの県・コムーネレベルでは大統領制的な制度設計が導入されたように見えるが,コムーネ 議会選挙および県議会選挙は,首長選と連結して行われるため,実際には議院内閣制と大統領制が 混在した歪な形態となっている。 (2)プローディ政権における連邦主義的改革 1995 年に第一次ベルルスコーニ政権が崩壊した後,同政権の国庫相であったランベルト・ディー ニ(L. Dini)がテクノクラート政権を率いることとなった。その後 1996 年 4 月の総選挙で中道左 派陣営が勝利し,(第一次)プローディ政権が誕生する。1996 年総選挙は,左翼民主党(PDS)と プローディ(R. Prodi)を中心とする「オリーブの木」からなる「オリーブ連合」を軸とした中道 左派陣営が勝利した。しかし,その勝利は僅差であり,小選挙区での得票率はオリーブ連合が 42.1%,中道右派陣営の「自由の極」は 40.3%という結果であった。与野党の議席数も接近しており, かつ中道左派は連合内に政策距離の大きい共産主義再建党(RC)を含んでおり,下院で 35 議席を 持つ RC は連立の解消により倒閣に動くことも可能という配置であった[伊藤 2018:197―198]。 プローディ政権は,主要閣僚にオリーブ連合の主要政党の有力者を当てると同時に,ユーロ参加 に向けた財政改革や,汚職摘発後に争点となった司法制度改革のような政治的に微妙な課題に,非 政党政治家を当てるため,テクノクラートも主要ポストに起用した。しかしながら,プローディ政 権は連立与党間の微妙な関係性も抱えていた。一つは,先述の RC との関係であり,もう一つは PDS 書記長マッシモ・ダレーマ(M. D’Alema)が閣内に入らなかったことである。ダレーマは, 3) 他に,諮問的住民投票に代表される住民参加諸制度の促進および活用,公文書の公開および行政情報への市民の アクセス権の保障,合併に到達する中間段階である連合という様式を通じた,人口 5,000 人未満のコムーネ間での 合併の奨励,合併の対象となっている個々のコムーネの領域において 1 人の代理コムーネ長によって統治される地 方自治体という制度の規定の導入,県に代位するものとしての 9 つの大都市圏の設置が規定されている。 4) 人口 15,000 人以下のコムーネについては相対多数制で行われる。
PDS 所属でオリーブ連合を主導したヴェルトローニ(W. Veltroni)とライバル関係にあったため, 内閣とも微妙な距離をとることとなった。同政権は,喫緊の課題となっていたユーロ参加の財政基 準達成のため,財政緊縮や社会保障改革に取り組んでいく[伊藤 2018:198―199]。 プローディ政権が取り組んだ政策課題のうち,連邦主義的分権化改革へ向けた取り組みは,1997 年 3 月からの 2 年間で地方分権と中央政府の再編を中核とするイタリアの行政システム全体の改革 を目的とした「バッサニーニ改革5)」とその後 2001 年に成立した憲法的法律6)である。そのうち,バッ サニーニ法Ⅰ(1997 年法律第 59 号 行政改革および行政簡素化のための州および地方団体への権 限および事務の委譲に関する政府への委任法)が地方分権を規定した法律である。法律名にある通 り,同法は行政の簡素化を目的とし,また地方団体への事務の委譲なども規定していることから, 比較政治学の理論的な捉え方に照らすと,分権というよりも分散を目的とした改革と言える。一方 で,これらの改革はイタリアにおける「連邦主義的改革」の始点と考えられ,以後のイタリアの分 権化を考える上で押さえなければならない点であるのも事実である。以下,バッサニーニ法 I の概 要を確認する。 バッサニーニ法 I の趣旨は,以下の 3 点である。第一に,同法により国から州および地方団体(地 方自治体)への権限の委譲の新たな段階が本格的に開始される。次に,権限の移譲に関しては憲法 の枠内で行うことを規定した。第三に,権限の移譲の法的手段として委任立法(legge-delega,憲 法第 76 条)を採用することとした[高橋 2008:72]。バッサニーニ法 I の趣旨から考えると,行 政の行為主体が州以下の地方団体になったことは明確であるが,その際の地方団体に与えられた権 限が行為する権限なのか,それとも決定する権限なのかは,必ずしも明確ではない。 バッサニーニ法 I の成立をもってイタリアにおいて「行政的連邦主義(federalismo amministrativo)」 が実現したとされる。国と地方との行政権限の配分基準が 180 度転換され,法律が沈黙している分 野については地方団体および州に帰属し,法律に明示的に規定された事項についてのみ国に留まる ことになったのである[高橋 2008:73]。加えて,バッサニーニ法 I が中央政府と地方政府の協議 の場を設定したことも重要である[Vandelli 2015: 35]。 プローディ政権は,バッサニーニ改革の他に憲法改正も視野に入れた制度改革にも取り組んでい た。これらは超党派的な合意を必要とする改革であり,政権発足直後から制度改革に関する両院合 同委員会設置の動きがあったものの,実際に協議会の設置が承認されたのは 1997 年 1 月になって のことであった。委員長には与党 PDS 書記長ダレーマが就任し,同協議会は通称ダレーマ委員会 と呼ばれる[伊藤 2018:201]。 ダレーマ委員会は,憲法第 2 部「共和国の政治組織」の全面的な改正草案の作成権を持ち,改正 案の作成までは成功したが,後に与党内と与野党間の対立が激化し,改正案は廃案となる[高橋 2008:75]。同制度改革をめぐっては与野党の対立も見られたが,連立与党間での対立も見られた。 制度改革の裏で政治的主導権をめぐる対立が生じてしまい,中道左派陣営内では,政権を主導する 5) 同政権の地方行政担当大臣フランコ・バッサニーニ(F. Bassanini)の名前にちなみ「バッサニーニ法」と呼ば れる[高橋 2008: 72]。
6) イタリアでは,憲法を改正する手段が 2 通りある。それは「憲法改正法律(legge di revisione della Costituzione)」 と「憲法的法律(legge costituzionale)」である。前者が憲法典の規定を直接に書き換える形式であるのに対して, 後者は憲法典を補完するために,憲法典と同一の形式的効力を有する規範を憲法典の外に作る法形式を指す[田近 2016: 290]。
プローディと連立与党の中で最大政党の PDS を率いるダレーマとが対立した。さらに,両者の間 には制度改革のためならベルルスコーニとの協力も辞さないダレーマと対決色を明確にしたいプ ローディの間で温度差があるなど[伊藤 2018:201―202],与党連合の運営のみならず野党との協 力体制のあり方においても対立点があった。 ダレーマ委員会は,与野党の合意に基づいて憲法の大改革を成し遂げることを目指していたが, この路線は挫折に終わったため,以後通常の憲法改正手続きによる「実現可能な部分改革の積み上 げ」方式へ方向転換することとなった。このような方針のもと,プローディが連立与党の内紛によ り首相の座を降り,その後を継いだダレーマ政権の下で実現したのが,2001 年 10 月 18 日憲法的 法律第 3 号「憲法第 2 部第 5 章の改正」(以下,2001 年憲法改正)である[高橋 2008:76]。 2001 年憲法改正の重要な点は以下の 4 点である。第一に,国(stato)と州および地方団体を同 格化したことである。改正後の憲法第 114 条第 1 項は,旧規定が「共和国は,州,県およびコムー ネに区分される」としていたものを「共和国は,コムーネ,県,大都市圏,州および国によって構 成される」と改正している。これは,国と地方団体の関係性を根本的に見直したものと考えられる が,一方で共和国を構成する団体に国も含まれていることが問題となる。同改正は,自治団体をコ ムーネ,県,大都市圏および州としているが,そこに国は含まれていないため,国は依然として主 権の帰属主体の地位を維持していると理解される[高橋 2008:76―77]。したがって,同改正によ り地方団体と国の関係性が対等なものとなったとは考えづらい7)。 第二に,2001 年憲法改正は,州の立法権を強化した。具体的には,立法権の国と州の間での配 分の原則に関して,憲法に限定的に列挙した事項のみを州の立法事項とするという原則から,憲法 に列挙した国の立法事項以外は州に立法権を配分するという原則に転換したと評価される[高橋 2008:78]。 しかしながら,確かに国の立法事項を限定列挙してはいるものの,その後に国と州との競合事項 も列挙しており,多分に州に対する国の調整能力を残した形となっている。まず,国に排他的立法 権が帰属する事項として,国際関係,経済・通貨政策,国の組織8),人の法的地位,国の安全保障(地 方の行政警察を除く治安および保安),福祉国家,司法,環境保護,上記に分類不能なものである。 一方,国と州の競合事項は以下のように多岐に渡る内容となっている。それは,1.州の国際関係 および州と欧州連合との関係,2.外国との通商,3.労働の保護および安全,4.学校の自治並び に職業訓練および職業教育を除く教育,5.科学および技術研究並びに生産的セクターの革新のた めの支援,6.健康の保全,7.食品,8.スポーツ法制,9.民間防衛,10.領土の管理,11.民間 の港湾および空港,12.大規模な輸送および航行網,13.通信制度,14.エネルギーの生産,輸送 および全国への配給,15.補充的および補完的な保険,16.公的収支の調和並びに公財政および租 税制度の調整,17.文化財および環境財の評価並びに文化活動の推進および組織化,18.貯蓄銀行, 農業金融公庫および州レベルの信用金庫,19.州レベルの不動産および農業信用団体の 19 項目で ある。2001 年憲法改正は,競合的な立法事項における州の立法権行使の改善をもたらさなかった し[高橋 2008:80],州政府の立法権に対しては中央政府による介入の余地を残した結果となって 7) また,同改正より「大都市圏」という新たな団体が創設されたが,これに関する規定は欠如しており[高橋 2008: 77],欠陥がある。大都市圏に関する法整備は後に進められていくこととなった。 8) 具体的には,国の機関およびその選挙法,国レベルのレファレンダム,欧州議会選挙,国および国の公共団体の 行政制度および組織,コムーネ,県および大都市の選挙法,統治機関および基本的権能に関するものを指す。
いる。 他方で,行政権については,その帰属先を原則コムーネとした(第 118 条第 1 項)。そして,コムー ネ,県および大都市圏は固有の行政権限および国又は州の法律により各々の権限に基づき移譲され た行政権限を保持する(第 118 条第 2 項)とされた。これにより,州に立法権のある事項にのみ行 政権を与えるという立法と執行の「並行主義」が放棄され,行政権限が原則的に基礎自治体である コムーネに帰属するという「近接性の原則」,すなわち垂直的補完性原理が憲法に挿入されたと評 価される[高橋 2008:81―82]。 バッサニーニ法 I および 2001 年憲法改正の内容を勘案すると,プローディ政権(およびそれを 引き継いだダレーマ政権)の地方制度に関する改革の最大の関心は,国が権限として抱えている行 政を地方レベルに落とすという点にあったと言えよう。具体的には,バッサニーニ改革が行政の簡 素化を目的とした改革であり,バッサニーニ法 I もその目的を達成しようとしていた。そして, 2001 年憲法改正は,州の立法権については国との競合事項を規定している一方で,行政権につい ては原則として州以下の地方団体に権限を与えている。それはつまり,行政権が原則地方レベルの 政府に帰属するものになろうとも,地方団体が行政を執行する枠組み自体には国の関与の可能性が 残されていることを意味する。 (3)プローディ政権内外における政治力学 中道左派政権はその発足と同時に,様々な改革を試みたが,それは場当たり的で,しばしば個々 の大臣主導によるものが多く,結果的に雑多な改革の寄せ集めとなってしまった。それは,この時 期に他のヨーロッパ諸国で誕生していた中道左派政権とは異なり,プローディ政権の分極性の高い 政党連合に支えられていたこともあったし,そもそもプローディという首相自身,連立与党の第 1 党から出された首相ではなかった。 プローディ政権に課せられた最優先課題は何よりもまず,ユーロ第一陣への参加に必要な財政基 準を満たすことであった。プローディ政権発足当時の 1996 年時点でのイタリアの単年度財政赤字 は GDP 比 6.7%,累積債務が GDP 比 123.8%と,マーストリヒト条約に規定された基準を大きく 上回っており,イタリアは特にドイツやオランダから厳しい目で見られていた。そのような動きに 対し,プローディはアスナールと会談し,南欧でユーロ参加へ向けた連合体を形成することを提案 したが,アスナールはその動きには参加しなかった。その上,アスナールからはイタリアのユーロ 第一陣参加へ疑義を呈され,散々な結果となった。さらに,イタリア国内では北部に支持基盤を持 つ北部同盟の主張が過激化しており,北部の分離独立を唱えていた。北部同盟は一時的にではある ものの,1996 年総選挙で支持を伸ばしており,中道左派陣営にとっても脅威であった。それは, イタリアの国家としての一体性を脅かすものであり,プローディ政権は国内外で難題を抱えていた のである[Ginsborg 2001: 305]。 そのような状況下で,より一層プローディ政権にとって欧州通貨同盟(EMU)への参加を達成 することは何としても成し遂げなければならない政策課題となった。イタリアが,単一の国家とし て EMU に参加できれば,国際的な威信を回復できるのはもちろん,分離独立を掲げる北部同盟の 目標を遮ることにもなり,北部同盟の支持を減ずることができると考えられていた。以後,プロー ディはその目標を達成するべく,「ユーロ税」をはじめとする緊縮財政を敷くこととなる。また, その時点での中道左派陣営は,EMU 参加という達成不可避の共通の政策課題が提示されたことで PDS 党首のダレーマらが労働組合に対し緊縮財政への理解を求め,緊縮財政には批判的であった
RC 党首ベルティノッティも緊縮財政に反発しないなど,足並みが揃っていた[Ginsborg 2001: 306]。 プローディ政権からダレーマ政権にかけての中道左派政権期での制度改革を担ったのは先述の地 方行政改革相バッサニーニである。バッサニーニは PDS 所属の議員であり,かつての社会党に所 属していたが,ベッティーノ・クラクシ(B. Craxi)首相の方針に反発し,社会党を離党した人物 である。バッサニーニの改革の主眼は,以下の 2 つの領域に及んでいた。まず,行政の分権化であ り,それは具体的には中央政府が抱えている行政機能を州ないしそれ以下の基礎自治体に委譲する ことであった。次に中央省庁の再編,最後に行政の簡素化である。 その中でも行政の分権化はバッサニーニ法 I によって最初に達成されたが,それも含めて,中道 左派政権が成し遂げた改革は,これまでのイタリア政治からすると革新的なものは多かった。しか しながら一方で,それらはこれまでのイタリアの政治・行政の慣行からは乖離した点が多く,実際 に運用される段階で障害が生じることもあった。バッサニーニ法 I が行おうとした行政の分権化は, 行政だけでなく政治の分野でも分権化をしなくては達成されないものであり,2001 年 3 月の中道 左派政権の末期においてようやく憲法的法律が議会を通過することとなる[Ginsborg 2001: 311― 312]。 (4)プローディ政権の連邦主義的改革への地域政党の反応 バッサニーニ改革の主眼が行政の簡素化にあり,連邦主義的改革もその文脈でなされたのは既述 の通りである。ではなぜプローディ政権は地方分権化に着手したのであろうか。その要因の 1 つが 北部同盟である。北部同盟は元来北部の自治拡大を主張してきたが,同時に PDS もまたイタリア における連邦国家的な構造を導入することを強く主張していた政党であり,北部同盟が台頭する以 前から分権化を主張してもいた[Massetti and Toubeau 2013: 366]。その中でも,バッサニーニは その動きを主導していた議員である。 PDS と北部同盟は 1995 年の第一次ベルルスコーニ政権への不信任案の採決とその後のディーニ 政権への信任で協力した経緯があり,1996 年総選挙で両党が協働するか否かが争点となっていた。 PDS 内部でも北部同盟との距離感が問題となっていた。最終的には北部同盟が選挙戦に単独で臨 むこととなったが,結果は北部同盟が 10.1%の得票を記録し,北部において左派政党に投票しうる 労働者層や公共セクターの労働者層にも支持を広げており,それらの層を中道左派陣営が死守する 必要もあった。そのような政治的背景の中で,中道左派陣営,とりわけ PDS にはこの政権で地方 分権化を達成し,北部同盟の政治的資源を奪うことへの誘引があった。それはまた,北部同盟を抑 え込む戦略であると同時に,北部同盟が中道右派陣営に入りうる政治勢力であることから,中道右 派陣営と対抗するための戦略でもあった[Massetti and Toubeau 2013: 365―366]。そして,中道左 派政権はバッサニーニ改革と憲法改正を以ってして北部同盟から争点を奪うことに成功し,それに 加えてこれらの改革が以後の連邦主義的改革の経路を規定する出発点となったのであった。このよ うに,中道左派政権が連邦主義的改革に取り組んだのは,ヨーロッパ統合における事情というのも 一因ではあったが,当時の政治勢力間での競合も影響していたのである。
4.スペインとイタリアにおける連邦主義的改革をめぐる違い 第 2 節で見たように,アスナール改革は連邦制を目指すものでも地域ナショナリズムに貢献する ものでもなく,第一に少数与党政権という立場によって促されたものであったということが明らか となった。またユーロの初期メンバーになるために,財政赤字削減は必須であり,分権化は民営化 と共に財政赤字を削減する手段であったと言えよう。その証拠に,2000 年の総選挙で単独過半数 を獲得すると,協調主義的な姿勢は見られなくなり,むしろ地域ナショナリストとの対立を招いて いる。 第 3 節で見たように,バッサニーニ改革と憲法改正によって,イタリアは表面上連邦主義的な要 素を備えたように見える。しかしながら,実態はそう簡単に変容しなかった。これ以降も,イタリ アでは分権化改革が各政権によって進められようとしていくが,依然重要な決定は中央政府やそれ に関係するアクターによって決められており,今のところ,中央と地方の間に介入が可能なのは憲 法裁判所による審査のみである[Palermo and Wilson 2014: 510―511]。本稿が見てきたように,中 道左派政権の連邦主義的改革に関与したのは国政レベルのアクターであり,その傾向は以後の改革 についても指摘されている。そのため,地域レベルの政府は国民投票などのような直接民主主義的 な制度の過程において圧力をかける形でしか影響力を行使することができていない[Palermo and Wilson 2014: 511]。これは明らかにスペインの事例とは異なる中央地方関係である。 以下では,本稿が注目したスペインとイタリアの連邦主義的改革の類似点と相違点をまとめる。 まず,両事例の出発点について,スペインが民主化後から自治州国家として出発し,自治州への分 権化がなされた状態から分権化の議論が展開するのに対し,イタリアは憲法の文言上分権的な体裁 を採りつつも,実際には集権的な国家体制から出発し,政党政治の力学が変化する 1970 年代以降 にようやく実態を変えようとする動きが出始める。そして,スペインでは 1990 年代までに中央と 地方の権限の素材は落ち着いていたが[Grau Creus 2005],イタリアはその時期に,権限をどのよ うに中央と地方で分けるのかという点が議論の対象となる。 次に,両国では同じ連邦主義的改革や分権化という言葉を使っていても,その意味するところは 異なる。スペインにおける分権化の議論が,財源の問題も含めて自治州に対する決定権限を与える か否かという点が重要視されているのに対し,イタリアにおけるバッサニーニ改革や 2001 年憲法 的法律はあくまで比較政治学の理論で言うところの分散を進めた改革であった。イタリアは 1993 年に地方レベルの首長選挙に直接選挙を導入したことで地方政府の政治的代表性を強めてはいる が,一方で決定権限については依然中央政府も握っているため,地方政府の制度的独自性はスペイ ンほどに発揮されていない。このように,両事例の分権化改革が何を目的としたもので,実際問題 としてどのような変容が生じたのかを勘案して分析を進める必要があるだろう。 第三に,分権化をめぐる政治の様式について,スペインにおいては 1980 年代に地方との政治の 関係性において一定の慣行が成立していた一方,イタリアではそのような慣行は未確立であった。 イタリアの連邦主義的改革の推移における左右の政治勢力の動きを見ると,イタリアでは一見中道 右派と中道左派で政治的交流が分かれているように見えて,中道左派の政党が中道右派陣営の北部 同盟に協力を持ちかけたり,中道左派の政治家が改革を進めるために中道右派のベルルスコーニと の協力を模索したりとインフォーマルな形で党派を超えた合意を形成しようとしていた。 この点について,スペインでは二大政党の PP と PSOE の間で地方分権に関する合意を形成する
ことが慣習となっていたことと意味するものが違うのか否かを検討することは今後の課題となっ た。いずれの事例も左右の政治勢力間で何らかの交渉が行われていたという点は同じであるが,ス ペインが政党対政党という図式で合意を形成を図っているのに対し,イタリアでは政党の中の一部 の議員もしくは他の陣営の一部をなす政党との合意を形成しようとしている点で決定的に異なって いる。それはつまり,与党の枠を越えた合意を形成しようとする際に,スペインにおける PP にとっ ての野党は自動的に PSOE に決まる一方,イタリアでは交渉相手たる野党が複数存在するため, 交渉相手の選択の余地が生まれる。これらの違いは両国の政党システムの違いによるものであると 考えられるが,アスナール政権の政権構造によりその慣行が変容したことは興味深い。また,スペ インでは分権化に対して左右の政治勢力で態度が明確に分かれているが,イタリアでは左右のどち らの勢力も分権化を推進することを争点化しており,分権化そのものは対立点にはなりにくかった。 分権化の焦点は,分権化するか否かではなく,「どのような分権化を行うのか」という点にあった のである。このように,両事例の連邦主義的改革をめぐる政治過程をより詳細に見ていくと,様々 な違いが見えてくる。それは連邦主義的改革に関する知見であると共に,連邦主義的改革以外の他 の分野に一般化して適用できる知見となる可能性がある。 最後に,今後両事例の分析を進める上で取り組むべき課題を示す。ひとつは,両政権共にユーロ の初期メンバーになれるかどうかという瀬戸際にいたという事実を考慮して分析する必要がある。 ユーロの初期メンバーになるための改革と分権化改革はワンセットなのかどうか,更なる考察が必 要である。もう一つは,2 つの政権が取り組んだ改革の過程をより詳細に紐解く必要がある。そして, その際には,アクター間の交渉のチャネルの有無,そして交渉の有無,最後に交渉があったとすれ ばその重要性を明らかにしなければならない。アスナール政権での改革については,PP と PSOE 間および PP と地域政党間との交渉の上記 3 つの交渉の要素を見なければならないだろう。プロー ディ政権およびダレーマ政権については,バッサニーニ法 I 成立までの特に議会における議論の過 程でそれぞれの交渉の要素はどのように捉えられるのか,そしてダレーマ委員会において同様の要 素が抽出されるのかが問題だろう。イタリアの中道左派の場合,交渉の相手は中道右派陣営を構成 する各党となるが,中でも北部同盟がどのように対応したのかがスペインとの比較の上で問題にな るはずである。また,中央政府からの財政移転について,更なる考察を進める必要がある。自治権 が有効となるためには,それを支える予算が必要であり,その動向についても検討していかなけれ ばならないことが今回の考察により明らかとなった。 参考文献 【邦文】 伊藤武 2018『イタリア現代史 第二次世界大戦からベルルスコーニ後まで』中公新書。 高橋利安 2008「イタリアにおける地方分権と補完性原理」若松隆・山田徹編『ヨーロッパ分権改革の新潮流 地域 主義と補完性原理』中央大学出版部。 田近肇 2016「第 VI 部 イタリア VI―序 概観」駒村圭吾・待鳥聡史編『「憲法改正」の比較政治学』弘文堂。 建林正彦・曽我謙悟・待鳥聡史 2008『比較政治制度論』有斐閣アルマ。 中島晶子 2012『南欧福祉国家スペインの形成と変容―家族主義という福祉レジーム』ミネルヴァ書房。 【英文】
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A Comparative Study of Decentralisation Reforms in
Spain and Italy:
The Cases of Aznar and Prody Governments
Kazuki I
KEDAand Tomonari N
AGATA要 旨 本稿は,スペインとイタリアにおける連邦主義的改革を比較することにより,連邦主義的改革の成 否と地域主義の激化に関する論点を抽出することを目的としている。 両国は民主化以降ないし戦後において分権的改革を進めてきた。しかしながら,2020 年現在,両 国の辿っている道のりは大きく異なるようである。スペインではカタルーニャ州が独立を掲げており, 他方イタリアでは地域主義的な主張を引き下げ,もっぱら反 EU・反移民政党として成功している。 このような帰結の違いはどこから生まれるのであろうか。 この問いの解を求める前段階として,本稿では最も分権化が進んだと考えられるスペイン・アスナー ル政権とイタリア・プローディ政権による改革を分析し,両改革の類似点や相違点を考察する。この 分析を通じて,分権化改革の段階論に関する理論化の足掛かりとしたい。