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土佐日記地理考 : 幻の港・大湊(研究史編)

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Academic year: 2021

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(1)714(17). 義. 土 佐 日 記 地 理 考 研 究 史 編︶ ︱ ︱ 幻 の港 ・大 湊 ︱︱ ︵. 村. は. じ. め. に. は埋 れ、 忘 れ去 ら れ る も のであ ると も 言 え な い こと はな い。. 一. な と ″ に つい て考 え てみ た い。. 、 、   ″お ほみ 昭8 高 知 女 子 大 国 文 9号 ﹂ ︵ つい ては、 私 は ﹁ 4 ・6︶ で論 考 し た の であ る が こ のたび は残 る 一つの地名.   〃宇多 のま つば ら ″ に   〃お ほみ なと ″ と 〃宇多 のま つば ら ″ であ る。 が、今 に伝 わ ら な いも のが 二 つあ る。 それ は、.  そ の大 部 分 は、  現在 地名 が残 って いる 紀 貫 之 の上 佐 日記 に現 れ る土 佐 国内 の地名 は、  〃お ほ つ″ 以 下 十 三あ り 、. 千 田稔 ﹃埋 れ た港 ﹄. 姿 を 全 く変 え てし ま わ ざ るを えな い こと は、 ま さ しく宿 命的 な のであ る。 少 な く と も 古 代 にお い ては、港. す る自 然 にま か せ て、 港 も それ に従 順 と なら ざ るを え な い のであ る。 地 形 が変 容 す る に つれ て港 が本 来 の. し て、 こと ば を か え て いえば 、波 う ち 際 にあ ると いう こと であ る。あ ま り に当 然 ではあ る け れ ども 、変 化. ⋮ ⋮港 と し て の宿 命 は、 そ の立地 が海 あ る いは湖 や川 と いう 、 き わ め て自 然 そ のも のと いう べき水 域 に接. 竹.

(2) な お 〃お ほ み な と ″ に漢 字 を あ てる場 合 、 地 元 土 佐 では古 来 〃 大港 ″と 〃 大 湊″ の両 方 が使 わ れ て いる が、 こ こに. は 現在 の我 々に は、 や やな じ み の深 い感 じ のす る ″大 湊 ″ を 用 いる こと とす る。 た だ し 、 引 用文 の場 合 は、 原 文 のま ま と す る。.   日記 の本 文 から 、 前 述 のよ う に、  地 名 も 伝 わ ら ず 、  た だ 浦 戸 と奈 半 ︵  港 の跡 も 残 ら な い の で、 奈 半 利 ︶ と の間 と. いう だ け し か わ から な い の で、 こ の 二地点 の間 約 五 十 キ ロの海 岸 線 に、 前 浜 ・十市 ・夜 須 ・手 結 ・池 、 は ては東 は和. 食 、 西 は浦 戸 と いう 極 端 な説 ま で飛 び 出す 有様 で、 元禄 の ころ 以来 ほ ぼ 三世紀 にわ た って論 議 が絶 え な い。古来 の主. 要 な説 を年 代 順 に並 べると 次 の頁 の ﹁ 諸 説 一覧 表 ﹂ のよ う にな る。 推 定 地別 の分類 に は問 題 のあ るも のが あ るが、 こ の表 は従来 の通 説 により 、 問 題 点 に つい ては、 のち に触 れ る。.   桂 井 素 庵 の望大 港 詩 文 に つ 一一. 一覧表 の各 説 に つい て重 要 な点 を 紹 介 し論 評 し て いく こと とす る。. ナ リ、.  ト シ ルセリ、 大 港 ハ長 岡 ノ郡 十 市 ノ浜 与 二 池 ノ浜 一   シカ レド 之 堺 、 有 て称 二 古港 一 処 上、 蓋 是 也 、 中 古為 二 怒浪 一 没、 所レ モ、 十市 ノ浜 ハ浦 戸 ョリ ワヅ カ 一里 バ カ リ ア レ バ、 浦 戸 ョリ出 シ船 ノ、更 二泊 リ シト セ ン コト、 オ ホ ツカ ナキ コト. 長 岡 ノ郡 十 市 蚊 居 田村 ノ東 畔 ニアリ シ ヨシ云 、 ソ ノ後 享 保 年 安 養 寺 禾麿 卜云 人、 土 佐 幽 考 ヲ著 シテ、 ソ レ ニモナ ホ.  コシ方 長 岡 郡十 市 ノ浜 ノ アタ リ ニアリ シト セ シト見 エテ、 元 禄 年間 桂井 素 奄 ガ 望 大 港 詩 文 ヲ見 ル ニ大港 ハ 大 港 ハ、. の如 く言 う 。. 大 湊論 議 に重 要 な 役割 を 演 ず る のは、 や はり 鹿 持 雅 澄 の ﹃土 佐 日記 地 理弁 ﹄ であ る。 そ の書 の大 湊 の項 の冒 頭 に次. い て. (18)713 土佐 日記地理考.

(3) 竹 村 義 一. 712 (19). 大湊についての諸説一覧表 人. 名. 1生 年. 没年. 述. 1著. 名. 桂井. 素庵. 165211706. 代. 1年. │. 1望 大 港 詩 文 │. 躍 定 ]備. 元禄. │」 :♀ :3. 宮正明へ 未 実書 1奥. 考. 十市. ―. -一. ―. │一. 一. ―. 谷. 秦山. 安養寺禾麿. 1663 1 1718. 土. 幽. 佐. 5. 嶺南. 戸部. 尽 山. 武藤. 致和. 大. 図. 港. │―. │ 考 ―享保 1911734 -―. 野見. 前浜. 詳 │. 記. ―. ―. 安永. ―. 一. ―. ―. 十市. ―. 311774. 前浜. 劉 旦 │ぜ _望. 安永 4. 1775. 前浜. 1741118131南. 文化 10. 1813. 前浜. 文化 14. 1817. 夜須. 安政 4. 1857. 前浜. 慶応. 3. 1867. 十市. 明 治 34. 1901. 十市. 大 正 13. 1924. 十市. 日 召不日36 ∼37. 1961 ∼ 62. 前浜. 「土佐史談 」 100号 101号. 昭 和43. 1968. 十市. 補訂版 1972. 断 召不口46. 1971. 前浜. 文化 14. 1817. 十市. 天保 13. 1842. 前浜. 路. 志. 7 一 8 一 9 一 〇 1. 踏 冊 │ ∼ 5月. 一. 号. │. ・ ・ 一 2 ︲ 一 3 ︲ 一 4 ・ 一. 高知県史 古代 中世篇.   一 5 ︲ 一 6 ︲.

(4) ) 711 (2θ. 土佐幽考 ﹄ととも に、十市説 の中 に入れ 右 の文を見 ると、雅 澄は、桂井素庵 の ﹃望大港 詩文 ﹄を、安養寺 禾麿 の ﹃. て、 これを難 じ ている こと は明白 であ る。少 しく長 文 であ るが桂井素庵 の ﹃望大港 ﹄なる文 を左 に掲げ て 見 て み た. い。東京大学史料 編纂 所 々蔵 ﹃土佐国群書類従巻第九十 一、地 理部六﹄所載 の文 による。原文 は自文 で、私 には難解. の個所 が多 いが、 でき るだけ句読点、返 り点、送り仮名 を付 け てみた。ご教示ご叱 正を乞う次第 である。. 望 大 湊 二 ・ 載 之 後撰所レ 知 、任満 帰 レ 京。現 レ 風 繋レ 績、濡 滞 隔歳 而詠二 也。往昔紀貫之守二 干是 ・ 十市 員 田邑 東 畔 一 港 在二 、 手結 一 文献 可 τ徴、 然 嘗 読一 者 云、出二 和食。 無二 或 在二 在二 ■︵日記 一 謂、在 二 浦戸 一 照月 歌 一 即 此 処 也。或 鋼 一雖 レ. 、 非 浦戸 非 和食ノ 也、固 分明 ノ而其 非 干司奈 多  標 松カ仕原版一 厨 船丹L ゝ一 云一ヱ下過 宇 ︲上  則 大湊 ■山 口千 容斉二 泊 追二 、 浦戸 一 ム 更 ォ 奮一 中 ィ Z半 スゝ上 買 l り二 青 H垂 ノ ョ 三 一 万一 モ斉 一 七を 三 毛 ル於 ラ 月ラ ノ 一ゴ二 一t   甲 ﹂ 名 ノ日 τ 4中 二 ・ ・. 国分寺 L洛女贈三 池 与二講師 一 贈三 餓物 自二 若菜並 歌 自二 季衡長谷部行政等再 来 惜 レ 別、 L 手結 ■ 亦 釜考 校 諸 Ъ藤言実橘一 夕二 ・. 大島対 二 峙 ﹂ 抑 湊 之 於 宇 津 山 ヽ雖 殊境 檻 外 一東   望二則 黎 山 ・ 村 。 以 折 L︵文 勢 審   重︵事 理 則 判 然 也 実 。 二 二 一 一 一 一 二 的 現 海 天 指 画 之 L雖 不 中 門 敵 闇 開 遂 焉。 南 北 蝉聯 相 引 至 十 市 ・衣 笠 ヽ而 両 嶺 中 間 断 而 相 向 管 、 ン レ 一 二 二 二 一 、往 観 焉 。 今 悉 作 砂 浜 田畠 ヽ里人説     ﹂ 吋 貝 殻 随二 鉦黎 一 出  故 以 レ 貝 禅 師峯 寺 一 其 許一 央 。余 年 少 遊 二 遠・ 不ン レ 二 一 ハ ン テ く &一 免ル村持蛤離場由日 日日付乙謂如 配Wo 姦歪p陵谷 土 町在製琳r灯。. 宇 禅 峯 仏島 勢 相 堆 一鉾 天 形 双 嶺 開 墨 海 浅 無 桑海 変 流 伝 紀 記名 来 獣 雌 韓 は 抑 湊 之 ﹂以 下 ︶ は、大湊 推定 地 の地 形 だ 鍬 況 を描 い て いる。宇 前 半 は土 佐 日記 本 文 の記 事 を 述 べて いる が、後 半 ︵﹁ ま ︲ 津 山 以 下 の地 名 は別 掲 第 1図 に記 入 し てお く が、 浦 戸 湾 の奥 の桟 橋 の辺 から、東方 を 望 む と 季 山 と 大 島 ︵五台山 ︶ が. 相 対 し、南 と 北 に山 々が相 対 し な が ら 東 方 に続 き 、 南 は十 市 、 北 は衣 笠 ま で至 る。 こ こ で南 北 の山 は相 離 れ て土 地 が. 四 国 第 二十 二番札 所 、 通 広 く 開 け る。 あ た か も 往年 の海 であ った状 景 を 現 出 す る 。 そし て作 者 年 少 の時 、禅 師 峯 寺 ︵. 称 峰寺 ︶ に遊 ん だ 時 に、 そ こ に行 って見 た こと が あ る。 現在 は こと ご と く砂浜 と 田畠 であ る が 、 里 人 語 って言 う よう.

(5) 71θ. 竹 村. (21). 義 一. 廿碑 環 I. 十 Z. 誨 ヽ1錦 ﹁ ヨニ. 神汁 津潮. ヨ跳潮に卜 回. E碑 ト 饉 叫南. 詳尊叶. Ξ測憫. 諄蓼. 錦汁 錦泄. E汁. 詳尊 卜創 饉 卜餌. E精 > 耐 回 、 へゝ ゝ. 昂 ココ. 詳尊湘蝋. E料 鋼. 藤冷. (尊 日油)准. 薄檬 )曽 │││ HOOO. 〕津簿剛十. ` 洋 Э満糠. ヽ1由. ︱ 絆ン. 酎 ご料 辞. “ooo      卜ooo日. ≧幾ゞ. 環 コ 喜 甜鵬 彗 篤 う 廿薄. NOOO. 洋尊い幾奮 ●料輌 鋪痛翌. 卜蒔 汁讐. 454瑳.

(6) (22) 7θ 9. 、南 部 を浜 改 田村 と称 し た。 明 治 二. 、 。 旧改 田 ﹁スキ ・ク ヮ で地 面 を 耕 す と 員 が 出 てく る。 故 に貝 田と 村 の名 を つけ今 は改 田と書 く ﹂ こ の地 域 は  ま さ に 、 、 天 正 の長 宗 我 部 地 検 帳 ・南 路 志 ∧ 一八 一三∨ には蚊 居 田村 と あ り ︶ であ って 旧十市 村 の東 側 旧前 浜 村 の西 側 に 村 ︵ 、 な る 。 十 市 ・前 浜 の両 村 に狭 ま れ た地 域 であ る。 明 治 に 入 って 北 部 を 里改 田村. 、 。 二年 里 改 田 の北 側 の片 山 村 と こ の里 改 田 ・浜 改 田と の三村 が 合 併 し て三 和村 と 称 し た それ は十 市 村 の西 側 の 池 ・ っ いる。 。 仁 井 田 ・種 崎 の三村 が 合 併 し て三里 村 と 称 し た のと軌 を 一にし たも の であ る 三和 村 は現在 は南 国市 に入 て. 、 、 改 さ て右 に見 てき た よ う に、 桂 井 素 庵 が 上 佐 日記 の大 湊 に比 定 し た のは 望大 港 詩文 の叙 述 の示 す 如 く 現在 の里 、 ど、 田 ・浜 改 田 の地 域 であ る こと は疑 い のな いと ころ であ る。 し か る に雅 澄 を始 め 大 正十 三年 の ﹃高 知 県史 要 ﹄ な 。 、 ほと ん どす べて の土 佐 の研 究 者 たち が、 これ を 十市 説 と な し てき た のは 何 に起 因す る の であ ろ う か 、 。 問 題 の根 源 は、 冒 頭 の ﹁港在 十 市 貝 田邑 東 畔 也 ﹂ の読 解 にあ る 十 市 員 田邑東 畔 とく に十市 員 田邑 の解 釈 を 如 何 。 ︶ にす る か にあ る。 地 図 にも 示 す よう に、 十 市 村 の東 側 に貝 田村 があ る の であ る 武藤 平 道 の ﹃大 港 考 ﹄ ︵一八 一七.   〃平 道 按 に、 十 市 蚊 居 田村 は浦 戸 よ り 一里 ば かり の所 にし て、 ま たと ま る べき湊 あ る べく も あ ら ず ⋮ ⋮″と 雅 澄 も、. 、 十 市 ″と 速 断 し 、   〃員 田邑 ″ を 無 視 十 市 ″ と と って いる。 ど う も だ れ も皆 、 ﹁港 在 十 市 ﹂ ま で読 ん で   ″ と 同 じく 〃. 。 し 、 後 半 の手 山 と 大 島 ︵五台 山 ︶ の間 から 東 望 し て、 改 田 に至 る叙 述 を 見 逃 し て いると し か 考 え ら れ な い と ころ で 、 諸 説 一覧 表 0 の吉 村 春 峰 一 M矩さ は十 市 村 庄 屋 役 勤仕 で維 新 後 は高 知 県 庁 に出 仕 し のち ﹃土 佐 国 群書 類 従 ﹄を 編纂. 、 し た篤 学 の士 であ る が 、 か れ の ﹃大 港 考 証 ﹄ は、 土 佐 日記 の地 理的 研 究 の書 と し ては そ の論 証 が論 理的 実 証的 であ 。 ﹃土佐 国群 書 類 従 本 ﹄ によ る。 る こと は類書 中 の白 眉 と 言 う べき であ る。 そ の春 峰 は次 の如 く 述 べて いる 、 ⋮ ⋮ こは云 ひざ ま あ や し く て いづ こと も 聞 き と り が た し 。 員 田と は や が て改 田な るが   こ の処 は 十 市 の 東 にあ れ. ば 、 十 市 の東 畔 は 即 ち 改 田 の西 畔 な るを 、 かく い へる は いか にぞ や。 さ れ ど も 意 は十市 の東 畔 改 田境 の事 とす る か . . . .. .か .、 . . . . . .麟 以 下 に .ま .恥 . .こ .き .と .見 .る .と .な .ぃ 肝意 .と .辟 ら東 .り .畔 中 略 ︶ ま た十 市 の東 な る改 ︵ ︱ 前 浜 ︱ て野見 嶺南 云 ると ころ な れ.

(7) 一 義 村 竹 8 (23) 7θ. 弁 へた るを 見 る べし ︵ 傍 点 竹 村︱︱ こ のあ と に嶺南 の説 を論 じ て い る︶. 春 峰 は、 素 庵 の文 を 解 し難 し と な し つ つ、 最 後 には、素 庵 の意 図 す ると ころ は、 改 田 の東 畔 と す る な ら ば 、 それ は. 嶺 南 の言 う 前 浜 説 と 同 じ に な ると言 って いる。 ただ 春 峰 も 〃望 大 港 ″ の最初 の 一行 で判断 し て いる よう で、 後 半 の改 田 の景 観 描 写 の意 味 を 把 握 し て いな い のは他 と 同 じ であ る。. 春 峰 も言 う よう に、十 市 と 改 田と いう 、 いず れも 村と いう 同 列 のも のを 並置 し た こと に こ の文 の不 可 解 の原 因 が あ. る。素 庵 の心 事 を 推察 す ると 、 十 市 は峯 寺 も あ り有 名 な村 であ り 、 彼 の住 ん で いる高 知城 下 から は東 への 道 を 取 れ ば 、 五台 山 の次 は十市 であ って、 馴染 み の深 い土 地 であ る。 彼 の詩 文 の中 にも 幼 時 十市 の峰寺 へ参 った つい でに改 田 ま で足 を のば し たと書 い て いる よう に、 改 田 は十 市 の向 う にあ る、 な じ み の薄 い土 地 であ る。 従 って思 考 過 程 と叙 述 の心 理 から 言 つて、十市 の向 う にあ る改 田と いう ほど の気 持 ち で 〃十 市 貝 田邑 ″ と 記 し たと 考 え る べき で な か ろ う. か。 こ の詩 文 の後 半 に描 か れ た 地 域 は、 ま さ しく改 田 であ って、 そ れ は いみじ く も吉 村春 峰 の言 う 如 く 、 嶺 南 の前 浜 説 と 同 じ にな る 。 地 図 でも 示 す 如 く改 田は、 前 浜 説 のいう古 大 湊 湾 の範 囲 の中 に合 ま れ る から であ る。 素 庵 の筆 勢 か ら す れば 員 田邑 の東 畔 は 貝 田村 の東 の部 分 と と る のが妥 当 であ ろ う 。 桂 井 素 庵 の ﹃望 大港 ﹄を 従 来 、 十 市 説 に入れ て.   ″改 田説 ″と し て 〃 き た のは誤 り であ る こと を 指 摘 し、 彼 の説 は、 前 浜 説 ″ の中 に合 め る べき であ ると 提 案 す る。.   安 養 寺 禾 麿 の ﹁土 佐 幽 考 ﹂ の 説 に つ い て 〓一 ︱ ︱ 付 、 谷 秦 山 の奥 宮 正 明 へ の 書 簡 に つ い て ︱ ︱. 前 述 の雅 澄 の地 理弁 の大 港 の項 の冒 頭 に、 禾麿 の ﹃土 佐 幽 考 ﹄ の説 を紹 介 し、 雅 澄 は 〃 十市 説 ″ と し て紹介 し、 前 泊 地 の浦 戸 か ら わ ず か 一里 ば かり で近す ぎ ると し て、 素 庵 の説 と 一緒 に 否定 し ている。 禾麿 の大 湊 に つい て の説 明. は、 右 の地 理弁 に引 用さ れ て い る が、 そ の全 文 を高 知 県立 図 書 館 所 蔵 ﹃土 佐 幽 考 ﹄ によ って左 に掲 げ る。 大  湊.

(8) (24)7θ 7. 土佐 日記地理考. 所¨ 貴 繁 栄 せ 也中 古 為 二怒 浪 一 大 湊 啓田 処 上是 也 伝 云 古 有二 古湊 一 没 ︵ 傍点 竹 村 ︶. 十 市 の浜 と池 の浜 と の堺 、古 湊 と 称 す る処 ″と 右 の文 中 の ″. れば、 そ の入 □と し ては格好 の地 形 を な し て いるЭ. 北 東 ︶ から南 方 海 岸 に向 って写 真 田 は、 こ の記 念 碑 の左 下手 ︵ し たも の であ るЭ ここは極 め て低 湿 地 で、 往 昔 港 が あ ったとす. 県 道 沿 い に、 大 正十 二年 に建 てた耕 地 整 理 の記 念 碑 が あ る。 写. 、 、 高さ2 ︵ 1 m︶丘 が あり そ の上 に住吉 神 社 が あ り そ の北 側 に. な お こ の丸 山 の西端 から 県 道 を 西 へ百 屑 ほど 行 く と 小 高 い. ら 外 し て、 池 説 に入れな け れば なら な い。. べて池 分 であ る。 し たが って禾 麿 の土佐幽 考 の説 は、 十 市 説 か. こが港 の入 口 で、 内 奥部 に港 があ ったとす れば 、 これ ま た、 す. であ ったと す れ ば 、 それ はま さ し く池 村 の領 域 であ る。 ま た そ. 約 六 百 房 は、 池 分 の砂地 と いう低 湿 地 帯 であ る 。 仮 に そ こが港. そ の西麓 は十 市 、池 両村 の境 界 線 であ る。池 村 の出 津 山 と の間. 、 高 さ約 0 西端 には丸 山 と いう小 さ な円 錐 状 の山 ︵ 4 m︶ が ぁ り. 第 1図参 照 ︶十 市 村 の 海 浜 の る。 し か し そ の地 形 を見 る に ︵.   一般 の通説 と な って いる よ う で あ 県 史 要 ﹄ も 十 市 説 と なし 、. は何処 か。 雅 澄 は、 これ も十 市 説 に入れ、 大 正十 三年 の ﹃高 知. 写真(1)砂 地 (古 湊と伝 えるあた り)県 道よ り南方海岸を望む。.

(9) 一 義 村 竹 6 (25) 7θ. こ こ で池 説 に つい て 一言 し てお く 。 これま で、 前 掲 の表 の如 く、 特 に池 説 を 立 てた学 者 は見当 ら な い。 し か し谷 秦 山 ͡萩 ェ 甦 ︶が奥 宮 正明 一埜 お ︶へ贈 った書 簡 に、 大 み なと池 の事 と は 不存 候前 ノ浜 の事と のみ存 候 。池 に ては大 か た有 之 ま じく存 候 。. と 、 あ ると いう 。 原 典 を ま だ探 し当 て得 な い の で、吉 村春 峰 の ﹃大 港 考 証 ﹄ から孫 引 き し ておく。 こ の書 簡 の書 か れ. た時 期 は未 詳 であ る が、 大体 一七 〇 〇年 前後 と 推定 さ れ、 桂 井 素 庵 の ﹃望 大 港 ﹄ の出来 た時期 と ほ ぼ同 じ であ る が 、. こ のご ろ前 浜 説 が か な り 流 布 し て いたと いう こと と 、池 説 を なす も のが存 し た こと と が裏書 き さ れ る。. 池 の地 元 の人 々 の間 では、 い つの ころ から か、貫 之 が船 を 泊 め た大 湊 は、 こ の池 であ ると 言 い伝 え 、 そ の中 の大 浦. 土 地 の人 は オ ー ラと 呼 ぶ︶ が 停 泊 の候 補 地 で、 大 浦 は大湊 の意 であ ると言 う 。池 村 の入 日 の西端 の山 ぎ わ を 出津 と ︵. い い、 大 浦 と 出津 の中 間 の山 ぎ わ に は曳 舟 と いう ホ ノギ ︵田地 の小 区 画 ⋮小 字 程度 ︶名 があ る。池 村 は か って入 江 で. あ って海 に つな が って いた こと 及 び 紀貫 之舟 泊 の大 湊 は、 こ の地 であ ると いう こと が、 地 元 の人 々の間 に今 も 語 ら れ. 1発行 、高 知 県長 岡 郡 三里 村 、 三里 尋常 高 等小 学 校 内 、 郷 土 調 査 部 て いる こと は 事実 であ る。 こ の項 、 昭和 7 ●2 ●1 編 輯 兼 発行 ﹃村 の こと ど も ﹄ 及 び池 地 区在 住 、池 内 久美 ・浜 田紘 一そ の他 の人 々によ る。.  ″ な お ﹁幽 考 ﹂ の文 中 、 古 湊 ″ と あ る のは、 ﹃南 路 志 ﹄ ︵一八 一三成 立 ︶ の池 村 の条 に、 住 吉 大 明神 古湊 祭 日 ⋮ ⋮ ︵ 以下 略︶ . 西 と あ る。 こ の 〃 住 吉 大 明神 ″ は、 前 記住 吉 神 社 を指 す こと は確 か で、 古 湊 西 と いう 記 述 も 現状 と 一致す る。. な お本 題 から それ る が、 こ の池 村 の北 部 に水分 と いう 部 落 があ り 、 そ こに 日記 の十 二月 二十 三 日 の条 に、 り っぱ な. 態 度 で ″馬 のは な む け ″ をす る ″やぎ のやす のり ″ の子孫 と 伝 え ら れ る 八木 氏 が 一六 〇 〇年 代 の中 ご ろ から 住 ん で い 4﹂ に発表 し たと ころ であ るc な お そ の後 、戸 部 懸山 の ﹃大 湊 紀 た こと に つい ては、 私 が ﹁高 知 女 子 大 国 文 5号 ・昭 4 〓 ︲ 対妊 ︵  〃 行 ﹄ の中 に、 今 は蛹 と かく ︶ ︵ 和名 抄 の大 曽 ・獣雌 現在 の南 国 市 後 館 の南方 の大 き な賓名 ︶ の八木 氏 が 池 村.

(10) (26)7θ 5 土 佐 日記地理考. 池 千 拓 の願 いを 藩 庁 に出 し、 野中 兼 山 か ら 八木 義 兵 衛 あ て の許 可書 が 正保 二年 ∧ 一六 四 の池 を 千 拓 し て池 へ移 った ︵. 五 ∨ に下 り て いる ︶ ″ と いう 記 事 に出 合 い、寺 石 正路 氏 の言 う 大 踊 の八木 氏と 水分 の八木 氏 が 一致 し た。 これ で新 改. の米 が 内 ︵八木 が内 の転 ︶ の八木 氏 、 大 蛹 の八木 部 落 の八木 氏 、 水分 の八木 氏 は 一本 の糸 に つな が る こと は可 能 性 が.   〃やぎ のやす のり の子 孫 であ る確 率 は高 く な ったと言 え よう 。 強 く な り 、 八木 ・小 南 両 家 の伝 承 と 結 び つけ て、 ″   〃池 村 の池 を ほし て田と し た、 そ のほと り の 〃 聞⋮ 古 湊 と い ふは、其 ゆ る ︵ な お こ の感山 の ﹃大 湊 紀 行 ﹄ の中 に、. 水 門 ︶ の所 也 。 む か し は湊 も あ り し に や。 ″と あ り 、 前 述 ﹃南 路 志 ﹄ の記 事 と 、 よ く 一致す る。 ただ し懸山 は、 す ぐ. そ のあ と に続 け て 〃あ る説 に ﹁日記 ﹂ にあ る大 湊 のあ と な り と い へれ ど 、 左 にはあ ら ず、 大 湊 は前 浜 ・久 枝 の方 にあ. り 。 ″ と 、 否 定 し て い る のは、前 浜 説 主 張 者 と し ては当 然 であ ろう 。 し か し、 感山 が、 ﹃大 湊紀 行 ﹄ を 成 し た安 永 四 年 ︵一七 七 五︶ ご ろ に、 池 説 のあ った こと を 示 し て いる。. 古 湊 ″ と いう 地名 は、 現 在 の こ こ の小 字 は 〃住吉 ″と 言 い、 土 地台 帳 そ の他 の記録 にも存 在 せ ず 、 土 な お、 こ の 〃. 地 の人 も 地名 と し て使 用 し て いな い名 称 で、 昔 港 が あ ったと いう 伝 承 と し て 〃古 湊 ″と いう呼 称 が伝 え ら れ て いる。   〃池 ″ の項 が の って いる 。  〃 大 湊 ″ の次 に、 な お 、 ﹃土 佐 幽 考 ﹄ に は、 池. 小湖 ・ 大湊 ・ 中 世 亡 実 如 今 湖 口塞 而自 為 二 十市 村 一 当時此 地 有 二 古 者 唯 池 一村 耳 後 分 置 二 出 同 書 在 同 郡十 市 村 之 西 二 二 二 一 一 右 の文 中 の ﹁ 此 地 ﹂ が 、 分 村 し て か ら の十 市 を さす か、 あ る いは池 を 指 す か、 あ いま い であ るが、標 題 が ﹁池 ﹂ であ. る か ら 、 分 村後 の、 つま り 現在 の池 と 考 え てよ い であ ろ う 。 右 の文 中 の同 書 と は ﹁土 佐 日記 ﹂ の こと であ る。. 右 のよう な次 第 で、 私 は、安 養 寺 禾麿 の ﹃土 佐 幽 考 ﹄ を 十市 説 から 外 し て、 別 に池説 を 立 てねば なら な い こと と な った 。.

(11) 四. 則浜 説 の 系 譜 一. 大港図記﹂ に ついて 四 野見嶺南 の ﹁ 大湊紀行﹂ に ついて ︱︱ 付 、戸 部感山 の ﹁. 成 立 安 政 4 ● 一八 五七 ︶ で紹介 し 、 これ を支 持 し てから 一般 に広 く 知 ら 野 見 嶺 南 の説 は、 鹿 持 雅 澄 が ﹃地 理弁 ﹄ ︵ れ る と ころと な った 。 主 要 部 分 を左 に掲 げ る。. ⋮ ⋮ 野見 嶺 南 卜云 者 、 香 美 郡下島 村 卜云 処 二住 メリ シガ 、 曲 二地 ヲ見 定 メ テ、 熟 考 ヘテ、 我 慮 ノ真 南前 ノ浜 卜云 ル. 義. 一. 括 弧 内 は竹 村 。 以 下同 じ︶ イ ヘリ シ ニイ サ ヽカ タガ フ コト ナ シ、 ︵. 又本 ノゴ ト ク潰 レ シトゾ 、 シカ レバ大 港 ハ嶺 南 ガ説 ニヨ ルベ シ、 カク テ岡本 信 古 ガ 云 シ ハ、 大 港 ノ所在 ハ、 嶺 南 ガ.  マコト ニ港 ノサ マア ラ ハレタ リ シガ 、 ソノ後 自 ラ ニ沙 入 リ テ、 ノ砂 石 ヲ海 二流 シ、 広 ク大 キ ナ ル凹 ノ地 ニナ リ テ、. 亥 ノ大 変 ″ と 言 う ︶ 二、 カ ノ嶺 南 ガ 云 シ、 港 ノ胤 ナ ルヲ、 果 シテ イ ニシ文 化 十 二年 ︵一八 一五︶ 乙亥 ノ洪 水 ︵〃. 地 、 イ ニシ ヘノ大 港 ノ樅 ナ リト云 テ、 安 永 年 中 ︵一七 七 四 ︶ ソノ図説 ヲ著 シタ リ シガ 、 ナ ホ イブ カ ル人 モア リ シ趣. 村. 前 出文 化 2 ナ リ シフ、 又 シ モ文 化 ノ洪 水 ︵ 1年 ∧ 一八 一五 ∨乙亥 の洪 水 の時 の こと を く り 返 し述 べて いる︶ 二砂 ナガ レ、 港 ノ如 ク ナ リ タ リ シ ヲ、 又 ヤ ウ ヤ ウ潰 レシナ リ、 サ レバ大 ミナ ト ハ、 今 ノ物 部 川筋 ョリ ハ、 西 ノ方 ニアリ シナ. り ︶ ノ高 潮 二、右 凹 ノ処 ノ砂打 ナガ サ レ、 海 卜 一ツ ニナ リ、 港 ノ如 ク ナ リ テ アリ シガ 、 ヤ ウ ヤ ウ沙 入 テ本 ノゴ ト ク. サ ル ニヨリ テ、 ソノ所 ヲ古 港 卜称 ヒ、 沙 地 凹 ニナ リ テ アリ シヲ、 宝永 四年 丁 亥 ︵一七 〇 七 、 十 月 大 地 震 、津 波 あ. と し た の で、 大 港 は自 然 潰 れ た のであ ろ う と 言 って、 さ ら に続 け て. 口が 広 く な った所 が大 港 であ った。 そ の川筋 を 寛永 の ころ 野中 兼 山 が埋 め て、 そ の水 を今 の物 部 川 に落 し、 跡 を 田地. と 推 賞 し 、 次 に、 も と は今 の物 部 川 の外 に、 西 の方 に別 の川 があ って、前 浜 久 枝 両 村 の間 を 流 れ て海 に入り 、 そ の河. 竹. 4(27) 7θ.

(12) (28) 7θ 3. 土佐 日記地理考. リ ト イ ヘリ 、. 嶺 南 の前 浜 説 を右 の雅 澄 の推 挙 の文 によ って、 そ の概 要 を. こ の書 を な し た翌年 、 安 永 四年 ︵一七 七 五︶ 二月 、戸 部 懸山. て の構 想 は、 大 港 図 によ って語ら し め た いと 思 う 。 かれ は 、. し く こ の文 に触 れ る こと は でき な い の で、 かれ の大 港 に つい. 寓 居 は、 図中 の千 屋 ︵ 箭 ト モ︶城 のほと り にあ った。今 は詳. 紀 氏 が 舷 側 によ って文 藻 を 練 った情 景 を 夢 想 し ている。 彼 の. 丘 の上 の巌 田 ︵ 伊 都多 ︶ 神 社 のほと り に はグ 繋 績 の幹 ′が あ り 、. て述 べ、 往古多 数 の船 を いれ た賑 か な 港 の景 観 を想 像 し 、 砂. べて、 上 流 より 下流 に到 る 沿岸 の風 景 、 地名 、史 蹟 等 に つい. 郡 十 有 八 里美 良 山 一と 鏡 川 ︵ 今 の物 部 川 ︶ の河 口 であ ると 述. こ の ﹁大 港 記 ﹂ は、ま ず ″ 大 港 嚇 畔 ぜ ″、 源 出一鑑 ︵ 香美 ︶. 畦だ■わ蓄ほぽ裁辞崎ω輌肪∞囀がゆ討協賓け初てく︶  ͡ フ oo. そ のあ と に、 ﹁大 港 記 ﹂ と いう 五百 字 余 り の漢 文 を のせ て い. と を 述 べている。 そ の次 には、 大 港 周 辺 の素 描 略 図 を 描 き 、. に、安 永 三年 六 月 の百 三十 字 ほど の漢 文 の ﹁大 港 図 記自 序 ﹂ が あ り 、  ″大 港在 下 田村 郷 也 ″ と 前 浜 村 の下 田村 にあ る こ. ﹃大 港 図 記 ﹄ は、前 出 の土 佐 国 群書 類 従本 によれば 、初 め. 明 か に し た の で、嶺 南 の著 作 に つい て見 る こと とす る。. 写真12)琴 平山よ り東方,古 大湊湾 (推 定)を 望む。一―前方右手海岸の松 林よ り左手の少 しひっ込んだ所の林のある辺が前の浜で港の中心地。.

(13) (29). 竹. 村. 義O. 7θ 2. ″ ?鶴 シ″ケ 「. ロ ギ =眈 五 野鷲審 曹 曰 主. Ц. 書: ①ル 笏 r“∞ 射ず ミ. .LF. 薫裳 │ │. 手 責警│. :猟. ___/知γ 際熙 鰊 1、 、. _、. _、. 夕. ___. ‐ヽ. 脚 :HI 1魂. :. 野見嶺南作「 大港図」. 高知県立図書館蔵『 皆山集』所収 (原 図は色彩画。本. 、 昭、 ヽ ′ 参 文 明 説 の 尾 末 稿. 第 2図. ラ ′.

(14) )7θ I (3θ. 土佐 日記地理考. が 大 湊 の史 跡 を 探 訪 し た際 、 道 案 内 を し たが 、 こ のあ と で感山 が 、 ﹃大 湊紀行 ﹄を 著 し た時 、 大 湊 の図 を嶺 南 に書 か. し め て これ を 校 し ている 。 ﹃大 港 図 記 ﹄ の図 と 、 ﹃大 湊紀 行 ﹄ の図 は 、 ﹃図記 ﹄ の方 が 、 や や絵 図的 であり ﹃ 紀行﹄. の方 が地 図 化 が進 ん で いる が 、 全 体 の主 要 点 は 、 ほと ん ど 同 じ であ る。 なお同 じ ﹃図 記 ﹄ でも 、﹃土 佐 国 群書 類 従 本 ﹄. 、 、 と こ こに掲 載 の ﹃皆 山 集 本 ﹄ ︵ 昭和9 4年 刊 行 高 知 県 立 図書 館 版 第 8巻 所 収︶ と では 地 形 ・地名 は ほと ん ど 同 じ. であ る が 、 ﹃皆 山 集 ﹄ の方 は絵 図 的 要素 が少 し強 い。 そ の他 ち が う 点 は、右 肩 の長 方 形 の枠 の中 に ﹃皆 山 集 ﹄ の方 は. ﹁大 港 図 ⋮ ⋮ ﹂ と あ る の に ﹁群 書 類 従 ﹂ の方 は ﹁照 る月 の⋮ ⋮﹂ と いう 和歌 が書 か れ て いる。 こ こには ﹃皆 山 集 ﹄ の 方 を のせ た 。 原 図 は色 つき であ る 。. 戸 部 懸 山 の ﹃大 湊紀 行 ﹄ は 、 嶺 南 の前 浜 説 を さ ら に肉付 け し補 強 し ており、 さ き に池 説 を 述 べた時 引 用し たよう に. 歴 史 的 地 理的 内 容 が豊 富 であ る が 、 詳 し い こと は割 愛す る。 な お こ の書 に つい ては、 清 水 孝 之 氏 の労 作 ・ コ戸部 感山. 9 ・21 4︶ が あ る。 の ﹃大 湊 紀 行 ﹂ ︱ 翻字 と論 考 ︱ ﹂ ︵﹁県 民 ク ラブ ∧ 高 知 広 報 社 ∨ 一四 九 ︱ 一五 一号   昭 3 国   浜 田春 水 氏 の ﹃土 佐 日記 の大 湊 ﹄. 現代 に な ってから は、 野 見 嶺 南 と 同 じ く、 前 浜 村 の下 田村 に住 む 浜 田春水氏 の研 究 が あ る。 氏 は か って私 が ﹁高 知. 8と に、 そ の ﹁大津 関説 ﹂ を 紹介 し た こと のあ る 土 佐 日記 に関 す る郷 土史 の研 究 家 であ るが 、 も 女 子 大 国 文 9号 ︵ 昭4. と 前 浜 村長 を 勤 め 、 か つ物 部 川 の水 利 事 業 にも 関 与 さ れ、 物 部 川流 域 ・前浜地 区 の歴 史 と 地 理 にく わ し い方 であ る。. 6 ・6 ﹁土佐 日記 の大 湊 ﹂、 同 一〇 一号 昭 7 ・3 ﹁土 氏 は多 年 の研 究 の集 積 を ﹁土 佐 史 談 ︵ 土 佐 史 談 会 ︶ 一〇 〇 号 昭 3 3. 9ヽ 南 国 市 教 育 委 員会発 行 ﹃土 佐 日記 と 南 国市 ﹄ に増 補 訂 正 し 佐 日記 の大 湊 口 ﹂ に発表 し て いる 。 ︵こ の二篇 は 昭 和 4 て収載 さ れ て い る ︶ 右 二篇 の論 文 の要旨 を 紹介 す る こと とす る。.

(15) 一 義 村 竹 (31) 7θ θ. ま ず高 知 平 野 の物 部 川沖 積 地 帯 におけ る物 部 川 の性 格 と 役割 を 歴 史 的 に見 たあ と で、 ﹁大 湊 湾 の追 跡 ︱湾 であ った. 想定 を 可能 にす る材 料 ︱ ﹂ と し て次 のよう な点 を 挙げ て いる。. 則浜 の小学 校 の南方 、 後 川 にか か る前 浜 橋 の東 方 三〇 屑 ぐ 同  一. 竹村︶ ︵. 註︶右二つの事例とも雅澄 の ﹃ ︵ 地理弁﹄に述 べているところである. 変 以来 、 こ の地点 を 切戸 と 呼 称 す る こと と な った。. 水 を 見 た が、 切戸 を押 し抜 い て外 洋 に退水 し た。 これ ら の異. ど が全 線 決 潰 によ る大 氾 濫 は、 旧大 湊 湾 の再 現 と 思 わ れ る湛. に達 し た。 ま た文 化十 二年 ︵一八 一五︶物 部 川 堤防 のほと ん. 5号 線 の辺 ︶ 浪 に押 し切 ら れ て、波 先 は立 田往 還 ︵ 今 の国 道 5. 口と考 え ら れ る地点 であ る が、 宝永 四年 ︵一七 〇 七︶ 二番津. 削浜 海 岸 と 久枝 海 岸 と の境 界 線 ︵ 四  一 切戸 と呼 ぶ︶ は、 大 湊 湾. ︵ 註︶右3例ともその材木の年代が分らない。 ︵ 竹村︶. が 現 れ た。. 0   浜 改 田東 場 の第 二放 水路 工 事中 にも 砂丘 北 側 地底 から材 木. 底 に材 木 が横 たわ って いた 。. ②  一 削浜 地 区伊 都 多 神 社 西隣 の民 家 が井 戸 を 掘 った際 、 井 戸 の. 地 整 理 の排 水路 工 事中 に地 底 から 櫓 が掘 り 出 さ れ た。. 和小 学 校 南 方 ︶の西 南 方 の遠 く な い所 で、耕 田  蚊 居 田城 址 T 一. 写真(3 前浜橋よ り西方を望む。左方森は伊都多神社。前方右方低 き山は琴平山。.

(16) (32)699 土佐 日記地理考. ら い の河 床 に大 き な松 の木 の残 根 が 昭 和 一 一年 の後 川改 修 工事 の際 掘 当 てら れ た。 寛 政 四年 ︵一七 九 二︶ の暴 風 で. 中 程 が折 れ た 繋 績 の松 と いう のが あ り 、 野見 嶺 南 は、 そ の枯 幹 に縄 目 の跡 が残 って いる のを 目 撃 し たと 記 し て い. る、 そ の松 の木 だ と 考 え ら れ て いる。 勿論 船 の綱 を つな いだ松 と 言 っても、平安 朝 の ころ のも の では な く 、舟 泊 に. 植 え つが れ てき たも の であ ろ う が 、古 来 こ の地点 が舟 泊 の中 心 地 であ った こと を物 語 るも のであ る。 便 利 だと し て、. 0   日章 地 区 上 田 村 で発 掘 さ れ た多 く の石 器 のう ち に漁 携 用 の拳 大 の石 錘 が出 た。 こ こか ら 三〇 〇 房 の東 方 は湾 岸 が 想 定 され る 所 。. 削浜 小 学 校 北 方 三〇 〇 房 の耕 田 で五世紀 ご ろ の生 活 地 が発 掘 さ れ た が、東 方 ま 近 く 湾 岸 が想定 さ れ る。 m  一. 削浜 地 区 西 方 砂 丘 裏 耕 地 底 から 、 漁 携 用焼 粘 上 の土 錘 ︵ 0  一 内海 用 ︶ が 出 た。 ︵ 岡 本 健 児 氏 鑑 定 ・弥生 期 ︶ 註︶ 右010は、紀氏当時よりは古いも のであるが、参考になるので挙げた。 ︵ ︵ 浜田氏︶. 浜 田氏 は右 の ほ か 、 湾 あ る い は内 海 であ った こと を 示 唆 す る地 名 や、 交 通 ・祭神 そ の他 多 く の点 を 挙 げ ている が 、. こ こ には割 愛 す る 。 な お浜 田氏 に は ﹃懸 山 の大 湊 紀 行 の地 理的 背景 ﹄と いう労 作 が あ る 。 ﹁県 民 ク ラブ T同知広 報 社 ︶. 0年 3 ●5 ●0 ●1月 ︶ ﹂ 昭 和 9刊 行 の前 記 ﹁土 佐 日記と 南 国市 ﹂ に補 訂 一六 〇 ・ 一六 一 ・ 一六 五 ・ 一六 六 号 ︵ 昭和 4 1 1 4 収 載。. 浜 田氏 は右 のよ う な 歴史 的 地 理的 探 求 のほか に、 土 佐 日記 の本 文 の解 釈 を根 拠 と し て、 種 々考 証 し ておら れ る が 、. 十 市 説 の系 譜. そ れ は、別 の機 会 に稿 を 改 め て論 ず る こと とす る 。 五. I A  士口村 春 峰 の ﹁大 港 考 証 ﹂ の説 I. 私 は、 饂 で桂 井 素 庵 、 L で安 養 寺 禾 麿 を十市 説 に非 ずと 判 定 し た の で、十市 説 の提 唱 者 と し ては、 慶 応 の吉 村 春 峰.

(17) 義 一 竹 村 698 (33). 珍 を挙 げ な け れば な ら な い。 彼 は宇多 の松 原 と の位 置的 関 係 から次 のよう に立 論 し てゆ く 。 一 M疋ェ. 宇 多 の松 原 は 地 理弁 の説 く 如 く 香美 群 兎 田な る べけ れ ば 、 たと ひ浦戸 より 大 港 ま で遠 く と も 、 こ の所 より 西 な る こ. と 論 な け れ ば 、 ま づ 地 理を も て考 ふる に、 久 し く船 が か りす べき 港 あ る べきと ころ は、 か な ら ず さ し 出 た る山 ば な な どあ り て風 し のぐ べき た より な く はあ る べから ず. と 、 ま ず港 に は山 が 必要 であ る こと を指 摘 し て、 十 市 に そ の適 地 を 見 いだ し て次 のよう に述 べる。. 東 は月 見崎 ま た護 摩 が滝 な ど い ふと ころ のほと り 、 む か し は荒 波 のよせ けむ さま も 見 え 、 それ より西 は謂 ゆ る十市. 、 ひ の池 動洵遭M池 ゝは州 に て、東 西 南 北 拾余 丁、今 に ても雨 ふれば ひと つ ゞき の湖 と なり て港 口さ へ開 たら む には 実 に 力 大 湊 と も い ふ べき 様 な るを 、 西 は今 石 土神 社 のま し ま す と ころ のほと り も か なら ず 浪 のあ ら ひし さ ま も 見 え 、 それ. より 北 に続 き て、 な し ︵ 梨 ︶ 浦 、 あ り 浦 な ん ど い ふと ころ のほと り も 何 と か や港 のみぎ はと も い ふ べき さ ま なり。. 桂 井 素 庵 の ﹃望 大 港 詩文 ﹄ に既 出 ︶ のあ る 八葉 山 の端 から 西 方 阿戸 の石 土 神 社 の辺 を 経 て、 丸 山 に到 と 、 禅 寺 峰寺 ︵. る 間 を 入 □と す る石 土 池 周 辺 を 大 湊 の推 定 地と し て、提 唱す る。 これ を 十市 村 石 土 池説 と よ ぶ こと と す る。 こ こに注. 目 す べき は、 割 註 と し て春 峰 は、 今 の石 土神 社 か ら波 の寄 せ る所 ま ではき わ め て近 か った ら し いと 述 べて次 のよう に 言甲つ。. 元禄 年中 よ り 記 せ る斎 藤 唱水 罐炉 が 日記を 見 る に、浦 戸 は古 のす さ き 也 云 々海 辺 へを り さ せ給 ひ波 打 ち き は の中 よ 傍点 竹 村 ︶ り 岩 土 と て小 社 あ り 云 々、 岩 穴 あ り云 々此 岩 穴 云 々﹂ と あ り 心 を つく べし ︵. 右 の 日記 の筆 者 斎 藤 唱水 は、 五代 藩 主豊房 に仕 え た文 人 であ る。 す さ き は州崎 か。 海 辺 へ下 り た のは藩 公 であ ろう。. こ の 日記 は吉 田東 伍 が ﹃大 日本 地 名 辞書 ﹄ に春 峰 の ﹃大 湊 考 証 ﹄ か ら 引 用 し て いる中 にも は い って いる。 こ の日記 の. 原 典 を探 し て いる がま だ 見 つか ら な い。 唱水 の記述 は断 片 的 にし か紹介 さ れ て いな いが、 これ を 信 用 で き る と す れ ば 、 元禄 の ころ波 打 ち ぎ わ にあ った こと にな る。.

(18) (34)697. 、 こ の社 は延喜 式 内 社 で 初   春 峰 は続 け て石 土神 社 に ついて述 べ. 、 揃   八葉 山 に 旧く よ り此 大神 を斎 き 祭 れ る も も と この所 大 港 な. の   し にぞ べ き 所 あ る り               池 ︲こ ・ o c 〃 鮮 と 一つの傍 証 と し て主張 し て いる 続 け て春 峰 は 阿戸 ″ と い. 加う地名によりどころを求めて次のように述べる。. と. どと へ 、 ・ ・い ヽ﹁ .. .. あど t ′ 地 名 を 挙 げ 、 あ ど は お ど の転 語 で大 港 の こと で. 一 副   八 葉 山 の端 よ り 西 丸 山 ま で余 が 湊 口 に てあ り つら ん と お ぼ ゆ む            ´                       ス2‘ T ン多 重. 嘘   る と ころ 東 西 拾 余 町 民 屋 二百 戸 ば か り あ る と こ ろ の総 名 を 諄. 劉 あ る と 、 古 事 記 の橘 の小 門 や 万 葉 集 巻 三 の明 の大 門 の例 を あ げ. 同   春 峰 を 継 ぐ者. 硼て論証している。. 土 石   . 勲             ︱ ︱ 明治 の服部 精 四郎 と 昭 和 の山 本 笹 樹 氏︱ ︱ 写. 話 が少 しく雑談的 で裏話的 になるが、私 が諸説 一覧 表 掲 載 の山 本 笹 樹 氏 の ﹃十市 村古 事 考 ﹄ を高 知市 内 の 一書 店 で.

(19) 竹 村 義 一 696 (35). 入手 し た のは、 そ の補 訂 版 の出 た 昭 和四十 七年 の ころ であ った。 著 者 は十市 の峰寺 の北方 栗 山 に住 む、 も と陸 軍 中 将. で、兵 学 を 研 究 さ れ た 人 であ る が、 戦後 郷 里 に こも り十 市 の歴 史 の研究 に没頭 し てお ら れ る篤 学 の士 であ る。 私 は先. に紹介 し た前 浜 下 田 村 の浜 田春 水 氏 の土 佐 日記 に対 す る 傾 倒 ぶり に深 く 感 銘 し て いるも の であ る が、 こ の 山 本 氏 の. ﹃古 事 考 ﹄ に出会 って、 前 浜 説 と十 市説 と真 実 の峰 に登 る路 は異 るけ れ ども 、 そ の郷 土 への愛 情 と 真 実 探求 の旺盛 な. 精 神 に深 く 心 を打 た れ た の であ った。 お 二方 と も、 も う 相 当 のお年 であ ら れ る が、今 な お、 私 の 言 う 〃幻 の 港 ・大. 湊 〃 の現実 像 再 現 への意 欲 を 燃 や し てお ら れ る。 浜 田氏 が昨 年 、 これま で の論 文 を集 成 補 訂 さ れ た こと はさ き に述 べ た が、 山 本 氏 は ﹃古 事 考 ﹄ の三訂版 を近 く 刊行 さ れ る こと にな って いる。. 地 学 ︶ 川添 晃、池 の郷 土 史 研 究 家 の浜 田紘 一両 君 そ の山 本氏 を 十 市 栗 山 椎 実 庵 に訪 ねた のは、 高 知 小 津 高 校 教 諭 ︵. 諸 と 池 ・十 市 の実 地 踏 査 を し た本 年 六 月初 め の こと であ った。 そ こで私 は、 山本 氏 が引 用 し て いる 服 部 仏 角 の論 文 ︵. 説 一覧 表 参 照︶ の出 所 を 尋 ね た。 それ は十市 の人 で小 学 校長 を し て いた山 本 美 猛 と いう 人 の書 き 残 さ れ たも の であ っ. た。 こ の美 猛 氏 の令 息 の早崎 重 威 氏 は私 の親戚 に当 り 、 か ね て父 君 が土佐 日記 の熱 心 な 研 究 家 であ った こと を き いて. いた が、資 料 の類 は も う 分 ら な いと いう こと であ った。 は か ら ず も そ の資 料 の 一つが残存 し て い て、 山 本笹 樹 氏 が閲. 読 し、 現在 は故 人 の娘 さ ん の溝 淵 乃文子 さ ん のも と にあ る こと が判 明 し最 近 それを 見 る こと が でき た。 A 5判 の罫紙. 五十 七 枚 か ら成 り ﹃十 市 史料 遺 蹟 第 五巻 ﹄と 題名 を つけ てあ り 、 そ の大 部 分 は当時 の文献 で十 市 に関 係 のあ るも のを. 書 写 し たも の であ る。 そ し て、 そ の中 の四十 枚 ほど が、 ﹁土 佐 日記 大 港 に関 す る先 輩 の考 証 を 批 評 す 服 部 仏角 ﹂ と い. 局知 教 育 雑 誌 一〇 在 東 京 服 部 仏 角   明治 二十 四年 六 月   一 う 標 題 で始 ま り 、 な か ば あ たり に、 標 題 は同 じ であ る が、 ﹁. 九 号 ﹂ と書 いてあ る 。 高 知 県立 図書 館 で探 し ても ら った が、 こ の雑 誌 の こ の号 はな いと の こと であ る。. と ころ が大変 迂 闊 な話 であ る が、池 田亀 鑑 先 生 の ﹃古 典 の批 判 的 処 置 に関 す る研 究 ﹄ の ﹁土 佐 日記本 文 研 究 年表 ﹂. に、 明 治 丹 四年 二 ・五月 、 服部 精 四郎 稿   ﹁土 佐 日記 大 港 に関 す る先輩 の考 証 を 評 す ﹂ 歴史 地 理 三巻 三 ・五号 と あ る.

(20) (36)695. 5 6 の に気 が ついた。 国 会 図 書 館 に所 蔵 し てお り 閲 読 す る こと が でき た。 ただ 残念 な こと に、 歴 史 地 理 三巻 三号 の5︲ 5.  ″ 在 文科 大学 、 服部 精 四郎 ″ と な って いる。 頁 が欠 頁 で標 題 執筆 者 名 が わ か ら ぬ が、 四 ・五号 には右 の通 り にあ り 、 た だ本 題 に入 る前 の約 一頁 ぐ ら いは、 山 本 美 猛書 写 の前 記 資 料 と は違 って いる。. 、 こ の服 部 精 四郎 は服 部 仏 角 と 同 一人 であ る こと は疑 いな い。 そ し て調 べてみ ると、 この服 部 精 四郎 は この論 文 執 、. 筆 の年 、 明 治 三十 四 年 に東 京 大 学 国 史 学 科 を卒 業 し、 のち 改 姓 し 西 内 姓 と なり 、後 年 私 立 土 佐 高 等 女 学 校 長 と な り. 。 同 校 の発 展 に 尽力 し た 人 物 で、 高 知 では知 名 の士 であ った 西 内 精 四郎 そ の人 であ る こと が判 明 し た 、 こ の服 部 仏 角 の論 文 は、 吉 村春 峰 の説 を 踏 ま え て発 展 さ せ た長 篇 の力作 で、 春 峰 に劣 ら ぬ論 理的 実 証的 な論 考 で. 文 章 も 力 の こも った格 調 の高 い文 語文 の名 文 であ る。結 論 は春 峰 と違 わ な いの で、 いず れ 改 め て本 論 篇 で扱 う こと と. 削浜 説 に対 す る批 評 ﹂ のと こ 第 二  一 し て、 こ こに は割 愛 す る。 た だ 彼 の論 法 を よ く表 わ し て いる 一例 を 紹介 す る。 ﹁. ろ に、 前 浜 説 が近 く に山 のな い物 部 川 の河 □港 であ って、 風 浪 土 砂 のた め変 動 し やす く不 安 定 であ る と いう 、 主 と し. 十 市 説 の根 拠 と し て ﹁港 には 必ず さ し 出 た る山 ば な な ど があ 前 述 の如 く 、吉 村春 峰 も 〃 て十 市 説 側 の論 難 し て いる ︵ って風 を し のぐ たよ り が 必 要 だ ﹂ と言 って いる 。 ︶点 に触 れ て、. ⋮ ⋮ か つ現今 の地 勢 よ り 推 す も 、 往昔 物 部 川 の下流 は、 此 辺 一面 に氾 濫 し、其 間 に数多 の洲 島 あ り し如 く 思 は るれ. 中 略 ︶前 浜 に反対 す る論 者 は、 凡 そ港 の ば 、 古 此 川 口に川 港 あ り し と す る は 似 つか は しき説 と いはざ るを得 ずЭ ︵. あ る処 は必 ず さ し 出 た る山 あ り て、 風 波 を し のぐ べき 便 あ る べき に、前 浜 に はさ し出 た る山 な し 、 故 に前 浜 に は古. 港 あ り し と 思 わ れ ず と い ふを 以 て、 唯 一の利 器 と な せ ど も 、 こはう け がたき論 なり。 た と ひ さ し 出 た る山 な く とも 。 川 口広 く し て島 洲 な ど あ り た ら ん には、 な ど か其 間 に船 を 寄 す べき 処 な から んや 物 部 川 の川 口 に古 港 あ り し と の 説 は、 如 此 き 理由 を 以 て卒 に排 斥 し去 るを 得 ざ るなり 。. か と 思 う と 一転 し て次 の如 く前 浜 に釘 を さ す こと を忘 れ な い。 ま こと に十 市 説 支 持 者 と し ては 、り っぱ な 見 識 であ る 。.

(21) 竹 村 義 一 (37) 69イ. 鹿 持 翁 は、 嶺 南 が前 浜 説 を 唱 へし後 、 宝永 文 化 両 度 の大 潮 に、 其 地 点 の砂推 し流 さ れ て港 の形 を な し た るを 以 て、. 嶺 南 の説 を た し か め るも のと し 、 福島 氏 又之 を賛 せり。 然 れ ど も 、 よ し や大 潮 のため に陸 地 裂 か れ て港 形 を な せ し. と も、 之 を 以 て直 ち に大 港 の跡 な るが為 め なり と断 ず る は、 頗 る危 険 な り と謂 はざ るを得 ざ るな り 。 要 す る に物 部. 川 の 口に往 昔 港 あ り しと の説 に は反対 せざ るも 、 之 を 以 て卒 に紀 氏 月 下 叩植 賦 胃 漢 の地 に擬 す る に至 ては、 早計 な り と 評 せ ざ るを 得 ざ る な り 。. な か な か 以 て見 事 な論 法 であ る。 彼 の前 浜 を しり ぞけ、十 市 を 支 持 す る論 述 に つい ては、 稿 を改 め て論 評 し た い。.   〃服 部 仏角 の論 説 に準 拠 し て、吉 村春 峰 の ﹃大 港 考 証 ﹄を 更 に布 延 補 強 さ て、 山 本 笹 樹 氏 は氏自 ら も 言 う よう に、. し な がら解 説 を 行 な い″所 論 を 展 開 し て石 土池 説 を 主張 し て い て、 ま さ に十 市 説 の集 大 成 と いう べき労 作 であ る。 き. わ め て広 汎 な 歴史 的 地 理的 知 識 と資 料 の博 捜 と 飽 く こと のな い探 求 心 に は お のず と頭 が下 が る。 と く に、 海 難 と神 社. 信 仰 の問 題 を 取 り 上げ 、 石 土 神 社 の盛衰 が大 湊 の盛 衰 と 一致 し て いる こと を考 証 し て、 石 土池 説 の支 柱 と し て いる点 は、 傾聴 に値 す る。 ま た ﹁歌 枕 十 市 の池 ﹂ の研 究も 精 細 であ る。. エ ハ  結. 大 湊 に私 は立 ち向 った の であ る が、今 回 は種 々の事情 から 、 研 究 史 ︱ ︱ それ も 先 人 の主 と し て、 歴 史 的 地 理的 研 究 の. わ る土 佐 人 の 一人 と し て現在 の時 点 にお い て、 可能 な 究 明 を 急 がな け れば な ら な いと 念 願 し て、 最 後 の最 大 の難 関 、. えら れ る岸 本 海 岸 の松 も 、 梢 の上 に鶴 のイ メージ を 描 き得 るも のは、 わ ず か に数 本 に過 ぎ なく な った。 国 文 学 にか か. を偲 ば せ る風 景 が多 く 残 って いる土 佐路 にも 、 近年 、道 路 ・住 宅 ・工場 等 の開 発 の波 が押 し寄 せ て、 宇 多 の松 原 と 伝. 元禄 の ころ 以来 約 二世 紀 に わ た って論 争 が続 い て いる。 国府 跡 ・国 分 寺 周 辺 から 室津 に いた る道筋 に は、 いま だ往 時. 地名 と し ても 残 ら ず 、 港 と し て の痕 跡も と ど め ぬ 一千 年 前 の幻 の港 、 土 佐 日記 の大 湊 を追 い求 め て、 地 元 土 佐 では. び.

(22) 跡 を た ど るだ け で筆 を お か ね ば な ら な か った。 そ し て諸 説 の中 でも 、 最 も 多 く論 ぜら れ て いる前 浜 ・十 市 と 池 にと ど. ま り 、夜 須 そ の他 は触 れ得 な か った。 右 三者 に つい ても 、 残 し た 問 題 は多 い。 そし て本 文 の解 釈 の問 題 、隣 接 諸 学 の. 成 果 の援 用等 に つい ては、 す べて次 の機 会 に譲 ら ざ るを得 なく な った こと をお断 り し ておき た い。. な お本 稿 を 成 す にあ たり 、 高 知 県 史 編纂 事務 局 ・高 知 県 文書 学 事 課 ・高 知県 立図 書 館 ・国 立 国 会 図 書 館 ・甲 南 女 子. 大 学 図 書 館 の方 々並 び に、 浜 田春 水 ・山 本 笹 樹 ・溝 淵 乃文 子 ・利 岡 富 次 ・浜 田紘 一・岡 本 健 児 ・市 村 金 次 郎 ・川添 晃 の諸 氏 に、 調 査 な ら び に資 料 等 に つい て、 ご 高 配 ご 教 示 を 賜 った こと を 深 謝 す る。. 付  記. 明 治 二五年   福島 成 行 著 ﹃土 佐 日記 地 理考 ﹄ ・同   一 暑田貞吉 ﹁土 佐 日記 の地 理﹂ ︵ 壬 二年   一 歴史 地 理   一一 巻六 ・. 、 。 本 稿 に掲 載 の写 真 は、 す べて 昭 和 0 5 .6 ●1 筆 者 が撮 影 し たも のであ る. 林 は濃 緑 、 川 は青 、 道 は茶 色 、 点 線 で囲 ん だ古 大 湊 湾 は薄 い赤 茶 色 であ る。. と わ かり にく いが、 ﹁ 港   第 二  後 世港 也 ﹂ と 記 し てあ る。 原 図 は 美 し い色 彩 で描 か れ て いる。 山 ・岡 は 緑 、 森 ・. の花 を 縦 に半 分 に切 って、 さ か さ に立 て た形 の部 分 が、 古 大 湊 湾 推 定 図 であ る。 右 下方 の説 明文 が、 写 真 版 にす る. 野 見嶺 南 作 ﹁大 港 図 ﹂ の説 明 。  右 方 南 北 に貫 流 す る のが物 部 川 、 中央 から左 下 にかけ て点 線 に囲 ま れ た、 朝 顔. の地 理的 研 究 ﹂ ︵ 国語 教 育 一 一巻 二号 ︶ は未 見 。. 七 号 ︶ の 二論 考 は、特 に重 要 な 見 解 は見 当 ら な か った の で今 回 は 触 れ な か った。 大 正 一五年  松 沢 卓 郎 ﹁土 佐 日記. 1. (38)693 土佐 日記地理考.

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