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教材「ろくをさばく」考(4)

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Academic year: 2021

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(1)Title. 教材「ろくをさばく」考(4). Author(s). 佐野, 比呂己. Citation. 北海道教育大学紀要. 教育科学編, 60(2): A1-14. Issue Date. 2010-02. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/1103. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) 北海道教育大学紀 要. ︵教育科学編︶. 第六十巻. 第二号. 平成二十二年二月. 教材﹁ろくをさばく﹂考︵4︶. 野. 比呂己. 北海道教育大学釧路枚国語科教育研究室. 佐. 2. 1. 三井信託株式会社. 三淵忠彦についての資料. 教科書、及び指導書. 筆者・三淵忠彦. 一教材﹁ろくをさばく﹂. 二. 3. 本間喜一. 最高裁判所長官就任の経緯. ︵1︶. 石渡敏一. 4. ︵2︶. 長谷川如是閑・松永安左工門・佐々木惣一︹以上 ︵1︶︺. 交友関係. ︵3︶. 三宅正太郎. 5. ︵4︶. 富谷鉄太郎. 条. 教科書本文︼. ︹︵3︶︺. ︹︵1︶︺. ︹以上 ︵3︶︺. ︹以上 ︵2︶︺. ︵5︶. 信. 柄. 江橋括郎・宇野要三郎 6. 人. 教. 書. ︵6︶. 7. 宗. 要. 8. 概. 本箱は﹁教材﹁ろくをさばく﹂考︵1︶﹂﹁教材﹁ろくをさばく﹂考︵2︶﹂. 味. 読. 趣 ︵1︶. 9. の筆者の趣味、裁判に対する考え方について確認し、筆者の人となり. ︵2︶. ︻資料. ︻三淵忠彦・年譜︼. 浄瑠璃. ﹁教材﹁ろくをさばく﹂考︵3︶﹂に続くものである。本箱では﹁ろくをさ. ばく﹂. を明らかにしていく。筆者の教材として﹁ろくをさばく﹂を研究する上で、 その前碇としたい。. 研究の経緯. 本稿では、﹁教材﹁ろくをさばく﹂考︵1︶﹂、﹁教材﹁ろくをさばく﹂考︵2︶﹂、. で取り上げなかった忠彦の趣味について. 取り上げる。加えて裁判に対する考え方について確認し、筆者の人となりを. ﹁教材﹁ろくをさばく﹂考 ︵3︶﹂. ﹁教材﹁ろくをさばく﹂考︵3︶﹂に続くものである。﹁教材﹁ろくをさばく﹂. 明らかにしていく。. 本稿は﹁教材﹁ろくをさばく﹂考︵1︶﹂、﹁教材﹁ろくをさばく﹂考︵2︶﹂、. 考︵1︶﹂、﹁教材﹁ろくをさばく﹂考︵2︶﹂、﹁教材﹁ろくをさばく﹂考︵3︶﹂. は、次のように構成されている。.

(3) 佐 野 比呂己. 能. 松本金太郎、桧本長といった能楽師たちの面影が頭に浮かぶのだからその思. いは相当なものである。実は、このことは ﹁不思議なこと﹂ ではなかった。. ︵3︶. 能は、忠彦の父・安之助の趣味であった。. 忠彦は子どものころも能楽全てが退屈なものであったというわけではなかっ. それも能⋮坂とか、土蜘昧とか、望月、鉢木、夜討曽我、小鍛冶など. たのである。. 子どものころ、忠彦の家は牛込の矢来にあった。安之助は宝生流の謡曲を 暗んで、猿楽町に稽古場のある松本金太郎に師事する。忠彦は、安之助に連 れていかれ、松本金太郎宅の月並能に毎月欠かさず出席したという。それは 忠彦にとって甚だ迷惑なことであった。. ︵ママ︶. なら筋も判るし退屈どころか面白くもあつた。能⋮坂長範が、眼光らん. は、その堂々たる様子に身も魂もひきつけられた。吹けば飛ぶような. ︿たる魁偉の面をつけて大長刀を提げて橋掛へ現われたときなど. 座って御能を拝見するのはなか︿の難儀であつた。︵中略︶草紙洗、. 子方の牛若などは、物の数ではないように思われた。土蜘昧の蜘昧の. 日曜日に友達と遊ぶこともできず、一日はかまをはいて、行儀よく. 卒塔婆小町、野宮、弱法師、松風、能⋮野などになると、筋も判らぬし、. 糸も面白く、勇ましい一人武者も気に入つた。. もともと演目によっては、﹁身も魂もひきつけられる﹂ほど興味をひくも. 0. のろ︿のそ︿と、女や老人が出て来るだけで何をしているのか、 何をうたつているのか、さつぱり見当もつかず、退屈に退屈した。父 はと見ると、身体中を緊張させて、さも感に堪えたように拝見してい. たが、子どもの忠彦にとっては安之助のようには心に迫るものではなく内容. 安之助にとって能の鑑賞は一つ一つの演目に対し心動かされるものであっ. 野宮、弱法師、桧風、能⋮野などを、今は亡き父がしたように、身体中. 能を見るつもりだ。今度は前に退屈に退屈した草紙洗、卒塔婆小町、. 私の健康がも少し回復したらばぜひ三宅さんに案内してもらつて、. のもあったのである。. もよく理解できずむしろ退屈なものであった。忠彦は、子ども心にそれがい. を緊張させて拝見したいと思う。定めて勘に堪えるであろう。少しは. る。能の 世 界 は 子 供 に は 判 ら ぬ 世 界 だ と 思 つ た 。. やでたまらず、いつの間にか能に対する反感に変わっていく。やがて安之助. 幽玄の趣を昧い得るかも知れぬ。宝生流の能はぜひ見たい。九郎も、. 得、大成していたのであった。忠彦は能楽の講演会で三宅と再会を果たして. の書生をしていた。二十年の歳月を経て、三宅は能楽界において高い名声を. ﹁三宅さん﹂とは、能楽批評家の三宅嚢のことである。三宅は忠彦の旧友. 出ていたであろうのに惜しいことをした。. 本長は、私と大差ない年頃のように思う。存命ならば、今でも舞ムロに. 金太郎も、子方で舞台に出ていた松本長も、今では皆故人である。松. は東京から地方へ転任し、忠彦は能の鑑賞から解放されることになる。 ところが、約半 世 紀 の 時 を 経 て 、 忠 彦 の 能 へ の 思 い が 変 わ る 。. 近ごろになつて、不思議なことに、しきりに能が見たくなつた。宝 生九郎や松本金太郎や、子方であつた桧本長などの面影が浮かぶ。浦 島太郎に 似 た ふ る 里 へ 帰 り た く な つ た よ う な 心 地 が す る 。. 晩年になって、忠彦は能楽に郷愁の思いを駆られるのである。宝生九郎、.

(4) 考(4). 教材「ろくをさばく. いる。忠彦に能楽 へ の 郷 愁 を 呼 び 起 こ し た の が 三 宅 で あ っ た 。. 三宅さんには、能楽に関する数種の著述がある。三宅さんはそれを 贈ってくれた。私は昨年の秋から今年の春まで、病院で暮した。病床 のつれづれに、三宅さんの本をあれこれと読んで見た。そして数十年 前に観た能の記憶が、臆気ながら、なにくれと思い出される。しきり. 父は役人をやめて、閑散になつたので、わざわざ謡曲の修業に東京. へ出て来て、桧本金太郎のところへ通つていた。朝長を習つていた。. そのうちに病気になつて、東京の客舎で亡くなつた。病床でも朝長を 口ずさんでいた。. 安之助の能楽への打ち込み方が相当なものがあった。安之助は、東京を離. れてもわざわざ謡曲を習いに桧本金太郎のところに通うのであった。病床で. そして、忠彦も父と同様に晩年病床にあった。病床で三宅の能楽に関する. に能が見 た く な つ て き た の で あ る 。. 忠彦は三宅の書を通じ能への記憶をよみがえらせる。その記憶は安之助へ. 書物を読むとき、そこに安之助の姿、能楽を鑑賞した思い出が蘇ったに相違. も謡曲・朝長を口ずさむほどだったのである。. の郷愁の思いを呼び起こすものにもなる。安之助は旧主・松平容低空別で謡. ない。子どものころ、退屈だった能楽を今一度鑑賞したいと思いを強くする。. ヽ一 ト∨. 〇. ︵4︶. 劇. 8. お土産につられて、留守番をさせられたことがたびたびありました。. 母がまだ元気だつた頃、二人で歌舞伎に行き、われわれ子供らは、. 乾太郎によれば、忠彦は観劇も好きだったとい、㌔. 観. 破れた萱野権兵衛・安之助兄弟の境遇が忠彦には重なって見えたに相違な. 平治の乱の敗戦により東国に落ち延びる源義朝・朝長一行と、戊辰戦争に. は朝長を謡つて亡くなつた。私は朝長を見るに忍びない。. たゞ一つ朝長の能だけは見たくない。朝長は不運な人であつた。父. 賞したくない演目があった。それは朝長である。. を味わうことができると忠彦は確信するのである。しかし、ただ一つだけ鑑. 今なら、退屈だった能楽もきっと ﹁勘に堪えるであろう﹂し、﹁幽玄の趣﹂. を披露したことがある。その様子を忠彦は次のように綴っている。. 私の宅に祖母の米寿の祝があつた。御客は御隠居様御一人であつた。. 御隠居様というのは今の桧平参議院議長の御父上の、桧平容保公のこ とで、父の旧主である。小鼓を打たれるので、御相手に、宝生九郎と、. 松本金太郎が来ていた。御隠居様は黒羽二重の御紋服で、端然として おられる。房々した真自な眉毛が目につく。謡が始まる、小鼓の音が する。父も名人の九郎、師匠の金太郎の尾に附いて謡う。恐らく父の 一世一代の晴の座であつたのだろう。慶応の年以来、幾多の覿難を閲 〇. には安之助の. みし来たつた父の一生は、この日ほど幸福の日はなかつたに相違な ヽ一 ト∨. 忠彦にとって、 安 之 助 は 畏 敬 の 存 在 で あ る 。 ﹃ 世 間 と 人 間 ﹄. 生き方に感銘していると思われる記述が散見される。旧主・桧平容保、名人 の宝生九郎、師匠の桧本金太郎とともに謡を行なったことは安之助にとって どれほど光栄なことであったろうか。この光景は子どもだった忠彦の目に しっかりと焼きつ い た こ と は い う ま で も な い 。.

(5) 佐 野 比呂己. −. 新劇も好きで、松井須磨子が死んだときは、父母とも異常なショック をうけたようでした。そうかと思うと、新国劇のフアンでもあり これは、たしか金井謹之介という俳優が父の指導した裁判官の令兄だ 私が大学を卒業した前後の頃は、. 頼み込んだ父の心臓も相当なものだと感心しました。. 洋画は岸田劉毎日本画では横山大観︸筆谷等観げ作品を収集し、﹁床の. 間に掛けたものは、二週間たてば、必ず別のものに取換える﹂ほど絵画を大. −. ったとい う 緑 も あ つ た よ う で す. 判. 切に扱っていたのである。. 裁. 思はない。むしろ法律位嫌いなものはないと思つてゐる。一体私は天. して衣食してゐる。併かし私は決して自分が法律家に適してゐるとは. 私に何の取り柄があるか。私は知らない。私は今法律家、裁判官と. いたのだろうか。. 忠彦は、自分自身が裁判の仕事に携わることについて、どのように考えて. 10. 築地小劇場の常連でもありました。私もお相伴をして、山本安英や友 田恭助らに熱中したものです。小山内氏の死後、築地小劇場では、思 想上の問題で分裂騒ぎが起ったわけですが、父はそのどちらをひいき にするということもなく、﹁西部戦線異状なし﹂などは、双方共、父 0 のお供で 、 見 に 行 っ た 記 憶 が あ り ま す 。. 忠彦は、先妻・久子と歌舞伎、新劇を楽しんだという。加えて、新国劇の ファンであり、築地小劇場の常連だったというから、観劇についてはかなり 意に介していたこ と が わ か る 。. 画. 性、勝負事が嫌いだ。︵中略︶ 勝ったり、負けたりする事を、自分で. 絵. ︵5︶. やつたり、人のやるのを見たりすることが大嫌いなのだ。裁判は人々. していました。院展の同人だつた筆谷等観の主な作品は、ほとんどが. 家、裁判官という仕事に適していると考えていなかったようである。さらに. 裁判官として活躍していた忠彦であるが、意外にも決して自分自身が法律. いてくれたのだ。. 只公正を愛する心のみが、十数年間に亘つて、私を裁判所へ繋いで置. の争をさばくことだ。どうして自分が裁判官に適当だと思はれよう。. 忠彦は絵画も好 き で あ っ た 。. 父は絵画が好きで、かなり集めてもいました。書籍を買い集めるこ と以外では、これが父の唯一の道楽と云えるのかも知れません。洋画. 父のところにあつたように思います。日本画は、一つ一つにかなり上. 適しているか否か以前に、むしろ. では、岸田劉生の作品を愛蔵し、日本画では、大観の軸数幅を大切に. 等な表装をし、床の間に掛けたものは、二週間たてば、必ず別のもの. いる。. ﹁法律位嫌いなものはない﹂とまで述べて. に取換えるという風で、保存にも気を追つていました。大観の作品の. が強いからだ. というのである。人々の争いごとに勝負をつける裁判ではなく、人々の争い. そんな忠彦が裁判の仕事に携わるのは、﹁公正を愛する心﹂. これは、若い頃裁判所で貰う一月分の月給を袋ごと差上げるからと頼. ごとを公正に裁くことに主眼を置いているのである。. ヽヽ 一つに、尺八絹本で、波間に泳ぐはやを描いたものがありましたが、. み込んで描いて貰つたものだそうです。それを引受けた大観も偉いが、.

(6) 考(4). 教材「ろくをさばく. 忠彦は、裁判官の態度について小林俊三に対して次のようにいったという。. 三淵さんは裁判官の態度として裁判官は白から公平無私の判断をす. 裁判所が公正な裁判を行ない ﹁正義と衡平﹂とを実現する場所であること. はもちろんのこと、さらに一歩進んで裁判所がそれらを実現する場所である. 裁判所をして、真に国民の裁判所となり、国民の信用を博し、信頼. ことが国民から信用、信頼を得るものでなければならないというのである。. 頼できると当事者や局外の人に思われなければならない、秤は物を確. をつながしめるには、裁判所自らが、良き裁判所となり、良き裁判を. ると確信しているだけではたりない、あの裁判官は常に公正である信. 実に秤ることができるのみならず、傍から見て確かであると思わしめ. 為さねばならぬこと勿論であります。私共は、全身全力を傾倒して、. とであり、﹁良き裁判所﹂とは. ﹁良き裁判﹂ が実現する場所であり、裁判所. ここでいう﹁良き裁判﹂とは公正であり正義と衡平とを実現する裁判のこ. この事の為に専念努力しなければなりませぬ。. るように、曲がったり傾いたりしてはならないといった。. 公正な裁判を行なうのはもちろんのこと、さらに公正であることを第三者 にも信頼させうるものでなければならないとしている。これはアメリカの法 学者であるパウン ド の 言 葉 と 重 な る も の で あ る 。. が国民から信用、信頼を得ることにより真の意味で﹁国民の裁判所﹂になる. 最高裁判所は、それまでの裁判所が行なっていた事件を取り扱うことはも. というのである。. 先生の言葉に、次のような意味のことがありました。﹃裁判所が、正. ちろん、国会や政府の法律、命令、処分が憲法に違反した場合には、そのこ. 近代の卓れた法学者、ハーバード大学の教授、ロスコー・パウンド. 義と衡平とを実現することは肝要なことである。併しもつと肝要なの. 忠彦は裁判官としての心得を次のように述べている。. ければならないとしている。. とが憲法違反であることを官三百して、いわゆる憲法の番人の役目を果たさな. 裁判所は国民の権利を擁護し、防衛し、正義と、衡平とを. は、国民が、裁判所は正義と衡平とを実現するところだと信ずること である。 ﹄. 実現するところであつて、封建時代のように、圧制政府の手先になつ て、国民を弾圧し、迫害するところではない。ことに民主的憲法の下. これは我国空前の制度であつて、私共はその運用の為に従って裁判. 官たるものは、法律の一隅にうずくまつていてはならず、限界を広く. にあつては、裁判所は真実に国民の裁判所になりきらねばならぬ。国 民各自が、裁判所は国民の裁判所であると信じて、裁判所を信用し、. 裁判官として、広く世間や人間を見つめ、人格、識見の向上に努めること. 0 ことは謂うに待ちませぬ。. わなければなりませぬ。人柄を磨き、人品を高尚にしなければならぬ. 向き様に、深甚の注意を払って、これに応ずるだけの識見、力量を養. し、視野を遠くし、政治のあり方、社会の動き、世態の変遷、人心の. ︹C. 信頼するものでなければ、裁判所の使命の達成は到底望み得ないもの でありま す 。. これは、最高裁判所長官就任式の日の新聞記者との共同会見の席上での挨 ﹁正義と衡平﹂とを実現するところだというパウンドの ﹁公正を愛する心﹂とは重なっていることが確認できる。. 拶である。裁判所 は 考えと、忠彦の.

(7) 佐 野 比呂己. を強く求めている。こうした努力の積み重ねがなければ、裁判官は﹁良き裁 判官﹂とはなり得ないのである。最高裁判所の制度を運用するためには、裁 判官が﹁良き裁判官﹂となり、十全の注意を払い、重大な責務の遂行に努め なければならないとしている。 また、忠彦は裁判に携わる仕事とは孤独であるともいう。. アメリカのホームズ判事が、法律家の歩む道は、ばらの花の咲いて いる花やかな道ではない。狂潤怒涛の荒れ狂う真只中へ只一人ボート で乗り出して行く様なものだ。自分自身の腕に信頼して、漕いで漕い で漕ぎまくるだけで、決して他人の助力はあてには出来ぬ。法律家と 謂うものは孤独なものだと云う意味のことを述べたものを昔読んだ辛 があるが、まことに其通りであると感じ、今も記憶して居る。裁判官 の仕事は自己の良心と、自己の判断のみを唯一の頼りとする孤独の道 である。そして如何なる場合にも、節操に屈せぬ決心と、その決心を 遂行するための鍛錬と修業が必要だ。芸人が芸道に精進する様な精神 をもつて、法律家が法律家の道を歩めば立派な法律家が出来るのでは なかろうか。そして裁判官や弁護士の信用と地位は高まる。︵中略︶. 何時完成するかあてのない道ではあるが、一生をかける値のある大き な仕事であも. 決して他者をあてにしてはならない。自己の良心と自己の判断をもとに仕. でもあるという。裁. 事を進めていかなければならないのである。裁判に携わる仕事は確かに孤独 かも知れないが、﹁一生をかける値のある大きな仕事﹂ 判に携わる仕事に対するやりがいを述べているのである。 そして、裁判に携わる仕事をやり遂げるには芸人が芸道に精進する精神を もって努力を重ねなければならないとしている。. この芸道に精進する精神は役人や裁判官でも同様であると思う。役. 人の苦心談は世の中に公にされていないから、芸道の苦心程には、世. 間には分っては居まい。よい裁判をする立派な裁判官になろうとする. には、この苦心と工夫、修業と鍛錬がどうしても必要なのだ。勉強す. ると云つても、只時間を潰して本を読むだけでは足りない。その勉強. には、苦心と工夫の精神、鍛錬精進の精神が伴っていなければならな. い。他人から教わり得ない、書物では学び得ないことを、自得する為. に、命がけで修行するという気持で勉強し、努力してこそ、始めて名. 判官になれるのだ。自分はお恥ずかしいがその段階に達せずして、遂 に今日に至つた璧. 単なる読書、勉強で終わるのではなく、芸人が芸道を極めるごとく、苦心. ﹁良き裁判官﹂. になることができるという。. と工夫の精神、鍛錬と精進の精神が伴い命がけで修行するという気持ちで取 り組むことによって. ﹁良き裁判官﹂ の道の中途にあると謙虚に述べている。. 一方、忠彦自身も﹁良き裁判官﹂となるために努力を積み重ねてはきたが、 未だ. 私自身も若くて裁判官をやり、ほとんど無我夢中で仕事をして来た. だけの話です。しかしながら自分の職業というものに喜びと楽しみと. を感じてずつとやつて来ました。これを感じない人は何年やつても上. 達する見込みはないと思う。やはりどんな職業でも、どんな仕事でも. 魂を打込んで一所懸命に鍛錬し、一所懸命に稽古していかなければな らぬものだと思うのです。. 私はこれから先も一所懸命になつて裁判のことをやりたいと考えて. います。しかし齢すでに六十九才、いさゝか日暮れて道還しの感があ. って、どれだけやつたらば一人前の裁判官になれるか大いに懸念して.

(8) 教材「ろくをさばく考(4). いるわけなんですが、できるだけのことはやりたいと思います。. ﹁良き裁判官﹂となるために、無我夢中に仕事をこなし、魂を込め. 億兆利欲の心に打ち勝つことは出来ぬ。悪を止めるの道は、威刑を主. としないで、政教を修め、人々をして生活の方法を得させ、廉恥の道. を知らしめるに越したことはない。故に悪を止めるの道は、その本を. 知つてその要を得るにある。厳刑を事としないで、政教を修めるにあ. る。﹄と。如何にも儒者らしい意見である。. 程伊川は八百五十年も前の中国の儒者である。陳腐なり、迂遠なり. とせられる遠い昔の儒者の言葉でも、私には陳腐でも、迂遠でもなく、. 今の時代にも顧みるに足る言葉だと思われる。. 強盗殺人が忠良なりし兵隊であつたり、窃次皿殺人が純良であつた大. 学生であつたりするのを見ると、私の心は暗くなる。. 悪な世相が裁判へと現われてくる。その中には悲惨なこともあり、遣. うに映つてきます。近頃のような険悪な世相になつてくると、その険. 福だと思つております。裁判には世間の事柄がことぐく鏡に写すよ. 状態を静穏ならしめたならば、これが即ち程伊川の所謂﹃本を知つて. 洋の歴史上の常例ではなかつたか。人々の生活を安定せしめ、世間の. 賊になり、政治が乱れると、良民は山林に入つて盗賊になるのが、東. 犯人の多くなるのは当然であろう。古来、飢饉のときには、農民は流. 世の中が治らないでは、犯罪が多くなり、生活が安定しないでは、. 憾なこともあり、いろいろなことがありますが、これによつて世の中. 要を得る﹄ ことになる。﹃政教を修める﹄ ことになる。そして更に教. ︵ママ︶. の事、人間の事、いろ︿な葛藤のあることを知ることができる。そ. うるに廉恥の道を以てしたならば、これが即ち犯罪の本源をふさぐこ. 一方で、忠彦は、裁判以前の問題に頭を抱えている。当時の日本の治安の 維持の問題である 。. ﹃多数の人々が邪欲の心を発する場合には、力を以. 施しても、到底その目的を達し得ぬであろう。. 生活が安定し、廉祉の風が行われると世間を静穏になるであろう。. 治安は維持せられるであろう。犯罪は減少するに相違ない。治安の維. 持は更に犯罪の減少に役立ち、相待ち相授けて、世間は益々静穏にな るであろ、つ。. 世の中が静穏になり、人々が安楽に生活し得るようになり、所謂文. 文化の進展に貢献し得るに至るのである。世の中が混乱し、人々が安泰. てこれを制せんとし、法を密にし、刑を厳にしても到底勝つことは出. である。人には欲心があつて、利を見ると、その欲心は動いて来る。. に生活し得ぬようでは、到底わが国の世界文化への寄与はむずかしい㌔. 化的な年括を楽しみ得るようになつて、始めてわが国の人々は、世界. まことに、教を知らないで、飢寒に迫られると、刑殺日々に施しても、. 来ぬ。その機を察し、その要を持して、その本源をふさぐことが大切. 程伊川 の 言 葉 に. とになる。この本源をふさぐことを怠ったならば、それこそ刑殺日々. うして自分自身の今までの考え方が間違っておつたということを自覚 することもしば︿あります。. 人にはなれまいと思います。私自身も裁判官となつたことを一生の幸. をよく︿自覚して一所懸命にやらなければ、とうてい一人前の職業. 達しない。自分の仕事に喜びと楽しみを感じ、その仕事に対する責任. 始終文句ばかり言つている人があるけれども、そういう人は決して上. 世間には自分の勤めに対していろ︿の不平をもち、不満をもつて、. と楽しみを感じていたことがわかる。. て鍛錬、稽古し仕事に打ち込んできている。さらに裁判官という仕事に喜び. 忠彦は. 34.

(9) 佐 野 比呂己. 盗殺人が忠良なりし兵隊であつたり、窃盗殺人が純良であつた大学生であつ. ないで、政教を修め、廉恥の道を教えることが肝要であると説いている。﹁強. 手ばさみ、子供を連れて旅路に上る。種をまきながら、子供を育てな. しみ悩む。一人の義人がその太陽を射落とすことを決心して、弓矢を. 一つ邪悪な太陽が現われた。その炎熱で、穀物は育たぬし、人々は苦. 台湾省原住民の説話に、太陽を射た話がある。昔、太陽の外に、も. たりする﹂というように当時の日本の治安はかなり乱れていたのであった。. がら、旅から旅へと渡り行く。年老いて死んでしまう。その子が父の. 程廣の弟・程陳の言葉を借り、犯罪を減少させるためには、厳刑を主とし. 当時の日本のあり さ ま を 忠 彦 は 次 の よ う に 述 べ て い る 。. 今の世相はまことに険悪で、日本でもこんなに道義が落ちた時代は. 失ごろに輝く。太陽日がけて弓を引く。切って放つた矢は、真つすぐ. 路に上る。やがてある朝、丘に立つと、邪悪な太陽があたかもよし、. 道志を継いで同じ旅路に上る。その子も老いて死んでしまう。孫が旅 従来なかつたであろうと思います。あらゆる留置場、刑務所は超満員. 日の必ず来らんことを確信する。. とミツとの流れるカナンの地に到達する日が来るであろう。私はその. が継続しょう。そしてある朝、太陽を射落としたように、何時かは乳. 本建設の旅路に上ろう。中道にして倒れたなら、子が継続しょう。孫. われ︿はこの義人のように、不退転の決意と気塊を以て、道義日. て、人々は幸福に暮せるようになつたという。. 渡る。見よ。邪悪な太陽は墜落したのだ。それ以来太陽は一つになつ. に、空へ空へと飛んで行く。大音響が天地も崩れるばかりにとどろき. 8. の形でもう収容する余力もないくらい繁昌しています。そうして泥棒 は頻々として起り、収賄、湧職は日常茶飯のごとく行われも. このような時代に、日本国民の生活を安定させる容易なことではない。か なりの時間を要す る こ と は 言 う ま で も な い 。. 道義の作振は、今においての最喫緊事である。これなくしては、世 の中の建直しは望み得ない。日本の再建は期待出来ぬ。併し道義の作 振はすこぶる困難である。ほとんどかぎり知られぬむずかしさがある。 徒に口舌をもつて為し遂げらるべきではない。いくら津々浦々を講演 して回つても、家ごと戸ごとにパンフレットを配つても、そんなこと では決して作振せられまい。一挙にして解決するには余りに重大な問 題であり、一朝一夕にして為し遂げるには、余りに根本的な事柄であ る。. 確かに世の中が落ち着かせるのは容易なことではない。しかし、忠彦は、. 台湾の原住民に伝わる太陽を射た説話を引用し、未来への希望を語るのであ る。. る素地ができるとするのである。. の力をあげて、その職務に精励する。そしてその職責を完遂する。こゝ. 各自の良心良識の命ずるところに従い、各自の職域において、精一杯. 教員でも、裁判官でも、弁護士でも、だれでも皆、この自覚の下に、. 人でも、農民でも、商人でも、技術家でも、労働者でも、学者でも、. 一義であることを自覚することから始めねばならぬ。政治家でも、役. 深く認識し、日本の建直しを堅く決意し、道義の作振が日本再建の第. 道義の作振は全国民の自覚に待つより外ない。国民が日本の現状を. の旅路に上﹂. 日本人全体が各自の場において真剣に働くことによって、一道義日本建設. 0 4.

(10) 考(4). 教材「ろくをさばく. かし元来日本には相当な文化があつたのだから、これが戦争に負けた. り世界の人々がいゝと思う方向へ、日本もいかなければいけない。し. わが国をいつまでも現状のまゝに置くわけには行かぬ。ヤミの日本. からといつたつて亡びるはずはないんで、日本人はやはりどの方面に. に道義作振の素地が出来上り、日本再建の夜明の鐘が鳴り響く。. を明るい日本に、不正不義の日本を正義の日本に、混乱混沌の日本を. おいても頭をもち上げていくように努力しなければならないと思、㌔. 忠彦は、日本の立ち直りを確信し、未来の日本のあり方を創造するのであ. て、日本は立ち直るというのである。. である。このことばを借りれば、日本人全体が職業を偉大にすることによっ. よってその職業を偉大なものにするか、低劣なものにするか決めるというの. がある。職業・職務には貴腰高下はなく、各自の従事の仕方が偉大か否かに. 従事する人の、その従事の仕方が偉大であれば、どんな職業でも偉大になる﹂. 忠彦がよく引用することばにオリバー=ウエンデル=ホームズの ﹁職業に. 秩序ある日本に、是が非でも改造しなければならぬ。われ︿は今こゝ に道義日本建設の大業に従う門出をする。前途は遠い。覿難は横たわ り、障害は頻起する。しかしわれ︿は不屈の勇気、不摸の気塊を以 てその覿険を乗り越え、その障害を払いのけて、ひたすらに前進しな 4. ければな ら ぬ 。. 敗戦時に世相が混乱し治安が乱れるのは何も日本特有の現象ではないので ある。世の中をよくしようとする努力を継続することによって、日本は必ず 立ち直ると忠彦は 考 え て い る 。. る。. 私は明日の日本に期待をかける。世の中が静穏になり、人々が安楽. 日本の将来はどうなるかと心配する人がずいぶんあるのですが、私 はこう思う。戦争に負けたあとはどこの国でもこうなんだから、日本. に生活し、所謂文化的の生活を楽しみ得る日の来り、世界文化の進展. ︵ ︶. ﹃釧路論集﹄第四十一号. ︺内の. 一一一頁 尚、︹. 十一. 数字は、﹁教材﹁ろくをさばく﹂考 ︵1︶﹂、﹁教材﹁ろくをさば. 北海道教育大学釧路校 平成二十一年︵二〇〇九︶. ﹃北海道教育大学紀要 ︵教育科学編︶﹄第六十巻第一号 平成二十一年 ︵二〇〇九︶. ︵教育科学編︶﹄第五十九巻第一号 平成二十年︵二〇〇八︶. 4. ばかりの現象ではない。今度の戦争は大きかつただけに、これが立直. ﹃北海道教育大学紀要. 注. に寄与し得るに至らんことを切に待望する。. 5. 三淵忠彦﹁能私語﹂昭和二十四年︵一九四九︶ 八月︵﹃世間と人間﹄朝日新聞社 昭. く﹂考︵2︶﹂、﹁教材﹁ろくをさばく﹂考︵3︶﹂の末尾数字をそれぞれ示すものである。. 4. 月. 3. 八月一一六頁. 2. 八月一一六頁. 1. りに時を要する。現今のように犯罪が多く、道義が頑廃しているとい ったようなことも、立直る途中の現象であつて、いつまでもこうでは ない。やがて立直るに違いない。また立直らなければならないはずの ものだ。だからそれほど悲観する必要はない。やはり希望を明日にか けて、お互いが前進に前進をしていく以外に方法はあるまいと思う。. それがためには、やはり自分みずからが従事する仕事に精励し熱心に 振興せしめるよりほかに道はない。各職域において日本人全体がほん とうに真剣になつて働きさえすれば、日本の立直りは容易であろ、㌔. 今後の日本は民主的になり、すべての事柄が欧米と同じように、世 界の通則に従ってやつていかなければならぬことになつたから、やは.

(11) 佐 野 比呂己. 和二十五年. ︵一 九 五 〇 ︶. 三人三九頁︶. 三淵忠彦﹁能 私 語 ﹂ 昭 和 二 十 四 年 ︵ 一 九 四 九 ︶. 八月︵注5. 四〇頁︶. 天保八大正六. ほうしょう. ︵一八八二︶ 五歳のとき父とともに上京、明治天皇行幸能に子方な. 能役者。宝生流シテ方。明治能楽界の重鎮・松本金太郎の次男として静岡県に生ま れる。明治十五年. かねすけ. けいこ. で延年之舞を演じて舞 0. 2. 辞典﹄︶. しげお. くず. 三淵忠彦﹁能私語﹂昭和二十四年︵一九四九︶ 八月︵注5 三人頁︶. 三淵忠彦﹁能私語﹂昭和二十四年︵一九四九︶ 八月︵注5 四二頁︶. みやけのぽる 三宅憲一八九七一九六五 明治三十昭和四十. 能楽協会の設立で書記長となり、機関誌﹁能﹂編集長をつと. の主筆となる。. 昭和時代の能楽評論家。明治三十年︵一人九七︶三月三日生まれ。昭和初年から﹁報. ︵一九四五︶. 知新聞﹂などの能楽欄を担当。﹁謡曲界﹂ ﹁金剛﹂編集をへて ﹁観世﹂ 昭和二十年. 本名は石田金市。著作に﹁能楽入門﹂など。︵﹃口本人名大辞典﹄︶. めた。昭和四十年︵一九六五︶十二月四日死去。六十人歳。島根県出身。明治薬専卒。. 三淵忠彦﹁能私語﹂昭和二十四年︵一九四九︶ 八月︵注5 四一四二頁︶. わかさのかみひごのかみ. まつだいらたかもり 松平容保一人三五▲八九三 天保六明治二十六 たかす. よしたつ. てんぽう. むつあいづ. ︵一人三五︶ 十二月二十九. 幕末の大名、会津藩主。通称は之允。号は祐堂、芳山。若狭守、肥後守となる。 みの. カたたか. ︵岐阜県︶ 高須藩主松平義建の六男として天保六年. ︵保科︶. じょうい. 家 ︵九代︶ を襲封した。公武合体論を唱え、文久二年︵一人. が職烈になった京都の治安維持にあたり、尊王壊夷派志士弾圧の指揮をとった。文久. の幕政改革で幕政参与となり、新設された京都守護職に就任し、尊王捷夷運動. 島県︶藩主松平. 日に生まれる。会津藩主松平容敬の養子となり、嘉永五年︵一人五二︶陸奥会津藩︵福. 美濃国. たた. ︵一九一七︶ 九郎が. どを勤め、のちに名人宝生九郎 ︵十六世︶ の門に入り、大正六年. 宝生九郎一人三七一九一七. ほうしようく ろ う. わせだ. 堅実にして端正な、品位の高い芸風で知られた名人である。昭和十年 ︵一九三五︶ 十. 野口政吉︵のち野口兼資︶ とともに宝生流の双璧とうたわれ、格調高く力感にあふれ、. そうへき. 没するまでその厳しい稽古を受け、宝生宗家を継承することにもなっていた。同門の. 六月八日江戸・神田に生まれる。幼名石之助。本名宝. ともゆき. 能楽師。能の宝生流シテ方宗家の通り名。八、九、十、十一、十二、十三、十六、. ︵一人三七︶ 家督を相続。明治維新後の能楽復興に力を注ぎ、. 一月二十九日早稲田大学の謡会で﹃国柄﹄を謡っていて急逝。五十九歳。芸談集に﹃松. ︵一人五三︶. 生九郎知栄。嘉 永 六 年. ひおけかな. がある。長男の孝は ︵筆名たかし︶ 俳人として名高く、﹁父酔ふてしきりに叩. たかし. 韻秘話﹄. たゆう. く火桶哉﹂の旬がある。次男の恵雄は、昭和十一年︵一九三六︶初舞台を踏み、その後、. ﹃関寺与市﹄。幕府が倒れると、隠居を決意し. いわれる。初舞 台 は 六 歳 で 江 戸 城 本 丸 の. に認定された。なお画家の下村観山、作家の泉鏡花は松本長のいとこにあたる。︵羽田. あたか. ﹃安宅﹄. におけ. ︵一. ﹃世界大百科事典﹄、増田正造﹁松本長﹂ ﹃日本大百科全書﹄、﹃日本人名大. 能楽界の中心人物となり平成三年︵一九九一︶ には重要無形文化財保持者︵人間国宝︶. けんぞう. かんじん. しし. ︵嘉永元年一人四八︶. まさひこふん. ︵昭和二十八年一九. 天保十四大止三. 刺﹁松本長﹂. て能を離れ、商人あるいは農業を志したというから、当時の混乱ぶりがしのばれる。. かね す け. だいすけ. はせがわかずお. ¶獅子の座﹄. 三月 九 日 死 去 。 八 十 一 歳 。 幕 末 最 後 の 勧 進 能. 十一月︶. 九月十九. 平成十三年︵二. 平成六年︵一九九四︶、上. 昭和六十三年. があり、父十五世宝生太夫友子に長谷川一夫、石之助に津川雅彦が扮した。著 平凡社. 小学館. ﹃世界大百科事典﹄. ﹃日本大百科全書﹄. ﹃謡曲口伝 ﹄ 。 ︵ 羽 田 刺 ﹁ 宝 生 九 郎 ﹂. 〇〇一︶. てんぽう. ︵一八四三︶. 三年. しれつ. 六二︶. 養子に入る。宝生九郎知栄を支え、明治期の宝生流を復興した重鎮。明治十五年. の尊壊派勢力を追放し、一橋慶喜、松平慶永、山内豊信、伊達宗城、島津久光ととも. よしのぷ. ひとつばしよしのぷ. よしなが. ひさみつ. はまぐりごもん. とよしげだてむねなり. ばんかい. きんもん. を起. ︵一人六三︶ の八月十八日の政変では、中川宮や薩摩藩らと協力して長州藩など. さつま. 八八二︶上京して能楽の振興につくした。次男松本長が跡をつぐ。大正三年︵一九一四︶. に参与として朝政に参画し、公武合体策による国政挽回を図ったが、内部対立のため. ながし. 十二月十六日死去。七十二歳。幕府崩壊後、徳川慶喜に随行して駿府に隠退し、慶喜. に失敗した。元治一年 ︵一人六四︶、これを好機として禁門の変 ︵蛤御門の変︶. 松本長一八七七一九三五. すんぷ. 明治十昭和十. まつもとながし. に謡曲を指南。孫 に 松 本 恵 雄 。 泉 鏡 花 は 甥 ︵ 妹 ・ 鈴 の 子 ︶ 。 ︵ ¶ 日 本 人 名 大 辞 典 ﹄ ︶. ︵一. 日生まれ。江戸出身。葛野流大鼓方中田万三郎の次男。宝生流シテ方の松本弥八郎の. シテ方。宝生 流 。 能 楽 師 。 宝 生 九 郎 知 栄 の 高 弟 。 天 保 十 四 年. まつもときん た ろ う. 松本金太郎一人四三一九一四. 田正昭・西澤潤 一 ・ 平 山 郁 夫 ・ 三 浦 朱 門 監 修 ﹃ 日 本 人 名 大 辞 典 ﹄ 講 談 社. 九八八︶、増田 正 造 ﹁ 宝 生 九 郎 ﹂. 書に. 五三︶. る少年石之助時 代 を 描 い た 映 画 に 、 伊 藤 大 輔 監 督 の. 九一七︶. の厳しい稽古ぶりは有名であった。宝生沈降盛の基礎を築いた功は大きい。大正六年︵一. けいこ. 本長、野口兼資をはじめ、近藤乾三、高橋進、田中幾之助らの名手逸材を育てた。そ. ながし. るまで該博な識見を有し、能楽界全体のよき指導者として畏敬された。門下にを. 調子の謡とでシテ方として優れていたのみならず、ワキ、磯子、狂二一口方の分野にいた. 台を引退、その後は後進の養成に没頭し、謡専門に転じた。気品高い芸風と豊麗な名. 支柱となり活躍 し 君 臨 し た 。 明 治 三 十 九 年 ︵ 一 九 〇 六 ︶. 高さ、たぐいない識見、故実の詳しさ、気品ある芸格、抜群の美声で、明治能楽界の. 明治十一年︵一人七八︶宮内省御能係となり、以後、能楽復興の支柱となる。人格の. みのるさ く ら ま ば ん ま. 初代梅若実、桜間伴馬とともに明治の三名人とうたわれた。最後の太夫らしい太夫と. ともはる. 男として天保八 年. てんぽう. 十七世の八人が名のり、とくに十六世が有名。十六世は、十五世宝生弥五郎友子の次. 7 6. 10.

(12) 教材「ろくをさばく」考(4). よしのぷ. こした長州藩を、薩摩・桑名落とともに撃退し、長州征伐には陸軍総裁職、のち軍事. ︵一人六七︶ とばふしみ. には日光東. ながあず. 薩長両藩の画策が功を奏し、容保諌戟の. ちゅうりく. 総裁職につき、また京都守護職に復した。その後、徳川慶喜と協力して条約勅許問題 などで活躍した が 、 慶 応 三 年 せんじ. 宣旨が出され、大政奉還後、慶喜とともに人坂に退去し、鳥羽・伏見の戦いに敗れて おううえつ. 海路、江戸へ逃れた。慶喜に再挙を説いたがいれられず、会津で奥羽越列藩同盟の中. ︵一八八〇︶. 三九頁︶. 三九頁︶. 十二月五日死去。五十九歳。︵井上勝生. 許され、明治十三年. ろうじょう. ︵一人七二︶. 心となり、東北・北越に兵を展開し、籠城のうえ降伏、鳥取藩のち和歌山藩に永預け の処分を受けた 。 明 治 五 年 照宮宮司となっ た 。 明 治 二 十 六 年 ︵ 一 人 九 三 ︶. 八月. ﹃日本大百科全書﹄、﹃日本人名大辞典﹄︶. 八月︵注5. ﹁松平容保﹂. 三淵忠彦﹁能 私 語 ﹂ 昭 和 二 十 四 年 ︵ 一 九 四 九 ︶. ︵注5. 三淵忠彦﹁能 私 語 ﹂ 昭 和 二 十 四 年 ︵ 一 九 四 九 ︶. ︵横道万里雄﹁朝長﹂ ﹃世界大百科事典﹄、増田正造﹁朝長﹂ ﹃日本大百科全書﹄︶ バ. 三頁. ︵2︶﹄﹂ ︵﹃判例時報﹄ 判例時報社 三四〇号 昭. 三淵忠彦﹁能私語﹂昭和二十四年︵一九四九︶ 八月︵注5 四二頁︶. 三頁. 三頁︶. 三淵乾太郎﹁﹃父、三淵忠彦を語る. 注19. ︵一九〇七︶ 東京高. 洋画家。明治二十四年︵一人九一︶六月二十三日、明治の先覚者岸田吟香の第九子、. ぎんこう. きしだりゆうせい 岸田劉生一人九一一九二九 明治二十四昭和四. 注19. 和三十人年︵一九六三︶ 八月一日. 9. 0 2. 2 2 2. せいきすい. ﹁雨﹂、明治四卜三年 ︵一九一〇︶ 年第四回文展. 英橋洋画研究所に入り、黒田清輝に師事して外光派の作風からスタートし、明治四十. ︵一九〇八︶ 白馬会. 四男として東京・銀座の楽善堂精水本舗に生まれる。明治四十年. 等師範付属中学校を三年で中退し、洗礼を受け、明治四十一年 あおいばし. ︵一九〇九︶ 第十三回白馬会展に. ︵文部省美術展覧会︶に十九歳で﹁馬小屋﹂、﹁若杉﹂が入選。そのころ、木村荘八、バー. かんぜもとまさ. きよもり. 二年. ともな が しゅら. よしともあおはか. 朝長 へいじ. の﹁義朝青墓に落ち着く事﹂。平治の乱で平清盛に敗れ、落武者となった. 動し、柳宗悦、武者小路実篤、長与善郎など白樺派の同人たちと交遊を始める。同誌. やなぎむねよしむしゃのこうじさねあつ. ナード・リーチを知り、また雑誌﹃白樺﹄ によりゴッホ、セザンヌほか後期印象派に感. 能の曲目。二番目・修羅物。五流現行曲。作者不明。観世元雅作とも。出典は ﹃平治物語﹄. 源義朝父子。義朝の第二子朝長は膝の負傷のため父の手にかかるが、能では自害とし が、僧に身をやつして朝長の死を弔う. ろうかん. に紹介された後期印象派ヤフオービスムなどの感化を受けて白馬会を去り、大正一年. ︵ワキ︶. て描いている。 朝 長 の 養 育 係 だ っ た 男. ︵一九一二︶春、高村光太郎の経営する吸汗堂で最初の個展を開き、秋には木村、高村、. みの. 斎藤与里、万鉄五郎らと反自然主義︰王観主義芸術グループのフユウザン会を結成︵翌. おかみ. とその僧が朝長の墓前で出会う。青墓の長者は、朝長を弔いに. ために美濃国青墓にやってくる。親子をかくまい、朝長の最期をみとった青墓の長者︵遊 女宿の女将。前 シ テ ︶. 年解散︶、このころさかんに自画像や肖像画を制作した。大正三年 ︵一九一四︶ ころか. おさだ. 来ているのだといい、その死をしみじみと物語る。それは、平治の乱で兄義平や弟頼. のもとに、細密な写実絵画に転じた。大正四年︵一九一五︶. ら北欧ルネサンスの絵画に関心を高め、デューラー、ファン・アイクらの作品の感化. が昔の姿. 草土社を結成し主宰して、一種宗教的なまでの徹底した写実を追求した ︵草土社は大. 木村荘八、中川一政らと. で東国に落ちのびてきた義朝一行を、長者は自分の家に泊めたが、重傷の次男朝長は. 朝が敵に捕らえられ、父の義朝は家臣の長田に討たれるなど一門が不運をたどるなか. ︵後シテ︶. ﹃頼政﹄とともに三修羅とよばれ、重い能と. 年までさまざまな姿の娘麗子像のシリーズを制作する。大正九年︵一九二〇︶ ﹃劉生画. から﹁麗子五歳之像﹂に始まる娘麗子やその友お松の肖像に独自の画境を開いた。没. ︵一九二二︶ まで九回の展覧会を開いた︶。﹁切り通しの写生﹂、﹁壷の上に林. 正十一年. 僧が観音懐法の法要を勤めると、それに引かれて夜半に朝長の霊. かんのんせんぽうの ち. 檎が載って在る﹂などデューラー風の神秘感のある細密描写による内なる芙を追求し、. 父たちのことを考えて夜中に自害し、短い生涯を終えたといい、わが家へ僧を導く。. で現れ、青墓の長者が自分たちを親身に世話し、死後の弔いまで続けてくれているこ. 六年︵一九一七︶第四回二科展で﹁初夏の小径﹂が二科賞を受賞。大正七年︵一九一人︶. 肖像、静物、風景の数多い秀作を発表して青年画家に大きな影響を与えた。また大正 えこう. たことなどを物語る敗戦の模様と修羅道に落ちたありさまを語り、回向を願って消え. とに感謝し︵クセ︶、今の修羅道の苦しみや、最後の戦いで膝を射られて重い手傷を負っ. の武者、この対 比 が む ず か し く 、 ﹃ 実 盛 ﹄. さねもりよりまさ. る。前シテが庇護着であり悲劇の目撃者である年輩の女性、後シテは運命に死ぬ年少. 集及芸術観﹄、そして大正十年︵一九二一︶を境に日本趣味に傾き、日本画も描き始め、. とは違うにぶく低い調子で演奏される太鼓の役の秘事となり、諸役ともに重い習いで. して、画業は頂点を示した。歌舞伎を楽しみ、長唄を習い、酒に親しんで、作風はし. 正十四年︵一九二五︶退会︶、草土社は解散となる。このころ、一連の麗子像を中心と. ﹃劉生図案集﹄を出版。大正十一年︵一九二二︶春陽会の創立に客員として参加︵大. ﹁儀法﹂. の演出は、常. こがき. ある。前シテを現実の人物とする修羅物はこの曲だけである。若武者の死に立ち会っ. だいに日本的性格をおびるようになったのであった。大正十二年. される。とりわ け 観 音 儀 法 の 仏 事 を 模 し た こ の 能 の 小 書 の 一 つ. た女性が、あまり日を経ない時点でそのことを物語るという点に特色があり、哀傷の. ︵一九二二︶ 九月の. 思いが強く迫る 能 で あ る 。. 11. 171615.

(13) 佐 野 比呂己. そうげんが. くげぬま. 関東大震災で十七年来住んでいた神奈川県鵠沼の家は半壊し、京都に転居してからは、. もにインドに遊び、また翌年天心に従って春草らとアメリカ、さらに明治三十八年︵一. り経済的にも破綻をきたしていたので、天心の要望で茨城県の五浦に移住。五浦をし. 九〇五︶. て日本のバルビゾンたらしめようと、大観、春草、下村観山らは結束を固めるが、生. いずら. ますます強く初期肉筆浮世絵や宋元画に傾倒、東洋的な表現を加味した独自の画風を. ヨーロッパを巡遊して展覧会などを行い、帰国。帰ると院は分裂の危機にあ. 築き、また水墨淡彩の日本画を手がけることも多くなった。初期肉筆浮世絵の収集、 さらに浮世絵情緒にひかれて茶屋遊びを始める。これら日本ヤ中国の伝続的美意識の は浮世絵風の顧廃. の文展開設と. て上野池之端に移転。大正二年 ︵一九一三︶ 天心が没すると、その遺志を継いで日本. いけのはた. 発表され、大観の声価を決定づけた。明治四十一年︵一九〇八︶五浦の家が火災にあっ. ともに第一回文展に審査員として ﹃二百十日﹄ ほかを出品。その後つぎつぎと作品が. ﹃山路﹄ などがこの期の作で、明治四十年 ︵一九〇七︶. りゆうとうやまじ. 実した。﹃流灯﹄. ﹃童女舞姿﹄. 活はどん底であった。しかし、雄大な自然の中で彼らの理想は華麗な色彩の世界に結. や静物画などに反映される。特に. 影響は、﹃童女 舞 姿 ﹄. 九. ︵現. に赴き、大連、奉天、ハル. ︵一九二九︶. 美の漂う京都時代の代表作である。大正十五年︵一九二六︶京都を引き上げて鎌倉に. ︵中国東北部︶. 移り、翌年の第 一 回 大 調 和 美 術 展 に 審 査 員 と し て 参 加 す る 。 昭 和 四 年 月未満鉄の招待 に よ り 神 戸 を 出 帆 し て 満 州 ビンに滞在し、﹁大連星ケ浦風景﹂などを描き、個展を開くが、帰途山口県徳山町. 美術院の再興を志し、翌年、観山、安田戟彦、今村紫紅らを集めて再興院展を設立、. の旅舎で尿毒症に胃潰瘍を併発して十二月二十日急死した。享年三十人歳。. 周南市︶. その後四十年余、主宰者として運営にあたり日本画壇の一大勢力に育てあげた。大正. しゅうなん. その画業は油彩画を日本の絵画として確立するための孤独な格闘の軌跡であった。画. 期以降の作風を代表作にたどると、﹃瀞刃有余地﹄、﹃作右衛門の家﹄、﹃喜斤山﹄、﹃柿紅. ゆうじんよちあり. 集に﹃岸田劉生画集﹄があり、文筆活動も盛んで、著書に﹃図画教育論﹄﹃演劇美論﹄﹃実. さんそうむげつ. の理想主義的な芸術運動の結論を示すものであり、古来の東洋画の伝統・特色を生か. 絵十六幅を費やし新鮮で力強い画面をつくりあげた。大観の芸術は明治における天心. 念を持つ大観はまた多くの富士を描いたが、八十七歳の作 ﹃或る日の太平洋﹄ では下. 第一回の文化勲章を受章した。﹁芸術は無窮であり、富士は無窮の象徴である﹂との信. 帝室技芸員、昭和十年二九三五︶帝国美術院会員にあげられ、昭和十二年︵一九三七︶. 和五年︵一九三〇︶ローマ日本美術展に際し美術使節として渡伊。昭和六年︵一九三一︶. ﹃紅葉﹄、秋の野に大原女を配した ﹃野の花﹄など、画風は幅広く展開されてゆく。昭. せいせいるてん. 葉﹄といった色彩の華麗なものから、しだいに水墨風に移り、﹃山窓無月﹄、¶夜﹄など. ﹃劉生絵日記﹄となった。また、﹃岸田劉生. の本体﹄などが あ る 。 克 明 な 日 記 は の ち に. てんしん. 開校した東京芙. の卒業制作は、師. しようしようはつけい. を経て、大正十二年︵一九二三︶ には水墨画の記念碑的作品である長巻﹃生生流転﹄. 九月十八日水戸市. 明治一昭和三十三. 全集﹄全十巻もある。︵匠秀夫﹁岸田劉生﹂﹃世界大百科事典﹄、小倉忠夫﹁岸田劉生﹂﹃日. 横山大観一人六人一九五人. に至る。昭和期に入ると墨画﹃蒲湘八景﹄、装飾性を最高度に発揮した潅風﹃夜桜﹄、. よこやまたい か ん. 本大百科全書﹄︶. ︵一人六八︶. ︵一八八九︶. 私立東京英語学校を卒業。母方の横山家を継ぎ、秀麿. ︵一人七八︶一家をあげて上京、東京府立中学校. 日本画家。水 戸 藩 士 酒 井 捨 彦 の 長 男 と し て 明 治 一 年. ︵一八八七︶ がほう. ︵一人九三︶. りゆういん. ︵佐々木直比古﹁横山大観﹂﹃世界大百科事典﹄、原田実﹁横山大観﹂﹃日本大百科全書﹄︶. ごりゆう. し、たくみな構図とするどい着想によって近代日本画の▲ つの典型を具現していると. であった。ここにはす. 雅邦を翁に見立 て 同 窓 生 を 村 童 の モ デ ル に し た. いえるだろう。ほかに ﹃五柳先生﹄ ﹃柳蔭﹄などが著名。昭和三十三年︵一九五八︶. ﹃村童観猿翁﹄. でに、日本画の描法に洋画の空気遠近法を調和させようとした苦心のあとがうかがえ. 二月二十六日東京で没。上野池之端の旧邸は横山大観記念館として公開されている。. 明治昭和時代の日本画家。北海道小樽に明治八年︵一人七五︶ 二月に生まれる。. ふでやとうかん 筆谷等閑一人七五一九五〇. 明治八昭和二十五. その中堅作家として﹃無我﹄などの秀作を出品。このころより大観の号を用いはじめる。. 本名は儀三郎。別号に白夢楼・太虚堂。東京美術学枚︵現東京芸術大学︶ に学び、橋. 本雅邦、横山大観に師事、大正三年︵一九一四︶院展で﹁低桐﹂が入選し、大正五年︵一. 十一月十日死去。七十五歳。作品に ﹁苦行より成道へ﹂ ﹁救難﹂など。︵﹃日本. 日本美術院同人となり、戦後は日展にも出品し委員をつとめ、活躍した。風. 九一六︶. ﹃屈原﹄は、校長をやめた天心の心中を表したものであった。. 一回院展︶. に発表した. またその表現技法は当時の日本画の革新道動の尖端を示すものであった。美術院では. 体は﹁膿脱体﹂と悪評されて苦闘を強いられた。明治三十六年︵一九〇三︶春草とと. ひしだしゅんそう. 景画とともに仏教や道教に画題を求めた作品に佳作を多く残した。昭和二十五年︵一. もうろうたい. 九五〇︶. 菱田春草らと日本画の近代化を企図し、大胆な没線描法を試みたが、没線主彩の新画. 雅邦らと連祝辞職、日本美術院創立に加わり、その正員となる。第五回絵画共進会︵第. れんべい. 明治三十一年︵一人九人︶東京美術学校において岡倉校長排斥の内紛がおこると、天心、. 二十九年︵一人九六︶東京美術学校助教授となり、同年日本絵画協会が創立されると、. る。卒業後、京都市立美術工芸学校数諭となり、かたわら古画模写事業に従事。明治. そんどうえんおうをみる. に信頼され終生 そ の 強 い 薫 陶 を う け る 。 明 治 二 十 六 年. 術学校に入学。日本画科第一回生として橋本雅邦の指導を受け、とくに校長岡倉天心. と改名。結城正 明 に 絵 の 手 ほ ど き を う け 、 明 治 二 十 二 年. を経て明治二十 年. に生まれる。幼 名 秀 蔵 。 明 治 十 一 年. 23. 12.

(14) 涪. 瑗.

(15) 佐 野 比呂己. ﹁気質の性﹂は身体を構成する気の清濁によって善悪が分かれるとした。そこで学問・ きょけい. 修養の努力が必要となるが、人間性のたえざる純化と向上を説き、その修養法としては、 ﹁居敬﹂と、事物の理を窮め知る﹁窮理﹂との双修を提. ﹁性即理﹂説である。彼がよるべのない寡婦の再婚を容認せず、﹁餓. 心を敬という緊 張 状 態 に 保 つ 唱した。いわゆ る 死の事はきわめて小、節を失う事はきわめて大﹂と述べ、後世あまりにも酷薄という. しての彼の思想 は 、 南 宋 の 来 貢. ︵朱子︶. しゆき. によって継承され、朱子学の形成に決定的な. 非難をあびたが、彼のきびしい人間観がそこにうかがわれる。北宋道学の第一人者と. ﹃易伝﹄. があり、文集・語録とともに. 昭和二十三年︵一九囚人︶. 一月. 一月. ︵注5一六七一六人頁︶. ︵注5. 二一五二一 六 頁 ︶. 一六六一六七頁︶. ﹂昭和二十四年︵一九四九︶一月︵注. 十一月. に収. ﹃日本大百科. ﹃二程全書﹄. ﹃世界大百科事典﹄、湯川敏弘﹁程願﹂. ﹃経説﹄. 役割を果たした。朱貢がもっとも多く取り入れたのは程願の学説で、朱子学は程朱学 ともよばれる。 著 書 に められている。 ︵ 三 浦 国 雄 ﹁ 程 願 ﹂. 三淵忠彦﹁道義 ﹂ 昭和二十三年︵一九囚人︶. ︵注5. 一六六頁︶. 三淵忠彦﹁道義 ﹂. 一月. 三船久蔵氏との対談節録. 昭和二十三年︵一九囚人︶. 二一二二一 三 頁 ︶. 三淵忠彦﹁断片 二. 三淵忠彦﹁道義 ﹂. 二一二頁︶. 三淵忠彦﹁断片二三船久蔵氏との対談節録﹂昭和二十四年︵一九四九︶一月︵注. 全書﹄︶. 5 三淵忠彦﹁刑 殺 日 施 ﹂ 昭 和 二 十 四 年. がある。. 個人研究支援経 費 に よ る 成 果 の 一 部 で あ る 。. ︵注5一〇一頁︶. ※本稿は、平成二 十 一 年 鹿 北 海 道 教 育 大 学 学 術 研 究 推 進 プ ロ ジ ェ ク ト. ︵釧路校・准教授︶. ︵学長裁量経費︶. ※本稿は、引用に際し、適宜旧字を新字に改めた。また、ルビについても省略した部分. ︵一九四九︶. 三淵忠彦﹁断片二三船久蔵氏との対談節録﹂昭和二十四年︵一九四九︶一月︵注. 5. 5. 38 42 4140 39 43. 14.

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