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世阿弥の伝書に見える「声」に関する一考察(3) : 『音曲口伝』における声の使い方

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(1)Title. 世阿弥の伝書に見える「声」に関する一考察(3) : 『音曲口伝』におけ る声の使い方. Author(s). 中西, 紗織. Citation. 北海道教育大学紀要. 教育科学編, 67(1): 335-341. Issue Date. 2016-08. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/8022. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) 北海道教育大学紀要(教育科学編)第67巻 第1号 Journal of Hokkaido University of Education(Education)Vol. 67, No.1. 平 成 28 年 8 月 August, 2016. 世阿弥の伝書に見える「声」に関する一考察⑶ ―― 『音曲口伝』における声の使い方 ――. 中 西 紗 織 北海道教育大学釧路校音楽教育研究室. A Study on Voice in Zeami’s Treatises ⑶ : Focusing on Voice Methods in Ongyokukuden. NAKANISHI Saori Department of Music Education, Kushiro Campus, Hokkaido University of Education. 概 要 これまでに筆者は,世阿弥の伝書に見える「声」の演技や表現に着目し,「声」を身体の側 面からとらえ直すことを試み,身体の深みから始まる息・声と演技の連関について,現代の能 楽師の視点や実際の能の稽古の場と照らし合わせて論じることを試みてきた。また,「一調・ 二機・三声」に焦点をあて,観客と演者の「息」と「機」のつながりや謡と舞の連関を見直す ことで, 「音楽・舞踊・演劇の総合である能」の根底を流れる位相としての「音楽性」という 考え方が, 「声」と「身体」によってつくられ流れ続ける能の表現や芸術性の結びつきや連関 を解するのに有効であることを確認した。本稿では,世阿弥の伝書に見える「声」に着目し, 今回は『音曲口伝』を取り上げ,音曲習道の視点からその内容や方法,プロセスについて考察・ 検討した結果,能の声の使い方や表現方法に関する新たな捉え方を見出した。. はじめに. た。また,「一調・二機・三声」に焦点をあて, 観客と演者の「息」と「機」のつながりや謡と舞. これまでに筆者は,本稿と同様のテーマに基づ. の連関を見直すことで,「音楽・舞踊・演劇の総. き,世阿弥の伝書に見える「声」の演技や表現に. 合である能」の根底を流れる位相としての「音楽. 着目し, 「声」を身体の側面からとらえ直すこと. 性」(西平 2009)という考え方が,「声」と「身. を試み,身体の深みから始まる息・声と演技の連. 体」によってつくられ流れ続ける能の表現や芸術. 関について,現代の能楽師の視点や実際の能の稽. 性の結びつきや連関を解するのに有効であること. 古の場と照らし合わせて論じることを試みてき. を確認した(中西 2013など)。. 335.

(3) 中 西 紗 織. 世阿弥の伝書には,現代において声楽や歌の学. 音曲を習う順序は次の通りである。①文字(も. 習でよく言われる, 「腹式呼吸によって声を出せ」. んじ)つまり謡の文句を覚える,②節を極める,. 1). というようなことは書かれていない 。しかしな. ③曲を色どる,④声の位を知る,⑤音曲に関する. がら,そこには声に関する数々の教えが記されて. 根本的な理解を持つ。そして,「拍子」は,音曲. いる。. 稽古のすべての段階に渡って心得なければならな. 世阿弥は,声の力や声によって伝えること,声. い3)。. によって表現することをどのように捉えていたの. ここでの「拍子」は,楽語の「リズム」の意味. か。声に関わる能力を向上させるためにどのよう. ではなく, 「区切りをつけるアクセントではなく,. な稽古法や声の使い方が有効だと考えていたの. 盛り上がり静まっていく波に近い」, 「流れである」. か。それらの方法を,この道に生きる次世代の者. と西平は説明する(2009,p.192)。流れとしての. たちに伝えるための伝書にどのように書き残して. 「拍子」の考え方は,西平が指摘するように,観. いるのか。そのような疑問が本稿の出発点となっ. 世寿夫の言葉にも見られる。. ている。 ここでは, 「音曲」(謡)に関するいくつかの世. 能は,特にリズム面において,謡の声なら声,. 阿弥の伝書のうち,初期に著された『音曲口伝(音. 鼓の音なら音を,どの時点で発するかというよ. 曲声出口伝) 』を取り上げる2)。本稿の目的はこ. り,発するために準備を,どこからどのように. こに記された音曲における発声法,声の使い方,. はじめるかということのほうをより重要視す. 声の作り方について論じることである。さらに,. る。いわば,準備をはじめたときからその音が. 音曲習道について,現代の能楽師の言説や「息」,. はじまる。そして音として発せられることに. 「音楽性」といった考え方に照らして説明するこ. よって終わる(1980,p.43)。. とを試みたい。 謡の文句を覚え,節を極め,曲を色どるような. 1 音曲習道の順序. 謡い方の工夫ができるようになり,声の位への理 解を深めた謡い方となり,根本的な理解に根差し. 能の稽古の基本である「舞歌二曲」 (舞と謡). た演技となる。その全体が,「盛り上がり静まっ. のうち, 「歌」つまり音曲に注目すると,習う順. ていく」「流れ」としての,準備も含めた演技の. 序については『音曲口伝』, 『花鏡』, 『風曲集』, 『五. 総体に完成していく。そのプロセスが順序だって. 音』 , 『五音曲条々』に似通った内容が記されてお. 説明されていると解釈できるのではないか。. り,それぞれの記述中の語句の差異や,伝書の中 の言葉をあげながら詳細な解説がなされている (表・加藤 1974,p.441)。. 2 一調・二機・三声. ここでは『音曲口伝』を取り上げ,そこに記さ. 『音曲口伝』第一条「一調・二機・三声」につ. れた世阿弥の言葉を順不同に取り上げる。初めに. いては以前論じたが(中西 2013),ここでは別. 第二条から引用する。. な角度から取り上げる。表・竹本(1988)は, 「謡 の正しい発声の要領をモットー風に表現したのが. 音曲を習ふ条々,まづ文字を覚ゆる事,其後節. 「一調・二機・三声」で,「機」とは,「気」に近. を極むる事,其後曲を色どる事,その後声の位. く,息に歌い手の意思が加わったもの」と説明し. を知る事, その後心根を持つ事。拍子は初・中・. ている(p.73)。「機」について,Hare(2008)は. 後へ渡るべし。(表・加藤 1974,p.75). 「私が“vital force”と訳したこの語に世阿弥は 『機』を用いているが,最近の研究者の間では,. 336.

(4) 世阿弥の伝書に見える「声」に関する一考察⑶. 東アジアの典型的な概念としての『気』との関連. 子を知れ,調子を忘れて拍子を知れ」と言へり. が強調されることが多い」(p.81)(筆者注:原文. (表・加藤 1974,p.75)。. 英文,筆者の日本語訳)と語る。さらにこの概念 について, 「これは中国語でqiと発音され,息と. 稽古の手順として,1であげた音曲習道の順序. の関連が明確であるだけでなく,身体の内なるエ. と重なる記述である。初めに謡の文句を覚えて声. ネ ル ギ ー の 流 れflow of energyの 意 味 も あ る 」. を出すところから入り,その段階を脱して(「忘. (p.81)と付け加える。先述のように「機」は「気」. れて」)曲を知り,曲を習う段階を脱して調子を. に近く,内なるエネルギーであり流れ続ける動的. 習い,調子を習う段階を脱して拍子を習う。ここ. なものとして捉えられているのは興味深い。西平. でも,能の謡を学ぶための断片的な諸要素から入. は,観世寿夫の言った「心の緊張を伴った息遣い. り,次第に流れやあいだあいだを身につけ, 「拍子」. (機) 」を引いて,次のように述べる。. を身につける段階となる。つまり演技の総体とし ての声の表現を身につける。そのプロセスが段階. 「機」は常に二重なのである。心の働きであり. 的に説明されている。. 身体運動でもある。あるいは,単なる気持ちで もなければ,単なる生理的呼吸でもない。そこ で「心の緊張を伴った息づかい」と言われ, 「呼 吸と結びついた心の働き」とも語られる。そう. 4 いろは読み 第三条に次のような注意が与えられている。. した「機」に合わせることが,謡い出しのタイ ミングにとって最も重要である(2009,p.203)。. 音曲をば,いろは読みには謡はぬ也。真名の文 字の内を拾いて,詰め開きをばてにはの字にて. このことは,先に取り上げた音曲習道の順序の. 色どるべし(p.75). 最後に置かれた 「心根を持つ事」と重なってくる。 繰り返しになるが「心根……」について,表・加. 「いろは読み」とは「色は匂へど……」を「イ・. 藤(1974)では,頭注に「音曲に関する根本的な. ロ・ハ・ニ・ホ・ヘ・ト……」というように,一. 理解を持つ意」(p.75)と記されている。心の深. 字一字を同じ調子で平板に謡う謡い方のことであ. い奥底で音曲を捉えて,演技としての謡の根本を. る。このように謡わずに,漢字で表記される体言. 身につける。少なくともその志向性を持つように. や用言として詰め寄せて謡い,伸縮の調節をして. なる。このことによって,「演者の『機』と観客. 謡うべきだという。このことについては観世寿夫. の『機』とが間身体的に同調し,観客の『機』が. も次のように述べ,世阿弥の言葉を引いている。. 自らの『機』と同調する,その時を見計らって, 演者は自らの呼吸に合わせて謡い出せばよい」 (玉. 一般に謡の発声というと,激しい顫音をつけて. 村 2006,p.45)のであり,それこそが「一調・. 一字一字を引きのばしてうたうという印象があ. 二機・三声」の「機」を瞬間的に見抜く力につな. るようですが,それは誤りです。声はあくまで. がるのだといえよう。. 無理をしない美しい声が基本として望ましく, また一字一字がのびてしまう謡はひじょうに悪. 3 声・曲・調子 同じく第二条から引用する。. い謡です。(中略)「名詞や活用語の語幹はなる べくつづけて発音して詞章を生かすようにし, て・に・は,といった活用語尾や助詞の文字で 緩急の調節をやって面白さを出すのだ」(筆者. 稽古云, 「声を忘れて曲を知れ,曲を忘れて調. 注:4の冒頭にあげた第三条の一部を観世寿夫. 337.

(5) 中 西 紗 織. が解釈したもの)ということで,なるべく字が. してそれらの中間の謡がある。それぞれにおいて,. のびないようにして詞章を生かさなければいけ. 息の使い方,発声の仕方は異なり,声の音量や言. ないのです(1981,pp.64-65)。. 葉の発音の仕方なども考慮に入れ役柄とも関連づ けると非常に多様な表現の可能性が広がることに. このことは演劇としての能の特徴である詞章,. なる。そこにリズムの理論も加わって,能のストー. つまり台詞を声に出して表現することにおいて当. リーに相応しい,複雑で劇的な謡となるのである。. 然ながら非常に重要なことである。顫音,つまり,. 第六条には,このような多様な要素に特徴づけら. ナビキと呼ばれるビブラート的な発声の仕方はた. れる音曲に関する記述がある。次に引用する。. しかに能の声の表現の大きな特徴である。しかし, 喉を詰めるような謡い方ではない。筆者も謡の稽 古で喉を詰めるような謡い方をすると,師匠から. 5 曲舞と只音曲. 「喉を開けて, 真直ぐに声を出して」と言われる。. 音曲に曲舞と只音曲との分目を知る事。曲舞と. あくまでも「無理をしない美しい声が基本」なの. 申すは,一道より出でたるゆへに,只音曲には. である。このことは西洋音楽の発声においても同. 黒白の変り目あり。然者(しかれば),文字に. 様だろう。発声方法や息の詰め開き,出てきた声. も「曲」に「舞」を添へたり。(中略)この変. そのものは西洋的発声法と能のそれとでは異なる. り目と云は,曲舞は拍子が体を持つ也。只謡は,. が,舞台芸術として演じることの工夫を要する,. 声が体を持ちて,拍子をば用も添へたり(p.77)。. 声を出すことへの共通の考え方があるのだといえ よう4)。. 曲舞は,世阿弥の父観阿弥が猿楽能に取り入れ. さらに,観世寿夫は謡の発声について次のよう. た当時の芸能で,白拍子の流れを引き,拍子を主. に説く。. 体とする音曲に合わせて語り舞う芸能であり,只 音曲は昔からの小歌節,つまり南北朝時代に流行. 能はもともと,劇的な要素と音楽的要素と舞踊. した旋律中心の小歌による音曲である。曲舞を取. 的要素を融合させた一種の詩劇のわけですが,. り入れた音曲と昔からの小歌による只音曲とは. 歌で劇構成を進行させるというより,語り物の. はっきりと大きな違いがあるという。そしてさら. 性格のほうが強いので,音声面においても,旋. に,近年では,曲舞と小歌節を融合させた音曲が. 律やリズムにのっとった歌う部分以外に,独白. 一番の人気を得ているということと,そうとは. や対話のようなセリフの部分,セリフと歌の中. いっても,曲舞節と小歌節の分け目をしっかり把. 間的な朗誦風な部分などがあります。ですから. 握しておかないと本質を失うというような注意も. 発声も,歌うための発声だけではなく,話した. 記されている。この時代,すでに多様な音曲の謡. り語ったりするための発声を含んでいるので. い方や発声法,声や息の使い方があったことや,. す。特にセリフの部分は,いまの能の謡よりも. 新たな声の表現の試みが意欲的に行われていたこ. 昔はもっと話しことばに近い形であったと思わ. とは,このような記述から容易に想像できる。こ. れます。こういうところが西欧の声楽の発声法. のことは,現代の能の声の使い方や表現の多様性. とは異なるわけですが,かといって浪花節など. にも通じることであろう。. のようにのどをしめつける発声では決してよい 謡にはなりません(同p.64)。. 6 横の声,主の声,祝言の声,ばうをくの声. 現代の能の謡の表現には,よく言われるように,. 第四条には横・主の声,第五条には祝言・ばう. 音階に基づいた旋律的な謡,台詞としての謡,そ. をくの声に関する記述がある。世阿弥の伝書には. 338.

(6) 世阿弥の伝書に見える「声」に関する一考察⑶. 対になる二つの概念が組みになって説明されるこ. の声をいう。(中略)「高砂」「老松」などのよ. とが度々ある。. うな,神が現われて祝福するといった筋の能な. 世阿弥が説明する横(おう)・主(竪)の声が. ら,その発声法は当然祝言ノ声である。. どのような声の技法として理解できるのか,ある. また亡憶ノ声は,これと対照的な声の出し方で,. いは現代の能において横・主の声にあてはまるも. 力を内面に引き込んで表面はあくまで優しく. のは何なのかといったことは不明であるが,一般. しっとりとした感じに謡う声のことである。役. 的に太く強い声が横の声,細く弱い声が主の声だ. 柄としては,女性の役とか亡霊の役などがだい. と言われている。. たいこの声の出し方になる。しかしやわらかに. さらに,横・竪両方の声を兼ね備えている声は. 内へこめるからといって,真の強さがなくなっ. 「相音(あいおん)」といい,非常に価値の高い. てはまったくだめなのであるから,祝言ノ声と. 理想的なものとして捉えられている。そして,そ. 同様な強さを持ちながらも,それを表面へ出さ. のような声をつかう場合についての注意として,. ず内へ矯めこむというむずかしい技術を要す. 世阿弥は第四条に次のようなことを記している。. る。この祝言の声がもとになって,その後現在 のツヨ吟の発声法が生まれ,望憶ノ声の系統が. 横の声をば助けてつかひ,主の声をば押してつ. ヨワ吟の発声法になったかと考えられる (1981,. かふべし。 (中略)宵に物数をつかひて,暁は. p.32). すこし少なくつかふべし。殊更,横の声などを ば,暁には,声につかはれて,声をいたはりて,. 現代においてよく祝言の声の例として語られる. 納め声を本につかふべし。返々,声の向きたる. のは,内容的にも祝言性の高い脇能で子方が澄ん. と思はん時を失はじとたしなむべし(p.76)。. だ高い声で謡うその声である。大人の能楽師の声 が響き渡る舞台空間へ,全く異なる色合いを持つ. 横の声はいたわるようにつかい,主の声は無理. 声が響くことで,舞台に展開される場面の色合い. に押し切るようにつかうべきであり,自分の声が. や空気までが一瞬にして変わるという大きな効果. 稽古に適合してきたと思えるまさにその時を見落. があがる。. とさないようにと世阿弥は言う。自分の声が稽古. 一方,ばうをくの声のほうがもっと複雑な演劇. に適合してきたと思えるその時は,年齢的なある. 的効果を持つことは,ここにあげた観世寿夫の説. 時期とも一日のうちのある時刻とも解される。い. 明からもよくわかる。「やわらかに内へこめる」. つが一番「声の向きたる」時なのかを見極める。. 声でありながら, 「真の強さ」がなくてはならない。. そうやって習得した声が奥深い芸に結び付いてい. 舞台で演じる者は,そのような声を自在に使いこ. く。. なすことのできる力を年月をかけて体得していく. 第五条には,祝言・ばうをくの声について,そ. のである。. れぞれ呂律と関連付けて説明がなされている。そ れによると,呂は喜ぶ声,出る息の声であり,強 い音声で,こちらが祝言の声,一方,律は悲しむ 声,入る息の声であり,柔らかで弱い心持ちの声. 7 有文・無文 再び第六条から引用する。. であり,それがばうをくの声だという(p.76)。 観世寿夫は「祝言ノ声・亡憶ノ声」は声の色合. 正(ただしき)は無文なり。しかれども上手と. いのことだと述べ,次のように説明している。. 申は,この無文の位より,無色(むしき)の文 をのづから出曲す。これを「声文(あや)を成. 祝言ノ声は字義のごとく明るくさわやかな気分. す」と云り。曲はあらはれたる文なれば,有文. 339.

(7) 中 西 紗 織. の文なり。声は無色なるに文をなせる所,是,. ヨ吟・ヨワ吟があり,これは,登場人物の位だけ. 上手の妙音なるべし。無文の文なり。此位を妙. でなく,能柄や能そのものの位とも深く関わって. 所と申なり(p.78)。. いる。それに即した声の使い方が,能では古くか ら求められ工夫されてきており,当時の流行や美. 有文とは,鮮やかな色どりや飾りのような文が. 意識と結びついて豊かに発展してきた。さらに,. ある芸のことである。それに対して無文とは,そ. 世阿弥だけでなくその後の演者たちによって,声. のような文はないがそこに美のある芸のことであ. に関することは繰り返し検討され理論化されてき. る。只謡の正しき性質は無文である。けれども,. た。. 芸の達人はこの無文の位から,明瞭に形に現れず. 最初に述べたが,世阿弥の伝書には,腹式呼吸. 目や耳では把握できない文を音曲に表現すること. によって声を出せというようなことは書かれてい. ができる。このことが,声が美しい文になるとい. ない。しかし,そこには多くの声に関する学びの. うことである。音曲の美は曲舞節のように明瞭に. 可能性が示されている。それはまた,西洋の発声. あらわれたものであるので,有文の文である。目. 法とは全く異なる声の技法や特徴,それらを支え. に見えないのに文をなす声は,達人の妙音といえ. る考え方が能にはあることのあらわれでもあると. る境地である。 これこそ無文の文といえるもので,. いえよう。. この位を妙所と呼ぶのである。. 以上の議論のまとめとして,『音曲口伝』の音. 世阿弥は,有文の文の美を認めながら,無文の. 曲習道に関連して次のことが言えるだろう。. 文の美こそ妙音であると言っている。さしたる見. 音曲習道において身につけることは次のような. どころ,聴きどころはなくても無文の芸の価値を. ことである。. 見直していると読み取れる記述である。. ○横・主の声の使い方. 有文・無文について表・竹本は次のように述べ. ○祝言・ばうをくの声の使い方. ている。. ○息や声の使い方において「流れ」を生じさせる 声のふるまい. 有・無の対立を止揚した高次の「無」を芸論に. ○内なる声の使い方. 導入し, 「無文の文」に最高の美的価値を認め. ○他者の「気」を即座に読み取って自分の声を使. ていることが世阿弥晩年の芸論の特色とされる が,その論が初めて顔を見せるのが音曲論書た. える力 ○無文・有文の文への理解. る『音曲口伝』の本条なのである(1988,p.76)。 今後の課題として以下三点をあげておく。 『音曲口伝』に記された芸論の逆説やダイナミ ズムは, この後著された伝書の中でさらに発展し, 重層化していく。. ①音 曲習道に関わる世阿弥の伝書すべてについ て,関連記述の詳細な分析と検討を行う。 ②世阿弥の伝書の中の「声」「息」に関する記述 を見直す。. まとめと今後の課題 能において,横・主,祝言・ばうおくなどの,. ③能における「声」「身体」「言語」「伝承」「型」 「流れ」といったものがどのように関わり合っ ているのか,さらに追究する。. 声に関する分類は現代では用いられていないが, そのような分節化による声の表現イメージの作り 方や捉え方は,能の声の演劇的表現において非常 に重要なものである。現行の能の謡の音階にはツ. 340. 【注】 1) 『花鏡』の中に, 「五蔵より声を出す」 (表・加藤 .

(8) 世阿弥の伝書に見える「声」に関する一考察⑶. 1974,p.87)という記述があるが,「腹式呼吸によって. しての身体技法』ひつじ書房。. 声を出す」という意味ではない(中西 2011)。筆者は,. 源了圓(1989) 『型』 (叢書・身体の思想2) ,創文社。. 中村(1982) 『世阿弥伝書用語索引』の中の「音曲」 「声」. 米山文明(1998) 『声と日本人』平凡社。. 「音声」のすべてについて世阿弥の伝書(表・加藤 1974)の記述を確認したが,「腹式呼吸によって声を出 す」というような意味の記述は見当たらなかった。観 世寿夫もこの点を指摘している。 「能に限って考えると, 腹から声を出せという教えはそんなに古くからいわれ てきたことではないらしい。少なくとも室町中期,世. Hare, Tom, trans. (2008), ZEAMI Performance Notes, Columbia University Press.. (釧路校准教授). 阿弥の著書の中には出てきません。どうもこれは江戸 時代に入って能が徳川幕府の式楽になり,専ら武士道 的色彩に染まってから言い出されたことばであるよう に感じられます。」(荻原 2001,p.110) 2)音曲稽古の順序が記されている伝書に『音曲口伝』, 『花鏡』 , 『風曲集』,『五音』,『五音曲条々』がある。 それぞれの内容は微妙に異なっているが,『音曲口伝』 が初出とされている(表・加藤 1974,p.441)。 3)語句の解釈については,頭注(表・加藤 1974,p.75) を参照した。その他の部分についても同様である。 4)米山(1998)は「邦楽発声」「洋楽発声」を比較し, それぞれの特徴について論じている。. 【引用・参考文献】 荻原達子編(2001)『観世寿夫世阿弥を読む』平凡社。 表章・加藤周一校注(1974)『世阿弥 禅竹』(日本思想 大系 第24巻)岩波書店。 表章・竹本幹夫(1988)『岩波講座能狂言Ⅱ能楽の伝書と 芸論』岩波書店。 観世左近(1974)『観世流仕舞型付』檜書店。 観世銕之亟(2000)『ようこそ能の世界へ 観世銕之亟能 がたり』,暮らしの手帖社。 観世寿夫(1980)『観世寿夫著作集二 仮面の演技』平凡 社。 玉村恭(2006)「天・地・人をつなぐもの――世阿弥『一 調・二機・三声』をめぐって――」『美学芸術学研究』 25,東京大学大学院人文社会系研究科,文学部美学芸 術研究室,pp.35~60。 中西紗織(2011) 「世阿弥の伝書に見える声に関する一考 察」 『北海道教育大学紀要(教育科学編)』第62巻第1号, pp.65-70。 中西紗織(2013)「世阿弥の伝書に見える『声』に関する 一考察⑵――一調・二機・三声に焦点をあてて――」 『釧路論集:北海道教育大学釧路校研究紀要』第45号, pp.99-105。 中村格(1982) 『世阿弥伝書用語索引』(笠間索引叢刊 86)笠間書院。 西平直(2009)『世阿弥の稽古哲学』東京大学出版会。 福田真人編(1995)『身体の構築学――社会的学習過程と. 341.

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