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法華経における法の語の使用例 : 譬喩品から授学無学人記品まで

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(1)

ブつ。 所依の経典については、漢訳の場合は﹃大正大蔵経﹄であり、梵文法華経は房且今胃昌画︲冒且画鼻僅&号。ご 卑具.湧冨昌画且刃具.習昌旨zg言ゞ團昌◎芽の8酉匙匡8・渓恩恵﹃go匡侭.岳91局.である。 幸のス︾◎ この論文は瘻神﹂第六十七号所載の﹁法華経における法の語の使用例l序品・方便品に関してl﹂の論文の 続きとなるものである。したがって前の論文と併せてお読み戴ければ、よりベターであると考えている。尚将来、一 冊のまとまったものとしたいと思っているので、一部、表記上などに相違が認められるところもあるが、御了承を願 いたい。又、引用の妙法華経、正法華経、梵文法華経の末尾につけられた数字は、それぞれ所依とした経典の頁数で 方便品の一仏乗の説示を聞いて歓喜した舎利弗は、釈尊にむかって喜びを語るが、その中に次のような言葉があ

法華経における法の使用例

法華経における法の使用例︵望月︶

1臂聡品における法

l警嚥品から授学無学人記品までI

望月海淑

(I) ~

(2)

冨吾画函四冨望也邑ずい﹃日画さの段ご騨胃員くい⋮⋮ゆぎ画日ウコい頤ゆく画邑ごゴ画函回ぐゆ冨迂で匡耳。ご$言、、匡司mmoョ匡奔壷go茜8 ︵1︶ 号胃昌画︲さ舎胃日四︲己円目8号胃目ロム曙且◎号胃日画,己﹃弓詳農一⋮四号冒冨︲舎胃ヨロョ︵日︶ 如来の法の説示を聞いて⋮世尊よ、私は世尊の長男として口から生れ、法から生れ、法から化生し、法の相続者で、 法から満たされました。未曾有の法を︵得ました︶⋮と示されている。ここで妙法華経によって訳された法はすべて 号”﹃目mであるが、仏口より生じ法より化生した云々の言葉は、法と法華経にかかわる人間の繋がりを示すものと して重要な言葉であろう。何故ならば、この後において釈尊は、舎利弗が前生における仏との縁によって、この世に 法華経における法の使用例︵望月︶ 従二世尊一聞二此法音一⋮我昔従レ仏聞二如レ是法一⋮我等同入二法性一。云何如来以二小乗法一而見二済度一︵己下︶ 今聞大聖講斯法要⋮常従仏聞法説.。.法号等入。世尊為我現若干教。而志小乗︵忌中︶ g四m画くgo︾昌弄豊函言曾日野具ぐ四一患昌冨閏ぐ画苗ぐぃ。答画昌9m画く画邑ご匙色日のご陣日︲﹃号msgpm画くgo ゞ員弄画・邑写画司冒四召⋮|冨与のご冑自画﹄三m﹃昌画さぎ騨巨︲胃回ぐの、のぐ画く画昌ウゴ函画く、&宮口のロロ]画冒の邑画己曼騨﹄薗昌︵9︶ と、世尊からお言葉を聞き⋮世尊よ、私は世尊からこのような法を聞かなかった時⋮法界に入るのは同じでも、我々 は世尊によって劣った乗り物で出離された、と示している。 妙・正法華経において法音・法要と訳されたものは釈尊のお言葉響◎智であり、法の訳語は号胃日画で、法性。 法号は号胃冒画︲今騨巨の訳であることが分かる。 しかして、喜びの心を締め括った舎利弗の言葉は、 初聞二仏法一⋮聞二所し未し聞未曾有法一⋮従二仏口一生従二法化一生。得二仏法分一⋮︵己下︶ 錐従法生不得自在︵忌中︶ (2)

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生まれ出したものであることを語っているからである。法華経に縁をもった人は、仏口から生じ、法より化生した人 だとするならば、そこでは声聞・縁覚・菩薩との差はなく、いや、そのような区別があるわけのものではないことに なるから、心のありようが問題になって来るであろう。尚、正法華経の訳は法より化生したとしても、それを自在に 受けとめることが出来なかったことを示している。 ここまでの舎利弗の言葉をうけて偶は、 同入二無漏法一・・・同共一法中而不レ得二此事一︵ご下︶ 因平等法而得無漏⋮於平等法而自危削︵囹中・下︶ 目辱の普号日日の曾目勝届くの曾一⋮⋮冨々の曾含胃昌の智goゞ切目目目冨亘︵日︶ と、無漏に等しい法の中にありながらも⋮ああ、等しい法の中にありながら私は愚かであった、と示しているが、 正法華経の平等の法という訳は、目]旨を受けたものだと思われる。すべての人に釈尊の教え。法は同じように及ぼ されているのに、それに気付くか気付かないかの違いによって、大きな差になることを意味するのであろう。愚か ョ且冨だったという一句はかかる意味なのだろう。 この外、響嚥品は法についての言葉を沢山に展開しているが、それらはおおむね説法・法輪・是法・正法・像法。 四諦法・等々を語るものとして使用されている。これらの使用においては、教え・真理・正法などの決まった概念の 上に立つものであろうから、このさい取り上げないことにする。 ただ舎利弗の言葉をうけた釈尊が、今、法華経を説くのは、前生において舎利弗がたてた本願を思い起こさせるた めである、と語るところにおいて示された言葉がある。その中に 法華経における法の使用例︵望月︶ (3)

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の画茸、巳織﹃巷具圖写。α三mg尊い︲、画日日画ロ言詳gPす。﹄三mg尊い︲3コ画望の。g画冒画日”胃画く画。四二画こつ、ロ回国弓画昏︵段︶ と示されている。舎利弗よ、汝は菩薩としての計画、菩薩としての秘密によって、私の所説の中に生まれたとあって、 妙・正法華経が訳した法は所説胃gm8目であることを示し、方便とか縁と訳されたものは菩薩のありようについ てのものであったことが分かる。そして、釈尊の所説とは法華経のことであろう。 舎利弗が将来なるであろう華光如来も、 以二本願一故説二三乗法一︵巨中︶ 以二本願一故説二三乗法一 言回冨のぐ画琶皆冒︺胄号ご範号胃ョ四日号曾]雪色三⋮量目冒眉一号習画︲ぐ息の愚含胃日画昌号留湯田昌一︵3︶ 三乗より始めて法を説き、誓願力によって法を説くだろうと示されている。ここでの本願・承続・胃眉匙壹習画と表 現されているものは菩薩としての計画・秘密ということの上に立つものであるが故に、法華経を説くということは前 生からの生命との関わりにおいて成り立つべきものかもしれない。 善嚥品の長い偶の中において三車火宅の喰を語った釈尊は、一仏乗にたいしてのあり方を語っているが、その中に 無量億千の諸の力・解脱・禅定・智慧および仏の余の法あり︵扇上︶という言葉がある。梵文法華経によるとこの余 の法は、優れた車ということで一仏乗のことだと思われる。そして、 若有二菩薩一於二是衆中一能一心聴二諸仏実法一︵忌上︶ 法華経における法の使用例︵望月︶ 我以二方便一引二導汝一故生二我法中一︵巨中︶ 当承続説三乗法︵忌中︶ 爾縁此故興在吾法︵忌上︶ (#)

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其有菩薩住於是者至誠之決︵認中︶ 留日出国且呂穿豊号画首忌日具薗冨巨住冨冒目]自画召8瑠ぐの警固ごロ日︵巴︶ 輪廻の苦から解法され仏乗を探すべきであるとされている。実法というのは仏乗のことだと思われるが、仏乗が法と の意をこめられているということになるであろう。すると法とは人々を法の境界に導いて行こうというものとなる が、正法華経が至誠之決と訳した意味もこのあたりにあるのかもしれない。 我此法印為し欲し利二益世間一故説︵忌中︶ 是吾法印是仏最後微妙善説︵認中︶ ご画の胄昔匡曾画目画目画舎目目色︲日且愚息g門口雰巴の目画自画且冨喜置冨︵忠︶ 舎利弗よ、私の法印は今日、最後の時によって説かれた、という言葉がある。法印とは号胃昌画︲g巨魁であること は明白であり、この教えは最後の説示であり、世間の人々の利益のためだというから、これが一仏乗をさすこともま た確実なことであると思われる。 そして、法華経を信受する人の生命の生き様について、こう述べている。 若有レ信二受此経法一者是人已曾見二過去仏一︵忌中︶

聞其妙法当奉持之為悉供養過去諸仏︵葛中︶

身禦腺呂恵目冒凰ョ陪冨芽侭胃讐”画房胃匡蔚協骨8再8号言浬一陣皀鼠。m今胃ョ。画冨日のぐ画︲﹃go 望画異口の貝同画昌、ご三野、﹄︽画邑毒のge巴 この経典を信ずる人は前生において如来たちを見、恭しく供養し、この法を聞いた人たちである、と示されている。 法華経における法の使用例︵望月︶ (5)

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実に一切の法は寂にして無漏⋮滅度の境地で終わる、これ︵身︶で長夜に空を考えた、というのであるが、空寂・空 法・寂然・空というような訳語は、空曾邑冒冨に関わるものであることを示している。これは迦葉が空の思索にだ ただ、偶の中において迦葉が我々は自ら志願することがなかったと語っているが、その下りに、一切諸法は空寂に してという言葉がある。すなわち、 一切諸法皆悉空寂⋮而自於レ法謂一是究寛一我等長夜修二習空法一︵扁骨下︶

寂然在法⋮今乃究寛具足最勝得無為限当捨陰蓋長夜精進修理空誼︵囹下︶

ぃ習菌壹冨画切胃ぐ壺昌芽胃冒画@口勝圖息⋮⋮国弓ぐ唐画︲gご侮昌闇日巨8頁どの︾切目ご冒凰g曽詳陣曾ご画冨い四国計働き雰建画切m円く︾︺ ● 信解品においては法の使用例はすぐない。しかもそれらは、未曾有法・菩薩法・稀有法・小法・大乗法・聞法・法 王などのように、すでに決まった概念の立場において使用されたもののようであるから、ここでの論議の対象とはな りにくい。 法華経における法の使用例︵望月︶ 妙法華経において已に曾て、過去の︵諸仏︶と訳され、正法華経によって過去と訳されたものは、冒甸冒画であろう と思われるが、この言葉は呂射ぐ画と同じく前生とか過去を示す語であるから、法華経を信じ受持などをする人は前 生において仏と巡り合い、そこで仏にたいしての給仕・供養などをして来た人だということになる。すなわちこの仏 との縁があるから法華経にお会いをすることが出来たことになるであろう。 ・割門函ゴロI門口守門四旨再︵﹄﹂﹃︶

2信解品における法

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薬草喰品の冒頭には、釈尊の言葉として、 如来是諸法之王⋮如来観二知一切諸法之所二帰趣一︵ら上︶ 如来之慧無能限者⋮世尊普入一切諸誼︵麗中︶ と如来の能力の素晴らしさを示している。しかして、これに対する梵文法華経は、 含胃日画︲、乱目瞬腺冒冒冨芽綴胃農の胃ぐ餌︲鼻日日圏目︺且呼・・富夢摺go今胃目働昌冨芽g目蓋言昌闇 冨夢閏箇g豊騨こい胃箇︲穿胃目自勗⋮⋮︵届C 迦葉よ、如来は法の支配者であり一切の法の王︵である︶⋮如来はどこで法を説いたとしても、それはありのままで 法華経における法の使用例︵望月︶ け走ってしまっていて、菩薩行を行うということを考えても見なかったことを示そうとしたものであろう。 諸仏於レ法得二最自在一︵ら上︶ 於一切世諸法中尊皆為大神︵圏上︶ 号胃日豚ぐ胃◎扉ぐ閂巨、胃ぐ画︲一.百日”急ぎ胃。︸具、︲ご旨野口恵且愚昏︵届s ︵仏は︶法の自在者、一切世間における大自在者で世間を指導するインドラである、とい.う言葉が最後にある。この 世をすべて自在に見ることが出来る仏にとっては、法のままにものを見、ものごとに処することが出来るのであるが、 仏と法とが一如しているからであろう。迦葉のものの見方と仏の見方との違いこそ、法華経の立つべきところなのだ スン﹄︽ノ0

3薬草嚥品・授記品における法

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如来演法一品如是︵忠下︶ 冨菩揖画8︾﹃富口吻画目冒零笛昌言邑g忌日号胃目、召9場gのの胃ぐ島の、号胃目画の富︲3m。︵届e 等正覚者の如来が法を語っても、その法はすべて一つの味である、という言葉がある。妙・正・梵の三法華経ともに 同じ内容の表現であるが、釈尊によって説かれる法今胃日也はどんな言葉でどんな説かれ方をしたところで、一味 だというのは何故なのだろうか。 更にもう一度、一相一味に言及されているが、そこにては解脱相・離相・滅相・究寛浬桑・常寂滅相で終に空に帰 す︵這下︶と語られており、梵文法華経には鼻腺画︲魑睡冨日︵虚空に行く馬令届巴とあって曾昌画冨空が使用 されたのではないことを示している。虚空と空この二語にはどのような関連があるのだろうか。虚空をすべて包みこ んでしまうような単なる広がり、と考えてはいけないのではなかろうか。もっと違う後の従地涌出品で示すような、 理念の広がり的に考えて見るべきことかもしれない。 そして、所以者何として続けられる次の言葉を見ると 法華経における法の使用例︵望月︶ ある。︵如来は︶一切の法を⋮と示していて、法は匙胃目凹の訳であり、妙・正両法華経と同じような記述となっ ている。しかしながらこの引用部分は一分で、如来はあらゆる法を正しく説き、如来の知恵によって説き、一切の法 の目的を見定め⋮、という具合に続けられて詳しい記述となっている。これは如来は法において、まったく自在なる ことを強調しようとしたためかもしれないが、理由は分からない。 この薬草嚥品においても、聴法・法門・説法などの使用例は多い。その中から別の見方をとりあげてみると、 如来説法一相一味︵ご中︶ (8)

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唯有二如来一。知下此衆生種相体性。念二何事一。思二何事一。修一何事一。云何念。云何思。云何修。以二何法一念。以二何 法一思。以二何法一修。以二何法一得中何法上︵岳中︶ と語られ、さらに何法という言葉が繰り返して使用されている。法という言葉がたくさんに使用されているわけであ るが、ここで示される何法とはどのようなものなのか、とりあえず正・梵両法華経の該当箇所を見ると、そこには 群生根本形所像類。如所想念。已念当念所可施行。以行当行所当行者。諸所因縁。所当獲致所当説者○︵雷下︶ 富菩摺画冨の箇宍腺冒冨計習“”尊く貿具、吾亘習騨この8冨曽筈四。”g︺且詠腺8恵一冨昌8恵昌苗︲ 曽具口冨芸脚89.旨冨冨具ごgm8電。旨冨冒口三⋮罫習gg辱・・胃皆目ぐ働昌⋮︵后ら 如来こそ、これらの衆生等がそのようなものであり、どのようなものであり、いかようなものであるかを知っている。 彼等がなにを考え、どのように考え、いかように考えるかを知っている。なにを為すか⋮、なにを達成するか︵知っ ている︶⋮、と示されている。この文中⋮の部分はどのように・いかようにという文章の繰り返しであるから省略し た。そして妙法華経が以何法念と訳した以下の言葉は、この梵文の次に示されているのだが、その中においても法に 該当するような言葉は使用されてはいない。 しかし冒す旨与国菖豊詠腺などの言葉は、方便品の十如是のところにおいても使用されていることを思うと、 法を語るものとしての何か深い意味あいがこめられているかもしれない。 かくて大雲が大地に雨を降らせ樹木を繁茂させるように、仏は世に出現すると衆生のために法を説くのだといい、 為二諸衆生一分別演二説諸法之実一︵g上︶ 為衆説法以是誠行示於衆生︵段上︶ 法華経における法の使用例︵望月︶ (9)

(10)

法華経における法の使用例︵望月︶ 屋号且旨89畷凰邑◎富︲呂昏。ず百国己。胃筥骨詠畠胃の8冒営旨瞥ご合雪︶ 世間の主は出現すると人間たちにありのままな行いを語る、と示している。ここでは妙法華経が諸法之実と訳したも のは要目、であることが分かる。99mであるからそれはありのままにそこにあることを意味するから、正法華経 諸仏之法常以二一味一令三諸世間普得二具足一︵g中︶

設使世間行慈感法常以経典飽満天下以現世間令普安穏︵霞下︶

ご画昌駒画儲さ富︲言含母画含日日”冨冨呂昌号日日gゞ冒巨、胃冨︲]o冨目︵屋e 法性は常に世間の利益のためであり、法において一切の世間を満足させる、と示されている。ここでは号胃自画と 含胃昌画菌とが使用されており、妙法華経はこれをただ法の一語に訳しているが、正法華経の訳である慈懲法とい う言葉は、二つの梵文のどちらの言葉なのだろうか。判然とはしない。 授記品は四大声聞への授記が語り示される品であるから、そこにおいては当然のこと正法は何年、像法は何年続く ということが語られるから、正法・像法そして仏法・法王などの使用例が沢山ある。しかしこれらは先述のような理 由により、指摘するだけにしておこう。 尚、須菩提が名相如来に将来になるであろうと予告された偶の中において、 其仏説し法現二於無量神通変化一不し可二思議一︵匿中︶ れに続いて、 は誠行と訳したのであろう。 妙法華経の巻末に近く一法・一味の法などの言葉が妙法華経には見られるが、これらは芽胃9画の訳であり、そ (〃)

(11)

化城職品においても法の使用例は多い。中でも諸仏法・無漏法・法輪・説法などの例があるが、十六王子や大梵天 王たちが仏に法輪を転ずることを請うという説示の内容からして、法輪の語は際立って多くの使用が見られる。しか し、これらの語は定まった述語のような使用だと思われるので、今は言及しないことにする。 そして、梵天王が大通智勝如来に法輪を転ずることを請う段の、偶の中において次のような言葉が示されている。 大聖転二法輪一顕二示諸法相一度二苦悩衆生一令し得二大歓喜一衆生聞二此法一︵圏下︶

最上大人願転法輪惟講経典為十方人度脱筆萌苦悩之患︵召下︶

胃四ぐ目冨冨・異国︲ぐ胃”日日g平目目の冒農腺亀画与胃日巨烏の甲匿い儲匡壽胃の三mm鳶ぐ皆号喜画︲芽胃目、, 豆嘗習胃胃5号画︲冨愚画昌]“目冒のぐ四号三国胃]︵弓e 偉大な賢者よ、車輪を転じ十方において法を説き給え。合客、︲号胃日画︲ロ巨富の衆生を救って下さい、と示されて いる。ここで妙・正両法華経によって訳された法輪は8寄画︲ぐ胃画のことであって、ここには島胃9mという言葉 が使われていないから、正確には車輪のことであって法輪ではないが、その次に法を説けという言葉があるところか 法華経における法の使用例︵望月︶

脱門無擬而処安穏計神足力不可思議︵雪中︶

g旨↑ごm召亘邑冨さ巴四B8ご言望呉一宮呉腺回国四コg望蔑日画冒由腎画︲g合一ョ︵ぷe 最高の覚りを説くのに現す神通力は考えられないとあって、画四四,9今︺の語が法と訳されたものであることを示 している。正法華経はまったくの意訳であろうと思われる。

4化城嚥品における法

(血)

(12)

なのかもしれない。 法華経における法の使用例︵望月︶ らして、車輪は法輪であるとしたのも自然の流れであろう。そして、妙法華経の法相という訳は、法を説き給えとい う言葉を受けたものだと思われるが正法華経はこれを経典と訳したことになる。法を説いたものが経典だということ そして妙法華経の聞此法の一句にあてはまるものは正法華経には見られず、梵文法華経にも直接の表現としては 見られない。上掲した文では、含喜画︲号胃日画︲豆曾冒と表現されたところがあるが、これを訳出した松涛誠廉等訳 の﹃法華経﹄︵大乗仏典4︶には﹁苦に悩む衆生たちをお救いください﹂とされており、岩本裕訳の﹃法華経﹄︵岩 波文庫︶にては、﹁苦悩の迫害に打ちひしがれた者たちを済度されよ﹂と示されてい壷↑これらの訳はともかくとし てここでの含胃昌四が何かの関係をもっているのだろうか。 ともあれ、このような十六王子らの請に応じて、仏は四諦・十二因縁法を説かれるのであるが、その記述をした中 以レ不し受二一切法一故⋮第二第三第四説法時⋮亦以レ不し受二一切法一︵圏上︶ 分別此誼⋮如是至三。第四説経。︵宮下︶ gg豊野︾勝愚ぐ号ご鼠。冒習﹄雪旨匡再曾︼⋮号旨忌日号日日”︲号曾ご胃︺農胃櫟賃尋胃]⋮︵雪巴 ︵人の︶心は苦悩から解放され自由になった⋮第二の法を説き、︵第三の法を説き、第四の法を説き︶と示されてい る。この場面での妙・正・梵の三法華経の説示を見ると、法を説いたということでは一様であるけれども、妙法華経 における不受一切法という語句については、苦悩から解放され、ということが梵文法華経の表現であるので、一切法 という時の法号胃冒画の義は示されてはいない。何故に一切法と訳出したのか分からないが、正法華経の分別此誼 には次のような言葉がある。 (12)

(13)

分二別真実法菩薩所行道一︵農下︶⋮爾乃集二大衆一為説二真実法一︵雪上︶ 於時大聖為現真諦顕揚専布︵忠下︶⋮一切衆会乃演斯法︵謹中︶ ず写三四日。、凰昌Q画風画嵐]o寓画︲ロロ夢。望Pご陣。胃四号◎ぐ屋屋台。邑言の胃尊騨言︵ら巴⋮富・画8mm﹃ぐ画ご夢画、口昌ご言画ごP ウヨ三野夢画日画弄言蛋曽凰冨画芽閏留ユゴ日日”毎︵乞巴 賢明な菩薩たちが行ったように、世の指導者はありのままな行を示し、⋮衆生らをここに集めて、かの法のようにあ りのままな義を語ろう、と示されている。すなわち妙法華経において真実法と訳され、正法華経において真諦・法と 訳されたものは9国画という言葉であることが分かる。このg鼻画が法と訳される場面は法華経においても序品 法華経における法の使用例︵望月︶ の訳は、この品での説示の内容を受けとめた上でのものであることを示したものであろう。 そして、大通智勝如来が道場に座られたけれども、覚りが開かれなかったということを述べた偶の中では、妙法 華経には仏法不二現前一︵蹟上︶とあるが、これにたいする正法華経と梵文法華経には、それぞれ、尚未得成究寛 道誼︵忠上︶、目旨冨冒号冒冒圖目騨冨︲目魯︵岳e最高の義が現れ、覚りに達しなかったと示されている。 すなわち、妙法華経は仏の法が目の前に現れるという表現で法の語を示しているのにたいして、正・梵両法華経には 法舎胃昌四の語は見られない。妙法華経ではg﹄言の語を法と訳しているように思われるのであるが、覚りは法 含胃冒、を覚ることでもあるところから、こう表現されたのであろうか。覚りを開くことを現在前するといういい 方は、仏伝などでもよく語られているものであるから、こういわれたのであろう。 品末に近く、大乗の法品目︲今胃目回を説き給えという請に応じて、仏は十六王子の宿世の所行を知って教えを説 かれるのだが、そこには、 (”)

(14)

富楼那が釈尊の方便の説法を聞き、また前生からの仏と自分との関係のある事を聞いたことによって、心が踊躍す ることを感ずるのであるが、その時のことを智慧方便による随宜説法︵喝中︶と妙法華経は表現している。正法華経 はただ善権示現方便︵程中︶と述べるだけで説法については触れていない。梵文法華経は 弓豊平冨鼠巴冨・蔵曽甲昔崗曾目日閻昌今陣与登冨︲己aの留日︵乞巴 智慧による善巧方便が示され、深い意味の説示を聞いて、と語られている。したがって随宜説法の法というのは、直 接に鼻日日煙ではなく説示己aの留であることが分かる。 そして、釈尊は富楼那が過去・現在・未来においても第一の説法人であると語るが、そこでは、 於二諸仏所説空法一。明了通達。⋮常能審諦清浄説法。︵雪下︶ 宣散経誼分別空慧。志無所著。若説経時無有猶予。願不通達未常弊擬︵忠下︶ の胃ぐ9国8曾己]g甲函画威召曲goゞ与国・・己胃威且今”︲含胃目、と品鼻息89鼻念g︶ 法華経における法の使用例︵望月︶ においてすでに認められるところであり、友便品においても99画︲畠aとして、仏はありのままの語を語るもので あるとして、その言葉は正しく間違いない真実の教えであることを示していたところがあった。 すなわち、序品の第七十二偶ではgg昌冨骨昌の曾冨ョ四コ瞭国ぐぃ昌寂静にして無漏なるありのままな言葉が、知 法寂滅相と妙法華経によって訳されている。方便品の三止三請の直前に釈尊が舎利弗に語った言葉として、まさに信 ずくし仏の所説は虚妄ならずというのがそれで、g三四︲乱aと示されている。

5五百弟子受記・授学無学人記品における法

(I4)

(15)

ケ○︽冨召﹃凰口愚冒、嬰画ヨロョ閏曾で巨薄。﹄言画同日画望画・四国四・昌画さ壹胃◎日ロゴ画︲晶与︵圏e 私が覚りに達した時、私の息子は法を持つ相続人、偉大な仙人であると示されて、法子・仏子は今日日画を相続す る人であるとなしている。すなわち、法というものは仏によって説かれるものであり、この世のありのままな様を説 くものであり、次の世代に引き継がれて行かなければならないものであろう。それが法子であり仏子であるというべ 法華経における法の使用例︵望月︶ すべてにおいて空に通達していた⋮清浄な法を説示した、と示されている。諸仏が説く空法とは曾昌画冨のことで、 これを正法華経は空慧と訳し、清浄な説法とは清浄な号胃9mのことで、説経とも訳されている。 一方、授学無学人記品においては、阿難に関する記述の中で、釈尊と阿難とは空王如来のもとでともに修行をした ことがあったが、その時に阿難は多聞をねがって精進し、今また釈尊の教えを聞いて正法の護持につとめているから、 山海慧自在通王如来となるであろうといわれているが、それに関して阿難は、 謹二持我法一⋮護二持諸仏法一︵ざ上︶ 奉持法蔵⋮以大道故奉持正法︵畠中︶ の且今目目四︲冒曾︲号四目の§9画箇匪の日い⋮の且号胃昌唾含冑の目89号騨腎昌騨合扇・巴 正法の蔵を持つものとなり⋮菩提を得させるために正法を私は保つと示されており、我が法も仏法も法蔵も正法もす べて闇&言﹃昌画正法であることが明白である。 そして、羅眼羅に関しては、釈尊の長子であったので、常に諸仏の長子となるであろうとして、 受し法為二法子一︵g上︶ 斯仏之子︵畠下︶ (I5)

(16)

法華経における法の使用例︵望月︶ きであろう。 ︵1︶依所とした梵本には、呂与goとして書かれているが、荻原雲来、土田勝弥による﹃梵文法華経﹄の脚注には、2罫go のmはgの誤りなるべしとあり、目鼻富8と改めた︵同書g︶、とある。 ︵2︶松潟誠廉等訳﹃法華経﹄1巻勺画g坂本幸男、岩本裕訳﹁法華経﹄中巻甸$ (I6)

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