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「競争と信用統制」の歴史的意義とケインズ政策 : イギリス帝国からヨーロッパへ

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(1)「競争と信用統制」の歴史的意義とケインズ政策 一イギリス帝国からヨーロッパへ一. 佐. 藤. 滋. 静諦で魅力的な調和にみちた世界を国内に確保するものは,海外領土の生産力と規律ある 管i理に依存しているのである。.                        −Said, Edward W.口993=1998:172】. ればそれで事が足り1るわけではない。それと はじめに. いうのもイギ1Jスは,近代をヨーロッパ諸列強.  本稿は,1971年に制度化された新金融調. と競合するなかで形成されたく帝国〉として経. 節方式L’r競争と信用統制」・’Competition and. 験しており,このことが持った歴史的意味は,. Credit Contro1’(以下ではCCCと略)の経済史. 他国と比してより大きな影を落としているため. 的意義を,イギリスがく帝国からヨーロッパ へ〉と姿を変えていく歴史過程を踏まえつつ論. であるユ〕。つまり,イギリスの戦後体制の特質. ずるものである。加えて,このことを明らかに. た,〈帝国〉の機制が払しょくされることな. する中で,イギリスにおけるケインズ主義から. く戦後に持ち越されたことに求められるのであ. マネタリズムへの政策思想的転換について,新. る。本稿が重視するのは,イギリスの戦後体制. は、総力戦をく帝国〉として経験したこと,ま. たな解釈を提示したい。.  いかなる国であろうと,戦後体制の確立は「戦.  1)わが国ではGHQが戦後処理を代理し,イギ. 時」への反雀のもとに行われている。これは, 敗戦直後にr’悔恨共同体」を形成したわが国で. 石田[1995]が指摘している。. はもちろんのこと,戦勝国のイギリスでもまた,. 程度の差はあれ同様であった。このことは,戦. リスのように脱植民地過程を経なかったことを.  2)近年のイギリス帝国史研究における研究蓄積 の進行には,目を見張るものがある。その背景に は,シティの金融利害から帝国主義を把握し,ギャ ラハー一・t=ロビンソンの「自由貿易帝国主義論」を. 後体制の確立が平和を基盤として行われなけれ ばならないことを要請し,近過去を「いかに清. 批判した,ケイン=ホプキンスの「ジェントルマ ン資本主義論」が注目を集めていることがある。. 算ずるか」を課題として残すことになる。経済. [1993a ・1997],[1993b=19971)が出版されたり,帝. 史の領域で言えぱ,ブレトンウッズ体制の確立 と展開が代表的な事例であろう。しかし,問題. 我が国でも,彼らの研究の翻訳(Cain a皿d Hop㎞s. 国史研究会を中心として,彼らの理論をベースと した研究シリーズ(「イギリス帝国と20世紀」:秋. はこのことにとどまらない。過去での不明を悔. 田{2004],木畑[20051,木畑12007】ほか)が出版 された、りと,注目度は高い。これら諸研究の議論. いることと同程度に,いやそれ以上に,戦時の. から学ぷものは多いが帝国と国民国家との関係. 経験を「いかに引き継ぐか」という側面もまた. についてはt彼らが「国民国家の歴史から帝国史へ」 (Hopkins[1999】,川北11995】)を強調してきたこ ともあり,必ずしも十分に明らかにされて;なかっ. 重視されたことを,思い浮かべる必要があるか らである。この意味で本稿が問題にするのは,. たといってよい。しかし,近代の帝国が,国民国. 総力戦が政治・経済・社会に与えたインパクト. 家と車の両輪のごとく発展し,「国民帝国」という. の戦後にとっての意味であり(山之内11996]),. その限りでの「過去の現在性」である。.  ただし,戦後体制を総力戦体制として把握す. 形態を取ってきたことを鑑みれば(山本[2eo3:]),. この点の究明もまた必要であろう。筆者が本稿で,. 帝国史研究と財政史研究,財政金融史研究との接 合を試みる所以である。. 「エコノミアi第59巻第1号(200S年5月),23−57頁[Econontia Voi. 59 Ne,1(May 2008)・PP・23−57].

(2) 4 がく帝国〉の機制が機能する限りで成立可能で. あつた.という事実である㌔このことを明ら. み始めたのは,60年代末以降のことであった。 イングランド銀行と大蔵省が共同で組織したア. かにするために,ここでは特に,戦時に形成さ. レン・グループの議論を追うことで,このこと. れた,ポンドの価値維持機構としてのスターリ. の意味は一層よく理解されるであろう。. ング圏に注目する。この機構が資源を安価に入.  先行研究では,経済史的にかくも重大な意 味を持つCCCの成立過程の分析を,たんにく 市場/統制〉コードを強調することで十分で. 手する経路を用意したことが,戦後の社会再建 に果たした意味は大であると考えられるからで ある。. あるとしてきた。たとえば,一ノ瀬【1980]..  しかし,このようなく帝国〉の機制を利用し. 西村【1986L岡本11988],湯沢[1996L片. た資源動員の仕組みは,差別的市場圏を漸進的. 山[1998工,Zawadzki工1981工, Collins[1988],. 解体に向かわせた;958年の非居住者保有ポン. Moran【1988], Hall I1992], Michie ald. ドの交換性回復と,それにょるユーロダラー市. Williamson 12004]がそうである3)。これらは,. 場の勃興を皮切りに大きく動揺し,1960年代 末にはほぼその使命を終えることとなる。それ. CCCが「市場原理J’「競争原理」的な意味合い. というのも,ユーロダラーがもたらした新たな. 国家管理型の政策とは著しくことなっているこ. 市場取引の在りようは,5一ロッパ圏との繋が りを急速に強める一方で,帝国圏を一挙に解体. つかは,CCCをサッチャー政権の前史として. を持っていたことを重視しており,それ以前の とを指摘した。このζとからt一先行研究のいく. させる作用を持っていたからである。事実,イ. 見るものさえある。この指摘はそれ自体一定の. ギリスが本格的に帝国内秩序から脱却し,ヨー. 正しさを持つと考えられるが,この時期の政策. ロッパ内秩序の下で生きていくことを決意した. 転換の歴史的意味は,以上のような解釈だけで. のはこの時を境にしてであり,その直後にヨt. 片付けられるものではない。CCCは,<帝国. ロッパ統合へと向けた制度改正の必要性が叫ば. からヨーロッパへ〉という統治空間の変遷を踏. れるようになるのであるe. まえながら議論する必要があるのである。.  本稿では,このことを経済政策の領域で表現.  さらに言えば,CCCの形成過程は,イギリ. したのが1971年のCCCであった,と考えて. スにおけるケインズ主義とマネタリズムの関係. いる。それというのも,CCCは諸銀行間の公 平な取り扱い,銀行業規制の緩和,国債価格. を理解する上で極めて貴重な事例を提供してい ると考えられるが,先行研究ではこの問題は十. 支持政策の廃止をその基本的な内容としてvSた. 分に扱われてこなかった。もっとも包括的な. が,このことは,ポンド支持機構であったく帝. 研究であるMoran[1988]でさえ,そうである。. 国〉の意味を失わせるものであったとともに,. たとえ扱ったにせよ,金利と貨幣数量をどちら. 社会を近代的な科学知に基づいて合理的に統合. も重視する「ケインジアンないしラドクリフ. 可能であるという,総力戦で培われたテクノク. ィアンとマネタリストとの折衷的立場」(片山. ラート的な自己過信(Pukert[1989=1994]). [1998: 27])と述べるだけにとどまり,両者の関. が粉砕されたことを意味したからである。事 実,本論で明らかにしたように,ケインズ主義. 状である。この時期にマネタリズムが政策形成. 的な社会操作に関する諦念が広まり,“money does皿atter or even that only mo皿ey matters”. 係についてはほとんど不問に付しているのが現. に流入してきたことがその後の歴史に長い影 を落とすようになったことを考えれば通貨当. (Brittanエ1971:157Dという,かつてフリードマ ン(Fried血an, M.)の名とともに世界を席巻し. たマネタリズムの教義がイギリスの大蔵官 僚やイングランド銀行エコノミストの心をつか.  3)制度解説としては,Artis and Lewis[1981]、 [1991L Evans and Makepeace, Gowland[1982], Gr逝ths a皿d Wbod[1984】などがある。.

(3) 25. 局がケインズ主義とマネタリズムの関係をどの. る(Hall, P.[1993])。事実,1976年IMF危機下. ように理解したのかは,、分析するに値する問題. での労働党によるマネタリズム戦略の採用 5),. であろう。. サッチャー政権の「小さな政府」への志向を見.  さて,以上において本稿では,戦後における. れば一目瞭然であるように,ケインズ政策の出. イギリスの経済政策の転換を,〈帝国からヨー. る幕は次第に失われていった,と。. ロッパへ〉という統治空間の変遷とともに論じ.  このような,スタグフレーションがケイン. る必要があることを述べたのであるが,これは. ズ的解釈の説明力を低下させS),それがサッチ. 既存の経済政策史研究といかなる関係にあるの. ャー政権の登場を準備したという歴史認識は実. であろうか。通常は,以下のように歴史を描く. に一国史的なものであり,叙述の境界は国境に. ことが慣例となっている。. よって閉じられている7)。しかし歴史は,「時.  1940年代から1970年代央までは「ケイン. 間と空間がおりなす重層的編成」(大門[2002:. ジアンの時代」(the Keynesian era)4)であった. 154])をなしているのであって,この中からど. (Booth I2001:3461)。なぜなら,この時代には,. の層を取り上げるべきか,という先験的な優劣. ケインズの思想に基づいた経済安定化政策を採. は存在しない。そのように考えれば,本稿が課. 用することについて,保守・革新の壁を超えた. 題とするのは,〈帝国からヨーロッパへ〉とい. コンセンサスが存在し,マクロ経済政策に関す. う歴史の層を取り上げた場合に.それが既存の. る論争の余地はまったく無いか,限られたもの. 経済政策史研究に対していかなる知見を与える ことができるのか,また批判できるのか,どい. であったからである(Cairncross[1992:31])。ケ. インズ政策に基づく経済管理は,ポンド価値の. ったものということができよう。. 断続的な不安を解消するためのストップ・ゴー.  これらを論証するうえで利用する源史料は,. 政策の実施を伴いながらも基本的には成功し,. イギリス公文書館,イングランド銀行アーカイ. イギリス経済は他国と同様に「黄金期」を経験. ブ,ギルド・ホール図書館,IMFアーカイブ. することができた。しかし、戦後およそ30年. 所蔵のものである。. にわたり続いた「ケインジアンの時代」は,70. 1.帝国=コモンウエルスの再建と福祉国家. 年代のスタグフレーション下で動揺を見せ始め ることになる。マネタリズムはこうした文脈で. 1.1.福祉国家の建設とく帝国の遺産〉. 学者,政策担当者の注目を集め,「ケインズ革.  イギリスの経済政策を、その基底において方. 命」に対する「マネタリズム反革命」(Jons凹 [19711)が,70年代の後半からサッチャー政権 誕生に至るなかで段階を経て完遂されたのであ.  4)この用語を用いたホールによれば,「ケイン ズ国家あるいはケインジアンの時代は,戦後の資 本主義経済管理に結び付けられた社会的・経済的 慣習に言及する際に広く一般的に用いられる概念.  5)1976年のIMF危機については,拙稿【2007} を参照されたい。.  6)先の文章の中に出てくるもののほか,スタ グフレーションと経済政策の転換(ケインズ政策 からマネタリズムへ)を結びつけるものは,加藤. である」(Hall(eds.)【1989:51)。ケインズ政策の. [2006: 3143151,吉田[2001:28】などの財政史研 究のほか,中村・八木・新村・井上【2001:278], 間宮[1999】,馬渡{1997:381],Heilbroner and William[1995=2003:791といった学説史研究など,. 歴史については,Booth【1983】,[1984],[2001], Peden[1988=1996], Rollings Il988], Tomlinson [19841,力久[1994],玉井11999】などが参考にな・る。.  7)わが国において,1970年代から1980年代に かけての経済政策の転換を積極的に分析し,研究. 数多くある。. 政党間には見逃しがたい政策運営上の差異があっ. をリードしてきたのは,加藤[2006]であろう。宇 野派の伝統を継ぎ,そこから福祉国家論へと理論. たとする修正的な見解が,Jones and㎞diah[1996] によって展開されている。. してきた。. これに対して,戦後コンセンサスなどは存在せず,. を発展させた加藤も,「国家」を分析単位の中心と.

(4) 25 讃1国際収支統計(1・946年∼柏55年) (単位:100万ポンド〕. 経   常   収   支 輸入. C蓮. 3 利子・利潤・配当. 4 旅行 5 移住基金・遺産・個人贈与 6 政府. 回軍事 〔。}給付・モの他贈与. A. 1ρ82 P41 100. ヨ行政上・タ校上,その他. 1947年. 1948年. 1,560. 11794. P70. 1949年. 拍50年. 柏51年. 11978 P91. 2,383. 3,491. 2,944. 2,88了. P80. Q80. Q94. Q42. 106. 11丁. 1丁8. ’199. 〒5. 85. 21. 一5. 104 14. 聞 15. 174 110. 1臼 100 18 16. †92. 217. 126 17 18. 141. R1. 4259. 10. 278 2P9 7. P78 103 66 34 172 113 10. 103. 62. 一  49. 48. 1836. 2212. 2347. 2545. P 925. 1」45. 1β02. 1,841. 2,250. Q05. Q55. 162 13. 18E. R21 271. 21. 192 33. Q82 20D 42. 61. 董64. 129. 96. 35. 2ご293. P瑠1. W3. P70. P76 2,576. 42.. 一16. 487 3丁4. ㈲植昆地贈与 7. 1946年. 93. 76 35. 15. 1952年. 1953年. 柏54年.   1. P955年. 乳012254. 乱431. ・212. 234. 89. 101 8. 271 122 18. 4 罰8. R38. 228 152 29. 242 158 32. 21. 20. 21. Q9. Q7. 3752. 3652. 3837. 2748. 2β27. S04. 2,670 R了6. 2,81?1403. S12 30了. 四〇. 75. 80. て4. 1了. Q4 Q72. Q8 Q32. 28. 144 24. 19. Q9. P. 4,422. 一. 000“. 輸出. 917. C運. d9. 拍 利子・利潤・配当. 旅行       . 12 政府 11.  (君}贈与. @{b)その他 13. サの他 合計. 1,53日. 1,769. 2,348. o常取引収支(防衛援助を除く〕. 黷Q98 一165 一1鐙 一323. │443 一415 一28 一149. @1. 19. 12. (a)貿易収支. {b)翼易外収支. 頑府     :その他. 3,225. 3,852. 3β78. 3,736. R00. │407. P26 一117. @84. 193. 168. 司33. 一丁43. 433. 336. 一76. 一139. 一136. 269. 307. @「. R「. ●. 焉Eドル準備の引出L追加. 、55. O 300. 5ご321. T7. 一137. 3ρ65. S6『. 307 95. 337 111.  一 A61. Q57. @31. @ 取引収 {  助  ・}. 22 投資・金融収支 ・     化(19∼.  3. 一192. h衛援助 18 髄与.その他 19 投責,借入,その他 海外スターリング保有,その他. 285 88. Q55. ag97. 4.2悶. P60. 齟嘯R3. 一217. 一195. ㌔・366. 243. 301. 355. 233. 一措4. 一172. 一158. 一174. 一181. 490. 4口. 459 P02 P86. 529 T0 Q10. 414. P21. @4 │403. Q47. チ一89. 一. 一. 318 34 │54 298 298. 30. 138 143. 154. 140. 43. 一3了2. 一98. 一一 R50. 一92. 一173. 一217. 一337. 184. 233 │575. 3槌. 一330. 227. P75 一247 一247. │240 司86. 94 │87. 403 350. 7. 254 P52 443 413. @55. @3. 「. 一3†. 一139. 一185. 一300 一440. モ. 一. 一. 一186. 一. 一. 一7 一133s 229. 一210 一2叩. 89 89. 出所)“General Balanoo of Peyments㌧£UnitedKingzlOm eatance ofPe)enents 194δ to旭S6. Cmd 9B71,L朝don, H. M. S, O,,1956, Tab』1.叩.10−11.. 向付けた思考や政策様式のことを,<帝国の遺. C. R)労働党政権が,同時にイギリスのく帝国・. 産〉と呼ぶことがあるS〕。この表現は,一般に. は帝国主義の時代が終焉し,脱植民地化過程が. 連邦としての未来〉を構想し,植民地支配の再 構築を図った姿が描かれているであろう。. 進行するなかにあっても,相も変わらずく帝.  この点を理解する上で決定的に重要な点は,. 国〉的な思考様式が政策決定者の思考を縛り続. けた事態を指しているeたtsしこれは,何も. イギリスの輸出産業が1900年代初頭において すでに,商品の「限界供給者」(上川・矢後編. 雰囲気のように荘漠とそこにあったわけではな. [2007: 42])の地位に落ち込み,これが克服され. く,その時代の政治・経済・社会の在りように. ることなく戦後に持ち込まれたことである。こ. しっかりと根を下ろしたものであった。ここで. のことはすなわち,イギリスの貿易収支が常. 指摘したいことは,戦後福祉国家体制の確立と. に脆弱な状態に置かれていたことを意味してい. 帝国=コモンウェルス体制維持との密接な関連 であり,前者は後者を前提としてはじめて成立. る。加えて.二度の世界大戦はイギリスを世界 最大の債務国へと転落させたのであb・,この問. しうるという関係にあったことである。経済史. 題をいかに処理するかは,最重要課題の一つで. の教科書をひも解けばよい。そこには,大戦後. あったわけである。表1を見てみよう。貿易収. の混乱したイギリス社会の再建をまかされ.福. 支には毎年1億ポンド以上の赤字が計上されて. 祉国家建設に情熱を燃やしたアトリー(Atlee,. おり,これが,海運や利子・利潤・配当といっ. た貿易外収支の黒字によってファイナンスされ 8)才ブライエン12000]。. る構造になっていたことが分かる9)。しかも,.

(5) 27. 凄2金・ドル勘定(1946年∼1956年) {単di・; 1 DO万ボンド).            一. 1946. ド ル ・ 工 1 ア    1. 1950. 1949. 1948. 1叫7. ”. 一. 1953. 1952. 1951. 佃54. r. 1脂5. 拍56 一〉. 一. イ ¶ス ハ      .   ・. 一1. 259. 一62. 60. 一301. 一510. 一252. 一296. 3go 100. 567 130. 405 196. 442. 一73. 一42. 一49 .. 一. 一. 310 ・ −465. 一137. 1?. 一15. 一204. 一1∫5. 一8B. 一436. 一173. 一4. 一72. 一206. 一23. 439 324. 742. 聞6. 517 444. 556 423. 732 495. 7岳1. 410. 27. 一91. 一98. 一調. 11. 一15. 一. 4. 121. 102. 50. 46. 26. 21. 一92. .. ■軽常勘定1 ’合計(防衛援助含む)(純}. 貿易収支:. 輸入. 輸出       . 貿易外収支〔防衛援助を除く){純). 防衛援助 投責・金融勘定 合計(純} 引出:. アメ‘功融資枠. カナダ融責         〆 「州復興計画: 援助 ローン ‘ の   1 の スターリング・工1ア. 倉」繊熾曾⊥ ドル・エリアとの責産・負債: イギリス植民地 その他スターリング諸国. .■ P1 一. 195  . ヨ93. ご. 300. 769. 190. 356. 398. 一29. 36. 57. 2. 149 130. 707 105. 74. 一. 一. 一. 一. 一. 一. 一. 一. 13. 33. 16.  . 一. 一. 一. 一. 一. 一. 一. 255 57. 一. 一. 5. 一. 一43. 一66. 11. 248 4 臼0. 一. 一. 149 20. 58. 一. 一92. 一222. 70. 14. 270. 冊o. 皇1. 9. .. 146 24.  . 一. 一. 一. 一. 卵. 21. 57. 2. 一92. 1臼. 165. 155. 199. 219. 一. 苧. 165. 136. 101. 100. 121. 109. 一腿. 一98. 一14. 一73. 一98. 一110. 8 ?8. 130. 10 166. B 212. 一. 一. 一. 一. 5日. 一63. 一224. 一四. 一. 一40. 一. 9. 21. 一9. 201 7. U5. 33. 10. 51. 58. 一106. 一3田. 一116. 一112. 6. 5. .丁. 8. 10. 9. 3. 76. 79. 48. 60. go. 69. 68. 一. 一. 日o. 一. 一. 一. 一. 46. 一宙9. 一63. 一了7. 一5. 一59. 一147. 一. 60. 15. 一. 一.  . 一15. 一58. 一4. 一2. 10. 2. イギリスでの金売却{純):. イギリス植民地 モの他スターリング脂国 アコ‘カによる金. 622 go. ド ル  ・ 工  ‘ ア     1. 一竃. :. IMFによU供出されたドルの購入・再 却 ドル・エリア取引からの資産・負債1. その他酋半球. OEEG諸国. そあ他非スダーリング楠酊 ・   ). 22. 68. 一125. 一49. 一46. 一8. 一38. 一173. 13. 一1. 一14. 一1B. 一27. 一5. 一21. 駐. 39. 一13. 一290 一17. 一6. 一52. 一7. 一2. 一1. 一1. 一4. 一3. 4. 一4. 一. 一3. 575. 一175. 240. B?. 一229. 5. 54. 一152. 一55. メ. 一344 へ. .−. 17. ㍉. 出所)C即t白IStatistic自10f匠06,“Gotd and dollar accounts”. Annual Abstrnat of Stetistics,1957.丁日bb 272. p. 239.. 表2に見られるとおり‘この経常収支赤字の大. ある。しかし,現実に見られたのは,植民地・. 部分がドル・エリァに対するものであったが,. コモンウェルスから金・ドルを収奪することで. これは、食糧・燃料・資本財といった戦後復興. ようやく成り立つほどのT尾羽打ち枯らしたく. に必要な資源供給の頼みの綱が,大戦後で経済. 帝国〉の姿であった。事実,1945年の英米金. が疲弊したなかにあってはアメリカを除いて他. 融協定によって決定されたイギリスの多角的決. にはないことを示していた。いわゆる「ドル不. 済体制=ブレトンウッズ体制への包摂が,1947. 足」である。ここから分かることは,イギリス. 年のポンド危機による金・ドル流出によって水. の「国際収支の天井」が決定的なまでに低く,. 泡に帰してからは,植民地戦略の重要性は飛躍. このことが財政金融政策を完全雇用のために動. 的に増すこととなる。47年5月に「植民地一. 員する余地を狭めていた,ということである。. 次産品委員会」が設置されたことから始まり,.  この難問を解く鍵が植民地とコモンウェルス にあったことは、意外な事実であろう。それと. 48年1月「中央経済計画局」,同月「植民地開. いうのも,アトリーは高らかに,「古い植民主. いったのは,その証左となろう1(田中11gg8a])。. 義は,長所と短所があったにもせよ,とにかく. これらは,植民地のドル獲得を増大させ,ドル. 発作業委員会」などへと植民地政策が拡大して. 現代の世界には通用しない」1°〕と宣言しており,. 流出を抑制するために導入されたものである。. 戦後の植民地政策の変更を匂わせていたからで.  この植民地戦略の遂行を可能としたのが,戦 時に確立されたスターリング圏の機制,より具. 9)Cairncross and Eichengreen[1983]の第二章 を合わせて参照せよ。  10)Attlee[1955: 263]。. 体的には「金ドル・プール制」であった。この 制度下においては,スターリング圏加盟諸国は..

(6) 28. 表3地域別に見た経常収支勘定 (単位1100万ポンド). 1946. ■一’1 ドルエリア. 1947. 406. 442. 170 339. 105 456. 21E. 211. 384. 槌1. 764. 439 160 573 262 949. 10腔. 1560」. 1794. 19了B. 2383. 100. i 130 60 260 135 539. 196 89. 195 108. §2耳. 38. 393 169. 421. Qユ. OEEC緒国. 140 56. その他非スターリング諸国 モの他スターリング賭国. 盤し     . ドルエリア その他西半球. O匪C諸国. 262 93 284 S0 917. その他非スターリンヴ諸国 その他スターリング諸国. 領域組織 合計. †,145. 921. @4. 1ρ11. 1烈6. 1ほ25. @1. 1209. 1β33. @一 2250. @一 2748. 2且27. @一. 26了0. @2 2剖7. 7. ■ 23. 20. 22. 24. 一 一1. 一寸. 一29. 一29. 一33ヒ. 一24 一132. 一145. 1602. 1β41. 一68. 一39. 一169. 一65. 一2B 一20. │59. │39. │17. 一323. 一149. 一了6. 一可2. 一. 一1’ 一11. ,  −16. 一23. 一26. 一30. 一26. 一拍了. 一131. 一109. 皷P. 黷P1. @−5. │14. 垂P. 一139. 一136. @−9. 一154. 一172. 一15呂. 一f74. 一1田. 一121. ●  −54. 一45. 27. 一98. OEEC諸国. 一15. 45 46. 73 103. その他非スターリンヴ諸国 その他スターリング諸国. 60 23. 124. 21. 147. 39 224. ’45. 141. 35 184. P1. @6. @4. @6.   314. 74 40 42 430. │   7 569. bフ他西半珪 OEEC諸国. 一. 一. 307. 一. 一. 78 .. 5. 76 36. 一18. 一8.. 一27. 79. 68 35. 410. 383. 40 20 398. 4go. 415. 459. 529. 4. 121. 102. 50. r436. 一173. 一9. 一81. @田 一31. │24. 一18?. @B. @1. 363. │13 160. 一9. 一6. 一14. 一9. 一6. 一403. 247. 186. 210. 一89. @2. ・43:. 1ε. 一25. 414. 361. @2 輌. 、. R01. 一510. 一252. 一296. 一88. @−24 80. │65. │38 88. @62. Q6 115. @5. │8 293. │35. │101. 287. 335. 一4. 一5. 611. bフ他非スターリング諸国. │17. その他スターリング諸国. 一28. 127. │42 254. 一8. 一12. 一9. 非領域組轍. @1. 3田5. │12. 一45. ■−. “田. 一B9. 31. ●   一. 一271. 56. 827 285. 一田. 一69. 269. @一. S90. 一31. 37.            ■ hルエ1ア. 一     ■    噛. 751. il可. 綾一里虞ま’ ドルエリア. 1克03. 3431. 208. 一4. †21. 口26. 259. 一董2. 190. 3012. 195. 一1. ムー. 1β23 288了. 75丁. 一4. 領域組織. 2944. 271. V38 124 880 286. 丁29. 3. ドルエリア. 761 231. 420 58 788 216. 一2. その他西半球. 678 213.   .. 酔. 一4. 一蹴癒  く. 11241. 565 129. 442. 一2. ム. 1264 3491. 519 一 154. 104. 1. その弛非スターリング賭国. 606 88 738. 1955. 410. 3. モの他スターリング諸国一非領埴組織. 742 瑠2 924 379. 1954. 393 114 703 262. ドルエリア. 25. 1953. 114 595 205. その他西半球   ’“. OEEC諸国. 1952. 1951. 567 154 239 106 494. 3go 96. モの他西半球. ム. 1950. 1949. 伯48. 〈               .. 一16. 1 31 一298 一443 300 出所)G即t白lSt甜甜ca10哺eθ, “R6顧onal Balance of Pyaments A−Currgr症A白co臼rd:1㌧. 86. 38 │19 27a. 倣・ゴ緬・用助〃・θσ隔蹄鳩.   ■ │20フ 一51. │44 219. 1946♂o. f956.1955,丁dbIe 2, pp.12−13.. 圏外諸国から獲得した金・ドルをイギリスの為.  このことの意味を表3によって確認しよう。. 替雫衡勘定に売却し.これと引き換えにポンド. 金・ドル獲i得において植民地とコモンウェルス. を得ることになっており.こうして得たポンド. が果たした役割が一目瞭然である。先ほど見た. が加盟国に準備として保有されることで,イギ. ように,対ドル・エ』リア取引‘においてイギリ. リスは対スターリング圏取引において,一種の. ス本国hs輸入超過=金・ドル流出となっている. 「掛け」で商品を購入することが可能となって. 一方で,植民地は金・ドルの稼ぎ手になってい. いた(Cassels[1951=1953:23])。このロンド. る。それも,為替管理と植民地戦略が強化され. ンに置かれた加盟国のポンド準備は「スターリ. た1947年以降は順調に黒字幅を拡大し,重要. ング残高」と呼ぼれ,大蔵省証券その他に投資. する構造になっていた。つまり,植民地戦略の 強化によって獲得された金・ドルは,自動的に イギリス本国に集められ,これが経常収支赤字 をファイナンスするだろうと想定されていたの. であるe1947年には為替管理法が,この枠組 みを強化する目的で導入されている11)。.  11)1947年為替管理法は,各国を「指定地域」, 「アメリカ勘定地域⊥「振替可能勘定地域」,「双務 勘定地域」の四つの地域に区分し,ポンドの交換 性に制限を設けようとするものであった。このう ち,「指定地域」がスタ’一リング諸国に該当し,他 の3地域との取引は厳しく制限されていた。以上は, 田申[19981が詳しい。.

(7) 2P. な貢献をしていることが分かる。コモンウェル. める要因となったためである。重要なことは,. スについては,対ドル・エリアではほとんどの. イギリスの存在域がく帝国からヨーロッパへ〉. 年で赤字を計上しているが,イギ1」スへの金供. と移っていくにあたって,その背後では国際通. 給という側面で大いに役立っている。これらの おかげで,随分とイギリスの経常収支赤字に伴. 貨ポンドの凋落・ドルの台頭があった,という. 点である。        一. う金・ドル流出の痛手を緩和することができた.  手始めに,1959年から69年までに至る10. わけである。以上を見て分かることは,帝国経. 年間の貿易取引の推移を,図1および図2によ. 済圏の維持・発展が,国内の復興を成功させる. って確認してみよう。この間,全体を通じてど. 鍵であったこと,そして,そのためには,何と してもポンドの「威信」を維持しなければなら. の地域においてもイギリスとの貿易取引高を増 加させているが,他の地域と比較して顕著な伸. なかった,ということである12)。. びを見せているのは,西ヨーロッパである。こ. 1.2.帝国からヨーロッパへ. 億ポ.ンドだったものが69年には約27億ポンド.  以上に見たのは,イギリスが戦後体制の確立 用した歴史である。社会再建に必要な物資を安. と,およそ3倍弱になっている。59年から61 年までは輸出・輸入どもに海外スタeリング地 域が最も大きなシェアを占めており,帝国=コ. 価に調達する・とともに,ケインズ政策の遂行を. モンウェルス圏の重要性は明らかであった。し. 円滑に行うために,帝国圏を基軸としたポンド. かし,この地域の輸出入高はそれ以降伸び悩み,. 維持機構が必要であったわけである。ここに明. 65年になると,輸出・輸入どちらにおいても 西ヨーロッパに越されることになる。他の地域. の地域の輸出高の推移を見ると,59年に約10. のために,戦時に築かれたく帝国〉の機制を利. らかなことはtイギリスは戦後に至ってもなお 「戦時」を引きずり,それをその身に刻印して. に目を転ずれば,北アメリカもこの10年間で. いたということである。しかし、こうした機制. はヨーmッパ諸国がブレトンウッズ体制へと包. およそ2倍に貿易高を伸ばしており,この地域 も西ヨーロッパと同様に相対的な重要性を増し. 摂(=1958年の非居住者保有預金の交換性回復). ているといるが,69年でおよそ10億ポンド程. されるとともに,解体を余儀なくされる運命に. 度の輸出高に留まっている。伸び率で最も顕著. あったIs)。なぜなら,西欧通貨の交換性回復は,. な動きを見せた「その他非スターリング地域」. イギリスのヨーロッパ圏との繋がりを決定的に. も,69年では9億ポンド程度であった。. 重要なものとし,一方で帝国圏の存在意義を薄.  ここから貿易取引におけるヨーロッパの重要 性の増大、帝国圏の比重低下の事実が見て取れ るが,こうしたくモノ〉を通じた関係にも増し.  12)BoEA 3A8/10“E雄ract加m the GoΨernor’s letter to Sir Douglas Allen“1968年11月28日に,. イングランド銀行総裁のオブライエン0’Brien,. て重要であるのは,貨幣関係にある。Lこのこ とを理解するうえで重要なことは,1958年の. LKから,大蔵省事務次官のアレンllu」hllen, D.へ. 西欧通貨の交換性回復が,「グローバル金融市. と当てた書簡のほか,戦後のイギリスの財政金融 政策運営の基礎を与えた「ラドクリフ委員会報告」 などを見よ。このポンドの「威信」維持について, しばしば,イギリスの経済政策の特徴として論じ られている・(ピーター・ホール[20001)。  13)ただし,Bank of England,“OverseaS Sterling Holdings”,Quarterly Bulletin,1963, PP.264278や. 『ラドクリフ委員会報告」,『ラドクリフ委員会にお ける各国中央銀行総裁証言集」に見られるとおり,. 政策意図のレヴェルでは,スターリング体制は, 引き続き維持すべきものと見られていた。. 場の先駆け」(Burn i1999:225])であるユーロ ダラー−di場の発展をもたらしたことであるli)。. 為替管理規制の緩和が「国際的な金融業務拡大 の基盤とな」り,以前とは比べようもないほど.  14)ユーロダラー市場の起源については1958年 の西欧通貨交換性回復以前に求めることもできる とする識論もある(Schenk [19981)。.

(8) se. 図t地域別にみた輸入取引高(1959年∼69年) (100万ポンド). 3000 2500. 2000 1500. 1000 500 0. 1959年 1960年 196i年 1962年 1963年 t964年 1965年 1966年 1967年 1968年 1969年 出所){)nt ra SatiSticEti〔ffioe,∼幅bletrade−anal蝉sbゾarea U酷ed Kingdom B剖anoe of P鍋ents 1970,Table 9、 p.1Z.                               、. 図2地域別に見た輸出取引高臼959年∼69年) 臼oロ万ポンド). 3000 ■海外スターリング地域輸入. 2500 2000 1500. 一 ツハ. @1 担ラテン・アメリカ輸入. その他スターリ  域 lOOO. 500 0. 1959年 t960年 1961年 1962年 1963年 1964年 1965年 †966年 1967年 1968年 1969年 出所)Ctentra l SatiStical Ofl’ice. ViSiblet rade−anelySisby area United Kngdom BEdanα∋of P自ymentS 1970,. Table9, P.12. のユーロダラー取引の増大を可能にしたのであ. を渋ったこと(Strange l197ヱ=1989])t’また,. る(Bell {1973=1974:28])15)。ちなみに,かねて. かつてのようにシティを国際金融市場として復 権させようというイングランド銀行の意図のた. から指摘されているように,ユーロダラー市場 の発展の契機としては.アメリカの国際収支赤. 字によるドル流出や,レギュレーションQに よる金利規制の存在を無視することはできな. めに,この市場の中心地がロンドン・シティと なづたことを忘れてはならないであろう(Burn 【1999], Richard=Kynaston(ed.)[1995=1996】) :6}。. い。ただし,他国が通貨統制上の困難が生じる.  では早速,表4を見てみよう。そこには,イ. ことを想定したためにユーロダラーの受け入れ. ギリス銀行の対外資産・負債において,非スタ.

(9) 3t. 表4イギリス銀行の対外資産・負債(非スタ三‘」ング通貨) (単位:100万ポンド). 非スター. 潟塔O通. ン合計. 通. その他非. 海外ス’. 北ア刈力霧ア.繊ン. @       西ヨー ^ーリン         ロツパグ地域. @      「. 125. 1,165. 200一. 1,692. 298 546. 2,413. 273 286 477 365 549 912. 3,917. 1,624. 18. 552 652 850. 2,122. 1,893. 3,002. 2,727. 4,384・. 4C38. 7,139. 6,404. 154 208 220 229 275 R46 735. 11994. 10,728. 1266. 1049. 6709. 2,357. 1,010. 803. 207. 2. 471・. 1,268. 1,024、. 3. t626. 1.312’. 692 840 916. 355 327. 1,038. 884. 毛280. 1,072. 1,786. 1,566   一. 1967年 1968年 1969年 資産 1962年 1963年 1964年. j. 一. その他非 Xヅーリン hル        グ通貨. アメリカ・. 負債 拍62年 1963年 1964年 1965年 1966年.   」. 一一.  一. ]965年. 1,980. 1,624. 1966年 1967年 196B年 1969年. 3,020. 2,611. 4,376. 3,837. 7,117. 6,245. 314 356 409 539 872. 12,006. 10514. 1492. 41 82   ・. 4一 ぺ. 24、. 39 99 177 554. 48 67 go. 147. 234 287 1367. 100 、135 201. 「426   才. 276 575 27. 1304. 560 776 155 217. 630. 30 76. 1」61. 1,337. 81. t453. 1β55. 卓177. 792. 2,166・. 3263. 1,169. 3,570. 5,884. 342 616. 461. 291 A    ’. 334 402、. 」382. 出所)Central Statistioa10f6ce,“Extemal Iiabilities and claims of United Kingdom banks in norsted治g @   currencies’,, United Kingdom Balance of Payments, London, HMSOj970、 Table 37. p.36.. 一リング通貨,とりわけドル取引が急激に伸び. 61億5700万ポンドと全体の6割弱を占めてい. ていることが表れている。試しに負債項目を見. るのである。その他については,北アメリカや. た場合,1962年に10億3800万ポンドであっ. 海外スターリング地域がそれなりの伸びを見せ. た非スターリング通貨の合計は,69年には約. てはいるが,西ヨーロッパのものと比べればそ. 11倍強の119億9400万へと拡大している6こ. の差は一目瞭然であろう。すなわち,イギリス. れを地域別に見た場合,そのほとんどが西ヨー. では1960年代にポンド取引を大きく凌駕する. ロッパからのものであることが分かる。実際. 形でドル取引が急増したが,これは即アメリカ. に,62年から69年の西ヨーロッパの増加分は. との取引増加を示したわけではなく,西ヨ∴ロ ッパとの貨幣取引関係が緊密化することで現象.  15)これらの経緯については,以下のイングラン ド四季報が参考になる。Bank of England,℃verseag and foreign banks in London:1962−68” , June1968,. pp.156165,“The U. K. banking sector 195267”,. 化した,ということである。  このユーロダラー市場の急速な拡大が,「と. りわけ大陸における国際資本市場の拡大に付随. June 1969, pp.176−200,“The eur鍵urrenCy busi皿ess. してきた」1「)以上,1ユー v.債市場にもふれない. of banks in London”,Marchユ970, pp.31・49,. わけにはいかない。この市場の特徴は,ユーロ. “The euro・currency business of banks in London:. ダラー市場が短期の資金に関わるものであった. matUrity analysis as at end−February1971”」曲e 1971, PP.218−223,“The euro−currency business. のに対して,より長期の資金取引に関わるもの. of banks in Londion:maturity analysis as at end−. であったことにあるが,通貨交換性回復直後の. July 1971”,December 1970, pp.448453, Quarterly BuUetin..  16)アインチヒによれば,ユーロダラー市場の おかげで,わが国日本を含めた先進各国が相当の 恩恵に浴することができた。Einzig【1964−1965: 161]。.  17)壬Bank of England“The international capital markets of Europe” , Quarterly Bulletin , September. 1970,p.295.以下のユーロ債市場の記述は,金てこ の資料に依っている。.

(10) ge. 表5外債及び国際債券発行での叢貨借入(1963年∼1969年). (単位:100万ドル). 1963 USドルー. 81. ドイツ・マルク. 40. スイス・フラン. 185 143 43 72 564. スターリング. UA の. 合針. 1964 530 269 94. 1965 639 325.. 88 63. 67 10 66. 183・. 1,036. 1298. 一. 1966年 868 326 105. 1967年. 1968年 2,458. 1,730. 193 ’157 102. 1,319. 331. t681 298 66 60 88. 3923. 210’. 151. 36 57 197. 1,639. 2288. 4398. 56.. 74. 1969年一. 1,666. 19し. 出所)Bank of England,“The international capital markets of Europe”, Qqarter/y Bu〃/etin,1 970, P.298..         r表6借入国別に晃た外債及び国捺債券発行(1963年∼1969年)                                     (単位:100万ド」の. 1963年. 1964年. アメリカ. 9. イギリス. 16. 毒5. 日本 カナダ 西ヨーロッパ... 59. 199. 国際機関 その. 合計. 一. 247.. 73 160 564. 1965年. 一. 一 、493 224 {05. tO36. 341’. 48 35. 一. 抱66年 629 52. 一 一 516.. 1967年 598 74. 一 一. 535 、  945 198 。  284 234 141 144 437. 1298. 1639. 2288. 1968年 Z2321 149. 1969年 1,255. 一194. 284 246. ゴ01. ・ 308. 855 455’. 1231一. 291. ’417. 308. 4398. 3923. 出所)ibid, p.303.. 段階では,ヨーロッパはいまだに混乱に包まれ. が,国際的なシンジケート発行」であったが,. ていた。そのためt非居住者の外貨建債券取引. これは,「イギリス通貨当局による積極的な支. は,もっぱら二a一ヨーク市場においてtし. 援のもとで,イギリスの商業銀行や証券引受. かもドル建てで行われるのが常であった。1960. 会社がこの成長の重要な仲介的な役割を果たし. 年代初頭では,実に75%の外債がこの市場で. た」ことによる19)。ユーロ債市場では各国の諸. 取引されていた。1950年代末から60:年代初頭. 銀行から構成される国際的なシンジケート団を. にかけては,わずかにドイツ・マルクでの外債. 通した取引が一般的であり,これが「地域的制.              ノ 発行が見られたのみである。. 限からの自由や、国家的な境界を越えた自由な.  しかし,1963年7月にアメリカで利子平衡. 資金アクセス」;b°)を可能としていたがこうし. 税が導入されるようになると,大陸でのユーロ. た国際資本市場での役回りについては,イギリ. 債市場が急速に発達していく。利子平衡税が 「ニューヨーク市場での借入に伴う利子費用を. スはかつての経験から自家薬籠中のものとして. 上昇させる効果を持った」Is}からであり,この. いたからである。1963年の財政法では,・印紙 税を2%から1%へと即座に滅少させ,また同. 効果のほどは,ニューヨーク外債市場の資金調. 年8月には,無記名での債券発行を許可するに. 達額を,1963年の5億6900万ドルから64年. 至る。イングランド銀行総裁が,「シティは今. の2600万ドルへと大幅に減少させるほどすさ まじかったe「このギャップを埋め合わせたの. 一度国際資本市場としての役割を担うようにな. 19}」軸「 P.297.. 18)嗣p. 297、. 20)遊2ζ p.296..

(11) 33. 図3海外のポンド保有(1945年∼1969年) (£ mitlica). 3,000. F’ 、. 2,500. 「. 2,000 .、 “. 「. 1,500. 1三. 轟よ 、よ  ㌔. .・・°’“°’・.. 1、OOO. @    .● @    ・●●・. 、司卍、㌔〆⊇. 500. ●                     ●. A㌔.…戸耐. 三.    海外スター1」ング諸国の合計. 鼈齡. スターリンゲ諸国. .o キ. 遵轟蔭㌶試鷲轟鞠聯㌶議遵梅麟轟踏議轟躍鴇轟許 注1)1962年度末1:,統計の表示法に変更があり,旧シリーズと新シリーズで.数宇に若干の違いがある。この点につい ては,the Bank of日ngland tuateriy a」lletine,⊥1ne 1963を参照せよ。. 注2)「海外スターリング諸国」には,1965年末でローデシアが,1966年末までピルマが含まれる。 注3)「非スター一リング諸国」には.1966年初頭からローデシアhC・1967年初頭からビルマが含まれる・. 瓢蕊㌶鷺瓢麗麟響鵠畷、鵠罰隠蒜鵬㌫牒罐瓢辮蒜 Sterlifig”,f加fed悼h蜘日日’a牌of角夕而ieXs, I E 70, Tali6 S8. p.37,より作成.. るであろう」と述べていたのは,1962年10月 のことである。. あろう。.  さて,以上のように市場取引においてドルが.  ユーロボンド市場の形成にかくも深く関与し. ポンドに代わって優勢となり,Pi?また..資本. たイギリスの意図とは裏腹に,ヨーロッパにお.. 供給に閥して多くの経路が揃いつつある文脈で. ける資本供給者の役割は,国際収支黒字をため. は,ポジドを過大に保有する帝国=コモンウェ. 込んだドイッが重要な役割を担うようになって. ルス諸国は不利な状況におかれてしまう。事実,. いった。これは,イギリスの国際収支が一貫し. これら諸国によるポンド保有忌避の態度は,透. て不安定な状態た置かれていたのとは反対に. けて見えていた。図3によってこのことを確認. ドイツが豊富な資金を前提にして,戦略的に国. すれば,非スターリング地域保有額の全体でも. 際資本市場を育成したからである。1960年代. 10億ポンド前後にすぎないのに,スターリン グ地域は25億ポゾド前後も抱え込んでいるの. 末には,ドイツ・マルクがドルに次いで二番目. の地位を占めるようになった俵5)。身近に国 際資本市場があることで,ヨーロッパ全体では. である6こうなると,スターリ’ング地域の「ポ. ンド離れ」の動きを止めることはできなくなっ. 相当の額をユーロボンド市場から調達すること を可能とじている(表6)。イギリスの企業も,. てくる。この傾向はかなり早い段階で始まって. この市場からドイツ・マルクやスイス・フラン を調達し,その経営に大いに役立てたのである。. ギリスに対して所有している債権構成の変化は. いずれにせよ,この市場がヨーロッパの経済的・. 域がイギリスに対して行う投資で主なものは,. 政治的な紐帯を強めたことは疑うぺくもないで. 預金,大蔵省証券,政府債である。このうち・. おり,スターリング地域が様々な形を通じてイ. 明らかである。表7を見よう。スターリング地.

(12) 34. 表7イギリスの対外負債・資産fポンド・スターリング) {単位: 11 OO万fttンド). 経常及び 賦払購入. a金勘定 ?ミ基金 《. イ リス.. 蜻?ネ証. @  形. 商薬手形. yびその. イギリス. 合計. ュ府債. 貸付及び. 枕タ貸越. 商業手形. yびその. 引受け. 合計. 純債務’. @   形. 1. 1ρ16. 1,720. 98 76. 1,740. 8了. 1,130. 1,881. 1乏6. 1,045. 1,919. 137. ,1,252. 1、B3合’. 102. 1,7B2. 1コ33. 51. 2,471. 1784. 57. 1785. 833’. ’51. E64. 925 974. 40. 7刀. 61. 718. 1,083. 75 88 84 46 54. 531. 1962年. 1,526. 1963年 1964年 1965年 1966年 1967年 1脂8年 1969. 1,103. 海外ス ター1ル グ. 1962年 1963年 1964年 1965年 1966年 1聞7年 1969年 1969. 非利付手. 1232 1,199. 1題7 1284. 439 382 一3?1. 309. 非スター. 一. 一 一 一 一 一 一 一. 一 一 一 一 一 一 一 一. 56. 1222. 3,011. 318. 、67. 1,182. 4232. 348. 72. 1257 1233. 4、4枯. ε0. go. 1,213. 4,746. 97 123 拍4. 1」95. 5,149. 1,140. 5,589. 1,320. 、 5.236. 乾2 369 369 366 370 3B9. 23 27. 1,15了. 2,769. 1,130. 2,942. 24’. コ203. ao48. 1,187. 3,061. t171. 3,084. 1,157. 1」16. 1298. 28 39 45 75 134. 4,535. 342 386 439 520 642’ 「 754. 1ρ12 1,273. 188 848 970 236 1,113 252 278 1」67 1,266 255 ,1,365 245 ゴ,652 270 282 . 1944. 3,163. 28 30 38. 339 350. 2,430. 45?. 2,591. 46 45. 468 489 534 570 644. 21593. 509 620 656 699 7η. 733. 2,982. 230 236 319 284 265 278. 211. 4ε. 2,881. 269. 259. 3押3. ・276. 甜1. 昭 36. 81. 84 100 138 179. 3262 3β05 3,368. 3480 3,784 3,937. 3292. 2592 2,595. 2448 2β11 2,529. リング. 19龍年 1963年 1964年 1965年 1966年 1967年 1968年 1959 国際機関. 丁95. 693. 47 36. 352 盟6. 了66. 2岳. 412’. 798. 51・. 514. 687 639. 49. 813. 527 500. 粗 5. 4. 駕400 2」0口 1,476. 一 一. 一 一 一 一 一 一. 33 40 48 52 51. 52 48 ’剖. 65二. t242. 88. 261. 52 54 46 42 38. 1,290. 1重2. 1,370. TO3 85. 一2」57. 104 89. 2,708. 101. 302 339 3B2 463 543 753. 2、0闘. 113. 941. 「1,474. 1,662. 25 一. 22. ’ 160 205 214 232 1210. ε了0. 714 775 885. ]99. 83董. †,336. 228. 1,082. 」,626. 一  246. 乱300. 763. (IMF く. 6. 1962年 門臼年 柑64年 19臼年 頂茄年 栂67年 1968年. 15. 1969年. 拍. 1B 17 拓 7 1†. 1MF 7. 1962年 1963年. 7. 1954年、. 7. 1965年. フ9. マ66年. 一. 一 一. } 一 一 一 一. 55 59 58 56. 70 59 i5. 33. 一 一. 一 一 一. 一一. 一一. 25. 24 29 2ア. 25 23 19 昭. 510 515 874 1,370. 一 一 一 一 一 一 一 一. 3. 89. 4. 拍5. 6 6 8. 1]0. †2. 101. 12. n7. 104 で17. 79. 173. 一 一 一. 一 一 一. 一一. 一一. P,5四. 1舶7年. 担. 196呂年. 1回. 1969 合肝 1962年.  . 拍. 1539 t745.   一 一. 1953年 盾U4年 拍65年 19駈年. 狽V64 1β03 1田43. 98 76 W7 126 137. 196フ年. 1β55. 丁02. 19E8年 拍舶年. 1,754. t812. デ 一 一 tO71. T,429 1,955. t940. 522 881 1.3η. 二. 一 一 一 一 一 一. 一 一 一 一 一 一 一 一. 一 一. 一 一. 一 一 一. 一一. 一 一 一. 一 一 一 一 一 一 一 一. 一 }. 一 一 一. 一一. 一一. 一一. 一. 一. 一. 一 一.     一. 一. 一. 一. 声      一. P,538. 一 一 一. @188. 535 539 X酷. 1,101. 董β97. 1ほ22. f,554. て,641. 董,452. 5董. 2,546. 董,973. V2 80 90 97 123. 57. 18把. 1983. 194. 1,162. 5て丁. 一 一 一 一 一 一 一 一. 一 一 一. 1,439 1,965 1,950. 89 105 110 104 117 101. ・117 173 5η 522 881 †1377 P,538. 56. 1,225. 4,8η. 318. ,67. 1,186. 1β59. 348. P,263. T,409. S22’. 1,239. 6,016. 1,221. 6,401. 369’. 1,207. 6,689. 1,152. 7,671. 1399. 7,359. 366 370 389. ,369. 342 386 S39 520. 642 754 1,012. 1273. P. 1,439 1.艶5. w950. 188. 848. 3,769. 236 Q52 278 255 245 270 282.  970. 3β舶. P,113. S,296. 1,167 {1365. 4β49 5」35 5β24. 重,652. 6,019. 1944. 5,415. 1,265. 〕出所}O㎝廿al St曲鉗cal O缶c白,“Un’ttsd ringdoin色)ctemal liabilta’es e”d claims in計eriing”, Un託彦d K言則葬bont Ealanceσf P司而ent5,1970. Tabl廿39. P.38.. 政府債は12億ポンド前後で変化はないが,預. 方の預金は8億3000万ポンドから12億8000. 金と大蔵省証券の構成が大きく変化している。. 万ポンドへと増犬している。資金を「足の遅い. 1962年から69年までに,大蔵省証券は約6億 6000万ポンドから半分め約3億ポンドへ,一. もの」から「足の速いもの」へ移しているこ とが見て取れよう。こうした事態について『ミ.

(13) 3s. 表8国際収支統計(1959年∼69年) (単位二100万ポンド). 1959年 経常勘定. 通貨流出入 ニ公的融資. jヒ記倉計_一___一__公的引出し,支払い. 1964年. @ 214−   一  一   一   一. @ 194−   一   一   一   一. @ 143 @一265. @  一4. 一265.  一4. @ 112 @ 114. Q91. │310 │25. @ 260−   一   一   一   一.      ■    ■    ■    ■●  ■● ハ貨灘購箭一一一一一ゴールド・サゴスクリプショー  一  一  一● 騨甲 一  一  一  一  i  ■■ 一  一. 1963年. @ 148−   一   一   一   一. ソ外駆L−_一 音収. R…腹濫. 1962.   一80’  一519.  一117. 経常収支 且窓yびその他資金フロ. 1960 1961年  一406   一152.   一て02. 貿易取引. 143 │103 │22. @ 141−   一   一   一. Q99 ●ロ.    18−  一  一  一   一.   325一  一   一   一. @ 一58−   一  一  一   一. @ 一32−  一  一  =. @ 一40−  一  一  一  一. @ 293禰  一  一  一. 112. @5. V5. 114 │103 │69.   一i萢一  一   一  一  一. @ 124−   一   一   一   一. @ 一395 一395. │289 │11 ■■  , @ −695−   一  ゴ  ー   一. @ ー339−  一  一  一  ■.   192−  ■  ■  一  一. 香@ ー  一  ■  一. 黶@ 一   一  一  一. 黶@ 一  一   ■  一. 黶@ 一  一  i  −. @ 一339−  一   一  一   一. @ 192−  一   一   一  一. @ 一58−  一  一   一   一. @ −695−  一   一  一  一. @ 370 @ 一375 @  5 @ 573 @  122 @ 119 @−177 @ −31 @ 183 @ 53 1969 1968 @ 一79 @一打6. 的ま. 1967 1966 1965  一237   一73  一552 @ 160−  一  ■  一. @ 116−   一   一   一  一. @ 240−  ■  一  一  一. @ 一77 @  43 @ 一312 一312 r77  43 │560 │564 │308 Q01 │26 @32  一353−  一  一  ■.   ■  ■■ @ −547■  一  ■  ■  一.  一643   一141 @ 324−   一   一   一   一. @ 557−  一  一  一  一  一. @一319 @ 416 一319. │1018 @−81.   一671−  一  一  一  一.  一印. Q  一  一  一  一. 黶@ 一  一  一  ■. @ 一671−  一  一  一  一. @−1410−  一  一  一  ■. @一1410−   一  一  一   一. 416 S8 Q79. 一■●■          ]  」 @ 743−一一一=一  ■  一  一  一  一. @ 一44−  一   一   一  一. 黶@  一  一  一 @一353−   一   一  一. @ 一591−   一   一   一   一. @ 743一  舗  一  一  一  一. @ 599 @ 625 @ 556 @1296 @ 一699 @−246 @ −34 @ 115 @ 114 @ −44 出所)C。ntr。I St。ti,ti。・1・Ora。・,“s・mmary”, U・it・di・Ki・gd・m B・lane・。f P・yinent…1970・・T・bl・9・・P・・5・. ドランド銀行四季報』は,「〈ポンドの〉持続. 翌1968年にIMF及び各国中央銀行からの多額. 的な不安定さのため,いくつかのスターリング 地域諸国は彼らの準備の多様化をよりいっそう. の借入が申請されたのであった。.  ここまでをまとめれば,次のようになろう。. 推進した」と書いている(Wadswerth[1973 =. 1958年の西欧通貨の交換性回復はユーロダラ. 1976:539D。. ー市場の勃興をもたらしたが,このことは国際.  このような変化は,イギリスの経済状況に陰. 通貨ポンドの凋落と国際通貨ドルの台頭を意味. りが見られるときに激しさを増していく。表8. していた。これはポンドを基軸としたイギリス. を見よう。第一節でイギリスの国際収支の脆弱. 帝国圏の基盤を掘り崩すことにつながったが この関係がヨーロッパによって取って代わられ. 性を確認したが、この傾向は60年代になると さらに顕著なものとなり,これが60年代の後 半になると国際収支の赤字は常態化するように. なる。その額は1964年で6億9500万ポシド, 68年には倍以上の14億1000万ポンドである。 68年以前の経常収支の黒字は多い時でたかだ か1億ポンドを上回る程度であったし,資本収. た,ということが重要である。すなわち.総 力戦体制の解体は,国際金融センターとしての シティ復活というゴスモポリタナイズしていく ベクトルと,それとは正反対のヨーロッパへの 接近というローカライズしていくベクトルを同. 時に生み出していbたのである。70年代の金. 支はほとんどの年で赤字を抱えていたために, 国際収支の赤字を公的借入以外の方法で賄うす. 融政策体系を構築する際に大いに活躍した大蔵. べはなかったのである。こうした状況で海外ス. 居住者の手中にあるドル残高の成長は,国際的. ターリング地域のポンド離れが現実のものとな. 規模でのポンド保有忌避する動きと連動してい. り(図3),67年に14.3%の為替切り下げの決定,. 官僚のラベル(Lovell, A. H.)は,「アメリカ非. る」と述べ,1958年の通貨交換性回復後にポ.

(14) s6. ンドの「国際貿易通貨としての重要性が低下し. に十分成功しているとは言えない。その理. た」ことを適切にも指摘していた2%イギリス. 、由は,ある場合には政策の相違のためであ. が戦後}こなってもく帝国の遺産〉に固執し、国. り,また他の場合には概念の相違によるも. 際通貨ポンドの維持に躍起になっていたことを. のである。. 思い返せば,このラベルの言葉に表現されてい.  以上のようなギャップが表面化しつつあ. ることは,まさに隔世の感がある。. る中にあっても,諸々の経済主体は,少な.  イギリ3は以上のこと.を背景にして,次第に. くとも部分的には,新しい市場条件に適応. ヨー回ッパ統合に向けた制度改革を意識するよ. してきた。多国籍企業も発展してきたし、. うになる。これには.1969年のハーグで行わ れたヨーロッパ首脳会談を経て,1970年に公. 欧州為替市場やユごロ債市場がかなり定着. 表された,ヨーロッパ統合の象徴的文書「ウェ. 資本の移動もかなり強くなっ一てきた。この. ルチー報告」が大いに影響している。ウェルナ. ような動きは,たとえそのうちのあるもの. し拡大してきた。また一方では,投機的な. ー報告では,次のように,ヨーロッパ各国が共. は積極的な局面をもっているにせよ,経済. 同で事態に対処する必要を説いている22)。. の進展を加盟各国がコントロールすること. を一層むずかしくするものである。他方で 各国経済がますます密接にからみあってく. は,工業化された各国経済はますます相互. るにつれ.伝統的な国家政策のもう自主性はt. 依存性を強めることに至ったため,共同体. 弱まってき’たe国家のレヴェルでの自主性. の独自性の問題はますます明確な形で提起. が喪失したにもかかわらずこれを埋め合わ. されるに至った。. せるような共同体の政策が確立されていな いため,経済政策の策定はますます困難にな.  ここに見られるように,急速に緊密化するヨ. ってきた。かくして,共同市場実現の過程が. ー回ッパ市場の現状を踏まえて,各国ごとに事. いかに不十分であり,かつ,均衡のとれてい. 態に対処する「個別主義」の限界を突破するた. ないものであるかが明らかになった。. めに,共同体が「共通の立場をとることによっ.  共同体における経済政策の効果的な調整. てその個性を発揮する」必要を説いているので. 及び調和はこれまでの努力によって部分的. ある。金融統制が十分に効かなくなっている.と. な進展を見たものの,まだ十分に達成され. いう認識は,むろんイギリスにおいてもあった。. ていない。. 事実,ヒース保守党政権下の蔵相アンソニー・. …この遅延の原因は.経済通貨政策の十分 な調整の欠如及び法律上もしくは事実上の. バーバー(Anthony Barber)は,1971年3月30 日の予算演説において,「我々が政権を取った. 個別主義に求められよう。. 時に引き継いだ既存の枠組みは,明らかに不完. …対外関係においても,なかんずく国際通. 全なものであった」と述べ,「全ての国において,. 貨政策においては,共伺体は共通の立場を. 金融システムの効率的なコントロールは経済管. とることによってその個性を発揮すること. 理の不可欠な部分である。、この“効率的”とい. う言葉で私が意味するのは,金融シズテムの引  21)BoEA 6A74/3“The Balance sheets of the. き締めが求められたときに当局にそれを可能に. OUtside baiikS’ ,10 Febrttary 1970.. する,ということである」と金融政策の新たな.  22) 1皿terim feport to the council and the. 枠組みの必要性を説いている劉。. comlnission,日本経済調査協議会訳『共同体におけ. る経済鍾貨同盟の段階的実現に関する対理事会お よび対委員会報告:ウェルナー報告』,1971年p. 23。. 23)Hansard(Co㎜ons),5血Se且8i4,30 March 1971,col.1371−1372..

(15) 37. 目指していたことは広く知られている(Gamble.  1970年代の財政金融政策がいかに構想され たのかについては,第2節とそれに続く第3節 で詳述するとして,かくして,イギリスの改革. [1988 =−1990])。このような意味で,上記のまう. が次のような性格を持っていたのは当然のこと. あったのであるが,それにしても,イギリスと. であったといえるza}。イングランド銀行は,ウ. ヨーロッパとの緊密化という文脈を踏まえるこ. ェルナー報告にふれて曰く25),. となしに理解できうることではなV・,e. ウェルナー報告は,「漸次,国家間の金融・. に市場志向型の政策を取る政治的背景は十分に. 2:ラドクリフ・システムからCCCへ. 述べている。金融統合に関する今後の予定.  さて,1969年末になると,大蔵省とイング ランド銀行からそれぞれ数名を選抜し,「1970. に疑問が持たれているにせよ,.その統合の. 年代における金融政策の役割を展望するため. 論理が参加国間の銀行業統制の均一性を要. に、.一つのグループが設置」26)されることとな. 信用政策の画一化を目指す必要がある」と. 求することは明らかである。…銀行業務に. った。このグループの座長には大蔵省事務次官. ついて言えば,EEC諸国の傾向は,個々. のダグラス・アレン卿(Allen, D.)が据えられ. の銀行に1幅広い銀行サービスの提供を求め. ていたことから、以下,これをアレン・グルー. ている。カルテルの終焉(これはおそらく. プと呼堪ことにしよう。実は,先に言及したバ. EEC規制の下でともかくも必要とされる. ーバー蔵相の発言には,「ここ数ヶ月間,より. ものであろう)は…銀行業務の,イギリス. フレキシブルなレジームに向けた膨大な準備作. 的なものからヨーロッパ的なものへの転換. 業が行われてきた」という続きがあり,前もっ. を示している。       (括弧内,下線は原史料による). て予備作業が行われてきたことが示唆されてい るが゜「),当時の史料を検討すると,ζのアレン・. グループにつきあたる。このグループの設立が,.  むろん,このときイギリスは,ウィルソン. ウェルナー報告の準備・公表と期を一つにして. (Wilson, J. H.)労働党政権の後を襲い成立した. いたのは偶然ではないのである。したがって,. ヒース保守党政権の時代に移っている。後に. 彼らの営みを追うことによって,イギリスのく. リフレーション政策への変節が見られたとはい. 帝国からヨーロッパへ〉という歴史の大状況の. え,当初段階において,彼が経済への国家介入. 変化が,いかに統治の仕組みに影響を与えたの. 主義に対する嫌気から市場志向型の経済政策を. かを十分に感じ取ることが可能となると考えら れよう。. 24)ヒース政権が誕生しためは1970年6月19日 であるが,アレン・グループは1970年4月段階で すでに,銀行貸出関連の一連の課題について議論 をまとめ,マネーサプライ,利子率などの金融政 策の目的についての議論の必要性について触れて いる。このことから,CCC形成における保守党政 権の誕生と,それによる政治的環境の変化の影響 をあくまで限定的なものに留まるであろうeBoEA.  まずもって確認されるべきは,アレン・ダル ープの議論がラドクリフ委員会報告に対する批 判をその出発点としていたことである。ラドク リフ委員会報告とは,’1959年に発表された「金 融制度の作用に関する委員会報告」“Report of the Co血nittee on the Working of the Monetary. System”の通り名であり,通貨当局は以後、. 6A74/4, The Ne】文t Stage of the Group’sDiscussion, 14 Apr.1971..  25)NA T326/1261, A new apProach to credit control and the banking system,12 Feb.1971.1971. 年3月には,「ウェルナー報告」に基づいてEMU を目指す決議が,欧州理事会においてなされてい る。.  26)BoEA 6A74∬1, Note by the Secretary on setting up廿1e Gro直p,ユDec. 1969.. 27)Hansard(C。㎜ons),5th Ser. 814,30融h 1971,co1.ユ371−1372..

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