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<海外学界ニュース> 第二回エドワード・F・ギャラヒュー世界宗教会議に参加して

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海外学界ニュース

第二回エドワード.F・

ギャラヒュー

世界宗教会議に参加して

東西の交流が益食頻繁の度を加えて来るにつれて、これ迄他 の宗教的伝統と殆んど無関係に存続していた世界の諸宗教は、 いや応なしに相互の対話の場に立たされる場合が最近殊に多く なって来たようである。佛教やキリスト教のような世界宗教は、 これ迄にもかなりこの対話の機会をもつことが出来たと言える が、未だに未開拓の分野が広く、無知や偏見から巾来する対抗 意識がかなり根強く人心を支配し、宗教が世界平和を築く契機 となるよりは、むしろ対立・抗争の契機となっている場合が多 いのが現実の有様である。何故人類は宗教・宗派の差別の故に 争わねばならないのであるか。個人的な救済は社会的な救済と どの様な連がりをもつのであるか・宗教が人類の相互理解と平 和を培う上に果さねばならぬ役割はどの様なところにあるべき か。これらは現代の世界の人びとが等しく懐く根本的な問題で あるのみならず、今日迄の世界の宗教史は、これらの問いにさ 一

坂東性純

まざまな示唆を投げかけている。又、世界の諸宗教は社会の急速 な近代化・機械化・非人間化の危機に直面して、それぞれどの様 に対処しているであろうか。そして現在の世界の政治・経済而 における深刻な東西分裂の実情を、世界の諸宗教はどう見るか。 各喪の宗教が現在最も深刻に直面している問題は如何。これら の問も等しく世界の諸宗教に関心を懐くものの問である筈であ る。これらの諸問題を討議し、諸宗教の相互皿解を深め、促進す るための一つの試みとして、一九六四年十月二十七日から二十 九日迄の三日間、プリンストン神学校︵勺風ロ。の8口目︺①巳○唱。己 駅日冒画q︶に於て、第一回エドワード.F・ギャラヒューⅡ| 界宗教会議︵同島国己司.⑦畠四目。9貝のH⑦p8a三日匡 園の屋四○口の︶が開催された。この時の共通テーマは﹁聚合の現 象と偏見の進路﹂︵目冒国冒の国○日①]5口aoog6侭goの四昌 曹の9日いの旦酎の冒昌oの︶であり、主にアメリカの各大学で 宗教学の教鞭をとっている学者三十七名が参加したと言う。そ れから二年後の今年度の第二回同会議は同じくプリンストン神 学校に於て開催され、アメリカのみならず、世界各国で宗教学の 教鞭をとる学者・牧師・僧職等約六十名が参加した。代表され た諸宗教は、キリスト教︵プロテスタントとカトリックのみで、 ギリシャ正教は代表されなかった︶、佛教、儒教、インド教、ユ ダヤ教、イスラム教であった。期日は五月の四日から十一日迄 で、今回のテーマは﹁宗教の多様性と世界共同体﹂︵閃呂唱○匡砿 四目島切目P且弓○吋国9目冒口昌ご︶であった。第一回目には、 日本からの参加者はなかったが、今回は三名で、東京大学教 84

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授・中村元博士︾国際キリスト教大学教授・長︵武田︶清子女 史、それに筆者であった。殆んどアメリカ各地からの参加者に 限られた第一回目に比べ、第二回会議では、ヨーロッパ、アジ ア各地からも参加者が招請せられ、この会議もだんだん世界的 規模に拡大される傾向を示し、これは世界の諸宗教間の対話を 促進するこの会議本来の主旨から見ると、理想的な発展と見る ことができる。但し今回は、第一回目と同じ様に、所謂共産国 の圏内にいる宗教学者や宗教家の参加は見られなかった。 プリンストン神学校は、創立以来百五十年以上の伝統をもつ プレスビテリァン派の僧職養成の機関であるが、プリンストン 大学の敷地の一部を占めている割合小ぢんまりとして地味な学 園である。’三Iヨークから南へ自動車で一時間余りの距離に ある。プリンストン大学そのものも、一七四六年にプレスピテ リァン派の司祭達の小グループによって設立されたものである が、現在では文・理科系統を含む学生総数凡そ四千八百人の綜 合大学であり、シカゴ・加州・コロラド・エール等の大型大学 とはかなり趣きを異にする落着いた規模と雰囲気をもっている。 プリンストン神学校の現学長は、その名の示すごとく、スコッ トランド系のジェームズ・I・マツコード︵云冒。閏・罠8○巳︶ 氏で、櫛て鈴木大拙先生を招請して、佛教哲学の講義を依嘱し たのもこの方である。この様にこ上の学風は厳格なキリスト教 の伝統に根ざしながらも、一面寛容で自由な進歩性に富んでい ることを特色とし、狂信性はみられず、かkる性格の会議の開 かれる場所としては最適であると言うことが出来る。 会談の運営には、イスラム学のエドワード。J・ジャージィ ︵同号司曾邑︺・旨昌︶教授が当り、事務局の直接運営は学長補佐 のジェームズ.E・アンドルース︵宕昌の鹸同.皆昌愚夕﹃い︶氏が 管掌していた。 この会議開催に当り諸経費一切を支弁したのはエドワード. F・ギャラヒュー︵両Q言いa句.⑦畠騨冒の︶氏であり、現在は隠退 した元保険会社を長で世界宗教の諸問題には深い理解と関心を 持ち、会期中は夫人と共に毎日会場に姿を見せ、会議中の凡て の集会に参加するなど、その熱心な様子が見られた。開会に先 立って全参加者に配布された同氏の挨拶状の中には、目。旨go﹄ 餌○・匠損.艮巨呂等の学者の世界宗教の相互理解に関する発言 に賛意を表し、﹁世界の諸宗教は今や対話に入り、相互に協力 し合うよう努めるべき時期が到来した。各宗教は多様性の中な る統一という方針︵四℃昌昌旦口昌噂冒昌昇司負隆ご︶の下に各 ヴアイ〆リテイ 自の活力を保持すべきであると考える。⋮⋮若し世界の諸宗 教が協力して結集された力が放出されるならば、それは歴史の 進路を変え得るであろう﹂と所信を披睡している。この挨拶は 現在の無神論的唯物思想の強力な世界制覇の風汐に対し、各宗 教は内部的な、或いは相互の間の無知と不信から由来する抗争 を転じて、この人類の信仰的価値の共同の敵に一致協力対処す る必要があることを強調している。 一一 吋﹁︶ 五月の四日から十一日迄の会期の間、真中の土曜・日曜に当8

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る七日と八日は休会日であり、七日には参加者の中、希望者の みバスで終日一三−ヨーク見物に出掛けた。筆者も一言Iヨー クは始めてのことでもあるので、これに参加したがエンパイア・ ステート・ビル、国辿、アート・ギャラリーの見学、遊覧船に よるマン︿シタン巡りなどが含まれていた。会議参加者の中に は、祁厚い担当・ヘー・︿−を読む為、或いは他の用事でプリンス トンに留まった人もかなりあった。よって会議は、五月四・五・ 六日の前半と、五月九・十・十一日の後半に分けられ、毎日午 前・午後に一人ずつ発表者が.ヘーパーを読み、それを巡って熱 心な討論が続けられた。会議は何れも外部の人灸に対しては公 附されず、招請された参加者のみによる討論に限られたが、第 一日目の夕刻は、この会議を記念して公開講恢会が開かれ、会 場たる大学の中央識堂は満員の盛況であった。講師はマサチュ ーセッッエ業大学︵冨儲箇巳︺ロm①ヰの冒呂目扁旦日の目目○]○閏︶ 教授のヒューストン・スミス︵国ロ降○己普︺己︺︶氏で、講題は 今回の会談のテーマと同一の﹁宗教の多様性と世界共同体﹂で あった。スミス教授は数年前来日した折には、京都妙心寺で坐 禅を組むなど、大乗佛教.わけても禅には深い関心をもち、初日 の夕方の公開講演も聴衆に深い感銘を与えた。殊にその中で教 授が膜黄使われた︽︽岸①貝。冒冒昌己︾︶︵平和を培う潜在勢力︶ という言葉は、それ以後会議の全参加者の好んで用いる共通語 となった程である。確かにスミス教授のこの夕刻の講演は、教 授の人柄の水を打った様な静けさと並んで、非常に示唆に富み、 味わい深いもので、要旨は凡そ次の如くであった。﹁この会議 は恰も国連の宗教版と言えよう。歴史的に見ると、宗教の違い は政治的な相違を和らげるのに役立つどころか、むしろ強める 役割を果して来たようである。この事の証左を求めるのには、 何も十字軍や宗教戦争の数々の例に遡るまでもない。インド教 とイスラム教の仲が良ければ、。︿キスタンはインドと別れて いなければならぬ必要があるだろうか。現在アラブ阯界の総人 口は百三十万であるが、若しユダヤ教がイスラム教と全く別簡 の歴史的に特別な社会であるなどということがなければ、今日 ジョルダンに六十万人の避雌民が存在するなどという蜥態が存 在しうるであろうか。﹁おl、神の愛のもとにありながら、わ れらは互に何と憎しみ合っていることか/、﹂という一二Iマン 枢機卿の言葉はまだ我禽の耳朶に響いている。この会縦の基本 的な問題は明らかである。それは、﹁われわれは如何にして宗 教の相違が政治的抗争を悪化せしめることを防ぐことが出来る か﹂ということである。そして﹁宗教は私の言う平和的な淋在 勢力をもちうるか﹂ということである。現在世界を脅かしてい るのは政治的宗教lそれが擬似宗教とか似而非宗教とか呼ば れるにせよIであるが、これは、人間の集団的勢力を崇拝し、 それが民族的な型をとるにせよ、国際的な型をとるにせよ、無 視し得ぬ存在である。それらは、平和的な潜在勢力が零である ことを特色とし、宗教的情熱を以て政治的抗争を強化せしめよ うとする。それに対し、す謡へての高次の宗教は平和的な淋在勢 力をもっている。問題は、それをどの様に増進するかと言う一﹂ とである。その為の提案として、私は次の三項目を提出する。 86

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日それを政治的紛争に関聯づける際に十分注意が必要であると いうこと。㈲諸宗教の和解・統合の精神を強めること。匂諸宗 教の理想に対する確信を強化すること。ある教授は諸宗教の歩 み寄りの最良の方便として、科学万能主義︵印g①]昼め日︶・マル キシズム︵三pHx蔚冒︶・’一ヒリズム︵昌三冒目︶の三つの共同の 敵に向うことを唱道するが、これは注意を要する。マルキシズ ムが大文字で始まっているのには訳がある。マルキシズムには、 社会正義への関心、生命に対する肉体的基盤の重要性の理解、 人間の自己疎外の解決、階級なき社会の理想等があり、これら は一概に排さる↓へきではなく、むしろその宗教の超越性と内面 性への無理解に対してこそ批判が向けられる。へきである。ゼー ナー教授︵国。儲膀○H閃.の.§の冒閂︶も言われる通り、実は マルキシズムもキリスト教も人間や国家や個人的信仰を超えた 力を肯定する点では一つなのである。どの宗教にも橘をかける に用いられうる要素と、濠を掘るのに用いられうる要素とがあ るが、前者こそ平和的淋在勢力の強化を助ける道である。各宗 教の用いる象徴の差異は必ずしもそれらが折り合わぬことを示 、、 すものではない。それらの象徴の意味は象徴それ自体よりもか なり似かよっていることもありうることに注意せねばならぬ・ サミュエル・トウズ教授︵勺Ho詩朋○H留日ロ里目○号叩︶の言う ごとく、人生の個友の苦難l貧窮ゞ病気・苦痛・苦役等l を除くのが宗教の役割りではない・それは技術の役目である。 技術が与え得ぬものは積極的なものである。技術は困難を除く が、幸福、完成を与えることはできない・永遠なる生命は与え られるものでは決してなく、達成さるゞへきものである。宗教は 何時も,もう一つの世界の知らせを費すが、それは既成品の世界 ではない。それは各人が自ら造り出す世界である。ルヅターも 言ったように、人は自己の死を死なねばならぬように、自己の 信を信じなければならない。信仰のもつ平和的潜在勢力は、技 術などとは違った次元のはっきりした役目を確信することによ って増進せしめうるのである。﹂ 因みに、このスミス教授の公開講演は、始め予定せられてい たポール・ティリッヒ博士︵己H勺四巳目冒呂︶が急逝せられ たので、特にスミス教授が招かれるに至ったということである が、何れにしても、佛教に多大の関心を寄せる人びとが、この 様な役割りに選ばれるという風汐には甚だ興味深いものがある㈲ 一一一 全会期中を通じて合計十二名の代表からの発表が行われたが、 そのプログラムは次の如くであった。 第一日︵五月四日︶ ﹁時と歴史の新しい自覚﹂S・G.F・ブランドン ﹁宗教の多様性と世界的集団に対する中国の歴史的貢献﹂ ウィングツィット・チャン 第二日︵五月五日︶ ﹁方法論と宗教学﹂C・J・ブリーカー ﹁人類愛のユダヤ的視角﹂ルイス・フィンケルシュタイン 第三日︵五月六日︶ 0 句 ・ ノ

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|伽神学の状況﹂ロブリー・エドワード・ホィヅトソン ﹁歴史的過程へのイスラムの参加﹂A・H・アブデル・カ ーデル 第四日︵五月九日︶ ﹁インド教及び佛教の法の概念﹂中村元 ﹁佛教の縁起観と世界一如の思想﹂カラティッサ・ナンダ・ ジャヤティレケ 第五日︵五月十日︶ ﹁現代世界におけるイスラム﹂アンマリー・シンメル ﹁宗教と人口問題﹂H・C・ガングリ 第六日︵五月十一日︶ ﹁イスラムに対する現代の衝撃﹂ファズルール・ラーマン ﹁歴史・歴史的意識と自由﹂サッチッダーナンダ・ムルティ この会議の特色の一つは、一人の発表者に対して二名乃至三 名の8日目①日鼻○昂︵論評者︶が先づ夫筈の代表する宗教的 背景からの批判を行ない、次に一般参加者の自由な発言に傾聴 し、これらを巡って、時間の許す限り活溌な討論が行われたが、 発表者と正式の論評者の組み合わせが、大体に於て、違った宗 教的伝統の間に組まれていたことである。例えば、ドイツのボ ン大学教授で、イスラムの研究家であり、信者でもあるアンマ リー・シンメル博士︵女史︶のイスラムに関するべI.︿Iを、 カトリック神父のホィットソン師や佛教徒の筆者が論評を加え るようになっていたり、ユダヤ教局号亘のフィンケルシュタ イン師の。ヘーパーを、カトリック神父の↑、︿Iナード・クック師 や、インド教徒の人口問題の学者であるH・C・ガングリ教授 が論評することになっていた。従ってこの新しい試みは、専門 家同志が専門語で門外漢には解らぬ議論に花を咲かせることを、 かなり防止するに役立つと共に、第三者としての公平な、どち らかと言えば客観的な見地から、冷静に特定の宗教の直面して いる諸問題を観る機会を提供することになり、実際これ迄にな い興味ある斬新な議論を生み出す貴重な契機となっていたこと は否めない事実である。 同種の他の会議に於ても屡證問題になることであるが、哲学 と神学、学者と宗教家の立論の立場の相異が顕著であり、又、 時にはかなり極端に主観的色彩の濃厚な発表も見られた。殊に ユダヤ教のフィンケルシュタイン師の発言の後の質疑応答は禅 問答の趣きがあり、唯一人のユダヤ教を代表する発言であった 所為もあり、ユダヤ教、キリスト教の現時点に於ける関連をも っと知り度いと思う筆者には、かなり物足りなく思われ、一層 突込んだ議論が展開されずに終ったのは遺憾であった。イスラ ムの発表者は、殊に歴史的に対ユダヤ、対キリスト教との抗争 を意識せずには発言出来ぬものと見え、従来一般に考えられて いる戦闘的な教義は、寧ろ人間の内にひそむ悪との道徳的、心 理的な闘いが本義である旨を、かなり護教的に説く人が多くあ った。佛教に対する関心は、何と言ってもキリスト教の新・旧 両派の伝統を負う人交の間に多く、セイロンのジャヤティレケ 博士ですらも、当然のことながら、その︲へI。︿lには多くの大 乗の経論を引用し、普遍性という見地からは、大乗佛教の菩薩 88

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の誓願に着目し、期待する点では出席者の間では異論はなかっ た。ユダヤ・イスラム世界の人々の間では、佛教よりもキリス ト教に関心を懐く人が多いのは、歴史上当然と考えられるが、 これは又佛教がキリスト教以外の宗教に余り関心を払わぬのと 軌を一にしているかに思われた。 東京大学の中村教授の部厚い六十頁に垂んとする.へ−・︿Iを 巡って︲も活溌な議論が展開され、︿イン教授が、﹁佛教は哲学 の問題に終始するよりも、今後は社会現象の批判に力を注ぐの が課題とされねばならないであろう﹂と述雫へたのに対し、ホィ ットソン神父は、﹁形而上学的な問題の勘考は、佛教にとり拒 否されたと見るゞへきではなく、むしろ常に名①冒な問題である と考えられぬであろうか﹂と反省を促がす一幕も見られた。又 ある発言者は﹁法の考え方に於ては開祖のそれと、後世の哲学 者や信者のそれとはっきり区別してか出る必要があるのではな いか﹂と問い、又、ジャージィ教授は、﹁むしろ学者と信者の 考え方の違いをはっきりさせることが必要である﹂と述べた。 そしてこれを補足して更に、豆リートと一般大衆の考え方を はっきりさせ、その中のどちらが基本的に佛教の考え方と認む くきかが問題である﹂と発言した。その他、キリスト教やイス ラム教等の他宗教の場合と異なり、佛教伝道の職種的な活動が 何故為されぬのであるか、という問いやら、神の人格性と法の 超人格性の問題等も提起された。殊に﹁法﹂の問題に関する質 問に袴え、中村教授は、﹁原語の問題は兎も角として、同一の 法の概念がどの様な言葉に翻訳されて、どの様な受けとり方が 為されて来たかの比較はかなり亜要で、東西の間のそれは元よ り、歴史的にも為されるならば、ローコスやダルマ等のもつ共通 の地轆がかなりはっきりして来る﹂と解稗された。中国思想や 佛教思想の二人の﹁陳﹂教授の発言により儒教・道教はこれら 二人の中国人学者により代表された形になったが、﹁法﹂、冑 ゴス﹂、﹁道﹂の比較論も活溌に行われた。対話という観点に立 つ時、これは必然的に他の宗教間l例えばイスラム教とキリ スト教lのそれも勿論であるが、比較的に佛教とキリスト教 の間の対話がどうしても中心になりがちであったのは、過去の 深刻な抗争の歴史を欠いていることは無論のこと、両者とも世 界の二大宗教としてのこれ迄の普遍的な世界文化に対する広汎 な影響の故であると思われる。 世界の諸宗教は、現代の酒をたる非人間化・世俗化・機械化 の風汐の暴流の中に立たされている。しかし、歴史的に発達の 事情を異にする限り、各宗教はその独自の悩みに施而しなけれ ばならぬことは、個人や国家の場合と同様である。この会議に 参加して感じた問鼬点は多々あるが、その一端を記せば、左の ごとくである。 問題のとり上げ方の基本的な姿勢の相違に関しては、この会 議でも矢張り終始明らかに看取された。それはさきにもふれた ように、理性・原則の立場に立つ哲学的考え方と、信仰・実践 の立場に立つ神学的思考の喰い違いの問題である。一方は常に 四 89

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トヅプ・しゞヘルにのみ係わり、他方は常に理性と感性のもつれ の解消しきれぬ大衆のあり方に重きを置く。これは古今・東西 いかなる分野においても、人間に機の差別ある限り続く永遠の 課題であるようである。従って常に相互の対立の克服が要請さ れている問題である。この会議では、純粋に学的研究に携わっ ている哲学者と、常に大衆と接触を保っている牧師・神父等の 聖職者の双方の色合いを混合し、その間に何らかの建設的な成 果の生れることを期待したことが、その参加者の人選からも伺 われた。又、この秘かな願いは、プリンストン神学校の会識当 局者のこの会議開催の主旨に関する発言や、腹とトインビーや ティリッヒ等の思想が会議で引合いに出された事実の中にもよ く表われていた。また多数の異なった宗教的伝統間の話し合い は、哲学者と神学者の間の話し合いと同様に、ともすれば平行 線を辿りがちであるが、その間に何らかの対話の緒口を見出す ために、対話者が相互不信とか、過去の捉われから自由になっ ていなければそれは不可能である。しかし、この捉われからの 自由は、過去の歴史の無視であってはならず、宗教裁判や宗教 戦争等の歴史的事実をもよく認識した上で、尚且つそれらを超 えているという姿勢が要請される。会議の席上、イスラム教徒 とキリスト教徒の間の議論で、危うく感情暴発の一歩手前と感 じられる迄に緊迫した時もあり、この﹁過去の捉われからの解 放﹂が、当事者間にあっては、いかに至難のわざであるかが痛 感された。 この会議が最近漸く活溌化して来た世界の諸宗教の対話・エ キュメヵル運動の過程の一端としての役割りを帯びていること は疑いを容れぬ事実である。この諸宗教聚合への動きは各黄の 宗教の特色を消滅することを通してでなしに、すべての諸宗教 の独自性が目に見えぬ世界宗教共同体への荘厳としての意義を 担っている、という自覚の下に進められることが強く望まれる。 主催者の指摘した﹁多様性の中なる統こ︵シ宅呂昌且口昌ご 旨昌ぐのH巴ご︶とは、実にこのことを簡明に標梯したものと見 るべきであろう。 ユダヤ教の祇諭のとき大抵問題になることはその独特な選民 思想である。ユダヤ民族こそは神により選ばれたものとして、 その特殊な催越性を説くものと言われているが、一体ユダヤ教 を信奉する現代の同教徒はこの教義をどのように受けとってい るのであろうか。この疑問に対し新しい祝点を提供したのは、 ガングリ教授のこの点の単刀肛入な質問に答えてフィンケルシ ュタイン師が述べた次の言葉である。﹁よくユダヤ教の選民思 想が万人平等を説くべき宗教として、普遍的同朋愛︵巨昌ぐのHの己 胃○岳①旨○○eの理想とどう調和されるのかという︸﹂とが問題 となるが、ユダヤ教で言う﹁選ばれた民﹂とは、すべての人、 一人一人が神により選ばれたものという意識をもつよう促がし ている言葉なのである。これは本来自覚的な表現なのであって、 他民族との比較対照上のことではない・我々一人一人には、こ の真の意義を自覚する仕事が残っているだけである。﹂これは さきのトップ・し。ヘルの見解に留るものか、或いは従来そうで なかったものが現在は大多数のユダヤ教徒の一般的な自覚とな )0

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っているのかは、確言しなかったが、かkる解釈の内祁的存在 を知ったのは始めてであっただけに興味深く思われた。 又、イスラムの有名な﹁聖戦﹂︵言]且︶の意義も、ボン大学 のアンマリー・シンメル教授により、本来は異教徒に対抗する ものではなく、内外を問わず、人間の心の内に耐る悪の要素・ 偶像崇拝・神秘主義に対する戦闘であって、その意味するとこ ろはかなり広義なものである、と説明された。イスラムには他 に一夫多妻の問題・婦人の解放の問題・集団礼拝・断食の慣習 と現代の社会生活との調和適応の問題等、他宗教に見られぬ多 くの現代の問題があるようである。佛教で言う方便法身の欠如、 創造神・処罰の神・正義の神の性格等はユダヤ・キリスト教等 と共通の原則であり、これらの特殊性がくり返し強調されはし たが、イスラムの特殊性の多様さと、その強調こそが、却って 教えの普遍性を拒み、その伝播の地域を限定している様に思わ れる。 以上ざっと概観した如く、この会議においては、全く佛教と は伝統・歴史を異にした諸宗教の代表的街学者・神学者等から、 夫藍の宗教が現在直面している諸問題とそのありかを知らされ、 啓発されるところ多大なるものがあった。 個灸の.へ−・︿−の含む多岐に亘る問題と、それらへの反響の 詳細は許された紙数の範囲を超えることてもあるので、最終 日の締め括りの発言をしたくIバード大学の世界宗教センター 五 倉①貝①︺︲三三日匡園昌侭旨]︺い︶所長・ウィルフレッド・カント ウェル・ス、、、スつ国斤旦の25一色聾昌菩︶教授の述ゞへた肝要 な、印象深い諸点を記すことにしたい。﹁この会議でどこが拠 るかつ三]日の芝①e範①儲︶をはっきり認識することに失敗した とするならば、全くの失敗である。何よりもわれわれは相異点 をはっきりさせなくてはなら皿。それが実は平和的共存への道 なのだ。又、対話に到るには信頼が不可欠の条件である。そし てわれわれは、相手に理解して貰う姿勢よりは、相手を理解す るという積極的な姿勢が大切である。若しわれわれが、違った 立場にいて同一の共通点を目ざそうというのならば、われわれ 、、 は出発点から間違っている。一致点を予想するのは魁かなこと である。実は一致点があるかどうかは未知なのである。この会 議でわれわれは理想通り研り合えなかったし、又、解明の余地 は十二分に残されている。たNこの種の会談では、何を目ざす べきかが何よりも重要である。どれ位理解し合えたか、ではな く、どれ位理解しえなかったかをはっきり認めることが、この 会議の成功であったか、失敗であったかの尺度である。世界の 宗教共同体は、われわれ各宗教の相互の行動如何で、どうある かが決まるのであって、予め宗教の性格によって決定せられて いるのではない。それは、今後われわれが、如何に選び、決め、 成功し、失敗するかが決定するであろう。キリスト教の将来は、 佛教や回教が将来何をするかにかkっているし、それらが優越 感を基本にするか、敵意を基本にするかにも大いに係わってい る。われわれの子孫の福祉は、他の民族や宗教が、今後どうい 〕1

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う 態 度 を と る か に 係 っ て い る 。 こ の 会 議 で 、 こ れ か ら 先 更 に 密 接 に 取 り 組 む べ き 相 手 と よ り 規 し く な っ た の は 事 実 で あ る 。 」 こ の 様 に 、 会 議 の 直 後 こ の 会 議 の 成 功 ・ 失 敗 を 直 ち に 云 々 せ ず 、 む し ろ 根 本 的 な 問 題 点 を 大

M

に 指 摘 し 、 成 果 を 今 後 に 俟 っ と い う 態 度 を 表 明 し た ス ミ ス 教 授 の 発 言 は 、 参 加 者 に 多 大 の 感 銘 を 与 え た 。 こ れ を 受 け て 佛 教 を 代 表 し て セ イ ロ ン の ジ ・ ヤ テ ィ レ ケ 教

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が 立 ち 、 「 今 迄 我 々 は 余 り に も 相 異 点 の み を 永 く 語 り 合 っ て き た き ら い が あ る 。 こ れ か ら は 共 通 点 の 語 り 合 い の 時 た る べ き で あ る 。 こ の 様 に 異 な る 宗 教 が 共 に 会 し て 語 り 合 う こ と が 今 後 も 益 を 必 要 で あ る こ と を 、 改 め て 知 ら さ れ た こ と は 何 よ り も の 収 穫 で あ る 」 と 述 べ 、 又 、 ガ ン グ リ 教 按 が イ ン ド 教 を 、 ラ — マ ン 教 授 が イ ス ラ ム 教 を 代 表 し て 、 同 様 な 趣 旨 の 発 言 を さ れ た 。 最 後 に マ ” コ — ド • プ リ ン ス ト ン 神 学 校 々 長 が 、 「 こ の 会 議 は 、 ほ ん の 序 曲 ( p r e l u d e o r

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に す ぎ な い 。 し か し 希 望 に 満 ち た 出 発 で あ る こ と を 確 認 出 来 た こ と は 何 よ り も 喜 ば し い 」 と 述 ・ へ 、 一 週 間 に 亘 る 会 議 は 意 義 深 く 幕 を 閉 ぢ た こ と で あ る 。 92

参照

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