<シンポジウム>元首政期ローマ帝国の東方支配 :
浸透と変容
著者
桑山 由文
雑誌名
関学西洋史論集
号
36
ページ
23-30
発行年
2013-03-25
URL
http://hdl.handle.net/10236/12803
はじめに 本報告は、波部報告、比佐報告の後を受けて、元首政期ローマ帝国による東方支配 を扱う。ローマ共和政後期になると、小アジア北西がミトリダテス戦争を経て属州ビ テュニア=ポントゥスとされ、セレウコス朝が滅ぼされて属州シリアとなるなど、ロー マ帝国による東地中海とその周辺域への支配はより強まっていった。さらに、よく知 られている通り、前31年には元老院議員オクタウィアヌスが、プトレマイオス朝のク レオパトラと手を組んだアントニウスを破り、翌年にプトレマイオス朝も滅亡してし まう。オクタウィアヌスはローマ政界の第一人者としての地位を不動のものとし、帝 国は元首政へと移行していく。それでは、このオクタウィアヌスによる元首政開始以 降、ローマ帝国は東地中海とその周辺域、すなわち帝国東部をどのように支配しよう としたのか。また、それにより、帝国そのものと東部との関係にはいかなる変化が生 じたのか。本報告の目的は、これらの点を論じることによって、帝国東部が有した、 ローマ帝国全体の史的変遷を理解する上での意義を明らかにすることにある。 1.ユリウス=クラウディウス朝の東方支配 オクタウィアヌス、つまり初代アウグストゥス帝より後、ローマ帝国支配者の座は 彼の一族によって継承されていった。このユリウス=クラウディウス朝(∼後68年) において、ローマ中央の統治関心は帝国西部にあった。これはアウグストゥス帝に始 まる。彼は激しい征服戦争を行い、帝国領をガリアからライン河・ドナウ河流域にま で拡げて属州化を推し進めた。彼自身そのことを大いに誇ったことが、『神君アウグ ストゥスの業績録』からも分かる1。北・中部ガリアはベルギカ、ルグドゥネンシス、 アクィタニアの三属州に再編され、ライン河流域には上下ゲルマニア軍団駐屯地が、 ドナウ河流域にはパンノニア、モエシアなどの属州が新たに作られた。それまで地中 海沿岸に限定されていた帝国属州はさらにヨーロッパ奥地へと広がり、軍事力の大半 もこの地に配置された。ライン・ドナウ両河川流域は国境外の諸勢力との睨みあいの 場となり、以後のユリウス=クラウディウス朝諸皇帝の時代においても帝国最大の軍
元首政期ローマ帝国の東方支配:浸透と変容
桑 山 由 文
事地帯であり続けたのである。 ところが、帝国東部に関しては、直接統治を邁進していく意識はローマ帝国政治中 枢に高くはなく、西部のような大規模な属州化が行われることはなかった。属州の存 在も、エーゲ海周辺などの要所は押さえつつも沿岸部を中心とした限定的なもので、 「東部属州」としての地域的まとまりを持つほどにはいたっていなかった。ローマ正 規軍が配置されたのも属州シリアとエジプトのみであり、外部勢力からの脅威にさら される可能性が高いはずの小アジアには、正規軍団は基本的には駐留していなかった のである。 このような状況の間隙を埋めていたのは、東部全体に広く分布し、ローマに従属し ていた小国家群であった。これらの多くは王国であったため、現代の研究者からは client kingdom などと表現される2。個々の領域はそれほど大きくはなかったものの、 ヘレニズム期以来の伝統を持ち、現地統治の経験も長く、ローマもそのことを充分に 理解し、かなりの役割を担わせていった。とりわけ、これらの王国は独自の軍事力を 有し、東部におけるさまざまな紛争解決においてローマ軍や総督を補佐し、ネロ帝期 のアルメニア戦争やユダヤ人反乱など国内外のさまざまな状況に対応した。たとえば タキトゥスが伝えるところでは、キリキア地方においてキエタエ族が山岳地帯をおさ えて沿岸部の都市へも攻撃を仕掛けていた時、属州シリアから派遣されたローマ軍は 周囲の地理などに疎く充分に対応できなかったが、コンマゲネ王アンティオコスが介 入し、事態を沈静化することに成功したのであった3。すなわち、ローマによる東部 支配は、属州による直接統治と従属王国による間接統治の併用であり、後者に依存す る部分がかなり大きかったのである。帝国西部で見られたような、積極的属州化を推 し進めるという意志はユリウス=クラウディウス朝下では希薄であった。 もっとも、ユリウス=クラウディウス朝期全体を通して見ると、これらの従属王国 は、新たに属州とされたり、あるいは既存属州に併合されたりして、徐々に減る傾向 にはあった。ただし、これはローマ側の一貫した政策的意図の下で行なわれたのでは ない。皇帝が代わると、一旦併合されていた国が再び王家の者に返還されたり、ある いは別の王家の者に与えられたりする、ということもしばしば生じていた。また、王 国が併合される場合も、カッパドキアのように、騎士身分が派遣される格の低い属州 と位置付けられた。ユリウス=クラウディウス朝最後のネロ帝期の末においても、ア カイアのような自治州や、コンマゲネ、ユダヤ、エメサなどの従属王国が東部の随所 に見られたのである4。 この背景としてはいくつかの要因を挙げることができる。第一に、ローマ側の東部 ギリシア文化圏への苦手意識である。もちろん、「征服されたギリシアが、猛々しい勝
利者を虜にし、粗野なラティウムに技芸をもたらした」と詩人ホラティウスが歌った ように、ギリシア文化自体はローマ政治支配層において広く受け入れられ、必須教養 ではあったし、ローマ中央政界にはギリシア文化に傾倒する者も多かった5。だが、 中央でのこうしたギリシア文化趣味は、東部統治への積極的関心には結びつかなかっ た。ローマ政治支配層には、自分たちのラテン文化より伝統あるギリシア文化に対す る強いあこがれと同時に、それと表裏の関係にある文化的劣等感が併存していたので ある。それゆえにギリシア文化はいわば「異国趣味」の対象にすぎず、その文化圏自 体は本格的に統治する対象とは考えられていなかった。ネロ帝はギリシア文化趣味で 知られるが、彼がアテネやスパルタを訪れなかったことは示唆的である。ローマ政治 支配層のもてはやすギリシア文化は、ギリシア文化圏そのものと一種切り離されてい たといえる。実際、タキトゥスの岳父アグリコラが青年時代にギリシア文化を学んだ 地は、属州ガリア=ナルボネンシス内の、もともとはギリシア植民市であったマッシ リアであった6。こここそが、東部のギリシア文化圏よりも学ぶにふさわしい土地と 考えられていたのである。 第二に、ローマが東部への直接統治を進め、本格的に支配を拡大していくことは、 東方のパルティアやアルメニアとの対立につながる可能性が高かったが、そのパル ティアに対しても、ローマは共和政末期にクラッスス、アントニウスが敗北して以来、 苦手意識が強く、強敵として一目置いていた。アウグストゥス帝はアルメニア問題に は介入してある程度の成功を収めたものの、基本的にパルティアとは外交交渉で優位 を保とうとした7。万一パルティアとの本格的軍事衝突に敗れた場合、それは皇帝権 威の凋落につながりかねなかったのである。それゆえに、ユリウス=クラウディウス 朝歴代諸皇帝もパルティアと事を構えようとはしなかった。小アジアに正規軍団が駐 留せず、従属王国の軍事力に治安維持を依存していたことは、パルティアとの緊張緩 和という点でも重要だったのである。ネロ帝期のアルメニア戦争は、アルメニア王位 をめぐるパルティアとの久々の軍事対立であったが、これも実際は両国が雌雄を決そ うとするような全面戦争ではなく、最終的には、パルティア王弟が王位に就き、ロー マの宗主権を認めるという、両国にとって玉虫色の解決に終わっている。 以上のように、ユリウス=クラウディウス朝期ローマ帝国の領土的関心は東部には あまり向けられておらず、ある意味では、比佐報告で述べられたような、東方統治へ の「無関心」は元首政期に入っても継続していたのである。 2.フラウィウス朝による東方再編とトラヤヌス帝 この状態が大きく変わるのが、ネロ帝死後の69年内乱に勝利したウェスパシアヌス
帝と、彼が創始した新王朝フラウィウス朝の時代(69−96年)である。ネロ帝期末か らユダヤ人反乱鎮圧軍総司令官であったウェスパシアヌスは、東部での経験のある 久々の皇帝であった。また、69年に彼を支持した人々の中核は、ユダヤに加えてシリ ア、エジプトに派遣されていたローマ軍とその将校たち,および東部諸属州の総督た ちであった。さらに属州諸都市や従属王国ら東部諸勢力の一致した支援も受けてい た。これらの多くはネロ帝期のアルメニア戦争に参加しており、その結果、漠然とし た連帯感も生まれつつあった。ウェスパシアヌスはそうした構造に巧みに乗ること で、東部全体を支持基盤としてまとめあげ、新たに皇帝となることができたのであ る8。 当然、新政権においても、これら東部に派遣されていた元老院議員や騎士身分らが 要職を固めることとなった。すなわち、皇帝自身も政権中枢も、統治する側として東 部を知悉していたのである。このことは、帝国中央から東部への強い統治関心となっ て表面化した。その結果、フラウィウス朝期を通じて、東部は大規模に再編され、形 を変えていく。小アジアからシリアにかけての従属諸王国は次々と既存属州に併合さ れていった。また属州同士の合併も進み、とくに小アジアでは変化が大きかった。属 州カッパドキア、属州ガラティア、小アルメニア王国が合同されて巨大属州カッパド キア=ガラティアが成立、さらにこの属州に二個軍団が派遣された。加えて、リュキ アの属州化とパンフュリアとの合併、コンマゲネ王国キリキア領の併合による属州キ リキア設立なども行なわれた結果、小アジアは全体として5つの属州に再編された。 しかも、これら属州、たとえばシリアやカッパドキア=ガラティアの総督職には、69 年内乱時のウェスパシアヌスの腹心が派遣されており、東部再編が中央の政策的意図 から出たものであったことが分かる。これはティトゥス、ドミティアヌス帝期(79− 96年)にも引き継がれて東部属州化はいっそう進み、ユーフラテス河以西においては シナイ半島のナバタエア王国、黒海北岸で地理的に距離のあるボスポロス王国を除き、 従属王国はすべて姿を消すこととなった9。 この傾向は、次の五賢帝期にも継承された。五賢帝期はドミティアヌス帝の暗殺を 受けて登位したネルウァから始まるが、この時代、政権中枢の支配層は本質的に変化 していない。とりわけ、ネルウァの後を継いだトラヤヌス帝(98−117年)は、ウェス パシアヌスの下で東方政策の専門家的立場にいた大トラヤヌスの子で、自身も東部経 歴がある人物であったし、ドミティアヌス帝期には政権の要職にいた。トラヤヌス帝 は、いわばフラウィウス朝の「申し子」的存在であったといえ、東方政策にもフラウィ ウス朝からの連続性を強く見て取ることができる。帝はナバタエア王国を滅ぼして属 州アラビアを新設し、ユーフラテス河以西の属州化を完成させたのである。こうして、
フラウィウス朝期からトラヤヌス帝期にかけて、帝国東部には属州による直接支配が 徹底され、ローマ支配が本格的に浸透していった。東部はイタリアや西部と同様の、 帝国の重要な一部へと位置づけ直されたのである。 3.東部出身元老院議員の興隆 フラウィウス朝期における急速な東部属州化は、同時に、帝国中央と東部との関係 も大きく変えていった。69年のウェスパシアヌス支持者の中には、東部属州の都市有 力家系に属す者たちがいた。これらの人々が新王朝において、相次いで帝国中央の元 老院議員身分へ進出していくこととなったのである。しかも、彼らが元老院議員経歴 を上がっていく過程で経験した多くの職務は、東部に偏ったものであった。その例が、 いずれも属州アシア出身であったC . アンティウス・アウルスユリウス・クアドゥラ トゥスとTi. ユリウス・ケルスス・ポレマエアヌスの2人である。前者は69年頃に元 老院議員身分に編入され、ビテュニア=ポントゥス総督副官、アシア総督副官、カッ パドキア=ガラティア司法担当副官、リュキア=パンフュリア総督を務めた後、ドミ ティアヌス帝期後半の94年にコンスルに到達した。後者は69年にエジプト駐留の第3 キュレナイカ軍団の騎士身分将校を務めていたが、ウェスパシアヌス治世前半に元老 院議員身分に特別編入され、以降、カッパドキア=ガラティア司法担当副官、シリア 駐留の第4スキュティカ軍団司令官、ビテュニア=ポントゥス総督副官やキリキア総 督を務めた後、クアドゥラトゥスと同じくドミティアヌス帝期後半の92年にコンスル に到達した10。 このように、彼らは、ウェスパシアヌス帝期に元老院議員身分に特別編入され、以 降、ドミティアヌス帝期までプラエトル格元老院議員として、再編が進む東部属州の 統治にもっぱら登用され、ドミティアヌス帝期後半には相次いでコンスルに到達して いった。89年の総督人事も興味深い。この年、東部再編の中核的存在であったカッパ ドキア=ガラティア総督には東部出身のTi. ユリウス・カンディドゥス・マリウス・ ケルススが、リュキア=パンフュリアとキリキア総督には前述のクアドゥラトゥスと ポレマエアヌスが就いていたのである11。東部出身者、すなわちギリシア語を母語と する者たちが、東部統治に専ら登用されていったことになるのであり、彼らはフラウィ ウス朝下でいわば東部の「専門家」的役割を担わされていたといえる。フラウィウス 朝におけるローマ中央の東方政策の変質は、総督人事にも反映しているのである。 もっとも、ウェスパシアヌスの勝利とフラウィウス朝成立によって一番恩恵を受け、 新たに政治勢力を形成していったのは、前章冒頭で述べたウェスパシアヌス支持者に 代表される、イタリア地方や西部出身の元老院議員たちであった。東部の有力家系の
うち、元老院議員身分入りという「報酬」を受けたのは一部にすぎない。しかし、ユ リウス=クラウディウス朝期には東部出身元老院議員はごくひとにぎりであり、コン スルに到達した者も知られていないことを顧みると、フラウィウス朝における変化を 小さく評価すべきではない。 トラヤヌス帝期に入ると、この状況はより進展していった。105年の正規コンスル は前述のクアドゥラトゥスとカンディドゥスであったのみならず、いずれも二度目の コンスル職就任であり、政権から寄せられた信頼の高さは明らかである。しかも89年 の人事とほぼ重なっていることからは、フラウィウス朝からトラヤヌス帝期にかけて の東部出身者登用の流れが連続性を有していることが分かる。彼らの前後でも、他に 多くの東部出身コンスルが出現しており、彼らが元老院議員身分内にて一大勢力を形 成し、政権中枢の一角を占めていたといえる。加えて、こうした東部出身元老院議員 たちの多くは、経歴途中からの特別編入(adlectio)であり、皇帝側からの意図的登用 促進という側面が強かったことも窺えるのである。すなわち、トラヤヌス帝が父の代 からフラウィウス朝下で築いていた東部属州人との人的つながりが、東部出身元老院 議員の興隆として花開いたのである。 4.東部出身元老院議員の特質 このようにフラウィウス朝からトラヤヌス帝期にかけて東部出身元老院議員はその 数、政権中枢での位置、統治における役割、いずれの点においても上昇してきたので あるが、興味深いことに彼らの分布には大きな偏りが見られる。その大半は小アジア 出身者であり、シリア出身者がそれに続いたものの、ギリシア本土出身者はごくわず かで、おそらくトラヤヌス帝期になってようやく現れた程度であった。エジプト出身 者は皆無である。すなわち、東部出身元老院議員とは、少なくともトラヤヌス帝期ま では、小アジア・シリア出身者とほとんど同義だったのである。 これは、ローマ帝国中央と太い人脈を持ち、経済的にも富裕である層が小アジアか らシリアにかけての地域に集中していたことを示しているが、それだけではない。彼 らの大きな特徴は、その多くが、複雑な親族関係で互いに結びついていたことである。 東部出身元老院議員は全体として、祖先がイタリアからの植民者かヘレニズム王家な どの土着支配者かの二つに大別されるのであるが、彼らの親族関係の網の目は後者を 中心として張り巡らされ、前者にもある程度及んでいた。その上、この集団の中には、 併合された従属王国諸王家の子孫も含まれ、その範囲は一地方にとどまらず、再編さ れた東部全体、さらにはユーフラテス川以東や黒海北岸にまで広がっていたのであ る12。
しかも彼らは、そうした幅広い親族関係とヘレニズム王家に遡る由緒とを強く意識 していた。たとえば、アンキュラの有力者C . ユリウス・セウェルスを顕彰した一碑 文は、このセウェルスの家系がヘレニズム王家に由来すること、従属王国王家の子孫 や東部出身コンスルら、東部の名だたる家系の人々と親族関係にあったことを強調し ているのである13。 実は、こうした親族関係は、フラウィウス朝による従属王国併合が進む前から形成 されていた。そもそも王国同士はヘレニズム期からこうした関係を互いに結び合って おり、共和政期ローマの東地中海進出が進んでいく中、そのネットワークはさらに拡 大し、属州内の都市有力家系やローマ植民者の子孫とも結びついていっていたのであ る14。フラウィウス朝による東部再編は、こうした古くから西アジアに根を張ってい た地方有力者層が、新たに元老院議員集団としてローマ中央政界に進出し、東部属州 統治に返り咲くことを可能にしたといえる。 おわりに 以上述べてきた、ローマ帝国における東部の位置づけの変化と中央政界における東 部出身者の台頭は、次のような結果となって表れた。第一に、ユーフラテス川以東へ のさらなる領域拡大が可能となった。トラヤヌス帝期末のパルティア戦争では、帝国 は一時メソポタミア地方までを属州化することに成功した。この戦争では東部出身元 老院議員が軍団指揮や新たに設置された属州の総督職などで存在感を示した。東部土 着でユーフラテス川以東との交流も密であった前述の親族集団は、戦争の円滑な遂行 に寄与したであろう。実際、前述の碑文によればユリウス・セウェルスはパルティア 戦争に赴くローマ軍のために便宜を図っている。トラヤヌス帝のパルティア戦争自体 は最終的に失敗したが、ハドリアヌス帝期以降もローマ帝国は後2世紀を通じてユー フラテス川を越えて影響力を拡げていくこととなる。 第二に、五賢帝期後半になると、東部出身元老院議員家系の一部が、クラウディウ ス・セウェルス家のように皇帝家と親しく交わって婚姻関係を結んだり、クインティ リウス家のように、コンモドゥス帝から帝位を脅かす存在と目されたりするなど、イ タリアや西部出身者と並ぶ有力家系を形成するものも現れるようになる。彼らはいず れも際立ったギリシア的教養(パイデイア)を特徴としており、ギリシア文化を好む イタリアや西部出身元老院議員と混淆し、帝国中枢の一種の「ギリシア化」がますま す進行していった。 このようにして、ウェスパシアヌスからトラヤヌス帝期にかけての約50年間に、東 部は、「東方属州」として帝国を支える核のひとつへと成長し、東方ギリシア文化圏は
西方ラテン文化圏に匹敵する存在へと、帝国にとっての位置づけを大きく変えていっ
た。それに伴い、本来イタリアや西方中心であった元首政期ローマ帝国は、「ギリシア
=ローマ」帝国として、東西地中海とその周辺域を体現する存在となっていくのであ る。
〈註〉
1 Res Gestae Divi Augusti, 26, 1-4; 30.
2 client kingdom という英語表現は実態を正確に捉えたものとは言いがたいが、他に適切な名称 がなく、人口に膾炙してもいるため、現代の研究者の多くに使用されている。もっとも別の 表現も模索されてはおり、たとえばH. Elton, Frontiers of the Roman Empire, London, 1996は allied kingdom という名称を用いる。 3 Tacitus, Annales, 12, 55. 4 桑山由文「ウェスパシアヌス帝の東方政策―ローマ帝国の再建と再生への礎―」『史林』81-6、 1998年、78頁、85-86頁。ヘレニズム時代のコンマゲネ王国、およびその共和政期ローマ帝国 との関係については、大戸千之「ギリシア文化とヘレニズム文化」藤縄謙三編『ギリシア文化 の遺産』南窓社、1993年、49-76頁。 5 Horatius, Epistulae, 2, 1, 156-157. 南川高志「ローマ帝国とギリシア文化」藤縄、前掲書、77-78、 101-102頁。 6 Tacitus, Agricola, 4, 2.
7 B. Campbell, War and Diplomacy: Rome and Parthia, 31BC-AD235, in J. Rich & Ship ley, G. ed.,
War and Society in the Roman World, London & New York, 1993, 220-225.
8 桑山「フラウィウス朝の成立とローマ帝国東部」『史林』84-3、2001年、41-76頁。 9 桑山「ウェスパシアヌス帝の東方政策」、72-96頁。
10 桑山「ローマ帝国東部の発展と王家の記憶―フラウィウス朝から五賢帝期へ―」『西洋史研究』 新輯30、2001年、58頁。H. Halfmann, Die Senatoren aus dem östlichen Teil des Imperium Romanum
bis zum Ende des 2. Jh. n. Chr., Göttingen, 1979, no. 16 et 17. なお、本文の以降の議論にも関わっ
てくる、フラウィウス朝期から五賢帝期前半にかけての元老院議員身分の出身地構成や東部 出身者の割合の変化、およびその研究史については、南川『ローマ皇帝とその時代―元首政 期ローマ帝国政治史の研究―』創文社、1995年、153-156頁。
11 B. W. Jones, The Emperor Domitian, London & New York, 1992, 170-173. 12 桑山「王家の記憶」、47-54頁。
13 IGRR III, 173 = OGIS 544.
14 桑山「王家の記憶」、50-51頁。R. D. Sullivan, Papyri Reflecting the Eastern Dynastic Network,