経営分権化と経営計画の考察 -- 松下電器の事例研究 --
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(2) ー. る」注. 2) という。. ここでシステムを企業とする場合には, その多数の下位部. 門が, 企業の全体的目標を達成するために, またそれぞれの部分的目標を達 成するために, 企業の真の資産を活用すべく影響しあう。 あるいはシステム を全体経済と するなら, 計画は 国家的目標を 達成すべく資産の活用をはか り, 企業は経済的システムの主要な構成要素の一 環となる。 計画をこのように理解するなら, チェンバレンが強調するように, 二つの 点が浮び上がつてくる。 すなわち,「目的の集中」と「制御の集中」である。 なぜなら, チェンバレンは以下のようにいう。 もともと一�システムズ プロ. ー. ・. ア. チは, ある特定のシステム目標を設定し, それを達成する手段をその. システムの経営に責任のある人々に与えて, はじめて意味をもつ ーーものと いう。 したがって一ー自由競争経済のもとでさえ, 各下位単位に認められる 意思決定の自由が正当化されるのは, その結果が社会全体の利益になると仮 定されるからこそであつて, 下位単位の目的が本来よいからではない 一ーと いえるのである。 そのためチェンバレンがいうように,「このように, 最も 個人主義的な経済システムにあっても, 目的と制御は集中される」注 3) ので ある。 しかも「システムの目的で明確であればあるほど, 制御の必要はより —. 大きい」注. 4) のである。. このことは国家, 政府が, 社会的目標を明確に追求しようとするとき, た とえば戦時中などの場合は明瞭である。 それは「国家の目的が全般的であれ ばあるほど, 制御の必要はより小さい」注 5) ともいえる。 この関係, つまり —全体社会に帰せられる目的を達成するために部分を調整しようとするな. ..... んらかの努力のあるところ, どこでも集中された目的と集中された手段とい う二つの成分が存在するから, いくらかの計画が必要である一ーという意味 注ー 2) N. W. Chamberlain "Enterprise and Environment" 1968 (大森他訳 「企 業と環境」ダイヤモンド社,昭和49年刊) 203頁 注—3) N. W. チェンバレン 前掲訳書 204頁 注— 4) 注—5). 同上. • 204頁. 同上 •. 205頁. -120. (484)-.
(3) で, たしかに「この観点から見ると, 計画は何も近代的現象ではない」注 6) といえる。 チェンバレンが事例にあげているアレキサンダーの帝国の拡大と 統合においても, またアメリカの連邦政府の権限と 統治においても, そのこ とはいえる。「これらのすべての場合に, ー. た制御があった」注. 集中された目的の ための集中され. 7) のである。. これは国家だけでなく 企業についても同様のことがいえるのである。 あら ゆる 企業にはシステムとしての目的が存在している。 その企業の組織のさま ざまな部分の 統合がたとえゆるやかであったとしても, あるいは 業務の達成 基準がないとか, 監督者が委任した職務について行きあたりばったりに検討 するとしても, それはシステム目的の薄弱さを意味するだけであってシステ ム目的の不在を意味するものではない。 それは 企業の分権化された部分に最 大限の自治権を与える場合にもいいえる ことであって, 企業としてのシステ ム目的が かならず存在し, その達成のための制御がかならず必要なのであ る。 したがってチェンバレンがいうように 一一�こういう経営管理層は, 全体 の 業績がその企業の存続を十分保証するほど, 利益のある ことも保証しなけ ればならないであろう。 もしそうでなければ, 下位単位の自治は存在しえな いであろうし, したがってその点で一つのシステム目的(どれほど 不正確に 公式化されていようとも)が遅入されるだろうし, またそのために 制御 され なければならないだろう 一ーと。 そして「利潤目的が野心的 で厳密であれば あるほど, 中 央の制御の必要も大きくなる。」注 8) たしかに経営計画は, 歴史的に小規模の企業にも存在しうるものであり, なにも近代的な大 規模の組織を源泉にするものではないが, 組織的に活動が 展開されたのは 企業の規模の成長とともに近年のことであるといえる。 とく に今世紀にはいって, いわゆる科学的管理運動が展開されるようになってき 注—6) N. W. チェンバレン 前掲訳書 205頁 注—7) 205頁 同上 206頁 注—8) 同上. -121 (485)-.
(4) てから明白である。 また1920年代,投資の目標収益率によって 企業活動を合 理化しようとしたのをはじめ, 包括的な予算手続が普及したのも, その展開 である。 とくに第二次世界大戦以後は, 常 規的決定だけでなく戦略的決定を も包含して, 企業の目的を明確にする長期計画が欧米はじめ各国に普及する にいたっている。 このことはチェンバレンも指摘するように 企業だけでなく, 「中心的目的 のための中央制御の拡大は, 国民経済システムの場合にも, 同様な道すじを —. たどった」注. 9) のである。. それには第一次世界大戦での経験,. 社会主義によ. るソビエトでの実験, さらに1930年代の大恐慌と1940年代の第二次世界大戦 は, 経済調整の訓練の機会をもたらしている。 もっとも継続的な経済計画が 西欧で堅固な足場をえはじめたのは, 第二次世界大戦後の復興の時代になっ てからであり,. マー シャル ・. プランの援助が有効に戦略的な計画へ活用され. るよう, 「アメリカは中央における 目的の明確化と,. 当然の結果として, そ. れらの達成を確実にすべく 制御の集権化を要求した」注10)のである。 アメリ 力自体はもともと計画活動を公式化することを望まないところがあるが. そ れでも月ロケット発射という非常に特殊な性格のものをはじめ. 年次予算か ら各機関の国内5カ年計画まで, 国家的 目的を中心に国家資産のかなり強力 な動員権力を発動しえるような計画作成過程を公式化する傾向にあるといい える。. 2). 経営分権化と計画策定. これまでもみてきたように,. 企業の内部にも経済の内部でも, たしかに. 「権限の集中と 分散の不 規則な循環が存在する」注11) ことは事実である。 なぜ 注—9) N. W. チェンバレン 前掲訳書 207頁 注—10) 208頁 同上 注-11) 同上 208頁 -122 (486)-.
(5) ならどのような組殺においても集権化が徹底するにつれて, いろいろな状況 に対処する ことにたいして自由裁量を下位レベルがもたないため, その結果 として非能率が生まれる。 職能的な役割を果たそうとすれば, 集権的に 制度 化 された 規則を破るか, 自由裁量への 制約を無視する ことになり, 分権化は 意図されなくても現実に起 こってくる。 こうして権限の分散化は自然に, ま た危機が訪れたり首脳が代ったりの偶然にもたらされるが, 過度の集権化の 非能率と同様に偶発的な分権化の非能率にも問題がある。なぜなら組織的な 分権化の能率がもとめられ, チェンバレンのいうように「組織再編成が起こ り, 下位単位の管理者がそれに基づいて活動すると期待 される前提をもっと 明確に定義し, 拡大された権限の範囲に公式的な境界が設けられる。 」注12) と ころがそ こに権限の集中と分散の循環にたいするつぎの問題が伏在して いる。 組織の下位単位の管理者たちが, 自由裁量の限界を試す機会をもつに つれて, 自分たち自身の個人的目標がその組織的役割に侵入しはじめるから である。 組織的な全体システムの目的を犠牲にしても, 管理者たちがうまく やれるかぎり, 個人的な自分自身の利益を追求するようになる。 その結果は 組織の下位単位の網の目を通して, 全体システムの目的がもれることにな る。 したがってチェンバレンがいうように「システムの目的を達成するにあ たっての組織の非能率をもはや無視できなくなるとき, 権限は中央に引き戻 — 13) の である。. され, より強固な統 制が課せられる」注. そのため権限の集中と. 分散の循環は,「ある確率をもってその周期は反復する」注14) ことになる。 ーただ「計画作成は, この集権化一分権化ー再集権化の循環をとり除きはし —. ない」注. 15) のである。. というのは計画いかんにかかわらず, 権限の集中と分. 散の循環の理由そのものが存在するからである。 しかし集権化と分権化の循 注—12) N. W. チェンバレン 前掲訳書 209頁 注—13). 同上. 209頁. 注—14). 同上. 210頁. 注 -15). 同上. 210頁. -123 (487)-.
(6) 環過程において, 「行使される統制の量はおそらく上向きに変化するであろ う」注—16) という。 それは「部分に対する統制に. より意識的に注意を払って, 総合的な計画 がいったん導入されると, 分権化された業務活動でさえ, 計画のない場合よ りも集権化されるようである」注17) からである。. 3). 計画化と価値間の衝突. すでにみてきたところから国家の経済であれ企業の経営であれ, そのシス テムの目的を達成するための合理的努力という意味で, ある程度の計画が必 要であり望ましくもあるという結論をえる。 チェンパレンはこう表現してい る。「たとえその性格がどんなに不明確であるとしても 役立つというだけの理由で,. 一. それがある目的に. つのシステムが成立する。 そのために, どん. なに限られたものであろうと, なんらかの 計画は不可避であり, システムと 下位システムの相互作用を促進し, また統制する。時と場所で異なるのは, 意識または明白さの程度, 包容力または範囲の程度, そして計画実行の集権 化の程度である。」注18) こうした基本概念は, 西欧社会において 一般的に受け入れられているとこ ろである。 とくに経済的計画については広く認められており, 現実的に避け られないものとして考えられているのが事実である。 だがそのことはチェン バレンが強調するように, 「計画についての古い議論 ―ー 「計画するか, そ れともしないか」が真の二者択ーだと思われていたときの議論ーーの甚礎に ある哲学的諸問題が, いまでは無意味だというわけではない」注19) といえる。 注ー16) N. W. チェンバレン 前掲訳書 210頁 注—17). 同上. 210 頁. 注—18). 同上. 210 頁. 注—19). 同上. 211 頁. -124 (488)-.
(7) たしかに計画の必然性は, 全体の秩序にたいする個人の関係をはじめ, 計画 化にともなう価値間の衝突を確認させる。 それら価値の衝突のなかでも, ま すます緊急なものになっているものが少なくとも六つはあるという。 価値の衝突について, チェンバレンはまず第一につぎのように指摘してい る 一一秩序に基礎を置くシステムの能率と, 個人の自律から起こってくる自 発性との間に, 明 らかな衝突がある 一ーと。 その解説はこうである。 能率と いうのは経済的利用と同意であるという。 したがって希少資源の能率的配分 がなければ, 全体の 目的はある程度犠牲にされ ざるをえない。 しかし資源の 浪費を回避しようとする努力は, 必然的に精神の浪費をも抑制し, 自由裁量 的な行動の可能性を少ししか残さないことになる。 能率は専門的役割を重要 にし, そのため間違いの入り込む余地を少なくするが, 同時に冒険的行動を 場違いにし, 自己表現の自由な発抑は全体の利益のために抑制されなければ ならなくするのである。 ただこれら双方の価値の衝突は, 一方の行動バタ ー ンが他方を代替的に選 択することにならない。 むしろ双方の価値ーーシステムの秩序性と個人の自 由性 一ーは, 両方ともある割合で存在しなければならない。 たしかに 一ー問 題は, この二つの望ましい混合に関してである 一 ーといえよう。 それはチェ ンバレンのいうように「計画された秩序は, 個人の自由の正反対ではなく, それにとって 必要である」注20)と さえいいえる。 たとえばそれは供給する財 やサー ビスと交換に, ほかの財やサー ビスを需要しえると同様であり, また 他人の権利を得るためには自分の自律をある程度に譲らなければならないの と同然であるといえよう。 その意味で, 社会的 目的をより確実に 達成しよう と努力する経済的能率の追求は, 個人の活動の自由を抑制する手綱ともなる のである。 したがって 一ー問題は, 計画か個人主義かではな<' それぞれを どれほどにするかということである-といえるのである。 能率への関心は, 第二の価値の衝突を導く。 すなわち ――能率は目的の面 注ー20) N. W. チェンバレン 前掲訳書 212頁. -125 (489)-.
(8) から測定される, しかし だれの 目的だろうか ー―—という設問によってであ る。 能率 一 個人主義の衝突は, 個人的な目的がより大きな社会的システムの 目的より優先されるべきかという問題を提起するものである。 そこには社会 的システムの目的を明確にするという問題を内在さしているのである。 それ は社会的システムの目的というが一ー集団のどの段階で, 目標は公式化され るべきかー一の問題の内容でもある。 チェンバレンはつぎのような事例を引用している。 教育目的は地域社会に よって定義されるぺきか, それとも一国の政府によってなされるべきか。 明 らかに,'それぞれに有利な点と不利な点とがある, と。 企業についても, 研 究開発は生産部門などに委ねられるべきか, それとも直接に最高経営管理層 が進めるぺきか, 将来の活動方向にかんする意思決定は錯雑である。 これは 政府と企業, また企業と組合の関係, あるいは国内的だけでなく国際的に国 家間の関係に おいてもいえる 問題で ある。 この問題についてチェンバレン は, こういう 一一責任の所在についてのこのようなあらゆる背後には, それ に先立って, だれの戦略あるいは価値セットが意思決定を左右すべきかとい う疑問がある一ーと。 つまりある特定の行為頷域において, システムとはな にであるかは, その意思決定を左右する戦略セットあるいは価値セットによ って決定づけられ, その責任の所在も明確になるといいえる。 .第三の価値の 衝突の頷域は,「計画の手段」そのものについてである。 こ の問題は•「どの範囲まで経営者たちは, 彼らの意思決定を導くため技術的な 専門知識に頼るぺきか」という, チェンバレンの設問にかんするものであ る。経営者たちがその意思決定を技術的な専門知識に依存すればするほど, 結果にたいする自分自身の影響力を制限することになるのである。 経営者た ちはどの程度まで依存すべきであろうか, あまりに少ない専門的情報による ことは, より大きく政治的妥協により意思決定をすることになる。 知識の進歩にともなって, われわれが提出する問題にたいし, 技術的によ り能率的な解決策に到達する能力は増大している 一ーと. つぎ 0) ようにチェ. -126 ・ C 490)-.
(9) ンバレンは説明している。 オペレ ー ションズ. ・. リサ ー チは, 在庫水準や工場. 立地を決定するための, 論理的に完壁な基礎をビジネスマンに与える。 投入 ー産出分析や数学的モデルは, 国民総生産のある特定の目標成長率を達成す るためには. どんな産業にどれだけの投資が必要か, というような質問にた いする,. 一. つの(必ずしも唯一のではないが)合理的な解決を国家に与える。. しかし, 技術的な解決があまりにも技術的すぎて, 専門家以外のだれもそれ を理解できないとき, システムの経営者ですら専門家のいうとおりを信じる か, 全然能力をもち合わせない事柄に手を出すかしなければならない。 この 説明はさらに具体的に, フランスの立法議会での事例をはじめ, 同様なベル ギ ー での経験を引用して解説されている。 だがいずれにしても「計画」を作成した専門家たちの内容面での技術的か つ論理的な首尾一貫性にたいして, 全体をそっくりそのまま承認するか拒否 するかの二者択ーであり, 部分について取捨選択することは活動全体の基礎 にある論理と技術の一貫性を破壊することになり, 案外の無知や誤解にもと づいて取捨選択する結果をまねく恐れがある。 たとえ実際において「将来計 画に際しては技術者が引き継ぐ前に議会が相談を受けるであろうという合意 に到達した」注21) としても, それはほとんど矛盾への解答には ならないとい う。 たしかにそのような協議は非常に大まかな問題についてのみ進められる もので, 専門的, 技術的なプロ グラムについては素人的な判断がとうてい 出 来えないものといえよう。 こうした矛盾は,. 一. 国の政府が直面するだけでなく, 企業においてもしか. りである。 チェンバレンもいう一ー企業においても, 専門家スタッフたちは 上役に刺激されて技術的プロ グラムを用意するが, 同じ上司がそれを判断で きない一ーたとえ目的と手段を区別できるとしても, 価値は目的と同様に手 段にもあてはまるから. プロ グラムはほとんど必然的に多くの点で価値判断 を含んでいる, と。 このことを吟味すると, 価値の衝突である。 目的にたい 注:--21) N. W. チェンバレン 前掲訳書 214頁. -127 (491). 一.
(10) しては浪費 を避けて達成する, そのためには技術的に能率的 な解決が有利で あり要望されよう。 だがチ ェ ンバレンはその吟味をすすめていう。 「 しかし, どんな 社会的シ ステムでも価値の間題がすみずみまで ゆきわた つており, それが中間の諸決 定に影磐を及ぼし, ついで全体の結果に影 盤を及ぼす, というやり方から見 れば, 技術的解決の手放 しの承認は, 自 由裁量の放 棄を意味する。 どれだけ の 自 由裁櫨が専門家たちに引き渡されるべきであろうか。 だれがいうぺきで ー. あろうか。 単純な答は ない。」注. 22) たしかにそうであろうが,. では現実にどう. するのか, まさに 矛盾した価値の衝突である。 価値の衝突の第四は, 「経済的計画」 にかん するものである。 社会心理学 的にいうと, 計画を策定 するのにその意思決定へ, 影 響をうける人 々 を参加 さ せるのが望ましい。 たしかに人 々 は 自 分たち が作成するのを手伝った行動 の 規定 を快く受 け入れる傾向がある。 これは政治的民主主義の主 張がよって たつ堅い基盤を な す哲学であるともいわれている。 もっとも 一ーそのよう な 計画への参加は, 自 己 統 制の一形式を意味する。 しかしそれはまた, 人の活 動の自 由への統 制を押しつける根拠ともなりうる 一ーという。 このことは国家計画の場合にもいいえることであるが, 産 業界や 企業内の 場合についてもいいえることである。 そこには価値間の必然的 な対 決が見 出 さ れる。 す なわち個人や組織が計画の策定に参加する意思決定は, 利用でき る選択権を提供すると同時に, 開放されていた選択権を放棄するということ ある。 そういう意味で 「あらゆる代議制の立法府のように, 参加的計画は, 民主的 な 自 己決定と外部 統 制の両方の性質をもっている」注23) のである。 こ のような意思決定の艇囲が広範に な れば なるほど, 集 団的目的をとおしての 追求の機会が大きく なるとともに, 集団的決定と衝突する 目的にたいする個 人的活動の自 由への制限はそれだけ大きくなるといえる。 注 —22) N. W. チェンバレン 前掲訳書 215頁 217頁 同上 注ー23) -128 ( 492)-.
(11) 計画がもたらす価値にかんする第五の衝突がある。 チ ェ ンバ レ ンによれば ーシステムの技術的要求 は, まったく自分自身の利益を助長する事柄とし て, 自己をこれらの要求に適応させるという, ある重荷を個人に 背負わす一 ーという。 そしてその事例を教育 制度におけるカリキ ュ ラ ムの変化のなかに 考察している。 それ は西 欧社会が経済的, 産 業的な 成長にとって科学や数学 が重要であると認識するにつれて, だんだんと科学的, 操作的な傾向が強調 され, 個人をシステムの要求に適応させようとして, 長期の教育計画も作成 されるようになってきているのは顕著である。 たしかに 「個人が制度的 ・ 社 会的要求にある程度までこのように順応するのは , いつも行われていること であり, 望ましいことでもある。」注-24)だがこうした「計算され機会」 にのみ 個人が適応していくのも, ある危険を内包しているといえる。 たとえば教育制度があまりにも社会的要求にあわせてかっ ちりと公式化さ れるなら, 若者たちが自己の資質と性向にしたがう機会を少なくし, 若者た ちがとうていできない決断をすら要求すること になる。 このことは 一般的に いっても一ーシステムの目的がより 明確にう ち 出 され, それらを達成する手 段がより意識的に用意される計画のもとで は, 危険はそれだけ大きくなる。 そのような環境の中で は , おそらく制度はそれ ほど合理的でな い個人の傾向 よりも, 明白な社会的 目的をめ ざして実施計画を工夫するであろう 一ーと。 このこと は 企業のなかでもいえることで, 個人を 企業の要求にあわせて形 成すること は , ただ「 出世のパ タ ー ン」 としてでなく, 個人の能力や性格の 発展までにも影響をおよ ぽすものである。 人 々 は 企業からの要求や要件で , 自 分 は 「どんな種類の人間になるべきかを学ぶ」注25)という。 こうした個人 の自 由裁量への制約 は, 企業を移転し転職する自由によって軽減されるとい えるが, その機会も実 際に はかなり 制限されており, 移動の代償もかな り割 高のものになるのが通常である。 注ー24) N. W. チェンパレン 前掲訳害 217頁 218頁 注-25) 同上. ー129 ( 493 ) -.
(12) こうした価値の衝突は, これまでみてきた衝突と同様に, 二者択ーする こ とによって解決されえるものではない。 ある シ ステムで, その要求と目標を 明確に 規定 しない ことも怠慢であるかもしれないが, そのシ ステムの要求や 目標の計画への努力が, 自 己の見方に したがおうとする個人の自 由を圧迫し 「殉教者の役割」 を ふりあてるまでに 拡大すれば, それもまたそのシ ステム ないし社会は怠慢と いえよう。 このことに ついて チ ェ ンバ レ ンはいう 一―わ れわれが見てきたように, いくつかの社会の価値セッ ト は個人の発展を奨励 す るが, 計画作成―― 必然的に責任を集中させる 一ーは, 個人の発展のため の計画作成 自 体が, その実現を妨げる危険を 不可避的に包含する 一ーと。 さて最後の第六の価値の衝突は, とくに「経済的なもの」 であるという。 それは広範囲の社会的諸価値を達成するために経済的 成長の計画が 必要であ る ことと, そ の経済 成長 自 体のためにそれを維持し ようとする強 制が経済的 諸価値の 自 律を つく り 出すこととの, 両方の衝突である。 チ ェ ンバ レ ンの説 明はこうである 一ー一国の生産能力の 発展は, 社会的 ・ 文化的 諸 目的の満 足,. つまり ある一定の 生活様式と, ある一定の 生活水準をつくり 出すこと. を, その目的としている。 たとえば国民の教育や, 都市の再開発, 運輸 シ ス テムの改良, レ ク リ エ ー シ ョ ン設備の拡充な ど社会的活動をおこなうには, 多大の生産能力が 必要である。 そのために国家は経済 成長のための計画をた て, それは国民総生産の増加 によって測定される。 この統計的な 成長率は, 単に象徴としての表現であり, そのなかに特殊の諸目的が内包されているか ら こそ意味をもつものである。 だが G N P の増加率に経済が歩調をあわせるようになるにつれて, 雇用や 所得そのものが年 々 才 々 その率を維持するために決定されるようになる。 そ こでは 経済 成長率が社会的諸価値の 真の目的となり, 社会は なにのためと いう目標への自 覚より, 指標としての象徴を現実に転換 していく ことを, ょ り重要だとする傾向になる。 たしかに適当な 成長率がなければ, 失 業と貧困 がうまれ, そのためにも内容に関係なく 成長率は維持されなければならない. -130 ( 494 ) -.
(13) といえる。 だが目標 成長率を量的に考慮することは, 経済の成長が可能にす る社会的目標の質的な局面を埋没させてし ま うきらい がある。 チェンバレン が指摘するように 「実 際, 変化を含み, 意義ある形態で資産を再展開する こ とを要求する戦略的 目標は, 雇用の安定性を維持するという常 規的 目 標 に道 を 譲る」注26)のである。 もち ろん この両方は関 連しており, 「 生産能力は社会 の進歩を可能ならしめる も のである」注. ー 27). といえる。 だが同時にその経済的. 活動が社会的目的を満足させる種類のものかどうか を十分考慮しないことに は, やがて経済 成長そのものに最も貢献しそうに見える経済的活動へ 集中し やすくなるものであろう。 このことは 企業内においても同様に問題となる。 チェンバレンはつぎのよ うに表現している。 成長への衝動 ーーより大きな 市 場 占 有率, あるいはある 産 業で第一 人者になる こと 一ーは, 経営管理層が現在の 業 務活動に 集中し, もっと長期の利益のために, 現在の資産をどのように変えればよいだろうか を十分に考慮しないで, それを 拡大するようにしむけるかもしれない, と。 そして 「将来志向的目的は, もっと目先の目標に対して副次的なものと され る」注28)と ま でいう。 さ てこれ ま であげた六つの領域ーー チ ェ ンバレンの要約によると, 能率の 基礎としての秩序と自由の基礎としての秩序との間の, その 目的が優先権を 得るところの水準ま たは単位の間の, 専門的知識に基づく計画の手段と政治 的妥協による手段との間の, 自 己 統 制の基礎 と しての公共計画への私的参加 と個人に対する 集団規律としてのそのような参加との間の, 社会的プロ グ ラ ムの技術的, 組織的要件に個人を適応させる環境と個人に順応する環境との 間の, 特殊の目的のための経済成長の必要性とな んらかのより深い 目的とは 無閑係な経済 成長の強 制との間の, 一ーにお ける価値の衝突が, 少くとも存 注ー26) N. W. チェ ン バレン 前掲訳書 220頁 注 —27). 同上. 220頁. 注—28). 同上. 22 1 頁. -131 ( 495 ) -.
(14) 在する。 しか も これらの価値の衝突が, あらゆる経済的計画過程に介入し, しか も 容易に解決しえない存在とな っ ている。 —. たしかに 「これらの衝突は, どんな原則によ っ て も解決できない」注 29) と いえ そうである。 普通これらの価値の衝突は, 「試験的 ・ 一時的な妥協」 で 処理されている。 も っ と も これらの衝突が, 計画過程にだけ帰因するという のではないが, 計画 そのも のが その対立を鋭く激しくしていること も確認し える。 このような「対立的存在」 は, 経済シス テム全体に広く見られる もの であり, それらの両立が必然であること も すでに理解している。 それは 「経 済的対位法」 とよんでいい ものである。 たとえば一ーシステムと その部分, 常規的な ものと戦略 的な もの, 均衡と不均衡, 歴史的決定論と 目 的性, 集中 的傾向と 分散, 集権化と分権化――tというような対立的な存在であり影替力 であり, それらは両立的に位置づけ られ対応策がとられなければならない。 チ ェ ンバ レ ンの基盤をなす学問的な構想であり哲学で もある「対位法」 の理 解 であ る 。 したが っ て「経済学は唯一の支配的な主題で構 成されるのではな く,. 一. 部は関 連し一部は独立している対照的な諸主 題から構 成される」 もの. である。 経営理論に おいて も 論外ではない。. 4). 計画策定の構成要 素. す でにみてきた よ う に経済的対位法によれば, 対立的な価値の衝突をむし ろ両立的な計画の過程に組み込む ことが課題といえよう。 そうした計画の策 定 および過程はいかになければならないであろうか。 それにたいしチ ェ ンバ レ ンは一ー計画が効果的に作成 されるためには, 時間的経路と予算とを組み 込まなければならない, とくに長期計画の場合, そうである 一ーという。 それは 企業の場合は も と より, 社会的シス テムの場合で も そうである。 い ずれにおいて もまず時間的な, 時機的な ものが大切である。 それは 企業内の 注ー29) N. W. チェンバレン 前掲訳書 221 頁. -132 ( 496 ) -.
(15) 計画作成の主 題として, 新製品開発をは じめ新工場の 建設や研究開発部門の 組職化, さ ら には新流通方法の 導入や海外支店の開設な ど , また社会的シス テムとしては新産業 誘致, 都市再開発, 運送網整備, 住宅建設計画およ び教 育 制度再編な ど , いずれの 問題もまず そ の最終結果がある特定時に 達成され るよ う 予定 されなければな ら ない。 そ のことは最終結果が達成されえるよ う 時間的経路に そって継続的諸段階が実施計画として策定 されることを 必要と している。 このよ う な 段階的実行計画は,. 企業では PERT (Program Evaluation. and Review Technique) や CPM (Critical Path Method) の 手法によっ て展開 されている。 もっとも政府 の計画活動への 応用はいまだしとい う 状況 ではある。 しかしいずれにしても実施計画には段階的に時機あるいは 日 程が 明 確に されては じめて計画作成が有効となるといえよ う 。 このことは常 規的活動の 短期計画についてもいいえることである。 時間的 経路にか んして, 企業内での 原材料の購入か ら最終の生産ま で の , 受注か ら 配送ま で の ,. 販売か らサー ビスまで の , これ ら 一連の 仕事の 流れはすべて. の活動が適当に連続したもの でなければな ら ない。 そ のことは国家として, 政府が責任を負 う 経済システムのなかでも同様であり, ただ そ の 場合 の 常規 的な実施計画が, 家計や 企業 の 自 由裁葺の範囲内で作成される比重が大き い だけである。 しかし そ の 場合でも政府は, 全体的活動が 円 滑になるよ う 資金 の供給を確保したり, 私的な 自 由裁鼠の 行使がシス テム内を不均衡 にする恐 れがあれば支 出 の水準を抑制したり, 支 出 の誘発のために財政的手段を加減 したり, また国際的取引に不均衡があれば輸 出 禁止や輸 出奨励を行 う といっ た手段で,. そ の 役 割を果している。 このことは とくに軍事的活動 の 場合に. は, 政府は物資を 必要なとき に確実に入手するため にも, 企業内 で の 割 当 と 重点的な配給を掌中に確保する。 これ ら はす べて, 匿的な 問題であると と も にたしかに「時間的連続性」 の 問題でもある。 さ ら にチェンバレンはも う 一方 の 計画策定に 肝要な側面を強調する。 そ れ. -133 (497) -.
(16) は資源の問題であり, 資金であり予算の側面である。「計画 作成に と って, も う 一つの 不可欠の 成 分は, 意 図を実行するのに十 分な資源を準備する こ と である」注3 0) と 。 そ して —一生産や プロ ジェ ク トを その時間的経路に そって 進めるのに必要な資金調達が, 予算で認められるまで は , われわれは計画で はなく , 見込みか それ と も希望の状態に置かれる。 計画作成は, 指定された 期間内に指定された結果を得るために必要な, すべての資源の割 当を必要 と する 一_のである。 この こ と は常規的活動はも と よ り, 戦略的活動にもあて はまる こ と である。. 5). 意図, 活動の相互作用. 計画を策定する要素 をみた う えで , 要素間ない し 活動間の相 互作用に つ い てもみておく 必要がある。 計画策定の活動は , 予想 と 主観の客観化 (p rojec tion) だと もいわれる と い う 。 その意味する と こ ろはこ う である一一個人や 組識は そ の 目的を 将来に固定 し ,. それに向って自らを 引き寄せる,. とい う. の である。 すでにみた順 序づ け と 予算の配分をふく んで みずからの目的をど んな経路で 達成 していく か, みずからの活動 を指導する詳細な意思決定でな ければなら な い。 チェンバレ ンの表現に よれば, 「目的も手段も, 図 と期待の声明 書である。」注3 1) また. ともに意. 一ー. 五カ年計画には, そ の期間の終りに. 組識がどの よ う なものになる と 期待されるかにつ いての 統計的な像 と , その 状態に 到達するための諸段階の明確な表現である。 しば しば計画 と みなされ るのは, これらの意図である 一ー と 。 この よ う に計画策定は, 主 観の客銀化であるが, 企業の内外に わたる周囲 の環境, とく に目的の実現に影響をお よ ぼ し そ う な要 因については, ある仮 定 と 根拠を予測 している。 た とえば 企業の外部的 な 環境 と しては, 国内の 政 注ー30) N. W. チ ェ ンバレ ソ 前掲訳書 224頁 225頁 注 —31). . 同上. -134 ( 498 ) -.
(17) 治的活動をはじめ国際関係や, 嗜好や技術の状態, 人 口と労働力 供給の変化 の可能性, そ し て競争相手の活動状況など, あ るいは内部的な条件と し ては 政策指針の継続性, 組識の安定性と柔軟性, そ し て資本利用の可能性などで あ る。 こう し た 環境条件は計画と して主観を客観化する過程のなかで仮定さ れているのと相異 し た変化もあ る。 む しろ予言者的なビジョンの天分のない か ぎり, 計画での仮定どおりの事象ない し近似のことすら異常の出来事とい えよう。 し たがって条件が予想 し ない変化に直面 し たとき, 計画において目 的かそれらを達成する手段かのいずれかを修正 し なければならないのは当 然 で あ る。 そこでチ ェンバレンも確認するよ うに 一ー ひとた び将来を完全に予 測 し えないことを認めるなら, 意図の声明をそのように修正することは, 必 ず しも計画作成の誤りをあらわすものではない 一ーといえよう。 む しろ計画そのものの本質から し て修正することが, 策定の過程と し て必 要といえる。 というのは将来の予想にかんする合理性には, 種々の程度が あ り, ま た 結果からすれば完全な合理性といえるものはない。 そうい う 意味で は, 将来を正確に予想 し えるのは偶然の場合だけで あるともいえる。 し たが って計画を無意味で あ ると主張する立場もあるが, は た し て将来の可能性の 計画をもた ずに長期投資活動をする人達がいるで あろうか。 このことは企業 内だけでなく, 国家でも家庭でもいいえることであ ると. チェンバレンもい う。 すなわち――職業あるいは職歴の選択, 転居 や結婚の決定, 製品ライ ン へ の追加, マー ケ テ ィ ング部門の再編成, あ るいは都市の再開発, 国民保健 計画の確立一一弓「べてこれらは, 将来の事象についてのなんらかの主観の投 出と, その ような主観の客観化に照ら して, あ る特定の目標を最も達成 しそ うな活動 (資産の利用) に関する意思決定を含んでいる 一ーと。 た し かに将来の事象が, 主観の期 待 し て いるものを確実に し ないからとい って, そのよ うな計画が無用で あ ることにはならない。 む し ろ必要なことと し て「計画は欲求される方向に個人や組識を動かすが, し か し その進路は, 予期でき ない発展に照応 し て不断に 詞整されなければならない」注32) ことで 注—32) N. W. チェ ンバ レ ン. 前掲訳書 227 頁. -135 ( 49 9 ) -.
(18) ある。 この不 断の調整こそが計画 を 達成させるも の であり, この調整は最初 の計画の段階があってこそ可能になるものである。 計画的な行動の意欲がな ければ, 実践的な行動も 目標なき漂流にすぎな く なる。 たと え 部 分的に間違 っている予想も, 将来を予期する主 観の努力によっては じめて合理的な活動 ができるのである。 チ ェンバ レ ンはい う 一ーなぜな ら 合理的活動はその活動 が完 成されるであろ う , ある将来と必然的に関連 し , またその将来との関係 でその活動の合理性は判断されな ければな ら ないか ら である一ーと。 いずれに し ても 「修正は, 最初の推測と同 じ く ら い計画過程の一 部 分 であ る」注33) とい う 。 し たがって何が起こるかに基づいて行う修正は, おのずか ら 何が起こるかに ついての知識の組み込みもまた計画過程の一 部分であると いえる。 そ う なると計画策定は, その計画書が発行される 日 付にお け る意図 の声 明にお わるのでな く , あとに続行する行動の継続的記録と し て, たえず その意図を不断に修正することこそ肝要な わ け である。 そのことはまず当初 に予期されたものと比較 し て, 現実に変化があることを予想するのである。 現実の事象が実際に計画 を時代遅れに し て しまったかど う か を チ ェック する ことに よっては じめて, その計画に行動が指導される合理性を保障 しえるの である。 チ ェンバ レ ンも一�計画過程は, 最初の意図の声 明だけ でなく , 達 成と投 出 をともにテ ス ト し う るよりどこ ろとなる継続的な情報の流れや, そ のよ う な評価の結果と し て 浮びあがる達成あるいは意図のどち らかの継続的 修正をも含んでいる一ーという。 「計画過程の本質は, 見込みと現実と, 予期されることと生起することと , 意図と活動との間のこの相互作用である。」注34) さ らに チ ェンバレンのい う と ころを忠実に理解 し てみ よ う 。 すなわち――それは将来の目標に照 し て現在 の行動がと られる, その目標 を う ち 出 すことであり, そ し てか つ て将来だっ たものが現在となって , 将来のピ ジ ョ ンの変化を生 じると き , それ らの目標 注 -33) N. W. チ ェソバレ ン 前掲訳書 227 頁 228頁 注-34) 同上 ー136 ( 500 ) -.
(19) または そ れら に 到達す る 手段を修正 す る こ と であ る 。 計画作成は, 環境の内 部でも組識の内部でも起りつつあ る 変化を認識して, システムの目標を達成 す る ため に , システムの相互に影 響し合う部分の機能を適応させよう と す る 努力 に すぎない — と いう。 たしかに, システムの諸部分間の継続的相互作用, システム と周辺環境間 の継続的相互作用, システムの現在対将来間の継続的相互作用, これらはす べて同時 に 起り影響し合い, システムの目的を 達成す る ため に , またシス. .. .... テムの資産を活用 す る ため に , すべてを考慮 す る 必要があ る 。 このため には. .... 計画過程の本質的な 成 分 と して, すでにみた時間割 表 と 予算配分 に たいし報. .. .. 告システムを追加しなければならない。「なぜなら, もしこれがなければ, 制御が可能な範囲で三組の相互作用を目的 に そって ど れ ほ ど 制 御 でき る か, —. まったく計算できないからであ る 。」注 35)いわば フ ィ ー ドバ ッ ク ・ システ ム の 必要であ る。. 6). 経 営 計 画 と 理論化. 経済的計画は, いうなら 「 制御要素の体系化」 であ る 。 その意味は 企業の 問題 についていえば「 そ れは将来性や 目的性の要素を単位の側で体系的 に 取 — 36). り扱おう と す る 試みであ る 」 注. と いえよ う 。. こうした 企業 観は, 在来の経済学者が普通 に もつ, いわば外部からの 企業 観 と は相異してい る 。 そ れは内部からの企業 観 といえ る 。 「 企業は多少 と も 類似してい る 多数の組識の 一つ であ っ て, 明 確に でき る 制約に対して多少 と —. も予測しう る よう に反作用 す る もの と す る 見方」注 37) であ る。 在来の伝 統的 な見方からす る と , 企業は そ れを 一つの構 成要素 と してい る より大きなシス 注—35) N. W. チ ェ ンバレ ン 前掲訳書 228頁 229頁 注—36) 同上 注—37) 同上 229頁 -137 ( 501 ) -.
(20) テ ムによって実質的に制御され, 企業の行動はその環境によって与えられる 刺激に対して反応するものである, とする。 そのような経済学者達からする と一ーチェンバレンは強調していうー一いかなる個別企業の行動を予測する ことにも興味をもたず, すべての企業にたいして環境システムの制御が一 般 に強制的であるとして, 企業一 般の行動の予測に興味をもつのである, と。 たとえその議論が, 企業の期 待される行動におよぶとしても, それは ア ルフ レ ッ ド ・ マー シ ャ ル (Alfred Marshall) の代表的企業の概念の, ある変形 に頼っているにすぎない と いい , あ く まで分析の一般性を求めているこ と に 変わりはないという。 この在来の経済学的な見方にたいして, 内部からの企業観は, 企業一般の 共通した行動の可能性と同等に, 個別企業の相異した行動の可能性を意味の あるものと理解する。 た し かに個別企業の相異した行動が相互に打ち消し合 い相殺する傾向のなかで, 企業一般に優勢な全般的な反応を予測できるとい う立場もあろうが, それでもそのことは代表的または典型的企業としてのマ ーシャ ル. ・. モデルの概念的救助にはなりえない。 あ く まで も 個別企業と し て. 相殺する過程の特徴がなお追求さるべきであり, そのために実在としての企 業 自 体の行動に注意する必要がある, という。 企業を取り巻 く より大きなシステムとしての環境的関係の予測性は不確実 であることは, すでにみたが, あわせて個別の企業の戦略 セ ッ ト もそれぞれ 相異していることも, すでに知っている。 経済的システムを, 企業が環境の なかで強制的な範囲で制御され, 割当てられた機能的役割のみを遂行するも のとして理解しようとすることは誤 謬をおかすといえよう。 このことをチェ ン バ レンはつ ぎのようで℃ヽ ぅ —ーその命頴をいいかえると, 将来の不明瞭性 と , そのよ う な不 明瞭性に直面し 自 らの戦略 セ ッ ト に適合する行動を決定す るにあたっての個人と組識の反対感情併存 (心理学にいう) が, より大きな 経済システムの側でも, その構成要素であ る 企業の側 でも, 達成の予測不可 能性の大きな要因を生 じ させる 一ー と 。. -138 ( 502 ) -.
(21) こうした不確実性にたいして. 個人や組識は, 戦略的に対処し 目的目標に 計画的に達成できるよう, 将来の制御への努力の方法を検討する。 それらの 探究は, 経済的意思決定の過程につ いてであり, シ ステム的活動の方法や人 間行動的事象の科学についてである。 そうした探究の成果は, かならずしも 経済的意思決定の内容を予測しえる手段の解明に十分つながらないかもしれ ぬが. それ らも経済理論そのものである。 なぜならその理論の性格や役割が 決定論的でなくなったとしても, その不明瞭性へ心理学でいう反対感情併存 は選択論的な興味をもたらすからである。 だからといって予測にか んして, 実質的にすべてが不可能であるといつて る わ け ではない。 より短期間な期間については, 予想できない環境変化の可 能性はないではないが. より限定的である。 したがって短期間, 現在および さ し 迫った将来については, 能率の基準がシステム行動の大部分を厳密に統 制していることなど. すで に理解したところである。 そのため将来の変化や 成長に 必要な 跳躍台として, 組識や機能の 安 定性を維持する努力がはらわ れ, か なり予測できる範囲で行動は短期的達成をもとめて常規化するのであ る。 ところがより長期的な期間にわたるようになればなるほど, 将来の 目的 を達成するために企業はより戦略的に行動をおこす可能性は大となり, その. ょ. 予測性は少となりかなり制限されることは確かである。 たとえば投資活動 t. どほとんど将来志 向的であり, また非常規的であるから. それらの企業行動 はかなり予測しがたい状況であるのは当然といえよう。 したがってこう結論することができよう。 経済的行動の短期分析には, 実 質的にこれまでの理論の主要部分を適用することが可能である。 しかしだか らといって, 分析技術の洗練や知識の追加で, いま普遍的でない分析もやが て普遍的に 法則として 予測しえるのだというのは, まさに 妄想といえる。 なぜなら, 最後に結語としてチェ ンバレ ン の言葉をそのまま引用しておこう —短期の予測がどんな正当性をもつにしても, それはあるシステム関係の 中でのさま ざまな行動パタ ー ン の持続性にかかっているが, その価値体系が. ー139 ( 503 ) -.
(22) 変化するにつれ, その特殊の目的が変化するにつれ, その真の資産がこれら の目的を達成するために再展開されるにつれ, システム関係自体が変化して いる。 価値体系, 目的, 真の資産の変化が理論の修正 を必要とするようなも のかどうかは, 経験的研究の問題である。 というのも, 結局, すぺての経済 理論は 一時的なものであり, 時間的 ・ 場所的 環境に関係があり, ま たいかな る普遍的な意味においても科学的ではないからである 一ーと。 かなり大胆な 断言であり, 勇 気のいる結 論といえようか。. 7). 経験的研究 と し て の 事 例. 計画という機能をめ ぐって, これ ま で 企業の問題を中心にしながらも, 国 家や個人の問題の額域に ま で関 連 さして検討してみたが, それは最後の段階 にいたって 企業 観の相異の問題, さらに理論 観, 科学観の問題に ま で展開し いる。 こうした考察なり理解を, チェンバレンの忠実な租述によってふ ま え てきたのは餌解ない理解の必要からであったが, ここでもう 一度それを 咀喝 してみる必要もあろうかとおもう。 これもすでにこれ ま での一 連の論攻でお こなってきた試行であり, それは松下電器において, ま たその創 業者たる松 下幸之助がどのように行動しきたったかを 事例として検討してみるというこ とである。 いうなら計画機能を, 企業内において個人として組識として, ど のように理解し行動していたのか, その企業 観 , さらに理論そして科学への 思考を 吟味してみたいとおもう。 ま ず松下電器ないし松下幸之助が, 企業における計画の側面を重視してい たことは, すでに幾度かみた歴史的な事象からして事実である。 むしろ大切 な事柄は, 計画の機能にかんする二面性であろう。 ということは現在の松下 電器を 制度的にとらえてみると, 短期的な計画は事 業部門の計画はもとより 企業全体の計画, さらには長中期の経営計画にいたる ま で, その策定過程の 手順や内容も整備 されており, その形 成段階の時間と努力も 随 分なものであ. -140 ( 504)-.
(23) ったろうとおもう。 だが創 業者であり, これまで真の指導者でありつづけた 松下幸之助の計画にかんする考え方の特徴は, その企業 観にも, また理論と 実 践の問題にも反映しているといえる。 とくにそれを二側面, すなわ ち 計画 そのものの前提という側面と実行されて こそ計画という側面から検討してい こう。 松下幸之助は, 企業の経営にあたってその理念なり使命を強調する こ と は 周知である。 企業の使命感を感知した と いう意味で, 命知元年を真の創 業の 日 とし, それから使命達成まで50年毎の250年に わたる長期展望をすでに 昭 和 7 年策定しているのも好例である。 その長期経営計画の内味はともかく, その特徴は質的な意味における目的性であり 目 標性である。 当時の時代の環 境も さ る ことながら 企業自体の規模や 業 容からしても, 過去から現在まで の 延長線上に 微 分的に累積化した計画策定は, 250年はお ろか50年も展望すら 不可能であったろうといえよう。 それはまさに個人的で主 観的であったとは いえ, 使命感や目的性にしたがった展望であり計画であったといえよう。 そ の主 観の長期的な客 観 化の努力 こそが, 松下電器の経営の 成果であったとも いえる。 また計画機能に たいする特性のもう一面としているのは, 「客 観 化」 の側 面に関 連するといえよう。 これは 企業 観 と 理論 観にも関係する 問題でもあ る。 企業観として, 松下幸之助は いわば内部的 企業 観をも ち , 「好 不況 も 人 為なり」 と 喝破して,. 企業の 受身だけでなく環境への 創造的適応を強調す. る。 したがって 企業の自律的な客 観 化としての計画をもとめる。 また 「経営 学は教える ことはできるが経営は教える ことができない」 と強調する態度は, 経験的であり, 経営のカンや コ ツ を重視し「経営のコ ッ , こ こなりと気づい た価値は百万両」 と経営幹部の年頭方針に訓辞しかつみずからの書物の標題 にまでする。 理論だけ では実践に 限界があるというか, 「経験的研究」 の大 切 さを ねがい, あるいは在来の理論的研究でない実際の理論的研究をもとめ るというのであろう。 つ ねに環境の変化へ率 直, 素 直に対応する姿勢, いう -141 (505)-.
(24) なら計画の弾力的な 修正 を こ そ 必要とし, 100形正確な計画は存在せずむし ろ60彩計画を起点とし謙虚に修正 し, 100彩計画の 策定と達成に努力する こ とを 肝要にしている。 こう した企業の計画にたいする 「主 観性」 いうなら理念的, 哲学的, ある いは価値 観や目的 観の強調と, 「客 観化」 にかんする自律的な 企業 観 , 経験 的な理論 観は, これまでみてきた チェンバレンの理解とかなり軌を 一にする と ころが大である。 こうした理解の共通性をまず基本的にふまえたうえで, チ ェンバレンの議論の展開に そ っ てさらに検討をすすめてみよう。 チェンバレンが基調とするシステムズ ・ ア プロ ー チは, 企業の組織として 松下電器の場合に 具体的にはいわ ゆる事業部制として 制度化さてれていると いえよう。 企業を構 成する50余の各事業部は独自の製品群を 分担して自主 責 任経営を担当しながら相互の業績の達成に影響しあい, かつ 企業全体として ての松下電器の目標達成に貢献すべく 努力 している。 このとき 「目的と制御の集中」 にかんしては如何であろうか。 す で に ふれ も したように目的の集中という関 連においては, 理念的 統合性に特徴をもっ ており, かなり思想的, 哲学的であるが, むしろ そのため個 々 の具体的な戦 略決定や計画策定は共通性, 普逼性をもつ前提として, 価値的一貫性を もつ 戦略 セット. (Strategy Set) の役割をはたしえるものといいえよう。 また制. 御の集中に関 連しては, 組織的に事業部制はむしろ 分散化, 分権化されて遠 心力が作用する傾向にたい して, 制度的, 機能的に十分な求心力が作用する よう全社的に 統一化された経営方針にもとずいての事業計画, 予算管理など 一 連の経理システムのネ ット ワ ー ク をかなり 当初から 統一し運用の徹底をは かり, その経理技能を経営管理の略称として経営活動と表裏一体をなす側面 にして, 独立的, 集中的に運営, まさに 制御の効果をあげている。 だが このことは松下電器が 集権化された組織であるというわけではなく, むしろ徹底した組織的分権化をはかるために必然として対応しえるストロン グ ・ セ ン タ ー たる本社的, 全社的な目的と制御の集中化が肝要で ある ことを -142 (506 ) -.
(25) いうにすぎない。 したがって松下電器はいうなら組織的に 分権化の傾向をも った 企業であることは歴史的にもい いえることである。 それは創 業後間もな く 当時としては画期 的な事 業部制を導入し, それ以来, 時代と風土の 環境に 即応させながら組織的な改良を累積して き たった こ とからも いえる。 ただそ の 歴史的過程は計画策定をは じめ, ま さに「権限 の集中と 分散の 不規則な循 環」 であったと い いえよう。 もっともその 基本路線は, 松下幸之助の価値 観, 仕事 観 からかつ ねに 分権的な事 業部制を組織 の 基礎 に したも の であり, 時代と風土の 環境の 変化に適応して運営上で集権的な意思決定 の発動を, と く に危機 の局面 に 展開した機会は一再ならずあった ことは, すでに考 察した と ころである。 したが っ て組織的に 分権化された 企業である松下電器で「価値間 の 衝突」 が存在することは, 各事 業部間にお いて相互が取引 の「忌避権限」 をもって いる自主責任経営からすれば 当然に 惹起する ことである。 その ことは松下電 器全体 というか本社と各事 業部門レベルでも起こり得ること であろう。 ま た 企業対社会間 の問題としても, たとえば消費者運動との関係などでむしろ多 発して いく傾向さえある。 さらにチェンバレンも価値 の衝突としてま ず第一 にあげる, より根源的な問題, 組椴と個人の価値 の衝突も, 松下電器にお い て存在する ことは いう ま でもな い。 ま たチェンバレンが第二から第六 ま で主 要な価値の衝突としてあげる事柄も, 松下電器を例外としない であろう。 そ の いち いちにつ いて検討する紙数はこ こにないが, 松下電器というか松下幸 之助の 基本姿勢は, 「 これらの 衝突は, どんな 原則に よっても解決 で き な い」注38)という問題にたいして,. 企業活動の 本質 的な側面に つ い て「調和あ. る競争」 を強調する ご と く, ま さに「対立的存在の 並列」 ある いは「両立が 必然であることに見 出すの である」注39) つ ま り「経済 的対位法」 に よって解 決しようとする の である。 ただそ こに 「対立的存在の並列」 にとどま らず, 注—38) N. W. チ ェ ンバレン 前掲訳害 221 頁 222 頁 注—39) 同上. -143 ( 507 ) -.
(26) さらに止揚の場を求め ようとする姿努, たとえば 企業の使命感の具体的な表 現 と して 経営七精神を 表 明しているが, そのなかに 「産 業報国の精神」 や 「順応同化の 粘神」 をみるとき, 企 業の梢神的な風土づくりのなかに 「対立 的存在の調和」 をもとめようと している, すなわち それが 企業 の価値体系 (Value Set) であるといいえよ う 。 こうした 企業ない し 企業家の価値体系そして戦略 セ ッ ト を前提にした経営 計画の策定過程も, ただ技術的に 「時間的経路」 や 「予算的配分」 だけで は 成立し えない。 計画策定の成 分も 「報告システ ム」 い わば フ ィ. ー. ドバ ッ ク. ・. シ ステ ム を ビル ト イ ンすることによって完 成すると, チ ェンバ レ ン は強調す るが, 松下電器における 「計画」 の 概念そのものが 「100彩計画」 は存在し な い, むし ろその考え方は 有害無益な板念であるとして, 「60%計画」 を起 点に率直, 素 直に修正 し 「100彩計画」 の方向へ策定し 達成して いく 態度を も っ てい ることは, すでにふれたところである。 松下電器での経営計画は, つ ねに企 業の基本的理念, 方針とのかか わりにおい て チ ェ ッ ク され, 経営の 時代的, 風土的な環境変化とのかかわりにおいて フ ィ. ー. ド バ ッ ク され形 成 さ. れてい く 改良のたえ ざる過程であると もいいえる。 このこと はすでに のべた 「経験的理論銭」 というか, 経営の理論もまた計 画も唯一最善のい わば科学的なものはなく , 変化のなかに修正 さるべき 「経 験的研究」 の 問題であるとするのと共感をもつのである。 これは 企業の経営 お よ び 計画の 「主 観の 客観化」 という ことで すでに ふれたところでもある が, ま さに使命感, 目的性のある 自 律的な 企業観と, 時間的 ・ 場所的環境の 変化に適応 して合理的に修正 していく 理論観, これらに裏打ち された経営観 な いし松下幸之助の言葉によれば 「経営道」 が, これまでの松下電器の企業 システ ム の 成長 を さ さえているものといえよう。. -144 ( 508 ) -.
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