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芥川龍之介『報恩記』の「報恩」の陰にかくされたもの

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芥川龍之介

『報恩記

大正十一年「中央公論」第三十七年四月号に発表された「報恩 」は、「阿隅港甚内の話」「北条屋弥三術門の話」「「ぼうろ」弥 三郎の話」の三話から成る複合独白体で描かれている。 その梗概は次のとおりである。 阿娘迷甚内」の話は、甚内自 身が伴天述にある男「ぽうろ」の為に「みさ」を依頓する所から 始まる。 盗人甚内はあるこがらしの夜、 北条段に盗みに入った。 北条屋で老夫婦が破産を目前に沈んでいた。 その主人の頗に見党 えのある甚内は、 北条屋弥三右衛門こそ、 かつて阿娘港で自分の 命を救ってくれた船頑であることに気付く。 甚内は、 その「恩返 し」に三 日以内に六干貰の金の調達を約束する。 また 、「北条屈 弥三右衛門」の話も伴天連への告白から始まる。甚内は約束を ' {寸 って北条屋の破産の危機を救ってくれた。それから二年後、 内が捕えられ、 一条もどり槍で曝首になっていることを弥三右術 門は矧る。 せめてもの「恩返し」に回向すると、それは、家出し

「報恩」

て梢息不明になっていた、 弥三右衛門の一人息子弥三郎のもので あった。「「ぽうろ」弥三郎」の話によれば、 弥三郎は荘内から受 けた父の恩を返そうと、 甚内の弟子になろうとするが、 相手にさ れない。 甚内の卦代わりになって首を打たれることにより、「恩 返し」と、「甚内」の名の持つ栄営を手に入れるという復牲を一 庶にしようとする。 ところで、「座談会菊池久米を囲む文学論」(「文学界 j 十一年九月号)において、 久米正紙は、 •昭和 芥川の初期のものなんといふものはつまり藍木が必ずあるん ですよいろんな意味でのね。彼はお手本を傍らに措いておか なきや咎けなかった男なんだ。 「今背物栢j を典拠としたもの、 「水教人の死」の「別人伝 j (「抱マリナ派貞」)、 「虹蛛の糸」の「因染の小屯」、 「戯作三味 j

JI I

の陰にかくされたもの

と発言する。 周知のように、 芥川には

祠生巳霰粥」

など 114

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-の「烏琴日記抄」など、 取り かたの多少はあるに しても、 ヒント を得た作品は多く数えられる。 この「報恩記」にも、 とントを与 えられたと考えられる作品がある。 それは、「鼠小俯実記」(昭和 凶年十月発行・早稲田大学出版部)に締めく くられる、 一述の 「鼠小俯物」である。 芥JIIには、「鼠小俯次郎吉」(大正九年一月)という作品もある。 この鼠小俯は、 英在の人物で、 天保三年(-八三二)八月十九日 .に獄門に処せられた。平戸蒲主松捕浄山の随節「甲子夜話』巻四 +=一によれば、 或人酋ふ。 頃ろ都下に盗ありて、 共族の応より始め、 国王の 邸にも処々入り たりと酋ふ 9 然ども人に疵つくること無く、 一切器物 の類を取らず、 唯金銀をのみ取去ると。去れども何 れより入と首こと悦て知る者なし。 因て人、 鼠小俯と呼ぶと。 と当時の 人々に評判であったことがわかる。 我々の 知る 「鼠小 俯」は、「天下の義賊」と称されている。 ところが実際は尾張、 水戸などの大名屈吸に忍ぴ込み、 三干二百一而二分もの大金を盗 んだが、 それを庶民にはわけなかったらしい。 ところが、 おなじ「甲子夜話続岱」径八十ーに、 鼠或日町家へ入り、 金子七拾両盗去りたるに、 蔀を卸し、 店 iu、ざして間寂たり。鼠疑ひ路人に問へば、 かの家先日金七十 両を盗みに遭ひ、 夫より身本乏しく成り、 境に見勢を仕まひ たりと開き、 鼠咬息して、 さても町人の身上は朝器の如し。 夫を収るは梢けなしと、 その夜又忍入り、 七十両の金を元の 如く密に入れ爵きたり。然れども又思ふは、 御大名の身上は 始れとは述ひ、 何もか、る手柔き者にても無し、 是より町家 は止めて侯家へのみ逍入た り。 これ人徳慈悲を知て、 敬忠を 知らざる者也。 とあることから、 弱い者(庶民)から は盗まず、 強い者(大名) からだけ盗んだので「義 賊」といわれ たのだろう 。 こ の「鼠小 俯」は、 大名が無条件に仰いとさ れていた江戸時代にあって、 た とえ金子は分け与えられなくても、 庶民には術快であったに違い ない。 これは日賞心記 j の阿姻港甚内が北条歴の危急を救う所と 酷似する。河竹黙阿弥は「以小紋束君新形」を、 松林伯円は踏談 「臥小俯次郎吉」をそれぞれ発表した。「鼠小紋束甜新形」は鼠 小佃以前に江戸をわかせた稲業小俯に仮託して柑かれてい て、 実 際の鼠小俯の事件との関係はあまりなく、 二つの盗人のネームパ リューに因ったものであろう。 術談「鼠小俯次郎古」は孫永三年(一八五一)の春、 江戸尾張 町、 重松で伯円が初めて閥座にかけた。江戸末期から明治初期の 不安動揺の時代には、 江戸の人々はこの白浪物を好んだようで、 鼠小俯の出し物の日は、 滴貝札止めになったようである。 しかし、 話の大部分は伯円の創作であ る。(「鼠小俯次郎吉後説・宝井馬 琴・ 「定本甜談名作全集j5•昭和四十六年二月・甜談社) 「甲子夜話続店 j と同辿の話、 講談「鼠小俯次郎吉」の「分鉗

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-115-伊勢床の没落」は、 ある宙の夜、 分鉗伊勢届へ泥棒が入って干両 とられたが、 たったの干両の被害で安上がりだったと伊勢屋がい う話を圃いて、 次郎吉は盗みに入る決心を する。 ところが「分絹 伊勢屈」に忍ぴ込んでみると、 主人の四郎兵衛、 その安お光、 番 煩の新兵衛が金策の思案もつきは て、 明日は生まれ故郷へ帰ると いう相談をしている。 みかねた次郎吉が声をかけると干両盗まれ た伊勢圧は、「丁字伊勢民」であり、 金が欲しいのなら、 自分遥 の路銀を削ってゃると主人は言った。次郎古は義侠心をおこし、 その夜のうちに三百両の糊達を約 す。 そして、 長州毛利家より111 百両を手に入れ、 分銅伊勢屋へ持っていく。 主人、 番頭ともに喜 ぴ、 盗人をやめるように意見するが、 次郎吉は、 もし自分が捕ら えられたら、 猫を建て るように頼 んで姿をかくす。 霰小俯尖記」の「次郎吉酒店の難渋を開く事併三河屋へ再ぴ忍 ぴ入り金子を返す事」でも、 次郎吉が前夜盗みに入った酒店の前 を通りかかると、 戸を閉めて商売をしていない。不称に思って近 隣の店で事梢を開くと、 前夜盗人が入り、 商売が立ち行か なく なってしまったということである。 次郎吉は、 後悔し、 盗んだ金 を返そうと三河屋へ忍ぴ入ると、 障子ごしに息子が奉公に出ると いう親子の会話を盗みllHく。 そして、 すっかり気の甜になった次 郎吉は、 そっ くりそのまま返してやる。 このよう に、 盗みに入っ た店でその店の危急を耳にし、 金を岡達する話はあったようであ る。 また、 身代わりになる話も、 議談「鼠小俯次郎古jの「度胸熊 が敢後の蒋根」では、 次郎古がお金をやって助けた二人が、 その 金を持っていたがゆえ に無災の罪をかぶる 。 そ の無実を証明する ために、 かつ て次郎吉が泄話をした熊蔵に正体を明かし、 身代わ りを 頼む。熊蔵は、「親分のような梢けの ある盗人は 世の中の融 通だ。」と快く引き受 け、 代わりにつかまる。 「鼠小俯実記 j の、 「次郎吉次郎吉の自訴を削く事併三古命に 替て曲みを解く事」では、 昔次郎吉に助けてもらった三吉 が、 大 阪にいる次郎吉の見知人を江戸に逍わして、 詮磁するということ を開き付けて、 江戸にやって来る。捕手の役人に向かって、「私 は昨夜大橋にて逃げ去し鼠小俯とあだ名せる次郎吉」と称して、 三吉は伝馬町へ送 られる。 そし て、「次郎吉に逢はねども恩の為 に身を捨て固めを解かん とて訴へ出しなりき。」と 「恩返し」を する。 このような「恩返し」の傾向は、 人々に好まれる姐材であった らしい。 芥川の「手帳」三に、(「芥川ffu之介全集 年七月、 岩波柑店刊 所収) 0第二鼠小俯。分荊伊勢屋の子。 復牲的。 〇恩返し の心。(親分の手助けをしたい) 十二巻』昭和五十

-

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i16-とあ る。「凪小俯次郎吉 j は、 大正九年一月に発表され、「報恩 j に二年先立つ。 このメモによれば、 芥川は、 鼠小俯の続紺を 咎くつもりがあったようだ が、 現実には、 大正九年四月九日付の 滝田哲太郎宛也間に、 凪小俯次郎吉続篤は当分執策の勇気無之七月の特別号には何 か外のものを也か せて頂く可く候 .と一時断念している。 ところが、 このメモは、「分銅伊勢屋」を 「北条陸」に変えるとそのまま、 弥三郎の性格に通ずる。 また、 これは、 講談「鼠小俯次郎古」の「分銹伊勢屋」と一致する。先 に述ぺた「臥小俯」の系甜が、 芥川の念頭にあったに迎いない。 芥川の「鼠小俯次郎古」は、 江戸を出て上方へ行っていた親分 次郎吉と、 子分の三年ぶりの対面の様子が、 二人の会話を中心に 描か れている。特に中心を成す のは、 二段格の八王子宿での「胡 麻の知」事件である。府中の宿のはずれから逍づれとなった越後 床服古に勧められ、 次郎吉は同じ旅能に泊ま る。 ところがことも あろうに、 煎吉は次郎吉の夜具に手を入れ、 胴巻を探る。 次郎吉 は、 手をつかんで布の主人に突き出す。 すると重吉は、「如何に も江戸で昭の麻え` 鼠小俯とはおれのことだ」と たんかを切る。 術の主人や番頭は態度を変え、 酒を迎んだり、 盗みの話に耳を傾 ける。 ところが次郎吉が、 第一伽前が紛れも無え、・ 日本一の大泥坊なら、 何もすき好ん でぺらぺらと、 為にもなら照え旧悪を並べ立てる筈が無えわ な。(略)役人始め真実御前が鼠小俯だと息ふかも知れ熙え。 が、 その時にや軽くて獄 門、 重くて傑は逃れ無えぜ。 それで も御前は鼠小俯か、ーと云はれたら、 どうする気だ。 と突っ込むと、「へい、 何とも巾し訳はござりやせん。 実は鼠小 倣でも何でも無え、 唯の胡麻の蠅でござりやす。」とあっさりと しっぼを出す。子分はそれを開き、 祖慨して、「日本の盗人の守 り本的、 私の贔展の鼠小俯を何だと思ってゐやがる。」と酋うと、 次郎吉は、 何もそれ程に業を党やす事は無え、 あんなIUl抜な野郎でも、 鼠小俯と名兼ったばかりに、 大きな面が出来た事を思や、 小俯もさぞ本望だらう。 と百い、 本当は、 自分こそが「鼠小俯」だと正体を叩かす。 これは、「凪小俯実記」の三吉が 次郎古の身代わりになること や、『報恩記」の弥三郎が阿媒池甚内の身代わりになって名乗る ことと同じである。「鼠小俯次郎古」においては「日本の盗人の 守り本収」である「鼠 小俯」と名乗ったことによって、「大きな 面が出来た」のである。 つまり「鼠小俯」は周別に投怖と雌敬を 与えるほどの名前であり、 次郎古本人も、 その人々の急変ぶりを 見て「木望」だと酋う。 また、 煎古もそれによって減罪を得よう、 舷栄心を沿足させようという程底の単純なものであった。 ところが、「報恩記 j の弥三郎は、「評判の翡い盗人」甚内の名 を恥ることによって、 117

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-ありとあらゆる甚内の名脊は、 悉わたしに奪はれるのです。 (三股笑ふ)云はば甚内を助けると同時に、 甚内の名前を殺 して しまふ、 一家の恩を返すと同時に、 わたしの恨みも返し てしまふ、ー・ と「恩」という大義名分の下に身代わりに なり、 犠牲になる代わ りに代償を得ようとする。 「鼠小俯次郎古」の諏吉が臥小俯を名 釆りながら、 鼠小俯本人に問い詰められ、 命が危なくなり、 おど されると小心にもすぐにしっぽを出してしまう。これは駐りに徹 しようとするした たかさに欠ける恥ずぺき行為である。それに対 じて 「報恩記」の弥三郎はあくまでぬりに徹し、 甚内の名声を奪 い、 大泥枠のふりをして死刑になる。 ここに「鼠小俯次郎古」か ら 「報恩記 j に至るまでの芥川の心境の変化がみられる。前者で は恐る恐る名を賜り、 死刑になることに令えている。しかし、 後 者では、 死刑を党悟して名を奪う。 もしこのにせの泥枠が芥川自 身であったら、 芥川は、 作品の素材を盗む行為を「郭恩記」の段 階では、死を決意して敢行したとも考えられる。 . ま た、 『或日の大石内蔵助』(大正六年) では、 偽物が本物の評 判を聞き、 まねをして、 それ を間いた本物自身が不快になる。元 禄十五年極月十五日、 主君の敵吉良上野介を討った大石良雄ら赤 穂浪士は、 細川家の預かりとなる。都府の判決が決まるまで、 赤 枇浪 士 一 . 同は、 細川家の手眠いも てなしを 受 ける 。 ある日、 四十 七士の一人、 早水藉左紺門が江戸の市中で赤穂浪士の敵討をまね た敵討がはやっている ことを聞き込んでくる。 この話を叫いた大 石の心には、「不快の 植」がまかれ る。大石は敵味方を欺くため に、 放泌の限りをつくす。しかし、 大石は、 その放茄の生活のな かに、 復凹の非を全伏�忘却した放泌を味わったことも事災である。 また、 この放泌の行為は、 自分の独創というより も既に伴狂に よって敵を討った先歎に従ったものである、 と大石は、 ひそかに 心に恥じていたのである。ところが、それをまねた敵討が江戸で 評判になる。その誤招を予想 し得なかった自分の恐に 対する反感 が、 大石の「不快」の内容である。 自分の惹志とは焦閲係な評判が立 ち、 枇間で肝判の行為を行っ た本人でありながらも「不快」を感じる。本物が作いと本物を囮 る偽物まで が、 本物らしくなる。『鼠小俯次郎吉 j の派吉ゃ、「報 恩記」の弥三郎は、その名芦を利用し、 評判を望む。しかし、 大 石は、 逆にその名芦を開くことによって、 自分との意識のずれに 「不快」を感ずる。 「以小俯次郎吉」では、 単に評判を望むだけ に留まっているが、『戟忍記」の弥三郎は、 名芦を盗む。そして、 首を切られる天削を受ける。 阿姻港甚内は、「評判の高い盗人」 である。ところが、阿時に 盗人以外の甚内ー呂宋助左衛門の手代、 巡歌師、通辞、 虚無俯、 薬売、 南蛮寺へ黄金の舎利塔を献じた偕徒など、多くの額を持っ

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-118-ている。変幻自在であり、 甚内にとっては自分自身は別の人物と して存在しなが ら、 同一人物なのである。とこ ろが、 泄間から見 れば、「盗人阿姐港甚内」すぎ ない。 北条屋の危急を知っ た時、 「昔の恩を返す時が来た」ーさう思ふ事が餡しかったのです。 わたしにも、 卸屈ね者の阿娘港甚内 にも、 立派な恩返しが出 来る愉快さは、ーいや、 この愉快さを知るものは、 わたしの 外にはありますまい。(皮肉に)批間の善人は可哀さうです。 何一っ悪事を拗かな い代りに、 どの位蒋行を維した時には、 婚しい心もちになる ものか、ーそんな事も数には知らないの ですから。 北条屋に阿嬢港で命を救われたことは、 甚内にとっては、「恩 を受けた j ことにちがいない。.北条屈の危急を救うために金を腐 達することは、 確かに「恩返し」たり得る。 ただし、 その金は甚 内が拗い て手に入れた物でも無ければ、 貯えた物でもない。 「盗 んだ金 」である。 そして、 甚内は自在に姿を変えつつも根底には、 批間の人が印するとおりの 、「御恥ね者」であるが故の俊越感が 窟える。 つまり、 悪人の自分でも人並みに将いことが出来るとい う喜ぴと 、 晋段悪事を拗いているからこそ、 蒋行がきわだっとい ぅ伍越感を持つ。 わたしのやうに四十年間、 悪名ばかり投つてゐるものには、 他人の、ー殊に幸福ら しい他人の不学は、 自然と微笑を浮か ばせるのです。 という愉快さと、 先の「盗人甚内」でも「恩 返し」の できる愉快 さは同賀のものである。 そしてそれは、「盗人」(悪人)でも「恩 人」(報人)に「恩返し」(蒋行)ができるという、 事の蒋悪(盗 んだ金で恩返しをする )を超越した級越惑、 沿足感へと発展する。 北条屈弥三右衛門の心理変化は次のとおりである。 0盗人に金を調迷して貰ふ、ーそれが可笑しいばかりではご ざいません。 0盗人に金を施して貨ふ、ーそれはあなたに伺はないでも、 確か に善い事ではございますまい。 しかし朗逹が出来るか どうか、 半侶半疑の坑にゐた時は、 善悪も考へずに居りま したし、 又今となつて見れば、 むげに受け取らぬとも申さ れません。 しかもその金を受け取らないとなれば、 わたし ばかりか一家のものも、 路頭に迷ふのでございます。 最初は、 盗人に「盗んだ金」を岡達してもらう ことは、「可笑し いこと J であった。 とこ ろが次第に彼の心は「粒い 事ではござい ますまい」、「むげに受け取らぬとも申されません」と変化してい く。 そしてつい には、「受け取らないとなれば、 わたしばかりか 一家のものも路頭に迷ふのでございます J と正当化される。自分 述の危急が救われるのなら ば、 漑迷金の索性はかまわない。 この気持らは、 弥三右衛門の内でますます附長し、 すり替えら れていく。 枯内が召し捕られ、 咽首となったことを開き、 0しかし梢忠の祁と息へば、 これも致し方はございますまい。 119

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-いや、釦ごっこの水年、 天削も受けずに屈りましたのは、 息議だった位でございます。 が、 せめてもの恩返しに、 ながら同向をしてやりたい。ーかう息ったものでございま すから わたしは今日伴もつれずに、 早速一条戻り柏へ、 その恥し甘を見に参りました。 と回向する。 甚内が球首になったのは、「梢悪の報」であり、「水 年、 天悧も受けずに居りましたのは、.不m心議だ」と弥三右術門は 息う。 して、「せめてもの恩返し」に同向を思いつく。「盗んだ 」を、 たとえ一家の糊口のために使ったとして も、 もはや、 人は同卯である。 ところが北条屈の念頭に、 そういう考えは館ほ ども無い。身代を立てれせば、 そのための金の索性も知らぬ間に 正当化される。 これは、 芥川自材の心梢変化でもあったのではな いだろうか。 また、 弥三右衛門 にとって は、「盗人」甚内も、 ... とうとう分散もせず、 恙ないその8を送られるのは、 仔甚内の御阪でございますか ら、 何時でもあの男の仕合せの ·· 為に、 人知れずおん母「まりや」様へも、 祈恥をこめてゐた のでございます。 と「恩人」になるのである。 条屈の息子弥三郎は、 ある営の夜、 北条歴に忍ぴ込んで阿娘 迷甚内と父弥三右衛門の会話を盗みIIHき、 甚内を追いかけて、 北条一家の淡った恩は、 わたしにも亦かかつてゐます。 わた しはその恩を忘れないしるしに、 あなたの手下になる決心を しま した。 5日 うが甚内に一蹴されてしまう。 それに服を立てた弥三郎は、 わたしはこの二年間、 甚内の恩を返したさに、 どの位苦しん だか知れません。 恩を返したさに?ーいや、 恩と首ふよりも、 拘rろ恨を返したさにです。 と「恩」を返すに見せかけて、「恨」も返そうとする 甚内の身代りに首を打たれるー何と すばらしい事ではありま せんか。 さうすれば勿溢わたしと一しよに、 社内の叫も亡ん でしまふ。ー甚内は広い日本国 中、 何処でも大威張りに歩け るのです。 その代り(再ぴ笑ふ)ーその代りわたしは一夜の 内に、 稀代の大賊になれるのです。(略)ー ありとあ らゆる 甚内の名抒は、 悉わたしに料はれるのです。(三殷笑ふ)云 はば甚内を助けると同時に、 枯内の名前を殺してしまふ、 家の恩を返すと同 時に、 わたしの恨みも返してしまふ、 ーこ の位愉快な返報はありません。 わたしがその夜妍しさの余り、 笑ひ紐けたのも当然です。 弥三郎の「恩返し」は、 甚内の代わりに首を打たれることであっ た。 弥三郎の犠牲は大きいようである。 かしそれは、「囚心を返 すと同時に、 わた しの恨みも返してしまふ」という二雁性を持っ ている。 甚内も、 弥三右術門も、 弥三郎も、 それぞれ「恩返し」を掲げ ながら、 それ ぞれの利己心を泌足させている。 -

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120-甚内は、 阿姐港での「恩」を返そうとしながら、 蒋行を施す愉 快さを得るために、 金を岡達した。 弥三右衛門は、 甚内から「恩 返し」を受け、 身代を立て直す金を用 立ててもらうが、 その金の 素性を忘れ、 甚内を憐れむ。弥三郎は、 甚内の代わりに首を打た れるが、 同時に甚内の もっている名券を手に入れようとする。 そ れぞれに「純粋な恩返し」ではないのである。 芥川は、 小説稼業を続けるために、 他からの素材の提供を受け る。 その「恩」を彼は次第に 忘れていく。 それは北条屋が盗んだ 金で身代を立て直し、 ほうかむりをしていると同様である。とこ ろがこの結果、 息子の弥三郎が死刑になる。 この因果応報を北条 腟は、 恨而に受けた。芥川にもこの他機は迫りつつあったのであ る 。 「せめてもの恩返し」に回向した北条足の見た屈酋は、 甚内で はなかった。 「弥三郎1.」ーわたしは舌さへ動かせたなら、 かう叫んでゐた かも知れません。 盗人の受ける当然の報いという気持ちは、 首を見た吟間になく なってしまう。 そして、 甚内に危急を救ってもらった針の夜、 枯 内と争っていた男が弥三郎であったことに気付く。 わたしもあの阿娘湛甚内に一家の没裕さへ救はれなければ、

こんな咲きは致しますまい に。 いくら未紬だと111心ひましても、 こればかりは切なうございます。 分散せずにわた力が好いか、 作を殺さずに慨いた力が好いか、ー(突然苦しさうに)どう かわたしを御救ひ下さ い。 わたしは、 この侭生きてゐれば、 大恩人の甚内を悧むやうになるかも知れません。 弥三郎は、 一家の大恩を返すために身代わりになったと北条屈は 考えた。手前勝手な理由をつけて、 善悪の判斯を狂わせた北条屈 は、 最も大切な息子 を失ってしまう。 「あの阿姻港甚内」と言う 北条困には、 甚内に対する蔑みが感じられる。 そして、 弥三郎の 心中を知らない北条困にとっては、「恩返し 」をして<れたと納 得せざるをえないが故に、 悲しみは深いのである。 ところが、 弥三郎は、 もし父の弥三右衛門に、 わたしの躯し首を見られた時には、 |(苦しさうに)堪忍してください。 お父さん!吐血の病に 罹ったわたしは、 たとひ首を打たれずとも、 三年とは命は続 かないのです。 どうか不幸は堪忍して下さい。 わたしは極道 に生まれましたが、 兎に角一家の恩だけは返す事が出来たの ですから。 :··: と余命いくばくも照い。 弥三郎は、 命をなげうってはいるが、 そ れは期限の決まった命である。 これは、 弥三郎が本物に成りえな かった理111の―つではないだろうか。「息を恨みで返す」ことを 「一家の恩を返す」ことですり特え、 正当化し、 父に対しても、 121

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-大殿は良秀の要求どおりの車を作り、 火をかける。 ところが、 自分勝手な大義を掲げ、 最も大切なものを失うのは、『地菰変」 (大正七年)である。絵仏師良秀は、 目に見たものでなけれぱ栂 けない為に、 誰彼となく無理無体を弛要する。 ある日、 堀川の大 殴が良秀に「地狐絵の屁凪」を申しつける。 ところが、 良秀は大 殿に、 見た物でなければ描けないし、 得心が行かぬと訴える。 そ して、 良秀は、 棺榔毛の車の中に美しい上服を入れて火をかける よう懇顧する。 大殿は、 その人間が考えつ いたと思えないような 要求を受け入れる。 六 企命.いくぱくもない身であるか ら、 恩返しに命を役立てたと、 天 がを全うしないことをも正当化している。 以上のように、 三人三様に大義を掲げつつも、 それぞれの利己 心を潤足させている。 甚内は、 利己心を油足させるための将行で あっても、 価他惑は一貫している。 即ち、 自分は「名邸い盗人」 であっても、「悪人」であるから 、 弥 三郎が手下になることを馴 い出ても、「白船めが1・親孝行でもしろ!」と一 蹴し、 弥三郎が 喝首になったと知れば「みさ」を馴う。 ところが、 北条橙と弥三 郎は、 善悪の価位感さえもmlillに逆転する。 そして、 北条恥は最 愛の息子の命を、 弥三郎は己れの命を、 二人にとっては餃も大切 なものを失うのである。 車中の上脱は、 良秀自身の 娘なのであった。 さすがに、「良秀の 心に交々往来する恐れと悲しみと焼き とは、 胚々と額に描かれ」 る。 しかし、 次の瞬nrl、「さつきまで地独の費苦に苦しんでゐた ゃうな良秀は、 今は言ひやうのない輝きを、 さながら枕惚とした 輝きを」滴面に浮かぺる。 こうして出来上がった昇凪絵は、 それを見た人に「不思議に戯 かな心ももちに打た れて、 災熱地菰の大苦難を如実に感じる」ほ どであった。良秀は、 屏凧の出来上がった次の夜に、 梁に縄をか け「縦れ死」をする。 良秀は芸術心を滴足させ、 人々から貨賛をあぴるような絵を描 く代償として、「気迩ひのやうに可愛がつてゐた」娘を失い、 自 らも又、 自分自身の中の芸術至上主義と、 父親として、 人間とし て●してはならないことをし てしまった苦しみに耐えきれ ず、 命 を断つ。 このように、 人間としての禁忌にふれる と、 何等かの制故が下 る。 このよう な楠造を持つ小説に『妖婆」(大正八年)がある。 「妖楼」であるお島婆さんは、 占いをしてお金を稼いでいる。 占 いの的中率はほぽ百パーセントで、 大変評判が良い。 ところが、 この占いは「歩とも現と もつかな い枕惚の境にはいったものは、 その間こそ人の知らない泄 界の梢息に通じるものの、 酪めたが最 後、 その間のこと はすつかり忘れてしまう」の で、 一人ではこの 占いはできない。 そこで、 芳い娘を巫女に仕立てて神の託虹をUff 122

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-くが、 娘は、 お島婆さんのあまりの悪どいやりかたに、 良心の咎 めを受けて自殺する。 困ったお島婆さんは、 親類の娘を澤公先か ら呼ぴ寄せて、 返れなくする。 この娘は、 神がかりにされた時に、 失神したふりをして、 自分を返さなければ、 命を取ると営おうと する。 しかし、 神がかりになるといつものように気が遠くなり、 計画は失敗したかに見える。どこ ろが、 実際は神がかりにあった 娘は、「自分を返さなけれ ば命に関る」と婆に忠告 し、 婆は「神 嗚りに打たれて死んで」しまう。 芥川は、 この「妖婆」をつアグニの神」(大正十一年)に童話 として術き直している。 話の筋は、 印度人の婆さんが、 日本人の 女の子を誘拐し、 託宜に使う。 そして、 女の子は神がかったふり をして自分を返すように酋う、 大変似通ったものである。 しかし 今庇は、 神と婆の対決が大変長く記される。 「いや、 おれはお前の顛ひなぞは開かない。 お前はおれの哲 ひつけに背いて、 いつも悪事ばかり働いて来た。 おれはもう 今夜限り、 お前を見拾てようと思ってゐる。 いや、

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悪事の罰を下してゃらうと息つてゐる 。(略)お前は憐れな 父親の手から、 この女の子を盗んで来た。 もし命が情しかつ たら、 明日とも言はず今夜の内に、 早速この女の子を返すが 好い」 。 ところが、 婆は、 「早迷お前を父親へ返せー苔察のお役人ぢやあるまいし、 ア 「利己心」を滴足させるため には、 そして大義名分のためには、 どのような手段を用いて正当化しても許される。「報息記」にお いて、 阿娘港甚内は背助けて買った恩返しのため に、 北条屋弥三 右衛門は、 身代を立て匝すために、「ぼうろ」弥三郎は、 父弥三 七 グニの神がそんなことを御言ひつけになってたまるものか。 (略)さあ、 正直に白状おし。 お前は勿体なくもアグニの神 の、fJU色を使ってゐるのだらう。」 と相手にしない。 そして「アグニの神 」は、 神の命令に背く者に は、 冊を与えると言う。 その罰は「死」なのであ る。 しかし神の 声と人JUIの声を間き分けられない婆は、 その託宜を、 神の真実の 声を開くことはできない。 そして、 事実、 婆さんは意外にも自分の胸へ、 自分のナイフを突き立てた侭、 血だまりの中に死んでゐました。 とついに「死」という剥を受ける。 この 「妖婆』と「アグニの 神」については、 拙稿「芥川侃之介「妖婆」の技巧」(「岡大国文 論稿」十五号・昭和六十三年三月)を参照さ れたい。 お島婆さんも、 印度人の婆さんも、 神を祭り、 託宜を商売にし ている。 そのための媒介として はどうしても若い娘が必要であり、 「盗んで」来る。 金儲けゃ悪事に神と娘を散々利用した掲げ句、 神から削を下され、 死を 与えられる。 123

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-. 右 術門の受けた「恩」のために、「地獄変 j では、 芸術のために、 「妖婆」 I アグニの神」では占い(金儲け)に他から何かを盗ん でくる。しかし、 それぞれに何者にもかえが たいものを失ってし まう。 倣愛の息子や娘、 自分自身の命など、 一時の利己心の代償 としてはあま りにも大きなものである。 「椛生門」(大正四年) の下人は、 股初、 死体から娑を抜く老婆に「あらゆる悪にたいす る反惑が、 一分侮に面さを削 J す。また、 餓死と盗人では「何の 未糾もなく、 餓死を選んだ事だらう」という気持ちであった。 し かし、 老婆の「ここにいる死人たちは、 それくらいなことをされ .. てもいい人間だ」 、「せねば餓死をするぢゃて、 仕方なくした事で あろ。」という言葉を聞くうち に、 次第にある 「勇気」が涌いて くる。 それは、 さつき門の下で、 この男には欠けてゐた勇気である。 さうして、 又、 さつきこの門の上へ上がつて、 この老婆を捕 らへた時の勇気とは、 全然、 反対な方向へ動こうとする勇気 である。下人は、 磯死をするか盗人になるかに、 迷はなかつ たばかりではない。 その時の、 この男の心もちから云 へば、 磯死などと云ふ事は、 殆、 考へる事さへ出来ない程、 意識の 外に追ひ出されてゐた。 ど下人の心は変化する。「生きるために盗むことは悪ではない」 口という下人の行方はわからない。 しかし、「生」のために正当化 • さ れた・「盗み」 への「罰」は、「死 」であったかも知れない 。 「猿 j (大正五年)には、「盗雅事件」が出てくる。 士官候補生 の私が、 遠洋航海を終えて横須賀に入港し、 上陸の間際になって、 艦内に盗難事件が発生する。身体検査と所持muII検究がなされた粘 呆、 盗品は、 奈良島という但号兵の帽子の中から発見される。 と ころが、 この奈良島の姿が見えないので、 捜索し、 自殺寸前のと ころを取り押さえる。 この航海の途中に砲術長が、 一匹の狡を手 に入れ、 その狼が船長の時計を盗んで逃げた ので、 大騒動になり、 やっと水兵が捕まえる事件があった。 この狼事件と奈良島事件と が似ていると、 同僚がおもしろが ったの を、「私」が「奈良島は 人皿だ。 猿ぢやあない」といったのである。奈良島は、 補賀の海 軍監獄に送られた。 一方、「狼」は、 最初は二日間、 絶食の懲削 を受けたのであるが、 その期限が切れないうちに、 削を与えた本 人が、「しよげてゐるのを見る と、 狡にしても、 可哀さうだから」 と罰則を破って、 猿に、 餌を与えてしまう。 また『地狐変」にも「猿」は出てくる。 堀川の大殿に、 丹波の 国から一匹の猿が献上される。絵仏師良秀は、 立居板舞が猿に似 ていることか ら、「猿秀」と あだ名されて いた ので、 逆に猿は 「良秀」と名付けられる。良秀の娘が、 御殿へ奉公に上がってい たが、 長廊下を通りかかる と、 むこうから、 狼の良秀がぴっこを ひきながら逃げてくる。 その後ろから礎を板り上げた若殿が「柑

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-子盗人め、 待て。待て。」と追い掛けてく る。 娘はさるを抱き上 げて、 莉殷に小腰をかがめて、 畜生であるから、 と命乞いをする。 それでも許さない若 殿に、 娘は更に、 その狭の名前を持ち出し、 良秀というと父が折檻を受けている ようなので見ては居られない、 と思い切ったよう に付け加える。若殿は、「父親の命乞なら、 げて赦してと らす。」と承知する。 赤羽学先生は「芥川師之介と猿」(輔仁大学「日本距日本文学」 .十一耕中部民国七十三年十二月)(昭和五十九年)の中で『猿」 における猿の行為は芥川の手法の校倣と窃盗にあた り、 それは猿 の場合は許されるが、 人間の場合は許されないとして、 自分への 戒めとしたものであると考えられた。 「猿」は「盗み」を臥いても許されるが、「人間」は許されな い。 これを芥川の小説に当てはめてみるとどうか。彼の数々の作 品には典拠があり、 それを明確にしているものと、 そうでないも のがある。明確にされた小説は、 典拠とそれを 比ぺることによっ て、 芥川の「技拭」を知る。 ところが、 芥川にしかわからない典 拠を持つ小説については、 説者はそれが芥川自材の「独創」であ ると111心うに述いない。 或和 の術いたものは独創的だ。 や、 決して独創的で はない。第一誰が独剖的だった のだ?古今の天才の曲いたも のでプロトタイプは至る所 にある。 就中依は度たぴ盗んだ。 芥川の死後発見された 間中問答」(昭和二年)の一節である。 「或戸」は、 芥川の小説を独創 的だと評価するが、 芥川自身は 「盗んだ」ことを認めている。 この意識は絶えず彼の中にあった に述いない。 それが、 小説の中に見え閲れするのである。 ところが、「猿」の「猿は懲冊をゆるされて も、 人間はゆるさ れませんから」という哲業は、 自分の小説に貨任を持とうとする 芥川の言葉であった。 小説家に とって、「小説」は何者にも代え がたい「命」である。 小説を掛くために、 様々な人の話や、 本か ら盗む。彼はこの「盗み」を正当化しようとしながら、 小説を咎 き続けていたのである。 ところが、 ついに、 彼の心の中の「神」が冊を下した。 盗んだ 「種」を元に戻すようにとの命令である。 そして、 芥川は、 その 命令に従えば、 彼の 小説稼業は成り立たなくなる。 北条屋は、 んだ金で身代を建て龍した代償に息子を失っ た。 それ以上に芥川 は自分の命を失った。彼は昭和二年七月二十四日、 自殺してしま 、?

A参考論文>

赤羽学「芥川此之介と猿」(枯仁大学「U本栢El本文学 j 十一柑中旅民困 七十三年十二月)(旧和五十九年) 赤羽学「芥川侃之介における棋倣と独創」(岡右十三位中飛民困七十六年 十月)(昭和六十二年) 125

参照

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