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〈論文〉戦後のブルトン思想と「上昇記号」:シュルレアリスムにおける直観的モラル

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[抄録]  本論では二つの観点から「上昇記号」の読解を試みた。前半では、版によって異なる引 用の役割と効果を分析した。書籍に共通する引用の配置によって、読者は本文の例や注釈 として引用を捉えるのに対して、初出の『ネオン』誌における恣意的に配置された引用群 は、オブジェや挿絵としての視覚的効果を生む。さらに読むという運動に伴って、これら の引用は相互に作用し、古代から現代まで続くアナロジーの世界を生成する。本論後半で はこの作品と同時期に行われた対談や他の作品との関係を再検討し、「上昇記号」が戦後 のブルトン思想の関心(倫理、神話、社会変革、神秘主義、フーリエなど)を集約する、 戦後におけるモラルの「表われ=マニフェスト」であることを示した。 はじめに:「上昇記号 Signe ascendant」という象徴  第二次大戦後、ブルトンはなぜ詩論を刷新する必要を感じたのだろうか。文末に 1947 年 12 月と記された「上昇記号」というテキストは、翌年の 1 月、雑誌『ネオン』の第 1 号において公表された。短い文章であるにも関わらず、このテキストについてはいくつか の重要な先行研究がある。プレイヤード版編集者エティエンヌ=アラン・ユベールも指摘 するように、その代表的なものがジャン=ルイ・ウドゥビーヌとミシェル・ドゥギーの論 考である(OCIII, 1376)。ウドゥビーヌは、作品におけるフロイト・マルクス・ヘーゲル の影響を見出し、テキストを神秘主義的言説、現在の状況、そして詩と芸術という三つの カテゴリーに分けたうえで、あらゆる表現を「高/低」という二項に分類するという構造 主義的方法を用いて分析している1)。一方、ドゥギーはブルトンの詩「脊椎のスフィンク ス」(1932)の読解を試みるために、「上昇記号」におけるアナロジー論を分析する必要が あると考えた。アナロジーの語源から「上昇するロゴス le de l 」という概念を導 きつつ、ドゥギーはブルトン思想における高みへの上昇という主題を超越性や形而上学的 傾向と結びつけた2)。プレイヤード全集の編集者ユベールは、むしろこうした解釈を警戒 しているかもしれない。というのも、彼は「上昇記号」においてブルトンが神秘思想と詩 を区別していることを強調しており、高みが形而上学的な超越性でも伝統的「崇高」でも なく、むしろ生や幸福感の領域だと指摘しているからである(OCIII, pp.1376-1377)。

有馬 麻理亜

シュルレアリスムにおける直観的モラル

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 ドゥギーの分析を裏付けるように、たしかにブルトンの作品には、高所がしばしば特別 な場所として描かれている。例えば『狂気の愛』(1937)では、彼が目指すあらゆるもの が存在する「崇高点」は現実に存在する山頂でもあった(OCII, 780)。一方『秘法十七』 (1944 年、再版 1947 年)では、ロシェ・ペルセの頂に人間の生を集約する「人間の家」が あるとされている(OCIII, 41)。このような高所=理想といったイメージは、理想へ向 かって上昇する「上昇記号」のイメージを強固なものとする。他方、アンリ・ベアールに よる『アンドレ・ブルトン伝』には、「上昇記号」と名づけられた一章がある3)。これは 「上昇記号」という題そのものが何らかの象徴的役割を担っていることを暗に示している。 なお全集においても指摘されているが、signe ascendant という語には占星術におけるアセ ンダントという意味もある(Cf. OC1376)。  以上のような状況を踏まえても、「上昇記号」にはまだ議論すべき問題があると思われ る。例えば冒頭で挙げたように、なぜブルトンは戦後になってこの詩論を発表することと なったのか。彼はまた、このテキストで「倫理的要請」という語を用いつつ、初めて詩と モラルの関係を論じている。このことは戦争を通じてブルトンの思想が変化したことを示 していないだろうか。他方で、先行研究が取り上げていない問題もある。初出の『ネオ ン』誌とそれ以降の版においては、引用の配置方法が大きく異なっている。ブルトンは当 初いかなる構想のもと「上昇記号」を執筆したのだろうか。  そこで本論では、「上昇記号」における分析をこれらの2つの視点から試みたい。前半 においては、この作品の内容を概観しつつ、一般に流布する版における本文と引用の関係 を検討する。そのうえで初出の『ネオン』誌における引用効果と比較し、このテキストを 発表した当初の構想を明らかにしたい。後半では、この作品と同じ時期に行われたブルト ンの数々の対談や、戦後に執筆されたテキストを参照しつつ、「上昇記号」を執筆する原 動力がいかなる思想から生まれたのかを考察する。 I.複数の解釈を生みだす引用  すでに指摘したように、この作品の特異な点は、発表媒体によって引用の有無や配置が 異なっていることだ。私たちが一般に目にする「上昇記号」は、サジテール社から出版さ れた『野の鍵 』(1953)の中に収録されたものが元となっている。ガリ マール社から出版されている詩集『上昇記号』(1968)、及び同出版社によるプレイヤード 全集も同じテキストである(以下便宜上ガリマール社版と呼ぶ)。これらの版では、タイ トルのすぐ下にカバラの聖典『ゾーハル』の引用があり、5グループに分割された9つの 引用が各段落間に挿入されている。しかし、初出の『ネオン』誌においてはエピグラフは 存在せず、10 の引用が5つのブロックに配分され、縦横が混じった形でテキストの外部と

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内部に挿入されている。また本文、引用ともに手書の複写であり、特に引用のブロックは 黒い背景に白字で記入されており、あたかも本文に付箋紙を貼付けたような概観を呈して いる。他方、『野の鍵』に収録される以前、マルク・エーゲルダンジェが編集した『アン ドレ・ブルトン―詩論と証言』(1950)にも「上昇記号」は収録されているが、この版 には引用が一つも付されていない4)。つまり3種類の「上昇記号」が存在するのである。 そこで、まずはガリマール社版における引用と本文の関係を分析し、次にブルトンの最初 の構想を示す、『ネオン』誌における引用の役割と比較する5) I-1.ガリマール社版による「上昇記号」 ① エピグラフ  まずはタイトルのすぐ下に配置されている『ゾーハル』の引用文を見てみよう。この引 用は配置場所からエピグラフとして考えることができる。

   Le désir qu épreuve la femelle pour le mâle ressemble aux nuées qui s élèvent d abord de la terre vers le ciel, et, après avoir formé les nuages, c est le ciel qui arrose la terre.    女が男に対して感じる欲望は厚く重なった雲に似ている。それはまず大地から空へと 上昇し、個々の雲を形作った後で、今度は空が大地を潤すのだ。 ユベールによれば、この引用はドゥニ・ソーラ著『文学とオカルティズム』(1929)からの 孫引きである。実は、ブルトンは引用する際に文章を変えていた。異なる部分について原 文に下線を付す6)

   Aussi l Écriture ajoute-t-il après : « Et une nuée s élevait de la terre qui en arrosait toute la surface. » C est le désir qu épreuve la femelle pour le mâle ; les nuées s élèvent d abord de la terre vers le ciel [...] .

   また、聖典はすぐさまこのように付け加えている。「そして一つの雲地上から登って きて、大地の全表面を潤した。」これは女が男に対して抱く欲望である。雲はまず大 地から登ってきて〔…〕。 ユベールは改変の理由として、ブルトンが聖典 Écriture という語を意図的に排除した可能 性を挙げている(OCIII, 1377)。しかし、二つの文を比べると、前者が説明的・物語的性 質を有する一方で、ブルトンは「似ている ressembler」という動詞を用い、雲と欲望とい

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う語を直喩 comparaison でもって素早く0 0 0繋いでいることが分かる。後で紹介するが、これ は直喩と隠喩に関わるブルトンの詩的イメージ論と呼応しており、ブルトンの詩的実践と して解釈することもできる。いずれにせよ、エピグラフとして解釈できるこの引用は、タ イトルである「上昇記号」と呼応して、読者に上昇のイメージを強く与える。補足してお くと、この部分はアダムとイヴに代表される、男女の性愛に関する章の一部である。スー ラによれば、ブルトンが引用した文は、男女の「聖なる接近 saint rapprochement」、すな わち下界(人間世界)と上界(神)をモデルとするコレスポンダンス(万物照応)の法則 を説明した部分である7)。この「接近」という語もまた、第五段落で展開する詩的イメー ジ論の中心となる言葉である。 ② 文明批判  エピグラフに続く第1段落は、アナロジーと論理的思弁(例として「ゆえに donc」が挙 げられる)が対照的に論じられている部分である。ブルトンによれば、アナロジーとは合 理的思考では想定できない事物の結びつきである。原始の人間は、アナロジーによって結 びつけられる自然現象と人間存在で構成される宇宙観を持っていた。しかし現代では、何 らかのアナロジーが生まれる一瞬のみにおいて、そのような世界との交流を得ることがで きるとブルトンは考えている。この段落後に二つの引用が配置されている。「ダイアモン ドと豚とは、文明人がもはや感じることのない 13 番目の情念(調和)を示す象形文字で ある」というフーリエの引用は、まさに合理主義的思考に支配される文明人を皮肉るもの である。一方、シャザルの引用(「白眼のベッドの上で、虹彩は瞳孔のマットレスのスプ リングだ。そこでは、われわれ自身の幽霊が夢見ながら横たわっている」)は、「幽霊」と 「スプリング」という言葉でもって、もはやそうではない原始の人間の姿を見る、あるいは 映し出す眼球のイメージを喚起させている8) ③ 詩的アナロジーと神秘的アナロジーの対比  第2段落では、詩的アナロジーと神秘的アナロジーにおける共通点と相違点が紹介され る。両者の共通点は、演繹法や帰納法的などいった論理性を無視して、人間の精神に異 なった二つの現実を瞬時に捉えさせることであり、両者の決定的な違いは、神秘的アナロ ジーがあらかじめ何らかの観念的世界を前提とし、読者に「形而上学的夢想」からその意 味を理解させようとするのに対して、詩的アナロジーは人間の官能や感覚に訴えかけるこ とで、現時点では眼には見えないが存在する世界0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0(ブルトンは「不在である『真の生』」 [ランボーの言葉]を用いている)を垣間見せることにある。よって神秘的アナロジーが 超自然主義に陥らせる一方で、人間の感性に基づく詩的アナロジーはその経験性によって

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現実から完全に乖離することがない。さらにブルトンは「自分が獲得したものを何らかの 『彼岸』の栄光に変える」という表現を用いつつ、死後や世界の終末における救済を暗示 する既存の宗教(とくにキリスト教)に対して暗に批判している。この段落後に配置され ているのが、ピエール・ルヴェルディの詩の一部と「第三の魂のことば エジプト」(『死 者の書』)における謎めいた文である。  ルヴェルディの引用「夢はハムである/ずっしりと/天井にぶら下がる」は、ハムの重 みと「天井」という語によって、私たちの経験的感覚と夢想の世界が瞬時に結合する。そ れと対照的に、古代エジプトのことば(「わたしはハイタカとしてやって来て、フェニック スとして飛び立つ」)は、むしろルヴェルディの詩とは対照的に、観念的な世界観に基づ く神秘的アナロジーの例として読むことができるかもしれない。しかし、この文は本来神 話の領域にある。神話によると、死者はホルス神の鳥であるハイタカとなって冥界をくぐ り抜け、最終的にオシリスの鳥であるベヌウ(フェニックス)と変身する。つまりこの文 は「再生・復活」の象徴である9)。「再生・復活」という主題は『秘教十七』においても論 じられているので、この問題は本論の後半部で再度取り上げたい。 ④ 隠喩 métaphore と直喩 comparaison の役割  第3段落以降、詩的アナロジーを構成する文彩としての比喩が問題となる。ブルトンは 隠喩と直喩の間に形式的な区別をつけようとはしないが、その効果には違いがあるとして いる。彼によれば隠喩は二つの語を直接的に結びつけることから、「閃光 fulgurance」を 生みだす源泉であり、他方、ロートレアモンの「…のように美しい beau comme...」に代 表される直喩の形式は、この仲介物による「宙づり0 0 0 」効果を持つ。この段落の 直後にボードレールの詩「美しい船」の「進み出て、文地の絹を盛り上がらせる、きみの 乳房/勝ち誇るきみの乳房は、美しい飾り戸棚」という文が配置されている。第二段落で 問題となった、隠喩の官能的な効果は言うまでもないが、この文が選ばれた理由として、 1945 年末から 1946 年初頭まで続いたハイチでの連続講演において、「美しい船」がコレス ポンダンスをもっとも良く表していると評されていることと関係していると思われる (OCIII, 310)。 ⑤ アナロジー的思考の衰微  第4段落は一文のみで構成されている。アナロジー的思考は古代から中世までは尊重さ れてきたが、論理的思考に浸食されてしまったという内容である。この段落の後に配置さ れている『雅歌』の一節「お前の歯は洗い場から出てきた羊の群のようだ」は、論理的方 法に浸食される以前のアナロジーの例と解釈することが可能である。

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⑥ 詩的イメージ論の転換と「倫理的要請 ordre éthique」  ここでは、第5段落と3つの引用を挟んだ最終段落を見ておく。これらの段落では、 『シュルレアリスム宣言』(1924)の中で展開された詩的イメージ論をめぐって、ブルトン が新たな条件を加えている。よく知られているように、『宣言』においてブルトンはルヴェ ルディが打ち立てた法則について留保を示していた。まずは問題となったルヴェルディの 文を確認するために『宣言』における引用を紹介する。   イメージは精神の純粋な創造物である。    それは比較からは生まれることはできず、多少とも隔たった二つの現実の接近から生 まれる。    接近させられた二つの現実がかけ離れていて、かつ正確であればあるほど、イメージ は強力なものとなる――いっそうの感動と詩的現実性を有するだろう(OCI, p.324) 下線部を施した部分が「上昇記号」の中で引用されている。『宣言』において、ブルトン はルヴェルディの美学が「帰納的(後験的)」であり、結果と原因が逆になっていると指 摘する(OCI, 324)。これは初期のシュルレアリスムが自動記述の効果と実践を重要視して いたことと無関係ではない。自動記述は、できるだけ意識を排除した状態で浮かび上がる 言葉を写し取ることであった。詩的イメージはその結果として与えられるものである。だ からこそイメージは理性に衝撃を与えるのだ。またブルトンは『宣言』の中で「批判精神 esprit critique」と「精神の無垢 virginité d esprit」という二種類の精神を紹介している。 前者は合理主義的思考であり、非合理的なものを受け入れない。後者は人間がもはや失っ てしまった原初の精神状態である。彼によれば、批判精神が衝撃を受けると、その作用が 停滞して精神の無垢を一瞬取り戻すことができ、その時人間は非合理なものや超自然的な ものを合理的なものとして受け入れるという。ブルトンはルヴェルディの用いる精神を批 判精神と捉えているようだ。現実の接近による驚きは意図的(理性的)にもたらされるも のではなく、偶然の接近による結果として精神に衝撃を与えるべきものなのだ。このよう な考えが原因と結果の逆転という表現に表れている。  興味深いことに、「上昇記号」では『宣言』において問題となった前半2行が引用され ていない。むしろ、彼はルヴェルディの与えた条件(接近させられた現実の隔たりが大き いほど、イメージは強力になる)を絶対的に必要なものであると認めている。それと呼応 するかのように「上昇記号」では自動記述に関する直接的な言及がない。ただし『宣言』 の時代とは異なる意味で、彼はルヴェルディの論が不十分であるとする。長くなるが重要 な部分であるので、全体を引用する。

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   もう一つの制約、つまるところ倫理的要請 ordre éthique に属すると思われるものが、 先の条件[=ルヴェルディの与えた条件]の傍らに位置を占める。このことに注意し て欲しい。アナロジーのイメージは、もっとも激しい光でもって部分的な類0 0 0 0 0似0を照ら し出すに留まっている限り、等式として表現されえない。このイメージは、対峙する 二つの現実の間で、ある特定の方向に向かって動く。その方向は決して逆にはならな0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 いのだ0 0 0。これらの現実の一方からもう一方へと移る時、このイメージは、できる限り 健康、喜び、平安、表明された感謝や同意された慣習へと向けられた生の張力を示 す。このイメージにとって命にかかわる危険な敵は貶下的なものと意気消沈させるも のである。―もはや高貴な語が存在しなくなったとしても、偽詩人たちはその代わ りに下劣な接近によって人目を引こうとすることを避けようともしない。その完成さ れた例が、「ギター、歌うビデ」といったものだ。そのうえ、この作者はこのような 類の掘出し物を豊富に持っているのである。(OCIII, 769) この文の直後に最後の引用グループ(スウェーデンボルグ、アポリネール、ペレの文)が 配置されているのだが、先に引用群に続く最終段落の内容をみておく。ブルトンは彼の詩 的イメージ論をもっとも的確に表す例として、芭蕉と弟子の其角の逸話を紹介する。それ は其角が「赤とんぼ羽をむしれば唐がらし」というユーモアに富む俳句を作った時、芭蕉 が「仏教的な慈悲」によって「唐がらし羽をつければ赤とんぼ」へと修正させたというも のだ。この例に辿り着いた時、読者はブルトンの詩的イメージ論の全体像を把握すること ができるだろう。批判精神に衝撃を与える「閃光」と、それによって論理的思考を「宙づ り」にする隠喩と直喩は、いずれも合理主義に支配された文明人の精神を揺さぶるもので ある。これはルヴェルディの与えた条件である「隔てられた現実[=語]」を即座に繋げ ることでもある。この接近によって、想像力は第三の現実、すなわち詩的現実へと変化す る。それがルヴェルディの詩的イメージ論であり、自動記述で言えば無意識に近い状態が 結びつける語の繋がりが生み出す、驚くべき詩的イメージであった。しかし、戦後のブル トンはもはや0 0 0そうは考えてはいない。たとえ二つの現実が「部分的類似」によって精神に 衝撃を与えたとしても、また思考の動きを停止させたとしても、この二つの現実を等号で 結ぶ何かがないと、最終的な詩的現実は生まれないのだ。この第三のイメージへと変容さ せる条件が「倫理的要請」、すなわち善へと向かう意思なのである。さらにこの動きには 非可逆性というもう一つの特徴がある。二つの現実の詩的現実への変化は一方向でしか示 されない。つまり現実 A と B は、まず読む方向に伴って動く物理的な一方向を生みだす (A ⇒ B ⇒詩的現実)。さらにこの A から B への動きには、もう一つ別の次元がある。そ れが悪から善へと向かう動きであり、決して善は悪へと向かってはならないという倫理的

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次元である。つまり例に挙がったコクトーの比喩(「ギター」から「ビデ」への下劣な語 の変化)や、其角が示した残酷さ(「赤とんぼ」から「唐がらし」への変化)は、倫理的 問題として逆転してはならない。この挿話の紹介によって、赤とんぼとなった唐辛子が飛 翔するイメージとタイトルの「上昇記号」が響き合い、現実が詩的現実となるべく、また 悪が善となるべく上昇していく様子を強く喚起することとなる。  ところで、語と語の結びつきが新たな詩的現実を生みだすといった詩的イメージ論は、 1937 年に発表された『狂気の愛』にも登場している。自動記述によって生まれる「パンが なる木 arbre à pain」や「バターがなる木 arbre à beurre」といった表現を例に挙げつつ、 ブルトンは任意の名詞を結びつけるだけで新しい表象の世界が姿を表すと述べている (OCIII, 748)。しかし、この時点ではイメージの上昇やその背後にある倫理的問題につい ては言及されていなかった。モラルの問題に関して言えば、『宣言』の中で自動記述は 「審美的あるいは道徳的な一切の配慮の埒外」で実践されると定義されており(OCI, 328)、 『第二宣言』(1930)では、もっとも単純なシュルレアリスム的行為として、両手にピスト ルを携えて街に出て、群衆に向かってでまかせに発射する行為が例として挙げられている (OCII, 782-783)。後者はステレオタイプに理解してはいけないが、いずれにしても第二次 世界大戦を迎える以前のシュルレアリスムにおいては、彼らが目指す反逆の精神と暴力性 が重ね合わされており、「上昇記号」が示す善への執着は見受けられない。シュルレアリ スムにおける「倫理的要請」は戦後の重要な特徴なのだ。  それでは最終段落の直前に配置された3つの引用を見てみよう。スウェーデンボルグの 文(「私は精霊たちが集まっているのを見た。彼らは頭に帽子をかぶっていた」)は、精霊 という観念に帽子という物質を与えることで、奇妙なおかしさを喚起する。この文は 40 年代以降にブルトンが再評価したバルザックの『セラフィータ』からの引用である。この 作品の登場人物は、この文をスウェーデンボルグのものとし(訳者によれば、実際は彼の 文章ではないようだ)、合理的思考にとっては物質的な不合理性を示す例であり、見者に とっては感動すべき言葉であると述べている10)。つまり、この引用はブルトンの詩的イ メージ論の前提(批判精神と精神の無垢との対比)に関わるものである。次のアポリネー ルの詩の一部、「おまえの舌/鉢の金魚/おまえの声の」)は、感覚と官能を掻き立てる隠 喩例であり、愛する者から生まれる言葉のイメージを喚起させる美しさを持っている。ア ポリネールが選ばれた理由は、ボードレールの場合と同じく、ハイチでの講演で彼がコレ スポンダンスの系譜に位置づけていることと無関係ではないだろう。そして最後の引用 が、ペレの詩の一部である11)(「私たちは青い乳房が植えられた大通りを通り抜けた/そ こでは昼と夜がコンマ一つで違っているだけであり、イワシとコガネムシとはちくちくす る一本の毛で違っているだけだ」)。「青い乳房」という語によって喚起される色彩と昼と

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夜という時間の区別が失われることで、実際の通りが幻想的風景に変化する。後半の「コ ンマ virgule」や「ちくちくする一本の毛 un poil à gratter」と言った表現や、「イワシと コガネムシ」の組み合わせはユーモアに溢れている。« virgule » と « poil » はいずれも 「ささいなこと」を示す慣用表現であるとともに、« virgule » はまた、「コンマ型の口髭 moustache en virgules」などにおいても使用される表現であり、「昼と夜」、「イワシとコ ガネムシ」が一本の毛の差で結びついているイメージを生みだすからだ。このペレの引用 については配置場所が重要であるので、初出の『ネオン』誌と関連して再度取り上げる。  ここまで「上昇記号」の本文と引用の関係をみてきた。ブルトン自身が一度も引用につ いて本文で言及していないにもかかわらず、引用が各段落の間に挿入されているために0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0、 読者は筆者と同じく引用を近くにある本文の例示や注釈として理解しようするのではない だろうか。たしかに大抵の場合は引用と本文との間に齟齬はない。そのうえ、タイトルや エピグラフと捉えられる位置に配置された『ゾーハル』の文や、唐辛子から赤とんぼへと 変身させる逸話は、上昇するアナロジーのイメージを強く読者に与える効果を持ってい る。ブルトンは本文で一度もアナロジーの動きは上昇するものだと述べていない0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0にもかか わらずだ。  また、「上昇記号」のように作者が引用に関して本文で直接言及しない場合、すべての 引用は各段落のエピグラフであるという解釈も可能ではないだろうか。この場合、引用は その周辺の段落内容の意味に暗示的な形で作用する。これらの引用もまた、エピグラフに 関してジェラール・ジュネットが挙げている4つの機能(タイトルの注釈、テキストの注 釈、原作者の身元を暗示する、文化あるいは知性の標識となる)に多少なりとも呼応して いる12)。さらには単なる暗示的な注釈としてだけではなく、これらの引用は作品名や原作 者名の提示によって、アナロジーという概念の文化標識、あるいはその系譜を示すことが できるのだ。  とはいえ、引用の中には必ずしもその場所に不可欠だとは言えないものもある。例え ば、ルヴェルディの引用は第2段落の後に置かれているが、この詩人が問題となるのは第 5段落である。『雅歌』の引用についても、本文と関係がないことはないが、突飛な印象 を持つ読者もいるだろう。ボードレールの引用については、コレスポンダンスに関して彼 がスウェーデンボルグの影響を受けたとされるが、彼らの引用は離れた場所に配置されて いる。各段落と引用を無理に結びつける必要はあるのだろうか。1950 年のエーゲルダン ジェによるブルトンのテキスト集に収録された「上昇記号」には引用が付されていなかっ た。引用なしでも「上昇記号」というテキストは成立するのだ。

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I-2.『ネオン』誌における「上昇記号」――コラージュ、挿絵、連鎖するアナロジー――  それでは初出の「上昇記号」を見てみよう(図1・2を参照)。各々の引用と本文につ いての分析は終えているので、引用の視覚的・構造的な相違点を取り上げたうえで、その 効果について考察する。  すでに指摘したとおり、初出において全ての引用は5つにグループ化されて、黒い背景 に白文字で書かれた付箋紙のような形で本文の周辺に貼付けられている。そのうちの二つ は(シャザルと古代エジプトのことば)単独で段落内に配置されており、残りの3つは L 字型やコの字型の形状で、本文の周囲を飾るように置かれている。特に興味深いことは、 先ほど分析したペレの引用である。この引用は、最後の L 字ブロックに組み込まれている ものの、署名と日付の下に置かれている。つまり、テキストの外部にある0 0 0 0 0 0 0 0 0 0と言ってよい。 全ての引用は、このようにテキスト内部と外部の境界に存在している。『ネオン』誌にお ける引用ブロックの配置と背景や文字の色の違いを考慮すれば、先に分析した引用と本文 の関係に対する疑問について納得できる点も多い。すなわち、ガリマール社版における引 用と本文の不可解な関係は、大判の雑誌を書籍化するうえで、引用ブロックをそのまま書 籍の形態に置き換えることが不可能であったという理由が大きいのではないだろうか。い ずれにせよ、最初の構想において引用群は別の作用を引き起こしている。その理由の一つ はグループ分けの相違である。  そもそも『ネオン』誌における「上昇記号」には、エピグラフというものが存在してい ない。エピグラフとして解釈した『ゾーハル』の一節は、本来フーリエの引用ともに配置 されている。フーリエと組み合わされていたシャザルの文はまた、独立した形で第2段落 上方部に位置する。さらに、ルヴェルディとボードレールの詩、そして『雅歌』が同じブ ロックに収められており、『死者の書』の一節が独立している。つまり、先ほど行った解 釈(ルヴェルディと『死者の書』の引用がコントラストを生みだす)は、初出のテキスト においては必ずしも当てはまらない。いずれにせよ、異なった配色で区切られ、縦横に置 かれたブロックは、読者に読む順序を強制しない。引用ブロック毎にまとめて読むこと も、本文に近い引用を本文と同時に読み進めることも可能である。また、引用をまとめて 最後に読む者もいるかもしれない。どの場合においても、これらのブロックが異物0 0として テキスト内外に置かれているため、一つの決まった解釈を強制しないのだ。これらの構造 上の相違を考慮すると、『ネオン』誌における引用群は、むしろ本文を装飾するオブジェ としての機能、あるいは一種の挿絵としての機能を有していると言えないだろうか(テキ ストの右側に配置されたジャック・エロルドの挿絵と同じレベルのものとして)。読者は引 用を本文の注釈と解釈する必要もない。少なくとも読者が共通して行う作業は、本文全体 の内容と相関して、引用や引用ブロックそのものの関係について想像することである。

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 では、これらのオブジェはどのような役割を持っているのか。これらは古代から現代ま でのアナロジーの系譜、すなわち一つのアンソロジーを形成している。それでいて、これら の引用はエロルドの挿絵のように静的なものではない。読むという動的な運動と相関して、 それぞれの引用が自由に反応しあい、読者の思考にアナロジーの伝統、あるいはアナロジー の世界を再現させることができるのだ。この仮説はまた、引用のない版の正当性を補強す る。引用が独立した挿絵として機能している場合、必ずしも不可欠なものではないから だ。  『ネオン』誌の引用ブロックはまた、ブルトンの詩論を体現しているとも言える。すなわ ち、恣意的に配置された各々の引用に共通する「部分的な類似」(アナロジー)が私たち の思考を宙づりにする。そして私たちが本文で論じられる善への意思を理解してはじめ て、それらの引用はブルトンの構想する詩的宇宙を生成するべく動き出すのである。それ を裏付けるのが、引用の配置が象形文字のような概観を呈していることだ。ハイチでブル トンはアナロジーに関して「創造物は解読されるべき姿の総体――象形文字の全体として ――として考慮されるべきである」というフーリエの考えを紹介している(OCIII, 308)。 つまり、引用群全体が解読されるべきアナロジーの総体となるのである。  では、いずれの版においても最後に付されたペレの引用の役割とは何だろうか。この引 用がその内容よりもむしろテキストの外部に置かれていることを思い出そう。『黒いユーモ ア選集』(1940-1966)の中で、ブルトンはペレに関してコレスポンダンスを取り上げてい る(「私たちは、もはや不幸にも断絶的でしかない偉大な光のような『コレスポンダンス』 を褒め讃えることに留まりはしない。私たちは情念の一致0 0 0 0 0 の途絶える ことのない実現によってのみ、動き、また自らの方向を決定するのだ。」OCII, 1134)。す でに分析したように、合理主義の台頭によって、人間は僅かな交流でもってしかアナロ ジーに気づくことができないとブルトンは考えていた。だからこそ、現代の詩人にはこの アナロジーの系譜を未来へと繋ぐ責務があるのだ。そう考えると、署名と日付の下、つま りテキストの外に置かれたペレの引用は象徴的な役割を担っている。これは、現代の詩人 によってアナロジーの系譜が今後も続いていくのだという、ブルトンの意志を表している のだ。  このように「上昇記号」は、版によって異なる解釈を私たちに提供する。引用ブロック の視覚的な効果は、40 年代のブルトンの詩が多様なタイポグラフィーを駆使していること からも意図的なものであったと考えられる。例えば『ネオン』誌の第3号に掲載された詩 「サン・ロマーノへの途上で」には、縦書きや曲線といったあらゆる種類のタイポグラ フィーが採用されている(これもまた残念なことに、全集では一般的な詩の形状に置き換 えられている)。一方、 (『総目録』)という詩は、数頁と続く詩の内部に別

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のフォントで「夢の砂漠では/風に舞う/シャベルが/常に/あるだろう Il y aura / toujours / une pelle / au vent / dans les sables / du rêve」という一文が分割されたうえ で挿入されるという特殊な形態を有している。このような傾向から見ても、これまで分析 した『ネオン』誌における読む行為という運動と視覚効果の関係は、全く突飛な発想では ない。とはいえ、ペレに関する『黒いユーモア選集』の文には、このアナロジーの系譜を 現代に繋げる原動力として「情念の一致0 0 0 0 0」という言葉が用いられていた。これは何を意味 するのか。「上昇記号」の執筆背景となる当時のブルトン思想と何らかの関係があるのだ ろうか。 II. 「上昇記号」と戦後のブルトン思想 II-1. 新しい社会思想の形成とアナロジー  「上昇記号」が執筆された 1947 年前後、ブルトンはインタビューや講演、そして作品に おいて「いかにして人間を救うか0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0」(OCIII, 756)や「人間の救済」(OCIII, 583)といった 表現を用いるようになる。その一方で、「再生」という主題が『秘教十七』に登場する13) すでに見たように、「上昇記号」の引用にも再生や復活を象徴するフェニックス(あるい はベヌウ鳥)に関するものがあった。このような傾向を説明するものに、1946 年のジャン・ デュシェとの対談における、原爆に関するブルトンの発言がある。    たしかに、ニューヨークでは一般的に、核分裂は火の発見以来の最大の発見とされ、 人々は現実離れした未来像―各々の性格によって、超悲観的もしくは超楽観的な ―を進んで提供していました。最良の精神の注意を引くこと、彼らにとって重大な 新しい事態であったことは、人間が歴史上初めて、単に自分の生命だけではなく、人 類全体の生命までもが危機にあることを知って〔…〕展望が奪われてしまったという ことなのです。〔…〕なにはともあれ、それまでは誕生と死という個人的枠組みは開 かれていました。それが今、世界の未来に対する根源的かつ根拠ある疑惑が生じて、 この枠組みを閉じてしまったのです。(OCIII, 588) 原子爆弾の使用以後の人類が抱く悲観的な世界観に対して、ブルトンは危機感を抱いたよ うだ。それが人間の救済や再生という問題意識へと繋がっている。そして閉じてしまった 「世界の未来」を再び開こうとするかのように、彼は新たな社会像を求めていく。その鍵 として秘教とフーリエ思想があった。1945 年末から翌年にかけて行ったハイチでの連続講 演において、彼はオーギュスト・ヴィアットやロジェ・ピカールの研究を支えとして、 フーリエやユゴーなど社会問題に取り組んだ人間がエリファス・レヴィに影響を受けたと

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いう事実を紹介した。そのうえで、社会変革を目指す理想主義的情熱が神秘主義へと接近 するという精神の発展モデルを提示した14)。また、別の日にはコレスポンダンスを主題に した講演も行っている。彼はボードレールの「普遍的アナロジー」という概念がフーリエ の理論の根本的な原則であること、フーリエがアナロジーによって、あらゆる社会問題を0 0 0 0 0 解決する0 0 0 0鍵を作ろうとしていたと述べている(OCIII, 309)。アナロジーもまた、ブルトン にとっては社会変革という主題と結びついている。「上昇記号」に登場したアナロジーの 先駆者(スウェーデンボルグ、フーリエ、ボードレール、アポリネール)がこの講演で例 として挙げられていることもまた、講演内容を下敷きに「上昇記号」が執筆されたことを 示している(Cf. OCIII, 297, 309)。このようにブルトンの危機感と社会変革への欲望が、 秘教とフーリエ、さらに詩の問題を引き寄せているのだ。  デュシェとの対話に戻ろう。ブルトンはフーリエの魅力として「人間の情念と自然の三 界の産物とのあいだのアナロジーに基づいた、世界のヒエログリフ的解釈を提示しようと する意図」を挙げる。さらに彼はこの思想家が「絶対的懐疑」と「情念引力」という概念 によって、「十九世紀初頭以来、詩と芸術を駆り立ててやまない諸々の関心事と、〔…〕 諸々の社会改造計画との、基本的接合」を行っていると言う。この「絶対的懐疑」と「情 念引力」については、石井洋二郎が明解な説明を与えている。彼によれば、前者は「デカ ルトを含めた従来の哲学者たちの懐疑が中途半端で不徹底なものであったという批判的立 場に立って、あたかも完全なものであるかのように錯覚されている『文明』の必然性、優 越性、永続性それ自体を根底から疑う」姿勢であるという15)。一方後者に関して、石井は 物に引力が作用するように、愛憎といった感情も人間の間で働く引力のようなものである と指摘したうえで、「現在の不統一な世界を完全な調和へと昇華させていく根本的な動力」 であると述べている。彼によれば、この力が四運動間(社会的・動物的・有機的・物質 的)のアナロジーを介して自然界と人間界に適応されており、情念引力を発見することで 「人間ははじめて自然の孕むさまざまな謎を解明し、歴史の新たな段階へと飛躍する」と いう16)。石井の解説を踏まえると、ブルトンがいかなる点においてフーリエに魅了されて いたかが理解できる。「上昇記号」の第一段落にもあったように、フーリエはまさに反文 明を象徴する人物として登場していた。また、観念的世界があらかじめ想定されている神 秘的アナロジーとは異なり、フーリエのアナロジーは自然と人間界を結びつつ、未来へ繋 がる世界観へと開かれている。それはまさに、実現すべき新たな未来像を描こうとするブ ルトンの企図に重なるものである。さらにブルトンは自然と人間との調和についてデュ シェに次のように語っている。    シュルレアリストたちは、自然が人間に対して敵対的であるなどと認めるなんてこと

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は決してありません。シュルレアリストたちはむしろ次のことを仮定しているのです。 原初の状態において、人間は何らかの鍵を所有しており、それらの鍵は自然と密接な 交わり communion を維持していました。しかし人間はそれらの鍵を失ってしまった。 それ以来、ますます熱に浮かされたように、合わない0 0 0 0他の鍵で試みることに固執する のです。自然の科学的認識が価値を持つとすれば、それは詩と、あえて言えば神話の 道を通じて、自然との交流0 0 が回復される条件においてのみなのです。(OCIII, 597) 「交わり」やイタリックで強調された「交流」という言葉は、神秘主義や宗教的色彩を持 つ語彙である。つまり、文明の産物である科学では、原初の人間が感じた自然と人間を結 ぶ世界観を生みだすことができない。そこで反文明 contre-culture の所産である神秘主義 やアナロジーが重要となるのだ。このように神秘主義やアナロジーへの関心は、ブルトン 自身が実践した「絶対的懐疑」による成果であるといえる。この引用ではまた、自然と人 間の交流を可能にする手段として詩だけではなく神話も挙げられている。アナロジーを通 じて自然と人間の交流を可能にする詩の役割が「上昇記号」で論じられるとすれば、神話 は戦後のブルトン思想においていかなる役割を担っているのだろうか。 II-2. 反文明、神話17)、そしてモラルの問題  神話についてブルトンの興味深い発言がある。それは 1948 年に行われたエメ・パトリ との対談で、ブルトンが来世における救済思想という観点からキリスト教による文明は強 く批判するものの、キリスト教神話そのものに対しては、他の神話(エジプト、ギリシャ、 アズテックなど)と同じく関心を抱いていると述べていることだ(OCIII, 608)。ただし、 キリスト教文明の影響を払拭したいと考えるブルトンは、それ以外の文明の教えを「倫理 的次元」において体系化する必要があると言う。なぜなら神話は人類の起源と終末に関す る非合理かつ寓話的な資料であるため、自らの行動を決定するにあたって、人間はこの資 料を参照するからだ(OCIII, 609)。ブルトンにとってキリスト教文明を除く神話は人間の 倫理観の基礎なのである。他方、先にとりあげたデュシェとの対談の中で、彼は新しい神 話の確立を目指すために、フーリエにおける「生成しつつある0 0 0 0 0 0 0 驚異的な宇宙 論」に立ち返ることを奨励している(OCIII, 598-599)。これらの一連の発言を鑑みると、 神話も戦後における新たな社会の構築という主題と繋がっていることが分かる。彼は神話 の象徴性によって、新たな世界像とその世界の基盤であるモラルを示そうと考えたのでは ないか。「上昇記号」においても、現代人が「わたしはどこから来たのか。わたしはなぜ 存在するのか。わたしはどこへ行くのか」と問いつつも、結局世界を解釈しようとはしな

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いことが批判されている(Cf. OCIII, 766)。もちろん、神話の創造という主題は戦後に始 まったものではなく、大戦期にはすでに問題となっていた。しかし、詩論における「倫理 的要請」と同様に、戦後になると神話に関しても「倫理的」という表現が用いられている ことは、ブルトン思想における神話の概念もまた、戦後に変化したことを示している。新 たな社会像の構築にあたって、彼はその社会の基盤となるモラルが必要であると感じたの ではないだろうか。それを裏付けるように、1948 年彼はクローディーヌ・ショネに「シュ ルレアリスムが確立を促そうとしているモラルは、いまだ直観の段階に留まっている」と 告白している(OCIII, 610-611)。一方、すでに何度か引用したデュシェとの対談でも、ブ ルトンは次のように語っている。    少なくとも、モラルが確立されるのは、すべての情念 passions は善であるという確信 と明確に関連して構想される、ある別の社会においてです。〔…〕または、もっと正 確に言えば、この確信とは、人間の役目が自然や目標を変えることではなく、全体的 な均衡に応じて歩みや発展を修正することです。(OCIII, 597-598) これら全ての要素を踏まえると、詩における「倫理的要請」という表現と、神話に関して 用いられた「倫理的次元」という表現が同じ出発点を有していることが分かる。ブルトン は人間中心主義でも死後の救済でもなく、自分たちの世界が自然との調和によって成立し ていたという真理を現代の人間に再び提示しようとした。しかし、この真理は合理主義的 思考を基盤とする既存の文明に生きる人間たちには見出せない。しかも大戦によって価値 観が混乱した社会においては、悲観的意見と楽観的意見が錯綜し、人間が進むべき方向を 見失っている。そこで彼は、かつての人間が希求した調和社会を描き出す神話や、そのよ うな宇宙観に基づくアナロジーによって、社会と自然が調和する新たな社会像を提示する ことが可能であるという直観を抱いたのではないだろうか。そして、彼にとってこのよう な世界を望む欲望や情念こそ善であり、二つの現実を結びつけ、第三の現実へと導く原動 力となるのだ。 結論にかえて:「記号の逆転0 0 0 0 0」――「世界の終り」から「生の回復」へ  このように「上昇記号」は、第二次世界大戦後に抱いたブルトン危機感や新たな社会像 の構築という問題提起を基盤としていることが分かった。最後に、本論の結論にかえて 「上昇記号」の一年後に発表された、シャザル論「時計のなかのランプ」を紹介したい。 このテキストにおいても、ブルトンは現代の人間を「調和と人間的幸福への執拗な欲求」 を示す大量の溺死した魚に喩えつつ、戦後の状況(冷戦や核兵器の脅威)を批判してい

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る。ただし、彼は「世の終り fi n du monde」という悲観論の誘惑に対して、それでも生へ の希望を見出そうとする。彼はその発想の転換を「記号の逆転0 0 0 0 0 」と いう言葉で表現する(OCIII, 773)。そして悲惨な戦争を経験しても、世界はまだ崩壊せ ず、不吉な徴候を示すものでさえ、「生の永続と回復0 0」を示す「徴候 signe」になりうると 彼は述べるのだ(OCIII, 778)。他方、シャザルが人間の誕生と死を解明するために快楽を 経験的な場と捉えていることについて(快楽によって人間は生と小さな死を体験する)、 ブルトンは「断絶であると同時に乗り越えである0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0ような、一つの真理の声明」や「生の神 聖を形作りうる一切のものへの悲壮な訴え、最後の訴え」を読み取ろうとする(OCIII, 783)。このように戦後におけるブルトンの言説には、死から生(再生)、悪から善への方 向転換という主題で溢れている。「上昇記号」は単なる詩論ではなく、戦後のシュルレア リスムが目指す倫理を表明する場であったのだ。  今、私たちはなぜ 1947 年に「上昇記号」が執筆される必要があったのかという問いに 答えることができる。原子爆弾の使用や、新たな戦争の危機を予感させる冷戦という現実 を前に、ブルトンは人間の未来が危機にさらされていると感じるとともに、現代人が抱く 悲観論や終末論の漂う世界に危機感を抱いていた。そこで彼は死や悪といった否定的な価 値をもつ現実を生や善へと転換させようとした。そのために彼が解決の鍵として選んだも のが、既存の文明に対抗する秘教や、キリスト教文明に先行する神話群、または西洋文明 に影響を受けていない未開人など、多様な反文明的要素であった。この考えを学術的に補 強する機会を与えたのがハイチ講演である。異端的ロマン主義者が秘教に関心を持ってい たこと、さらにその関心の背後には社会変革への情熱があったことを学術的に示したヴィ アットやピカールの著作は、社会変革を欲する人間の精神が神秘的な存在へと接近すると いう精神の発展形式があることをブルトンに確信させた。この確信はまた、初期のシュル レアリスムから「真の生」を見出すことを強く求めていたブルトンが秘教へ近づくことへ の正当性を与えたのだった。初期のシュルレアリスムから見受けられた革命的理想主義 は、このように大戦を通じて、みじめな現実を原初の人間が欲するはずの世界、調和と幸 福のある世界へと変えるという意志へと変容していく。この新たな社会像を構築する意志 に伴って、これまで問うことのなかった倫理的問題が浮上した。それこそ彼が「直観的段 階」と形容した、戦後におけるシュルレアリスムのモラルなのだ。この新たな倫理観に基 づく社会像を核として、神話、アナロジー、秘教、フーリエといった、戦後のブルトン思 想におけるあらゆる問題体系が放射状に広がっていく。「上昇記号」は単なる詩論の「宣 言 manifeste =表われ」ではなかった。これは戦後のブルトン思想、「直観的段階にある シュルレアリスムのモラル」のマニフェストなのである。

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[注]

本稿は科学研究費(課題番号:26370375)の助成を受けている。全集を引用する場合は、 文 中 に 次 の 略 号 と 頁 数 を 記 載 す る。OCI, OCII, OCIII : Breton, , « Bibliothèque de la Pléiade », Gallimard, 1988 (I), 1992 (II), 1999 (III). ただし「上昇記 号」はその短さを考慮して頁数を付さない(Cf. OCIII, 766-769)。原文のイタリックについ ては引用に傍点を付す。特に明示しない場合は引用訳および下線は引用者による。また執 筆者の論文に関しては氏名を省略している。

1. Jean-Louis Houdebine, « André Breton et la double ascendant du signe », , n 31, février 1976, pp. 42-51 ; « L idéologie du signe ascendant »,

, présentation par Marguerite Bonnet, Garnier, 1974, pp. 100-107.

2. Michel Deguy, « Du “Signe ascendant” au Sphinx vertébral », , n 34, avril 1978, pp. 226-240.

3. Cf. Henri Béhar, , Calmann-Lévy, 1990.

4. , textes recueillis par Marc Eigeldinger, À la Baconnière, 1950, pp. 43-46.

5. 引用元に関しては、プレイヤード版全集で指摘されていない書物に限り注を付す。そ れ以外は OCIII, 1377-1379 を参照のこと。

6. Denis Saurat, , Les Éditions Rieder, 1929, p. 121. 7. Cf. ., pp. 118-122.

8. 引 用 は 次 で 確 認 で き る。Malcom de Chazal, (1948), Gallimard, « L Imaginaire », 2002, p. 192

9. この書物の存在については不明であり、全集は出典に関する説明をしていない。ただ 『死者の書』の次の版には「私はハイタカとしてやってきて、ベヌウ鳥として飛び立 つ」という文があり、注でベヌウ鳥が「(タゲリ、フェニックス)オシリスの鳥」と説 明されている。Cf. , traduit par Paul Pierret, Ernst Leroux, 1882, pp. 35-36. 本稿では引用と同じ文を用いて解釈している研究を参

考にした。Louis Delgeur, ( ) ,

Librairie européenne de C. Muquardt, 1873, p. 35.

10. オノレ・ド・バルザック著、沢崎浩平訳『セラフィータ』、国書刊行会、1976 年(2004 年)、p. 90.

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11. Benjamin Péret, « Prête-moi ta plume », , 1934. アンリ・ベアール を 中 心 と す る シ ュ ル レ ア リ ス ム 研 究 会 の サ イ ト を 参 照 し た。http://melusine-surrealisme.fr/wp/

12. Gérard Genette, , Éditions du Seuil, 1987, pp. 145-149.

13. 「再生の神話から新たな社会思想の構築へ:第二次世界大戦におけるアンドレ・ブル トンの進化」、『近畿大学教養・外国語センター紀要(外国語編)』、第5巻、第1号、 2014 年 7 月、pp. 37-53. 14. 「『社会主義の夢0 0 0 0 0 0 』:戦後におけるブルトンの文芸批評とロマン主義 再興」、『近畿大学教養・外国語センター紀要(外国語編)』、第6巻、第1号、2015 年 7 月、pp. 1-17. 15. 石井洋二郎著『科学から空想へ よみがえるフーリエ』、藤原書店、2009 年、p.43. 16. 同書、p. 50. 17. 40 年代初頭までの神話の問題と秘教との関係については、次ですでに論じた。「再生の 神話から新たな社会思想の構築へ:第二次世界大戦におけるアンドレ・ブルトンの進 化」、前掲.

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図1  雑誌『ネオン』における「上昇記号」(引用元:Philippe Audoin, , Seuil, 1995, p. 141.)

   なお、Sarane Alexandrian に関するサイトでは、『ネオン』誌の他の号も参照可能で ある。

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図2  引用配置図 ※ 全体は中央で2段組みされている。作者名がないものは書名を記 入した。 第二段落続き 第三段落 第一段落 第四段落 第五段落 第二段落 (右側にも続く) 最終段落 署名・日付 Pierre Reverdy Charles Baudelaire Swedenborg Benjamin Péret Guillaume Apollinaire Malcom de Chazal Charles Fourier

参照

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