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山田直之著『芦田恵之助の教育思想―とらわれからの解放をめざして』

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Academic year: 2021

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Ⅳ 書 評

山田直之著『 田恵之助の教育思想―とらわれからの解放をめざして』

(2020年8月7日 春風社 A5版 318頁)

村 井  万 里 子 1 .はじめに―「書評」記述に至るまで 著者山田直之氏のお名前は「国語科教育」87集研 究論文「国語科作文教育における訓育的教授の探求 ― 田恵之助の綴方教育を手がかりに―」で初めて 知った。これを読むために、『教育思想事典−増補 改訂版2017』を手元に購入した。 今回の書評対象は2018年3月広島大学に受理され た博士論文の内容を基とする著書である。10月末 に書評執筆依頼を受け11月7日から取りかかった読 みの過程は個人的によい勉強になった。一度目の通 読にひと月かかり、次の20日間は関係書の拾い読 み、2回目通読は「書写」をしながら2週間余、よう やく「書く」に至った。 田恵之助のまとまった研究 は2004年桑原哲明氏の著書以来であり、永年 田 に学んで歩んできた私には嬉しい。本書は伝統的教 育学(ドイツ・欧州)の流れに棹さす研究である。 2 .本書の構成 本書の構成は以下の通りである。(節以下は省略) 序章 問題設定 第1章 随意選題をめぐる諸解釈 第2章 随意選題思想の形成 第3章 「人文一致主義」を基底とする随意選題 第4章 書記行為による〈主体〉形成の機制 第5章 随意選題による「修養」 第6章 「同志同行」の問題 第7章 古典か批判か 終章 作文・綴方教育の展望 資料・簡易年表・文献・論文初出・索引 3 .「教育学の終焉」からの転回(序章) 昨今、数値の実証性や科学用語の概念が不可欠と なっている教育実践学の一学徒から見て、本書は潔 いまでに数値や海外由来の専門用語(概念)が少な い。学会誌所載論文では中核概念の「訓育・陶冶」も 稀少である。しかし「序章 問題設定」「第二節 研 究方法の検討」は異なる。著者山田直之氏が2017年 に留学したドイツ・オスナブリュック大学で指導を 受けたハンス・リューディガー・ミュラー教授、 ミュラー教授が学統をつなぐドイツ教育学の大家モ レンハウアー(ゲッティンゲン大学・1928‒1998)の 思想が「問題設定」の基礎に据えられている。ボル ノー以降ドイツ教育学のフォロー不十分だった私は 紹介されているモレンハウアー後期の主著2冊の邦 訳を急いで入手した。モレンハウアー前期の主著 『教育課程の理論(Theorien zum Erziehungsprozess)』

1972(未見)は、推測するに、「伝統的な哲学的教育 学が担ってきた教育や子ども期や教育学」の終焉を 予言し、現代的「社会学」化を主張したものらしい。 その動きを主導した学者たちの一人が彼であり、 「当時かなりのセンセーションを引き起こした」。と ころがその考えを保持したまま、その「改革」からこ ぼれ落ちる「体験の記述と解釈」に基づく教育学の重 要性を強調し始めたのが『忘れられた連関(Vergessene Zuzammemhӓnge)』1983(邦訳1987)であり,『回り道 (Umwege)』1986(邦訳2012)だという。 この2冊は、教育学研究の基礎が「科学的社会学 概念の適用」よりも前に「人間の歴史的・個人的・伝 記的事実」の「解釈」にあることを再確認している。 本書『 田恵之助の教育思想』は、上記の80年代以 降のモレンハウアーの主張を踏まえて最先端の「教 育思想」を未来に向けて築こうとしている研究である。 4 .随意選題論争から岡田虎次郎への師事まで 本書第1章から第2章にかけては、これまでの教 育史・国語(科)教育史の先行研究を整理して 田の 随意選題がどのように解釈されてきたか明かにして いる。本書は学校の教育実践(国語科教育)ではなく 教育思想としての捉え直しをねらい、中内敏夫をそ の最初の研究者として位置づけている。 田恵之助 全集の全体に広く目配りしつつも、特に『綴り方 十二ヶ月』『綴り方教授に関する教師の修養』などに 重点が置かれ、『綴り方十二ヶ月』同時期(大正6 ∼ 10)の実践記録『尋常小學綴方教授書巻一∼四』は考 察対象外である。この扱いは「なるほど」と思うと同 時に、教育の中核でもあるはずの「学校の教育」がこ

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― 31 ― こからはずされることの意味を考えさせられた。 5 .戦時下「恵雨会」活動と「生活綴方」 田の思想に共鳴して集まった「同志」たちが、 「戦時中の思想統制の手先」の役割を担ってしまい 「生活綴方」を抑圧した事実はかねて聞いていたが、 考える機会を逸していた。本書はこれを正面から取 りあげている。恵雨会「同志」がこうなった原因とし て中内敏夫が説いた、「かた」と「こころ」への分裂が 「形式化」と「神がかり化」の悪循環を生み、この循環 を断ち切る決め手となるはずの「理論」の世界を建設 できなかったからだ、という説を取りあげ、著者は 自らの関心の焦点である 田が拠り所とした禅の 「とらわれのなさ」が現実には具体化されず、 田の 「文話」の中に理想的に描かれているのみで、しかも その場面はすでに「綴り方」を離れている、と論じて いる(第6章)。 ここを読みつつ想起したのは、西尾実が戦前戦中 に道元「正法眼蔵」読みに没頭したことである。禅は 戦乱等の異常社会を生き抜き、あるいは社会的抑圧 や関係の病「いじめ」をやり過ごす方途かもしれな い。禅は「超越」による「現実からの遊離と感性の遮 断」をもたらす(p. 148)とされる。しかし、禅が瞬く 間に偽物の野狐禅に転落しやすいことも知られている。 田は「同志」が非「同志」に対して排他的になるこ とを厳しく戒めたが、同志による「生活綴方」教師へ の抑圧は防げなかった。強固な思想をもつ「組織・ 集団」が周りと軋轢を起こさず活動することは可能 なのか、考えさせられる。ここは考えるべきことが いくらも出てきそうな箇所である。 6 .“「人文一致」主義”(三章)への違和感 著者は、 田が「文は人格の反映である」と強調し た言葉を捉えて「人文一致主義は、児童の自発性を 引き出すことを主眼とする作文・綴り方教育の前提 となる考え方である」とする一方、人文一致主義の 成立は「言語論的に」怪しい要素がある(第三章第一 節p. 103)としている。筆跡や文体が人格を表すと いう「人文一致」が科学的に成立しがたいことは「な りすまし」が可能なことからも首肯される。本書で は、なぜ「人文一致主義」が綴り方作文教育界に流布 定着したかの理由について、①新教育思想の流行、 ②洋紙鉛筆の普及などの物的環境、③書きことばの 口語化、の3つを挙げている。3要素の考察は興味 深いが、( 田の)作文綴方教育が「人文一致」の「主 義」を基礎にしている、という出発点には同意でき ない。 田は作文から「想」を読み取っているので あって「人格」ではない。まして「主義」などはなく、 人が綴った文・文章からある明確な「想」を読み取っ ているだけのことである。三章三節二項に、野地・ 垣内・光栄にも拙論の題目(誤記有)が引かれ、 田 の優れた能力を可視化・一般化しようとした研究と してまとめられている。著者は随意選題の拡大を 「 田の優れた資質・能力に還元したのでは」「随意 選題が大きな衝撃を与えた時代的・社会的な必然性 を説明することはできない」と述べている。 著者の主張に同意した上で付け加えたいことは、 「子どもの作文を読むのは難しい」という感覚が一般 には弱い(ほとんどない)ということである。子ども の作文から「想を読み取る」ことを「修練を必要とす る難事だ」と思わないからこそ「随意選題」は瞬く間 に全国に広がり、 田をして「随意選題は堕落した」 と嘆かせることになった。しかし私の見る所、 田 自身も自らの「想を読む能力の高さ」について自覚は 弱い。天才は凡才・非才に同情が薄いという。拙論 は、凡才・非才でも訓練によって想を読む能力を鍛 えうるということを目指す実践研究の第一歩であった。 7 .「文話」による統制(四章) 第四章のテーマは「書記行為による〈主体〉形成の 機制」である。著者には「随意選題で綴り方教授が成 立するのは困難だ(自由と統制の二項図式)」という 前提があり、その二項図式を調停する鍵は、『綴方 十二ヶ月』各月の最後に置かれている「文話」にある と推測されたようである。 確かに文話は面白く影響力も大きい。しかし「文 話」を聞いて主体性や発動性が生じるほど「綴るこ と」は甘くない。『綴方十二ヶ月』と同時期,大正6 ∼ 10年に、本書考察対象から除かれている実践記 録『尋常小學綴方教授書』全4冊を見ると、実践は 「随意選題」と「課題」が並行し、「課題」に添える「副 題」としての「随意選題」がたいへん多く、まとめや 息抜きとして「文話」や話し合い活動が行われている。 明治期末の 田論文に、「綴方教授成功の決め手 は例文(当時の呼称は「範文」)にある」と発見した、と いうものがある。同論文では「思い出すこと」を「課 題」し、例文は 田自身の少年時代の思い出を綴っ た。この例文は「刺激」にはなっても内容は模倣でき ない。さらに大正期に入ると、最上の「例文(範文)」 は子どもの綴り方(作文)だ、と 田は主張し始める。 但し「訓育的な方向づけや思想領域の限定」が「文

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― 32 ― 話」に存在し(p. 143)、「文話」が「抵抗の余地が少な い」「より強固な統制」(p. 143)をもたらした、という 著者の見方は、なるほど、うがった見方である。 8 .文話を聞く者を「ホカーッ」とさせる力 「ホカーッとさせる」は、 田の「文話」を聞いた者 の受ける「感じ」を揶揄して「生活綴り方」教師ら(為 藤十郎,野村芳兵衛、今井誉次郎、小砂丘忠義)に よる座談中の表現として引用されている言葉である。 そこでは「( 田は)禅味のある話をして聞く者を、 ホカァーッとさせた」と繰り返されている。(p. 143) 著者山田氏は、「 田が有していた、話を聞く者を 「ホカーッ」とさせるような教師としての力は、教育 的な関係を支える不可避的な条件であった。少なく とも(中略) 田の「修養」概念には、教師の資質とし て子どもを感化する能力が想定されているからである。 この教師の力は、学習者を方向づける「近代教育」の 弊害として批判されるべきものなのか、あるいは教 育という営みに不可避的に伴う、正当化されるべき 方向づけであるのか。」と述べている。(pp. 148‒149) 「ホカーッとさせる」は話し手・聞き手に思わず同 意が成立することの一表現であろう。著者山田氏は 「正当化されるべきか」と疑問を呈するが、教師には 憧れの「修行の焦点」である。感化力は陶冶的な教育 機能そのものであろう。それは意図的計画的な機能 ではないが、意図的計画的な教育成果の余沢として 生じる。「禅味のある極めて抽象的な話」(野村芳兵 衛)とあるが、「抽象」が歓喜を伴うことはまれであ り、快感を伴う抽象の飛躍は、学習の魅力の中核で ある。禅味の特徴は、抽象と具体の一体化、直観的 象徴性にありそうだが、ねらって出せるものではな さそうである。 9 .著者の夢―「とらわれからの解放」(終章) 全体を読み通してきてたどり着く次の一節(終章 pp. 263‒264)は、著者の目指すものが最もストレー トに表現されている箇所である。 「 田は、一方でことばによる主体形成という教育 実践を展開しつつ、他方で禅の「不立文字」の思想を 教育に採り込むという矛盾を抱えていた。この矛盾 は、次の 田の教育観から生じたものに他ならない。 すなわち教育とは、その実践行為に際して不可避的 に生じる、「特定のものの見方を習得させる」という 規定にとどまらず、「特定のものの見方からの解放」 の技法までを教えるという営みである、という教育 観である。前者が彼の西洋的近代性に、後者がかれ の東洋的前近代性に対応するかたちで、随意選題と いう教育思想・方法のなかに統一的に込められてい た。随意選題は、自らのうちにある伝統と戦いつ つ、それを批判的に継承しようとする動的かつ自己 改革的な教育思想だったと言えよう。」(pp. 263‒264) ここに記した私の1回目の書き込みは「すばらし い、そのとおり」である。2回目は「かっこいい!」 と思わず書いた。書いてしまって、はっと思い出し て表紙カバーを見ると、右側に小さな字で印刷され ているのがこの一節であった。私の感性も、まんざ ら捨てたものではないな、と思う。ここは、全面的 に同意する結論である。一方表紙左の小印字は下記 の文である。 「現今の作文教育の趨勢が、論理的な文章を書く 力を育成することに主眼をおくものになっていると しても、生活綴方という巨大な遺産を引き継ぐこと なしに今日の作文・綴り方教育実践を構想すること はできない。それゆえ、生活綴方の「源流」と言われ た 田恵之助の教育思想を統一的に理解すること は、基礎的かつ重要な課題と思われる。われわれが 学ぶべきことは、 田がおこなった、一見して相反 する考えの緊張関係を更新し続けることで、受け継 いできた伝統と戦うという、その精神でなければな らない。」(p. 265) 「生活綴方」は、 田の用いた「想を読む」という概 念を避け、文章表現の発達をより客観的な言語事象 によって捉えようとした。結果として、小学校低・ 中学年から高学年の、 田が最も意を用いた要所で 一種のつまずきを起こし,それが今日の作文指導の 力強さを弱める事態を招いている。著者は言う。 「教育者はもとより、教育学研究者が、正当性の 基盤を供給することで教育の実践的課題に答えよう とすることはまっとうなことである。しかし、この 姿勢を硬直化させてしまってはならないだろう。な ぜなら、教育という次世代形成の営みは、社会を構 成する諸関係の再生産に深くかかわりつつ、その事 実が姿勢の硬直化によって簡単に忘却されてしまう からである。」 「硬直化」は、山田氏のいう「とらわれ」から起こ る。もちろん「とらわれからの解放」への「とらわれ」 も避けねばならない。「ポスト・モダン」と言われた 時期の思想には、その種の過剰性がある。「生活即 ち伝統」に足を着けて歩むことが、これからも大切 なことで有り続けるだろう。 (鳴門教育大学)

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