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フランツ・ブレンターノの時間論(2)
水 地 宗
明 以上で明らかなように,第二期理論の特徴は,時間の観念の源泉を,判断作 用の内在対象に見いだされる或る種の差異一しかも連続的に変化する差異 一に求めたことであった。この第二期理論をブレンターノは,不満を感じな 1) 2) がらも,かなり長期間(20年余)に渡って保持したが,1894年の末造(彼が56 歳のとき)に,最終的に放棄して,新しい(第三期の)理論を採用した。それ が放棄されるに至った理由の主要なものは,1895年3月のブレン素心ノのマル き ティ宛の手紙,および同年の3月か4月のマルティのプラハ大学での時間論講 の 義(心理学の講義の一章としてブレンターノの時聞論を紹介したもの)によれ ば,次のごとくであった。 形容語,つまり他の語句を形容する語句に関して,すでにその当時からブレ ンターノとマルティが共同で立てていた理論によれぽ,われわれは形容語を或 る観点から(機能上の実る差異に基づいて)二種に区分することができる。そ の一つは,形容される語句の意味(概念の内包)をより詳しく規定し,より豊= 富にする形容語であって,例えば‘良’薬,‘苦い’薬,‘有名’人,‘あそこ にある’本などがこれに該当する。他は,形容される語句の意味を,本来のも のとは根本的に変化せしめる(例えば実在的なものを非実在的なものに変え 1)Kraus(1930), p,16のMartyの次のことばを参照:「私がかつて(ブレンターノ の)以前の見解(第二期理論)を講義したときにも,この難点を特に懸念すべき不思 議なこととして強調した……」。なお「この難点」とは,以下で説明されるように, 過去のものと現在のものとが異類であって連続しないように思えることである。 2) Kraus (1930), p. 3. 3) lbid. p. 7. 4) lbid. p. 4.2 彦根論叢 第217号 る)機能をもつ形容語である。例えば, ‘絵に書いた’餅,‘にせ’札,‘仮’ 病, ‘想像上の’動物, ‘前’総理大臣などが,その例である。というのも, 絵に書いた餅はもはや餅ではなくて食べられないし,にせ札は紙幣ではなく て,本来購買力を有しないし,仮病も病気ではなくて,医学的にみて症状がな い。それゆえ,これらの形容語句は,形容される語句の本来の意味をすっかり 変容せしめているのである。さて以上の二種の形容語のうち,前者を‘規定す 5)る形容語’(determinierende Beiw6rter),後者を‘変容させる形容語’(modi− 6) fizierende Beiwδrter)と彼らは名づけた。 ところで,プロテレステーゼによって与えられる,もしくはそれに基づいて 形成される時間的諸規定は,形容語としてはこれら二種のもののどちらに属す るのであろうか。明らかに,‘過去の’(vergangen)および‘未来の’(zukifnf− tig)という形容語は,変容させる形容語である。なぜなら,例えば過去の少女 は現実に少女であるとはかぎらない。それどころか,彼女は現在では腰の曲っ た老婆であるかも知れない。また将来の雨も雨であるのではなく,今現にわれ わ われの身体を濡らすわけでもない。 一般に, ‘過去のもの’や‘未来のもの’は一過去のものであり,もしく は未来のものであるかぎりにおいては一存在せず,かつ今は存在しえないも のである。このようなものを非実在的なもの(irrealia)と呼び,これに対し 5) ‘bereichernde Beiw6rter’と呼ばれることもある。例えばBrentano(1928), Psycho・ logie, vo1,皿, p.46, Marty(1916), Raum und Zeit, p.198. 6) この区別については次の個所を参照:A.Marty(1910), Die logische, lofealistische und andere Kasttstheorien, p. 86; ld. (!940, 2nd ed. 1965), Ps),che und Sprach− struktur, pp, 209ff. ld. (1916), pp. 198f. 7)Kraus(1930), p.15(マルティの講義の一節):「プロテレステジーによって感覚あ るいは知覚内容に以上のようにして付加される時間的諸規定は,変容させる述語であ る。規定する述語ではない。……しかもそればかりか,すべてのこれらの述語はJ実 在的なもの(das Reale)を非実在的なものへと変容させるのである。‘表象された城’ は城でないばかりか,およそいかなる実在的なもの(Wirkliches)でもない。過去の ものも,かかるものとしては,また未来のものも,かかるものとしては,同様であ る。」
フランツ・ブレンターノの時問論 ② 3 て,存在する,もしくは今現実に存在しうるものを実在的なもの(realia)と ラ 名づけて,両者を区別してみよう。なお非実在的なものは他にもたくさんあ る。例えば‘無’,‘不足’,‘可能性’なども,そうである。実在的なものと非 実在的なものとは全く異類のものであって,われわれが事物に関して立てうる 区別のうちで,最大で根本的な区別である,と思われた。というのも,当時の ブレンターノの思想によれば,われわれは非実在的なものをも表象しうるので あって,われわれが表象するものは,実在的なものか,非実在的なものか,ど ちらかなのである。 さて以上の区別に基づいて考えてみると, ‘過去の’および‘未来の’とい う形容語は,実在的なものを非実在的なものに変容させる働きをするわけであ る。厳密な意味での知覚の対象(表象内容)は,現在のものであり,実在的な ものであろう。しかしそれがプロテレステーゼの働きによって過去の方向へ押 しやられるとき,それは実在的なものから非実在的なものへと,全く異類のも のへ転化するわけである。しかるに異類であることと,連続的であることとは, 9) 両立しえないことであると思われる。だが時間は,したがって現在と過去も, 連続していなければならない。この点をマルティは次のように説明している。 色と音はむろん一つの連続物を形成しえない。なぜか。それらが異なる類のものだか らである。にもかかわらず色と音は,どちらも実在的なものであるかぎりでは,相互に 近接している。これに反して過去のものと現在のものとは,色と音の間のそれよりも, 10) もっと深い裂け目によって引き離されているのである。 例えば現在の赤と過去の赤とは,実在的なものと非実在的なものとであるか ら,連続するということは,考えにくいことであろう。またもしこの両者が連 8)便宜上く実在的なもの〉と訳したが,これは現実に客観的に存在しているものとい う意味ではない。それはむしろ,存在しうるものである。他方〈非実在的なもの〉は 存在しえないが,当時のブレンターノの理論では,(回る意味では)あると肯定されう るのである。〈実在的なもの〉はまたく物〉(Ding, Sache, Wesen)とも表現される。 9)Brentano(!928), p.47参照(ただし第四期の論文である)。 10) Kraus (1930), pp. !5f.
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続するのであれば,一つの実在的なものと一つの非実在的なものとの問の差異 が,一つの実在的なものと別の実在的なものとの間の差異よりも小さいことに なろう。いやそれどころか,互いに連続する二つのものの間の差異は,無限に 11) 小さいのである。 かくして,様態差異説に立った第一;期時間論の致命的欠陥が,時間直観の内 容の連続性を説明しえなかった点にある(なぜなら想定された心的作用の様態 の数が有限であったからである)ように,対象差異説を採った第二期時間論 も,やはり時間の連続性の説明において失敗したわけである。その原因は,対 象差異説そのものにある,と考えられた。 この点に関してブレンターノ自身のことばを引用しておこう。ずっと後に (確かには1906年以後,多分1911年以後に,したがって,いずれにせよ第四期 に)書かれた「時間について」と題される論文で, (彼自身もかつて長期間い だいていた)対象差異説を批判してブレンターノはこう述べている。 最初に現在のものとして与えられた一つの現象が,過去のものとして,そしてさらに もっと過去のものとして感覚されるときに,起きているのはどのような変化であるか。 思いつきやすい一つの推定は,次のような趣旨のものであろう。すなわち,それは, あたかも空間点aに位置する一つの赤の代りに,線分ab上の他の点に位置する赤が次 第に押しずらされて行って,置き換えられる場合のように,同様の一種の対象変化であ るのだ。ある場所に位置する赤が,場所的なメルクマールと質的なそれとの二つのメル クマールから成る一つの具体物であるように,同様に,感覚された対象のそれぞれも, 一つの具体物であって,このものの内には,他の諸規定のほかに,なおもう一つの実在 的な規定が見いだされ,そしてこの規定は,あるいは現在のものとして,あるいは大な り小なり過去のものとして現われるのであると。 しかしこのような着想は,保持されがたいものであることが,直ちに判明する。自己 の空間的位置を替える一つの対象は,この場所的差異を無視するならば,依然として真 に(そのもので)あるのであって, (有るものという)同一の普遍的概念に包まれてい る。変位した赤い点(空間点でなくて,一点の赤)は,やはり赤である。これに反して 11)Ibid. p.7(ブレソターノの手紙), p.15(マルティの講義)。フランツ・ブレソターノの時間論(2) 5 現在のものであった何かが,過去に属するだけのものとなった場合には,この何かはも はや(何かで)あらぬ。入は過去の赤い点を,もはや赤の概念に包摂することはできな い。それゆえ,かつて国王であった者(ein gewesener K6nig)が,かかるものとして は,国王であらぬことは,乞食が国王であらぬのに劣らない。というのは,彼自身も今 では乞食に転落しているかも知れないからである。‘あった’(gewesen)という語の添 加は,豊富にする方向に(bereichernd)ではなく,変容させるふうに(modifizierend) 作用する。この添加は,c思われた’(gedacht),‘画かれだ(gemalt),‘誤信された’ (vermeint)などの語の‘国王’への付加と同様に,(国王の)概念を一以前にそれに 属していた本来の意味をもつものとしては一取り払って,それを何か他のもので置き 12) 換えるのである。 しかし時間的諸規定が対象の内容を規定する述語の一部分ではないとするな らば,対象が時間的に移行するときに,対象そのものは不変でなければならな い。では変化するのは何か。それは,われわれの心的作用の,対象へのかかわ り方であると考えるほかはない。それゆえブレソターノは,1911年出版の論文 中でも,対象差異説を批判しつつ,次のように述べている。 現在,過去および未来を対象の差異と見なす人は,存在と非存在を実在的な属性(物 の述語)と考える人と同様の過ちを犯していることになろう。われわれが一つの談話あ るいはメロディーにおいて一連の音を聞くとか,運動し,あるいは色を変える一つの物 体を眺める場合に,われわれに現われるのは,個体的に同一の音場所的質的に個体と して規定された同一の有色物である。それが初めに現在のものとして,それから次第に 13) より多く過去のものとして現われ……。 14) .評 (4> 第三期 (1894−1905頃) 新しい第三期の理論は,対象差異説を放棄して,その結果として残された唯 12) Brentano (1928), pp. 46f. 13) Brentano (1925), PsycJtol., vol. 1[, p, 143. 14)第三期はKraus(1930), p.30によれば1894年末頃(Ende!894 etwa)からだが, Katil(1938), p.9! eこよれば1893年から始まる。しかし後者の数字の3は4の誤植か も知れない。同じ個所の14が13のミスプリである。
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ゆ 一の選択肢と思える様態差異説を,しかも第一期理論と同様に,時間的諸規定 の源泉を判断作用の様態に見いだそうとする様態様異説を,採用した。それ は,したがって,第一期理論の復活(Erneuerung)であるとも言えなくはない が,むろん重要な修正が施されていたわけである(‘mit betr5chtlichen Modifi− kationen’,ブレンターノの表現。‘mit bedeutenden Modifikationen’,マルティ ユの のことぽ)。この復活は,時間論とは本来無関係であるところの,感覚の盲信 性についてのブレンターノの理論によって準備されたのだと,ブレンターノ自 ユわ 身が語っている。 ‘感覚’および‘感覚対象’という語は多義的であるので,あらかじめ念の ために断っておくと,われわれはここでこれらの語を,すでにアリストテレス が規定したように,厳密な意味で使用する。つまり,われわれは例えば謙る音 を聞き,眠る色や形を見ることができるが,人間や家や景色を見るのではなく, 足音や人声や歌曲を聞くのでもない。これらのものをわれわれがく見る〉とか く聞く〉とかと言われるときには,実際には感覚作用以外に記憶や推理などの 働きが参加しているのである。 さてこのような厳密な意味での感覚作用について,当時はもちろん今日で も,かなり一般的に,次のように信じられている。すなわち感覚は,対象を表 象するだけの作用であって,その対象(に対応するもの)が客観的に存在して いるか否かの判断は,感覚とは別の,より高次の心的作用であると。この見解 によれぽ,われわれが例えば一つの赤いものを単に感覚する場合,そのかぎり では,われわれはその赤いもの(赤い色)の存在をまだ肯定していないわけで ある。たとえ実際.ヒは,通例われわれはほとんど同時にそれを肯定するのだと しても,である。 だが1894年以前にブレン二一ノは,感覚作用はすべて,感覚対象を肯定する 作用をそれ自身の一成分として含むという見解に到達した。この点についてマ 15) 16) 17) Cf. Brentano (1928), p. 48. Kraus (1930), pp. 7 and 16. Ibid. p, 7. Cf. Kastil (1938), pp. 91f.フランツ・ブレンターノの時間論 ② 7 ルティは,1895年の講義で,次のように説明している。 私がすでにしばしば言ったように,子供は本能的に,生来の傾向に強制されて,自分 に現われるすべてのものを真実のもの(実在)と見なす。そして,より綿密に考察する ならば,この本能的な信じは,感覚作用から絶対に切り離せないものであることが分か る。この感覚的信じ一とこう言ってよければだが一は,外界が存在するという(わ れわれの)あの直接的な(素朴な)信念もこれに基づくのであるが,なるほど(その感 覚対象は実は存在しないのだという)より高等な認識によって,いわば停止させられ る(lst suspendiert)ことはあるだろうが,しかし決して根絶されはしない。それは (感覚作用に)上乗せされた(別の)一作用であるのではない。なぜなら,上乗せされ たもの(das Superponierte)の概念には,一方的分離可能1生の意味が含まれているか らである。だから事実はむしろこうである。感覚(Empflndung)は,相互に不可分の 二つの部分を含む一つの作用である。すなわち,物理的(自然的)現象の直観(表象) 18)と,それの実然的肯定(das assertorische Anerkennen)との二つの部分を。 例えば,いわゆる幾何光学的錯視によって,長さの等しい二本の線分の長さ が異なるように見えるとか,平行な二直線が平行でないように見える場合,わ れわれがこれは錯視だと気づいた後でも,依然としてその錯覚は消失しないの だが,それと同様に,われわれが物理学的,生理学的あるいは哲学的考察によ って,色や音や露寒はわれわれの外部に存在するとは断定できないという認識 に到達しても,依然としてこれらは外部に存在しているかのように感覚される わけである。 さて第三期理論は,感覚作用に含まれる上記のような盲信的,肯定判断的性 格に着目し,これをプPtテレステーゼにも応用することによって第一期理論の 欠点を克服して,再び様態差異説の立場に帰ったものである。 なお念のためにここで断っておくと,第二期理論が放棄されたといっても, 捨てられたのは対象差異説であって,あの時期に打ち立てられたプPテレステ ーゼについての見解は,必要な修正を施した上で,依然として第三期にも, 否,最:終期まで保持されたのである。(とはいえ第三期以降では,プロテレス 18) Kraus (1930), p. 16.
8 彦根論叢 第217号 テーゼは単なる表象作用でなくて,判断作用と見なされたわけであるが。)そ i9) れゆえ前記の「時間について」と題される論文(第四期のもの)においてブレ ンターノは,プロテレステーゼについて次のように説明している。(第二期お よび第三期に,プPtテレステーゼに関してブレンターノ自身が書いたものは, 公刊されていない。) それゆえ,われわれはもう一度検討しよう。感覚に際して何がわれわれに与えられる ことによって,‘過ぎ去っだ,現在の’,‘将来の’などの差異の表象をわれわれに得させ るのであるかを。…… だれかが話し,あるいは歌うのをわれわれが聞く場合には,彼が順次に歌う一ある いは話す一複数の音声が,われわれに同時に現われる。しかし,いかにして(同時 に)現われるのか。幾人かはこう言った。それらがわれわれに同時に現われるわけは, 先に語られ,あるいは歌われた音声の残像が(後まで)保持されるからであると。しか しこれは正しい説明ではありえない。残像が与えられる場合には,残像は後続の印象と, 互いに同時に生起するものどうしが結び付くのと同じふうに結合するのである。それゆ えわれわれはむしろこう言わねばならぬ。最初にわれわれの内に呼び起こされた感覚が 20) 別の感覚(プロテレステーゼ)を誘引して,そして後者が,前者が現在のものとして示 したもの(対象)を,ついさっき過ぎ去ったものとして示すのであり,そしてまた後者 も同様に(別の感覚を誘引して,同様な結果を生じさせる)。 これらの後続する諸感覚 を,われわれはプロテレステ一翼と名づけ’よう。一つの感覚が不変のまま継続する場 合ですら.すでにこのようなプPテレステーゼ(複数)があの感覚によって誘われて (veranlasst)登場する。その論われわれは,より先とより後の順序を有する均質的な 内容の感覚を,つまり持続(Beharren)の印象を,もつであろう。例えば歌うときの長 く引き伸ばされた一つの音声の場合がそうである。 このようにしてわれわれの前に姿を現わす現象的な時間線分(die phllnomenale Zeit− strecke)は,常に全く等しい長さのものであるように見える。あたかも目の視野が常に 21) 空間的に同じ限界内に収まっているように,である。 19)上のp.4を参照。 20) zur Folge hat,ny・・… 21) Brentano (1928), pp. 45f.
フランツ・ブレンターノの時間論 (2) 9 さて判断にはさまざまの様態(様式)の差異が見られる。つまり,判断作用 がその対象に関わる関わり方には,幾通りもある。例えば肯定と否定の区別に しても,すでに様態の差であるし,またそれ自体で明白な判断(例えば「赤鬼 は赤い」)と,明白でない判断(例えば「大地は丸い」の差異にしても同様で ある。しかし当時(第一期から第三期の終わり近くまで)のブレンターノの見 解によれば,表象作用が対象に関わる仕方はすべて一様であって,様態の差異 うと呼ばれるべきものは,そこには見いだせないのであった。しかもまた第二期 においては彼は感覚もプロテレステーゼも一種の表象であって判断ではないと 考えていたので,この両者の間,および多数のプロテレステーゼの作用の間に 様態の差異を認めることは,不可能であった。それが,上述の感覚の判断性の 発見によって可能となったわけである。 すなわち第三期理論によれば,まず,感覚とプロテレステ一朝とはどちらも 判断なのであるが,但し互いに様式の異なる(したがって別種の)判断であ る。だから,何かを現在のものとして肯定する感覚と,それを直前のものとし て肯定するプロテレステ一子とでは,対象は同一であるが,ただ肯定の仕方が 違うのだということになる。次に,複数のプロテレステーゼの間にも様態の差 異を考えることが可能となる。そしてさらに,それらの様態の差異が無数であ の り,連続的に,つまり無限小の差異を示しながら,変化すると考えることも可 能になる。 この点についてはブレソターノ自身が,マルティ宛の手紙で次のように述べ ているD あう ブμテレステジーの対象が連続的な仕方で変容させられるのだと,人(ブレンターノ 自身)が想定することができたのと同様に,今度はまたこう考えることも許されるであ 22) より厳密に表現すると、「全身が一面に赤い鬼が赤くないことは不可能である。」 23)水地「フランツ・ブレンターノの表象理論」,「彦根論叢」,第210号(198!),P.35 参照。 24) infinitesimal variieren (Kraus, 1930, p. 22). 25)既述のように,Proterastheseは当時はまだProterasthesieと呼ばれていた。
10 彦根論叢i 第217集 ろう。すなわち,対象は不変であるが,この対象に向けられた肯定作用(Anerkennung) 26) が連続的な変化をこうむるのであると。 またマルティは彼の講義の中でこの点を次のように説明している。 さてそこで,プロテレステジーの対象が連続的に変容させられると考える代りに,こ の変容を対象へ向けられた肯定作用へ移すことは,思い付きやすいことである。プロテ レステジーの対象は感覚の対象と同じものであるが,これが.変容して行く(判断作用 の)様態と結び付けられるのである。例えば赤が依然として直観され,かつ肯定される のであるが,しかしこの肯定作用が連続的な変化をこうむるわけである。そしてこの変 化こそが,対象を時間的にいわば押しずらすものであり,これこそがわれわれの時間概 り念の源泉なのである。 28) 第一期理論の欠陥は,上述のように,想定された判断の様態が過去・現在・ 未来の僅か3種であったために,時間の連続性を説明しえない点にあった。第 三期理論では,プロテレステーゼの様態を無数とし,これらの様態が相互に無 限小のヴァリエーションを示すと考えたので,この欠陥は克服されたわけであ る。例えば聞かれた一つの音がく時間感覚野〉つまり,いわばプロテレステー ゼの〈視野〉の内で一秒間現われるとした場合に,0.1秒前のその音と0.2秒前 のそれとでは,音は同じ音だが,それを表象し肯定するプロテレステーゼの肯 定の仕方が微少に異なる。そしてわれわれがこれらの差異を内的に知覚するこ とから,時閥の観念が得られる,というわけである。したがって,第二期理論 では時間直観は音とか物体の運動とかの物理的現象に係わるものであったのに 対して,第三期理論では,時間直観は心的現象(心的作用)の直観である。こ の点についてマルティは次のように説明している。 さて今もしだれかが「では今でも(この理論においても)まだ時間直観というものが 26) Kraus (1930), p. 7. 27) lbid. p. 18. 28) 「彦根論叢」,第215号,P.12.
フランツ・ブレンターノの時間論(2) 11 あるのか。 (あるとすれば)それはどんなものか」と尋ねるとすれば,こう答えられね ばならない。この(時間直観という)名称に値するものは,物理的(自然的)現象の直 観ではなくて,一つの心的現象(つまり感覚作用)の,並びに一連続物を成す心的諸現 象(プロテレステーゼ)の直観,すなわち連続的に変異する一連の判断様態の直観であ る。そしてまさにここに,すべての時間的諸概念の源泉が求められるべぎである。なぜ なら,独特な肯定諸様態(Anerkennungsmodi)から成る限られた範囲の一連続物のこ の直観に基づいて,入はもっと遠い過去の諸概念と未来の媒概念とを これらにつ いてはわれわれは本来の意味での直観を全然有しない一形成することができるのだか 29) ら。 なお,ずっと後年(第四期)にブレソターノはこう述べている。 (カントは時間を内的感官の形式と主張したが)まさに(カントの用語で)外的感官 の対象を感覚する際に,時間的諸差異は最も多くわれわれに与えられるのである。…… (但し)時間的差異についてわれわれが外感によって感覚するすべてのものが内感によ って,しかも内感のみによって知覚されるということは,本当である。とにかく,われ われが知覚する(時間的)諸差異は,対象の差異ではなくて,外的感覚の感覚様式の差 異であり,そしてこれらの差異は,内的知覚というものの存在なしには把握されえない R. e) であろう。 また第二期理論の主要な欠点は,上記のように,実在的なものと非実在的な: ものとが連続することなどであったが,この不都合も第三期理論では解消し た。この点についてブレンターノ自身は,第三期理論を説明したマルティ宛の 手紙において,「あの気がかりな諸点がこの新しい理論では本当に片付いたこ 31) とは明瞭である」と述べたにとどまるが,マルティは彼の講義の中で,これを 次のように説明している。 29) Kraus (1930), pp. 20f. 30) Brentano (1928), p. 52. 31) Kraus (1930), p. 8.
12 彦根論叢 第217号 というのは,今や(この新しい理論によれば)相互につながっているのは肯定の諸様 態である。そして,これらはすべて実在的(real)である。これに反して対象はもちろ おの ん不変のままである。過去の赤が(現在の)赤に連続的につながるのではない。 つまり第二期理論では,プロテレステーゼの対象として現われる(例えば) 赤は過去の赤だったので,それらが感覚の対象である現在の赤と連続するのは おかしいわけだが,第三;期理論では,感覚の対象は現在の赤ではなくて,ただ の赤であり,プロテレステーゼの対象も過去の赤ではなくて,ただの赤なので ある。そしてこの赤は,連続的に変化するのでもなくて,時間直観の視野の内 で終始不変のものとして現われる。 なお第三期理論(したがってまた第一期理論)の第二期理論との対比におけ る利点として,当時のブレンターノは,(1)時間語(Zeitwortすなわち動詞) が肯定の表現であるという事実は,時間的差異が肯定様態の差異に関連してい お るという見解にとって有利であるということ,のほかに,(2)肯定される対象 は,現在のものとして肯定される場合も,過去のものとして肯定される場合も, 同一のものであるとする一般的見解(die gew6hnliche Meinung)との調和, おの を挙げている。 しかしながら,まさにその一般的見解と日常言語の用法によるならば,時間 的諸規定は一般に事物の規定であって,心的作用を修飾するものではない。例 えば ‘昨日の火事’,‘往年の名優’,‘今夜の満月’,‘明日の夕食’などの表現 において,時間的規定はわれわれの心的作用を修飾しているのではない。 この問題については,概念形成に関する当時のブレンターノの見解(の一部 門)を知っておく方が,理解しやすいであろう。おおむね当時のブレンターノ に従ったマルティの見解によれば,ある概念は直観内容から抽象されることに よって形成される(これを今便宜上単純概念と呼ぼう)が,他の概念は,単純 概念が幾つか結合されることによって形成される。ところでその抽象には,三 32) lbid. p. 20. 33) 「彦根論叢」第2!5号,pp.8f.参照。 34) Kraus (1930), p・ 8.
フランツ・ブレンターノの時間論 ② 13 通りの方式がある。一つは,例えば赤いものの直観から‘赤いもの’の概念を 形成するというふうに,一種類の直観から,その直観内容に対応する概念を抽 象する方法である。これをマルティはImperzeption(直接把握?)と呼んだ。 ‘色’あるいは‘色づいたもの’,‘聞く’あるいは‘聞くもの’などの概念は, このような方式で形成される。第二は,二つ以上のものの間の関係の概念を形 成する方法であって,Komperzeption(複合把握?)と名づけられた。例えば 等しい’あるいは‘等しいもの’,‘異なるもの’,‘大きいもの’などの概念は, この方法で形成される。第三の方法は,われわれが自己の心中である判断を経 験し,これが反省されることによって(durch Reflexion auf),当該判断の対 象にかかわる概念が形成される方式である。例えば‘不可能なもの’の概念は ある種の判断,例えば〈黒ねこが黒くないことはありえ.ない〉というような判 断の反省を通して形成され,かくして形成された‘不可能なもの’の概念は, ‘黒くない黒ねこ’に適用されるのである。この方式はReflexion(反省)と 名づけられた。‘黒ねこの表象はもちろんのこと,黒くない黒ねこ’の表象 にしても,不可能性の概念を含んではいないのであって,われわれが判断を内 省することによって初めて不可能なものの概念が得られるわけであるが,かと いって判断作用が不可能であるのではなくて,黒ねこが黒くないことが,ある いは黒くない黒ねこが,不可能なのである。 さて以上はマルティの見解であるが,しかしこれは大筋においては,特に今 ここで問題になるく反省〉という概念形成の方法についての理論は,当時のブ レンターノの見解でもあったのである。それゆえ1889年の「道徳的認識の源泉 について」の注(後にWahrheit und Eηidenzの一章としても公刊された) においてブレンターノは,‘存在’(Existenz)の概念について,「それは,すで 3s) A. Marty (1908), Untersuchungen zur Grundlegung der allgemeinen Grammatik und SPrachPhilosoPhte, pp. 434f., 566f. ldem (1940, 1965), pp. !85f. なお‘Reflexion auf’は「への反省」のほかに,「の反映」の意味をも含みうるの かも知れない。スコラ哲学老たちの用語法では,‘reflexe’(回帰的に)ex ‘directe(直 接的に)に対立する。例えばSuarez, De Anima, N,3,2参照。
14 彦根論叢 第217号 にアリストテレスが認識したように,肯定判断への反省を介して得られる」と 述べている。つまり,あるものが存在していても,そのものをわれわれが表象 するだけでは,存在の概念は得られない。それが肯定され,しかもこの肯定判 断が真である保証があるときに,この肯定判断への内省によって,肯定されて しかるべきもの(das, was anzuerkennen ist)という概念が得られる。これが く存在するもの〉という概念である。ところで‘現在のもの’とは‘現在存在 う するもの’にほかならない。それゆえ現在のものとは,現在態の肯定判断によ って肯定されてしかるべきものである。また大なり小なり過去のものとは,そ れに対応する過去態の判断一これには無数の種別がある一によって肯定さ れてしかるべぎものである。感覚は現在態の判断であり,プロテレステーゼは 過去態の判断である。われわれはこれらの判断作用を反省し,現在のもの,お よび過去のもの一直前の過去のもの,その少し前の過去のもの,など一の 概念を形成し,これを対象に適用するわけである。 さてそこで‘いっかあったもの’(ein irgendeinmal Gewesenes),つまり一 般的な‘過去のもの’の概念は,多種多様の過去態の肯定判断のうちの任意の さ う どれかによって肯定されてしかるべきもの,を意味する。J. S.ミルや第一期 のブレンターノの理論では,過去についての肯定判断はただ一種だけで,した がって‘あった’という規定も一種であったので,つまり‘あったもの’は一 種しかないことになっていたので,このような定義は不可能であった。だが第 三期理論では, ‘あったもの’は無数の種を包摂する類概念である。 36) Brentano (1930), IVahrheit und Evidenz, p. 45. 37)‘現在のもの’(das Gegenwartige)と‘存在しているもの’(das Existierende)と は,当時のブレンターノによれば,同一概念である。Kraus(1930), p,8;Kasti1 (!938), p. 92; Brentano (1925), Versuch de’ber die Erkenntnis, p. 27. 38) Kraus (1930), p. 21: Existierendes ist das, was anzuerkennen ist, Nun, wie das gegenwtirtig Existierende ein in dieser Weise Anzuerkennendes bedeutet, so bedeutet das Gewesene und frtther und spater Gewesene ein in dieser Weise modifiziert Anzuerkennendes,・・・…. 39) Kraus (1930), p. 8, p・ 22. Kastil (1938), pp. 92f.
フランツ・ブレンターノの時間論(2) 15 さて対象差異説が様態差異説に変更されたことを除けば,他の多くの点で, 第三期理論は第二期理論と類似していることは,ブレソタ ・一ノ自身がマルティ 宛の手紙で指摘している。 その他の点では,以前と比較して,さしあたって何も変更されていないようである。 以前には,プロテレステ一軸において,限られた(範囲の)一連の連続的な対象があっ たように,今度は,限られた一連の連続的な一同一対象にかかわる一肯定様態があ る。後者についても人は,これから先のことは(以前の理論の場合と)全く類似の仕方 くので処理する(ganz analog weiter operieren)ことがでぎよう。 しかし未来についてはどうか。第一期理論では,詳細は不明だが,とにかく 未来態の肯定判断に基づいて何らかの仕方で未来の概念が形成される,と考え られたのであろう。しかるに第二期理論では,直観の領域には未来の対象も未 来態の判断も現われないので一なぜなら感覚は現在にのみ,そしてプロテレ ステーゼは過去にのみ係わるのだから一未来の概念はこれらの直観からアナ む ロジーによって構成される,と推定されたのである。では第三期理論ではどう かというと,ブレンターノ自身は1895年のマルティ宛の手紙でこう述べてい る。 (第三期理論は第二期理論と細部の点で類比的だと言ったけれども)とはいえ以前に は考えられえなかった幾つかのことが,例えば期待における真実の未来様態(ein wahrer Zukunftsmodus、n der Erwartung)が,今では考えられうるようになったのではない ラ かどうかは,今後の研究課題である。人はここで性急に否認しようとする態度は避けね ばならない。この問題は動物心理学にとっても,そして動物に未来の何らかの表象と, 欲求あるいは追求(Streben)に類似する何かがあるかどうかという問題にとっても, 特別の意義を有するであろう。旧理論(第二期)ではこのことは本質的に決定的に不 40) Kraus (1930), p. 7. 41) 「彦根論叢」第215号,p.17. 42) もし期待も表象でなくて判断であるとすれば,それの様態への反省によって,〈未 来のもの〉という概念が形成されるのではないか,という問題であろうか?
16 彦根論叢第217号 43) 可能事であった。 しかしマルティは,彼の講義で,未来に関しては単に次のように述べたにと どまる。 特殊な肯定諸様態から成る(短かく)限定された一連続物のこの直観に基づいて,人 はもっと遠い過去の諸概念と,未来の諸概念とを形成することができる。この両者(未 来と,プロテレステーゼの及ばぬ過去)については,われわれは本当の意味での直観を 44) 全然もたないのである。 カスティルはしかし,ずっと後年(1938年間にだが,未来に関して次のよう に説明している。 われわれの所有する‘未来のもの’(das Zukttnftige)という概念も(この第三期理論 によって十分野)説明されたように見えた。プPテレステー一ぜに対応するヒュステレス テーゼ(Hysteraesthese.以後感覚つまり朱来感覚)なるものは存在しないとしても,そ れでもわれわれは次のような判断様態の観念を作り上げることができよう。すなわち, (肯定判断の)現在様態が過去諸様態から隔たるのと同じ仕方で,同じ方向へ,現在様 態から隔たる判断様態の。そして未来のものとは,それに対しては(それを肯定する 判断様態としては)この様態が適切であるだろうところのもの,である(,,zukifnftig“ 45) heisst dann das, wofUr dieser Modus der passende wtire). しかし,ここでカスティルが言っている未来様態は,類推によって構築され るものであるから,上記のブレンターノの言う期待判断の様態とは異なるよう にも思われる。 次に願望の対象に関しては,当時のブレンターノの手紙にもマルティの講義 でも触れられていないのだが,カスティルは次のように伝えている。 43)Kraus(1930), p.8.なお期待と未来概念との関連については, Augustinuse Con・ fe∬iones,笈,28参照。 44)Kraus(1930), pp.20f.なおBrentano(1925), Versuch, p,26参照。 45) Kastil (1938), p. 93.
フランツ・プレγターノの時間論 ② 17 最後に次の点もまた(第三期理論によって)解明されたように見えた。すなわち,わ れわれがいかなる判断様態ででも肯定しない一つまり現在のものとしても,過去のも のとしても,未来のものとしても肯定しない一何らかのものについて,にもかかわら ず,それがあることを,あるいはあったことを,あるいは将来生起することを願望する (wunschen)ことができるのはどうしてか,という点も。つまり,そのようなときに はわれわれは,まさに上述のような(すでに形成されている)反省概念の内でその何ら かのものを現在のものとして一もしくは,あったものとして,あるいは将来のものと 46) して一表象しているわけである。 つまり,願望は時間の観念を含んでいるが,存在すると肯定されない願望対 象がどうして時間的規定をもちうるのかというと,すでに形成されている現在 のもの,過去のもの,あるいは未来のものの概念のどれかに願望対象が結合さ れることによって,例えば「Aがあのとき存在したものであればよいのに」と いうような願望が可能になる,というわけであろう。 〈5)第一期∼第三期理論の回顧 さて以上でわれわれは時間意識に関するブレンター・ノの第三期理論の内容の 概略を一通り説明し終えたわけであるが,このあたりでいわば一服して,これ までの叙述を振り返りつつ,若干の補足的説明を与えることによって,第一期 から第三期までの,しかし特に第三期の,彼の研究方法と研究成果の意味を, 簡単に考察してみよう。 1902年以前(つまり第三期)にブレンターノは「哲学者たちは時聞について 何を教えたか」と題する論文を書いて,17名の過去の哲学者の時間論の要点を ごく簡潔に概観し批評しているが,そのうちのジョン・Pックを取扱った部分 で彼は, 「彼(ロック)の場合,時間の概念規定が,この概念の源泉を探ね当 4iり てる問題と密接に関連せしめられている」と言い,さらに「ロックは時間概念 の説明のために,この概念がその内で具体的に現われるところの何がしかの直 46) lbid. 47) Brentano (1976), Raz{m, Zeit u. Kontinzeum, p, 67.
18 彦根論叢第217号 観に目を向けることによって,一つのまことに正当な方法論上の確信を表明し 48) た」と評している。このような行き方は,時間概念の研究に関しては,ロック 以前にはほとんど見られなかったものであるが,ブレンターノ自身の研究方法 は,この点でロックに一致するのである。 49) だがロックはこの方法の適用に失敗した。彼にとって時間は持続,あるいは 尺度で区切られた持続である。そして持続の観念は継起の観念から得られる。 50) なぜなら持続とは継起の任意の二部二間の距離であるから。また継起の観念 は,感覚によっても得られるが,とりわけ,われわれの心の内で観念が次々に 51) 生起するのを内省することによって得られる。しかしロックのこの理論では, 時間の連続性が説明されていない。時間の連続性は単なる継起ではない。相継 起するものの種差が微少に変化することが,それにとって本質的に重要であ る。それゆえブレンターノはロックを批判してこう言っている。 時間において問題となるのは継起だということは,すでにデカルトが,また彼以前の 他の幾人かが言ったことである。ただしかし, (変化のない存続の場合ですら)時間に おいて相継起するのは何であるのか,どのような種差が(時間的)距離のいろいろ異な る大きさをもたらすのかを,そしてそれと共に時閥の全概念を,ロックは不明瞭なまま に放置した。それはあたかも赤と青,黒と白の隔りを形成する種差が,どのような類に 属するかを明瞭にしない人は,色の概念をはっきりさせたことにはならないのと同様で 52) ある。 48)Ibid. p.68.なお次の個所をも参照。 Brentano(1889), Vam Ursprung sittlicher Erfeenntnis, sect.18(p.16,4th ed.)および注18(pp。53f.);Id.(1925,2nd ed. 1970),Versuch diber die Erkenntnis, p.26:「それゆえ疑いもなく,空間的および時 間的諸規定は,他の 例えば質の一経験的(アポステリオリ)な諸規定に対し て,アプリオリなものとして対置される権利を些かも有しない。われわれはそれら を,他の諸規定と同様に,われわれの心的経験がそれと共に始まるところの具体的経 験から引き出すのである。」 49) Brentano (1925), Psychol. 1[, p. 264. 50) J. Locke, An Essay concerning Human Under−standtng, ff, 14, 3. 51) op. ctt. 1[, 7, 9. 52) Brentano (1976), p. 68.
フランツ・ブレソターノの時間論 (2) 19 ブレンターノ自身の第二期理論では,相継起するものは対象(の差異)であ ったが,第三期理論では,われわれが見たように,それは感覚とプロテレステ ーゼの諸様態であった。プロテレステーゼがその対象にかかわる仕方が,次々 に微少に,かつ定常的に変化するわけである。それはだから様態差異説の一形 態であった。 ところでこの様態差異説については,後年マルティがブレソターノの第四期 理論を批判したときに,次のように書いているのが,われわれに若干の参考と なるだろうか。 ・一時間意識がわれわれの心的ふるまいの様態(Modi unseres psychischen Verhal− tens)と何らかのふうに関連しているとする説を私は採用するし,それをその提唱者の 天才的な眼識の産物とみなすこと,そして時間問題の正しい解決への一つの決定的な基 53) 盤(eine endgtiltige Basis)と宣言することを,ちゅうちょしない。 ところで,すでに触れられたように,ブレソターノの第二期以降の理論で は,時間直観と時間概念とが峻別されている。そして時間直観は極めて狭い範 囲に限定されたわけである。 (カントなどの説では,無限の長さの時間が直観 54) されることになるのだが。)この点に関しても,マルティは後年次のように述 べて賛意を表している。 過去意識が一一それが現在意識に直近のものであれ,遠く離れた過去にかかわるもの であれ一あらゆる場合に心的ふるまいの一つの特殊な様態によって与えられる,とい うわけではないとする点でも,私はブレンターノに同意する。 経験が次のことを明瞭に示しているように私にも思われる。すなわち過去意識は.例 えば一つの音についてわれわれがもつ過去意識は,その音が感覚の対象であった直後 に.たった今あったものとして意識の前に立つ場合と,後になってわれわれがその音を 53)Marty(1916), p.202.「過去の」および「未来の」という形容語が規定的でなく て変容的だという事実は,それらが対象の差異でないことを決定的に示している,と マルティは考えたのである。Ibid. pp 199f. 54) Brentano (1976), p. 74; ld. (1925), Versuch, p. 26,
20 彦根論叢 第217号 かなり以前にあったものとして想起する場合とでは,構造的に異なっているということ を。 あるいは,別の例を選ぶとすれば,動いている物体が,相当以前に軌道上のある部分 にあったものとして想起される仕方と,すでに通過された軌道上の,まさに今現在当の 運動物体によって占められている点に隣接する諸点上にあったものとして意識される仕 方との間には,一つの著しい差異が存するように私には見える。後の場合には,人はそ の運動物体を,その運動が余りに緩漫でないならば,動いているものとして見る。つま り変化が〈直観〉されうるのである。しかしそれが(過去へ)もっと遠のいた場合には,