はじめに
それまで書画骨董の蒐集家としてほとんど﹁無名﹂に近かった根津 嘉一郎 ︵青山︶ の名前を一躍高からしめたのは、 明治三九年 ︵一九〇六︶ 一一月に大阪市の商盛組会場で行われた平瀬亀之助︵露香︶家の第二 回入札会である。ちなみに、根津嘉一郎は中央財界にデビューする以 前の明治三〇年代初頭、日本郵船と九州鉄道を舞台として改革派とし て頭角を顕し、井上馨、岩崎久弥、渋沢栄一、益田孝らの中央財界の 有力者に知られていた ︵1︶ 。 平瀬亀之助家入札会においては、根津嘉一郎は自ら平瀬亀之助家入 札会の会場に足を運び、室町幕府八代将軍足利義政が所持し﹁寛永の 三筆﹂の一人である松花堂昭乗が愛玩したといわれる八幡名物﹁花白 河蒔絵硯箱﹂を一六 、 五〇〇円という 、道具類としては当時のレコー ド破りの高価格で落札した 。高橋義雄 ︵箒庵︶も ﹃近世道具移動史﹄ に﹁殊に此入札に於て名誉を博したのは当時未だ道具買収者として新 参なる根津嘉一郎氏﹂ ︵2 ︶ と記している 。しかし 、 根津嘉一郎の口述 をもとに昭和一三年 ︵一九三八︶ に刊行された ﹃ 世渡り体験談﹄ に は、 私は若い頃から書画骨董の趣味があつた。そして、郷里にゐた時 分から、道具類を見る事が好きで、何彼とよく蒐めてゐた。また 用事で、時折甲州から東京へ出て来る事があると、京橋仲通りの 道具屋が軒並みにある街を、忙しい中から暇を作つて、ちよいち よい覗いて歩くのが楽しみだつた。その時分はまだ道具の事など よく分らなかつたけれども、芝居を見るとか物見遊山に行く事よ りも、道具屋へ行つて、書画骨董を見てゐる事が一番好きであつ た 。 そして何か気に入つた物を見つけると 、 何時も買ひ取つた 。 それが甲州へ帰る度に、茶箱に二梱三梱溜つて、道中の荷厄介に なつたものである ︵3︶ 。 と、書いているように、かなり以前から書画や骨董への興味関心が あったと考えられる 。根津嘉一郎が東京市京橋区南鞘町に分家独立 するのは明治三〇年 ︵一八九七︶五月である ︵4 ︶ 。﹃根津翁伝﹄によれ ば 、明治二五∼二六年頃は東京市日本橋区の島屋旅館を本拠として 株式投資に専念していたという ︵5 ︶ 。この一方で 、山梨県内では明治 二六年︵一八九三︶に東山梨郡日川村の興商銀行︵払込資本金一〇万 円︶の設立に際して取締役に就任しており、実業の世界にも足を踏み 入れていた ︵6 ︶ 。なお 、明治二六年までに根津嘉一郎家の土地集積規 模は二七五町歩に達しており、後に甲州財閥の総帥となる若尾逸平家根津嘉一郎と﹃青山荘清賞﹄の世界
齋
藤
康
彦
根津嘉一郎と﹃青山荘清賞﹄の世界 二一山梨大学教育人間科学部紀要 第 十四 巻 二〇一二年度 二二 の四三〇町歩に次ぎ山梨県内で第二の巨大地主であった ︵7︶ 。 ﹃根津翁伝﹄によれば 、根津嘉一郎が山梨県会議員であった頃とい うから明治二四∼二六年である。甲府の大商人として成功を収め、初 代甲府市長を務める一方で、四〇〇町歩という山梨県随一の巨大地主 として山梨県の貴族院多額納税者議員に選出され山梨県の経済界の大 物であった若尾逸平との交流がはじまったという。後年、若尾逸平は 孫娘の結婚に際して根津嘉一郎に仲人を依頼している ︵8 ︶ 。若尾逸平 の根津嘉一郎に対する高い評価を示すエピソードであろう 。 ちなみ に、根津嘉一郎の土地所有面積は若尾逸平に続いて山梨県では第二位 の規模を誇っていたことはすでに述べてある。根津嘉一郎も若尾逸平 にはとてもかなわないが、せめて第二位となりたいとして鋭意土地集 積に努めたという。古美術品や茶道具類の争奪戦でみられた負けず嫌 いであったという根津嘉一郎の性格の一端を垣間見ることができるだ ろう。それはともかく、若尾逸平から次のように教えられたという。 金儲けは、発明か、株に限る。発明は学問がなければ、容易なこ とではない。株は運と気合だ。若し、株を買ふなら、将来性のあ るものでなければ望がない。それは、 ﹃乗りもの﹄ と ﹃ あかり﹄ だ。 この先、世がドウ変化しやうとも、 ﹃ 乗りもの﹄と﹃あかり﹄だけ は必らず盛にこそなれ、衰へる心配はない ︵9︶ 。 事実 、若尾逸平は 、横浜の開港から明治初年にかけての生糸貿易を 通じて巨富を獲得するとともに、 株式相場でも投機の才能を発揮した。 明治二四年 ︵一八九一︶には東京馬車鉄道 ︵公称資本金五〇万円 、払 込金額四六万円︶の株式を買い占め 、大株主として同社の取締役に就 任している ︵ 10︶。また 、明治二九年には山梨県内の豪商農層を多数 動員して株価が低迷していた東京電灯 ︵公称資本金二〇〇万円 、払込 金額一一五万円︶の株式買い占めに乗り出し 、 全体の四割を占めた甲 州系株主の持ち株数をバックとして東京電灯の経営のイニシャチブを 握った 。 世にいう甲州系一派の東京電灯 ﹁乗っ取り事件﹂である 。 根 津嘉一郎も若尾逸平らの東京電灯乗っ取りの行動に加わっている ︵ 11︶。 その持ち株数は八四〇株で大株主の第五位を占めることとなった ︵ 12︶。 その後も 、甲州財閥の構成メンバーの経営参画企業や投資先企業と しての電灯 ・ 電力事業の比重が著しく高かったことは広く知られて いる ︵ 13︶。なお 、株式投資に専念していた明治二〇年代の半ば頃 、甲 州財閥のもう一人の先達であり﹁投機界の魔王﹂といわれた雨宮敬次 郎から次のような忠告を与えられたという。 事業は政治よりも生命がある。岩倉公の如き大政治家も、政治に 於ける功績は時と共に消滅するが、其興した日本鉄道は、日本鉄 道の在る限り人の視聴から湮滅することは無い。君等も相場など で一時の利を趁ふより事業を経営し、事業を盛り立てゝ其利益を 享受することにせよ ︵ 14︶ 引用部分の岩倉公とは岩倉具視であり、明治一四年︵一八八一︶に 日本鉄道会社を創設したが、同一六年に没している。折から明治三〇 年に日清戦後恐慌が突発して株価が暴落したために根津嘉一郎は大打 撃を受けていた。 ﹃根津翁伝﹄によれば、この時、松永安左エ門は大阪 で福沢桃介から根津嘉一郎のことを教えられたという ︵ 15︶。株価暴落 で受けた打撃は大きく、根津嘉一郎も、後になって、当時を振り返っ て次のように述懐している。 若し私が誤つて株式の相場などに手を出して居らずに、始めから 地道なる事業方面にのみ携つて居つたならば、今日の財産を数倍 にもなし、更に各種の事業其者の方もより完成することが出来た のであらうに、⋮⋮私は昔の投機界に狂奔した時代を顧みて、つ く〴〵と、今以て悔ゆるところが多い。故に相場などには決して
根津嘉一郎と﹃青山荘清賞﹄の世界 二三 手を染めてならぬことを、呉々も青少年に向つて警めたい ︵ 16︶。 日清戦後恐慌の株価暴落の痛手がどれだけ大きかったかを如実に示 しているだろう。なお、根津嘉一郎は、すでに紹介した日川村の興商 銀行に加えて、同二八年には甲府市の有信貯蓄銀行︵公称資本金三万 円、払込済︶の取締役に就任している。しかし、銀行経営に積極的に 参加したのではなく、県内第二の巨大地主で、県会議員でもあった根 津嘉一郎の社会的存在が期待されての経営参画であったと考えられ る。 ちなみに、雨宮敬次郎に与えられた先の忠告が念頭にあったのであ ろう、根津嘉一郎が東京方面において最初に企業の役員として関与し たのは、明治三〇年における、前年設立された獣脂肥料製造︵公称資 本金一〇万円 、払込金四 ・ 五万円︶の監査役への就任である 。 なお 、 獣脂肥料製造は同じ甲州財閥のメンバーである小野金六の関係会社で あり、翌三一年、小野金六は獣脂肥料製造の社長に昇格する。根津嘉 一郎の東京方面における実業界へのデビューは東京十二商品取引所 ︵一七 ・ 五万円︶の相談役、徴兵保険︵三〇万円︶の専務取締役、獣脂 肥料製造 ︵一〇万円︶の監査役などへの就任にはじまる ︵ 17︶。引用し た﹃世渡り体験談﹄の記述は明治二〇年代の出来事を指すものと思わ れる。ここでは明治三〇年代以前から根津嘉一郎が書画骨董類を購入 していた事実が確認されればよいのである。 ところで、 高 橋義雄も ﹃近世道具移動史﹄ のなかで ﹁花白河蒔絵硯箱﹂ の落札時期を明治三六年四月としており、これを踏襲している文献も 目に付く ︵ 18︶。また 、 東京市麹町区麹町の質商倉又右衛門家から購入 した馬麟筆﹁夕陽山水図﹂の入手時期も、 ﹃近世道具移動史﹄では明治 三四年前後とあるが、野崎広太︵幻庵︶の﹃茶会漫録﹄では明治四三 年の第一四回大師会で陳列された馬麟筆﹁夕陽山水図﹂の所蔵者を倉 又左衛門と記しているなど、 文献によって混乱がみられる ︵ 19︶。だが、 それらを資料的な裏付けをもって訂正する作業の意味はそう大きなも のではない。ともかく、根津嘉一郎は明治三〇年代から各地で開かれ ている入札会場に出入りし、これはと思う古美術品や茶道具類を入手 していったに違いない。さらに、 後に述べるが、 昭 和八年︵一九三三︶ の大阪の松本松蔵家入札会で、芸阿弥筆﹁観瀑図﹂の入手をめぐって の﹁真贋論争﹂による安値での購入の経緯など、根津嘉一郎には古美 術品や茶道具類の購入に関わったエピソードも少なくない。 しかし、戦前の美術品市場で行われた売立入札会に先立って作られ た﹁売立目録﹂では、売主の世間的な体面などの理由で﹁某家﹂とだ けあって、売主が不明なケースが多く、また、落札者名は道具商まで は記されていても、それから先の真の購入者まではなかなか判明しな いのが実情である。さらに、公開による競争入札という手段を経ない で、当事者同士の﹁相対﹂による売買といった古美術品や茶道具類の 移動も頻繁に行われていた ︵ 20︶。言い換えれば 、古美術品や茶道具類 の移動に関しては売手と買手が不明であるケースが多いのである。こ の資料的な制約で、これまでは古美術品や茶道具類の入手経路は十分 に明らかにされてはこなかった。しかし、日本経済史を専攻している 筆者にとってみれば、 ﹁モノ﹂に即して根津嘉一郎の近代数寄者として の実像を明らかにするためには、是非とも知りたい情報ではある。 そこで、 根津嘉一郎が自ら手掛けて刊行した ﹃ 青山荘清賞﹄ や 、今 回、 筆者が構築した根津嘉一郎の自会ごとの茶道具類の組み合わせ、ある いは絵画や墨跡といった掛物などのデータベースと、高橋義雄﹃近世 道具移動史﹄や野崎広太 ﹃茶会漫録﹄ 、さらには 、東美研究所 ﹃東京 美術市場史﹄ ︵東京美術倶楽部、一九七九年︶や東京美術倶楽部百年史 編纂委員会﹃美術商の百年﹄ ︵東京美術倶楽部、二〇〇六年︶など複数
山梨大学教育人間科学部紀要 第 十四 巻 二〇一二年度 二四 の資料の突き合わせによって商品名、購入先、時期、価格など、書画 骨董類の購入状況が判明するデータを収集して根津嘉一郎の古美術品 や茶道具類の入手経路の実態を可能な限り明らかにしたい。 また、近代数寄者に関説した文献が必ず言及しているように、数寄 者間における道具争奪戦は熾烈を極めている。根津嘉一郎についてい えば、ビール業界を舞台とする﹁ビール戦争﹂も背景にあるのであろ う、昭和三年︵一九二八︶五月の島津忠重公爵家入札会における馬越 恭平︵化生︶との大名物﹁松屋肩衝茶入﹂の争奪戦は余りにも有名で ある。しかし、 それ以外でも明治四一年 ︵一九〇八︶ の ﹁大燈国師墨蹟﹂ をめぐる益田孝︵鈍翁︶との行き違い、大正元年︵一九一二︶の大阪 における生島嘉蔵家入札会に際して、安政二年︵一八五五︶の﹁形物 香合番付﹂で大関であった﹁交趾大亀香合﹂の藤田伝三郎︵香雪︶と の入札競争などもある。なお、平瀬亀之助家入札会では﹁花白河蒔絵 硯箱﹂とともに、 啓 書記筆﹁真山水﹂も藤田伝三郎と競っている ︵ 21︶。 道具争奪戦では、古美術品や茶道具類に対する何としても手中に収 めようとする根津嘉一郎の執念のような強い思いが込められている し、時によっては思惑も存在したであろう。その一方で、鑑識眼も厳 しく試されたのである。その過程では実業家根津嘉一郎とは異なった 人間像も垣間見えてくるのである。 そこで節を改めて 、第二節 ﹁道具争奪戦﹂として道具争奪を軸に 、 根津嘉一郎の数寄の世界を生き生きとに描くとともに、古美術品や茶 道具類を通じたネットワークを浮かび上がらせたいと考えている。ま た、蒐集した古美術品や茶道具の美術館での公開という益田孝、高橋 義雄、原富太郎︵三渓︶らの近代数寄者たちがなしえなかった﹁美術 報国﹂の実践を支えたバックボーンといったことも探っていきたい。 いうまでもなく根津美術館の豊富な収蔵品に象徴されるように、根 津嘉一郎が古美術品のコレクターとしても一流であったことは疑いな い。第三節では﹁大日本国宝古金銀数奇者見立﹂を素材として、コレ クターとしての根津嘉一郎を日本全体の中に位置付ける作業を試み る。
第一節
根津の鰐口
﹁花白河蒔絵硯箱﹂を売り立てた平瀬亀之助 ︵露香︶は 、江戸時代 から続く大阪の両替商千草屋の七代目主人であった。ちなみに、明治 維新期の千草屋の幕府や諸大名への貸付残高は七六万両を超えていた という ︵ 22︶。﹃日本全国諸会社役員録﹄によれば 、平瀬亀之助は明治 二六年 ︵一八九三︶に大阪第三十二国立銀行頭役 、日本火災保険社 長、大阪貯蓄銀行取締役を兼任していた。その後、三一年に浪速銀行 ︵一九三 ・ 二 万円︶の監査役に就任したが、第一回目の平瀬亀之助家入 札会があった明治三六年には退任し、実業の世界から引退したのであ る。 高橋義雄は平瀬亀之助家の入札会の背景を次のように述べている。 道具鑑識に於ては関西に比肩する者なき程の堪能で、実業上には 銀行頭取を勤められたが、事務は番頭任せにして自身は茶事風流 に日を送つて居たので、日清戦後財界膨脹の反動に際し、番頭共 の不手際より遂に大損失を醸して、其整理の為めに道具を売却せ ざる可らざる境遇に立至つた ︵ 23︶ 引用部分に﹁自身は茶事風流に日を送つて居た﹂とあるように、平 瀬亀之助の本来の姿は茶事、能楽、和歌、俳諧、音曲といった広い遊 芸の世界にあった。なお、山梨県出身の実業家でもあり近代数寄者で もあった小林一三︵逸翁︶は﹃逸翁自叙伝﹄の中で、三井銀行大阪支 店に勤務していた時に、お茶屋得田屋の襖越しに平瀬亀之助を二度三根津嘉一郎と﹃青山荘清賞﹄の世界 二五 度ぬすみ見たと書いている ︵ 24︶。平瀬亀之助は ﹁旦那芸﹂の水準を はるかに超えた広範囲におよぶ遊芸の世界に生き、その財力によって 多年にわたって集められた道具類の売り立ては大きな評判を呼び、 大阪紳商中道具収蔵の大家とて、殆ど空前の人気を惹き、札元と しては戸田弥七、春海藤次郎、山中吉郎兵衛等を主として、関西 知名の道具商が之に当つたので、京阪の好事家中藤田伝三郎翁の 如き一手を以て其優秀品を買収せんとする気勢を示し 、名古屋 、 東京方面の数寄者等も大挙して現場に馳せ参じたる ︵ 25︶ と、全国各地から数寄者が集まった。益田孝の末弟である益田英作 ︵紅艶︶は東京の同好者の注文を引き受けており 、益田孝を茶の湯の 世界に誘ったといわれる次弟益田克徳︵非黙︶が、入札の下検分のた めに大阪へ向かう途中に脳溢血で倒れ急逝したのも明治三六年の第一 回目の平瀬亀之助家入札時である ︵ 26︶。平瀬亀之助家入札会に対す る根津嘉一郎の姿勢は、東京美術青年会の機関誌﹃東美﹄に昭和一三 年に掲載された﹁信為万事本﹂で、 一番評判が好いかと云へば花之白河の硯箱だつた 。その時は此 方から川部の親爺と山西と一緒に行つた 。そして小国の席に入 つたが 、小国の親爺が喜んで歓迎してくれた 。ところで花之白 河々々々々と言ふわけなんだけれども、藤田はその時分えらいも ので藤田と云へば三菱よりもえらいと思つてゐた、それで二十八 点とか藤田さんの値無しの注文があると言ふので殆んど皆な藤田 に取られるだらうけども ﹁是が硯箱の王様だ﹂と言つて居つた 。 此方は見てもさうえらい物とも思はぬが、これが硯箱の王様とす ればこれは一つ奮発して買つてもいゝと思つて段々訊くと先ず 一万二千円、或は多くて一万三千円と云ふ説がある。一万五千円 と云ふのは一人もないけれども、さう云つた所で藤田から値無し の注文があるとすれば、これは一万三千円では不可ぬ、一万五千 円位は藤田が入れるだらう、よしツそれなら一万五千円に端を附 けても不可ぬから千五百円奮発して川部にも山西にも相談しない で俺が一万六千五百円に入れて知らん顔をして居つた ︵ 27︶ と、語っている。試みに消費者物価指数でみると、現在の物価は明 治三九年当時の約三、 二〇〇倍になっている。従って明治三九年の一、 五〇〇円は現在の四八〇万円であり、一六、 五〇〇円は五、 二 八〇万円 に相当する。 ﹁ そこに行くと是はツと思へば度胸はいゝ、一万五千円ま で来て端を一万五千五百円と入れては面白くない 、何でも二番札が 一万五千円位だつたさうだ﹂ ︵ 28︶ と述べている 。現在の五〇〇万円に も相当する一 、 五〇〇円の一挙の増額には持ち前の負けず嫌いが作用 したのかも知れない。 ﹁ 花白河蒔絵硯箱﹂の落札によって根津嘉一郎自 身が﹃世渡り体験談﹄に﹁この高値は、貨幣の位は兎に角として、一 品に就いて一万六千五百円といふ値の出た事は、開闢以来初めてだと 云ふので当時評判となり 、 盛んに新聞や雑誌に書き立てられた﹂ ︵ 29︶ と書いているように、古美術品や茶道具類のコレクターの世界では一 定の地位を占めたことは間違いない 。事実 、根津嘉一郎も大正二年 ︵一九一三︶に行われた京都の西本願寺の入札会に際して 、それまで は三 、 〇 〇〇円以上の寄附をしなければ閲覧できなかった飛雲閣に通 され、天正八年︵一五八〇︶の﹁石山合戦﹂の和睦に際しての引き出 物として織田信長から本願寺に贈られた﹁一文字茶碗﹂を拝見できた と誇らしげに記している ︵ 30︶。 なお、明治三九年八月発行﹃帝国金満家一覧鑑﹄では、根津嘉一郎 の収入は七〇万円で﹁前頭﹂あった。トップは岩崎弥之助、三井八郎 右衛門 、住友吉左衛門の七 、 〇〇〇万円である 。ちなみに 、根津嘉一 郎と﹁花白河蒔絵硯箱﹂を争った藤田伝三郎は﹁総後見﹂で六〇〇万
山梨大学教育人間科学部紀要 第 十四 巻 二〇一二年度 二六 円であり 、売り立てた平瀬亀之助のそれは四〇〇万円であった 。参 考までに甲州財閥の収入は 、若尾逸平の後継者である若尾民造は 四〇〇万円 、雨宮敬次郎は一五〇万円である ︵ 31︶。平瀬亀之助の富 豪振りを示す数値ではあるが、根津嘉一郎の度胸のよさを示すデータ でもある。 ところで明治三九年という年は将来の近代数寄者根津嘉一郎の片鱗 をうかがわせる出来事があった。 ﹃ 根津翁伝﹄によれば、根津嘉一郎は 同年一二月二六日に﹁鈴久﹂こと鈴木久五郎ら﹁成金﹂たちが東京京 橋区三十間堀の﹁きつね﹂を会場に開催した忘年会の発起人に名前を 連ねている 。﹃東京朝日新聞﹄の ﹁所謂成 功者連の忘年会﹂という記事は配布した 案内状を次のように伝えている。 拝啓本年も僅に相成り嘸々御多忙の 御事と奉察上候就ては其忙はしかり し 一 年 の 心 労 を 慰 せ ん か 為 め 本 月 二十六日午後一時より京橋区三十間 堀きつねに於て忘年会相催し室内に は抹茶煎茶の席を設け各床の間には 来賓各位御持寄の名画珍品を陳列し 又余興室には泉裕三郎の今様狂言並 に各技芸家得意の演芸数番其他舞妓 の手踊等開演仕候間幸に御賛同御繰 合せ御来臨の栄を賜らば本懐の至に 奉存候敬具 ︵ 32︶ ちなみに ﹁忘年会﹂の一人当りの負担 額は二〇〇円で 、根津嘉一郎以外の発起 人には鈴木久五郎 、林謙吉郎 、 中根虎四郎 、長井越作 、 田中経一郎 、 佐藤定次郎らが名前を連ねている。中でも、鈴木久五郎は明治三七年 頃からは鐘淵紡績株、東京鉄道株、日本製糖株などの売買によって莫 大な利益を挙げ﹁成金﹂の嚆矢となった明治後期を代表する伝説の株 式相場師であった。最盛期には﹁今紀文﹂と呼ばれたが、翌四〇年の 株価の大暴落では全財産を失った。 ﹁所謂成功者連の忘年会﹂でも明ら かなように根津嘉一郎は明治三〇年代の末頃から所蔵する美術品や骨 董品の展観や茶の湯への関心が芽生えてきたのであろう。 それでは根津嘉一郎の古美術品や茶道具類の購入の実態を検討して (第1表)根津嘉一郎の茶道具購入状況
根津嘉一郎と﹃青山荘清賞﹄の世界 二七 いきたい。第一表は、今回構築した構築したデータベースと前述した 諸文献との突き合わせ作業で判明した根津嘉一郎の道具購入状況を一 覧にしたものである。作業過程で先行研究のいくつかの誤りも確認し た。例えば、 ﹃ 近代の茶の湯﹄には大正五年六月の伊達宗基家入札会で 梁楷筆 ﹁普化図﹂を三五 、 〇 〇〇円で落札とあるが 、高橋義雄は ﹁一 旦東京川部の手に落札して根津嘉一郎氏に納まるべき筈であつたが 、 事故あつて是れは親引となつたさうである﹂ ︵ 33︶ と書いている。なお、 ﹃美術商の百年﹄によれば、その顛末は次のようであった。 梁楷筆普化の軸に就いて或は贋物ならんかとの風説立ちし事あ り、此品は根津嘉一郎氏が三万五千百円の一番札にて落札せしよ り此頃根津氏の太ツ腹賞する者多かりしが、実は根津氏は贋物説 伝わると共に骨董商州武、山西両名へ買値にて引取れとの交渉を 為したり、然るに伊達家入札の総見役馬越恭平翁は此事を聞いて 憤慨し、実は翁自身も非常の懇望にて入札当時山澄の手にて三万 円の入札をさせ二番札となりて残念なりし位なり、直に根津氏の 買入れ値段にて引取るべしといい、腹の中にては此幅を引取つて 自庵で催す茶会に此幅を掛け、根津氏を招待して同氏がどんな顔 をするを拝見しようというつもりなりしが、伊達家の聞く所とな り同品に就ては豊公より祖先政宗公が拝領せし由緒の物にて、旧 臣間にて極力買戻し方を主張する者あればとて憤れる馬越翁を宥 め終に元の伊達家の宝物庫へ納まる事となりたり ︵ 34︶ 根津嘉一郎が経営する加富登麦酒との﹁ビール戦争﹂の真っ只中の ライバル会社大日本麦酒の社長でもある馬越恭平も一枚咬んでいた 。 近代数寄者でもあった馬越恭平の狙いは、根津嘉一郎が買い取らない 場合は梁楷筆﹁普化図﹂を自らが引受け、茶席の掛物に使って根津嘉 一郎を招待しようとする馬越恭平の茶会における趣向の目論見すら見 え隠れする駆け引きが読み取れる。しかし、親引きとなり馬越恭平の 企図は脆くも崩れた。後年の大名物﹁松屋肩衝茶入﹂争奪戦を彷彿と させるような一件である。 さらに、 大正七年一一月に ﹁仁清 山寺茶壺﹂ を京極家から入手とあるが、実際に京極高徳家入札会で売り出された のは ﹁仁清色絵吉野山茶壺﹂ で あった ︵ 35︶。なお、 ﹁仁清色絵吉野山茶壺﹂ は後に松永安左エ門︵耳庵︶の所蔵に帰している。 もちろん、第一表は前述の作業によって判明したものだけで、根津 嘉一郎が所蔵する古美術品や茶道具類のごく一部にすぎない点はあら かじめ断っておきたい。特に、高橋義雄は﹃近世道具移動史﹄を昭和 四年上半期で擱筆しており、 われわれは有力な情報源を失った。また、 高橋義雄も所蔵道具を売り立てていないのは徳川家達公爵、細川護立 侯爵、黒田長成侯爵、浅野長勲侯爵の﹁四大家﹂のみとなり、三〇〇 諸侯の道具も最近一〇年間でほとんど出尽くしたと書いているように ︵ 36︶、その頃までに大名道具が払底する状況に立ちいたり 、昭和四年 以降になると大掛かりな入札会は激減している 。また 、アメリカの ニューヨークにあったウオール街での株価暴落を震源とする世界恐慌 の本格化という経済環境の激変により古美術品や茶道具類の購入どこ ろではなかったのかもしれない。 全部で七一家、 九九点である。高橋義雄︵三回︶ 、 松 平直亮︵三回︶ 、 藤田平太郎︵二回︶ 、 坂本金弥︵二回︶ 、 松 平忠正︵二回︶ 、 西 本願寺︵二 回︶が複数回登場するので実数は六三家であるが、実名が判明しない ﹁某家﹂は六家を数える 。なお 、道具商の春海藤次郎 、越沢太助 、戸 田弥七の名前が挙がっているが、これは落札者であって真の売り出し 元は不明である。いずれも根津嘉一郎家に出入りしていた道具商であ り、特に、春海藤次郎については﹃世渡り体験談﹄で、 一風変つた気骨のある侠商だつたので、藤田︵伝三郎齋藤︶が
山梨大学教育人間科学部紀要 第 十四 巻 二〇一二年度 二八 買はうとする品なども自分が先廻りして買つて了ふといふ機敏な 事をやり、なかなか利かぬ気のところがあつた。権門や威武にも 屈せず、どんな富豪だからと云つて、媚びたり、卑屈になる点は なかつた。謂はば、今時得がたい人物だつた ︵ 37︶ と 、根津嘉一郎自身を彷彿とさせるような誉め言葉で語っている 。 入手以来 、東都の茶人に拝見を懇望された松花堂昭乗筆 ﹁大津馬図﹂ も春海藤次郎の手を経たものである。 高橋義雄は昭和四年一〇月の ﹁弘 仁堂残茶﹂で﹁大津馬図﹂の入手の経緯を次のように記している。 床に掛けた一軸は先刻評判の松花堂筆大津馬に沢庵和尚賛の竪 幅であるが 、此幅は遠州蔵帳品で大阪の逸見家に伝来し 、 明治 三十四五年頃同家が銀行整理の為め之を入札売却に付した時、彼 の地の道具商故一樹庵春海藤次郎が藤田香雪男と競争の末当時レ コード破りの高価を以て収め、非売品として暫らく珍蔵して居た 者だが、彼は其頃初めて書画茶器を買ひ出した当庵主︵根津嘉一 郎齋藤︶を将来有望と見込みたりけん。進んで此幅を割愛した ので、当庵主はお蔭で最初より名幅を手に入れ其後トン〳〵拍子 で遂に今日の大収蔵家と為つた ︵ 38︶ ところで、 明 治四一年︵一九〇八︶の﹁大燈国師墨蹟﹂ ︵某家、 不詳︶ や大正一二年︵一九二三︶の﹁雲州銅鑼﹂ ︵松平直亮、不詳︶のように 購入価格が不詳であるものは、公開市場での入札という方法によらず に、所蔵者から直接譲り受けたと考えられる。ちなみに、購入金額が 不詳であるものは二二点を数える。昭和三年︵一九二八︶の酒井忠正 家のケースは ﹃近世道具移動史﹄の ﹁昭和二年十二月を始めとして 、 世間普通の入札法に拠らず、数名の道具商若くは好事紳士を自邸に招 ぎ、一回十数点乃至数十点づゝ三四回に亘つて名物道具を競争入札に 附したのは道具移動の上より云つても将た道具競売の上より云つても 共に異常の出来事であつた﹂ ︵ 39︶ との記述に従ったものである。また、 玉澗筆﹁廬山図﹂は大正八年の松平直之伯爵家入札会に登場し、九万 円の入札があったものの松平直之家では秘蔵したい意向で親引きと なった ︵ 40︶。ところが 、昭和六年に開かれた東京青山の根津嘉一郎 本邸における﹁燕子花屏風展観﹂の際には母屋の大広間の床に掛けら れており、 こ の間に松平直之家から入手したものであろう ︵ 41︶。なお、 尾形光琳筆﹁燕子花図屏風﹂は西本願寺旧蔵であるが、 ﹃近世道具移動 史﹄や﹃美術商の百年﹄の西本願寺入札会の品目には記載されておら ず ︵ 42︶、 購 入時期は不明である。ただ、 建築工芸協会﹃建築工芸画鑑﹄ の第二期第一〇集︵建築工芸協会、大正四年刊︶に﹁根津家蔵﹂とあ るので、下限とした ︵ 43︶。 古美術品や茶道具類の名称も、例えば、牧谿筆﹁竹雀図﹂は﹁ぬれ 雀﹂ 、﹁ 枯木に雀図﹂ 、﹁竹に雀﹂と多様に表現されており、東山御物の馬 麟筆﹁夕陽山水図﹂も単に﹁夕陽図﹂と記されることもある。ここで は統一しなかった。 さて、実際の売り出し元が判明する五六家のなかで、 本多政以男爵家 、蜂須賀茂韶侯爵家 ︵ 阿波︶ 、東園基愛子爵家 、 松平忠正子爵家︵信州上田︶ 、伊達宗基伯爵家︵仙台︶ 、佐竹義生 侯爵家 ︵ 秋田︶ 、 秋元春朝子爵家 ︵館林︶ 、津軽英麿伯爵家 ︵弘 前︶ 、松平忠諒子爵家 ︵島原︶ 、徳川圀順侯爵家 ︵水戸︶ 、 池田仲 博侯爵家︵鳥取︶ 、 水野忠亮子爵家︵沼津︶ 、松平直亮伯爵家︵松 江︶ 、徳川達孝伯爵家 ︵田安︶ 、本多忠敬子爵家 ︵岡崎︶ 、 前田利 為侯爵家︵加賀︶ 、松平定謨子爵家︵伊予︶ 、徳川頼定侯爵家︵紀 州︶ 、堀田正恒伯爵家 ︵佐倉︶ 、松浦厚伯爵家 ︵平戸︶ 、酒井忠正 伯爵︵姫路︶ 、 島 津忠重公爵家︵鹿児島︶ 、 松 平直之伯爵家︵前橋︶ 、 伊東祐淳子爵家︵飫肥︶
根津嘉一郎と﹃青山荘清賞﹄の世界 二九 の二四家が旧公家か旧大名家である。さすがに将軍家である徳川宗 家の名前はないが、 水戸、 紀州、 田安といった御三家や御三卿クラス、 また、仙台伊達家、加賀前田家、鹿児島島津家といったかつての国持 ち大名、さらには、大茶人松平治郷︵不昧︶の末裔である松平直亮伯 爵家や、 鎮信流茶道の家元でもある松浦厚伯爵家の名前が並んでいる。 この一方で、 井上勝之助侯爵家、 赤星鉄馬、 藤田平太郎︵江雪︶といっ た 、井上馨 ︵世外︶ 、赤星弥之助 、藤田伝三郎という明治期以降に古 美術品や茶道具類を大々的に蒐集した著名なコレクターの後継者によ る売り出しもある。それらコレクターの入手元も多くは旧公家か旧大 名家であったと考えられる。明治中期以降の経済社会の急激な変動の 影響を背景とした先祖伝来の家宝の大流出である。高橋義雄は、 名器が徳川時代を通じて最も資力の充実した国持大名家に保存さ れたのは其物の為め誠に幸福でお蔭で散逸を防ぎ保存も行届いて 、 今日の現状を存する事を得たのである 、 然るに今や大正年代成金 時期に至りて 、 此大名家の道具が成金若くは其他財的成功者の手 に移るに至つたのは誠に自然の趨勢である 、 何となれば此成功者 等は彼の関ヶ原の戦勝で大名の株を獲得したのと同様 、財政上の 大戦争で成功したのであるから 、肩書こそ無けれ旧時の国持大名 と殆ど異る所がない 、是に於て彼の無産無職で所謂売食ひの境遇 に立ちつヽある旧華族連中が道具を売り新進財的成功者が之を買 収せんとするのは、時勢已むを得ざる結果と言はねばならぬ ︵ 44︶ とみている。古美術品や茶道具類に関する知識が皆無に近い筆者で あるので個別物件へのコメントは差し控えたいが、購入価格が気にな るのは日本経済史研究を専門領域とする習性であろうか。 ところで、明治三五年︵一九〇二︶から昭和一〇年︵一九三五︶に いたる三四年間の、特に、第一次世界大戦を契機とする大正バブル期 の急激な物価上昇を考えると、古美術品や茶道具類の購入価格を当年 価格で表示してもあまり意味はない。そこで煩雑さを軽減する意味合 いもあって、次のような方法を用いた。まず、あくまで一つの目安と して購入価格が一五 、 〇〇〇円を超える三〇点を抽出する 。昭和三年 ︵一九二八︶の大阪の広岡恵三家入札会での﹁足利義政作茶杓 笹葉﹂ の一五 、 九〇〇円が下限である 。次いで 、消費者物価指数をデフレー タとして昭和一〇年 一九三五︶を基準年とする実質価格を算出し 、 金額の高い順に並べ替える。 するとこの間の貨幣価値の変動の影響で、 昭和一〇年を基準年とする実質価格での順位に上下動が生じてくる。 具体的には明治四二年に一三五 、 〇〇〇円で光村利藻から一括購入 した ﹁刀剣小道具﹂が二三 ・ 七万円となり 、昭和八年に松本松蔵から 一六九 、 八〇〇円で購入した当年価格ではトップあった芸阿弥筆 ﹁観 瀑図﹂の実質価格一七 ・ 七 万円を抑えて首位に躍り出る。同様に、 ﹁松 屋肩衝茶入﹂と ﹁青井戸茶碗 柴田﹂ 、 巨勢金岡筆 ﹁那智瀧図﹂でも 逆転がみられる。なお、 こ の五点が実質価格で一〇万円を超えている。 一 方 、 下 位 で も 、 明 治 四 二 年 ︵ 一 九 〇 九 ︶ に 生 島 嘉 蔵 家 か ら 一三 、 六 〇〇円で購入した ﹁ 交趾香合 台牛﹂のように 、当年価格で は一五、 〇〇〇円を下回ったが、実質価格では二 ・ 四 万円と﹁足利義政 作茶杓 笹葉﹂の一 ・ 三万円を上回る物件が八点登場する 。当然 、そ れらも書き上げる。第二表は昭和一〇年を基準年とする実質価格の高 い順に並べた三八点である。 書画、 古 筆、 茶道具類など多様であり、 古美術品としての価値や流行、 さらには根津嘉一郎の好みなどが複雑に絡み合っており、相互の価格 比較は難しい。事実、明治三九年の平瀬亀之助家入札会で﹁花白河蒔 絵硯箱﹂を一六 、 五 〇〇円で購入した時は 、すでにみたように大きな 話題となった 。しかし 、 その後は 、一つには財界人を中心とする近
山梨大学教育人間科学部紀要 第 十四 巻 二〇一二年度 三〇 代数寄者の活 動による茶の 湯の興隆 、二 つには旧大名 家からの家宝 の流出によっ て 、 古美術品 や茶道具類の 価格は激しく 高騰した 。実 際 の と こ ろ 、 当年価格でみ ても一〇万円 以上が四点、五万円を超えるものが一二点を数え、 ﹁花白河蒔絵硯箱﹂ の当年価格は三〇位に後退する。 た だ、 購入した時期が古いこともあっ て、 ﹁花白河蒔絵硯箱﹂の実質価格は二 ・ 九 万円で二三位に上昇する。 さらに、大正中期の﹁大正バブル﹂を背景とする価格暴騰は異常で あった。具体的に購入価格と実質価格を比較すると、一九点の実質価 格が購入価格の額面を割っている。特に、 ﹁大正バブル﹂の真っ只中の 大正八∼九年に購入したものは三割、また、不況期であった昭和二∼ 四年に購入したものは一五パーセント程度安くなっている。根津嘉一 郎も大正八年の郷誠之助男爵家入札会で坂本金弥が七 、 六二九円で落 札した伝檀芝瑞筆﹁岩竹図﹂を反動恐慌期であった大正一一年の坂本 金弥家入札会で半額以下の三 、 〇 〇〇円で入手している 。高橋義雄は ﹁成金時期﹂と名付けた﹁大正バブル﹂を次のように表現している。 大正五年五月十六日仙台伊達家の入札が東京美術倶楽部にて挙行 された時より、大正九年四月十九日土井子爵家の入札会があつた 時までを 、 余は道具移動第三期中の成金時期と名づけやうと思 ふ、抑も大正三年に勃発した欧州戦争は最初独逸軍の攻勢猛烈な ので、時を移さず仏国を席捲するだらうと思はれたが、戦線の延 長するに随つて其攻勢漸く衰へ、大正五年頃には最早持久戦の容 態を呈し、攻防双方国力を尽して戦備を充実せんとするので、日 本の商工業は総て其需要を増し、殊に船舶業の収益は前古未曾有 で、戦時品の貿易倍々盛大を極め日本商事会社の勃興雨後の筍の 如く、然も為す事悉く儲かるので、到る処に所謂成金を生じ来つ た、 斯くて様々の成金が出で来れば、 邸 宅を新築し道具を買収し、 饗宴交会益々贅沢に赴き⋮彼等が大袈裟に道具を買収するに、其 俗悪なる嗜好を以て色彩濃厚なる絵画、蒔絵物若くは堆朱の如き 者を選び、此種の品類が一時突飛の相場を出したのも決して偶然 の事ではない ︵ 45︶ ﹁大正バブル﹂も 、昭和前期の不況期も共に異常な時期であった 。 引用部分でいう成金とは内田信也、山本唯三郎、山下亀三郎らを指し ており、根津嘉一郎は必ずしも成金ではないが、古美術品や茶道具類 の蒐集についてみれば、その渦中にいたことは間違いない。 一方、大正六年︵一九一七︶以前と、昭和恐慌が落ち着きを取り戻 してきた昭和八年︵一九三三︶以降の購入品の二〇点は購入価格を上 回っている。経済情勢の変動だけでなく古美術品や茶道具類は特殊な 商品であり、美術的価値、希少価値、あるいは流行などの要素によっ ても価格は大きく変動する。 高橋義雄も ﹃近世道具移動史﹄で 、明治四年 ︵一八七一︶当時 、 二 、 〇〇〇円で買い取られた八幡名物 ﹁国司茄子茶入﹂の大正一二 年︵一九二三︶の酒井忠克伯爵家の入札時における藤田平太郎による (第2表)金額上位の購入品
根津嘉一郎と﹃青山荘清賞﹄の世界 三一 一〇〇倍に当たる二〇万円での購入 ︵ 46︶ 、ま た、 明治三三年 ︵一九〇〇︶ に春海藤次郎が五 、 〇〇〇円で落札して ﹁道具界の鰐魚﹂赤星弥之助 に納めた﹁青井戸茶碗 こだま﹂の、大正六年︵一九一七︶の赤星鉄 馬家入札会での大阪の阪上新治郎による八二 、 〇〇〇円での購入など の事例を紹介している ︵ 47︶。この間 、 明治四年と大正一二年を比べ ると東京深川の正米平均相場は五 ・ 七五倍 ︵ 48︶、同じく明治三三年と 大正六年の消費者物価は一 ・ 五 九倍増に止まっている ︵ 49︶。古美術品 や茶道具類の価格の上昇率の方がはるかに急激であった。藤原銀次郎 も﹃私のお茶﹄のなかで、 ﹁その頃︵明治末期齋藤︶からお茶道具が だんだん騰貴し始めて、 千円のものは、 ま たたくうちに二千円になり、 あれよあれよといふ間に、一万円近くにもなつた﹂ ︵ 50︶ と書いている。 前述したように、若い頃、株式投資に専念していた根津嘉一郎がその 点に着目したことは充分考えられるし、筆者としても確かに根津嘉一 郎の古美術品購入の初期段階には投機的な側面があったことは否定し ない。しかし、 ﹃世渡り体験談﹄に、 私は嘗て亜米利加に旅行して 、今は故人となられたロツクフエ ラー氏に会つた時、同氏が多額の金を儲けて、その多くを世の中 のために散ずる主義を知つて、大いに啓発された。その襟度なり 主義なりは、日本人として大いに学ばなければならない点がある と考へた ︵ 51︶ と書いているように、明治四二年の渡米実業団の一員としてのアメ リカ訪問が根津嘉一郎にとって大きな転機となった。一方、 ﹁ 自慢話を するのではないが、 いさゝか先見の明を誇つてもいゝと思ふ事がある。 それは明治三十年代の事であるが、其頃の美術品は今日ほど値段が高 くなく、国宝に類する貴重品が、外国人に安く買はれて、頻りに欧米 へ搬出されてゐたのであつた。私はこの傾向を見て、日本美術界の為 めに嘆かはしい事だと考へてゐた﹂ ︵ 52︶ とも書いているように 、わが 国の美術品が国外に流出する事態を目の当たりにして、それらを国内 に止めることに腐心したことも、また、事実である。 ﹃ 根津翁伝﹄によ れば、アメリカ訪問中にシカゴ、フィラデルフィア、オマハで美術館 を訪ねている。渡米実業団の一員としてのアメリカ訪問で根津嘉一郎 のいう﹁美術報国﹂のスイッチが入ったと考えられる。これが後年に なって根津美術館の創立に帰結するのである。 藤原銀次郎は﹃私のお茶﹄で根津嘉一郎には道具を見る目がないと 書いている。その当否を検証できるのが芸阿弥筆﹁観瀑図﹂の購入を めぐる経緯である。 芸阿弥筆﹁観瀑図﹂は、高橋義雄﹃近世道具移動史﹄の﹁大正時代 東都美術品売立高値番付﹂で書画の部の横綱にランクされている芸阿 弥筆 ﹁真山水﹂ と 同一物である。 ﹁観瀑図﹂ は 二回美術市場に登場する。 一回目は大正八年︵一九一九︶一一月の郷誠之助男爵家の売り立て時 であり、その落札価格は﹁大正バブル﹂の絶頂期という時代背景であ ろう三一九 、 〇〇〇円であり 、関西経済界のリーダーであった松本重 太郎︵松翁︶の後継者である松本松蔵︵双軒庵︶が落札した。この価 格は後に分断事件を引き起こす佐竹義春侯爵家の藤原信実筆﹁三十六 歌仙絵巻﹂の三五三 、 〇 〇〇円に次いでいる 。なお 、信実筆 ﹁ 三十六 歌仙絵巻﹂は前掲した番付では別格の行司に掲げられている。ところ で、先代の郷純造が二五年前に芸阿弥筆﹁観瀑図﹂を入手したときの 価格は一八〇円であったという ︵ 53︶。大正八年に東京美術倶楽部で 郷誠之助家入札会の開札に立ち会った高橋義雄は次のように書いてい る。 扨て芸阿弥山水幅は予て好評嘖々たりしかば川崎氏は三十万円ま で入札すべしと余に語られしが、当日開札の結果、京阪札元連合
山梨大学教育人間科学部紀要 第 十四 巻 二〇一二年度 三二 軍にて三十一万九千円に落札せり。川崎氏は郷氏と親戚にて殊に 同家の創業には故純造翁の助力に負ふ所頗る多かりしに依り、芸 阿弥一幅は同家に買取り置く方至当ならんと思ひ、余は三十三万 円まで入札せよと八右衛門氏に忠告し置きしが川崎氏は頑として 三十万円を主張し、当日に至りて更に一万円を増加せしのみなり しかば終に京阪札元連合軍の奪ひ去る所と為れり ︵ 54︶ 入札価格を三三万円とした高橋義雄の読みは見事に的中しており 、 若し、高橋義雄の忠告に従って入札していれば﹁観瀑図﹂は川崎八右 衛門が入手できた 。しかし 、川崎八右衛門の入札価格は三一万円に 止まり、わずか九、 〇〇〇円の差で松本松蔵が落札することとなった。 なお、川崎八右衛門は川崎財閥の二代目で郷誠之助の義兄にあたる。 その後、 昭和八年 ︵一九三三︶ 六月に松本松蔵家の売立てで ﹁観瀑図﹂ は再び美術市場に登場した。この時、東京大学教授で美術史の権威で あった滝精一が﹁観瀑図﹂は贋作であると断じた。美術史の権威の影 響力は大きく評価額は急落した。その際、根津嘉一郎が大幅に下落し 半額となった一六九 、 八〇〇円の価格で ﹁観瀑図﹂を落札した 。この 間の経緯を小林一三は﹁直接青山翁からしば〳〵きかされた、翁御自 慢の天狗物語を、ありのまゝお話するー将来の参考の為めに此の機会 に其の真相を明瞭にして置くことは、斯界の為め無意義でもあるまい と信じてお話する次第である﹂ ︵ 55︶ と、次のように伝えている。 芸阿弥の名幅も哀れや、入札を見合さうといふ悲観説が現はれて 来た時我が青山翁は毅然として現はれたのである。 ﹁ 贋物大賛成! お蔭で安く買へるから﹂と入札中止論者を一瞥して﹁諸君も贋物 だと思ふならば、其の良心に訴へて潔く撤去し給へ、断じて贋物 でよいと信ずるならば、何をウロ〳〵して居るのだ、素人の役人 が何を云はうと、諸君は商売人であると同時に、口の人でなく実 行すべき人であるから、 其の信念によつて、 商人は商人らしく堂々 と入札し給へ﹂と大見得をきつた時は実に痛快だつたと、嬉しさ うに眼を細くして芸阿弥の神品瀧山水の前で話されたのも、故人 思ひ出での追憶談である ︵ 56︶ 現在、 ﹁ 観瀑図﹂は重要文化財に指定されている。根津嘉一郎の鑑賞 眼は確かであった。世間での権威などはどうでもいいのである。 ﹁ 嘗て 人に使われたことがない﹂と言い切る自らの信念に従っての行動であ る。根津嘉一郎に﹁鑑賞眼﹂がないと書いている藤原銀次郎には昭和 前期における東京電灯の若尾璋八社長追い落としに際して三井財閥を 代表して東京電灯に乗り込み、所謂﹁御三家事件﹂で根津嘉一郎と激 しく対立した時の遺恨でもあるのか、と書いたら藤原銀次郎に対して 厳しすぎるだろうか。根津嘉一郎は自らの信ずる鑑賞眼と、 日本人が西洋かぶれをしている間に、欧米に於ては漸く東洋美術 に対する関心を深めて来た為に、このままにしておけば、遂には 東洋美術の精粋は東洋から消え失せて仕舞ふであらうと云ふこと を知つたのである。そこで、予は従来の蒐集方法を改め、更に其 の範囲を拡むる必要を認むるに至つた。即ち単に個人の趣味とし てではなく、東洋の芸術はこれを東洋、殊に日本に保存すべしと 云ふ精神を堅持するやうになつた ︵ 57︶ とする﹁美術報国﹂の理念に従ってどしどしと古美術品や茶道具類 を蒐集していった。ここに﹁ボロ買一郎﹂と揶揄された実業家根津嘉 一郎とはまったく異なった姿を垣間見られる。ついでにいうと、藤原 銀次郎は後に慶應義塾大学の工学部となる日本最初の私立工業単科大 学を私財八〇〇万円を投じて昭和一四年︵一九三九︶に設立した際に 校名を藤原工業大学とした。 一方、 根津嘉一郎は大正一〇年 ︵一九二一︶ に現在の武蔵大学の前身となったわが国最初の七年制高等学校の名称
根津嘉一郎と﹃青山荘清賞﹄の世界 三三 を武蔵高等学校としており、 ﹁ 根津﹂を用いてはいない。ちなみに、根 津嘉一郎の武蔵高等学校への寄付金額は三六〇万円であった。 根津嘉一郎は、明治三〇年代から古美術品や茶道具類の蒐集をはじ め、 ﹃青山荘清賞﹄の構成をみれば明らかなように絵画、墨蹟、写経、 茶道具、 陶磁器、 漆器、 金 工品、 能 面、 仏像、 衣 装など多方面にわたっ ており、国宝や重要美術品も少なくない。高橋義雄は﹃近世道具移動 史﹄の﹁道具王国の覇者﹂で、 維新後資力と鑑識とを兼ね備へて盛んに道具を買収し所謂道具王 国を築き上げた人々は全国に於て今や十指を屈するであらう⋮同 じ王国でも自から大小あり又夫れ〳〵の特長がある例へば井上 侯、赤星氏、藤田男、益田男、馬越翁、根津翁、野村氏、村山氏 の如き即ち夫れで皆な一王国を形成し居る而して此王国の富力如 何を比較するのは甚だ困難事であるが此中誰が最も多く道具買収 費を支出したかと云ふに至りては一も二もなく根津嘉一郎翁を推 さずばなるまい何となれば井上、藤田、益田、赤星、馬越の如き 道具移動第一二期中品物が潤沢で価格が低廉なる時代に其収蔵の 過半を仕入れて居るから道具の多い割合に買収費は余り嵩んで居 らぬが根津翁は明治三十六年大阪平瀬家の入札で八幡名物花の白 河硯箱を当時道具のレコード破りで買入れたのが殆んど初陣の功 名であり且つ最初は書画を主とし茶器は稍後れて買収せられたか ら収蔵の大半が道具相場騰貴後の仕入に属し翁が今日までに支出 したる道具買収金額は蓋し一千万円を下らぬであらう ︵ 58︶ と、 ﹁花白河蒔絵硯箱﹂を購入した平瀬亀之助家入札時の年次は誤っ ているが、根津嘉一郎を非常に高く評価しており、引用部分に続けて 松平治郷 ︵不昧︶になぞらえている 。引用部分にある ﹁道具移動第 一二期﹂とは明治初年から同二八年までを第一期、第二期を明治末年 までを意味する。名前の挙がっているのは近代数寄者の第一世代や第 二世代に属しており、根津嘉一郎は第三世代である。なお、高橋義雄 のいう ﹁一千万円﹂は 、 この間の物価上昇分を考えると 、 現在では 一七八 ・ 八億円になる計算である 。そして特筆すべきは 、古美術品や 茶道具類を蒐集するにあたってのライバルであった井上馨 、益田孝 、 原富太郎 、馬越恭平らのコレクションの多くが散逸している一方で 、 根津嘉一郎のコレクションは没後、根津美術館の中核的な所蔵品とし て広く公開されている点である。
第二節
道具争奪戦
根津嘉一郎は 、益田孝 ︵鈍翁︶を追悼して昭和一四年 ︵一九三九︶ に刊行された鈴木伸樹 ﹃大茶人益田鈍翁﹄ に収録された ﹁ 私の茶の先達﹂ で、益田孝が所望していた﹁大燈国師墨蹟﹂を先んじて購入し、益田 が是非見たいと懇望していたので、そのうちにと思っていたが果たせ なかったと記している ︵ 59︶。﹁大燈国師墨蹟﹂の購入は高橋義雄の ﹁茶 会記﹂や﹃万象録﹄の執筆以前であり、詳しい経緯を伝える具体的な 資料は残されていない。その概要を述べると次のようである。 益田孝は 、以前から出入りの道具商山澄宗澄から ﹁大燈国師墨蹟﹂ のことを聞かされており、購入の意志を伝えていた。しかし、持ち主 はなかなか手放そうとはしなかった。明治四〇年︵一九〇七︶六月か ら一一月にかけて三井の小石川家八代目三井三郎助と益田孝の欧米視 察旅行中に事態が動いた。持ち主の都合で急遽﹁大燈国師墨蹟﹂の売 却が決まった。当然、益田孝に納められるべきものである。だが、先 方には益田孝の帰国を待っている余裕はなかった。困った山澄宗澄は 根津嘉一郎の所に持ち込み、事情を説明した。根津嘉一郎は山澄宗澄山梨大学教育人間科学部紀要 第 十四 巻 二〇一二年度 三四 の当分の間は内密にするという条件で ﹁大燈国師墨蹟﹂を購入した 。 帰国後、 根津嘉一郎の﹁大燈国師墨蹟﹂購入を知った益田孝は立腹し、 一年間、山澄宗澄の出入りを禁止したという ︵ 60︶。 確認できた根津嘉一郎の最初の他会への出席は明治四一年一二月の 東京品川の御殿山にある益田孝本邸の碧雲台において完成した新茶室 太郎庵の開席茶会である。明治三九年の﹁花白河蒔絵硯箱﹂の落札や 明治四〇年の﹁大燈国師墨蹟﹂購入が根津嘉一郎と益田孝との茶の湯 を通じた交流の切っ掛けとなったのであろう。藤原銀次郎も﹃私のお 茶﹄で、 ﹁大燈国師墨蹟﹂購入事件ではないが古美術品や茶道具類の購 入をめぐる根津嘉一郎と益田孝の対決を次のように紹介している。 お茶をやるからには、道具のいいものを持たねば威張れないとば かり、片つぱしから出物があると買ひ集めにかかつた。うん、益 田がいくら出したつて?さうか、それなら、おれはそれ以上出さ うと、持つて生れた負け嫌ひから、どんどん値段かまはずに何ん でも買ひすすんだ⋮﹁益田さんは一万円の物なら、八千円か九千 円でなければ買はれないが 、わしは今それがぐんぐん騰るとき であるから 、一万円の物なら 、二万円で買ふ 。二万円の物なら 三万円で買ふ。 株を買ふにも先を見越す必要があるんぢやないか。 一万円の物を八 、 九千円で買はうとぐづぐづしてゐるから買ひ損 つてしまふ。株も道具も同じ呼吸だ。一万円の物を二万円で買つ たら、 三万円に売れるまでちよつと辛抱しとればいいぢやないか﹂ かういふので、根津さんはすこぶるの強気、買ひ度胸も天下一品 であつた。益田さんは﹁根津が馬鹿値を出して買ふから困つてし まふ﹂とこぼされると、根津さんはまた﹁どつちが馬鹿だ﹂と負 けてはゐない ︵ 61︶ 藤原銀次郎は根津嘉一郎が﹁カネ﹂の力で茶道具類を買い捲ったと 書いている。しかし、越沢太助︵宗見︶は根津嘉一郎の別の面を次の ように語っている。 根津さんは﹁こういう物が欲しい﹂と云うことで承わって入札な りに出かけます。十万円で欲しいと云われましても、その時の勢 でどうしても十一万円でなけにゃ落ちないとなって十一万円で落 札しますわね、そしてその通り話しますと、 ﹁わしは十万円で注文 を出したのだから、 十 万円なら買う。 一 万円はそこ許の見識で買っ たんだから 、そこ許が引きとるか 、十万円にするかどちらかだ﹂ と云うような調子です ︵ 62︶ 越沢太助は﹁シブい話﹂としているが、そこには冷徹な﹁経済の論 理﹂ が貫徹しているとみるべきだろう。 根 津嘉一郎は近代数寄者であっ たと同時に実業家でもあったのである。事実、ただ闇雲に高いものを 買ったわけではない。それはともかく、藤田伝三郎︵香雪︶と﹁交趾 大亀香炉﹂を争った大正元年︵一九一二︶の大阪の生島嘉蔵家入札会 あたりからは文献資料も若干残されている。 藤田伝三郎は長州出身で明治維新後は一時的に井上馨の千収会社に 入社するが、明治九年︵一八七六︶年に藤田組を組織して陸軍用達と 土木事業によって巨富を蓄えた。その後、秋田県の小阪鉱山や島根県 の大森銅山の経営や岡山県児島湾の開拓事業に成功して、鉱山業、鉄 道業、電気業、紡績業などの分野で手広く事業展開する関西財界の大 立て者となり、明治一八年︵一八八五︶には五代友厚の後を承けて大 阪商法会議所の二代目会頭に選任される。この一方で、岩下清周﹃藤 田翁言行録﹄が﹁翁は抹茶の嗜深く、磯矢宗庸に就て奥義を極め、大 通故平瀬露香翁の立会にて 、茶道の皆伝を受けられしと聞けり﹂ ︵ 63︶ と書いているように、茶の湯にも通じ、明治三六年に関西地方の茶人 によって構成された浪速風流十八会の会員でもあった。 高橋義雄が ﹃ 東
根津嘉一郎と﹃青山荘清賞﹄の世界 三五 都茶会記﹄に、 故伝三郎男は芦庵と号し、 又香雪斎と称す。天性書画骨董を好み、 維新当初天下の物情恟々たるのみならず、藤田家も基礎未だ定ま らず、所謂七凹八凸の際、早く已に道具道楽の門に入り、財計如 何に不如意なる時にても、名品を見れば猫に鼠の本性を発現して 到頭之を得ざれば已まざるの概あり ︵ 64︶ と 、紹介しているように 、早くから道具類の蒐集を開始している 。 平瀬亀之助家入札会の際にも述べたが 、根津嘉一郎の目にも大物と 映っていた。その藤田伝三郎が明治四四年三月の生島嘉蔵家入札会で は﹁交趾大亀香炉﹂を狙っていたのである。まず、 ﹃ 美術商の百年﹄か ら当日の雰囲気を探ろう。 何はさて香合番付にて大関の地位を占め比類稀なる名物と称えら るる大亀香合を始めとし、各種の名器珍什数多く入札せらるるこ ととて、京阪の玄人筋は勿論、東京名古屋あたりよりも来会する 者少なからず、開札前より人気は既に大いに沸騰せり、愈々開札 始まるや高札に対して拍手の声喧しきばかり、電話は西へ東へ通 ぜられ、得意顔に語る者あるも面白く、春寒むの夜の更け行くを 知らざる有様にて近頃稀なる大盛況を呈しぬ。意外の大紛擾 斯 くて何れも予想以上の成績を挙げ漸次に開札を終わり最後に開票 の結果は春海の六万九千円に次ぎ戸田の七万二千円最高と現れた り、然るに之にても持ち主側は不引合として売却を承諾せざりし かば、各自非常に激昂し此処に大紛擾を惹起し、札元は全部の入 札を取消すべしなど叫び混乱に混乱を極め。一時過ぎに至るも尚 双方の間に交渉纏まらざりし ︵ 65︶ ﹃根津翁伝﹄も ﹁君が入札に於て激しく競争したのは 、大阪に於け る大亀の香合であつた 。此の香合は 、藤田伝三郎との競争で 、藤田 も ﹁ 生涯にこれだけは取りたい 。﹂ と言ふし 、君も ﹁幾ら値が高くと も宜いから 、是非買ふ﹂と言ふ﹂ ︵ 66︶ と伝えている 。春海敏の入れた 六九、 〇 〇〇円は根津嘉一郎の札であり、わずか三、 〇〇〇円の差で二 番札となった。しかし、 ﹃美術商の百年﹄の引用部分にもあるように、 持ち主は不引合として売却を承諾せずに深夜一時を回っても交渉がま とまらなかった 。戸田弥七は危篤に瀕した藤田伝三郎の病床を訪れ 、 その指示で九万円の値上げで決着した。 ﹁ 交趾大亀香炉﹂は枕頭に届け られたが、藤田伝三郎はそれを使用することなく死去する。 ﹁交趾大亀 香炉﹂は昭和四年︵一九二九︶五月の藤田平太郎家入札に際しても出 されず、現在は大阪市都島区の藤田美術館に所蔵されている。 なお、根津嘉一郎は平瀬亀之助家入札会では藤田伝三郎と啓書記筆 ﹁真山水﹂も競っている。その際、八、 三 〇〇円で藤田伝三郎が落札し た啓書記筆﹁真山水﹂は、昭和四年の藤田平太郎家入札会に再び登場 し 、根津嘉一郎は一六 、 九一〇円で入手している 。平瀬相場の二〇倍 の価格である。しかし、この間の物価上昇を考慮すると、実質価格に はほとんど差はなかったといってよい。 さて、有名なのは﹁ビール戦争﹂のライバル馬越恭平との道具争奪 戦である。 ﹃ 書画骨董雑誌﹄は舞台となった昭和三年︵一九二八︶五月 の島津忠重公爵家の入札会を次のように報じている。 財界台風の襲来はとんでもない方面にまでとんでもない影響を及 した。曰く某、曰く某、皆それであるが、島津公爵家も亦此余波 より免れることは出来なかった。云うまでもなく十五銀行との関 係からである。斯うしたことから、同家では伝来の家宝を投げ出 したのである。何しろ大々名の襲蔵品である。槝てて加えて関係 銀行の整理の為めにという名分がある。人気は同情とはおのづか ら翕然として集らざるを得ない。五月二八日に東京美術倶楽部で
山梨大学教育人間科学部紀要 第 十四 巻 二〇一二年度 三六 開札された同家の売立は、果然白熱的高度の大人気を呼び ︵ 67︶ 引用文がいう﹁財界台風﹂とは、昭和二年︵一九二七︶三月に突発 した金融恐慌で 、東京にあった東京渡辺銀行 ︵払込資本金二〇〇万 円︶の倒産を引き金としている 。なお 、東京渡辺銀行を ﹁ 機関銀 行﹂とする渡辺治右衛門一族との連携を深めていた甲州財閥の若尾 謹之助一族が経営していた若尾銀行 ︵五〇〇万円︶も 、煽りを受け て破綻している 。金融恐慌の余波は ﹁華族銀行﹂と別称されていた 十五銀行 ︵四 、 九 七五万円︶をも整理休業に追い込んだ 。大蔵省の昭 和二年一〇月二〇日現在の調査では十五銀行の欠損不確実資産額は 一億九 、 三〇〇万円にのぼったという 。決定した整理案は 、十五銀行 の公称資本金である一億円の全額払込みを行った上で二 、 〇 〇〇万円 への減資を行って差引八 、 〇〇〇万円を欠損の埋め合わせに使うとい うものであった ︵ 68︶。三一 、 〇 五三株を所有して十五銀行第二位の大 株主であった島津忠重公爵家では一時に一五六万円を用意しなければ ならなかった。その資金調達のために東京市芝区袖ヶ崎の本邸の七割 の売却とともに家宝の売却に踏み切った。 ﹃近世道具移動史﹄ によれば、 同様に金融恐慌による銀行破綻に起因する道具類の入札は、島津忠重 家の他に大正一一年まで十五銀行の頭取を務めていた松方巌公爵家 、 加島銀行頭取の広岡恵三家、近江銀行の浅見又蔵家などがあったとい う ︵ 69︶。 島津忠重家入札会を宰領した高橋義雄は 、大名物 ﹁松屋肩衝茶入﹂ の購入について根津嘉一郎と馬越恭平を勧誘したという。明治三〇年 代末以来の ﹁ビール戦争﹂の真っ只中で角を突き合わせている二人 であることが高橋義雄の念頭にあったかどうかは不明である。 ﹃ 箒のあ と﹄によれば ﹁松屋肩衝茶入﹂の来歴は次のようであった 。足利義 政ー村田珠光ー古市澄胤ー松屋源三郎と伝わり、豊臣秀吉が天正一五 年︵一五八七︶に開いた北野大茶の湯にも出陳され、その後、江戸幕 府二代将軍徳川秀忠の上覧にも供している 。松平治郷 ︵不昧︶が三 、 〇〇〇両で購入せんとしたが叶わず、幕末にいたり大阪の道具商伊藤 勝兵衛方に入質された際に島津忠重が購入したという ︵ 70︶。 筆者の調査で判明している根津嘉一郎が購入した茶入としては最高 額の一二九 、 〇〇〇円の破格値を入札した 。もちろん 、島津忠重家入 札会でも最高価格である。茶入としては前述した﹁大正時代 東都美 術品売立高値番付﹂において器物の部の大名物 ﹁ 国司茄子茶入﹂の 二〇万円、 大 名物﹁北野肩衝茶入﹂の一五九、 二 〇〇円、 中 興名物﹁岩 城文琳茶入﹂の一五八 、 〇〇〇円に次ぐものである 。ちなみに 、消費 者物価指数を用いて現在の価格に換算すると 、約一億九 、 四〇〇万円 となる 。一方 、ライバルの馬越恭平の入札価格は一二五 、 〇〇〇円で あり、わずか四、 〇〇〇円、三 ・ 一パーセントの僅差で根津嘉一郎が落 札するところとなった 。なお 、同時に根津嘉一郎は李廸筆 ﹁瓜虫図﹂ をも三八、 九 〇〇円で落札している。 ただ 、根津嘉一郎といえども 、常に 、これはと思う品物を落札で きたわけではない 。 事実 、先に紹介した ﹁信為万事本﹂でも買い損 なった、あるいは儲け損なった話が綴られている。例えば、大正六年 ︵一九一七︶五月の秋元春朝子爵家の入札会の時 、啓書記筆 ﹁瀟湘八 景帖﹂を一四万円で落札した道具商の川部利吉が根津嘉一郎の所へ持 ち込んで勧めた。しかし、根津嘉一郎は好みに合わないと断った。そ の後、川部利吉は大阪の相場師石井定七に持ち込み、根津嘉一郎は買 い損なったと述懐している ︵ 71︶。また 、光長筆 ﹁吉備大臣入唐絵巻﹂ が売り出された大正一二年︵一九二三︶六月の酒井忠克伯爵家入札会 でも儲け損なったとして、次のように述べている。 酒井家の売立で二百七十万円かに売れた物を前に益田 ︵ 孝齋藤︶
根津嘉一郎と﹃青山荘清賞﹄の世界 三七 から話があつて百十六万円か幾らで一遍に買はふぢやないかと言 はれた。そのうちで吉備大臣入唐の絵巻物一巻と北野の肩付と他 にもう一つ、三いろで五十万円で以て売れゝば宜しい買はふぢや ないかと云ふことで話して見た所が、何うしても五十万円には受 け取れぬ、これが五十万円にならぬやうでは百十六万円も出して 買つても駄目だと云ふのでとうとう買ひ損なつた。その時俺が宜 しいとなれば益田も買ふのだつたが、 ̶ それから札を開いて見る と吉備大臣入唐の絵巻や三点で六十何万円になつて居りそれは多 くは戸田︵弥七齋藤︶が買つた。これはとう〳〵買ひ損つてあ んな馬鹿を見たことはない。震災のあつた大正十二年の六月頃だ つたから十四年ばかり前のことだ。その時益田が言ふやうに買つ て置けば百万円位は儲けたかも知れなかつたが、あれはとう〳〵 儲け損つた ︵ 72︶。 ﹁信為万事本﹂の執筆は一五年後であるために 、一部 、根津嘉一郎 の記憶違いもあるが 、﹁もう一つ﹂とは二〇万円で落札された大名物 ﹁国司茄子茶入﹂であり 、大阪の藤田平太郎が入手している 。ちなみ に、引用文中にある﹁北野の肩付﹂とは大名物﹁北野肩衝茶入﹂であ り、安政年間に京都所司代であった酒井忠義が三井家から買い上げた 物を、今回の入札会で三井八郎右衛門が買い戻したかたちである。し かし、 ﹁吉備大臣入唐絵巻﹂はなかなか購入先がみつからず、昭和七年 ︵一九三二︶に大阪の山中商会を経てアメリカのボストン美術館の購 入が判明する。 この事件を切っ掛けとして美術品の海外流出を防ぐ ﹁ 重 要美術品等の保存に関する法律﹂が制定された。 また、 ﹃万象録﹄によれば、大正五年一一月に春海藤次郎の追善茶会 に出席した際に 、同行した道具商の川部利吉は ﹁赤絵呉洲金花鳥鉢﹂ を二万円で買うように進めた。根津嘉一郎が逡巡している間に他の客 が二三、 〇〇〇円で買い取り、一足後れで間に合わなかった ︵ 73︶。