高等学校公民科における
「人間の在り方生き方教育」を再考する
「生」の意味と「生」の教育の位置づけ
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原 宏 史*HirOshi HARA
キーワード:高等学校公民科,人間の在り方生き方教育,生の教育 Key Words:Senior High Schoors Civics Studies, Education of human beings and way of life, Life Education 要約 本稿の目的は,高等学校公民科の授業に於いて,「人間が生きる」こと,「人間が存在する」こ との意味と位置付けを明らかにすることである。 筆者は「生」を取り扱う多くの教育実践研究において,「生きる」ことの個別性が見過ごされ, 「生きる」ことが一般化された「人間」の「生」を示すものとして捉えられる傾向があること, また「「死』を通して「生』の大切さを考えさせる」という授業形態は,「生」と「死」を同じ水 準で捉えることによって両者は比較対照が可能であるとする見解を生みだす可能性を指摘した。 これによって,本来は「生」を肯定し,「死」を否定する我々の価値観が逆転する可能性がある と論じた。以上を踏まえて「「生』の教育」を行うに当たって,「死」と「生」を,比較対象ので きない質の異なる事象として取り扱い,「生」の個別性,特殊性,不可侵性,代理不可能性,そ して唯一勲等を重視する授業の構築を行なう必要があることを主張した。 Abstract Purpose of this paper is to clarify positioning and meaning of‘‘human life’ヲand ‘‘ ?浮高≠氏@beings’ラin high school civics lesson。 Ipoint out that the personal ‘≦lifeラ’is overlooked, and ‘‘li:fゼ is treated as generalized ‘‘ ?浮高≠祉奄刀@life勢in much educational research。 Also teaching forms that consider *東海学園人学教育学部教育学科importance of‘‘life”through‘‘death野forms a view‘‘life”and‘≦death”can be compared and contrasted and treated at the same level together. So I discuss that our values of positive‘‘life”and negative‘‘death”may be reversed. On this basis, I argue when we practice the program of‘≦life educatioバ, we must treat‘≦life’ラand‘≦death’ラas a quality which cannot be compared together as different events, and need to develop teaching which emphasizes individuality, distinctiveness, nonaggression, impossibility of acting, and uniqueness、 禰.企図と方法一新学習指導要領におけるr人間の在り方生き方」一 2009年,高等学校の新しい学習指導要領(以下「新学習指導要領』)が公示された。今回の改 訂においても,高等学校公民科では「広い視野に立って,現代の社会について主体的に考察させ, 理解を深めさせるとともに,人間としての在り方生き方についての自覚を育て,平和で民主的な 国家・社会の有為な形成者として必要な公民としての資質を養う」という目標が引き継がれるこ とになった。 高等学校公民科の各科目においては,「現代社会」と「倫理」の「目標」の中にそれぞれ「自 ら人間としての在り方生き方について考察する力の基礎を養」うことと,「人間尊重の精神と生 命に対する畏敬の念に基づいて,青年期における自己形成と人間としての在り方生き方について 理解と思索を深めさせる」という文言を見出すことができる。「内容」についても同様で,「社会 の在り方を考察する基盤」としての「幸福・正義・公正」等の価値に関する理解を通じて,その 「社会に生きる人間としての在り方生き方」を考察させることや,「人生における哲学,宗教芸 術」の意義の理解と,「人間の存在や価値」に関わる基本的な課題の思索を通して,「人間として の在り方生き方」について考えを深めさせることに焦点が当てられている。特に「倫理」の「内 容」においては,従来の「学習指導要領』で「(1)青年期の課題と人間としての在り方生き方」 とされていたものが,「(1)現代に生きる自己の課題」と「(2)人間としての在り方生き方」に分 けられ,人間の存在と人間の生をより詳細に取り上げて把握することが求められている。 しかし,筆者がこれまで指摘してきたように,従来の中等教育の社会科,公民科教育において, 「人間の存在」,「人間が生きる」という事実は正面から取り扱われることは少なかった。「人間が 存在」し「人が生きている」は暗黙のうちに前提とされており,「人間が存在する」,「人間が生 きる」とは如何なることかは深く問われることなく,事実上自明の事柄として教科・科目の内容 が取り扱われてしまっている1。 例えば,高等学校「倫理」が「人間の存在や価値について思索を深めさせる」という内容を取 り扱うのであれば,本来は人間が「生きている(「生命』がある)」ことは如何なることか,とい うことについても思索を深める姿勢が必要である。それらの思索を踏まえることによって,初め
て生徒たちは「人間の存在や価値」についての思索を深めることができるのではないだろうか。 我々自身が思索を深め,明らかにしなければならない問題群は,先ず,「生きている(「生命』 がある)」ことと,それに関わる諸課題である。「生きる」ということにどのような諸課題が存在 するか,どのような価値が伴い,更に「人間尊重の精神」や「生命に対する畏敬の念」へと接続 していく過程を考察し思索を深めることが公民科に求められた一つの目標である。その際「生き ている」こと,「生命がある」ことは当然で,「生命は神聖」であるという理由のみで「尊重すべ き」もの,「畏敬の念を持つ」ものであるという説明に留まってしまうとすれば,それは一種の 神秘論に過ぎず,問題の本質を隠蔽し,見失わせることにつながる恐れさえある。 本稿においては,「人間が生きる」ことの意味と,これからの公民科教育の授業の中で「人間 が生きる」こと,「人間が存在する」ことの位置付けを明らかにする。新たに公示された「新学 習指導要領』において,我々は「人間が存在する」こと,及び「人間が生きる」ことをどのよう に把握すべきだろうか。 艶.表記の混在一rいのち」・r命」・ザ生命」・r生命(いのち〉」一 公民科教育において「人間が生きる」という事実を,どのように捉えることができるだろうか。 例えば「新学習指導要領』において,「現代社会」の「内容」の「(1)私たちの生きる社会」で扱 うべき「現代社会の諸課題」は具体的に「生命,環境,情報など」と規定されている。また, 「倫理」では「内容」の「(3)現代と倫理」において「人間の尊厳と生命への畏敬」についての倫 理的見方を身に付けさせることや,あるいは「生命,環境,家族,地域社会,情報社会,文化と 宗教国際社会と人類の福祉における倫理的課題」の探究を行うことが明記されている。従って, 「新学習指導要領』は,現代の倫理的課題と関わる「人間が生きる」という事実を「生命」とい う表記で捉えているということがいえる。「新学習指導要領』のいう「生命」に関する倫理的諸 課題を探究するにあたっては,本来,始めに「「生命』とは何か」という問題が検討されなけれ ばならないが,現行の公民科教育においてはこの問題は看過されているように思われる。問題点 として「新学習指導要領』自体の「生命」の捉え方が明確でなく,確固とした位置付けがなされ ていないことが指摘できるであろう。そして実際に,公民科教育のこれらの領域におけるこれま での研究成果や,教育現場における実践報告においても「人間が生きる」という事実の明確化を 踏まえて,改めてそこに関わる倫理的課題を探究する姿勢を示した研究・実践は希少であると言 わざるを得ない。 筆者は,従来の公民科教育研究・実践において「人間が生きる」という事実を正面から捉えき れていない一つの原因は,「人間が生きる」という事実についての表記の混在にあると考えてい る。 徳丸定子は,アルフォンス・デーケンがtha脇tology(死生学)の実践段階として「死までの
時間をどう生きるか考えるための教育」として提唱したDeath Education(死への準備教育) の理念に基づく授業実践を報告する中で,Death Educationのことを「日本人の国民性に合っ た名称は,どのようなものかは,なお模索中ではあるが,私は「いのち教育』と呼びたいと考え ている」と述べている2。そこでは(「模索中」という但し書きつきではあるが),Death Educationは「日本人の国民性」に合致するかどうかという考察のみで「いのち教育」という呼 称が選択されている。しかし,なぜDeath Educationが「いのち教育」という呼称となるのか, 十分に説明されているとは言えない。 大谷いつみは,デーケンが提唱したDeath Education(死への準備教育)一従って,テーマ として「死の受容」や「死と死に行くこと」,「死に直面した者にとっての癒し」等が扱われる3一 と,人間の生誕(の神秘性),「生命の一回性と連続性」を焦点とした「生と性の授業」等,生徒 の感情に直接訴えかけ,考えさせる内容の授業(それが故に大谷はこれによる授業を「癒し系授 業」と呼ぶ)を「いのち(の)教育」と呼び,先のDeath Educationと合わせて「「いのちの 教育』,「死の教育』」と併記する。これに加えて,欧米で発達した生命倫理学を親学問とし,生 殖技術や臓器移植,ターミナル・ケア,安楽死・尊厳死など先端医療技術の発達と人間との関わ りの中で生じるディレンマに向き合う教育一「是非を問う」教育一をBioethics Education(生 命倫理教育)と呼ぶ。大谷は両者を補完関係にあると位置付け,これらを総称して「生と死の教 育」という。大谷の「生と死の教育」は,生物的・現象的な生死だけでなく,死生学,生命倫理 学双方の範囲に踏み込んで,人間が生きているという事実とそれに伴う哲学・倫理学や社会学・ 経済学・法律学的な範囲を含む諸課題を取り扱う教育である。しかし,このように教育内容につ いては,厳平な分類定義がなされていながら,大谷の文脈の中では,「人間が生きる」という事 実自体を示す用語としては,「いのち」の振り仮名つきの「生命」,単なる「生命」という漢字表 記,そして「いのち」という表記が混在しているのを見出すことができる4。 そのような中で,「いのちの教育」という表記を提唱する近藤卓は,そのように表記する理由 について一定の説明を試みている。近藤は「生命の大切さを伝えようという動き」を具現化し 「生命や死あるいは命を題材とした実践」が行われており,それらが「「いのちの教育』「いのち の授業』「生命教育』「死の教育』など様々な名称で呼ばれ」ているという認識の下で,それらに 「生命や死を題材とはしていないが,児童・生徒に「いのち」の意味を考える機会を与えること を狙いとした実践」を含めて,「仮に「いのちの教育』と呼称」している。 「生命の教育」や「命の教育」ではなく,「いのちの教育」という表記を採る理由を,近藤は 「生命や命の漢字が,身体的な側面に特化した印象を与えると考えられるから」であると説明す る。即ち「身体的に生きていても,社会的には死んでいるということがありうると考えられ」る ことから,「身体的な生と死だけではなく,精神的・社会的な生と死をも視野に入れるべき」で あり,「「いのち』とすることによって,誕生から死までの,人のあらゆる営みを対象としたい」
という主張である。 近藤が「人が生きている」という事実のあらゆる諸相を視野に入れようという意図で,呼称の 統一を図ろうとしていることは理解できる。ただ,「生命」や「命」という漢字表記が「身体的 側面に特化した印象を与える」という主張が妥当であるかどうかについては議論の余地がありそ うである。この主張自体もそれ以上の説明がなされている訳ではない。 「いのち」という表記を採るにしても,この表記は漢字表記の「命」と同じ音として表される。 また,既に述べたように,「生命」という表記は,その語の中に「命」という文字を含むだけで なく(もちろん本来は「せいめい」という音であらわされるべきであるが),既に述べたように 「いのち」という振り仮名を付されて使用されることが多い。従って,「命」や「生命」という表 記と「いのち」という表記に,どの程度まで差別化が図れるか,ということについては疑問が残 る。 確かに「いのち」という語は,人間に関して適用される場合,身体的に「生きている」という ことの意味に留まらず,「一生」,「生涯」あるいは「寿命」といった「人間が生きている」とい う事実に関わる多くの営みを含んで使用される場合がある。しかしながら,そのことによって 「誕生から死までの,人のあらゆる営みを対象」とすることと,ひらがな表記の「いのち」を例 えば漢字表記の「命」と差別化することは別の問題であって,十分な根拠にはなりにくいのでは ないだろうか。 このように,多くの教育実践研究者は,これまで,「人間が生きる」事実とその諸相を,様々 な切り口から授業として構内しょうと試みてきている。しかしながら,多くの教育実践研究にお いて,「人間が生きる」という事実及びそれに関わる教育(その倫理的諸課題を考えさせる教育 も含め)は,実際にはその名称自体に混乱があると言わざるを得ない。「「人間が生きる』という 事実に関わる教育」は,「人間が生きる」という事実について,明確な定義を行わないまま,実 践者・研究者によって「「いのち』の教育」,「「命』の教育」,「「生命』の教育」,更には「生命」 に「いのち」という振り仮名を付した「「生命(いのち)』の教育」などの名称がまちまちに使用 される傾向があり,そのために,教育内容や授業の対象・範囲,即ち「人間が生きる」という事 実の本質が見えにくいものになってしまっているように思われるのである。 3.ザ人間が生きているという事実」一ザ生」とその意味一 先の近藤の主張には,「命」,「生命」という表記を「いのち」に置き換えるだけでは解決でき ない問題が潜んでいるように思われる。その問題とは,「いのち」という表記が,「生きている」 という事実,即ち本来個劉的なあらゆる個々の生物がそれぞれの状況において「生きた」存在で あるという事実を看過させ,我々が日常的に想起する一般化された「人間」の存在を示すものと して,意味限定をしてしまう可能性を孕んでいるのではないか,ということなのである。
近藤は「いのち」という表記に関して,「身体的な生と死だけではなく,精神的・社会的な生 と死をも視野に入れるべき」という。本来「身体的な生」と「精神的な生」,「社会的な生」の全 てに目を配ろうとする配慮が,「いのち」表記においては,「身体的」,「精神的」,「社会的」な生 を併せ持った場合に完全な「いのち」として把握できるという認識に陥る危険性に結びつくこと はないだろうか。 仮に「身体的」,「精神的」,「社会的」というそれぞれの要素のうち,一部が欠落して,ある一 面しか有していない状態は「不完全な「いのち』」と捉えられる恐れはないだろうか。例えば遷 延性植物状態に陥ったり「脳死」のように,現象的に他者とのコミュニケーションが困難であっ たり不可能な人間は,「身体的に生きている」が「「社会的』に「死んでいる』」,ないし「「精神 的』に「死んでいる』」と捉えられることになる。また,知的障碍,身体障碍,精神障碍や認知 症,重篤な疾病を抱えて「生きる」人々は,一定の他者とのコミュニケーションが可能であった としても,「「社会的』に「死んでいる』」と見倣されるおそれがある。その「いのち」は健康な, 即ち「身体的」,「精神的」,「社会的」に「生きている」人間の「いのち」からみると,それらの 諸要素の一部が欠損しているという否定的な概念を持って表される「いのち」である。従って 「いのち」という表記は,「人間が生きている」という事実の取扱いに関して,序列化や差劉化の 観念を生み出す可能性がある。 「いのち」という表記は,ある一面の「いのち」のみを持ちながら「生きている」者に対し, 他の面の「いのち」を持ち合わせている者からの視点(例えば,「健常者」から「障碍者」への 視点,あるいは「健康な者」から,「病者」への視点など)へと見方を固定し,「いのち」の諸要 素の一部を持っていない人が「生きている」という事実を「不十分な「いのち』」と見倣す傾向 を招きかねない。 いかなる人間も,存在し生き続ける以上,それぞれの個体が有する側面は,その個体にとって の全てである。他者が自分と異なった側面を持ち,自分はそうした側面を持たなかったとしても, 唯一存在としての当事者は,何ら「不完全な「いのち』」,「不十分な「いのち』」を生きている訳 ではない。 結局,「「いのち』の教育」,「「生命(いのち)』の教育」といった表記は,その意味で,「人間 が生きる」という事実(とそのあらゆる諸相)を,十全に表すことはできておらず,単に耳当た りの良い言葉での言い換えになってしまっている。 我々は通常,ある個体について,身体の動きや,呼吸など,様々な随意運動や不随意の運動が 観察可能であったり,心臓の拍動や血行など機械的な臓器の機能が測定でき,それらが一定の統 一態を形成している状態を「生きている」という。しかし,「生きている」ということはこれだ けでなく,「私」に関して言えば,思惟し知覚する主体としての存在,空間的延長の中で特定の 位置を占め,同時間に共に存在する無数の他者と異なる在り様をした唯一無二の存在を意味する。
また,現在「私」が「生きている」という事実は,過去の時間性から見れば,「私」がこの世界 に出現し,そこからこれまでに「私」が「経験」したすべての事柄を含む。更には,その時点で 生じていないが,将来経験するかもしれない事柄の発生・実現可能性と潜在性を併せ持つともい える。その意味で,「生きている」という事実は,ある人間の特定の時間における状態のみを表 すのではなく,一般に「人生」(短いスパンでは「生活」)と呼ばれる過去・現在・未来にわたる 時間経過の中での,個々の人間に伴う持続した現象の様態,発生・実現可能性と潜在性を含む概 念として考えられるべきであろう。「生きている」という事実が存在することで,当人に関する 過去・現在・未来の「全て」(あるいはその可能性・潜在性)が存在する。「人が生きている」と いう事実の持つ肯定的な価値の根拠を,そこに見出すことはできないだろうか。 また,個々の人間において,「生きている」という事実の様態は次々に変容する。諸個人はそ れぞれ,時間の経過とともに,固有の変化を遂げていく。誕生から成長,成熟し老いていくとい う過程の全てに亘り,どの断面を切り取っても常に,その時点で当人はその時々の十全な形で 「生きている」。仮に重篤な病に陥ったり,障碍を抱えたり,あるいは高齢になって心身が衰え, 身体的・知的・意識レベルが以前に比べて,あるいは他の人々と比較して下回ったとしても,社 会的な他者との関係が以前と比べて希薄なものになったとしても,当人はどの時点でも十全に 「生」きている。それが当人にとって唯一の事実であるからである。 ある生物的個体が存在することによって生じる様々な社会的断面の諸相と,その個体が在るこ とに関する諸個人の経験的事実と,それによって喚起される個々の主観過去の事実と,未来の 経験可能性を持った潜在的存在,即ち「人間が「生』きている」という事実は,まさに唯一存在 たる「個々人の「生』」そのものである。 従って,これらすべてを包括する概念を表すには,筆者は「生」という表記が適当ではないか と考える。そこで,本稿においては「人間が生きる」という事実とその諸相を題材として取り扱 う教育を「「生』の教育」と呼称し,更に社会科・公民科の「「生』の教育」授業の枠組みを再検 討する。 4.ザ生」の位置付けの混乱一r生」とr死」の並列化・対照化は妥当か一 公民科(社会科)教育において「「生』の教育」を行う上で,多く見られるのが,「「死』を正 面から取り扱うことから「生』を捉えなおす」というアプローチである5。例えば,人間の死と いう事象と,そこに直面する諸個人(死に行く人当人,死に行く人の周囲の人間(看取り者,家 族)など)の思考の変化,感情の動き,理解・共感を通じて,「生」の捉え直しが意図される授 業である。 すでに言及したデーケンらの「死への準備教育」に影響を受けたと思われる多くの研究実践か らも,そうした立場が踏襲されてきたことを窺い知ることができる6。これらの研究実践は日本
の学校教育において,初めて「死」という事象を題材とした授業を導入し,普段顧みられること の少ない問題を児童生徒に考えさせるという意味では一定の成果を上げた。しかし,「死」をめ ぐる諸課題についての授業は,一方で児童生徒に「生」ではなく「よい死」への憧憬を喚起する 装置として機能する恐れがあることも指摘されている7。通常,我々は「生」を肯定し,「死」 を否定する価値観の下で日常生活を営んでいるが,そうした場面では,生徒たちにとって,本来 「生」が持っている肯定的な価値と,「死」が持っている否定的な価値が逆転してしまっているこ とを意味する。 なぜそうした価値観の逆転が生じるのか。筆者は従来のDeath EducationやBioethics Educationで提示されてきた「生」と「死」の関係性や,授業のアプローチの仕方,即ち「「死』 を正面から取り扱うことから「生』を捉えなおす」という枠組みに問題があるのではないかと考 えている。 「「死』を正面から取り扱うことから「生』を捉えなおす」というアプローチで,「死」を主題 に置いた授業を構想した場合,多く取り上げられるのが,「人生の終着点」としての終末期医療 や,それに関連するトピックである。そうした授業では終末期医療とそれに関わる諸個人の,当 事者としての,あるいはそこに立ち会う者としての,「死」と「死に行くこと」が,例えば「余 命宣告」,「インフォームド・コンセント」,「ホスピス・ケア」,「安楽死・尊厳死」,「脳死と臓器 移植」等のトピックに載せて描かれていく。 従来の実践や研究に於いて,この時,「生」と「死」について,両者が連続する事象として, 更には「光と影」,「陽と陰」のような表裏一体の関係にあるという枠組みで捉えるものが見られ る8。この関係性の枠組みでは「生」と「死」は並列され対照化されている。肯定的で正のイメー ジを持つ「生」は,負のイメージを持つ否定的な「死」をより際立たせ,それが,「死」を主題 とした授業の幹の部分を構成することになる。様々な形の「死」を題材として取り扱うことによっ て,逆に肯定的な「生」を際立たせ,児童生徒を「「いのち』の大切さ」の気付きへと誘導する 授業展開が見出せよう。 しかし,「生」と「死」を,連続する事象として,このように並列に置き,「表裏一体」である という関係性で捉えた時に,「生」と「死」は(価値的には正反対だが)比較可能であって,同 じ質を持って語ることができる,という見解を生み出す可能性はないだろうか。 その見解の下では,「死」そのものの,代理不可能性や不遡及性,また諸個人において生じる 事象であるという特殊性や個野性が見過ごされ,「死」を一般化して,「生」の価値と「死」の価 値を同じ水準に置いて比較検討することになる。例えば「安楽死・尊厳死」を主題とした場合に, 「苦痛に満ちた「生』」より,「安楽な「死』」を選択することの是非を問うたり,「脳死と臓器移 植」を扱う上で,「「脳死』は回復不可能で,身体のみが機能しているだけで「死』と同じであ る,むしろ臓器移植に役立てる方が(救われる人もいるし)有効である」といった主張の是非を
問う授業は,極端に言えば,当該の個人について,「生」の存続か,「死」の実行か,ということ を比較検討する授業展開を意味している。通常は「生」の方が「死」よりも肯定的に取り扱われ るが,状況によって(当事者がある特定の病状に陥ったり,特定の医療が適用可能な状況におい ては),反対に「死」を肯定的に取り扱うことができるということが何の疑念の余地もなく議論 されているということは,これらの主張において,「生」と「死」は比較可能であり,対照可能 な,同等の質を持った事象として認識されていることになる。 かくして,これらの問題を授業主題に置いた場合,通常は「生」を肯定的なものとして,そし て「死」を否定的なものとして扱ってきた我々の価値観は逆転する。「「死』を正面から取り扱う ことから「生』を捉えなおす」授業は,「生」と「死」が連続した事象であると並列することに よって,本来捉えるべき「生」の「大切」さを,「良き死」や「有意義な死」の「大切さ」へ変 換する装置として機能してしまうのである。 しかしながら,「生きている」当事者の立場に立った時に,当人においても,「生」と「死」は 比較可能・対照可能で同等の質を持つものとして取り扱うことができるのだろうか。先述したよ うに,「生」は,身体の存在に加えて,知覚する唯一無二の主体であり,また過去の経験の総体 であって,未来の経験事象の実現可能性,潜在性を持つ。当人の「生」が継続する限りにおいて, これらすべての事象の存在が伴うが,当人の「死」はこれらすべての消滅と非在を意味すること になる。当人に関して言えば,それは「全て」か,全くの「無」かのいずれかである。「生」は 当人のすべての知覚や,それによるあらゆる感覚・思惟・感情の喚起など含むが,「死」は当人 自身すら存在せず,あらゆる事象は当人に関してまったく意味を持たない。さらに当人にとって の「死」は,一度だけのことであって,遡及性を持たない。ひとたび「死」んだら,当人にとっ てのすべてが喪失し,二度と存在することがないのである。即ち,当人に関わるあらゆる事象は, 当人の「生」を前提として存在する。その意味で,発生した段階で当人に関わる全ての事象の喪 失と,未来の事象の存在可能性や潜在性を全く否定する「死」は,明らかに「生」とは質の異な る事象として扱われる必要がある。 堀田義太郎らは,イギリスにおける進行性の難病を抱えた患者が,自分の意思に反する医師に よる治療中止を恐れて提訴した「パーク裁判」とその判決の分析を通じて,「生」とそれ以外の 諸要素が比較可能な水準に置かれることへの批判について,「「生存』の有無と生きていることを 前提とした利益や自己決定とでは,確かに位層が異なる」が故に,一定の妥当性があり,留意を 置くべき意義はあるという9。但し,堀田らによれば,「「生きる権利』を他の諸要素と比較可 能な水準に置くことへの予州は「実践的な文脈では,比較考量論とほぼ同じ結論に至るか,非 現実的な要求をする議論になって」しまい,その射程には一一定の限界があると述べる。なぜなら, 実際は「その治療や処置が当人の生存に対して,どれほどの効果があるか,逆にそれをしないこ とが,当人の生存をどれくらい短縮するかに応じて線を引いている」からである。
実践においては,そうならざるを得ない面があったとしても,筆者は,「線を引く」以前に, 「生」と,「生」を前提としたそれ以外の諸要素,例えば「死」が単純に比較可能である,あるい は同水準の事象として対照可能であるとする捉え方に警鐘を鳴らす必要があると考える。それは 「生」と「死」が同水準で比較可能であるという見解が生じた場合に,「生」の持つ肯定的価値と, 「死」の持つ否定的価値の逆転が容易に生じかねないからである。特に社会科・公民科教育の実 践において,安易に「安楽な死」と「苦痛な生」を対置し,それらを択一することの決断を求め る授業や,「役に立たない生」と「役に立つ死」を比較対照し,「臓器移植」の是非を問う授業を 展開することは,「生」と「死」の質の違いを看過し,本来比較することのできない水準での剖 断を生徒に強いる授業になる恐れがある。
5.公民科教喬においてr生」について獲得すべき視座とは何かイ生」とr死」は連
馴した領域で呪えるのか一 前節で論じたように,本来肯定的な「生」と否定的な「死」という価値観が逆転する原因の一・ つは「生」と「死」を,逆の価値を持つ概念として並列対置し,比較対照する捉え方にあった。 これは従来のDeath EducationやBioethics Educationの授業実践において「生」と「死」は 連続した領域で語ることができるとする捉え方や,「「死』は「生』の形態の一つ」であるとする 捉え方が広く受け入れられることによって,「生」と「死」を同等の質や水準で語ることができ るという見解の素地を作っていることに由来する。 公民科の授業において,関係性に配慮しないままに「生」と「死」を語ることは,両者が本来 持っている時間的な近接性を,質的な連続性と混同する恐れはないだろうか。 とりあえず「生」と「死」は時間的には隣接した事象であると言うことができる。ある生物的 個体について「生」の過程でない状態を我々は「死」と呼び,その生物的個体の「死」は,時間 的には「生」の後に位置付けられる。しかし,このことを以って,我々は単純に「生」と「死」 は連続していると言ってよいのだろうか。あるいは「「死』は「生』」の一つの形態」であると捉 えてよいだろうか。 「私」は「他者」の「死」については,例えば外観を観察するような形で知覚し経験すること ができる。例えば心臓の拍動や呼吸が停止し,瞳孔の対光反射が喪失し,「私」は「生」ある 「他者」が「死者」に変化する様を目の当たりにする10。「他者」を看取り,看取った「他者」が 「死」ぬ。死んだ後も,さほど時間経過を経なければ「他者」の身体は目の前に存在する。ただ, かつてのように身体を動かしたり,表情を変えたりすることはない。もちろん呼びかけにも応え ない。このことは「私」が「他者」に「死」という出来事が生じたことを,ひとまず「他者」の 身体状況の変化として捉えていることを意味しているように見える。さらに時間が経過すると, その「他者」は,物体としては存在しなくなる。ただ,その後も「私」は故人について,様々な想いや感想を語ることができる。その時「死」んだ「他者」は「私」の内省的な印象や記憶とし て維持される。 このように「他者」の「死」から「生」と「死」の関係を捉えた場合,「死」は「生」の形態 の一つとして,あるいは「生」が「死」へ連続的に移行していく過程として捉えることができる ように見える。しかしながら,死んでしまった当人自身においては何を言い得るのだろうか。 この時に我々が考慮し,獲得しなければならない視座の一つが,「私」からの視点ではないだ ろうか。「生」と「死」の枠組み・関係性を扱うこの問題の特異性は,その当人を「私」に置き 換え,「私」の「死」について「私」はどうなるのかということを考察することで,焦点化する ことができるように思われるのである。 「死」について言えば,「「私』の「死』」は「私」だけに起こることである。その「死」につ いて語ることとは,今,「生」きている立場の「私」から語ることでしかない。「「私』の「死』」 そのものを語るとすれば,それは「私」が経験することのできない事象に関する「語り」である。 「私」が間もなく消滅していこうとする時,「私」の経験できることは「私」自身の存在の消え去 る直前,即ち「死」の直前までのことである。「死に行く」経験の特殊性は,それを一通り経験 してしまった後に「私」はいないということにある。その時,「死」へ向かっていった内的経験 を語るべき「私」は,「死」後もはや存在しないのである。「死」後,経験の主体たる「私」は非 在である。「他者」から見れば私の身体の存在は継続しており,「生」きていた事実と,それが喪 失して「死」が発生したことについて,時間的には極めて近接した現象として捉えられる。しか し「私」は「私」という一人称の「死」を経験することはない。ただ「死」の直前までの「私」 は「生」きている。「私」の「死に行く」過程を含む「生」の経験と,「「私』の「死』」という事 実そのものは全く断裂しているのである。「生」と「死」の最大の相違はそこにある。従って 「「私』の「死』」は「「私』の「生』」と現れ方が全く異なるが故に,「「私』の「死』」は「「私』 の「生』」の一形態であると言うことはできないし(「「私』の「生』」を前提として,「「私』の 「死』」は生じるとは言うことはできるが),その意味で「「私』の「生』」は「「私』の「死』」と 連続しているのでもない。時間的に近接しているだけで,時間的・質的には連続した事象である とは言えない。我々は,ここからも,「私」にとっての「「私』の「生』」と「「私』の「死』」は 全く質や水準の異なる事象であるという事実を見出すことができるはずである。 社会科・公民科教育において「生」に関する諸課題を取り扱う際に,以上のように「死」は 「生」の形態の一つであるとする考え方や,「生」と「死」は連続した領域で語ることができると する捉え方は,「生」と「死」を並列化・対照化する捉え方と同様に,授業において「生」と 「死」を同じ水準・位層で語ることにつながる。こうした捉え方はまた,「生」と「死」について, 両者は比較が可能な概念であるという誤謬を拡大していくのである。
⑳.終わりに一公民科教喬に健全なr生」の把握を取り戻すために一 公民科教育の授業で「生」に関わる諸課題を取り扱う場合に,授業者自身が先ず,あらゆる人 間はそれぞれの状態において,「私」がそうであるように,その時々において十全な形で「生き ている」,即ち「生きている全き存在」であると捉える必要がある。「私」が「生きている」とい う事実は,「私」から見れば,乳幼児の時であれ,年齢を重ねて成長し,また高齢者になったそ れぞれの時点でも,あるいは重篤な病気にかかったり,重い障碍を抱えたとしても,肉体的・精 神的・能力的な変化は生じるにしても,その時々で十全な「私」の「生」として在り続ける。 「死」はその全てを消し去る出来事として生じ,一度起こったらそれは取り返しがっかない。一 方で「生」はそれが存続する限り,「私」のそれまでのあらゆる経験を保持し,現在生じつつあ る経験,及び将来の経験の潜在性と可能性を持ち続ける。このことは「私」に限定されず,「私」 を取り巻き,「私」と関係性を持つ無数の「他者」においても,「私」と共有することのできる様々 な経験の在り様として現れる。「私」と「他者」における共有経験は「私」の「生」とそれぞれ の「他者」の「生」を前提として成立する。「私」が「死」んだとすれば,「他者」にとっても新 たに「私」と共有し得る経験が生じることはない。ただ,過去,「私」と共に在ったという共有 経験が存在するだけで,そこに新しい共有経験が付加されることはない。「私」の「死」は,そ れが生じた時点で,「私」に関する全てが喪失することを意味し,「私」を取り巻く「他者」にとっ ては,それ以後「私」との共有経験の可能性を否定する出来事となる。 「生」がある以上「死」は必ず訪れるが,我々は「生」と「死」は明らかに質の異なる出来事 であるということを認識した上で,これからの公民科における「「生』の教育」を構想していく 必要があるのではないか。 公民科(社会科)教育において「「生』の教育」を行うに当たって,我々は従来のDeath EducationやBioethics Educationにおける「生」と「死」の枠組み・相違を見直し,「生」の 持つ価値関係性,不遡及性,不可侵性,そして唯一性等について改めて考察しながら,「生」 をどのように把握するか再検討する時期に来ているのである。 なお,本稿は2009年6月20日,第20回日本公民教育学会(於茨城大学)において「公民科教育 において人間の「生」を捉える視座を再考する一人間が「生」き,「存在」することの意味と位 置付けdと題して口頭発表した内容を改稿したものである。
藍文醐 大谷いつみ2000「「生命(いのち)の教育」と子どもの現在∼生命・身体をめぐって∼」ダリル・メイサー監 修『総合的な学習 生命(いのち)の教育』清水書院。同2002「アメリカ合衆国における「安楽死・尊厳 死」の現在と「死を学ぶ教育」の課題」,「公民教育研究,VoL10』日本公民教育学会。同2003「「いのち の教育」にかくされてしまうこと」,「現代思想』2003年11月「特集一争点としての生命」青十社 大曲美佐子,長井ゆかり2008『死に関する準備教育 自分と課程について考える学習プログラム 』家政教 育社 熊田亘1998「高校生と学ぶ死一「死」の授業の一年間一』清水書院 近藤卓2009「我が国におけるいのちの教育一全国実態調査の結果から」近藤編『現代のエスプリ499 いの ちの教育の考え:方と実際』至文堂 小松美彦1996「死は共鳴する』勤草書房 デーケン「脳死をめぐるデス・エデュケーション」星野一正・斎藤隆雄編『lntemational Bioethics Symposium Series 2脳死と臓器移植』蒼弩社,1991。デーケン『生と死の教育』岩波書店,2001. 徳丸定子「学校で死を教える」,カール・ベッカー編著「生と死のケアを考える』法藏館,2000. 原宏史2002.「「生」を捉えさせる授業一高等学校倫理における実践」『愛知教育大学教育実践総合センター 紀要』第5号。同2003.「高等学校倫理において「生」と「死」の授業をどう構想するか」,『愛知教育大学 教育実践総合センター紀要』第6号。同2004a.「高等学校倫理における「脳死」と「臓器移植」の取り扱い一 「自己決定」の視点から」『愛知教育大学教育実践総合センター紀要』第7号。同2004b.「高等学校倫理に おける「尊厳死」の取り扱いと「自己決定」の煉理」『愛知教育大学附属高等学校研究紀要』第31号同 2005.「高等学校倫理における「「生」と「生殖」」の取り扱いを考える一「生殖補助技術」と「出生前診 断」を中心に一」『愛知教育大学教育実践総合センター紀要』第8号。同2006.「グローバル時代の生命倫 理教育」『愛知教育大学教育実践総合センター紀要』第9号。同2009「人間の「生」の終わりを考える一 終末期の「生」を捉える高等学校倫理の授業実践一」「東海学園大学研究紀要』第14号(シリーズB)人 文学・健康科学研究編 堀田義太郎・有馬斉・安部彰・的場和子2009「英国 レスリー・パーク裁判から学べること」立命館大学生 存学研究センター編「生存学 Vol.1』生活書院文部科学省「高等学校学習指導要領』 唄これらの指摘については,拙稿2002。2003。2004a。2004b.2005.2006.等を参照されたい。 2徳丸2000.徳丸論文ではデーケンの‘つeath Educatioバに示唆を多く受けていることが明言されてい る。Death Edu㈱tiORの訳としては「死の準備教育」という表記が採られており,その意味で必ずしも デーケンとの一致をみるものではないが,それについての説明はなされていない。 3デーケンはDeath Educatio簸「死への準備教育」の目標として,「死へのプロセスならびに死にゆく患者 の抱える多様な問題とニーズに対する理解を促すこと」,「自分自身の死を準備し,自分だけのかけがえの ない死を全うできるよう西についての深い思索を促すこと」,「悲嘆教育」,「死への恐怖をやわらげ,無用 な心理的負担を取り除く」,「死にまつわるタブーを取り除く」など15の目標を挙げる。デーケン1991. 4例えば人谷2000。
5長井ゆかりは「身近な人の死や自分の死について考える「死に関する学習」を通じて,子どもが生きる意 味への問い掛けとともに,今を一生懸命に生きることの大切さに気付くことにつながる」として「命の大 切さ」を学ぶ小学校・中学校の家庭科の授業プランを示している。人曲,長井2009。 6デーケン前掲書,参照。その他,高等学校の倫理で一年間に亘って「死」を主題とした授業を展開した熊 田亘の先駆的な実践においても,「‘≦死’を通じてよりよい‘盤”を考えよう」という立場は明確である。 熊田1998。 7この点については大谷いつみが,特に「安楽死・尊厳死」の言説を分析する中で指摘している。大谷2002, 2003.等を参照されたい。筆者も自身の授業実践の中で,高等学校生徒が「安楽死・尊厳死」を「よい死」 であると肯定的に捉える傾向があることを報告した。拙稿2009。 8大谷いつみも「「生と死」を取りしげる教育」について「生命の一回性の究極の形として「死」を扱う」 という。ここでは「生命」と「死」が連続性を持つものとして捉えられていることがうかがえる。大谷 2002参照。 9堀田義太郎・有馬斉・安部彰・的場和子2009.「生」と「死」の質の相違については,日[常生活における 「自己決定」と,遡及性や再現性を持たない「死」の「自己決定」の相違の検討を通じて,筆者もこれま での論考において指摘してきている。拙稿2009等を参照されたい。 io小松美彦は,「死(Tod)」が「死亡(Sterben)」を区別して,「死とは死者を看取るものとの関係の下に 成立する非知覚的な差異的統一態であり…それに対し死亡とはある一定の状態ないしはある状態からある 状態への移行過程を示す知覚的なもの」と言う。小松『死は共鳴する』勤草書房1996.参照。