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和州吉野郡群山記について

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Academic year: 2021

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(1)和州 吉野 郡群 山記 につ いて 上. 野. 益. 「 和州吉野郡群 山記」 は,幕 末 の紀 藩士 畔 田伴存 (源 伴存 ,号 翠 山)の 名 著 で あ る。 この書名 は世 に知 られ る こ とな く,伝 存す るものは恐 らく著者 の 自筆稿本一本 のみ と考 え られ る。 諸書 に,「 吉野 (郡 )群 山記」,あ るいは「 吉 野郡名 山図志 (誌 )」. として引用せ られ ,且 現存 して い る写本 は,す べ て本書. の異本 で あ る。最後 の書名 の不 当性 につ いて は,後 節 で詳 論す る。 「 和州吉野郡群 山記」 は,そ の 内容が詳密 正 確 ,且 科学 的な ことで は,当 時 の類書 にその比 を見 ない。 その編 述 の方法 も著者独 自の ものであ る。 そ し て ,成 稿後百 二 十年 を経過 した現 今 で も,そ の学術的価値 は少 しも減 って は いない。筆者 が この 山岳誌 に多大 の興 味を もったのは,そ れが幕末 の傑 出 し た博物学者 畔 田伴 存 の手 に成 った ものだか らで あ る。伴存 が 自然 に対 して. ,. いか に大 きい興 味を抱 いて いたか は,植 物 や動物 の研究 ばか りでな く,そ れ らを産 す る山岳 の調 査 に も手 を染 めた こ とが ,本 書 によ って よ くわか るか ら で あ る。 筆者 がは じめて本書 に 回 り合 ったのは,二 十数年 も前 の こ と で あ る。 当 時 ,大 阪 の堀 田健 男氏 が伴存 の著書数部 を蔵せ られ る こ とを伝 聞 し,同 氏母 堂 ゆか子 さんの好意 によ って ,そ れ らを閲覧す ることがで きた。「 和州吉野 郡群 山記」 はその中にあ ったので あ る。 ゆか子 さんの祖父 龍之助翁遣愛 の本 で あ る。堀 田龍之助. 1)は. 幕末 か ら明治初年 に生 きた, 大阪 の 西洋製 薬 業者. で ,か ねてか ら動植物 に趣 味が深 く,家 業 の傍 ら,伴 存 を 師 と仰 いで その研 鑽 につ とめた。 そのよ うな関係で ,伴 存 の著書 がい くつ か龍之助の手 許 に残. 1)上 野益 三 65, 1961.. :“ 堀 田龍之 助。 "「 大 阪史談. J(大 阪史談会 発行),復 刊 ,第 5冊 ,p。 57-.

(2) 「和州吉野郡群山記」につ いて. 2θ 8. ったので あ る。 その うちの「群 山記」. 2)は. , 恐 らく師伴存 の歿後 に遣 族 か ら. 譲 り受 け た もの と思 われ る。伴存 の長 男伴宣 は,明 治 にな ってか ら生活 に窮 し,亡 父 の原稿 や蔵書 を龍之助 に乞 うて度 々金銭 に替 えた事 実 があ る。 ゆか 子 さんの手許 には また,伴 存が龍之助 に与 えた手紙 が 多数保存 されて あ った。 それ によ る筆蹟 と,龍 之助手 沢 の 「群 山記」 とを ,よ く比 べ てみ ると,こ の 本 は疑 い もな く,伴 存 の 自筆稿本 で あ った。各冊 に,伴 存 の筆 で ,「 和州吉 野 郡群 山記. 紀藩. 源伴存記」 と書 かれて い る。今 ,便 宜上 ,こ の本 を 「堀. 日 本」 と呼ぶが ,こ れ こそ,「 群 山記」 の定本 た るべ き唯一 の現存本 で あ る。 堀 田本「群 山記」 は,龍 之助遺愛 の蔵書 ,伴 存 の書簡 ,そ の他 の 品 々 とと もに,亡 き健男氏 の夫人堀 田美恵 さんか ら寄贈 されて ,現 在 は大阪市立博物 館 の所有 に帰 して い る。寄贈 に先 だ ち,筆 者 は美恵 さん並 びに 当主堀 田健彦 氏 の依 嘱 によ り,蔵 書等 の整理 に 当 った。 そ して「 群 山記」 には,二 十数年 ぶ りで 再会 したので あ る。 この一文 は,そ の ときに作 った ノー トを基 とし. ,. 本 書 の学術 的真 価 と,伴 存 の研究態度 とを世 に顕 わ さん とす る もので あ る。. 1。. 「和州吉野郡群 山記」 の構成 と異本. a)堀. 田本 「 和 州 吉 野 郡 群 山記 」. この 本 は 6巻. 6冊 で あ る。 そ の 第 一 巻 に載 せ た 総 目録 で は 7巻 とな って い 3)。. て ,第 七 巻 が物 産 志 で あ る. しか し,出 来 上 った物 産 志 は上 下. 2巻. とな. り ,「 群 山記」 全 体 の 構 成 は 8巻 よ りな る こ と とな った。 これ は ,伴 存 が 龍 4)。. 之 助 に 与 え た次 の 手 紙 に よ って 明 らか で あ る 「 (前 略 ) 和州吉野郡群 山記. 八冊之内. 2)以 下「群 山記」 と略称す る。 3)山 口華城「贈 従五位畔 田翠 山翁伝」. (1932)の p.27に ,吉 野群 山記 七巻合六 冊. とあ るのは これを伝え聞いて書 いた ものか。 ただ し, 山 口氏 は物産志 を群 山記 とは別 本 と して い る。. 4)今 ,句 読点 を加 う。以下 の 引用文 につ いて も同 じ。.

(3) 上 風 土志六冊. 野. 益. 三. 物産志 二 冊. 右京都 へ 御遣被下候節,風 土志六 冊 も御望候 へ は御見 せ 可 申 旨,御 申遣 可被下 候」 (図 1)。. 図 1。 伴存 が「群山記」 の構成を龍之助 に知 らせ た書簡 の一部 これ は十 二 月 甘 七 日付 で ,弘 化 四年 と考 定 され る。 龍 之 助 は この と き に は. ,. 伴 存 か ら 「 物 産 志」 だ けを受 取 って いて ,「 群 山記 」 を手 に して い な い 。 「 京 都 へ 」 とい うの は , 溶 室 山本 沈二 郎 を 指 す。 沈 二 郎 は 山本 亡 羊 の 二 男 で , 著 名 の 本 草 学 者 で あ る。 風 土 志 は 山岳 地 誌 を 指 し, 物 産 志 は 動 植 物 誌 (鉱 物 を も含 む)で あ る。 この 物 産 志 上 下 は ,「 和 州 吉 野 郡 中物産 志」 と題. し,「 群 山記」 とは独立 の 著 述 か の よ うに ,世 上 に伝 写 本 が残 存 して い る。 しか し,そ こに載 せ た 動 物 や植 物 の 産 地 を注記 す るの に ,た だ地 名 を あ げ る の み で あ る。 これ は 1∼. 6巻 の 風 土 志 を 参 照 す べ き こ とを慮 って の こ とで あ. ろ う。筆者 も風土志 を見 ない前 に物産志 を閲 して ,そ こに示 された地名 が ど こか,わ か らなか った こ とが少 な くな い。 堀 田本 によ る「群 山記」 の巻序 その他 は次 の通 りで あ る。「物産志」 につ.

(4) 「和州吉野郡群山記Jに ついて 21θ. 3卜 数  1 鷲為. も く な に 筋 た 巻 じ ね   じ 山 綴 い   を 自 様, な な 大 事 根 し , r 同 事 憾 雄 見 尾 功 議 で て   割. η. 崎霰. 図 岳 山 の. 冨. わ 失 を 性. ッ ケ ス の. r. に. に こ 腋 く い は 鳥 つ 大 存 は を は 伴 い 図. 記緩で , り  碑 ︻     陀紙字       な 異. 図鋼 冊細   ユ. ∬. 毎  の   上  附   。 4 7 1 ≧ 日   に 図 00 2. 出 1   12 ︲             1 8 3 , 挿                     . 和 い 楷   の や 不 用 は   る 図 相 を 文   め 生. ル. 轍   4   Ю    3      8 7 5 4. 記.   郡. 滝. 則.  . の 多. 見. そ. る. い す. 脳. 総. の  l∫         十北  中    上 記 と   挿 数 た し   o  合  た る は,. 場 勤 Z 汗 疏 9 但 植 山 が 技 る あ 望 の 3 小 は い   価 動 群 図 画 す で 展 も 紙 用   の の r 物 た 生 業 の つ , 植 れ 写 の ら く 計 上 下 計 職 用 を   書 描 書   本 自 ら, 動 ぐ を 難 か い に               記         総   上 む。  行        存  か  の す 物 至 所   荘     士い 録 , 局  て,   植 は 一  収      は 伴 験 彼  の 日 網             削雌    嚇    訛 し 獄 を し,   図 の 経 て 彼 動 の. 耕. 7 8   で, ち う の こ. す お 現 頭 を の 重 原   数 に を o 一 三 を   多 で チ る 服 に 再 の と 削 に 彼 果 目山 山吉稲 弥天廻 澤 大 玉和和    和 同     の  は 行   た ま   ッ す 敬 一 巻 に 9 oれ 今 ケ 定 く の 面 な 結 記 付 る ら は ス 断 深 目 紙 密 の 5 4   6 3   嶽 墨 あ め 者 の と に o い 緻 査 2 1 迦 裏 て 収 筆 山 筆 と た さ o踏 釈 表 い に o の 自 こ れ 小 た い の は 書 書 る 中 の る さ を し し 四 紙 に 本 い J 存 な 揮 容 服 詳 の 各 い   て 記 伴 の 発 山 克 の.        山 記 郡郡 巻 上 下記記 記記 記 記 , 上 Ⅲ励助動帥岬嘲  嘲 檄仙 蜘蜘駐 題に 5)。. いて は今補足 した. 5)筆 者架蔵 の伴存 自筆稿本 による。 この本 は富山の医師窪美氏 の 旧蔵本である。. 後出,注 24参 照。世上 の伝写本 には「吉野郡物産志」 と題す るものがある。.

(5) 211. 上 野 益 三. 中 には 山波 を圧縮 して画面 にお さめ るとか ,必 要部分 を特 に強調す るな ど. ,. 極 めて効果 的 な画法 を駆 使 して い る。谷文晃 の「 日本名 山図会」 も多 くのす ぐれ た山岳 図を載 せ てい るが ,デ フオ ル メが 多過 ぎ,絵 画 としての芸術性 は とにか く,山 岳図 として見 るには, 象徴 的 に過 ぎて 科学性 を欠 く憾 み があ る。伴存 の 山岳図 は如 実 に山岳 を写 し,彩 色 によ って 十 分 効 果 をあげて い る。一 つの 山を い ろいろな方面 か ら写生 し,そ の 山全体 の イメー ジを ,手 に とるよ うに われわれ に与 えて くれ る伴存 の手法 は,「 群 山記」 以 前 は もちろ ん ,以 後 において も見 られ ない。 「群 山記」 の学術的価値 の半 ばは,そ の写 生 図 に あ るとさえいえよ う。. b)白 井本 「 吉野郡名 山図志」 国立 国会 図書館蔵。 この本 は 5巻 5冊 よ りな る。巻 序 を付 して いないが. ,. 仮 に前記堀 田本 にな らえば,第 一冊 :山 上嶽 ,吉 野 山,第 二 冊 :弥 山,楊 枝 嶽 ,天 川荘 ,廻 川 山 ,稲 村嶽 ,第 二 冊 :釈 迦嶽 ,第 四冊 :大 皇 山,北 山荘 ,第 五 冊 :玉 置 山,十 津川荘 とな る。 「 吉野郡名 山図誌」(志 でな く誌を用う)を 紹介 し 6)。. た笹谷 良造氏 は,こ の 白井本 を見 た もの と思 われ る. この本 は東京 の加賀. 豊 二 郎氏蔵本 を ,自 井光太郎博士 が大正五年 に写 させ た もので あ る。 その原 本 が どのよ うな本 か は知 る由 もないが ,山 口氏 (前 出,注 6,p.55)が 加賀氏本 を 指 して , “ 此 の 自筆原本 は"と 書 いて い るのは明 か に誤 りで あ る。加賀本 の 構成 か ら見 て 伴 存 の “自筆原本 "で な い こ とは,堀 田本 と比 べ てみて 明 白 で あ る し,特 に重 要 な こ とは,伴 存 自身一度 も「名 山図志」 な る書名 を使 っ た こ とはない。加賀本 を写 した 白井本 で は,堀 田本 の巻 の一 と二 とを一冊 と し,稲 村嶽を弥 山 の巻 の最後 につ け,北 山荘 を大壼 山 と一緒 に してあ る。 も っとも,地 理 的 には,北 山荘 は大 台 山の西側で あ るか ら,今 併す る理 由はあ ろ う。 しか し,伴 存 自身 には別 の考 えが あ って十津川荘 と対 置 させ た もの ら しい (3∼. 5,大 壼 山記 の項参 照. )。. 白井本 の原本 な る加賀本 ,あ るいはそ. 6)笹 谷良造 :“ 畔 田翠山翁 と吉野郡名山図誌".岸 田日出男・ 笹谷良造共著「吉野群 山」 (東 京,郷 土研究社,1936),p.348-359..

(6) 212. 「和州吉野郡群 山記」 について. れ以前 に,写 本 が つ くられ るときに,誰 かが その 内容 を検 討 して並 べ 替 え. ,. 5冊 に “編 集 "し た と考 え られ そ うで あ る。 「吉野郡名 山図志」 な る書名 も それ に応 じて与 えたのだろ う。編 集 だ けで な く,内 容 に も多少 の 変更 があ り, 原本 にない図を加 えた と ころ もあ るが ,本 書 は 明 らか に 「群 山記」 の 異 本 で ,「 名 山図志」 な る書名 は全 く「 群 山記」 の シ ノニ ムで あ る。写本 の こ と ゆえ,枚 数 に意味 はないが ,堀 田本 の半分 よ りや や 多 い。図画 は一応 うま く 描 いて あ り,彩 色 もよ くで きて い るが ,堀 田本 には遥か に及 ばな い。実 地 に 山を ス ケ ッチ して作 った図 と,出 来上 った絵 図を模写 したの とで は,後 者 が 迫真力 に欠 け るのはやむを得 ない ことで あろ う。. C)天 理 本「和 州吉 野郡名 山図志」 および「吉野群 山記」 天 理 図書館蔵。両書 とも「群 山記」 の異本 で ,高 木利太氏 旧蔵本。「和州 7)は , 自井本 と同 じ本 を写 させ た もので , 山上嶽記 の奥 に 吉 野郡名 山図志」 あ る,昭 和 二 年一 月 の高木氏 の識語 によ って知 られ る。従 って ,内 容 も白井 本 に一 致す る。 そ して ,「 和州吉野郡 中物産志」上下 三 巻 を伴 って いて ,全 部 で 7巻 で あ る。紙数 は全 5巻 で 212枚 ,白 井本 の 224枚 とほぼ一致す る。 特 に玉 置 山記 の冊 は どち らも 42枚 で あ る。天 理 本 には「 金嶽全図記J,(注. :. 金 嶽 は山上嶽 ),釈 迦嶽全図記」,「 壼嶽全図記」 (注 :蔓 嶽 は大台 ケ原 山)の 見 返 しが あ り,自 井本 で は これ らが中扉 にな って い るの と ―致 す る。 弥 山 記 ,玉 置 山記の両 冊 に このよ うな題 字 がな いの も両本 に共通 す る。恐 らく原 本 の加賀本 になか ったので あろ う。「金嶽全 図記」 のよ うな題字を付加 した のは,「 名 山図志」 とい う書名 に応、さわ しい形 に し ょうとしたたた めで あろ う。 それ は, 大 台 山記 の 附録 として ,「 台 山捗 歴 略記. 南 紀野 呂九一郎 筆. 記」 な る一文 12枚 を付 した こ とか らも察 せ られ る。 しか も, 南 画風 の 山岳 絵 3枚 を載せ たのは,全 く筋違 いの感 じを 受 け る こ とは否 み難 い。野 呂九一. 7)高 木利太 :「 家蔵 日本地誌 目録J(大 阪,1927),p。. 174-175。 “家蔵本は東京力 日. 賀豊二郎君蔵本 によって書写 し題名を之 に従 った", とあるか ら,原 本 が この書 名 であったことがわかる。.

(7) 上. 野. 益. 三. 213'. 郎 ,号 介石 ,南 画家 で紀藩 に仕 えた。 天 理 蔵 の「 吉野群 山記」 は不揃 いの 3冊 本 で ,釈 迦 嶽 記 ,大 蔓 山記 ,図 絵. ‐. よ りな る。 図絵 は前 2冊 の挿 図 (左 右見開き8図 )を 1冊 に集録 した もの で :. あ る。 内題 はな く,た だ題 策 に「 吉野群 山記. 釈迦嶽記」 の よ うに記 す るの. み。 著者名 はない。 これ も,前 記「 名 山図志」 と同 じ意 図 によ る写本で ,大 台 山記 に「紀州介石先生 記」 な る一 文 (3枚 )を 付載 す る点 も同 じ。 ただ書. :. 名 が原著名 に近 い。 天 理 本「和州吉野郡名 山図志」,な らびに,「 吉野群 山記」 の挿 図 は,互 に 大 同小異 の 出来 ばえであ るが ,堀 田本 には遥 か に及 ばな い点 は同 じで あ る。 伴存 の 図 を見 て受 けた感動 を ,こ れ ら写本 の 図か ら受 け ることはで きな い。 挿 図 の模写者 は,む しろ 自己の画技 を誇 示 し ょうと してか , 原 本 の 趣 を変 え,結 果 として は原 画 を歪 曲 した との観 を与 え る図が混 って い る。弥 山 か ら 釈迦 に至 る山波 の大観 な どは,全 く大峯連 山を知 らぬ者 の手 にな った こ とが 明 らか で あ る。. d)「 群 山記」 の書誌学 的考察 「 吉野群 山記」 にな る書名が見 られた最初 は,佐 村八郎 の「 国書解題」 ら =. 8)。. しぃ. 同書 は,「 吉野群 山記. 写本六巻. 畔 田伴存 , 吉野 山中 の地理 山. 脈等 の形勢 を詳説 した る者 也」 とだ け書 いて あ る。 この六巻 は正 しいが ,佐 村氏 は果 た して 6巻 本 を見 たので あろ うか。 高木氏 の 「和州吉野郡 名 山図 │. 翻. 9`. (今,天 理本)の 解題 には,「 本書 は巻 序を定 めず各 山別 に一巻 をな し」 10)「. とあ るが ,後 に. 同本吉 野群 山記 の巻 序 は,第 一巻 山上嶽 ,小 篠 記 ,柏 木. 和 田村洞之記 (中 略)… 。 とあ る」 と訂正 して い る。 その巻 序 ,各 巻 の 内容構. :. :. 成 は,全 く堀 田本 と一致 す る。「 とあ る」 とは,高 木氏 は何 によ って書 いた. 8)初 版明治 33年. (1900)。. 筆者 は「増訂国書解題」 (1926),p.1982に よったか ら,. 初版 の登載事項 は不明。. 9)前 掲,「 家蔵 日本地誌 目録」,p.174. 10)高 木利太 :「 同上,続 篇」 (1930),p.3,「 続篇 のは じめに」 の中。.

(8) 「和州吉野郡群山記」 につ いて. .214. の で あ ろ うか。 1,a― Cの 諸 本 の 系統 は. ,大 凡 次 の如 くで あ る。. ?. /「 吉野群山記」. 6巻. 伴存 自筆稿本 (「 和州吉野郡群山記」 )6巻 一→ 堀日本. 「国書解題」〕 〔 大阪市立博物館〕 〔. l一 一― →高木本 a(「 吉野群山記」 )3巻 〔 天理図書館〕 │. 11?)吉 野郡名山図志」)5巻 加賀本 (「 (和 り \ 〔 国会図書館〕 白井本 (「 吉野郡名山図志J5巻 \ 天理図書館〕 高木本 b(「 和州吉野郡名山図志」)5巻 〔. 堀 田本 と加賀本 との間 に,写 本 αをたt定 したのは,高 木本 αが書名 も内容 も「群 山記」 に従 いなが ら,な お且野 呂介石 の一 文 を付載す る点 で ,別 に し た ので あ る。書写 の系統 の確 実 なのは実線 で 示す。高木本 α,加 賀本 とそれ を写 した 白井本 ,高 木本 bは す べ て 堀 田本 の異 本 で あ る。 これ ら以外 の写本 が 伝存 して い るとすれ ば,こ の系統 の どれか に属す るで あろ う。 書名 は堀 田本 を以て 正 名 とす る。伴存 が龍之助 に与 えた 多数 の書簡 には. ,. 吉 野群 山記 な る語 は度 々出るが ,吉 野名 山図志 な る語 はただの一度 も出て来 ない。恐 らく彼 の 歿後 の命名 で あろ う。名 山図志 な る題 名 は白井本 の条下 で 触れ たが ,笹 谷氏 のよ うに, この名 が “いか に も古風 で 面 白 い し,ま た六七 十 枚 の立 派 な図録が あ る点 で ,内 容 に も適 当 して い るか ら,や は りこの名 を 用 いよ うと思 ふ "11)と い う原著者 を無視 した,か な り勝手 な発 言 があ る。 同 氏 以前 に も古 く同 じ考 えの人 が いて ,や がて この書名が固定 した のだ と思 え る。 そ して ,伴 存 の苦 心 にな る著述 が「吉野郡名 山図志」 とな って しま った 名 山図志 " の は,ま こ とに遣憾 な ことといわねばな らぬ。科学者伴存 には “ な どを編述す る考 えは全 くな く,あ くまで も山岳 の学術的 な 自然誌 を つ くる ことに あ った のは間違 いない。物 産志 2巻 を つ くって ,全 「群 山記」 8巻 を 完 成 したのが ,何 よ りの証拠 で あ る。筆者 が本文を つ くって ,先 人 の誤 りを 正 そ うとす るのは,全 く著者 のオ リジナ リテイーが失 われ るのを恐れ且悲 し. 11)笹 谷良造 ,注 6,p.351..

(9) 2ゴ. 上 野 益 三. 5. む か らで あ る。伴存 の学者 的良心 は,「 物産志」 の 引用文献 中 に,間 と書 い た が原文 は俗字 の樋 で あ ったか ら,そ う訂 正 して ほ しい と,態 々龍之助 に一 書 を送 った位で あ る (嘉 永 五 年十月十七 日付 )。. それゆえ,書 名 に も極 めて. 神経質 で あ っただろ うこ とは,想 像 に難 くな い。 11」 なお,笹 谷氏 は,「 吉野郡名 山図誌」 には,自 井本 の「 ど こに も,「 和り 12)。. な る文字 を冠せ られ ていなか った。」と疑間を残 して い る. しか し,同 じ加. 賀本 を写 した 白井本 に「和州」がな く,高 木本 は「和州」 を冠 す る。 また. ,. 志 "を 用 いてい るの に,笹 谷氏 は終始 “ 誌 “を使 って 両 本 とも名 山図誌 と “ い る。高木氏 はその “ 家蔵本 "(1,C)が 明 らか に “図志 “とな って い るの に ,そ の解題 には “図誌 "と 書 いて い る。 この よ うな 些細 な点 の無神経 さ が ,書 誌学 的な禍根 を後 に残す こ ととな った。. 2。. 「群 山記 」成立 の経過. 文政 五壬 午年 (1822)六 ,七 月 ,畔 田伴存 は遠 く加賀 国 (石 川県)に 行 き. ,. 自 山 に登 った。 そ して ,七 月下旬 に,「 白山記」 (白 山之記)と 題す る一書 を つ くった。「群 山記」 と同 じ堀 田本 中 に伴存 自筆 の「 白山記」 があ り,墨 付. 35枚 , 彩色挿 図 17よ りな る。 この本を よ く検討 してみ ると,山 岳誌 として の記述 の進 め方 ,山 のスケ ッチ の 作 り方等 ,す べ て 「吉 野群 山記」 の原 型で あ るかのよ うに思 え る。 い わば,「 白山記」 が後年 の大 著 「群 山記」 の 習作 の 観 が あ る。 「 白山記」 と同時 に,「 白山草木志」_L下 2巻 がで きた こ とも. ,. 「群 山記」 に,「 物産志」 が付随 してで きた の と,そ の構想を同 じくしてい る。 この ころか ら,伴 存 には将来吉野群 山 の 山岳志 を書 く意志 があ り,そ れ を ど う纏 め るかの試 み として ,自 山を選 んだので はなか ろ うか と,筆 者 は想 像す る。 白山 のよ うな独立高 山が ,吉 野群 山 のよ うな複雑 な 山見 よ りも纏 め 易 いのに ちがいない。 「 白山記」 を書 いた 時 の伴存 は 31歳 の壮年 で あ った. 12)笹 谷,前 掲 ,p.351..

(10) 2ヱ. 「和州吉野郡群山記」につ いて. δ. が,「 群 山記」 を つ くった ときは, も う 50歳 を過 ぎていた。 その学 問が円熟 の域 に達 した ときで あ った こ とは,両 書を読 み比 べ てみ ると,よ くわか る。 しか も,当 時 の伴存 は「群 山記」 に専 念 して いた わ けで はな く,「 水族志」 13),彼 や「 古名録」 のよ うな,大 著 に も取 り組 んでいたので あ るか ら がいか に旺盛 な体力 を もち, しか も格勤精励 で あ ったかがわか る。 伴存 の吉野群 山踏査 は,何 回 とな く繰 り返 え し行 われた と想像 され る。伯 母峯 の記事 (巻 之 五 ,大 壼 山記)中 に,「 伴存等二人 ,内 壱人熊野西村重篤 子 ,文 政年 中」 とあ るか ら,文 政年 間既 に足 を踏み入 れて いたので あ る。 三 人 の 中 の他 の一 人 は従 僕 であろ う。 また天保十 二 丑十 二 月 に十津川 山中 の記 事 があ る。巻之四釈迦岳記 には,「 伴存等 ノ初度釈迦嶽 二登 リシハ」 とあ る か ら,た だ一 回 の登攀でなか った ことは明 らかで あ る。 また,巻 中,弘 化 二 年春 の記事 に数 回 出会 うし,弘 化 三 年十 二 月 の十津川 で の記録 があ るので. ,. 完 稿 はそれ以後 の こ とで あ る。 明治 二 十八年 (1895)八 月 , 帝 国大学 (東 京)農 科大学助教授 白井光太良ト が,樹 木調査 の 目的で吉野を基点 と し,八 月 一 日大台 ケ原 山 に登 り,さ らに 北 山川 に沿 って ,四 日,前 鬼 に赴 き,同 地 を六 日に 出発 ,釈 迦岳 ,弥 山を経 14)。. て七 日山上 岳 に達 し,八 日吉野 に帰着 した. 白井 は前鬼 の森本坊 の坊主 五 15)。. 鬼継義 円 の父 とい う老僧 の談話 を ,書 きとめてい る. その 中 に. ,. 「四十年以前紀藩の本草家,畔 田重兵衛と云 人,一 僕を具 し,此 地 に来 り,採 =、 薬せ り,体 躯肥大の人にて,両 刀を帯び居たり,裏 行場に至 り,種 々採集 し,此 時 ツバ メラン,ケ イビラン,ム ギランなど云ふ植物を習ひたり云 々。是則ち畔田翠山 翁の事なるべ し。 」 この文 中,畔 田重兵衛 とい う人 とあ るのは,是 則 ち以 下 の 白井 の 推 則 通. 13)上 野益 三. :「 明治前 日本生物 学史」第 1巻 p.471--483, 1960. 白井光太郎. 古地 図複写 1葉 ,1907. 同上 ,p.13.. 2号. 本学士院編 , 日本学術振興会刊 ). , 釈迦 岳,弥 山, 山上岳 を経 て再 び吉野 (明 治 40,6,1),p。 1-17, 4図 ,折 i_t. :“ 大和吉野 よ り大 台原 山. に 出づ る記 "。 「 山岳」,第 2年 ,. (日.

(11) 217. 上 野 益 三. り,伴 存 な る こ とは間違 いない。 ただ し,重 兵衛 は十 兵衛 で あろ う。十兵衛 は 伴存 の通称 で あ る。 また,「 四十年以前紀藩 の本草家」 とあ るのは,老 僧 の 記憶 ちがいで あろ うか。 明治 二 十八年 か ら 40年 前 といえば,安 政 三 年 で. ,. 伴存 の歿年 (安 政六年)に 先 だつ こ と 3年 ,そ の 65歳 の ときで あ る。筆者 の 推 定 で は, この年 (安 政三年)よ り以前 に,「 群 山記」 は既 に成稿 して いた と思 われ るか ら,も う 10年 あま り遡 って弘化年 間 ,つ ま り 50年 前 としてみ る と,大 分辻棲 が合 って くる。 つ ま り, 伴存 は文 政 か ら天保 に わた る 20数 年 間 に,度 々群 山を抜渉 して ノー トを取 り,ス ケ ッチを つ くり,植 物や動物 を 採集 し,そ れ らを 6巻 の 山岳志 , 2巻 の物産志 に纏 めたのが,弘 化 の末年. )で. (弘 化は四年二月二十八 日改元,嘉 永元年 となる. あ った と見 て よいので はな. い か と思 う。 伴存 は「群 山記」 を書 くに 当 り,吉 野群 山 に関係 あ る多 くの文献 を引用 し て い る。各巻 にお け る引用 の多少 によ って古来 それ らの 山 々が知 られて いた 程 度 を察す る こ とがで きる。例 えば,吉 野 山 が最 も文献 に富 んでい るのは当 然 で あろ う。全 6巻 に 引用 され た群籍 は凡 そ80種 で あ る。 その うち,最 も屋 々引 いて あ るのは「輿 地通志」 (日 本輿地通志 ,畿 内部大和 国 ,享 保 二 十年 ) の 100箇 所 ,そ れ に次 ぐのが「和州 旧跡考」. )で あ. Jヽ 旧跡 幽考で あろ う (和 り. る。第 二 番 が貝原篤信 の「和州巡覧記」 (大 和 め ぐり)で ,特 に巻之二 吉野 己に 引用 が多 い。 山言 「 群 山記」 の編成 を報 じた伴 存 の手紙 を さきに引用 したが. (1,a),. これ. に 先 だ つ十月十九 日付 (弘 化四年)で ,伴 存 は次 の一 文 を龍之助 に送 って い る。 「 (前 略)吉 野物産志弐巻出来候而,外 へ見せ有之候ハバ戻 り次第御見せ可申上 候。外二吉野郡群山志六巻都合八巻,内 物産志上下三巻有之候事二御座侯。跡 よ り 物産後志壱巻出来申候 (後 略)」 (図. 2)。. この文 中 の「物 産後志」 な るものは,計 画 だ けで完成 しなか った もの らし い 。上 に引 きつづ き,十 一 月廿 一 日付 で ,伴 存 は次 の手紙 を龍之助 に与 えた。 「弥御安康珍重奉存候.吉 野物産志二 m‐ 丼紫藤園孜證乙集壱冊差進申候。御写置 可被成候 以上」.

(12) 「和州吉野郡群山記」につ いて. ・ 一 一 一 ■■織一一 薄・ ■一 ■ ・ ■■=一 ・ 一 ・ ・. IIIIIIIIIル l,. ‐ 1.11:曇 ‐ 11■ │‐. ■. 4:│1 41:. 紫藤 園は伴存 の 号 の一 で あ る。堀 田本 中 に龍之助 自筆 の「物産志」 が あ る のは, この手紙 に従 って写 した もので あろ う。. 3.. 「群 山記 」 の 内容 の 概要. 1°. 1)第 一 巻 ,山 上 嶽 記 上 この 巻 は洞 川 に は じま る。 山上 岳 の 西 麓 三 里 の この 村 は ,現 在 は バ ス が通 じるが ,伴 存 当時 は 山間 に孤 立 して小 集 落 で あ った 。 伴 存 は そ の 生 活 習 俗 に 興 味 を惹 か れ た とみ え ,如 実 に 記 述 して い る。 駒 鳥 の 巣 子 を捕 えて諸 国 へ 出 す こ とや ,陀 羅 尼 助 (伴 存は多羅助 と記す)の こ とな どに は ,特 に興 味 を も っ. 16)笹 谷良造氏が「吉野郡名山図誌」 の紹介を,奈 良山岳会発行の雑誌「 山上」第 1巻 (1933)以 降 に連載。 筆者 はその 一部のほか不見。 同氏 の 「吉野群山」 (注. 6)に その概要を載せ る。.

(13) 上. た。多羅助 の原料黄彙皮. (キ. 野. 益. 三. ハグの樹皮)は ,洞 川 には少 な く,上 方 か らも来. るが,天 ノ川 か ら出す ものが多 い。北 山 の渓 の人達 は,黄 葉 を 背負 って ,小 篠 に登 り,山 上岳 を越 して ,昼 八 時 ごろ洞川 に降 って商 う。伴存 は洞川 か ら 山上岳 へ の登路を詳 しく記述す る。 山上岳 記 で は修験道 に触 れ ることが 多 く, 行場 を述 べ ることが詳 しい。 さ らに記文 は小篠宿 に及 び,伯 母谷覗 を経 て 北 山川 の渓 に下 る。柏木 に下 った伴存 は,同 地 周辺 の鍾孔洞 を探検 し,洞 内 の 状態 を詳 し く書 いてい る。 山上岳 を西 か ら望 んだ 2ペ ー ジ半 (1丁 半)に わた る,す ぐれた概 念図 を 第 二 巻 の最後 に載 せて ある (図 版 I)。. 稲村岳 か ら北東 に,山 上岳を展 望 し. た 印象 に基 いて ,作 図 した らしいが,右 手前 に稲村 自身 も描 いて あ る。 山上 岳頂上付近 は手 に取 るよ うに誇張 して あ るか ら,稲 村岳 はただ小 さい山 とし て表 わ して い る。 実 際 の稲村岳 は標高. 1,725。. 9mで ,. 山上岳 の 1719。. 2mを. わず か に抜 いて い る。登路 は朱線で描 いて あ って,わ か り易 い。. 2)第 二 巻 ,山 上嶽記下 ,吉 野 山之記 ,稲 村嶽記 この巻 の殆 ん ど大部分 は吉野 山 の記 で あ り,神 社仏 閣 の記事 が多 い。最 後 に載 せ た稲 村岳記 は 4丁 に過 ぎないが,キ レ ッ トのす ぐれ た 図を挿 む。. 3)第 二巻 ,弥 山記 ,天 川荘記 ,廻 川 山記 弥 山記 は,次 の釈迦嶽記 とともに「群 山記」 の 中心 をなす力作 で あ る。伴 存 は弥 山を次 のよ うに概観す る。 「弥山ハ御山又深山とも書。和州吉野郡天の川 より登 り六里,山 上嶽 より大峯通 八里余,和 州吉野郡北山荘川合村より四里,和 州吉野郡舟川荘篠原村より四里半也。 (中 略)嶺 より四方 の高山不見 ,東 南 の方北山の荘 の北 山.電 に見 ゆる計也。此所. 天 の川弁財天 の奥之院 と云。山は平 なる大山な り」 伴 存 は奥 駈 け道 を と って ,大 峯 山脈 を縦 走 した こ とは な か った。 伴 存 の こ ろ に は ,熊 野 よ りす る順 の 峯入 を逆 山 と して咎 め ,吉 野 か ら入 って南 下 す る のを 順 山 とい うよ う にな って い た と書 いて い る。 伴 存 は天 ノ川 坪 ノ 内か ら弥 山 へ 登 った。 坪 ノ 内か ら登 山人 足 壱 人賃 金 十 二 匁 , 坪 ノ内 か ら 登 路 二 里 半 で ,大 門 か らの 路 と合 し,朝 鮮 岳 (頂 仙 岳 )を 巡 って ,弥 山川 の 源 流 を 渉 れ.

(14) 「和州吉野郡群山記」 にいつて. ー■一 件︱ト ■ 一. 一一・ ■場γ六1ゃ マ■一 イ ■■ 一一一 , 図 3。 「群山記」第五巻の開巻第一 ページ ば ,弥 山 の 頂 上 に近 い 。 博物学 者 伴 存 は この あ た り に三 葉黄 蓮 が 多 い こ とを 発 見 した。 ま た ,川 瀬 か ら舟 ノ川 の 渓谷 沿 い に岩 茸 取 りの 通 う路 を も登 って (い. る。 弥 山 の 西 側 ,弥 山 との高 距 差. 1,000mに 近 い 天 ノ川 の 深 い 谷 が あ る。 伴 存. は この 谷 沿 い の 天 ノ川 二 十 三 村 を見 て 歩 い た 。 北 東 端 の 洞川 か ら西 端 の 塩 野 塩 谷 ,瀧 ノ尾 に至 る,延. ,. 々 23km余 にわ た る天 ノ川 の 曲流 に 臨 む散 村 で ,坪. ノ 内 もそ の一 で あ る。 「天 の川は仮屋板壁に して家建 よ り往来 の道広 し。天の川は 風 吹事烈 し。若西南風吹時ハ雨戸 なと引離 る ゝに至」 と, この 地 の 状 況 を写 す。 伴 存 は, ま た , この 山村 が 薬 草 栽 培 に 励 ん で い るのを 見 た 。 「人家 に吉野人参.

(15) 上. 野 益. 221. 三. を作 る。又 山芍薬,当 薬,川 葛,前 胡 を も作 る。此地細葉巻丹を産す。 葉細 く花 また 17) 常 の ものよ りやせ細 し。所 々黄業多 し」。. 弥 山 で 伴 存 の 注 目 した の は ,仏 生 岳 北 西 の七 面 山 で あ る。 この 特異 な形 の 山 を ,楊 枝 山 (楊 枝 ケ 宿 )の 方 か ら見 る と,南 北 に峯 が あ り,南 峯 の 方 が高 く, 中間 は平 らで あ る。「黒 く樹木生茂れ り其南半腹 に七面 の倉 と云岩在。高 さ百 五 拾尺余也。岩茸多 し」。 この 山 へ は峯通 りか ら西 へ 入 るほか ,旭 ノ川 の 中流. ,. 迫 か らの 登 路 を記 す。 「此山上 に登れば魔有 て道を迷ハ さると云」 とは ,方 角 を 誤 らせ るよ うな ,山 上 の地 形 を 言 った ので あ ろ うか 。 「廻川 ││や ,そ の上 流 の 神 童子 谷 の探 検 記 で あ る。 廻 川 山記 は ,現 在 の 川迫 り 山ハ天 ノ川荘北角村 よ り奥弐里参拾丁 の諸山を云。勝れ たる高山な く, 諸山の間 の渓 水廻 り流 る ゝにより廻川 山 と云」。 神 童 寺 谷 の 感 想 は,伴 存 は 「東 に行者帰 (行 者還), 北に小笹, 山上嶽相並 ひた り,南 は弥山より諸山相重 りた り。 誠 に深 山 に し て人里を離 る事遠 しJと 書 いて い る。 但 人 に 聞 いて 作 った記 事 で はな く,多 く 18)。. の 困難 を 克 服 して探 検 した 実 感 が溢 れ て い る 行 して 惣 門滝. 伴 存 は ま た南 に弥 山川 を 遡. (雙 門滝 )を 見 ,弥 山 に登 った。 川 迫 川 の 源 流 を極 めて尾 根 に. 出 る と,行 者 還 岳 の南 で ,古 くか ら北 山 と天 ノ川 と の 間 の重 要 な交 通 路 ,北 山越 が あ る。. 4)第. 四巻 ,釈 迦 嶽記 ,二 重 滝 記. 「 伴存等 の初度釈迦嶽 に登 りしハ梅雨年 の事也。中谷村を朝に出, 菅亡を は らひ篠 を分て釈迦獄 の頂上 に登 る頃ハ入逢 (入 相 )の 時分也。釈迦 に詣て神仙 (深 仙 )に 下 る時,道 暗 くな りて さだかな らず,漸 に して神仙 の宿 (し ゅく)に 着 ぬ」。 旭 ノ川 吉 野人参 はウ コギ科 の トチバ ニ ンジ ン, 山萄薬 はキ ンポ ウゲ科 のヤマ シヤクヤ ク。 当帰 (ニ ホ ン トウキ),川 蔦 (セ ンキ ュウ),前 胡 (ノ ダケ )の 3種 は セ リ科 │1葛 のみ 中国 か らの渡来種。 ノダケ と前胡 とは別 物 だ との説 があ る。 の草本。 り ニユ リで あ るが, 伴存 が見 たのは コオ ニユ リで あろ うか。 黄葉 は ミカ 巻丹 はオ. ン科 の キハ ダで, その樹皮 は陀羅 尼助 の原料 と して洞 川 へ 供給 す る (山 上嶽 記 の条参 照 )。 申童子 現在 で も, この谷 の遡行 が それ ほ ど容易 なわ けで はない (仲 西政 一郎 :“ ネ パ の ンガ イ イ ド アル 谷 「 , 6,近 畿 山」, 5版 ,1969,p,183-185)。 "。.

(16) 222. 「和州吉野郡群 山記」 について. 下 流 の 中谷 か ら,谷 沿 い に直接釈迦岳 の西斜面 を登 攀 したので あ る。 伴存 は釈迦岳 を西 側か ら見 た珍 らしい 図を つ くった (図 版 Ⅲ )。. 西斜面 に. らの結 果 で あ ろ う。 さ ら 直角 に近 い谷を , うま く画面 に収 めたのは,そ の苦 ノ に,左 前面 に七 面 山 の異様 の 山容 を描 いたの も,こ の図 の効果 を倍加 して い る。伴存 は,ま た,釈 迦岳 を遠景 と lノ て 中央 に据 え,そ の北 に連 る山波 と. ,. 左右 の谷 々 とを一 枚 の画面 に収 めた鳥緻 図を つ くった (図 版 Ⅲ)。. その観察. 力 の正 確 さと,適 確 な表現力 とが遺憾 な く示 され,恰 も航空写 真 を図 に再現 したよ うで あ る。 ただ, この 図 に大峯 山脈 の最高峯 八経 ケ岳. (1914。. 9m)ら. しい の を描 かないのは,弥 山 と同一 の 山 と見 たためで あ ろ うか。 釈 迦 岳 図 には,山 の左肩 に,富 士 山 が描 いて あ り,本 文 には,「 晴天のあ した日未だ出 さるころ,駿 河の富士山海中に見ゆ」 と記す 。伴存 はそのよ うな好機会 に 出合 っ た らしい。 とにか く,「 釈迦嶽ハ大山に して群峯の上に出る」 との認識 に立 った 伴存 が,こ の 山 の記 に力 を注 いだのは 当然 で あろ う。 伴存 は 中谷か らのほか ,東 斜面北 山渓 の 白川村 古代か ら善鬼 (前 鬼)へ 赴 き,こ こか ら釈迦岳 に攀 じ,峯 通 りを北へ 弥 山へ 行 った こ とがあ る。善鬼 は 東 西 に 向 った山原で ,四 囲深 山 で 湿気 が多 く,畳 ふ す まが腐 り易 い。稲 を植 えて も稔 らな い。 四五 月 ごろ,春 不老 (伴 存はオホガラシという)と い う菜 を 塩蔵 して客 に 出す。伴存 は三重滝 に行 って巧 みな ス ケ ッチを作 り,多 くの植 物 を採集 した。伴存 は十津川 内原 か ら嫁越峠 へ 達 した こと もあ った らし く ,. 嫁越 以南 の大峯古道 に も触れて い るが, 自 らこの道 を通 った こ とはなか った らしい。 釈迦 岳等 の鳥腋 図 (図 版 Ⅱ)の 釈迦 の左肩 に宝冠岳 , さ らにその南 に 千草岳 を 示 して い るだ けで あ る。 そ して, 千種岳 は「宝冠嶽の南 に並ぶLu也 」 とだ け記 す。釈迦 の南 に接す る大 日岳 の東 ,二 つ 石 の北西 に あ る千手岳 が. ,. 彼 のい う宝冠岳 で ,奥 駈道 と前鬼 へ 下 る道 との分 岐点 の南 に あ る 石 楠 花 岳 19)。. が,千 種岳 を指す のだ と,仲 西氏 か ら数 え られ た. 千手 岳 と千種岳. 20)と. は. ,. :“ 山上 ケ岳 0弥 山 "(「 LLと 高原地 図 シ リーズ,64,大 峰 山脈 (一 )」 昭文社,1969)。 20)高 頭式「 日本 山嶽志」 (1906),p.238の 「仙 嶽 (別 称,千 種嶽 ,笠 捨 山)」 とあ る山 で はな い。. 19)仲 西誠一 郎.

(17) 223. 上 野 益 三. と もに大峯奥駈 け七十五 靡 にか ぞえ られ ,前 者 は第 二 十 四 ,後 者 は第 二 十行 21)。. 場である. 「釈迦嶽より楊枝 に至る峯通 り,常 に西南海 よ り吹上る嵐烈 して, 急風なる時は地. =. に生ずる草木 の末を手 に捕て,凌 ぐ程な り」 と,伴 存 はその 体験 を述 べ て い る。 白井 もまた同様 の経験 を した (前 掲,注 14,p.15)。. 白井 が楊枝 ケ宿付近 で見. _. た,純 林状 のオオ ヤ マ レンゲ の群落 を,伴 存 は既 に「 和州吉野郡 中物産志」 中 に記録 して い る。大 山蓮 華 の大 山 は大 峯 山 か ら来 た名 で あ る。. 5)第 五巻 大壼 山記 現今 の大 台 ケ原 山。伴存 が文政年 中 に この 山 に登 った こ とは既 に述 べ た。 伯母峯 か らの登 路 によ ったので あ る。 後年 (嘉 永 6?,二 月二十七 日付書簡) 彼 が 山 ス ズ とい う竹 の こ とを書 き,「 (前 略)此 竹和州山上嶽釈迦嶽七面山大蔓山 極テ多ク山腹皆此也。僕(注 :伴 存)目 撃 スル処也。 大菫ハ此竹 ヲ押分山中二入 レリ」 と,そ の登路 の 困難 を追想 して い る. (図 4)。. 大台 山記 が大 峯諸峯 の記文 に比. べ て 簡 略 の観 を与 え るのは, この 山 が大 峯 ほ ど開 けて いなか ったためで あろ. 図 4.伴 存 が手紙 に添えて龍之 助 に与え たメモ。左端 4行 日以下参照. 21)大 伴茂 :「 天皇 と山伏」. (名. 古屋,黎 明書房版,1966),p。 178-180。.

(18) 「和州吉 野郡群山記」 につ いて. 22∠. うか。彼 は 巴ケ岳 まで登 ったが,全 山 の十分な踏 査 はで きなか った らしい。 尾鷲 か らの登路 の記述 な ど も,同 地 で の 聞書 のよ うに思 え る。 図 に も古図 の 模写 を混 え,精 彩 を欠 くこ とは否 み難 い。 ただ文 中処 々動植物 に触れ ること が多 い。. 6)第 六巻 ,玉 置山記 ,和 州吉 野郡十津 川荘 記 ,和 州吉 野郡北 lL荘 記 吉 野郡最南部 の玉 置山,大 峯 山脈東西両 倶1の 谷 ,す なわち,十 津川荘 と北 山荘 との地理 と民 俗 が 第六巻 となす。十津川 と北 山川 とは,大 峯 山脈 が南 に 尽 きると ころで ,玉 置 山を挟 んで合流 し,新 宮 で太 平洋 に入 る。大峯 山脈 を 中軸 と した,伴 存 の 「群 山記」 は,北 山荘記 を態 々玉 置山記 と併置 したので あ る。 「吉野郡名 山図志」 の写本編者 は,原 著者 の真意 を解せ ず ,北 山荘記 を大 台 山記 に合 併 した のだ と,筆 者 は考 え る。 「群 山記」 に 釈迦以南 の 山伏道 の記述 がないか ら,伴 存 は奥駈 けで南下 し たので ない こ とが察せ られ る。十津 川筋 の平谷 ,猿 飼か ら山手谷を経 て直 接 _玉. 置山へ 登 り,ま た滞 か らも行 け る こ とを述 べ る。「 伴存等 玉 置山へ 登れ る. ハ九月 中旬 也」。 下 山は十津川筋 の切畑 へ 出た。 玉 置山か ら切畑 まで 百 五 拾 丁 ,切 畑村 か ら熊野本宮 へ 五 拾丁。川筋 の美 しいスケ ッチがあ り,伴 存 は山 だ けで な く水 もうま く描画 で きた ので あ る。 玉 置山上 に玉 置神社 が鎮座 し. ,. 古来大峯 へ の順峯 の 出発点 で あ った。伴存 は「群 山記」 が完稿 に近 づ いた こ 22),玉 置 山一 ろ,吉 野郡 の南 に接す る牟婁 E5の 動植物 を 調査 中で あ ったか ら 23)。. 円 は,そ の連 関 の下 に し らべ た にちがいない. 十津川荘記 は十 津 川沿 いの村 々を訪 ね,そ の地理 と生活 とを記録 した もの で 民 俗資料 に富む重要 な著述で あ る。家 の造 り,家 内 の造作 ,住 民 の 日常生 活か ら人情風俗 に及 ぶ 。 「群 山記」. 1-5巻 は,. 山中 にお け る 宗教 的施設. や,人 間 の宗教 的活動 に触れ るほか は,全 く峯 や谷 の学術 的記 述 に 費 さ れ 22). 畔 田伴存 :「 熊野物産初志」五巻 に纏 められた。 その成稿は嘉永元年 (1848). 23). 小清水 叫i二 ・岩 田重夫. ごろ。 玉置山所産植物 目録"は 527種 の草木 を載せ, うち69 種は羊歯植物 である (十 津川村編 :「 十津川 の生物」,1961,p.103-129)。 :“.

(19) 上 野 益 三. 225. た。十津川荘記 と同様 の記事 は,洞 川 ,天 ノ川 ,前 鬼等 に も多少 は見 られ た。 伴存 は博物学者 で あ た っか ら,随 処 に博物学 的記述 に富む。野猪 や鹿 が 多 い ので ,田 畑 の害 を防 ぐた め,村 毎 に “ 猪 垣 "を 造 る こ とや ,煙 草 を栽培 して その葉 を 出す こ と等 。「香魚 また,ア. (ア. ユ)は 長殿に至 り上 りて川上に登 らずJと いい. ,. メ ノウオはアユ よ りも上 流 に遡 り,辻 堂 の下 流宇井 の産 は,「 尺斗,. 春月味美也」 とす る。近年 ,長 殿 の下流上野地 よ り下 に,風 屋 ,二 津野両 ダ ム がで き,伴 存 の記録 は 120年 前 の状態 を示す もの として 有用 で あ る。 伴存 は 「十津川荘山中山蛭な し故 に往来蛭の うれゐな し」 とす るが,果 た してそ うで あろ うか。 また,「 貌狼は山中に多 し十津川の西,伯 母子嶺,水 峯辺誠 に影 し」 と したのは,大 台 山 に狼 な しと したの と対 照的で あ る。水 ケ峯 は伯母子 嶺 の西. ". 護摩 ノ段 山 の東 で あ る。 北 山荘 は北 は大 台 山で 南 は紀州 熊野 に至 る地域 だ と,伴 存 は定 義す る。「西 は行者帰,弥 山,楊 枝山,釈 迦嶽,転 法輪嶽の大山続きたり」 と述 べ ,材 木 を 「北 .. 山川の流に下 し熊野新宮に出」 す こ とを見 て い る。 水系を基本 に して,北 山荘 記 と十 津川荘記 とを,同 一巻 に併 置 した こ とは,伴 存 が立 派 な地理学 者 で あ った こ とを示 して い る。 「北山の山陰に草蛭多 し」 として い るのは,十 津川荘 と著 る しく対 照的で あ るが, これ はヤ マ ビル に悩 まされ た程度 の差 に基 くこ とで はなか ろ うか。. 7)第 七 ,八 巻 ,和 州吉野郡 中物産志 ′ 「群 山記」 1-6巻 に載 せ た地域 の植物 および動物 の記載で ,若 千 の鉱物 を付載 し,「 群 山記」 と併せ 見 るべ き もので あ る。 当時 にお け る最 もす ぐれ′ 24)。. た植 物誌 ,動 物誌 で ,後 人 の企及 し得 ない内容 を具 えてい る. 4.吉 野群 山 へ の道 畔田氏は代 々紀藩士で,和 歌山湊,南 仲間町 (城 西)に 住 んだ。伴存 (寛 政四壬子三月生まれ,1792)の 代 になって,藩 医と して禄 二 十石 を給せ られ ,薬. 24)上 野 益 三 NO。. :“「和 州吉 野 郡. lo, p.70--74, 1960.. 中物 産 志 」 に つ いて " 。 「奈良女子大学生物学会誌」 ,.

(20) 「TLl州 吉野郡群山記」 につ いて. 22δ 25)。. 園管 理 を 命ぜ られ た. 伴存 │ま 時 の藩主徳川落重 の理 解 と庇護 を受 けて ,か. な り自由 に研 修す る余裕 と便宜 とを与 え られた。 その経済面 で の援助 は,和 26)。. 歌 山 の富商雑賀屋 長兵衛 に負 うと ころが大 で あ った とい う. 伴存 が藩 命 を. 帯 びて ,調 査 のため 山中 に入 ると,出 て こない こ とが,数 日あ るいは十 数 日 に及 ぶ こ とが, しば しばで あ った。彼 の遺髪 を埋 めた墓 があ る和 歌 山市広尾 町大泉寺 の寺門 を入 った左 側 に, 自然石 の「 畔 田先生碑」 が立 ってい る。多 紀氏撰 とい うそ の碑銘 に,「 外 二 在 ル コ ト数十年。 常 に雨衣 ヲ携 工。精糧 ヲ齋 ラシ。或 ハ 露宿 日ヲ累 ヌ。老 ノ将 二至 ラ ン トスル ヲ知 ラサ ル者 ノ如 シ。」 (原 漢 文)と 伴存 の行状 を伝え る。彼 はそれ に耐 え る強 靭 な身 体 と精神 の持主 で あ った。 その行動 と精神 とは,多 年 山中で 日を 累 ね,困 苦 に耐 え る うち に. ,. 自 ら体得 したのにちが いない。 これ は吉野 群 山 の峯 々を道 場 と して,修 錬 を 積 んだ修験者達 の精神 に も通 ず るものがあ る。 しか も,そ の最 期 の地 は採集 27)。. 旅 行 の途上 な る熊野本宮で あ った. 真 に学 問 に徹 し,学 問 に殉 じた人で あ. った といえよ う。 伴存 の吉 野群 山紀行 の経過 は,十 津川荘記 を読 む こ とによ って ,そ の輪郭 を つ かむ こ とがで きる。紀州若 山 (彼 の任地和歌山)か ら高野 山へ 行 く道 ,高 野 山 か ら阪本 を経 て 洞川 へ ど う行 くか,紀 州橋本 と和州五条 か ら十津川 へ ど う入 るか ,ま た,十 津 川 か ら熊野 へ 出 る道 等 ,い ずれ も里程 を示 して詳細 に 説 く。十津川 の谷 の東側 には大峯 山脈 が連互 して い る。伴存 の吉野群 山登 山 が西 側か ら行 われ た こ とが 多 いのは,こ のよ うな経過 か らで あろ う。北 山 の 谷 ,大 台登 山等 が別 の経 路 で 行 われ ,前 鬼 か ら釈迦岳 に登 るとい う方法 もと られた。玉置 山は熊野調 査 に際 して登 った と も思 われ る。「群 山記」八巻 は この よ うに して次第 にで き上 った。彼 が 自己 の学 問を推進 す るの に如何 に雄. 25)こ の薬園 は紀 の川河 日の左 岸 に,. 徳川重倫 が 営 ん だ 別業西浜御殿 に接 して設 け. られ た。. 26) 「贈従 五 位畔 田翠 山翁 伝」 (注 3),p.66. 27)安 政六 己未 (1859)六 月十 八 日段。本宮村土地 野益 三. :“ 博物学者畔 田伴存 の最 後 の地 "「 関西. (今 ,本 宮町本 宮 )に 葬 る。 上. 自然科学」,(未 刊 )。.

(21) 上 野 益 三. 227. 大 な ス ケー ル を もち,如 何 に堅 忍不抜 の精神 を以て,そ れを遂行 したか は. ,. 28)が. ,「 群 山記」 に載 せ られ た 山 「群 山記」 八巻 に明 らに看取 され る。高木氏 々の「記 と画 とに対 し現代の登山家の如何なる紀行論文 も精細,正 確 において企及す. 」 と評 し るものがない。釈迦岳や前鬼などの記事 に至っては名文で且印象的である。 たのは,全 く当を得 てい る。一 つ の地方 の地理 的特徴 を,こ れ ほ ど正 確 につ かみ,細 大漏 らす と ころな く,独 創的 なプ ラ ンで ,文 字 と図画 とに再現 した 日本人 が どれ ほ どいたで あろ うか。 伴存 は学 者 として , 当時 の習慣 で は, 本草家 とい う 範 疇 に属す る。 しか し,彼 の学 問 の本領 は,単 な る本草学 で はな く,彼 が 自 らそ う自覚 して いた か否 か に拘 らず,博 物学 (natural history)で あ った。 博物学 が植 物 , あ るいは動物 ,あ るいは鉱物 のよ うな,天 産物 を対象 とす るか らには,元 来 土 地 に密着 した学 問 だ といえよ う。伴存 はそれ らの 自然物 を物産 とい う言葉 で 表 わ したが,物 産 の研究 か ら,そ れ らを産 出す る山川 に も興 味を向 け たのは 当然 の結果 で あろ う。 「吉 野郡群 山記」 も山岳地誌 が主 体 をな して はい るが. ,. そ こに産 出す る動植物 を も詳 し く調 べ ,そ れ らの知識 が渾然一体 とな って い る ことが,こ の書 が もつ 特徴 で あ り真価 で あ るといえよ う。. 5。. 摘. 要. 畔 田伴存著「和州吉野郡群山記」八巻 の内容 と, その成立 の由来 とを述 べ, 従来世 上 に知 られている本書 の異本 につ いて比較論評 した。 また, 本書 の真価はその科学的 な記文 と,す ぐれ た挿入図画にあること, 地誌 と動植物誌 とが, 渾然 として編述 され ていること等を明かに した。 著者 は幕末 における 傑出 した 博物学者 で, その 「群山 記 Jは 全 く異色 の大著 で ある。. 謝. 辞. 本文 を つ くるに当 って, 堀 田美 恵 さん は伴 存 の稿本 を貸 し与 え られ た。 平 山敏 治郎 博士 (大 阪市立博物館長 )は 収蔵 後 の堀 田本 の開覧 につ いて, 多大 の便宜 を与 え られ. 28)高 木利太 :「 家蔵 日本地誌 目録」. (注 7),p.175。.

(22) 228. 「群山記」 につ いて 「 11州 吉野君. た。また,五 条市 の御勢久右衛門氏 はその蔵書 を貸与され, 堺市 の仲西政一郎氏 (泉 州山岳会名誉会長)は , 大峯諸山 につ いての筆者 の間 に答 え るために 時間を割 かれた。 これ らの方 々に深 く感謝 の意を表 したい。国立国会図書館, 天理図書館 の 蔵書 を閲覧 して,益 を受 けたことも,感 謝 とともに特記せねばな らない。. 図 │コ 1仮. 版. 説. 明. I.. た ち 之図 (部 分)。 原画彩 L,伴 為i自 筆。山上嶽を西側 か ら見 る。左方 に大天丼 山上う 嶽,左 下方 に洞川が描 いてある。 「群山記」第二巻山上嶽記下巻末 に載せ る。縦 20. cm,横 図版. 30cm。. II.. 弥山以南 の連山。左北山川 の谷,右 十津川 の谷。 弥山か ら南に向 って, 楊枝森 仏生嶽, 孔雀嶽を経 て釈迦嶽, その左に 宝冠嶽, 千種 嶽。 原画彩色, 伴存 自筆。 ,. 「群 山記」第二巻弥山記 に載せ る。縦 25Cm,横 30cm. 図版 IH. 釈迦嶽 を西方 よ り見 た図。谷 は旭 ノ川。左手前七面山c「 群 山記」第四巻繹迦嶽記 所載。原画彩色,伴 存 自筆。縦 23cm,横 30Cm.中 央 の縦 の 白い部分は紙 のつぎ 目。 図版 IV. 釈迦嶽 と神仙 ノ宿。原画彩色,伴 存 自筆。「群山記」 第四巻繹迦嶽記所載。縦 22. Cm,横. 20Cm..

(23) │コ. 1反.

(24)

(25)

参照

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