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デューイの『論理学』における探究の理論

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デュ.一一イの\『論理学』におけ芯探究の理論

 づ 十小滓 照彦ト

(人文学部人文学科欧米文化コース)

The Theory

6f Inqui!'y in DEWEY's

ユ“Logic"

 レ   ノ   Teruhiko OZAWA      八 万功砂'ean-American St 「ies,Department of Hi四回仇6  :   Faculty of Human消印回d長旅叩庇s  −     \  目次     ‥序 (1)探究の理論:『論理学』の構造 (A)論理学の要請六大 犬    (B)論理学の形式 十   (C)論理学の検証 十 \ (2)デューイの哲学史的評価 (3)探究の理論の意義犬 序 『論理学』(直)は,ヶデュアイ80才頃め著作であるが,それはそ万れまでの「思考の方法し」/に関する見 解を「探求の理論ム」とし七集大成したものと見なされているy拙論は,純粋に『論理学』∇についで の議論を,即ち特殊な学問領域に限定された〈論理学>的問題を扱うものではないノまたそのよう な問題に限定された場合の,デューイの『論理学』の正当・不当を論ずるものTぐもない。また彼の 「探究の理論」を「真理」論の一形態として論じようとするものでもない(七言\そのような議論は, これから示されるデューイの意図から外れ芯だろテし,それほど有意義のこととも思われない。む (注1) 引用の指示は,デュヤイの『論理学』からのものは,括弧内の数字により文中で指示する。頁数は,

John Dewey, The Later Works, vol. 12, Logic: The Theory of Inquiry, Southern IllinoisUP, 1986による。ノ  (注2)『論理学』の中でデュ,-イは,自分の主張に関して「真理」という言葉を注意深く使用していないという ことは注目に値する。リレ,\アリストテレスが真理について語ったという形では,「真理」という言葉は使用さ れる。しかし彼は自分が「真理」について論じているとは言わない。あるいは自分の語っている理論が「真理」 の基準に係わるものであるとは言わないレデ工一イの解釈者はレデ丘−イが,「真理」の代わしりに「保証された 言明I」等々を使用していると解し,それを「真理」と等価と見なし,デューイが「真理」の基準を求めている かのように解する傾向がある。しかし彼が「真理」という言葉を使わなかったといレう点に注目すべきである。 そめことは,伝統的な意昧での「真理」という語の使用が彼の言明を無効にする恐れがあるということである。 むしろ彼は「真理レという言葉の使用を放棄することを考えていたとも思える。それゆえ彼が自分の理論を「真 理」論と言っていないことは,重要な論点を形成する。       l    コ

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 174      高知大学学術研究報告 第42巻(1993年)人文科学 ▽

しろデュゞイの『論理学』で提示された「探究の理論」・の構造を明らかにし,それが哲学史的にど

のように評価されているかを見るこどによって,なおそこから現代的意義を読み取ろうどする試み

である。近年ではクワインやロTティ等の仕事によって,プラグマティズムについての再考が促さ

れてきたが,哲学史においては,すでにプラグマティズムは過去のものとされている。その典型的

な例は,後にコプルストンによって見られるようレにご批判/的であゐ。 レ   ニ   犬

  犬     ニ    バ1)探究の理論\:『論理学』の構造(Jト    犬   ノ

(A)論理学の要請犬       十 ニ

 論理学の主題は「肯定一否定,包含一排除,特殊一普遍のような,命題相互の関係」(p. 9)にあ るが,デューイによれば,それらの概念が論理学の主題をなすこと自体が,実は問題なのである。 というのは,それらが純粋な論理学の形式であるのか,それとも主題そのものの形式であるのか√ 言わば「論理学の本性」に関する意見の衝突,論争があるからである6そのような衝突,論争は, 「根本的主題に関する不安定な意見の状態の反映である」(p. 9)と考えられ,それ自体が「問題的 状況」を形成する。従ってデ丘ゞイの『論理学』の主題は,先ず第一にそめような「問題的状況」 を解決することにあゐよ      \ しかしその主題が「論理学の本匠」に係わる限り,困難な問題が成立する。なぜなら論理学の形 式は,我々が問題を考え,その解決を求める思考の形式であるので,「論理学の本性」を筒題にす る場合,すでに問題としているその論理学の形式を使用しているからである。デューイは,そのよ うな問題的状況を確定的状況へともたらす思考過程を「探究」と呼ぶのであるが,ぞのような困難 な問題を解決する立場としで「全て論理学の形式は,探究の操作の内で生じ,探究が保証された言 明を与えるように探究の統制に関係している」(p. 11)という見解を提出する。そのような論理学 についてのデューイの見解は,他の見解同様「仮説」の地位に置かれる。その仮説は,まさにその 仮説が述べているように,「探究の過程」において検証されねばならない。づまり「探究」あるい は「思考」の形式としての「論理学の形式」は,まさに探究の過程において示されねばならない。 我々は自・らの思考形式を対象的に調べることはできないノ思考形式の考察は,思考した結果におい てもたらされるだろう。このようなデューイの発想にヘーゲルの影響を見ることは容易である。し かしその様相は大変異なるごとはこれからの説明で明らかになるだろう○/・  ■・ ・    ■   ■ ■。  「探究の過程」はそれ自体存在しているわけではない。「探究」は「疑い」における「不安」から 始まり,不安は「探究の過程において表現と出口を見いだす緊張」(p.lら)であって,ノその出口, 即ち探究の目的と七ての「安定したもの」で探究は終わる。そのような探究の目的として,・「信念」 「認識」という言葉が使用されてきた。それらに代わって探究の目的を表わす用語として,デュー イは丿『保証された言明可能性[warranted assertibility]』(pト15)を提案する。それが「可能性」と して表現されているのは,「特殊な探究口特殊な結論全てが,連続的に更新され,進行的関係であ る企ての部分懲あるという認識ト(pト17)を意味するためである。   ニ  し  論理学の探究においては,「保証された言明可能性」として探究の目的は千論理学の形式」であり, それは探究の結果において見いだされるということになる。「論理学の形式」トは「連続的探究の過  (・a;3)『論理学』の構造を示し,そ1の意図を明らかにする,探究の過程の分析と説明:は√それぞれの段階で得ら れる見解による従来の哲学的理論の批判と結びついている。しかしここではその点に触れずに,デューイの探 究の理論の構造を示すにとどめる。また簡潔を期するためにデューイによって挙げられる具体的事例の検討も 省く。      △     一。      ニ

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  尚       ニデューイの『論理学』における探究,の理論(小渾卜  ‥ ‥‥     i75 程で展開され,完成される探究の方法)(p.19)を表わしてい石。:そしてこのような論理形式と探 究の方法との関係に関する見解はレあくまでもト「二般的仮説」(p. 19)にすぎない。それ自体が探 究の過程で明らかにされねばならないのである。そのような『仮説ゴが,プ論理学』十の構造を規定 していゐ●(注4)。    < \        : ‥‥‥‥‥‥: ト 十      :  十 十しかし「論理学の形式」が問題になるということは,単にそれらについてめ議論があると/いケこ とだけから問題になるのではないレ論理学の形式への「要請レがあ:るからである。そのようなプ要 請」は当然論理学そのものというより√「探究」あるいは「思考」め企でから生ずる(ヤU「採究」 あるいに卜「思考」/は,我々が突然rT理性」とか「純粋直観」を持つごとによっ七生ずるわけではな い。jデューイは生物学的な存在としての我々の機能がエ探究」への道を準備し√予示七でいること を認める。それがデュこイの「自然主義」であるよ「論理学は自然主義的理論である丁(p. 26)。彼 は「T探究」が我々の生の過程として生ず名という自然主義的説明を与える。十 \    し ダ  我々のような「有機体」は「環境」の内に生きており,我ヶの生の過程は了環境」によって規定 されている。そして環境の変化は有機体の内的変化を引き起こし√有機体の変化は,それに対応し て環境を変化さ/せるというように,「刺激一反応[excitation-reaction]ト[stimulus-response卜という 名が適用されうる環境一有機休め[environinjぶ-organical]\相互作用のさまざまな様式」(p. 36)が「潜 在的に無限な連鎖」(p. 35)を形成する。このような環境と有機体のニ「相互作用」は,我々にあう ては,/我々の「習慣」を生み出す。そして習慣は「学習め基礎」であり,我々にあっては,「習慣 と学習jが「刺激≒反応」に代わって環境と有機体の「相互作用」:の様式となる。   ……  しかし人間にとっては,「環境」は自然的なだけでな=く,「文化的」であり√「探究を引き起こす 問題は,お互いに仲間である関係から生ずる」(p. 48)。むしろ人間は自然的条件に自然的に反応 することの方が稀であり,「自然的条件に反応する仕方」上も「力ヽな力の程度に√文化的環境によっ て影響され七いる」(p. 49)。そのような文化的環境の内で特に重要なのが丿言語」である。「言語」 はそれ自身「文化的制度」(p. 51)であり,「(1)それによって他の制度と獲得された習慣が伝えら れる媒介でありレ(2)他の全ての文化的活動の形式と内容に浸透しているレさちに(3)○言語は形 式として抽象をなすごとのできるそれ自身の特有の構造を持っている」(t)。51)。そのような「言語」 の特性はレ我々に自然的な刺激反応行動から,知的行動[思考]への変化をもたらす。  ト  さてrT言語」はぞれ自体「恣意的であり,規約的である」(p. 53)。七かしそれが丿コミュニケー ションの媒体」(p. 53)と七て働く場合,「その意味は共通である」(p. 53)。ごの「共通性」は,コ ミ4ニケーションをしている者の間の「同意」に基づくのであるが√この。「同意」は「行為におけ る同意の取り決め」(p. 52)である。このように同意と不同意が行為によって規定され,それによっ て言葉の意味が規定されるというしことは,言語が「行為の共同体」(p. 54)と本質的に結合セてい るということである。それによって,言語の意味は←そのような組織化された関連の中で規定され るということになる。「何かある言葉,あるいは文章は,それがただ関連した意味の集まりの成員 \としてのみ持つ意味を持うている」(p. 55)。従ってそれぞれの「言葉」‥は,「総括的規約[code]ノ の部分」(pレ55八こすぎない。このような「規約」は「恣意的」であり,上それぞれの集団の活動ど 集団の利害,慣習,制度によって,さまざまな「規約」が成立するだろう。そして工公的な規約は,\ 特定の文化的グループにおいて流通しているある言語で例証される。私的な規約は,加入していな かった人々には理解できないように,特殊なグループの成員にようて伺意された規約である」ユ(p. ゛4)そのような意味で「論理学LIは「探究の探究」であり,『反省的思考』(p. 28)とも呼ばれる。……= (注5)デューイは思考を探究と同義的に解する。「『思考』という言葉はどちらも,論理学において仝くいかな る仕事も持たないか,あるいはそうでなければそれは『探究』の同義語であり,その意味は,我々が探究につ いて見いだすことによって規定される」(p. 29)。  十     ダ       ∧

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176 高知大学学術研究報告 第42巻(1993年)士人文科学 55)というよ丁うに,「規約」が,公的と私的に大別〕されるならば,「常識」と「科学[学問]」の相違 が形成されるだろう。      つ ・。・・。・     。・・  。・  。。・。  文化的環境において反応の様式は「探究」あるいは几lt考」の様式へとこ変化する。しかしそれは 「常識」と「科学」という探究の様式として二種類に大別されるが,デュー子はそのような区別が 恣意的であること,即ち両者に「探究の共通め型」/が見いだされることを示すこ:とによ\り,づ「探究 の共通の型」の探究としての『論理学』ダ)「要請」を説明しようとする。‥ ‥‥‥ ‥‥  デゴーイは「人間が直接関わっている環境を常識的環境,尚あるいは『世界』こと命名し,そして, 行動においで必要とされる適応をなす場合に生ずる探究を常識的探究ノと命名する丁(p. 66)。それ は単に我々の最初の思考,即ち『生活の日常的出来事』(p. 69)と係わる探究をそう名づけたにす ぎない。そのような意味で「常識」\は我々の「慣習,職業,伝統」:の内に深く埋め込まれでおり, 我々の信念の形成につ卜て統制的に働いている。だが「常識」はそれ自体確固とした不変のもので はない。例えば「ある時代の仕事は,別の時代のスポーツと娯楽にな」る」(p.70)というごとく√ 「常識」は変化する。それに対して「科学的探究」は√「認識[knowledge]を目標とする探究」「p」 66)であり,「人間の環境に直接的に係わらない」(pト67)ものとして「常識」に対立させられる。 この対立は√過去においては「量的なもぺのと質的なものの対立の形式」(p. 71)を取うてきた。さ らにそれは「知覚素柿と概念構造のシステムの相違」(pレ71)として表現された。そして「科学的 主題の常識からの遊離と常識との対立」(p. 72)を先鋭化七,絶対化するならば,プ認識論と形而上 学の論争土の問題を生み出す」(pン72)だろう。七かし科学的主題が常識の主題と「発生的で,機 能的な関係」(p. 72)を持つと解するなちば,そのような問題は消滅する。   ……万  ノ ノ  このような「常識的探究」と「科学的探究」の対立は,デュー工が「論理学の形式」の「探究」 としての『論理学』の「要請」を説明するための「問題的状況」である。デューイは科学と常識の 関係を説明するために,『状況』によって指示ざれるものを説明する。「我々は決して対象や出来事

についての判断を孤立的に経験し,\形成せず,むしろ相互に関連し合った全体[a contextual whole] と関連してのみ経験し,形成する丿(p. 72)。それが『状況』‥である。相互に関連し合った対象と 出来事の全体としての状況は科学と常識にとって同じものであるノただ知覚的なものと概念的なも のは同士ものについての別の表現にすぎない。そのように考えるならばご常識と科学を別種のもの であるかのように考えることはできなくなる。むしろ「科学」は『生活の日常的出来事』から出発 するのであり,「抽象的で,専門的」(p. 76)となるごとで,常識の世界から離れていく/∇とはいえ, 「常識と科学」の鋭い区分線はない。従って両者の相違は,使用されている」「言語の相違」(p. 82) にすぎない。      コ      上  このようにデューイは「常識と科学」の「連続性」を述べるわけであるが√そのような言明は, なお「仮説」のままであるレそれは常識と科学の対立という問題的状況に対して,それを保証され た言明可能性へと変形させるために提示された「仮説」にすぎない。しかしその仮説において指示 されている常識と科学の「連辣性」の「要請」が,「探究の探究ム」,即ち丿統一された方法」(t)ト84) としての『論理学』の「要請」を必然的にするのである。デューイにとって,プ現代の論理学の状況」 (p. 86)は,すでに示したようにさまざまな論理学の理論が対立している状況である。その対立の 要因は常識と科学の分断である。そのような状況が,「常識と科学の間の双方向運動」を視野に入 れて「統一的論理学ト(p. 101)を要請する問題的状況を作り出七ているのであこるレ    ト

(B)論理学の形式    っ       レ  ノ < 犬      十十

さてデューイは「常識と科学」における探究の「共通の構造あるいは型」(p.

105)を「論理学の

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(小滞) 177 形式」として明らかにするための探究を始めるのであるが,しそれが求められる場は,∧F日常的経験」 である。なぜなら「探究」あるいは「思考」は特殊な懐疑によって起こるのではなく,日常的なこ とだからである。「探究は生の全ての領域にレそして各々の領域のあらゆる」面に大ってくる。毎日 め生活においで,六人ヤは吟味している;人々は事柄を知的に考察する丁(pよ106)。・デューイはこの ような日常的生活の出来事を「素材」(p. 107)と呼び丿そTのような素材が探究に対して持つ重要性 を指摘する。日常的生活の出来事への関係は√論理学の形式の主観性を排除七レまた経験的素材へ の還元を図る必要を取り除き,その探究の外にあるものに基礎を求める必要を除去するからである。  すでに我々は日常の生活においてさまざまな「考え方」と=言われる個別的探究方法を知っており, ある特殊な主題に対してどの「考え方」を取る方が良いか比較する。それがまさにデューイが探究 の方法を考察する出発点である。探究の型の探究の出発点は,「うまくいった探究とうまくいかな かった探究の認識にようて,即ち:以前指摘されたように,推論された結論,あるいは合理的な結論 を与えるほどに比較されることができる方法の認識によって確認され,統制斗れる」(p. 108几そ れが「探究の先行条件レとしての「不確定的状況」(p. 109)である。 つ   △     十\ 我々が「探究」あるいは「思考」に促される状態は,「動揺七ており,心配であ=り,曖昧であり, 混乱しており,矛盾する傾向に満ちており,不明瞭等々」(p/109)によって特徴づけられる。それ ゆえ我々がそのように特徴づけられる状態になるのは,そのような状態を生み出すて状況」による のである。「その状況が本来疑わしいゆ,えに,我々は疑っているのである」(pパ109)。それに対して, そのように状況に関係しない「個人的な疑念の状態は,病的である」(p.10ひ)。「不確定的状況」は, 従って我々が単に我々の個人的な心的状態をどうにかするごとによって解決されるようなものでは ない。 犬   〉      十      し  〕犬 ●。  しかし我々が「不確定的状況」十を前に,ただ混乱七,おろおろしている場合には,し「探究」は始 まらない。探究が起こるためには,不確定的状況が,探究を必要とするものであるにどを知らねば ならない√不確定的状況は,探究にさらされるまさしくその過程で問題的になる」(p. in)。デュー イはそのような状態にある「不確定的状況」を「問。題的状況」(p. Ill)と呼ぶ。それは探究におけ る「問題の設定」の段階であるよそして問題的状況が,『問題』として把握されるとき,すでに「探 究による問題的状況の確定的状況への部分的変形」(p. 112)が行なわれ七いる。うまく立てられた 問題は,すでにそれが解決の仕方を示唆していることは良く知られたことである。それゆえ「問題 の設定」における「問題的状況の確定的状況への部分的変形」は,探究において重要な段階となる。  この場合,「不確定的状況」を構成している要素の内,確定的状況への部分的変形にとって不確 定的なものと確定的なものを千観察」(p. 112)によヶて区別七,選択する必要がある。そのような 観察の結果予想され,示唆される解決は,「観念」(p. 113)と呼ばれる。観念は,それが不確定的 状況を確定的に変形する能力を持つかどうか,その「機能的適性」(pムn4)が吟味される必要があ る。「この吟味は,推論の形式j (p. 114)を取る。しかしそれが機能的適性を持っていたかどうか は「実際に機能する場合に」(p. 114)テストされ,確定されるノ  ニ    \ 六十   ニ  「推論」はこのように探究の過程の中心的位置において現われる。それは観念相互の関係におい て観念の意味一内容を展開する」過程であり,観念の意味は,それらの体系的脈絡において規定さ れる。lそしてそのような観念の意味を表わす諸観念の関係の表現が「命題」し(p. 115)と呼ばれる。 観察された「事実」から示唆される「観念」は,またそれが別の観察の操作を引き起こし,統制す るごとで,また新たな事実を明らかにする。「事実」<と「観念」はともに犬「操作的」(p. 116)であり, 「観念」は諸事実を一貫した全体へと組織していくた=めの,「提案と計画」ト(p. 116)である。「事実」 は「証拠として役立つ」(p. 117)という機能において「操作的」である。「事実は証拠となり,相 互に組織されることができる限り√観念のテストである」(p. 117)。従らて事実と観念臨不確定

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178 高知大学学術研究報告 第42巻(1993年)人文科学 的状況を確定的状況へと変形し,し組織していく連続的過程において相互に操作的に関連し合ってい る。       / ‥      土入   ・十  そして探究において最も重要な段階は,推論め結果である「判断とその機能の処理」(p. 121)で ある。なぜなら現実に不確定的状況蛮確定的状況へ変形させるのは,「判断」であり,その機能の 処理と七ての決断に基づく状況の変更の操作である。このような連続的過程が丿探究jあるいは「思 考」であり/常識的探究と科学的探究は,上述したような探究の「型の共通性」。(p. 118)を持って いる。   ∧      十         / ……  さて全ての「探究」あるいは「思考」は,「判断」に集約する。=なぜなら「判断」はF問題の設定」 の段階から,「観察」による確定的要素と不確定的要素の選択一排除の段階√そして「T保証された 言明」としての最終的判断に含まれているからである。要するに判断は「探究の表現」(p. 136)で ある。「判断における遅辞は,不確定的状況の主題の確定的状況への現実の変化を表わす」(p. 138)。 このような「探究の表現」と七ての「判断」の解釈は,伝統的な論理学において使用レされてきた諸 概念群を探究め道具と七て解釈しなおす道をデュ\一子に与えた。それによって探究の理論は,伝統 的論理学どは別の,現代の「思考の道具」となる。       ト    つ  <  このような「判断」の理解からすれば,最終的判断,即ち万保証された言明可能性」にいたる過 程に「推論的機能」が含まれているということになる。それにようて探究における「推論」の媒介 的,道具的役割が明らかになるよ「推論トは,不確定的状況の解決を目指す探究において,その解 決を目的とする重要な役割を持つ。しかし「(a)推論された解釈が,特殊な対象によってそれらの 特殊性において,テストされ,確証され,検証されるニ」てp. 159)のではない。むしろ反対に「一貫 した全体の内に特殊を秩序づけ,組織化することが,推論された観念の能力であるj (p. 160)。ま た=千(b)推論がそれだけで論理的機能を余すところなく表わしており,もっぱら全てめ論理形式 を規定している」わけではない。反対に,「証明は√テストの意味で。等しく重要な機能である」(p. 160)。さらに「推論」は,テス下された場合でも,「論理的に究極めものでも,完全なものでもない」 (p. 160)。なぜなら「推論」はなお他の問題的状況に繋がりよ生の全体を形成していくからである。 「推論」のこのような解釈によって判断における「媒介の必然性」(p. 161)が明らかにされた。し かしこの「媒介の必然性」は,それだけで完全に示されたわけではない。その「必然性」を明らか にする「判断レの別の面があるノ       \     \ 犬探究における最終的判断は問題的状況の変形という「実践的要因レ(p. 162)を必然的に含んでい る。それは,問題的状況を形成していた「先行の存在する素材を造り。直す行動と製作の活動」(p. 162)を含む。それゆえ最終的判断は,常識的探究においでも科学的探究においても,問題的状況の 変形の際に「何をなすべきか,それをなす場合にいかなる手段を使用するか」(p. 163)ということ の決定を含む。デューイは探究のこの段階を「熟慮丁(p. 164)と呼ぶ。それゆえ「熟慮」は探究に おいては,こ問題的状況の変形のための手段であ呪十それゆえよ道具的」であり,=「媒介的」(pン164) である。問題的状況とそれを変形する行為との関係に関するし「熟慮」は,いわば事実と行為の関係 について:に多くの推論,「二者択一的」な過程を形成するレ「真の熟慮が存在するときはいつでも, その仕方のほとんどどの段階においても二者択÷が存在する」(p. 165)。その二者択一の要因になっ ている推論は,「もし・ならば[if一雨en]命題」てp. 165)で定式化される。    ‥  このような熟慮における二者択一的な過程から,いずれかの命題に決定するため犬には,その「選 択」がなされなければならない6このような「熟慮」の過程に「選言的命題と仮言的命題の機能的 本性」(p. 172)がある。「問題的状況は,二者択一に分析することによって相対的に確定的にされ, その各々は,‥選言的命題で体系の成員として表わされる」バp. 172)こそ七で選言的命題の体系のそ れぞれの命題は「実践的判断」と結びつけられた「仮言的命題」からなる。それば『もしこれこれ

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デューイの 179 の過程が現存する状況の下で採用されるならば,トこれこれのものは蓋然的結果であるjだろう』とい うように一般化されるだろう。そして何れの選言を選択するかという「熟慮」の重要な機能しにおい で,「価値判断」(p. 176)が組み込まれる。    十 十   ∧   ト    ………: ……  問題的状況を変形させる行為の選択に関して,我々は過去の類似の事例,他人の経験等ヤかち「抽 象的に一般化された概念的命題」(p. 175)で表わされている\「原因一結果の結合」(p.し175)によしって, つまり状況と行為の結合について形成された「規則,原理,法則」によってレそのような選択ノを行 なう6しかしそれらの選択に際しては,それらの「評価あるいは見積り」(p. 175)がなされねばな らない。探究における「価値判断」は,探究全体,即ち脊まざまな探究の組織的全体の「完成」を 自覚させるものとして「美」「p」77)についでの判断として導入するだけでなく√個々の探究の「完 成」を自覚させ,また「完成ム」に向かわせる「目印」(う。178)と七て導入され本ノそ帽こよって判 断におけるその「媒介の必然性」が説明されたことになる。そして「価値判断レは「探究者」の満 足四表現であるので,「自分の探究がその結末に達したという経験的目坤」(p. 178)である。 今述べた熟慮における二者択うな過程,更にすでに述べられた問題の設定における確定的要素と 不確定的要素の選択一排除といった選択の過程に√論理学の形式としての「肯定一否定ト「p」83) め必然性がある。つまりデューイは「肯定と否定」/を,それらがエそれぞれ指示する選択と排除の 操作を通七て,最初の不確定的状況を「再」限定する手段である」(p. 183f丿と解する。混乱。七だ 不確定的状況にあって,我々は手探りし,それから逃れる手がかりを求め,調査する√しかし=さま ざまな条件が我々を失敗させる。そのような状況にあって,我々は=まず「不適切で,犬妨げとなる素 材を除去」(p. 186)しなければならない。このような過程が「否定」犬である。そしてまたある素材 を取り上げるノそのような過程が「肯定」である。このように「肯定と否定」は√探究における丿選 択と排除の操作」どして解釈される。このような見解に基づいて,デューイは「反対,小反対,大 小対当,ト矛盾として指示される肯定命題と否定命題の関係の特殊な形式丿(p. 191)の機能的解釈を 行なう。そのこ詳細は省くが,デュー子が主張していることは,「反対,・小反対巾大小対当,矛盾」 が機能的に解され石場合にのみ,「探究が最終的に保証された判断へ向かって進んでいく際の一定 の段階を特徴づけている」(p. 195)ものとして道具的意味を持つというこどである。 ∧   ……  またそのような「不確定的状況は不完全で,また冗長で」もある」(p. 204)レそれゆえそれはよ不 確定なのである。現実の探究において,我々がその領域をやみくもに歩き回ることは,探究とは言 えない。従っ七不必要なものが,肯定と否定によって選択一排除される必要があらだ。‥しかしそれ だけでは十分ではない。さらに探究領域が限定されねばならないよどれくらいの領域かを限定する ことなくしては,=探究は不完全である。その限定は,「比較」(p. 202)を必要とする。     十  しかしF質的なもの」と「量的なもめ」め比較は成立しない。それゆえ質的な比較と量的な比較 がなされる。だが両者を区別し,それによって形成される命題を独立に考えるならば,例えば,人々 は「科学者が全ての物質を数的用語へ還元するごとを,質的である価値を破壊するように思えると いうことで,非難する」(p.206)という事態や,それに対して「全ての主題が数的用語に還元さこれ なければならない」(p. 206)という主張が生ずる。しかしそのようjな事態は,数量化された命題を, 「媒介的で,道具的」と解するならば√避けられる。つまり質的比較で満足するか,量的比較會も とめゐかは探究の性質によって変わるにすぎない。。我々はクーラーをつけレ涼七くなったならば, 「部屋が涼しくなった」で満足するだろう。しかしその部屋の病人にとって「26度レ以下になるこ とは重要な問題であり,「今27度である」ということが重要なのである。‥‥‥‥‥‥」 ‥‥‥=  それゆえデューイは「量と質」が無関係であると考えない。常識的探究では,丿暖かい一冷たい」 の質的変化で問題の領域は限定されるレしかし科学的探究においては,問題の設定は,まず上「質の 連続的変化を,持続の数えられる単位と関連づけられた運動の数えられる外延レ方向,速度,加速

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高知大学学術研究報告 第42巻(1993年)人文科学

度に翻訳する=問題」(pL 213)であうた。そ七てその問題は,\「連続的な質的変化が,数えられるこ とができ=る不連続な同質の単位に区別された連続的な外延的広がりと機能的に対応させられること を許容する工夫によって」(p. 213)対処吝れた。即ち測定器具の発明に]よって対処された。このよ うに考えるならば,質と量の区別け,探究の程度の区別にすぎず,レむしろ「相関的」(p. 214)であ る。それゆえ質的対象は量的尺度にようて計られることができ=ノまた全く質的に異なるものの交換 も可能になるのである。このよう‥なことが可能なのも,「量的命題」の「操作的機能」(p. 215)に よるめであり,むしろある質的対象が測定できないというごとは,探究を引き起こす問題的状況な のである○・ ・ ●・ ●・ ・      /。 ・● 。・  \   ・ ●。 。    ・   / :  。・ ・ ・ 。  これまで言われてきたごとから明らかなよケに,「判断は先行の存在的に不確定な,あるいは未 解決の状況の確定的状況への変化である」(p. 220)。従うてごの「変化」どいうレ点て判断は「時間 的側面」(p. 220)を持っている。デュ←イはその段階を「物語[narration]」(p. 220)と呼ぶ。また 判断は√諸条件の「共在」に基づくので√「空欄的側面土(p. 220)も持つ。この側面をよデュヤイ は「記述[description]丁(p.220)と名づける。それによっで探究における判断の別の機能的操作が, 明らかにされる。    犬      し        /犬      十  十丿  十  レ

 「変化」は丿何かから\[ab quo]」と「何かへ[ad quernト(p. 221)によっで特徴づけられるので,

両端の「何か」についての言及を持たねばな斤ない。このような「限界レの指示な七には,「変化」 を明確に規定することはできない。また変化は,「から」一千へ」の「方向にようて特徴づけられる」 (p. 221)。それが「判断の時間的,歴史的な側面」(pト221)を特徴づけている。時間的尺度を設定仁 制限し,方向づけるということは,機能的に解されることにょって初めて意味を持つ。このような 判断の時間的側面の機能は,清材を「整理し,組織化することであり,一定の様式で関係づけるこ と」(p. 221)として,確定的状況を組織化する機能である。‥それ位また空間的側面にもあてはまる。 そして物語一記述としでの歴史的判断は,「歴史的道統」(p. 230)を組織する。このような物語¬ 記述としての「歴史的判断」(p. 240)は,デューイにとって探究の重要な要因であるノ探究が不確 定的状況から確定的状況への変化である\ならば,それは「歴史的探究」(pレ236)における機能によっ て行なわれるだろう。そのような意味でデズーイにとっては,歴史家も物理学者も仮説とデータの 関係においでは,それほど変わらないということになる。 土入    し     レ  ■■■■ こめような判断の組織化の機能凪単に特殊な探究の連続に係わるだけでなく,つ各々の探究を再 組織化する機能でもあり,諸々の判断の連続に及ぶ。「すべての探究は,それが保証された結論に 達する程度に先行の探究の結論,あるいは判断牽刊用する」(p. 245)。それが連続性に係わる特徴 的な「論理学の形式」を示している。奇異に思われるかも知れないが,デュー=イは,そのような探 究の連続性を「普遍性」と結びっける(注6)。それはニ「普遍の本性の問題」(p. 260)に対して,ト「探究 の理論」の立場から与えられる解答である。 十万      十  j  ト ト  さてデューイが「普遍的なものと連続性の原理の間」の結合」(p. 246)を仮定する根拠は次のよう な事実であ名。「単ニの出来事と対象」が「これこれのもの」(p. 246)として識別され,その個物 り「性質,程度あるいは範囲」を「なぞらえる」場合レあるいはその仰物が「める依存関係にある 他の何かあるものどの関係を指示する」(p. 246)場合,\『そのようゲな[Such]』が使用される6それ は「いづでも継続的な論理的効力」ゲ(p. 246)を指示している。またある個物について,『これは赤い』, 『これは錆七いる』『これは鉄の酸化物である』と言われる場合,他の類似の個物にづいて,「それ

らの述語はに記述的名辞どして形式的に一般化されて,にれこれの[such and such]』として表

(ffi6)デューイは,第16章についで「この章の主題は,探究の連続体としての\「普遍性」の間め関係である=」(p:

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デューイのコ論理学jにおける探究の理論・(小渫) 181 わされる」(p. 246)。 こ の ような連続性,特に「繰り返し[recu吋ence]による」=『共通の』ト要因へ の指示が,□「種の概念の説明」(t)。246)となるレ   I・ ・ ・。。。 ・。・:.I ・ 。 ………:………」  それでは一体何か繰り返されるのか。その問題は,普遍性の論理的機能をどこに求めゐかという\ ことであるノ繰り/返すのは下変化と活動」であり,「変化と活動の仕九方法,様式は,不変であ るか,一様である」▽(p. 249)。そしてこのように「個物を特徴づけるために使用脊れる操作の仕方 は,個物に潜在的\「可能的ト普遍性を与える」(p. 249)。犬「その操作は,それが不変であ・るので, 繰り返す」てp. 250)。/それゆ洸デューイによ九ばレ共通なもの,普遍的々ものは,\何かある性質で はなく,「操作の仕方」であるノ「『共通の[common]』はン性質ではなく,むしろ操作の様式を指 示する」(p.251)o      =   十       ・・。 。・・・。 ・・    ・。・。       ・。 このような普遍性の本性が「操作」であるこ:とが示されることによって√明白に区別さ/れないも のが区別されるようになる。先ずデューイは「普遍性の二つの型」=,即ち「類的[generic]」と「普 遍的万[universal]」てp. 253)を区別するノ前者は「種と種の意味でのクラスについての命題」(pン253) に,後者は種を記述する操作によって与えられる命題に使用される。そ七でそれぞれを表わすも○ として「クラス」と「ガデゴリT」(p. 253)が使用される。『全ての人は死を免れない』という命 題は「類的」命題の例であるよ「それは(種の意味での)人のクラスが√死を免れないもののクラ スの範囲に含まれるというごとを意味する」(p. 254)。それは現実的な意味を持っており,「『全て の人が死んだ,あるいは死ぬだろう』\ということを意味するしj (p. 254)。七小し「生の「T事実」と 死の「事実」の間の結合」は「論理的丁には偶然的であるよつまり『全での白鳥は白い』\と同じよ うに,例外が見いだされるならば√否定されるという可能性を含んでいる。もつともこれまで「死 ななかった人」の事例は見いたこされていないが,その事実は先の命題を必然的にす:る根拠ではない。  それに対して『もし何かあるものが人間であるならば,それは死を免れない』という命題は√ 「人間であることの特徴と死を免れないことの特徴の必然的相互関係を意味する。 そ めよう1な命題 は,死ぬ人も死ぬ生物のどちらも実際に存在するということを意味しないし,また要請しない。そ れは,たとえ人が存在しなくとも,抽象的性格の必然的関係を表わしているので,\いやしくも妥当 であるならば,妥当であるだろう」(p. 255)。それは形式的には「抽象的非存在的な普遍的命題」 (pプ256)の例である6       上     =  ●●●●●●● ●●●     ●●●尚  この区別が「普通名詞」と「抽象名詞」の区別に結びつけられる。「種についての命題は,普通 名詞にようて表現され,仮言的普遍的命題は,抽象名詞によって表現される丁(p. 256)というよトう にレ両者は区別される。例えば『色』は「普通名詞」トであるノ「赤,緑,青等々が色であると言わ れる場合,その指示は,明らかにより一般的な種に含まれた種に対してなされている」(p. 256)。 それに対して『雪は白く,ミルクは白く√リンネルは白い』と言う場合,我々は「これらのものが 白さ「である[are]」ということを言づているのではなく,それらのものが白さを「持っている[have]」 と言っているのである」(p. 257)。その場合,「白さ」は全く性質としてめ色を指示しない。それ は「色であること」の仕方,あるいは様式を,即ち「抽象的普遍」(p. 257)を指示しているのであ る6従って「白か」はて類的」でも「個別的」でもなくに「抽象的普遍」である。ご赤さ,青さ√白 さ」は,「色であること」の仕方であり,「赤い,青い,白い」のような(具体的な卜「色の種」「p」 258)では/ない。それゆえ「存在的指示を持っている種」についての一般的命題は,「類的」命題と 呼ばれ,〉それに対して抽象的な[jもし・ならば[if-then]」しという形式の一般的命題は,「普遍的」 命題と呼ばれる(p. 259)。      十 ・.       y  ・。。・。。   。・。。   ・。  一般的命題は,白探究め過程においては「仮説」を表わすノ全ての推論は,そのよ/うな「仮説」と しての一般的命題を目指している。そしてそのよ\うな¬一般的命題は「事例から事例への推論レにお ける「一般化する傾向」(p. 265)によってもたらされる。デューイは,ミルの「村の既婚婦人とそ

(10)

↑82 高知大学学術研究報告レ第4・2巻(1993年)人文科学 の隣人の子供」という有名な例証によってそれを示す。犬「既婚婦人は,一般化する傾向によって事 例から事例へ推論する。この治療が私の子供を治したので,そJれぱあなたの子供を治すだろう」(p. 265)。上あたりまえであるがレ「一般化する傾向」は「一般化[generalization]」の根拠ではない。 「二つの事例の吟味は,それらが類似しでいる=√あるいは同じ種であるとい/うこと」を「。両者の事 例の分析的比較,I即ち肯定命題と否定命題を相互に厳密に関係させる操作奇使うことによって同意 と意見の相違を確立する比較によって行なわれる」(p. 266)。この分析的比較は,ニ「しレ・なら:ば[if-then]」命題の「概念的装置の操作的使用」(p. 266)によづてもたらされる。そしてそれらが「選言 的体系の内容を形成」(p. 266)し,それらjの代わ㈲こ「一般的命題」が介入することによって,先 の推論が成立する。このような媒介を形成するめが「類的命題」と千普遍的命題」である。 ニ各々の事例の含む操作は,「もし・ならば[if-then]」命題という「普遍的命題」\で表わされる。 しかし二つの事例の「比較丿が成立するためには,「種の概念」上が形成されねばならない。種の概 念が形成されるのは,ある「特性」が取り上げられる\ことによるのであるが,そのためにある特性 が選択されるのは,\その特性が「推論を方向づけ,続制するために使用され」(p. 269),十まさに「指 示する機能を遂行し,証拠として役立づのに」(p. 269)適しているということによる(ダ)。そして その特性は,そのような一般化の推論において恒常的で類的な機能を共通に示す。そ七て「もし・ト ならば[・if-t恥n]」普遍的命題が,そのような類的命題の千選択的に区別され,関係づけられ(整< 理され)る際の操作」(p. 269)を表わす場合,それらの事例は「同じ種レとされ,その種を形成す るために要求された操作を表わす「もし・ならば[if-then]」命題が「一般化」される。  ノ  \  類的命題が種としての「クラス」を表わすのに対して,普遍的命題によって表わされる「操作の 可能的様式」は,「カテゴリニ」(p. 272)と呼ばれる。例えば『この対象は機械のカテゴリーに属 する』と言われる場合,それが機械という種の内に含まれるということ以上のことが言われている。 それは,そめ対象が「機械であることが定義される際の原理,あるいは原理の順序を例証している」 (pン272)ということである。つまり「カテゴ丿一丿は,「クラス」が種=を表わすのに対して,「種を丿 形成するための規定よ(p. 272)を表わし√それゆえ「定義トの機能をもつ。このように種を表わす 「類的命題」と種を定義し,種を形成する機能としての「普遍的命題丁は,探究において仮説を形 成する際の「一般化」の段階で,相互に支え合い,相互に関係している○    ・。・       \■  前述したことによってご判断」は不確定的状況を確定的な状況へ変形させる探究の「連続的過程」 (p. 283)であることが分析された。そしてその過程において肯定一否定命題,質的一量的命題,記 述一物語,「類的と普遍的という,二つの形式の一般的命題」(p. 283)に係わっていることが示さ れた。 ノ   ト 犬     ‥。 ●●● ●●●●      ●●●  ●●       ●1 万デューイは,論理的機能の点で「命題」と「判断」を区別する。「命題」\はプ最終的な保証され た確定あるいは判断に達するのに必要な論理的道具」(p. 283)であり,それゆえ「暫定的で,媒介 的で,道具的である」(p. 283)。そしてそれぞれの命題の基本的区分は丿判断におけるそれらの機 能的地位に基づく」(pレ288)。そのような区分ど機能にづいてはすでに判断の過程で説明された。 そのような命題の区分,および「名辞」についての説明は,ほとんど伝統的論理学の形式との比較 (a7)このような「一般化」の場合に通俗的に考えられ七いるめは,「一般的概念の形成」が「多くの事例に「共 通」である諸要素を抽出し,異なる事例を除去する比較の過程によって」(p. 268)なされるという見解である。 しかしそれはデューイに言わせれば「本末転倒」である。「共通の性質は,「すでに」類的性質である。例えば, 我々は馬を比較し,馬が共通に持っている性質の残り物を取り上げることによって「馬[horse]」の類的概念 を形成すると言われる。しかし一般化は,個物が馬であると判断される場合に,すでにもたら脊れていた」(p. 268)のである。    ∧上       犬

(11)

デューイのr論理学』における探究の理論ソ(小渾) 183 であり,すでに判断の逼程で説明されたごとであるめで詳述は省く(呻.    ‥‥‥  ‥‥ 前述したことで,「探究の共通め型」=としてのニ「論理学の形式レにういての叙述を終わる.その 目的は,「探究」あるいは几思考」の過程で,「論理学の形式」が機能的レ媒介的√道具的役割を持っ て,探究過程の連続性と可能性を形成するものとして説明1されるという二とであったレその目的は 果たされたと考える. \.・・.・・・..  ・.  ・.・ .・.   ・. .・・     .・... .・.・ (C)論理学の検証

 さまざまな論理学の理論の対立という問題的状況から出発して,ヂ探究の理論」はそれらの論理

学の理論の共通の観念が見いだされるという「仮説し」を,探究の「共通め型」として説肛してきた。

そして探究の「共通の型」ノが,さまニざまな領域の探究め内に見いだされることによ」づ七デューイ自

らの「探究の理論」のテストが行なわれる。   ‥‥‥  ‥‥‥‥‥   ‥  :    \

 デューイによれば,/従来の論理学の理論の多様性は,十「形式と質料の関係」(pレ36り):に関する見

解の相違によって生ずる。例えば「形式と質料の間にはいかなる関係も存在しない」と主張する「形

式主義的理論」(p.369),\その中でからに「形式が形而上学的可能性の領域を構成すると主張する」

理論,「形式が文中の言葉の統語論的関係であると主張する」理論などがあ\り,犬それに対して「形

式が質料の諸形式であると主張する」(p.

369)理論がある。これらの理論が存在することは√不確

定的状況であり√もしそれが確定的状況へ変化させることができるなら揉,即ち二「探究における主

題がぞの目的によって規定された諸条件に従属するごとによって,即ち保証された結論の設立に

よって,論理学の形式が主題に対して生ずるということ」(p.

370)がそれらの理論に共通する観念

であるといケことが示されるならば,それは彼自身の理論の正当性めテス下である/

 例えば,「形式主義的論理学」が全く論理学の形式のみを問題にしているなら凪その場合,\な

ぜそれを問題にするのか目的が分らないが,先の質料との関係は問題にならないだろう。しかし現

実には「形式主義的論理学」は,科学的方法を基礎づけようと意図:しており,ま六「応用倫理学」

という部門を持つことによって質料との関係を考慮しているのである。従って「形式主義的論理学」

がそのような関係を明確に扱えないということを示すならば,それは間接的にデューイの「探究め

理論」の正当性を示すことになるよ「も七形式主義的論理学が科学的方法の特徴を扱うこどができ

ないならば,この著書で取られる立場の強い,間接的であるけれとタ,……碓

そして「形式主義的論理学」の失敗はま馴ここの「適用のに条件という根本的問題」(p.

373)にある。

デュヴイによれば,「適用[application]」の問題は,すでに述べられた丁類的命題ど普遍的命題ト

(p. 375)の混同に起因するレ       し  。・・。・。  。。 。・   ・。

 『かつて生きていた,今生きている,ごれからも生きている各々め全ての人は,死んでいる,あ

るいは死ぬだろう』という観察と記録に基づく命題から『全ての人は死を免れないJという「類的

命題」が形成される。それは「拡張/[extension]の意味での,一般化」(pレ377)による。七かしそ

の命題は,し『全ての白鳥は白い』という命題と同じようにいつでも破棄される可能性を含んでいる。

そしてその可能性を最小限にし,かの命題を「定義丿にもたらすのは/「必然的相互関係」を示す生物

学的,生理学的研究」(p.

377)である。    十十     \ レ

ニ しかし『背ての人は死を免れない』という命題が,「ある特定の人」(pン377)を指示七ていない

 胆8)具体的には,第三部の大部分。そこでの「命題」と「名辞」の」議論は,伝統的論理学のそれらの論述に 対する「探究の理論」における「機能的」解釈を与え:る。 特に第16章√第17章で展開されでい」る集合[Sets] と系列[Series],およびそれらに「秩序[順序:order]」を与える「論理学の形式」の解釈は,デューイの探 究の理論を特徴づける重要な問題であるが,別の機会に検討=したい。     犬  ト ‥‥‥‥  ‥‥‥

(12)

184

高知大学学術研究報告 第42巻(1993年)人文科学

ということから,「何ら特定のもの」(p. 377)を指示しないという意味で抽象化されると,その命 題は,『もし人間ならば,死を免れないト(p. 377)という非存在的命題に転換されゐレそれは『も しYならばXである』という普遍的命題になる。才しかし「あ乙特定の人丁を指示しないということ からり何ら特定のもの」を指示しないというごとへ進むこノとは,「不可能な道」(p. 378)を歩くこ とである。ここに「形式主義的論理学」の混同があるしその混同は,づ1)「論理学の形式が√事実 的であれ概念的であれ,内容に係わりがないというj意味で,形式的であり」,レしかもニ(2):自然科学 が論理学と何らかの関係を持つと考え,「素材への適用が可能である」イp. 378) t主張することが ら生ずる。それは単に混同というより,ほとんど矛盾である。つまり一切の内容どの関係を否定し て,なお内容への関係(適用)を求めることは論理的に不可能であるからであるく。    \ ニまた「形式主義的論理学」が「科学的方法の基礎づけ」……を意図七ているという点から;両者を比 較すると√科学的方法における「普遍的命題」/は「仮説」(p. 379)であり,「実験的観察の規則と 方法」づp. 379)を表現するこどによって,その操作の実行が「適用」イp. 379)を意味するのに対し, 「形式主義的論理学」においては,「普遍的命題」はそのような意味での丿適用」を持だない。・ I・ しここではデューイの他の論理学の理論への言及は扱わない。ただ次の結論に当たる部分だけを述 べるにとどめる。要するに論理学を自然科学や他の諸科学から孤立的に扱い,そして両者の関係(適 用)を考えようとする見解は失敗するということであるレそれは『論理学と科学的方法』\とヤう句 に見られるような『と』\が二つの名辞の間の「外的関係」(p. 388)を意味するように解される場合 には,妥当な意味を持たないということである。それは論理学の形式に関して,あるいは探究の型 に関して内的関係においで理解する立場を正当化する。デューイの「探究の理論」め立場からすれ ば,論理学は自然科学,数学,その他全ての探究における「探究の共通の型」\を表わしているとい うことである(注9)。      つ      /  j し      上  それはまた「探究の理論」のテストは,それが「数学的概念との関係」(p.391)嗜論理的に説明 できるかどうかによって行なわれるということを意味する。それは数学が一方で「存在的指示」か ら全く解放された形式的性格を持ちにしかも他方「無限に広範な存在的指示の可能性」1 (p. 391)を 持づていることを√探究の理論が説明できることによらて示されるだろう。 ト    十   ニ  まず第一の点,即ち「存在的指示から解放」(p. 393)されてお爪それゆえて完全に抽象的で形 式的である」(p. 393)ということについて,歴史的に見るならば,そうは言えない。例えば「数」 は,初めは「存在的指示」トを持ちこむしろ現実的状況に対応するための手段であった。しかし無理 数,負数,虚数等々め出現によって次第に「存在的指示」から解放されていヶだ。このことは数学 が「変形トされてきたことを示している。そしてこのような「変形の操作」ぱ√数学に内在的であ り,そのような「存在的指示ム」からの解放をもた方したと解される。即ちプ含まれている変形の操 作は,それだけで抽象されることができる;抽象され,記号化される場合,それらの操作は,その 内で変形が抽象的な変形可能性[transformability卜になるような,素材の新しい秩序を与える。 この新しい主題の次元で起こる変形の統制は,捨象的な変形可能性の条件の満足を指示することに よってめみ遂行される」(p. 396)。そして数学が全く形式的で,「操作的一機能的」で’あるという ことはレこのような「可能性」の領域にあるということであり,そのことが,「形式的JJであるに (?it9)この観点は,「哲学」のセルフ・イメージに関して有益な示唆を示してい乱哲学がもしそのような「方 法論」であるならば(今日哲学の他の贈めような在り方があるか知らないが),デュ+イの『論理学』はまきに 彼の「哲学」であるということである。そして哲学は他の学問と共にある,こあるいは内在していこる・ということ である。哲学と科学,哲学と芸術,哲学と文化等々という場合√両者の関係が外的であるならば,哲学はもは や存立基盤を持だない。      ◇    \  ト ニ

(13)

デューイの『論理学』におけ の理論(小滞) 185

も係わらず,数学の「無限に広範な存在的指示の可能性」を示しているのである。具体的には,ユー

クリッドの幾何学が,「存在的指示」に縛られたために,幾何学の物理学への適用は非常に制限さ

れたのに対し,「存在的指示」からの解放は,「リーマン幾何学とロバチェフスキこ幾何学」をもた

らし,「物理学の一般相対性理論の発展のための道具を与えた」(p.

412)ということである。しか

しその「存在的指示」は,直接的ではなく,間接的に,例えば「計算」におけるように,「存在的デー

タの解釈と整理が促進されるような計算[calculation]の指示の道具」(p.

413)として,実験的結

果の「整理[ordering]」(p. 414)を促進するように機能的,道具的に使用される。このように形式

的であり,なお広範な適用が可能であるという数学の二重の特性は,「探究の理論」による「変形」

と「可能性」の観点で説明することができる。

 次に「探究の理論」は,そのテストのために,「科学的方法」との内的連関を示すことが要求さ

れる。「科学的方法」は種の記述と対象の相互関係を表わす法則に係わっている。即ち「類的と普

遍的の二つの形式の一般化」(p.

415)を表わす命題に係わっているレ従来,このような「一般化」

がなされる方法が,『帰納』,「すでに存在する一般化が使用される際の方法」は,『演律』(p.

415)

と呼ばれてきた。それゆえ「探究の理論」が「科学的方法」を説明するならば,それは,「帰納と

演律の本性およびそれら相互の関係に関する一貫した理論」(p.

415)を与え,しかもその理論が「現

実の科学的実践において起こること」(p.

415)と一致していることを示すことができなければなら

ない。アリストテレスの帰納と演律め区別は,その「宇宙論的前提」の下では十分意義があった。。

しかしそれはもはや今日の「科学的方法」を説明しない。

 デューイの解釈では,「(1)帰納的段階は,先立って現存する条件が,提案された解決の様相を

指示しテストするデータが得られるように変更される際の実験的操作の複合体から成る。(2)示唆

されご指示されたどのような解決の様相も,可能性として表現されなければならない。そのような

表現が,仮説をなす。結果として生じる「もし・ならば[if-then]」命題は,関係づけられた内容が,

新しいデータを与える実験的観察を指示する特殊な「もし・ならば[if-then]」命題を形成して獲

得されるまで,同様の形式の(あるいは議論における)他の命題との秩序ある関係において展開さ

れなければならない6そのような仮説の妥当性のための基準は√それらのデータが統合された意義

の全体を設定するように,それらの仮説が産出する新しいデータを(問題を記述する)以前のデー

タと結合することができるということである。(3)これら二つの探究の段階の相互関係あるいは機

能的対応の本性は,直接的に生ずる。データを表現している命題は,探究の諸条件を満たすために,

可能な解決を示す形式で問題を確定するようなものでなければならない。他方,後者が表現されて

いる仮説は,操作的に以前に獲得されたデータを充足し,整理する新しいデータを与えるようなも

のでなければならない。データについての一連の存在的命題と関係づけられた概念についての非存

在的な命題の間には継続的な往復運動が存在する」(p.

423)ということである。

 探究の帰納的段階,即ち仮説の設定と演鐸的段階,即ちテストは相互に関連し,組織化されてい

く。それは今日「仮説演律法」として知られているものである。論理的に見れば演律的段階と呼ば

れる「検証」の過程は,科学的に見れば,「実験」であり,これは社会的合意を獲得する過程でも

ある。それゆえ探究の理論においていは,いわゆる「理論と実践」の区別は根拠がなく,無意味に

なる。なぜなら「自然科学における実験の操作と技術とはっきり実践的な目的のために使用される

同じ操作と技術との間に論理的な線を引くことができる全くいかなる根拠もないからであるJ

(p.

434)。そしてそのように科学の方法として内約に不可欠な「実験」の排序は,「科学の論理的自殺」

(p. 434)であるだろう。

 そのように仮説と実験の「相互作用」が科学的方法の中心的位置を占めることによって,従来そ

のような中心的位置を与えられてきた「因果性」(p.

444)のカテゴリーのついての再考が促される。

(14)

186 高知大学学術研究報告 第42巻(1993年)人文科学

一般に「連続よる因果性の定義」が行なわれてきたが,出来事が連続していること,あるいは変化

の連続は,原因一結果の関係を規定するものではない。現実の変化,あるいは出来事は包括的な「空

間的一時間的[spatial-temporal]連続」(p.444)を形成している「確証できる相互作用の複合体」(p.

452)である。そのような「複合体」において,ある結果に対していかなる出来事が原因であるか確

定することは,それ自体問題である。なぜなら「いかなる出来事も我々にとって『原因[cause]』

あるいは『結果[effect]』というラペルを貼られて現われない」(p.

453)からである。それゆえあ

るものは特に原因として,またあるものは結果として「解釈」(p.

453)されねばならない。そして

そのような「解釈」は,それを求める「問題」(p.

454)があるということである。それゆえ「因果

性」は,「相互作用」によって形成されている「複合体」において特定の相互作用を原因と結果と「解

釈」をすることによって問題的状況を確定的状況に変形する操作的機能であり,探究に必要な「論

理的」(p. 454)カテゴリーとなる。      二

 次にデューイは,「探究の理論」が,科学の現実を説明できるということによるテストを行なう。

まず「実験」(p. 458)は,仮説を保証する「「データ[data]」を設定」(p. 458)する。しかしデータ

がそのようなデータであるためには,それが与えられる条件が操作的に変形されねばならない。そ

して「法則」は,「素材が区別され,整理される際の操作を設定する」(p.

459)。そして実験は解

決すべき問題のために不適切であるような全ての素材を排除しようとする。要するに実験は「問題

的状況を解決された状況へ変形する」ということである。その際,すでに「探究の理論」で示され

た論理学の形式,「否定一肯定,排除一包摂,区分一同一視」(p.

459)の機能が使用される。

 また科学的主題は,その歴史からも明らかなように,「訂正」(p.

463)を受けてきたし,現在も「訂

正」されている。「探究の連続性」(p.

464)のみが科学的主題の「訂正」を説明できる。科学的方

法はデータとの関係で連続体を形成する。その際,データの蓄積は方法が与える結論を確定するだ

けでなく,また方法そのものを変えていく。この過程は「長期的[long

run]」(p.

465)なものであ

り,その内に「蓋然性」(p. 465)を含んでいる。「実験的操作」を指導している概念は,必然的であっ

ても「指導的な原理と理想[directive

principlesand ideals]」(p.465)に過ぎない。従って探究は

いかなる段階であろうと常に「蓋然性」を含んでいる。しかしそれぞれのデータ,命題,法則,理

論の「蓋然性」は,それらのデータ,命題,法則,理論が相互に他のデータ,命題,法則,理論と

関連し合い,「可能な限り,閉じた体系に近づくようになる」(p.

472)ならば,少なくなり,正確

さは増すようになる。そして「探究の理論」が示す「蓋然性」は,それが現実の科学の命題,法則

が訂正され,変更されてきたという「単一のもの[個物],集合,種についての科学的命題の蓋然

的性格」(p. 473)を説明しているということによって,支持される。

 このようなテストで明らかになるのは,科学的探究の方法も主題も,もはやそれから独立に存在

するような論理学を必要としないということである。それに対して「探究の理論」は,それが科学

的探究と一致しており,それに相関的であるごとを示している。それゆえもはや探究の外から探究

を規制するような規則は存在しない。もしあるとしたら,それは「唯一の『規則』は,自分の能力

の及ぶ限り,知的で[分りやすく]誠実であるということである」(p.

480)。しかしそれはもはや

科学的探究の方法でも主題でもない。それはただ探究に係わる者の主観的原理である。

 デューイは,「探究の理論」のテストとして,「社会的探究」(p.

481)と「哲学体系」(p.ら06)を

取り上げる(注1o)。「社会的探究」が科学的探究と比べて進歩が遅いというプ後進性」(p.

481)が,

それがまだ「探究の理論」の示した論理学の形式によって十分に展開されていないということを示

 (ttio)第24章と第25章。デューイの「探究の理論」の検証過程は,それ自体が,社会的探究についての仮説的 言明,哲学についての批判的言明を形成する。その詳細に触れることは,本論から外れるので割愛した。

参照

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