フランス外交と幕末日本 ―フランス外交官たちの
みた「日出ずる国 L'Empire du Soleil-Levant」―
著者
野村 啓介
雑誌名
ヨーロッパ研究
号
14
ページ
155-162
発行年
2020-03-27
URL
http://hdl.handle.net/10097/00131607
フランス外交と幕末日本
―フランス外交官たちのみた「日出ずる国
L'Empire du Soleil-Levant」―
野 村 啓 介
キーワード: 幕末日本/フランス外交/外交代表/日仏修好通商条約/ ナポレオン3世はじめに
(1) 思いかえせば、第12 回公開講座 (2005 年 11 月)の共通テーマ「『生 きざま』の研究:人間的魅力とは 何か」でも講師を担当したことが ある。着任早々でわけもわからず、 苦しまぎれに「ナポレオンの『生 きざま』:どん底からの復活劇を読 みとく」との題目をひねりだしたのだった(2)。そののち筆者は、当該期の フランス外交に関心を広げ、その対日外交の独自性・主体性や外交制度、 外務官僚(とりわけ外交官)などの諸問題を考察するようにもなった。今 回の講座は、そのような研究の経過報告でもある。1. フランス外交と日本
(3) 日本の開国史といえば、まっさきにペリー来航を思いだす向きも少なく なかろう。英米蘭露についで、フランスもまた1858 年 10 月に日本と修好 通商条約(安政の五ヵ国条約)を締結して外交関係を樹立したことが顧みられることは稀である。 イギリスが1840 年からアヘン戦争によって中国進出の突破口を開くと、 フランスはイギリスに敗れた清国と黄埔条約(1844 年)を結び、ついで対 英協調のもとアロー戦争(第二次アヘン戦争:1856 ~ 60)を戦って一気に 中国に進出した。他方では、1858 年にカトリック宣教師の保護を名目に清 国属領ベトナムに侵入するなどし、のちの仏領インドシナ(1887 ~ 1945) となる東南アジア植民地の基礎を築いた。 フランス政府もまた中国に経済利害を獲得したいとする願望を有してい たが、それはフランスの商業的利害が、とりわけ米や茶、絹などの貿易に 関心をもっていたことと無縁ではなかろう。さらに砂糖貿易も見逃すべき ではなく、じじつフランスはサトウキビ栽培の可能な地域に強い関心をもっ た(4)。 同じころ、ナポレオン3 世はラテン・アメリカにフランスの影響力を拡 大しようと企図し、1862 年にイギリス・スペインとともにメキシコに出兵 した。この遠征は67 年までに撤兵を余儀なくされたが、第一にカリブ海域 での影響力確保、第二にメキシコ経由での太平洋進出(希望峰経由を補完) という点で、メキシコはフランスにとって戦略的に重要であった。 また、宗教的利害もフランスの大きな特徴のひとつをなす。黄埔条約に よりカトリック布教の自由を清国に認めさせたことは、そのことをよく示 す。とくに海外での布教活動に注力していた外国宣教会は、海軍と良好な 関係を築き、琉球経由で日本列島にむかう計画をたて、カトリック聖職者 をともなったフランス艦隊が、1844 年に那覇に、2 年後(弘化 3 年)の 7 月には長崎に来航し、ついで1855 年にも那覇に来航することになった。もっ とも、宗教問題をめぐる介入は、対外介入の口実として利用されたという 側面もある。じじつアロー戦争への参戦は、中国内地での布教活動を試み た宣教師シャプドゥレーヌ(Chapdelaine)の処刑(1856 年)をうけフラン ス政府が清国政府に抗議したことにはじまる。 最後に、フランス外交の底流に、他の欧米列強に遅れをとるべきでない とする「威信」重視の態度が強かったことも看過すべきでない。たとえば、
フランス外交と幕末日本 ―フランス外交官たちのみた「日出ずる国L'Empire du Soleil-Levant」― 1857 年 10 月、ルエル(Rouher)商務大臣から外務大臣への書簡では、「フ ランスはその国旗をはためかせる最初の列強のひとつであるべき」である とされた。 以上を背景として、1854 年 5 月ころからフランスの外務省文書に日本の 記述があらわれはじめた。長崎・出島のオランダ商館に出入りしていたデ ルプラ(Delprat)なるフランス商人は、1854 年 11 月に外務省にあてた書簡 において、ナポレオンの名が日本で有名であり、フランスが良い印象をも たれている旨を伝えたが、これはフランス政府の対日進出を後押しする材 料ともなったことであろう。
2. 日本にやってきたフランス外交官
とりわけ外交関係を開拓、維持すべき初期局面では、外交の最前線にあっ て未知の異文化と対峙する現地外交官の役割が重要性を帯びたことはいう までもない。 ところで、後述の外交代表ロッシュは、日本が「アジアのフランス la France de l’Asie」(1866 年 11 月 3 日外相宛報告書)であると発言したこと がある。鳴岩は、これを彼の印象的な言葉として引用するが、この表現じ たいはフランス外務省内で作成された1862 年 4 月 15 日付の文書にすでに みられる(5)。文書作成の時期は、シャム使節団の訪仏(1861 年)ののち、 1862 年 4 月に竹内使節団がパリに滞在し、ナポレオン3世に拝謁した直後 である。したがって、「アジアのフランス」観は、竹内使節団と接触したフ ランス政府が抱いたものであったといえ、みずから接したアジア諸国のな かで、日本に対する親近感がより大きかったであろうことは想像に難くな い。 こうしたフランス政府の見方に、外交代表から本国政府に伝達される報 告内容も寄与したであろうことは十分に考えられる。では、外交代表は実 際どのように日本を観察したのだろうか。グロ男爵(baron Gros) 条約交渉を任されたのは、外交代表グロ男 爵である。本国政府の対日政策は、第一に平 和と友好を基本とする通商関係、第二に慎重 なキリスト教布教であった。対中国とは対照 的に、フランスは基本的に慎重な外交姿勢の もと一貫して日本との良好な関係を志向する ことになる。 幕府との条約交渉には日本語通訳として外 国宣教会のメルメ・ド・カション神父のみを 同行した。なんと外交使節団にカトリック聖 職者がくわわる形になったわけである。幕府 側は、日本語・オランダ語の通訳者として、 他の西欧列強との条約交渉に活躍していたオ ランダ語通詞の森山栄之助(多吉郎)が臨席した。もちろん、このような 通訳体制はフランス側にとって不十分であり、グロ全権は「森山の良心に 頼らざるをえなかった」(6)。 条文数の違い(宗教条項の存在や踏み絵廃止など)や表現上の相違(徳 川将軍に関する呼称など)がみられることもまた確かである。ここにフラ ンス外交の独自性が発揮された可能性をみてとることができるが、他方で 関税問題といい、言語問題といい、条約交渉が日本側のペースで進められ た観も強い。 日本の国制に関しては、聖俗の二人の皇帝、つまり「聖界皇帝」と「俗 界皇帝」が存在すると考えられた。前者は、「宗教的首長 chef de la religion」 であって国事には関与しない「ミカド Mi-ka-do」である。後者は、「タイグ ン Taï-goun」と呼ばれる「裁きをおこなう皇帝 Empereur justicier」であり、 「ショウグン Sio-goun」と呼ばれる「戦士としての皇帝 Empereur guerrier」 でもある。彼がただ単に「日本皇帝」と表現するばあいは、徳川将軍をさす(7)。 日本人に関しては、「優秀な人種race supérieure」であると賞賛しており、「極
図 1 baron Gros(1793-1870) © 松戸市戸定歴史館
フランス外交と幕末日本
―フランス外交官たちのみた「日出ずる国L'Empire du Soleil-Levant」―
東のなかで日本がもっとも文明化された国民 (nation la plus civilisée)」と述 べている。 デュシェヌ・ド・ベルクール(Duchesne de Bellecourt) 日仏条約にもとづいて赴任した外交代表 が、デュシェヌ・ド・ベルクールである。彼は、 グロ代表団よりも深い分析をおこない、日本 を二人の「皇帝」が並びたつ「純粋に封建的」 な国家であるとみる。二人の「皇帝」とは、「聖 界皇帝」たる天皇と「俗界皇帝」たる徳川将 軍である。国家主権が天皇と将軍の両人格に 分有されており、両者あわせてあたかもひと つの「主権」の外観をもつとみる二元論的解 釈が示された。 その対日政策は、たとえば1864 年の下関 砲撃にみられるように、一般的に強硬な態度 によって特徴づけられるが、「新大君[家茂] は、巧妙で精力的な人物であり、外国諸列強 との関係をととのえることにその利益と存在 がかかっていると感じている」と述べて、中国との比較で日本の開国を前 向きに評価してもいた(8)。 ただし、漢字という表意文字が使用されていることが、科学的思考をさ またげているとの言明もみられるが、それはヨーロッパ中心主義にたつ見 方の限界ともいうべきものであろう。 ロッシュ 1864 年夏に赴任した後任のロッシュによれば、「ミカド」とは「日本唯一 の正統君主」であって、神代に王朝を創始した「皇帝= 神 Dieux Empereurs」 の末裔であり、「聖界の君主Souverain spirituel」でもある。それに対して徳 川将軍は、「帝国の軍最高司令官généralissime de l'Empire」であり、かつ「事 実上の君主」として天皇の代理人をつとめ、世俗事項にかかわる執行権力 図 2 Duchesne de Bellecourt (1817-1881)© リチャー ド・ シ ム ズ『 幕 末・ 明 治 日 仏 関 係 史-1854 ~ 1895 年 -』2010 年 , p.24.
(pouvoir exécutif)をになう「代官 Lieutenant」に 位置づけられる 。このようにロッシュは一元的な 日本国制の図式を提示し、聖俗の対によって理解 するデュシェヌ・ド・ベルクールの二元論を拒絶 して、将軍をあくまで天皇の下位権力と考えた。 その対日政策についていえば、当初は強硬な姿 勢を表明していた。幕府が条約の効果を薄めよう と画策し、欧米の影響力をかたくなに拒絶しよう とする態度に不信感や苛だちをあらわにしてい た。しかし、彼は急速に日本に対する親近感を増 していった。はやくも1865 年 1 月には、「われわ れの国民性と日本のそれにみられる一定の類似 性」 に言及がおよんでいるし、翌 66 年 2 月には日 本人の誇り高い点や陽気な気質などを「他国民とは異なる性格」とする 。 この延長線上にこそ、彼自身も口にした既述の「アジアのフランス」とい う表現が位置する。
おわりに
彼ら外交代表が赴任してきたころは、外国人殺傷が頻発しており、かな り厳しい環境のもとでの任務遂行を余儀なくされていた。にもかかわらず、 彼らは日本の国制やその住民を的確に理解しようと努めていた。また、フ ランス側の日本観が一貫して好意的な評価であったことには驚くよりほか ない。この日仏国交の最初の約10 年間は、フランス外交代表が日本理解を 深めようとする絶え間ない努力の10 年間でもあった。彼らが、本国政府の 好意的態度形成に不可欠の貢献をなしたことは疑いのないところであり、 けっして軽視すべきではない。 アンケートによれば、本講座は意外にも好評であった。幕末の日仏関係 などは受講者にとってマイナーな話題であるし、大した興味をひくことは 図 3 Roches ©Bibliothèque Nationale de Franceフランス外交と幕末日本 ―フランス外交官たちのみた「日出ずる国L'Empire du Soleil-Levant」― ないだろうと高を括っていたからだ。しかし、「フランスの日本に対する親 近感が幕末までさかのぼることができるとわかって勉強になった」、「幕末 の開国史がかえって新鮮に映った」などの感想をみて、さすがはお金を払っ てまで出席する受講生だ、などと変に感心してしまった。 質疑では、対日外交における外交主体、フランス外交の「威信」とは何か、 などにわかには答えづらい質問もあったが、それだけ熱心に筆者の話に傾 注してもらえたということであろう。 註 (1 ) 本稿は、平成 30 ~令和 3 年度科学研究費補助金・基盤研究(C)「第二帝制下 フランス外交の異文化経験と極東戦略に関する基礎研究」(課題番号18K01020 研究代表者:野村啓介)による研究成果の一部である。 (2 ) その後、このナポレオンは大学講義のテーマとしても生き残り、結果的に新書 として上梓することができたのだから、無理にでも公開講座を担当した甲斐が あったともいえる。野村啓介『ナポレオン四代―二人のフランス皇帝と悲運の 後継者たち―』中央公論新社(中公新書)、2019 年。 (3 ) 本講座の内容の多くは、これまでの筆者の論考を基礎とする。主に、野村啓介「フ ランス第二帝制下の対日外交政策 ―日仏修好通商条約の締結をめぐって―」『国 際文化研究科論集』(東北大学大学院国際文化研究科)第23 号(2015 年)所収; 同「日仏修好通商条約正文(仏・蘭・和)に関する比較的考察―ナポレオン3 世下フランス対日外交の基礎研究―」『ヨーロッパ研究』(東北大学大学院国際 文化研究科旧ヨーロッパ文化論講座)第11 号(2016 年)所収;同 ”Diplomatie française à la recherche de la Constitution politique du Japon avant la Restauration de
1868: exemple de Léon Roches, un diplomate du Second Empire (1864-1868)”、『ヨー ロッパ研究』(東北大学大学院国際文化研究科旧ヨーロッパ文化論講座)第12 号(2017 年)所収。 (4 ) この点はより深い分析が残されるが、ワイン産業との深い関連については、た とえば野村啓介「フランス第二帝制下のボルドー商業界とワインづくり―1850 年代ボルドー商業会議所における砂糖関税論議を手がかりとして―」『ヨーロッ パ研究』(東北大学大学院国際文化研究科ヨーロッパ文化論講座)第10 号、平 成27(2015)年 3 月、155〜202 頁。 (5 ) 鳴岩宗三『幕末日本とフランス外交』創元社、1997 年、111〜118 頁。鳴岩は、 日本をフランスの友好国に、フランスのような文化的・軍事的強国にするとい う意図をそこに読みとり、「後進国指南役の気負いと自負の表現」(118 頁)であっ たとする。さらに、日本を植民地ないし保護領とするフランスの意図であると さえ解釈できる可能性が指摘される。ただし、これは欧米列強の資本主義発展 とそれにともなう帝国主義的拡張という伝統的議論の枠組みを前提とする説明 の域をでない。 (6 ) 少なくとも交渉のなかで、英語による意思疎通がなされなかったことは確実で あるように思われる。野村前掲論文「日仏修好通商条約正文(仏・蘭・和)に 関する比較的考察」。 (7 ) もはや「精神的皇帝」・「世俗的皇帝」と訳しわけるのが慣例となっている観が あるが、その用語法は聖俗の対比にもとづくがゆえに、「聖界」・「俗界」の訳 語をあてた。
(8 ) G. Duchesne de Bellecourt, La Chine et le Japon: L’exposition universelle, Revue des