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マラルメにおける詩的フィクションと科学的方法

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(1)

マラルメにおける詩的フィクションと科学的方法

著者

大久保 智弘

雑誌名

年報・フランス研究

35

ページ

95-107

発行年

2001-12-25

URL

http://hdl.handle.net/10236/9489

(2)

95

マ ラル メにおける詩的フィクシ ヨン と科学的方法 ①

大久保 智弘 マラルメにとつての詩句を書くための方法を知るには、その「フィクション」の考察 が必要となるのではないだろうか。のちの詩学においてたびたびくりかえされることに なる「フィクション」への言及は、1870年 に書かれていたとされる「言語の科学」にかん する「ノー ト」に見出すことができる。そこでは、方法としての、あるいは精神そのもの のメタファーとしての「フィクション」を、デカルトによつて得たことが書き記されている からである。 すべての方法はフィクションであり、それは証明に役立つ。 言語は、彼にはフィクションのための手段とおもわれた。彼は、(言語)の方法(そ れを規定すること)に従うだろう。自己反省する言語。要するに、フィクションは、人 間精神の方法そのもののようにおもわれる‐一一フィクシヨンこそが、あらゆる方法とよ ばれるものを、働かせるのである。そして、人間は、最終的に意志に還元さ

M。

(方法〉に関する(ディスクール〉の一頁(強調して)。 (「ノート」)② したがって、生涯の詩学の探求をささえる「フィクション」の概念0を 、まず、デカルトの 自然学の「寓話」のもつ抽象作用によつて、つぎに、その存在論的証明のもつ創造 性 によつて検討したうえで、最後に、抽象的「方法」と創造的コギトとがマラルメの「デ ィスクール」においてどのように実現さ

Mの

かを見ていきたい。

(3)

96

マラルメにおける詩的フィクシヨンと科学的方法

I

科 学 的 寓 話/フ イク シ ョン の 抽 象 作 用

一方のデカル トは、好んで「寓話」fableという語をくりかえし用いている。『 世界論』 では、地の元素と、知覚しえないほど微細な粒子である火と気の元素という三元素か ら成る物質と、それらにあたえられる運動とによる「新しい世界の記述」を「寓話」と名 づけている。 しかし、この話が長くて、あなたがたにとつてあまり退屈なものになつてしまわぬよ うに、私は、寓話を作りあげて、話の一部をその中に包み込みたい。私の望みは、 この寓話をとおして真理が十分に現れ出でずにはおかず、またその真理は、私が それをまったくあからさまに解説する場合に劣らず、同意しやすいであろうということ である。(『世界論』第5章

)0

つ まり、科 学 とは ひ とつ の フィクションなのだ(5)。「ロマンのように読 ん でほし い」 “ )と読 者 に求 める『 哲 学 の原 理 』にお いては 、対 話 篇 で書 いたプラトンを 評 価 してもいるが(7)、 そこでの 、今 日なら「力 学 的 エネル ギー保 存 則 」と呼 ば れもす る物 理 現 象 についての説 明 には、ある条 件 がつ くことになる。 そして、このような(力学的エネルギー保存則の一一 引用者注)計算は、完全に 固体である物体においては、容易にやつてみせることができるであろう。すなわち、 かりに、ただ二つの物体だけが出会い、しかも、それら二物体が互いに同時には接 触することなく、また、個体でもあり流体でもあるような他のすべての物体から分離さ れていて、かつ、それらの運動が周囲のいかなるものからも助長も妨害もされない とした場合である。 (『哲学の原理』第2部45)③ そう注意をうながすのは、「実際には、経験の示すところが、私がいま説明した諸規 則に一見して合わないように見えることがしばしば起こる」(同第

2部

53)②からだ。科

(4)

マ ラル メにおける詩的 フイクシ ヨンと科学的方法 学的な仮説としての記述は、自然から実在性を抜きとりながら描き出されるがゆえに、 抽象性そのものと化す。真理の告知は虚構の言説によつてこそなされるのである。 他方 、マラルメの言う「科学」とは、当時の比較神話学や比較言語学の進展を背 景にもつものとして存在している。 「言語」とは、科学的研究の諸対象のなかにあつて、どのようなものであるのか ? 「生」のあらゆる現象を表現する努めをおびた「言語」は、それら、諸対象の一つ一 つから何らかのものを借りている。「言語」は生きているのである。(000)そ れ、すな わち言語とは、人間を他の自然物から区別しつつ、同時に、自然物を模倣するもの なのである。本質において、自然であるとともに、人工的でも(…・)あるもの、それが 言語なのである。 (『英単語』)。① 言語を有機体としてとらえるこのような認識 は、直接的には、マラルメの参照したとい うマックス・ミュラーの『 言語の科学』動

`胸

協 “ o/J27g″

rか

ら来ているということ になる。1)だろうが、注 目すべきなのは、当時のこの最新の科学的方法に、マラルメが なによりも拍象作用を認めようとしていることである。 その人格化された外見から古代の神々を解き放つこと、そして、神々を、あたか も知的な化学操作によって揮発させて(volatilisёes)、 その原初的形態、つまり、日没、 夜明けなどの自然の現象に還元すること、それが現代の(神話学)の目的である。 (『古代の神々』)。υ 自然現象の象徴体としての神話一一そ の抽象化 にこそ科学的方法を見出すマラル メにとつて、詩とはどのようなものであるのだろう力゛3)。

(5)

98

マラルメにおける詩的フイクションと科学的方法 Ⅱ 詩 的 フ ィ ク シ ョ ン

/形

而 上 学 的 寓 話 の 倉

J造

性 人 間 にとつて「自然 である」ように見 えるが、絶 対 的 に「人 工 的 である」言 語 によつて純 粋 観 念 へ と「転 位 」されるべきものとして、マラルメの 自然 は存 在 している(14)。 (言語)とは、(ことば)が 展 開 されたものである、すなわち、(言語)の理 念 である〈ことば)が 〈存 在 )の 中 に展 開 されたものであり、(0…)そこから、(言 語)の二 つの現 象形 態 が生まれる。つまり、〈話 し言 葉)と〈書き言葉 )で ある。 (0…)(話 し言 葉 )は 、音 声 のアナロジーによつて、事 物 のアナロジーを創 出 する(0‥)。 (「ノート」)(15) その音的な側 面のもつアナロジーによつて、自然のアナロジーがつくりだされるとい う(言語〉

06-そ

こに自然を見出すのがマラルメの「言語の科学」であるなら、言語 のなかに「超 自然的な」07ものを見出すのが詩であるということになるだろう。さらに、 その詩句の書き込まれた「万象の間の諸々の関係」。助をとらえるための一―「フィクシ ョンの手段」。助、あるいは「精神の楽器」οのとしての一一 書物とは、人間にとつて、唯 一の創造行為の所産ともなるだろう0ヽ抽象的な「寓話」として描き出されるのだから、 デカル トにとって、自然には存在がない(2ヽ マラルメにとつても、自然の言葉、現に存 在する言葉 には真の存在が欠けているように見えるのだ。 諸々の国語は、それが二種類以上存在するという点において、不完全である。す なわち、至高の言葉というものがないのである。いいかえれば、かんがえるということ は、なんの付属物もなしに、また、頭の中でつぶやくということもなしに、それどころ か、まだ無言の状態のまま永遠不滅の言葉を書くということなのだが、地上にあつて は、それぞれの国語に特有な語法の雑多なことが語をひとが明瞭に口にすることを 妨げている。もし、そうでなければ、それ 自体が物質的に真理であるただ一回の打

(6)

マラルメにおける詩的フイクシヨンと科学的方法

99

込み によって、語は存在を得るであろうのに。 (「詩の危機」)。⇒ 「寓話」という抽象によって、自然から実在性を抜きとるのが科学なら、「抽象作用 の無限の飛翔」である「書かれたもの」00に よつて、語に真の存在を取りもどしてやる のが詩の役 日ということになるだろう。 ところで、マラルメの詩的営為の全ての源を「理想 と現実」との乗 り越えがたい「距 離」に求めるジョルジュ・プーレは、その両者の矛盾を解く操作としての「フィクション」 を理解するために、デカルトのコギトを引いている。 (0¨

)私

たちが目覚めているときにもつ思考が、すべてそのまま眠つているときに も現れうる、しかもその場合、真であるものは一つもないことをかんがえて、私は、そ れまで自分の精神 に入つていたすべては真ではないと仮定しよう¢J″ `施)と決めた。 しかし、そのすぐ後で、つぎのことに気がついた。すなわち、このようにすべてを偽 とかんがえようと意志する間も、そうかんがえているこの私は必然的に銚 のかでな ければならない、と。 『 方法序説』第4部)の コギトを成 立 させる重 要 な契機 をなし、

17世

紀 の用 法 による「仮 定 する」とい う動 詞 feindrび26)を強 調 するプー レは、マラルメの「フィクション」を「現 実 を廃 棄 して理 想 を実 現 する」ためのものだとしている(27)。 つまり、デカル トのコギトとは、肉体を廃棄して成立するものでもあつたのだ。しか しながら、科学の場合とちがい、自然からその実在性が消去されたうえでのみ真の存 在があたえられるのだ。 それから、私とは何かを注意ぶかく検討し、つぎのことを認めた。どんな身札 な く、どんな世界も自分のいるどんな場所もないとは仮定できるが、だからといつて、 自分は存在しないとは仮定できない。(『方法序説』第4部)の

(7)

100 マ ラルメにおける詩的 フ イクシ ヨンと科学的方法 デカルトにとって、新しい世界の描写が「寓話」であったのは、それが抽象的なも のであるばかりではなく、創造にかかわるものでもあるからだ。先に見た『 世界論』の 「寓話」による真理の啓示が望まれるやいなや、つづく章の冒頭ではこう書く、「それ ゆえ、しばらくの間、あなたがたの思想をこの世界の外におき、私が想像上の空間に

生まれさせるまったく新しい世界をごらんいただきたい」

(『

世界論』

6章

つ。つまり、

人間の作る物語がひとつの世界の生誕を指し示すとき、制作は創世の同義物ともな るのである。したがつて、抽象作用によつて真の主体を作り出すことになるコギトもま た、神が作者の世界の創造が人間によるその創作と重ねあわせられるときに「寓話」 のもつ作用そのものとなるのではないだろうか。 Ⅲ 詩 的 デ ィ ス ク ー ル の 創 造 性 それ ゆえ、デカル トの名 自体 が、マラルメにあっては、抽 象 作用(Ю)と創 造 行為 の 象徴 となるのも当然だろう。 かんがえてみれば、フランス悲劇の簡潔な装としてのページに横たわつていた意 図は、古代をその 白い灰の中で甦らせることではなくて、内実のない、というか、ほと んどない場において、人間の偉 大な姿態を、しかもわれわれの精神の造型のごとき ものとして産み出すことであつた。 たとえば、デカルトの内的操作にも等しい彫像術であり(…・)。 (「風俗劇 、あるい は近代作家たち」

)GD

そう書くマラルメにとつての「古典 主義 」とは、なによりも「ディスクール」の時代 を指 し ている。

(8)

マラルメにおける詩的フイクシヨンと科学的方法 (文芸)というようなものは、果たして存在するのでありましょうか、(古典主義の時 代においては、これが一般の了解だつたのですが)、 あらゆる領域の諸観念を洗練 させみごとに彫 り込まれた表現へと仕上げること一一これ以外のありかたで、(文 芸)というものは、存在するのでありましょうか。守られるべき規則とは、建築家であ れ、法律家であれ、医者であれ、構築、あるいは発見を完壁たらしめるためには、 それらをディスクールヘと高めねばならぬ、要するに、すべて精神から発散するも のは精神へと復帰しなければならぬということでありました。 (『音楽と文芸』)。幼 すると、「古典主義の時代」を生きた当のデカルトにとつての「ディスクール」が、な によりも「寓話」であつたということをおもいださなければならない。というのも、第四部

feindreの

はるか以前の第一部で、

『方法序説』

とは「寓話」

fable以

外のイ

軋 のでも

ないと宣言 しているからである。 このように、わたしの 目的は、自分の理性を正しく導くためにしたがうべき万人向 けの方法をここで教えることではなく、どのようにして自分の理性 を導こうと努力した かを見せるだけなのである。(0¨)この書は、一つの話として、あるいは、一つの寓 話といつてもよいが、そういうものとしてだけお見せするのであり(‥0)。 (『方法序 説』第1部)●3) デカルトの『 方法序説』とは、こう言つてよければ、真に二元論的な書物である。それ は、実際には真理を告げ知らせるようなものでもなければ、科学的方法を論じるよう なもの、つまり「論文」なのではない。この書は、科学的方法について言葉で述べるも のであり、なによりも「話す」ものとしての「ディスクール」なのだと強調するデカルト00 にとつては、光という現象とその現象に対して人間が抱く光という観念とがはつきり異 なるものであるように。つ、方法そのものと「(方法)に関する(ディスクール〉」とは一一 科学そのものと、科学的ディスクールとは―一―はつきり異なるものとしてあるものだか らだ。デカルトのディスクールとは抽象作用と創造性とによつて「寓話」であるというか

(9)

102 マラルメにおける詩的フイクシヨンと科学的方法 ぎりで、マラルメの「ディスクール」とは「フィクシヨン」なのである。 コギトが創世神話として「寓話」の構造をもつように、マラルメにとつてのコギトとは、 なによりも「フィクション」によるコギトになる。それは、詩人が炉部屋に隠りながら、書 くことによる抽象作用こそが真の存在をもたらすような芸術にたいして抱く夢想 となる のだ。 それは存在する(と、火を掻きたててみる)、 一つの芸術、いや、唯一ないし純粋 の芸術であつて、言葉にすることがそのまま作り出すことを意味するような芸術であ る。それは、実践によって、自己の存在証明を大きな声で主張している。 (「芝居 鉛筆書き」

)∞

そもそも、デカルトのコギトこそ言表行為と存在とがむすびついたものではなかった

だろうか。

。つまり、

『私はある、私は存在する』というこの命題は、私がこれを言い

表すたびごとに、あるいは、精神によつてとらえるたびごとに、必然的に真である」

(『

省察

2』 )138、

そして、明証性に満ちたコギト

の光を見出すために、デカルトが一連

の「懐疑」ののちに闇の支配するあの「渦巻く深淵」に引きずり込まれなければならな

かつたとす るなら、夜 空 にうかぶ 星辰 の建めきと、清 らかな 白紙 のうえにしたたる漆 黒 のインクとが、マラルメにおける書くことにまつわる特権的な象徴 となるのも驚くべきで はないのかもしれない。 聞きます ところ、空無が存在し、そして、自己がことさらに散乱する神性 を反映し ているということであります。それは、すなわち、書くというこの常軌を逸した戯れは、 ある懐疑(doute)の効力 によつて一―インクの滴が崇高なる夜 と類縁 でむす ばれて 一― 諸 々の無意識的想起をともないつつ、す べてを再び創 造し直す義務を自らが 強く要求し、在るべきところにまさしく在ると証しをたてることなのであります(・‥)。 (『

ヴィリエ

0ド

・リラダン』

)。"

(10)

マラルメにおける詩的フイクシヨンと科学的方法

103

*

「証明に役立つ」ような「方法」としての「フイクション」とは、『 方法序説』のことであ ると、マラルメは書いていた(“)。 科学の寓話が自然から実在性を抜きとるものだとす れば、「人間精神の方法」のみによつて可能となる「フィクション」は、「言語」に真の存 在をあたえるものとなるのだ。「(文芸)とは何でしようか、デイスクールとして遂行され

る精神的探求でないとすれば」

音楽と文芸』

y4、

「言語の方法」とは詩という

「デイス

クール 」である。そのとき、「言語」はコギトのような「自己反省」をはじめるのだろう。 「方法」とは、明証 、分析、総合、枚挙などにあるのではない。ひとつの寓話、ひとつ の「フィクション」と化した「精神」そのものとしての「方法」こそが、真の「言語」の在処 を「証明」し、その真の存在を創り出すのである。 使 用 文献

stephanc MttL田正,CEレッ花s ca″り列りras,価on dabhe ct arlll(通e par HWi MOndoret G.JanⅢ蒻 ぅ

Paris,G皿面 田 軋BibhOぬ

"uc de la Pl撤 ,1945.

Rett Descaltes,α″潜 ″Jl∝Ψhfttω ,tomc I(1618-1637),tome Ⅱ(1638‐1642),bmcⅢ (1643-1650),teXtes働あ

Ls,山

桜`Ct attdお par Fgdinand Alquiё,Pans,Ganu∝

F麟

,Clattqucs Gamiq,1963,1967,1973.

(1)こ の試 論 は、2001年 12月 1日 、天 理 大 学 で行 われた「日本 フランス語 フランス文 学 会 関 西 支 部 大 会 」での発 表 原 稿 をもとにしている。奈 良 女 子 大 学 の小 山氏 、神 戸大 学 の松 田氏 、京都 大 学 の宮寄 氏 には貴重 な指 摘 や助 言 を頂 いた。感 謝 したい。

(11)

マラルメにおける詩的フイクションと科学的方法 (2)stёphanc Mallarmё ,C“ νras θO″′ル′′s,p.851。 なお訳 出 に当たつては、筑 摩 書房 版『 マラルメ全 集 』を多 く参 照 した。 (3)マラルメの詩 とは、「それ 自体 の夢 によって存 在 するような理 想 を、現 実 の叙 情 では ないような理 想 を表 現 しようとする」ものだと言 うジョル ジュ・プー レ(Georges Poulet, ((Manarlnё〉〉,in fr“′gs s“″′ `′anps力″α j“,tome Ⅱ,La′Jsrα "ε θ JttrびrJ`“ra,Rocher, 1952.)によれ ば 、そうした理 想 への希 求 の挫 折 の果 てに見 出 されるネアンが、精 神 的・ 意 志 的 死 を形 象 化 した「イジチュール」の 自殺 にまで導 かれるとすれ ば、そこからの脱 出 は、現 実 世 界 の廃 棄 を「仮 定 する」デカルトの誇 張 的懐 疑 による文学 的創 造 と同義 の 「フィクション」への意志 となる(「私 は 自 己をかんがえる、ゆえに私 は 自 己を創 造 する」)ば かりか 、言 語 の操 作 によつて世 界 を精 神 的 に細 分 化 する科 学 的 思 考 とさえ呼 びうるよう な詩 は、一 方 で、その語 群 の相 互反 映 によって、過 去 と未 来 の混成 体 としての偽 りの現 在 時 を、他 方 で、偶 然 の廃 棄 によつて、フィクションとしての永 遠 時 を作 り出しもするだろ うし、精 神 にお ける創 造 とフィクションヘの信 念 とが瞬 間 的 に一 体化 し、永 遠 的 瞬 間 の 創 生 一 つまりは 、フィクションそのもののそれ― にまでいたるだろうと説 く。マラルメの「フィ クション」を(現実 の廃 棄 と理 想 の実 現)に見 るという図 式 一 この小 論 の Ⅱにおいても引 く が一 は、さまざまなヴァリエーションを生 んだ。たとえば、「フィクション」とは、実 在 上の 自 然 を再 現 するreproduireものではなく、精 神 による虚 構 として産 出 するproduireものだと するロベール・ジル ー(Robert Giroux,Dご sf″′θsソ′:′力ls`ε力 `z Srクルα″θν″′αr用`, Sherbrooke,Naaman,Quё beC,1978。)や、架 空 のものを作 り出す 人 間 精 神 固有 の想 像 力 としての「フィクション」の源 を「虚 妄 の栄 光 」にまでさかのぼる菅 野 昭 正(「言 語 の学 虚 構 の学 」、中央 公論 社 、『 ステファヌ・マラルメ』所 収 、1985年)、現 実 を廃 棄 し、それと は「別 のもの」を作 り出 す「フィクション」を、中心 と脱 中心 というイマージュの運 動 に沿つ て、場 所 と時 間 の外 部 への偏 心 とみなす ローラン・マッテュー シ(Laurent Mattiussi,

く(Hors― lieu ct hOrs‐temps de la fiction chez Manarmこ et villiers de l'Isle―

Adam:

dёcentrements et irradiations〉〉,in Nli″θra`″r力_Ca″′

“ィンFrθ″θ力Sr“どJθs 27,Spring― Summer,State University Collcgc,New York,1999.)な どは、論 点 の相 違 にもかかわら ず 、「フィクション」の定 義 にかんしては共通 していると言 つてもいいだろう。また、参 照対 象 を(非現 実・不 在)に置 くがゆえにルプレザンタティヴィテの基盤 にある「フィクション」と しての詩 が、その物 質 性 によって純 粋観 念 の存 在 を「見 せかける」とき、音 楽 と舞 台 との 結 合 としてあるマラルメの詩 的「フィクション」は 、その抽 象 化 の果 てに現 実 社 会 そのもの を見 出 すまでに敷 衛 されるにいたるとする山崎 冬 太(「〈フィクシヨン〉の詩 学 ― マラルメ とことば」、東 北 大 学 フランス語 フランス文学研 究 会 、『 フランス文 学 研 究 5』所 収 、1984 年)も書 いている、マラルメにとっての「人 間はフィクションを形成 する以 外 のことをしてい ない」、と。そして、「フィクション」を人 間 存在 と言語 の創 出との驚 嘆 すべき神 秘 そのもの ととらえるフィリップ・ラクー=ラバル ト(「マラルメ」、谷 口博 史訳 、『 虚 構 の音 楽 ― ワーグナ ーのフィギュール』所 収 、未 来社 、1996年)が、原 ―音 楽 としての詩 句 のリズムによる観 念 的 ミメー シスの産 出 を「存在 類 型 論 」と名 づけ、マラルメの芸 術 ‐宗教 を、存在 の刻 印とし ての文 字 による世 界創 造 といいかえるとき、(創世 神 話)というマラルメの「フィクション」理 解 のひとつの帰 結 を見 出すことができるかもしれない。とはいえ、プーレによってむすば れた「フィクション」と「イジチュール 」との注 目すべき関 係 について言 えば、非在 の美学 と コレスポンダンスのそれとの間 を揺 れまどうマラルメの「フィクション」をリト在 の関係 性 」と 規 定 するジャン=ピエール・リシャール(Jean―Pierre Richard,ι'“

“livθrs ttαgJ″αJraどθ ν″′α″″ど,Seuil,1961.)は 、プーレの「哲 学 的 自殺 」にならいながらも、1866年のネアン

(12)

マ ラルメにおける詩的 フ イクシ ヨンと科学的方法 105 とヘ ーゲル の発 見―破 壊 による再創 造 という認 識 へ の一 が 、「イジチュール」の弁証法 的 コギトに結 実 する(「私 は死 ぬ 、ゅえに私 は存 在 する」)と書 くことになるし、キリスト教 の 神Dicuの疎 外 化 された形 態 としてのマラルメの「神 性 」d市initこの分 析 をつうじて、神 の 死 というネアンの確 認 、つ まり個 人 としての死 から、人 間 精 神 に内在 する「神 性 」、あるい は「自 己 」の発 見 による非 人称 的 な詩 人 としての再 生 へといたる探 求 の果 てに、世界 を 生 み 出 す言 葉 logoSが 第 二 の 自然physisともなるようなマラルメ独 自の詩 学 の生 誕 を 認 める竹 内信 夫(Nobuo Takeuchi,〈 (De la notion de di宙 nitё chez Mallannё ,un essal

d'approche de la pensёe lnallarrrleenne〉〉,in Er“′θs′`Lα″g“

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超 『響 蠣 、 しながら、1866年からの絶 対 への希 求 からくる理想 と現 実 という二 元 的 相 克 が、観 察 者 としての主 体 と被 観 察 者 としての客 体 との廃 絶 によつて解 消 されるとき、厄 払 いとしての 「イジチュール 」の制 作 が自己の再建 の契機 をもたらすと見 ることになる一 しかしながら、 この二 元 論 の超 克 という指 摘 は、マラルメの「言 語 の科 学 」における「フィクション」へのま なざしをそこに重 ねあわせもする主 体 と客 体 との「中 間 体 」(ヴァレリー)に、外 的 現 実 から 内 的 想 像 力 への進 展 の契 機 を見 ながら、「自然 とは可視 の精神 であり、精 神 とは不 可 視 の 自然 である」(シェリング)としたフイリップ・ソレルス (Philippe Sollers,く(Logique de

la nction〉 ),in rar 2“θ′15,automnc,Paris,Seuil,1963.)に よつてす でに提 出 されては いたが一 。したがって、本 論 考 では、マラルメの「フィクション」に、創 造 的 虚 構 を認 める 視 点 は共 有 しつつも、自然 学 的 抽 象 作 用 の検 討 をとおして、コギトの肯 定 的 功 力 の援 用 を見 出 そうとするだろう。

(4)Renё Descartes,C“ ッr′s′力J′οs9′力jg“θs,tome I"pp.342¨343.なお訳 出 に当たつ

ては 、白水 社 版『 デカルト著 作 集 』や各 種 先行 訳 を多 く参 考 にした。

(5)数学 的 対 象 が 自然 界 に存 在 しているかいないか に関 わりのないことこそ、古 来そう 認 められ てきたものだとはいえ、デ カルトにとつて、数 学 が確 実 で疑 いえないものとなる根 拠 である。(α

“ッ″`S′カプ′θs響効Jg“θs,tome Ⅱ,p.408)。 (6)6E“ ッras P力J′οsop力J9“

`s, tomeⅢ,p.777.

(7)プラトンとアリストテレスとのちがいは、ソクラテスにならつて 自己の無 知 を告 白する前 者 が、自分 にとつて真 らしいと思 われることがらを想 定 による原 理 をとお して書 いたにもか かわらず 、後 者 は、師 の原 理 の説 き方 を変 え、これ らの原 理 を確 かな真 理 として示 すこと にあるとされている。(6E“ツ″as′カメ′οSο′カプ9“θs,tome Ⅲ,pp.772‐773).

(8)α “ッ rθs P力J′οs9′力J9“θs,torrle Ⅲ, pp■ 96 (9)fbJノ, p.204 (10)α “ッrθs cο″ЪP′′′`S, p.901. (11)「言 語 の科 学Jの正 当 性 を主 張 す るときのミュラー は 、われ われ の住 む 物 質 世 界 に はたつた一 つ の元 素 さえ新 たにつ け加 わることがなか つたの とお なじように 、どんな新 しい 語 根 や 語 基 ものちの世 代 によつて考 案 され は しなか つたと言 つてい る。(Friedrich Max Muller,動′ scf`″ “ o/Jα “ g“αg`,vol.I,AMS press,NY,1978.p.27)。 ま た 、風 間 喜 代 三の『 言語 学の誕生』(岩波新 書 、1978年)によれば、言語 有機 体観 とは、フリードリ

(13)

106 マラルメにおける詩的フイクションと科学的方法 ッヒ・シュレーグル(同書40頁)や、アウグスト0シュライヒャー(127-128頁 )など19世紀 の 新 しい科 学 としての比 較 言 語 学 において、幅 広 く共 有 されていた認 識 でもある。 (12)6E“ッ″ `s cο″′′│′as, p.1160. (13)古 代 の神 話 と詩 とに連 続 性 を見 出 したのはミュラーの弟 子 に当たるジョージ・ゥィリ アム・コックスだった。(Marchal,Lα ″′JgJο "′θ Mα′′αr″ご,pp.452‐453)。 とはいえ、マラ ルメの「フィクション」が言語 に内在 する「神 性 」でもあることを強調 するマルシャルは、先 の竹 内 の視 点 とはちがい、ミュラーやコックスの古 代 における「自然 の悲劇 」が、マラルメ によって、ネアンと直 面 した人 間 存在 の普遍 的 な神 秘 とされるときこそ、自然現 象 を素 材 とする原 初 の詩 としての神 話 は、近 代 の「フィクション」としての神 話 学 、つまり、(詩)と なるだろうとも言 つている。 (14)α “ソ″as cο″ηP′夕ras,p.368 (15)fbJ′ ,p.854. (16)佐々木 滋 子 は、「マラルメの 『 言 語 の科 学 』」(一橋 大 学 研 究年 報 編 集 委 員 会編 、 『 一 橋 大学 研 究 年 報 人 文科 学 研 究 24』、1985年)の中で、1ペー ジにあげたテクスト (α “ツr′S Cοttprares,p.851)を、デカル ト的 主 知 主 義 の読 みかえ― 人 間 の精 神 活 動 とは、 「自らを反 映 する言語 」の生 み出す虚構 の戯 れである一としている。さらに、「談 話」 (fbJど.,pp.852‐ 853)、つまり語 の音 的 側 面 と、「抽 象 作 用 」(/bJ′。)、いいかえれ ば産 出さ れる効 果 という言語 のもつ二 つの相 をあげ、そこにヘ ーグル 弁 証 法 の影 を認 めてもいる。 「マラルメの言 う言語 の文学性 の核 」とは、「言 語 の虚構(音の類 似 による観 念 の創 造)で ある」。 (17)6E“ ッ″θs cο用′′夕′θs,p.646. (18)fbJど 。,p.378. (19)JbJグ.,p.851. (20)fbjど 。,p.378. (21)fbJノ 。,p.400,p.869. (22)『気 象学』では、自然 の光 に驚いてはならないと言つている。 (α “ッ″S′力J′οsο _ ′力J9“θs,tOIne I,pp.719‐720。) (23)6E“ ッ″ `s cοtpr″ras,pp.363‐ 364. (24)/bJご 。,p.385

(25)6E“ ッ″as′ カプ′οsOP力 ′9“θs,tOme I,pp.602-603.

(26)「仮 定 す る」feindreの

語 源ingere(形作 る 、案 出 す る)の スピー ヌムictumから派 生 した の がictiO(創作 行 為 )で あ る。

(27)Poulet,LαJsrα″ε

`J″′どrJθ″θ,pp.333-335. (28)GE″ ッ″′sPカ メ′οs9′力J9“as,tOme I,p.603 (29)/bJど 。,p.343 (30)「 もしも、厳 密 な 意 味 で 想 像 力 が あ り抽 象 的 な 、 が 輝 きを放 つ とした な ら(0…)」。(α “ ツ″ `S θο″P′夕′θs, (31)α “ ッ″′s cο‐p′″ras,p.319 (32)fbJグ.,p.645. (33)GE“ ッr`s」フカJ′οSο′カメ9“θs,tome I ,p.571 (34)fbJ′.,p.522 したがつて詩 的 であるフランス精 神 p.544)。 (35)デ ヵルトの二元論とは、言うまでもなく、精神と肉体とを分断することにある。『 気象

(14)

マラルメにおける詩的フイクションと科学的方法 107

学 』では、「それからまた、色 や光 が見 えるためには、なにか物 質 的 なものが、その対 象 から眼 まで伝 わってくるのだと前 提 する必 要 はないし、その対 象 のなか に、これ について われ われ が抱 く観 念 や感 覚 と似 たものが存 在 する必 要 すらない、とかんがえてもよいで あろう」と書 いている。(C“ッras′ヵJ′οsap力J9“gs,tome I,p.655).

(36)α

“ッ″`s cο"LP′aras,p.295.

(37)ラテン語 で「寓 話 」fableに あたる fabulaは 、動 詞fari(話

)から来 ている。 (38)α “ッrθs′力J′οsoP力J9“θs,tome Ⅱ,pp.415-416. (39)α “ッ′θ s cο閣ノタ′aS,p.481.あるいは、「インクの壺 は、意識 のように透 明なクリスタル だが 、底 には、暗 黒 の色 をした滴 がたまっていて、この滴 こそ、何 かあるものが存在 する ということに関係 があるのだ」。(fbJ′。,p.370). (40)rbF′,p.851. (41)Jb′′。,p.648. (博士 課 程 後 期 課 程)

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