<論文>
産業組織体におけるコミュニケーションエラーの
発生メカニズムとその防止対策に関する研究
施 桂 栄*1○
、井 上 枝 一 郎*1
A Study on the Generating Mechanism and Preventive Measures of
Communication Errors in Industrial Organizations
Guirong Shi*1○
Shiichiro Inoue*1
In the causative analyses of the accident and trouble which have occurred in various in-dustrial organizations, it is clear that the human factor is prominently involved. In these analyses the importance of preventing communication error, often called “the king of human error,” is often pointed out. In this study, accidents were analyzed from the view of human psychological traits and organizational behavior, along with an examination of the basic proc-esses of communication, and the factors which cause communication errors. Furthermore, based on this analysis and examination, the generating mechanism of the communication er-rors was clarified and the preventive measures which can be implemented for individuals and organizations were proposed. For future study, the question how to verify the validity of the preventive measures of communication errors was discussed.
*1 College of Human and Environmental Studies, Kanto Gakuin University; 1―50―1, Mutsuurahigashi, Kanazawa-ku, Yokohama 236―8503, Japan.
key words:コミュニケーションエラー(Communication Error)、
産業組織(Industrial Organization)、エラーメカニズム(Error Mechanism)、 エラー防止対策(Error Preventive Measure)、ヒューマンエラー(Human Error)
1. 問題の提起と研究の目的
コミュニケーションは人間が社会的生活や仕事を円滑に営むためには必要不可欠な行為である。 コミュニケーション(communication)の語源は、ラテン語のコミュニス(communis)、すなわち
共通したもの、あるいは共有物(common コモン)である。したがって、コミュニケーションは、 単に「情報を伝達し合う」ことだけではなく、「情報を共有する」ことだと理解される。情報を伝 達し合うだけでは、コミュニケーションの本来の目的を果たすことはできない。情報の種類は人間 の意思、思考、知識などだけではなく、そこには感情も含まれており、人間の情動的な共感もコミュ ニケーション行動の機能となっている。コミュニケーションには二つの種類がある。一つはバーバ ルコミュニケーションであり、言うまでもなく、これは言語による通常のコミュニケーションのこ とである。加えて、もう一つはノンバーバルコミュニケーション(非言語的)と総称される方法で あり、言語以外の手段によるコミュニケーションである。具体的な例を挙げると、声、表情、視線、 振る舞い、服装などがあり、これらは言語的コミュニケーションを支える役割を果たしている。 コミュニケーションの目的は、情報を伝える側と情報を受け取る側との間に、同じ意味内容の情 報を共有させることに他ならない。理想的には、両者間の情報共有率は100%で完全に一致しなけ ればならないが、現実的には、様々な要因によって情報の伝達に歪み(エラー)が生じることが多 い。このようなコミュニケーション過程に発生するエラーは、一般にコミュニケーションエラーと 呼ばれている。例えば、日常の生活においては、誰でも家族や友人と待ち合わせをする時に、同じ 駅の別の出口で待ったりして、いらいらしたり、心配したりした体験があるだろう。同様なこと は、様々な産業組織においても、仕事を遂行するための情報のやりとりが正しく行われないことが 少なくない。このような場合のエラーは、日常生活とは異なり重大な結果を来たすこととなる。医 療現場では、情報伝達ミスによる事故が頻発している。投薬に関する医療事故で、とりわけ多い内 容は、点滴に関するものである。直接的要因は指示の見間違い、薬品の名称や量の取り違い、点滴 の滴下速度の間違いなどがよく指摘されている1)。また、他産業においても(原子力発電や製鉄、 建設、化学工場など)、伝達情報漏れや誤情報の伝達、情報の誤解釈、伝達の省略などによる事故 もしばしば起こっている。これらのエラーによって、莫大な人的・財的な損失が招かれていること は周知の通りであり、現在、産業組織においては、コミュニケーションエラーを防ぐため有効な方 法の確立が急務となっている。 しかしながら、様々な産業組織において発生した事故やトラブルの原因分析の報告を俯瞰する と、人的要因の中でも、ヒューマンエラーの王様と呼ばれている上述のようなコミュニケーション エラーに因るものがその多くを占めており、たしかに、産業現場では、コミュニケーションエラー を防ぐための各種の方法が工夫されている現実があるが、改善の兆しがあまり見られていないと言 わざるを得ない。そこで、本研究では、コミュニケーションの基本プロセスを礎に、人間の心理特 性や組織行動などの視点から事故事例を分析し、コミュニケーションエラーを引き起こす影響要因 を明確にすることを企図した。さらに、これらの結果に基づいて、コミュニケーションエラーの発 生メカニズムを検討し、個人や組織の中で実行できる防止対策を提案することを目的とした。
2. コミュニケーションエラーについて
2.1 コミュニケーションの基本過程 コミュニケーションの基本的な要因には4つがある。第1は情報を送る送り手、第2はそれを伝 える媒体、第3は伝えられる内容、そして第4は情報の受け手という要因である。コミュニケー ションのプロセスを表すコミュニケーション・モデルとして最も著名なものは、シャノンとウィー バーによるものである(図1)。この図は、対人コミュニケーションのモデルではなく、情報通信 の効率を高めるために考え出された通信モデルである。しかし、その後のコミュニケーション研究 に大きな影響を与えているものである。このモデルを応用する際には、情報源は発信者、送信機と 受信機は人間の脳、チャンネルはメディア(媒体)、目的地は受信者、送信信号はシンボル(記号) と考えれば理解しやすい。すなわち、送信者が音声であるメッセージを送信機に送り込む。それ が、送信信号に変換され、チャネルを通り相手のところに受信信号として送られる。そして、受信 機によって音声であるメッセージが復元され、受信者に伝えられると解釈することができる。重要 な点は、このチャンネルを通過する際にさまざまな雑音源(影響要素)が存在して、コミュニケー ションに歪みが発生するという点にある。メッセージを送信信号に置き換えるプロセスを記号化 (encoding)と呼び、逆に受信信号からメッセージを取り出すプロセスを記号の解読化(decod-ing)と呼ぶ。このプロセスは、一般に人間が頭の中に浮かべる表象を言語などの記号に変換した り、あるいは逆に、言語などの記号から意味を取り出すプロセスを指す場合によく使われている2)。 コミュニケーションエラーを引き起こす根本的な要因についての分析は、いきなり心理的な要因 (性格、人間関係等々)を持ち込むべきではなく、まずは、このような基本的なプロセスに沿って 行うべきであると指摘しておきたい。 図1 シャノンとウィーバー(1949)のコミュニケーションモデル2.2 情報伝達の歪みの発生 前述したように、送り手と受け手の間に何らかの情報の伝達がなされたからと言って、それだけ ではコミュニケーションが成立したということにはならない。コミュニケーションの目的は、送り 手が受け手に自分の意図を理解させ、共有するところにある。受け手が送り手の意図した内容を正 しく理解していなければコミュニケーションが成立したということにはならない。図2は、メッ セージ伝達のプロセスを表したものである。 通常、話し手は聞き手にメッセージを伝える時に、頭の中に話したいと思う事柄を次々に想起し ながら話す。そして、その事柄を言語化しているのであるが、一定の時間内では想起した内容の 75%ぐらいしか言語化されないと言われている。つまり、この脳内の情報処理(情報の意図化)と 情報の言語化という行動が、意識上(例えればワーキングメモリー内)で同時に起こっているた め、話し手は、想起した事柄の全てを話すことができたと思ってしまう(ごく当たり前の人間特性 に他ならない。しかし、日常的には誤解と称される)。 一方、聞き手は、話された内容について、自らの持っている知識データベースに依拠して情報処 理を行う。したがって、話し手と聞き手の伝達構造(使用語彙、データベース、バイアス傾向等々) が似通っていればよいのであるが、これが異なっている場合には、最大で25%くらいの歪みが発生 してしまうと言われている。したがって、計算すれば、話し手の意図の50%強(75%×75%=56%) の情報内容しか聞き手には伝達されないことになり、結果的にコミュニケーションエラーの発生と いう事態となる。では、コミュニケーションエラーの発生には、具体的にどのような要因が絡んで いるのか、それについて、実際に発生した事故事例を分析することによって以下に検討を試みる。 図2 情報伝達の歪みの発生プロセス
3. コミュニケーションエラーの発生メカニズム
3.1 医療事故についての分析例 現在の医療現場は、医療に関わる診察・診断、治療方針の決定、その実行というプロセス以外 に、情報を伝達するという仕事が業務としてその重要さを増している1)。医者と患者、看護師と患 者、医者と看護師、看護師と看護師との間で毎日大量な情報のやりとりが行われている。しかも、 患者の容態は常に変化するので、それに応じて、治療も変化しなければならない。また、人間が直 接かかわらなければならない作業が多いため、コミュニケーションを円滑に行うための環境を十分 に整えることが他の産業現場に比べてひと際重要だと考えられる。典型的な事故事例を挙げると、 横浜市立大学医学部附属病院で起こった患者の取り違い事故がある。平成11年1月11日に、横浜市 立大学医学部付属病院において、2人の患者を取り違えて手術を行うという医療事故が起こった。 このようなことは、医療機関としてあってはならない重大な事故であるため、「横浜市立大学医学 部付属病院の医療事故に関する事故調査委員会」が設置され、事故の事実確認及び原因の究明、事 故の再発防止を図るための調査、検討が行われている。ここでは、この事故調査委員会報告書3)に 基づいて、コミュニケーションエラーの発生原因について分析を試みる。 3.1.1 事故の概要 平成11年1月11目(月)、附属病院の手術室において、外科病棟(第1外科)の患者(A 氏、B 氏)の手術を行う際、A 氏を B 氏と、B 氏を A 氏と取り違え、それぞれ本来行うべき手術(A 氏 は心臓手術、B 氏は肺手術)とは異なる手術(A 氏は肺手術、B 氏は心臓手術)が行なわれた。 A氏の入院経過:A 氏(74歳、男性)は、平成10年7月、地域の医療機関を受診し、検査を受け たが、その際、心臓疾患を疑われ、手術への身体的適応条件の適否を含め、精密検査の目的で、附 属病院に紹介された。9月17日(木)、附属病院第1外科を受診し、10月19日(月)に入院して検 査を受けている。 その後、平成11年1月7日(木)、附属病院第1外科へ入院、11日(月)、心臓手術を予定してい たが、B 氏と取り違えられ、予定されていなかった肺の嚢胞切除が行われてしまった。その後、A 氏は ICU に入室したが、ICU の医師が心臓手術を受けた患者(B 氏)が A 氏でないことに気が付 き、初めて患者の取り違えが確認されることとなった。 B氏の入院経過:B 氏(84歳、男性)は、平成10年10月、地域の医療機関において健康診断を受 け、肺に異常陰影があることがわかり、附属病院に紹介された。10月22日(木)、精密検査の目的で附属病院第1内科を受診し肺腫瘍が疑われたため、11月24日(火)、手術目的で第1外科を受診 し、検査を受けた。12月28日(月)、付属病院第1外科へ入院、平成11年1月11日(月)、肺手術を 予定していたが、A 氏と取り違えられ、予定されていなかった心臓の僧帽弁形成術が行われた。 その後、B 氏は ICU に入室したが、B 氏の体重が、本来心臓手術を受けるはずだった患者(A 氏) の手術後の予想体重と異なっていたことが契機となり、A 氏でないことが確認された。 3.1.2 事故の事実経過とコミュニケーションエラーの要因分析 本件事故が発生した平成11年1月11日(月)午前8時20分頃から午後4時45分頃までに至る看護 師と患者、看護師同士、看護師と医者、医者と患者との間に生じた一連のコミュニケーションエ ラーが事故の発生に直接関連していることが明らかになっている。以下では、事故当日の経過をた どりながら、コミュニケーションエラーを引き起こした直接要因と間接要因に関して分析を行う。 <病棟から手術室交換ホール> 午前8時20分深夜勤務の病棟看護師 C ともう1人の病棟看護師が、病室から、それぞれ A 氏、B 氏を同一階の業務用エレベーターの中まで移送した。その後、C が1人で、業務用エレベーターで A氏及び B 氏を手術室のある4階まで移送した。 ・要因分析:1人で二人の患者を同時に移送するという作業は業務管理上の問題であり、コミュ ニケーションエラーを起こしやすい状況を作ってしまっている。 当該病棟(第1外科)では、看護師が2つのグループに分かれ、それぞれのグループごとに受け 持つ患者を決めるという看護方式を採用していた。A 氏及び B 氏は、C が属するグループの患者で はなく、C は、A 氏、B 氏とほとんど面識がなかった。 ・要因分析:看護師 C が自分のグループが受け持っていない患者を担当するのはやはりヒュー マンエラー防止という観点からは問題である。二人の患者との面識がないことは、患者の識別に補 助的であれ機能するノンバーバルコミュニケーションさえ取れないという状況になる。 Cは、4階エレベーターホールから同じ4階にある手術室の患者交換ホールまでの約14メートル の距離を、2台のストレッチャーを交互に動かしながら移送した。A 氏及び B 氏のそれぞれのカ ルテは、それぞれのストレッチャーの下にある籠に入れて搬送している。 ・要因分析:患者とカルテを密着させずに運ぶということは、患者とカルテを取り違えるリスク をすでに内包させる手続きであり、その後の伝達ミス生起の重大な潜在要因である。
<手術室患者交換ホール> 病棟看護師 C は、手術室患者交換ホールに到着後、2台のハッチウェイ(ベルトコンベアを使 用した手術室への患者移送口)の内、交換ホール入口からみて奥側のハッチウェイに対し平行にす る形で、手術室側に A 氏を、その外側に B 氏を並べた。病棟看護師 C は、「A さんと B さんです。」 と伝達した。 手術室看護師 D(手術日の3日前の1月8日(金)午後3時に、A 氏、引き続き B 氏を術前訪問 し、面談している。)は、B 氏の手術担当看護師 E と F が引き継ぎのためハッチウェイ横に来たと き、「B さんおはようございます」と A 氏に声をかけた。その後、C は、「A さんお願いします。」 と言い、A 氏を交換ホール奥側のハッチウェイに乗せて送った。 ・要因分析:手術室看護師 D は、A 氏と B 氏と面談したことがあったが、なぜか、手術室側に いる A 氏(ハッチウェイに一番近い)を B 氏であると思い込み、病棟看護師 C に確認していない (伝達ミスを防ぐ重要な手続きである確認行動が行われていない)。この看護師 D の確認行動の省 略が発生した原因として、B 氏の手術担当看護師 E と F がすでにハッチウェイ横に来ていたこと が何らかの影響を与えたことはヒューマンエラーを考える上では押えておきたい点ではある。 手術室看護師 D は、A 氏に対し、「金曜日にお伺いした D です。B さんよく眠れましたか。」と 声をかけたところ、A 氏は「はい」と答えた。B 氏の手術担当看護師 E と F は2人の患者とは面 識がなく、D が「B さん」と話しかけたことから、A 氏が B 氏であることは疑いもせず、A 氏を、 肺の手術を行う12番手術室に移送した。 病棟看護師 C は、A 氏の次に、B 氏をハッチウェイに乗せ、手術室側に送った。A 氏の手術担当 看護師 G と H は、B 氏を、心臓の手術を行う3番手術室に移送した。G と H はいずれも A 氏との 面識はない。手術担当看護師 G は、B 氏に「A さん寒くないですか。」と問いかけたところ、B 氏 は、「暑くはないね。」と答えた。 ・要因分析:漓病棟看護師 C は、1番目の患者(A 氏)については、病棟名と患者氏名を告げ ているが、2番目の患者(B 氏)の氏名は告げていない。これは、病棟看護師 C は患者(A 氏)の 情報はすでに伝えているので、残りのもう1人の患者情報は言わなくても、当然患者 B 氏である と手術室看護師 D は分かっているだろうと思ったであろうことは妥当な推測範囲内の要因であ る。ここで考えておきたいのは、情報伝達者の主観的確信の高さの影響である。滷手術室看護師 D は、A 氏の左耳難聴を知らず、自らの「B さん・・・」の問いかけに対する A 氏の返答に疑問をまっ たく持っていない。面識というノンバーバルコミュニケーションの重要性を痛感させられる。澆A 氏と B 氏の手術担当看護師は、いずれも、この2人の患者と面識がなく、D の声かけを聞いて A 氏を B 氏と思い込んでしまった。その結果、2番目の患者(B 氏)は当然 A 氏だと思い、病棟看
護師 C に氏名の確認を行わなかった。ここでもまた、ノンバーバルコミュニケーションが機能し ていない。 その後、病棟看護師 C から手術担当看護師への申し送りが、通常の手順通りハッチウェイ横に あるドアに設置されたカルテの受け渡し台で行われた。その時、C は、A 氏及び B 氏のカルテを一 緒に持っていたが、まず A 氏の申し送りをして A 氏のカルテを渡した。その際、C は、A 氏には、 麻酔前の注射として麻薬を使用したこと、背中にフランドルテープを貼ってあることを申し送りし た。申し送りを受けた手術担当看護師 I は、フランドルテープの有無について確認していない。な お、A 氏のこのフランドルテープは手術の当日である1月11日(月)午前6時30分頃に、A 氏の主 治医グループの1人である O(助手)が貼ったものである。手術前担当看護師 I は、A 氏のカルテ を3番手術室に運んだ。 次に、C は、A 氏の申し送りを終えた後、B 氏の申し送りをして B 氏のカルテを渡した。申し送 りを受けた手術担当看護師 E は、B 氏のカルテを12番手術室に運んだ。このようにして、カルテ は患者との照合がされないまま本来の手術室に運ばれた。 ・要因分析:漓病棟看護師 C と手術担当看護師 I とのコミュニケーションは一方通行であった。 滷カルテと患者とが別々に扱われたため、情報を照合(確認)するチャンスが失われている。 <手術室> A氏について、予定されていた手術(心臓):僧帽弁形成術又は僧帽弁置換術(3番手術室)、 実際に行われた手術(肺):右肺嚢胞切除縫縮術(12番手術室)。 1月8日(金)夕方に B 氏を術前訪問している麻酔科医(研修医)K が、「B さん、点滴をやり ますよ」と声をかけ、点滴ルートを確保した。麻酔科医 K は、患者(A 氏)の背中に貼られてい たフランドルテープを見つけたが、「何だ、このシールは?」と言い、フランドルテープをはがし た。 ・要因分析:疑問に対して確認が行われていない。 麻酔科医 K と、K を指導監督する立場にある麻酔科医 J(特別職診療医)は、硬膜外麻酔を開始 した。そして、全身麻酔のために気管内挿管の準備をしており、患者(A 氏)が麻酔用のマスクを している時に、執刀医グループの1人である T(B 氏の主治医グループの1人で研修医)が手術室 に入ってきた。次に、術者である執刀医 R(助手)と執刀医グループの責任者である S(講師)が 入室してきた。その後、手術は、午前10時05分に、執刀医 R、S、T の3人で開始された。 本来、B 氏の手術は肺の腫瘍が悪性であるかどうかの確定診断を下し、その結果により摘除する ことが目的であった。
手術中に、患者(A 氏)には B 氏の腫瘍と同じ部位に、嚢胞様病変が認められたため、術前の 所見と大きな矛盾はないとの判断がなされ嚢胞の切除が行われた。 午後1時50分に患者(A 氏)の手術は終了した。麻酔科医が気管内チューブを抜いた時、2人の 執刀医 R と T は(ともに、B 氏の主治医)、患者の顔を見たが、患者の入れ替わりに気が付かなかっ た。 ・要因分析:主治医及び執刀医のいずれもが患者の識別をしていない。A 氏は偶然 B 氏と同じ ような病状を持っていたため B 氏ではないかという疑問の発生余地が生まれる可能性は期待でき ない。 Bについて、予定されていた手術(肺):開胸生検、右肺上葉切除術、リンパ節郭清(12番手術 室)、実際に行われた手術(心臓):僧帽弁形成術(3番手術室) 手術担当看護師 H と I が、「A さん、心電図のシールを貼って、血圧計を巻きますよ。」と声をか けたところ、B 氏は、「はい」と答えた。その後、麻酔科医 M(特別職診療医)が3番手術室に入 室した。(麻酔科医 M は、手術の3日前の1月8日(金)午後5時に A 氏を術前訪問している。そ の時、A 氏の左耳難聴を確認すると共に、外せる歯が上顎にあると A 氏が言ったので、手術時に はその歯を外して来るように指示した。) 患者(B 氏)はすでに入室しており、麻酔科医 M が「A さんですか。おはようございます。」と 声をかけた時、B 氏はうなずいた。この時、M は B 氏の顔には特に疑問を持たなかったという。M を指導監督する立場にある麻酔科医 L(助手)が手術室に入室して来た。さらに麻酔科医 V(教授) が入室している。B 氏を見た麻酔科医 M は、喉頭展開の際、歯が全部そろっていること、中心静 脈穿刺の際、患者の髪が短く、白髪が多いことに疑問を抱いた。 執刀医グループの1人で、主治医グループの1人でもある Q(特別職診療医)も午前9時10分に 入室している。手術担当看護師 I は、患者(B 氏)が剃毛されていないことを麻酔科医 V(教授) から指摘され、剃毛とブラッシングを行った。執刀医グループの1人で、主治医グループの責任者 である N(助手)も午前9時15分に入室した。 麻酔科医 M は先の疑問を口にし、麻酔科医 L、M と執刀医 N、Q は、患者(B 氏)は A 氏本人 と違うのではないかと疑問に思いこのタイミングで議論を行っている。しかし、患者の頭髪がやや 短いのは、前日に散髪したと解釈し、さらに、肋骨の浮き上がり形状が似ていること、肺動脈圧、 肺動脈楔入圧は麻酔のため末梢血管が開いて低下することがあること、末梢血管の拡張により僧帽 弁逆流も改善し肺動脈圧が正常化すること、エコーの所見については、稀にではあるが、前回の検 査と今回の検査との間に病状が変化することもあることから、これらの情報のいずれをも説明し得 る変化だという解釈に至った。(権威勾配など、集団間での情報伝達に特有な要因の影響が考えら
れる)。
しかし、疑問を拭いきれない麻酔科医 M は、念のため、手術担当看護師 I に、A 氏が手術室に 降りているか病棟に確認するように指示した。I は、病棟へ電話連絡して、「A さんの手術をしてい る手術室の者です。医師が、患者の顔が違うと言っているが、A さんは降りていますか」と病棟看 護師に問い合わせた。
病棟看護師は、「確かに、A さんは降りています。」と返事をした。I は、「A さんは確かに降りて います。」と3番手術室内にいる全員に伝えた。 心臓血管外科グループの指導的立場の医師である外科医 Y(講師)が、午前9時35分に、手術に 立ち会うため手術室に入室して来た。Y は、麻酔科医(L と M)と、肺動脈圧及び経食道エコーの 所見を検討し、その所見が術前とは異なること、患者(B 氏)の顔が、以前(平成10年9月22日、 11月24日)、Y が外来で診察した時の患者(A 氏)と異なる印象を受けたため、「違うのではない か。」と言った。 これに対し、手術担当看護師 I から、A 氏は病棟から降りているとの返事があったこと、他の医 師からも本人ではないとする意見が出なかったことから、別人ではないとすれば、術前検査で高度 の病変が認められており、また、逆流の部位が同一であることから、検査結果の違いは、「経食道 エコーでは解釈できない変化が本人に起こっているためである」との考えが大勢を占めた。さら に、麻酔科医(L と M)と Y は、患者(B 氏)には軽度の僧帽弁閉鎖不全が認められることなどか らこれらの検査結果は、説明し得る変化であると解釈した。執刀医 N、Q は、麻酔科医 L、M が外 科医 Y と話しているのを目にしていたが、外科医 Y からは特段の指示はなく、また、執刀医 N、Q も外科医 Y に何ら相談しなかった。 手術は、午前9時45分に、執刀医 N、Q によって開始された。外科医 Y と執刀医 X は、検査結 果を再検討したが、肺動脈圧の低下、僧帽弁逆流の高度から軽度への変化は、麻酔薬による末梢血 管拡張、人工呼吸によって肺うっ血が軽快したことによる心機能改善の結果だと解釈した。午後3 時45分に患者(B 氏)に行った心臓手術が終了した。 ・要因分析:漓誰も患者に立ち会っておらず、患者の識別を行っていなかった。滷A 氏または B 氏であるとの思い込み(先行情報)があったため、たとえ疑問を持っても、その結論に合わせるよ うに解釈するという人間特性(ヒューリステックと呼ばれる特性、後述)が働いた。澆手術室では、 麻酔科医と執刀医、外科医の間にコミュニケーションの欠如があった。 <手術終了後 ICU 入室>
手術後、A 氏は午後3時50分に、B 氏は午後4時20分に、それぞれ ICU に入室した。A 氏は ICU 6番ベッド、B 氏は ICU5番ベッドに運ばれた。
午後4時40分に、ICU の看護師が、5番ベッドの患者(B 氏)の体重を測定したが、その結果を 見た A 氏の主治医 O(助手)と麻酔科医 M は、A 氏の心臓手術後に見込んでいた体重(60kg)と 異なるため、この患者は A 氏ではないのではないかとの疑いを持った。
午後4時45分に、ICU の医師 Z(A 氏の元主治医グループの1人)が、B 氏を診察し、A 氏の主 治医 O に「A さんとは顔が違うと思う」と言ったところ、その主治医 O も「そう言えば、もう少 し眉毛と髪の色が濃かったような気がする。」と言った。 この ICU の医師 Z は、ひょっとしたら2人が入れ替わったのかもしれないと思い、隣の6番ベッ ドに行き、患者(A 氏)の心音を聴いたところ、10月に検査入院した時にみられた心雑音が聴かれ た。そこで、6番ベッドの患者(A 氏)に「B さん」と呼びかけると、「はい」との答えがあった が、「お名前は何ですか?」と続けて聞いたところ、「A です。」との答えが返って来たため、患者 が入れ替わっていたことが確認された。 ・要因分析:ICU の医師と A 氏との間には双方向のコミュニケーションが行われたゆえに、患 者が入れ替わったことが確認できた。 3.2 コミュニケーションエラーの発生メカニズム 上述事故の発生原因を踏まえ、コミュニケーションの基本プロセスに基づいて、エラーの理解、 個人の内的動因と外的動因、背景要因という側面から、コミュニケーションエラーの発生メカニズ ムを検討する。 (1) コミュニケーションエラーについての理解 コミュニケーションエラーを防止するためには、まずコミュニケーションエラーの発生要因を正 確に理解することが不可欠である。上述事故のコミュニケーションエラー原因の分析においても、 関係者の間には、漓一部分の情報しか伝えていない(患者 A 氏の情報しか告げていなかった)、滷 間違った情報を伝えた(患者 A 氏を B 氏であると思い込み、担当看護師に伝えた)、澆情報を誤っ て解釈した(手術室で患者 B 氏を A 氏であると思い込み、それに合わせるように病状を解釈し た)、潺重要な情報を伝達していない(患者 B 氏の情報を伝えていなかった)、潸確認しない(手 術室で患者の識別をしていなかった)、澁伝達・確認しづらい(患者との面識がないとか、患者と カルテは別々離れているとか、午前9:00からの手術が混雑とか、手術室の雰囲気などの外部状況 や環境が原因)、等々が指摘できよう。つまり、冒頭でも述べたように、コミュニケーションエラー は、単に情報の伝達に誤りがあった(誤伝達)というだけではなく、情報を伝達しなかった、また は伝達できなかったという行為も含まれているとの理解が必要である。多くのコミュニケーション プロセスにおいて、前者の誤伝達は一般的によく認識されているが、後者の無伝達または伝達がで きなかったという要因については、伝達の手続きの中に潜在する要因であるだけに、往々にして検
討対象とはされず充分な防止対策が講じられてはいない。そのため、コミュニケーションエラーを 防ぐには、誤伝達の防止はいうまでもなく、無伝達または伝達不能という側面からの対策を講じる ことが無視されてはならない。 (2) コミュニケーションエラー発生の個人的要因 情報を正しく伝達し共有するように、送信者と受信者両方の伝達スキルや知識、経験などが重要 な要因として認識されているが、個人の情報伝達に対する動機的な要因があまり検討されない現状 がある。伝達スキルが高く、知識や経験を持っていても、そもそもコミュニケーションを行う動機 が低いならば、情報伝達という行為は行われない。前述の医療事故の要因分析の中でも、情報伝達 の動機にかかわる要因としての内的、外的要因が指摘できる。内的要因としては、漓主観的確信の 高さ(患者 B 氏の情報を伝えなくても、相手が分かるだろうとの確信)、滷確認行為の省略(手術 室では、患者の識別、職種間の相互確認をしないという慣習の存在。多分これは過去の成功体験か ら生まれて来たものであろう)、澆権威勾配の影響(医療現場でのヒエラルキーの厳然たる存在、 上位者の意見には逆らいにくい)潺ヒューリスティックによる情報取得(幾つかの否定的な情報が 存在しても、それを主観的認識に添うように誤解釈あるいは棄却する)などが考えられる。一方、 外的要因としては環境や状況の質の問題が指摘できる。組織のメンバー間に、地位を超えて知識、 情報、情緒などを共有しようという風土がなければ、積極的なコミュニケーションは期待できな い。 その他、漓情報不足と情報過多:送り手が曖昧かつ不十分な情報を送ると、受け手がその情報に よってだけでは判断できないことに自らの解釈を付け加えて誤った判断を下す確率を高める(看護 師 C と D との情報交換)。一方、関係の薄い周辺情報を含めた大量な情報量を伝えると、受け手が それを処理できず、重要な情報を抽出できないことも起こる(患者 A、B に関する頭髪情報など)。 滷フィルタリング:ある情報を次の人に伝える時に、自分にとって都合の悪いデータを修正した り、情報を隠したりする操作のことであり、これはボトムアップのコミュニケーションでよく見ら れる障害として知られ、良い情報を選んで上司やトップに流し、悪い情報は伝えないので問題解決 が遅れたりすること(麻酔医 M が上位医師を交えた場で疑問を伝えきれなかったこと)。 澆聞き たい情報だけを聞く:受信者が相手からの情報を選択的に受け取ること。人の話を聞く時に自分が 興味を持つところだけに関心を向けて聞き、他のところは無視するために発生する情報の歪みであ る(看護師 D は自分の思い込みを以後の解釈に優先的に採り入れた)。 潺情報リンクの数:情報 経路が複雑になると、その間に、上述のような様々なファクターが入り込んでくることによってコ ミュニケーションの変容が発生する(患者 A、B に関する輻輳した診断情報。決め手となる診断情 報の不足)。潸タイミング:作業の忙しさや外的ノイズ、さらには、慣れから来る関心の希薄化や 一貫しての沈黙者も発信者や受信者の伝達態度を妨げる(大勢の医師が入室してからの看護師の立
場)。 (3) コミュニケーションエラーを誘発する背景的要因 一般的には、コミュニケーションに影響を及ぼす直接的要因が注目されているが、直接に関わっ てはいないが、結果的にコミュニケーションエラーを誘発してしまう多くの背景的要因が軽視さ れ、その対応も不十分なことが多い。前述医療事故の調査報告では、下記のような病院運営システ ム上の問題点(組織的な要因)が指摘されている4)。漓患者の取り違えを起こしかねない患者移送、 引き継ぎの運用システム:手術室の新しい患者移送システムの導入に伴う病棟、手術室内の体制の 変革が不十分であり、言わばハード面が変わったにもかかわらず、ソフト面がついていけなかっ た。また、病棟側の看護師と手術室側の看護師の役割と責任分担が明確でなかった。滷患者確認の 手順、方法が決められていなかった。医療の高度化と専門分化は進んでいるが、それに伴い介在す るステップが複雑化しており、各ステップを確実に進めるための方策や約束事についての議論と対 応がされていなかった。澆事故が起こり得ることを想定しておらず、二重、三重の安全策、危機管 理の方策がなされていなかった。医療全体にも関わるが、「医療には間違いが起こり得る」との危 機意識が乏しかった。医療に間違いが勿論あってはならないが、絶対起こり得ないということでは ないとの認識が乏しかった。医療が複雑化し、多くの「人」が介在し、多くのステップがあること に対しての危機管理について方策が盛られてこなかった。潺手術室での種々の疑問点を統合的、横 断的に把握する機能が働かなかった。手術室内の管理、運営は手術部専任医、日勤責任麻酔科医、 手術室師長、日勤責任看護師などが果たすべきであるが、それぞれの役割と責任が曖昧であった、 等々がそれらである。ともすれば、直接原因であるコミュニケーションエラーが審判の俎上に登り がちだが、エラーを有効に防ぐために、組織的影響要因(エラー発生の根本原因)への対応も忘れ てはならない。
4. コミュニケーションエラーの防止対策
4.1 共有する意欲を引き出すこと(組織運営上の対応) (1) 風通しのよい風土を築く 仕事を遂行し、目標を達成するためには、組織を構成するチームのメンバー間のコミュニケー ションは欠かせない要素である。そのため、誰でも積極的に発信できるような環境を作ることが必 要となる。米国の宇宙飛行機コロンビア号の爆発事故では、背景要因として、NASA の「沈黙によ る安全」(提案や指摘できない状態)という組織風土の存在が指摘されている。沈黙者が多ければ 多いほど、組織内のコミュニケーションが妨げられ、トラブルや事故が発生するリスクは高くなることは多くの歴史的教訓が教えるところである。 (2) 教育・研修体制を確立する 現在、産業組織はテクノロジーの高度化に伴い、人間や機器、環境などの面で大きな変化に曝さ れている。技術伝承や技能の向上、知識の共有、人間関係の改善などが組織にとって重要な課題と なっている。この問題を解決するために、組織において多様な教育・研修体制を確立し有効に実行 することが必要であり、教育・研修の場でコミュニケーションを行うための基本的な条件を全員に 備えさせ、実際の現場で活かせる資質を育成することが急務である。しかし、組織メンバーの意欲 を損ねがちの形骸化した教育・研修は避けなければならない。 4.2 個人レベルでの対応 (1) 情報伝達の全体像を把握する 伝達した情報が少ないとか、多すぎるとか、曖昧などという問題は、情報伝達者が何のために(目 的)、何(内容)を伝えるのが不明確であることに起因する。送信者は伝達したいメッセージの全 体像を把握しなければ、受信者と共有しようと思っても、それは無理なことである。 (2) 相手の立場に立って伝達する 多くのコミュニケーションエラーには伝達の内容と方法とに問題が存在する。伝達者はメッセー ジの内容を考える時に、往々にして相手の状況を無視し、自分だけが分かるように構成する傾向が ある。省エネルギーや効率性優先が人間の特性であるため、一方通行のコミュニケーションが行わ れることが多い。また、伝達者は自ら結論を先に出して、その結論に合わせるように説明したり納 得させたりすることもすでに述べた(ヒューリスティック)。コミュニケーションの目的は情報伝 達ではなく、情報を共有することである。そのため、相手の状況(地位や能力、知識、精神的状態 など)を把握し、情報の量と質、さらに伝える方法を工夫する必要がある。 (3) 質問力の向上 送信者と受信者の間に情報の共有ができているかどうかを確認することが必要である。情報を受 け取った受信者は積極的に送り手にフィードバックしなければ、送り手は伝えた内容が正確に理解 されているかどうかが分からない。送り手に理解した合図を伝え、疑問や理解していないことを確 認することができるならば、双方向のコミュニケーションを円滑に行うことが可能となる。一方、 送り手は、沈黙者が出ないように積極的に質問したり確認したりすることも重要である。 近年、作業現場では、IT 化の進展により直接的なコミュニケーションの機会が少なくなり(メー ルによる情報送受等)コミュニケーションエラーを防ぐ上での有効な補助機能であるノンバーバル コミュニケーションの不足に起因する事故が発生している。作業現場の環境や状況を踏まえ、この
ようなコミュニケーションエラーを如何に防ぐかが今後の課題として検討されるべきである。 【引用参考文献】 1) 大山 正・丸山康則編『ヒューマンエラーの科学』麗澤大学出版会。 2) 堀 洋道・山本眞理子・吉田富二雄編著『新編社会心理学』福村出版。 3) 「横浜市立大学医学部付属病院の医療事故に関する調査委員会報告書」1999。 4) 「横浜市立大学医学部付属病院の医療事故に関する中間とりまとめ」1999。 要 約 様々な産業組織において発生した事故やトラブルの原因分析では、人的要因がより多く関与して いることが明らかになっている。その中で、ヒューマンエラーの王様と呼ばれているコミュニケー ションエラーを如何に有効に防止するかという課題の重要性がしばしば指摘されている。そこで、 本研究では、コミュニケーションの基本プロセスを基に、人間の心理特性や組織行動などの視点か ら事故事例を分析し、コミュニケーションエラーを引き起こす影響要因を検討した。さらに、それ に基づいて、コミュニケーションエラーの発生メカニズムを明確にし、個人または組織の中で実行 できる防止対策を提案した。今後の課題として、コミュニケーションエラーの防止対策の有効性を 検証する方法についても考察した。