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ソヴイエト聯邦の經濟的躍進(一)-香川大学学術情報リポジトリ

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崎 蜜 次

て 言 こ、戦 時 共 産 主 義 時 代

こて新 経 済 政 衆 時 代

−、序 言 我が国とリグイエ下聯邦との関係は今や可成急迫してゐるや姉介石改植を援助して我が閏の東亜新秩序建設牢 防音しでゐる固にイギリス、プランスの外にリグイエ︸聯邦のあ点ことは読者諸潅の熟知せらるゝ朗である。特 にソ聯邦が其の傍なるものであつて、飛行機、戦嘩?トラック、弾丸等の軍常品其他軍需工柴の資材め供給を盛 になすのみならや、多数の飛行将兵其他の軍人を支那に迭ウて第﹁線に立たし軌、或は支部軍の指導を行ひ、或

商工経済

ブダイエl聯邦の繹臍的躍進

ブダイ主†聯邦の鰹臍的躍進 ︵こ

究漕Ⅷ舎弟四貌1︵謂計蛋

〇一七五︶ 一

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第十四谷 発四荻 ︵こ七大︶ こ は後方撹乱に愛東し、或は国民政府内部に共産蕊勢力の扶植を企て、更に支離∴股民衆に共啓三義を宣伸普及 し、\抗日勢力の掘天眼夜哀感甘つゝあることも、かくれなき薔蜜である。蒋介石が連戦連敗を喫し支那沿岸は全 く我が鯨軍によりて封鎖せられ、軍事的にも経酒的にも将又農工商各産柴的にも最も重要なる地方を失ひ、既に 南京から浅口ヘ、洗口から軍歴へと幾度か遷都したが近頃は文一旦重慶が我が朱鷺の為に度重なる猛爆を受けてゐ るので住民の大部分は避難し、政府諸機関も各所に分散するの余儀なきに至り、更に奥地に挑入せんとしてゐる 有様であつて、今や藩政楷は全く地方軍閥に堕し僅かに其の命敗を保ちつ∼も、侍ほ長期抗戦を豪語してゐるの は、彼が英ゾの援助を頼みとレでゐるからである。然るに最近欧洲に於ては猶波が戦端を開き英俳文之に加はる に至って、苑二の低廉逃惑だ入らんとの危機をさへ撃む状態とつなたから、自然英彿は何を置いでも自問を守る 為に歓洲を一日も早く平和回復を固らねばならぬ事になつたから、更に積極的に落介石を授けることは出来ぬの は明かである。それ故に今や蒋介石は爾後ゾ聯邦に勤して〓曙援助を乞ふに逮ひない。叉ゾ聯邦としても猫ゾ不可 侵保約締結に依って、ドイツから西部方面を攻略せられる心配もなくなつたので、此の横合に授鹿政策を強化す るであらう。而しで直接間接に日本に封しでも強気に偲て来る普あらう。昭和十二年頃から北樺太石油利様に閲 してゾ聯邦側の不富なる墜迫が張碓せられて釆た。叉我が路傍漁栄枯問題に勤してもゾ聯邦の取締方針は山九≡ 五年噴から急欒し、最近には我が方の協調的態度を無視して単に取締を厳重にするといふよりは、寧ろ鷹迫を加 へるといふ階段に迄進んで釆たのである。市しで一九三八年には張鼓事件が爽聾し、我が軍の隠忍白亜をなしゐ

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たに不拘途に両軍の衝突を惹起した。 常に又張鼓峰事件が起りてから約叫ケ年後、︰即ち・∵九三九年五月に葦って墾方眼政略事件と鼻音ふべき満蒙 国境事件、謂朗ノモンハン事件が勃敬し首を迫ふて敬展し最近では鉦満貫とゾ蒙軍との問に容中我や機械化部隊 戦が相常大規模に行はれ、義が彼を制鷹してゐることは新開其他に於て熟知せらるヽ朗と児ふ。元莱ノモンハン 附近に於ける外義兵の越境は古くから屈々行はれでゐたのであるが、しかし其兵力は微弱であト小規模であつた から、越琴の都度満洲団々墳瞥備陳に依っで撃退をなし?大事には至らなかったのである。然るに昭和十四年五 月十一日に至つて、従来に見られなかつた程の優勢甘兵力を以てハルビン河を渡り越境し来ったので、我が方の 警備軍は直に應戦間もなく之を撃退し′たので、、叫時小康を得たけれども、更に数目を経で破は大規模に飛行機並 に賂械化部隊を集結しで我に迫って釆た。貌が方も賽蟹呼應協同しで激戟を交へ彼を沈獣せしめたのであるが、 今や彼我共に同地方に相蕾有力部隊を多数集結封略してゐる有様であるから、何時大戦闘が勃賛するかも知れぬ のである。而しで張鼓峰尉件といひ、ノ竿ンハン事件と、いひ共に′我が封文筆戦に射す争牽制ではあるが、叉同時 にゾ聯邦の我が国に封す㌢挑戦であつて、膳額ゾ滴固執の各地に於て同株の事件が起らぬとも限らぬ。而して途 には日ゾ両囲問に∵大決戦各見る跨が爽五であらう。ゾ聯邦は古くから東方政策に力を注ぎ時期を見では進出を 読みでゐる?日露載革もロシアが滑支′に於ける勢力を扶植し引いては日本旗迫を志したのに勤し日本が彼の目的 を阻止せんとした番めに起った戦争であるゼリ聯邦が東方に於て我が国を邪臆者とし散開してゐる轟は明白であ ブダイエー聯邦の接辞的躍進 ︵こ、七七︶ 三

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昇十四巻 第四演 ︵二七八︶ 四 る。既に満洲固は日本の被護と援助とに依って猫立固家を形成し、日に月に進展黎偏しっゝある。支那も将来は 日本の力をかりて新政鰭の下に秩序ある囲家が生れるに速かない。かくし一て我が国の勢力も浦安に愈々拭大強化 されるのであるが、之はゾ聯邦の最む菩ばぎる所である。然しながら我が国としてはゾ聯邦初め其他の園が喜ぶ と喜ばざるとを間はや、我が国自身の牽展の蔑めに1又浦安両国民を救はんが蔑めに、如何なる図難にぷつから うとむ丁よく之を克服し今回の聖戦の目的を達成しなければならぬ。日浦安共存共栄の貰を結ばしゆなければな らぬのである。斯の如くして我が勢力が浦安に強化されるに従ってゾ聯邦との関係も益々複雑化し、何時頑固の 間に大衝突が起らぬとも限らぬ。香既に現に開園の関係は刻々悪化しっゝある。それ故に吾人は此の際に於てゾ 聯邦をあらゆる角度から研究して我れ.に備へをなして置くことが必要であると確信するのである。之れ筆者が玄 に筆を執ってゾ聯邦に放て述べんとするに至った所以でぁるが、しかし筆者は自分の螢問的研究の立場上、ゾ聯 邦の革命以後に於ける経済的費展の状況を述べるに止める。 備 考.本稿を脱した後昭和十四年九月十五日、日ソ停戦協定が成立し十六日牛後一時我が外務者より日ソ南開政府共同コ ンミュニケ及び外静音階敏郎長談を左の如く設表した。 外務省情報知最欒十六臥午後︼時︶ 帝国政府は日ソ両国間諸懸喪解湊のため努力中のととろ、日ソ爾国政府は満蒙国境 ノモンハン方面における紛争終決は両国間にわだかまる不快なる空免を除去し、団交の正常化に奪するものと認め最近数 回貯わたり戯ソ東郷大使とモローフ外務人民要員と曾談の琉果九月十五日途に彼我の間に停職協定の成立を見る忙撃つ叔

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しかし右の停戦協定成立を以て、将来に於ける日ソ南国間の衝突が永久に除去されたなどと考へることは鳩死ない。旗降 状勢は準えず攣化しっLあヮ、ソ磯邦の態度も何時急褒せぬとも限らぬ。ソ聯邦の東商方進出政策は決し≠放隠される筈 はないのであるから、菅々とLてはソ聯邦に封して畢生から確固たる封覚を講じて置かねばならぬと確信する。 一九ノ叫七年帝政ロシアは敢禽主義革命に伐つで棚番に崩壊、其の姿を没してしまつた。首ふ迄もなく此の革命 に封しても、叉革命政樺に封tてち世界各固から非常な注意が渾がれたのであるJ同じく革命を宿せらるゝも、 フランス革命とロシア革命とは其の内容に於ても過程に於ても甚だしき差異が改められる。フランスに於ては串 吹笛である。

8ツ共同コン息ユニケ

最近巳本大使東郷氏、、外層香魚モローフ氏間忙行はれ たる交渉の結集すなは打日満側むよびソ蒙側に左記合 意に到達せり 〟、日蒲奮およぴソ蒙韓は九月十六日年後〓時︵モス クワ時間︶−日本時間午前九時−を期し脚切の軍事 行動を停止す i﹁日濾欝およびソ蒙軍は九月十五日午後丁時︵毒、ス クワ時間︶−日本時間午後八時1その占め居る線忙 止まるものとす ブダイエl聯邦の経臍的躍進 ニ﹁現地忙おける東方軍代表者は直に本合意︵脚︶およ び︵こ︶の、貿行忙着手す 四、双、方の描虜および死鰻は交換せらるべく右につき 現地における双方軍代表者は直K相互忙協定し実行 忙着手す なほ.東郷氏およぴモ︻∵トフ氏間交渉忙おいて最近紛争 ありたる地方の蒙古国民共和闘および浦洲園国境を明 確ならLむる目的をもつてソ家側代表者二名および日 満側代表森三友宇一り成る委員骨戊なるべく述忙組織せ らるぺしと打合意成立せり、同委員曾は構成後直にそ の事務忙着手すべL ︵こ七九︶ 五

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︵こ八〇︶ 六 第十四谷 第四銀 命勃蟹以前には貴族・僧侶・商工業に封する特殊組合・大層業家等が納税の減免・国民よりの徴税・事菜種螢等の 特樺を得てゐた計りでなく、之等の特樵の濫用も嘘有なり、.団民大衆の生活が甚だして窮迫したのみならす、政 治家は濫りに干渉政策を張行んて民衆の自由を密か弊寄早出といふ有様であつた。其外王墓・貴族・伶侶等の堕 落、物情騰貴に依る生活の墜迫、飢饉に依る食棍の快乏、.困輝財政の極度の疲弊等の鶉めに囲内が混乱状態に陥 ったが之を冬嗣し、時局を敦ふ様な大政治家も出でなかったので、あらゆる特棟・干渉政策の排除・鳩由平等礁の 獲得を目標として暴動が起り、之妨婆展して革命となつたのである。だから国民大衆の不平不満から無計前に起 った暴動が敬展して殆んど漁期せられぬ樟の大革命を見るに至つにとも言ひ得るであらう。然るに後者は貴族∵ 大地主・富豪特権階級に封する嘲般民衆の反感外あつたのは寄寓であるが、か∼る個々のことよりも寧ろ専制主 義と共和主義、資本主義と共床主義、資本家階級と労働者階級との正面衝爽、乳礫闘争に依って起つにと見るべき である。尤も度々縁った高度の飢笹に依る鼠衆の生活の困窮や欧洲大戦の影響等も革命誘導の劇閃であるこ.とは 詔ゆねばならぬ。補しでロシアの革命はフランスの無計賽無準備の暴動進展的革命に比すれば速かに計賽的であ り、多年.に覚る準備の結魂である。然し筆者は鼓に爾革命の原田や過程軒比較研究して詳述せんせの意掛ではな いから之位に止めで肯くが、世界各図がロシアの串命に封して注意を深くした部面は政治的・軍事的、・文化的・ 軽挙的・各部面に亘ってゐるけれども特に筆者は鯉臍畢徒せして経済部画に就てのみ観察すれば敢脅主義革命が 兼して成就するかどうか、叉之が完成した既に尊命政府が如何なる経消政筍を樹立驚行するか、叉計愈主義革命

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豪の思念してゐる様な、理想的祀昏主義が賓現し、かちる敢倉が将卒航速に費展し得る否やといふ鮎にあると考 へるのである。少くとも筆者は之等の鮎に大なる摘心を抱き興味を持っ㌣ゐたのであるが、兎も角叫腰帯命は完 成し革命政府が樹立し年釆二†有鹿年を経過して今日に至ってゐる。然らば革命後の■ロシアの経済組織は眞の音 味に於ける祀脅主義経済相絨に出奔上ってゐるかと昔へば寄驚そうではない。革命直後に於ては政府は埋想的配 合重義靡消組織確立に邁進したけれども、産葉施設や経済粗放の破壊∴労働隼産他の低下・労働者管理の不備と 不馴れ、外観の干渉等の馬に盤工業共に生産高の激減となり、従って運輸械踊の満劫為不振に終り、農村封都市 の商品交換計露も失敗に踵し、食棉品共他の分配制度も園滑に進ます、、各種韓柴は二株に嚢へでしまつたのであ る。レー一一ン訂ninも困りはてた末、新艇摂政第N箋Ee昌OmicPO詳y︶NEPを探川するに至ったのである。 新鮮済政策に裁ては後に述べること∼するから菟には二言するに止めるが、此の政策の中には資本主義が多分に 取入れられてゐるのであつて、此.の政策を鷲施す冴に至ってロシアの経済産柴が漸次回復したのは客質である。此 の事は純然たる敢倉主義の賛辣・前進が不可能であることを基蓄するも、のである。それ故に此の革質を見で配合 主義が資本主義に降伏んたのでみるとの批判をなす論者が出て釆たのである。然しレーニン初め其の〓状は純然 たる社食ま義を固持する以上∵経済的蟹展を望み得ざる事は承知しでゐながらも、速に資本主義に服することは 革命の背任者としで﹂叉乳命政府の首脳部として其の地位を保持する上から見ても文民衆の信用を維持する上か ら見ても相木難い所であるから、・彼等は敢禽主義敢禽縫紋の蔑めの叫過程として叉山方洪としで此の政策を採つ ブダイエー聯邦の経済的躍進 ︵二八劇︶ 七

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菟十四番 第由班

︵二八こ︶ 八

たのでぁり、▼此の過程に於て民衆に勤して雲量端的訓練々施すのがあると抜粋してゐるのである。

そは兎も角としてソ聯邦の靡潜は新控臍改築時代に入うで漸次何役し、更に計霞経済時代即ち五ケ年計霹時代

に入つ・でから驚エき探題傍途げたのであるが、・しかし吾ノ年盗も突如よして樹立されたものではなくして、革

命後十年飴乃の準備時代が存す鳩ことを知らねばならぬ。筆者は此の期間を戦時共産主意時代・新経済政策時代

の二つに分ちて論述心然る後計算審済時代に於ける辟臍替展の状況を述ぶることゝする。

串命以前宣於ける。シアの主要慮兼は農業であつて、農民の数も多く作付面積も廣かったので農耕技術が幼稚

であり資本の欠乏が甚だしかったにも不拘、其年生産額は糊寸五億常に達し之に林・漁・狩攣牧畜諸柴の生産

額を加ふれば百二十八倍留の巨額に達した砕である。然ん他方五菜も特殊のものは可成蓉虚しでゐた。即ち繊維

工学冶金工苧鍛灘等が之であらて、しかも2等は大規模のものが多かった。けれど為生産技術も俊秀でな

く、其の粕識も不備であり、資金も欠乏防で外資に依らなければならぬ有様であつたが、それにもても工生躇年

額は七十億常に達してゐたのでぁる盛るに・→凡∵七年革命が勃資してから生産和紙は全く破壊せられ、敢禽的不

安は日盲と高まう仝露に莞で混乱状態主格った。しかも革命直後に放ても依然としで労農の階級間寧は止ま

す、反革命次に対する殺撃国外数学逃避等の為に愈晶民は不安に肇はれ、政治も外交も将叉経済も全く常

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態を逸脱し、如何に落付くかの見透しさへも出来ぬ巡に撹乱されでしまつたので透る。平時の状態に於てさへ前述 した凝に技術の幼稚、灘絨の不備、資金の不足に困惑ん霊のであるから1かゝる状態七なりては液早新に外資を望 むデ㌦との不可能篭るは勿論、永末股ぜ濁れてゐた外資が静々引上げらるゝ事になつた上に通商挺絶をなす問さへ も鼎次いで澄じたので、座産能率は低下し踵繋が衰微するに至ったのは常然と言はなければならぬ。特に革命政 府は資本量艶経済鋸絨破壊後、従釆の生産設備の上に直ちに敢愈主義を驚現せんとしで、政府の権力を以て所謂戦 時共産主義を無理押した強行したのであるが、之は完全に失敗に経ったのである。然らば戦時共産主義とは如何 なるものか。之を約言すれば﹂切の私有を禁止して固有となし、私的営利行焉を禁止する。即ち土地も資本も銀 行も交通機閲もエ柴も皆固有とし外囲貿易や主要商工業を団常に移さんとするのである。而して労働者を強制徴 敬して生産に従事せしめ、生産物は固家の横鯛に俵つて国民に分配せらるゝのであるから資本竜巻脛臍に於て爵 も必要とする例の市場・貸借・億邦等は不要になつてしまふ繹である。斯くの如き赦倉に於では傭人の営利心を 刺敬するものはなく個人の自由も認められない。正統屡次の経済革が敬ふる如く経済活動の源泉が個人の営利心 にあ▼るなれは最早斯くの如き敢昏主義祀愈に於ては、楷力に依って強制するに非ぎれば人々の経臍的活動は終止 、するに挙るでぁらう。少くとも飴剰慣低地得の為に働く者はなくなるでやらう。若し絶ての人が紳俳枕し全然私利 なと念頭に密かサ、他人の鷹⑬牌叉閣家政愈の為に進んで身を犠牲にしで活動するこ㌧とを欲するなれば兎も角で あるが、、今日かゝる紳俳人を全人類のすべ七に凍むるこ主は不可能である。叉償令樵力を以て強制的に労働せし ツゲイエー聯邦の﹂粗済的躍進 ︵〓八三︶・九

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︵二八四︶一〇 弗十四春 希四渋 むるとしても私利の伴はぎる限り能率が止らうとは児へない。右述ぶる例の私有の禁止は棚九叫八年六月二十八 日の叫般固有令恐布に依って確定されたのであるが、しかし之は淡律上二甥の私有が固有に移されにといふに過 ぎぬのであつて、革質は仙片の固有令を以て二鱒数千萬の人口に、叉二千萬平方粁飴の廣大骨る地域に濁して仙 車に徹底的に固有を貰現することは出来なかったのである。特にゾ聯邦の如く文化の程度低く、敢骨組轍が不完 全であり敢脅が混乱してゐ・る上に革命政府も必ずしも張力とは言へす、それ計り.でなく反革命政府勢力が相普根 騒い図に於ては、.固有の徹底的完成はそんなに容易に行はれるものでないことは見易き朗である。其の仙例を見 るに大工場の如きも次表に示すが如く仙九仙九年山月には償に八≡○文が固有となり年を迫ふて漸次其数を増し てゐる有様である。 ゾ 聯工場国有数 エ場閲有の茸現は政府のカに依るといふようも寧ネ虜働者の力に依ったといふのが眞相であらう。番命直後に於 では政権が勤務しでゐたから改称のカは左程張力でないのに反んて、弊働者は革命には初めから賛意を表し其の 固結力は笹岡なものがあら、従つで勢力が強し彼等は盛に企柴の固有論を強調し、其嘗行に向って非常な努力を 年 月 日 −九一九、て 剛 一九〓○、て、山 山九〓て一、一 国有工暴数 八≡ 三、≡〓四 五、八≡四

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なしにのである。それで為るから革命直後未だ工場の固有が多く琶現しなかつか時分に、既に工場労働者代表が

経常委員愈を紺撤して資本家の療螢する土場末乗込んで帳簿や通信の検査を行ったり、経営に干渉したり、叉紅

紫の乗取策を講じにりなどしたから、資本家たる土場主との問に闘争が頻敬したⅥである。しかし概しで労働者

側が勝利七博しに。資本家の中には工場を放廃して逃遷する者もあれば、叉労働者の畢求に應ぜぬといふ理由で

政府がエ場を没収することも砂くなかつた。だが然し工場群皆が労働者の年に移つでも彼等ゼエ場経営に裁ては

智識もなく頼経鹸であるから所謂無計匪の経常をなすの外は烏いのであるから、経常の成績を蓼げ得なかったの

は常然と富ふべきである。又固有に移ってからも革命による生産設備や生濠組織の破壊・資本や原料・駄科等の不

足、経常に錘鹿廟禿る官吏の放漫なる療螢淡等の焉めに生産力の低下甚だしきものがあつた。仙九二〇年の如きは

戦前の約二割、その禦年には約言嘗碁といふみじめな成績しか轟げでゐないのである。伺ほ詳細は次表を見よ。

ゾ聯邦工発生産指数

年 次 一九 劇 ≡ 一九 劇 七 仙 九一入 一九 山 九 一九 こ 〇 一九二.一 ブダイエー聯邦の経済的躍進 工業生産指数 一〇〇・〇 七五・七 四三・四 二≡・一 こ〇・四 二四・七 ︵二八五︶一仙

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備 考 本表は小泉借≡菅 ツゲエー一計義経野 叫七1一入貢

原表は¢・弓・¢riロk〇、The句i諾巧earコan O〓Fe哲瓦et qniOb二3〇.憎”望.

ポロックが一九二〇年に於けるエ巣状態を﹁工柴の崩壊﹂と超しで述べる夙に依れば﹁戦時共産主義時代の末期 にありては形式的には二百萬以上の労働者を擁するこ函七千二百二十六の経常が垂南国民経済合議の下に立つに 至った。かく多数の経営も固民経済の徹底的細織化といふ集中的管鞘装畳の形式に放ての叫切の措定が結局不成 功に終ってしまつた。:・︰・・・ 金座葵に戯て算定するに生産放額は完三年の状態の蒜八分に低下してゐ牒。 ⋮:女織絆工柴の汲も盈嬰なる部門上る木綿工共に鹿て首へば一九二〇年は戦前生産の苧フじて二十分のナ哲生 産し得主に過ぎない。しかも此の僅に二十分の叫を生産するが周に聾したる燃料は戦前の四分の仙、労働者は三 分の仙飴りを発してゐる。而して叫入営りの生産力は僅に八分の〓射に低下したのである。織絆工柴の他の泉質 部門たる羊毛工業に於ても、木締工餞程度ではない進も、大櫻岡様に成績は恵化してゐる。吾々にとつて露要な ことは、何故に所謂鹿時共産主義政策が破局と荒腰に経ったかといふ根本の理由を明にする士とである。原料や 燃料の輸入の杜絶・労働君達の生活必濡品調達の蔑めの日常閲謡・無数の菜食やデモンストレーションやが、﹂ 九ニ6年の多くの月に於て琴際の労働日数を少くした鶉である。﹂と述べてゐるけれども、それよりももつと根本 的原因は私的営利の否定・市場の破壊による控臍計静の喪失・従って起る生産手段及び消費財の非審済的な分配 第十四令 弟四渋 ︵こ入六︶一二

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に踵すべきである。︵山本堺市・問民精神文化研究琴二年準二甜一〇−二東︶土地固有に放ても﹁土地の私有 は之を歴止す?土地の褒賞貸借をなし之を拭蕾とし若しくは其他の方淡を以て謀渡し得や﹂と定められてゐるの であるから、、農民は只土地の用益樺だけはある諜であるが、寄蟹は淡文通りに智行されなかつた。香寧ろ王侯貴 族の土鞄を竣牧レて之を農民に分興し、或は農民の私有地や彼等が忍奪した土地さべも政府は獣認してたのであ る。然むば何故政府がこんな不徹底な策を探つでゐたかと云へば、七千飴萬の人口を持つ農民の機嫌をとつて置 かなければ革命政府の婿釆があやぷまれる。農民の協力を得ることが革命の完成や政棟伸長の為に絶封に必要で あつたからである。然るに農民は土地の私有が歎認されたから、呉収穫物も亦全部私有に辟るすものと考へでゐ た朗が、政府は収穫物は自家用の分盈丈の私有を認め、飴剰は全部無償で政府に提供せしめる。其代りに生産用具 衣顛・エ柴品等が政府から無償で彼等に分配される旨を牽表したから農民は驚いた。而して彼等の不平不満は日 と共に高まり、途に此の制度に強力なる反判を示すに重り、柴村各地で反政府的暴動曽起すに至ったのである。 之は政府にとつT仙大打撃であつたに相違ないけれども、さればとて農民の希望を容れてゐては都市の住民や赤 軍や官吏に封して食糠の供給が不可能になるから、政府は強い決心の許に農民の反封を斥けて散剤農産物の強制 級蓉制度を嘗行したのである。農民も政府の張力なる権力に鷹せられ表面上之に脱したかの如くであつたけれど もそれ以来農民は色々の口茸を設け■て播嘩面鏡を減じ、耕作に努力を炊き、自家用に足る程度にして働かぬ様に なつでしょつた。政府は之を襲ひ何とかして蕗産物の噂牧を粗らんとして考慮の結果、強制播柾制度を採用賓施 ブダイエー聯邦の痙静的躍進 ︵こ八七︶ 〓ニ

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備 考 本衰は 右に依って見れば柴発生産物はエ菜生魔物の如き激減はなかったにしても、山九二〇年以後は敬前の六刑責に 落ちてしまつたのである。その為に幾産物もエ菜製品も草しき紋乏を来し可成深刻なるものがあつに。かゝる結 果を見るに至つたのは打ち鴇く内乱や敢愈不安や天候不順等も原因しrゐることは認めなければならぬけれと も、之等よれも増して盈要なる原囲をなすものほ前述するが如き農産物の強制後輩制度にある。 第十四啓 発四渋 へこ八八︶ ∵四 するに至ったがそれにも不拘、畠民をしで之を徹底せしめることが出来や貯蔵綺を放めることは出来なかつた。 左衷は革命以後如何に農菜が衰へたかを知るに足ると思ふから掲げで参考に資する。 ゾ聯邦農薬生産指数 九 九 九 九 九,、九 − t一一一 −一一 一 1一一 t一一▲ − ○ 九 入 七≡ 年 農染生産指数 一〇〇・〇 九〓・三 九〟・卦 七六U・≡ 六入・九 六≡・九

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以上勒時共産主義に裁て大要説明したのであるが、要するに敢倉皇義の驚硯は全く失敗に終ったのであつで、之 はレーニン自身も認打てゐることは叫九二血年の秋彼が次の如ぐ述べてゐる所に依って知られるのである。即ち ﹁宮人は共産主義的生産並に分配を蜜雄レたが之は誤りであ、つた。盤柑に於ける農躊物の徴蟹・都市を建設せんが 馬に直接なる敢昏主義政論の遊行は生産力の伸展に妨寄となり、之が為に剛九二剛年には政治的絆臍的危機に頻 した。此の結果を見るに至ったのは、昏々が直接急速に祀合主義を蜜現せんとした政顎を探ったからである﹂と。 そこで彼は時局を救ひ経済の回復を囲ることが急務であることを悟り、その焉には従来の主張を捨てると共に其 の政策を放棄し、新しい立場に於て新しい政策を探るより外に遺なきを知り、途に次に述ぶるが如ぎ新経済政策 ぎ且aEc。n。mice浄ay.P。︻ika茅w珂c。n。micP。Fcyu2EP・、を探るに至ったのであつで之は正に、政筍剖 の期的∵芥博換である。′単著は革命直後から新躍臍政竃を採用する迄即ち山九心七年から湖九二叫年春迄を戦時 共産主義時代と呼んでゐる。

三 部経済政策時代

資本主義経済紙織を破壊して其の跡に直ちに祀愈主義経済を瞥現せんが焉に戦時共産主義政策を親行したふも 遂に失敗に経っにことは前述した所である¢そこでレーニンも政策摘換の必要を認め指び資本主義を取入れ所謂 新経臍政策を採用轡施しだのであつで、此の時代を新経済政策時代と名付ける。凡そ山九二仙年から一九二八年 ソダイエー聯邦の経済的躍進 ︵二八九︶一五

(16)

第十四谷 第四鶉

︵二九〇︶一六

秋頃迄を善意のである。レーニンは此時代に入りて従釆砂私人の常利活動の禁止を解き、市場を後活し遍貰を許

すことにしたのであつて∫、之が新経済政策の本質である。然し私的僚利活動を認めたとは軍へ革命前に於けるが如

き無統制なる自申羊義的資本主義制度に躍った諜・でほなぐ、可成多面に亘って固有・団螢なるものがあり、文相富

強力なる統制の下に私的蘭利活動を認めたに過ぎない。けれども之に依って赦骨壷義政実の本質を失ったことは

明白である。論者は之を以て政争重義が資本主義に降服したのであり、資本主義下に於ける労働隼産煙が赦愈毒

読下に於けるそれよぅも優位にあることを差するものであるとの批判を下してゐるのである。然し敢食卓義者は

決して此の批判に服しはしない。ブハー、リンは﹁ゾヴイエー・甘シア.にはプロレクリ政府の手で絆臍的に今直ぐ

支配し得る部分と、直ちには支配し得ない部分と.がある。例へば小中工柴予商菓等は即ちそれで今直ちに受配し

得ない部分を政府は個人に貸興して∵漸進的に之をプロレクγア政槽の直接経常に硝化せしめんとするものであ

る。之が即ち新粧臍政策である﹂と富ひ、叉レーー;は∴﹁昏々がより急速に漸進せんが焉の凧時抑退却である﹂ と新経済政策の特質を述べた。東にモスクワで客死し.た故片山潜は﹁嘗々はプロレクリア昭裁といふ織の軸な縫 ってゐる?ネップは此の如の中でブルジ計アジーといふ鵜に金の卵を生ましゆで、それ藍買切所得に格す馬の 政節である﹂と訟いてゐる。・︵砧聯邦年鑑十九三九年版三﹂蜃ご∴即ち彼等は新経済政策を探るに垂つじのは決し

て資本主義への降服ではない。彼等の理想とする政倉重義敢合を驚現せんが焉の毒的後退であ㌔暫定的迂廻

的﹁過程に過ぎない。此の過程を通じて民衆に封して祀愈主義的訓練を施すのであると挽科してゐることは前に

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述べた通りである。彼等は革命誘恐の拇導者としで、叉其わ後の安住者としで、勝又配合主義信奉者として今速 に酷脅主義は全然訣謬でぁつた、資本主義杵降参したとは言か難いであらう。けれども.理論的に見ても敢命主義 l言誤ちがめり、叉蜜詮的に見でも其の政策嘗施の結果が不成績であつたのであるかち、彼等が如何に強耕しやう と牒、最早彼等の富に眞を鹿く繹にはゆかないのでぁる七 兎も角級等が新鮮臍政策を採用して先づ漕手したのは、感度物の強制徽章制度を虚しで現物税努課することに しにことである。即ち負に蜜雄した所の強制横猿制度は農民の自家用の分畳を抵除した飴剰は全部国家に波板せ られてしまつたのが、今や農民は農産物の〓空部分を現物税として納付すればよい事になつたのであるから、税以 外の部分は悉く農民の所有に膵ずるに登つたのである。かくなれば農民はその努力に依りて収穫を増加すれば所 得も亦自ら檜加する結果となるのであるから、彼等の営利慾は大いに刺戯せられ、満足せられることになる。し かし此の飴剰物が私有と‖なつても之を稟買することが出奔なければ仕方がない。それ故に政府は蜜月機関として の市場を認めると共に貨幣の使用をも許すこと宣したのである。即ち市場に於ける貨幣に依る自由貸賃を認める ことにしたのであつ←て、血の鮎に就では資藩主読下に於ける市場と何等興る斯がなくなつた詣である。かく貨幣 経済が復活すれば物姶賃銀制度も亦不便であるから、之も鹿止して金給袋銀制度に複露すると共に、現物稚も金納 祝に改めてしまつた。此の政策極換は農民に或る程度の満足を輿へたことは言ふ迄もない。之に依って従来沈滞 しでゐに選集も年と共に清泉を呈し農産物牧攣向む漸次増加の傾向を硯はすに至った。即ち次表を見よ。 アダイエー聯邦あ経済的躍進 〇一九一︶ 二七

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註 指数劃00の箕数は首十六億〓エ岡留 本表は小泉信三 間上苔一入貢 原未鱒G.声G㌢kO−The増i諾感賞望呂◇=Feぎ卦二盲iOコこ諾〇・付い寧 右の如く起業に就て見れば新経済政策の効果は良好であつて、叫九二万−ニスには早くも堅剛状態に迄復辟する を得、爾来更に躇蓮の造を辿りつゝあるのである。之は主として私的営利活動が認められた馬めに袋民の営利的 の刺戟、・給って生する努力の結城に依るものでみることは勿論である。而して政府が資本義的政策を取入れに ために、一路民の間に貧富の差を生やる、ことは、資本主義祀合に於けると同様である。資本も少なく叉蔑具も家畜 さへも有せざる貧農は自己の土地をも充分に耕作が出来ない始末であるから益々貧しくなる。之に反して資本の 弗十四谷 第四・銑 ゾ聯邦新経済政策時の農産物収穫高指数 ︼九〓ニ 仙九〓○−こ劇 一.九二丁トニニ ー九二〓1二≡ t九二≡1〓四 一九二四1二五 十九〓五−二六 仙九こ六−〓七 次 農産物収穫高指数 一〇〇。0 諌 ﹂二ニ〇九 五四●四 七lニ↓六 七九。九 入四●〇 州○岬・三 劇〇六●五 ︵こ九〓︶ ︼八

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豊な農民は貧農から土地を借入れて耕作サる計りでなべ、まい農兵暫使ふこと阜出来るしヽ肥料も好いものを多 ぺ疲用し得脅から収穫高も増す.とと墓奄竃を以で琴々富む。∴か・︵して貧膚の差は愈々進もてなつてぐる。而して 遽には賛虫は富農の勢働者にな㊨写うてしまふのやある。此の鮎は歓洲の申せ紀末寒かち近代にかけて大工繋の 発達と共に鹿率の手工幾者や家内工業者が大正薬に塵倒せら蹄予途正は資本豪の下に盛って券働者となる者の多 かつたのせ其の軌を叫にする竜勿論人数かを貰へば富農は少数であるけれ.ども敢倉的地位から見でもヽ文都市住 民や赤軍に食犠を供給ず竃醜かち見ても彼等は畢資性を持し七居ち勢力も強いのであるて次にゾ聯の農村人自の 階級別概数を示ざん旬 ∵ゾ聯邦農相階級錮人口∵∴︹畢億官鄭人︶、 農薬プロレクサヤ 小 農 申 裕 ′富 農 顔早 慶 農染に従事せざる者 備 考 本表は小泉倍三 ブダイエー聯邦の経済的躍進 原衷は J庭○竜︰Dieく○−溜司i誌註註de巧SOW菅tuniOnundihre聾Ob−e︸考㌫二ひ○⊥竿 虚栄プロ′レタサヤは主として貸銀螢働者、小農はニアシヤチン人エデシヤチンは約一町一反五歩︶以下 同上苔一四寅 三・四 lニ四・〇 五〓・〇 一︼・〇 五・〇 一四・〇 ■ ︵ニ九三︶ 山九

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︵二九四︶ こ○ 第十四容 儀四・洩∵ の土地所有濱華七七馬∵農具等殆んど有せず。申億牒自家の療働によ牒て耕作しうる鹿魔の土地を有し多 少の利益を収むるもの。裕富農は六−山○デシヤサンの土地併有牒、嘗腿はー○デシヤチヤン以上の土地 所有者をトふ。 耐愈主義者にとつては貧富の差が生じ、而も自に増し其の懸隔が甚だしくなり、富農の勢力が伸長しで来るとい ふことは嚢ふべきことである。なるべく平等にじ貧富の差を少くし富農の勢力を衰へしむることは彼等の甥想で あり念朗である。酪るに新経済政策採用以来敵愈はこの理想と反封の方面に進みつ∼あるのであるから彼等にと つT心懸りであり心配で申つたに超ひない。何せなれば富農や商工業の金持階級はプロレクリア政椎の異分子で ふγり、所謂プロ㍉レタリアの搾取階級であるから、之等が裕福になり勢力を得ることは敵の力を強め、ゾ聯邦政権 の踵力となるからでぁる。・レーニ・シの死後スターリシ虹其の地位に就いたが。失張同じ政策を肇踏せねばならな かつためノである。それは新経済政策を拾つれば再び産業が衰瀕し敢倉不安を釆たし、彼等の考ふるが如翠配合主 義敢禽を適設するこノとが出来ないと海へたからでろネ。⊥富はは彼も亦赦合義弟敢愈建設の迂祖的過程とし忠正む なべ同じ政覚を持続したもの主恩はれる?然し旋がち彼.は右反封勢力を鷹迫する土とを忘れなか.つたっ即ち彼等 に判し▼て選螢桔.の剥奪予高度の財産課税等の方轢を以て彼等の成長と勢力の檜天に制限を加ふる左共た、鍵臍的 にも貧l川横の生産力¢張展に力を注ぎヽ、それに放つで資本主我的勢力に勤続せしめんともたのである。 次.に新腰臍政策電輝以来商工柴方面は如何に麺ったかて庇の方面も鼻糞方面と同株に′一大番展を遂げ王と署ふ ことが出来るヾ尤も商工尭が総べて私有化したのではなて重工柴J交通柴・h銀行柴−J外囲貿易等の窺要席菓撞 ●

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固有観螢であつた。一九二三年末に於て却巽南菓の二割五分と小褒商葉の殆んどすべてが私有私語となつてゐ

る。∵何れにしても商工柴の私有私鱒ヘノ、の後活は企発着の僚利心を刺戟して彼等を勤勉ならしめだことは事嘗であ

宅従って其の成凝見るべきものがみつた?今工業生産の蟹展趨勢を知らんが為に﹁九三年の生席指数竺0 0として後年のむれ堅不㌢ん。∵

り廟邦工柴生原指数

詰 指数仙COの賓欺は入十′四億二手貯留 備 考 本乗は上組恵二八貰 原衆は G.づ.G旨ざ∴吋”∽㌣ 更に新経緯政策採用の年を基本として叫00となしてエ発生産額指数を嘉せば増加趨勢警衛明確に知ること ブダイエト聯邦の経済的躍進 年 次 一九二二 山九こ○−〓l ︼九〓一−〓ニ ー九二二1二≡ t九〓≡1二四 一九二四−こ五 一九二王Ⅰ〓六 一九〓六1二七 工弛虫産指敏 一〇〇・\○ 〓四・七 ≡○。一 三九・五 四八・〇 六七・〇 八九●九 一〇≡・九 ︵こ九五︶ i〓

(22)

第十Pq春 希四渋 が出来る。 一九二両年度を基本とするゾ聯邦工発生産指数 備 考▲本表は上端苛 劇入貢 原凄鱒W・H・Ch眉訂r音声eぎくiet望岩ned露OnOmi。○乙eご±おごH竜∵㌣⊥。・ 本末に依つ.て見れば新躍臍政策鸞碓以来工発生産額は著しく増加し山九二六−二七年度には堅剛状態に迄担復 してゐ各ことがわかるのであつて﹂特に叫︰九二囲1二軍年度以来の蟹展は注目すべきものがある。 偽は工業に於ける各部門が如何に野展の著しかつ王かを嘉す鶉ゆに小島将帥氏の用ふる叫表を左に掲げて参考 に供しゃぅ。 年 次 −九l〓1こ二 一九こ︼T﹂〓一二 一九l〓ニー二四 一九〓四1こ恵 劇九二五−−二大 −九二六1こ七 一九二七−二八 l九〓入1二九 工策生産指数 一〇〇●〇 一.四五・入 山九〇・七 ≡山○●九 四四二丁八 嵐二〇● 山 犬≡七● 〟 七八八・・仙 ︵二九大︶ 二二

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ブダイエー聯邦の経済的躍進 ソ l ゾ聯邦に於けるエ柴各部門別工葉生産躍進の趨勢 t ・、 ダ 染 鏡 鍍 金 械 ︼00萬キロワッ一時 一〇〇萬キロワッ一時 て000馬力 仙00萬ルーブル イ/ ンク ーー 0 0 萬 ケイ′ ∴唾 一てOCO砥 一〇〇筒聴 ク ク

;三年一

山五四。○ 五、〇五〇 一、八七〇 こ〇五・〇 叫二五●○ 劇〇六。九

五・七 川 亨′ニ二

︵こ九七︶ 二三 一九二七1〓八年の 一九〓ニ年に封する 百 分 率 〓〓丁五 〓一四・七 四芋二●lニ 四〇ニ丁四 一八六・六 二七二。○ 二五九。六 二二≡▲こ ユハエ・〇 七入ユハ

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備 考 本来は小島痕一窄 ソダイエイlの蛋工染仙○寛 之に依りて見れば、冶金柴だけは一九二七1二八年に於ても戦前の棟準に達してゐないが、他は何れも戦前の 状態よりもよくなつで居り、就中泥旋・内燃機踊二柴の如きは四倍以上の躍進を途げ七ゐるのである。概して冨 へば盈工業部門は甚だしく進んで釆たが、消費部門の各工柴は戦前状態に漸く接したといふ程度である。此の鮎 から見ても次の時代に於ける五ケ年計責にあてソでは冶金工柴並に﹁般治療財工兼の賛展に大いに努力せねばなら ぬことが了解せらるゝであらう。 以上を要するにゾ聯邦は革命に依って二嘩帝政資本主義圃豪を打倒することに成功したけれども、政府が若 後直ちに敢倉主義祀禽を埋設せんとして戦時共産主義政策を強行したが、之は見寄に失敗してしまつ、たので、遮 に過去を顧みで反省をなし、従釆の誤れる政策の再検討を行ひ.資本主義を多分に盛って新紅済政策を樹立しに。 而して之に依って相常程度の私有私螢を認ゆで、団民夫廉の営利心を刺戦して漸く経済の回復を踊ることが出来、

(25)

完二六1二七年度に至って産業を堅剛の状態に迄引戻する▲ことを得たのであそしかし資本主義政策を凍れば

産業が牽達するといふことは敢愈主義者は充分に知ってゐながらも、之牽無限に押進めることは彼等の立場上出

来嫌い朗、であるから、それは出釆ない相談である。そ甘かと貫ふて彼等が初めに考へてゐた様に、純然たる融合

主義を迩零する限り、生産力は衰へる妄であるといふごとも過去の磨験に依って知り得た朗であるから、其の

愚を繰り返す詳にも行か庖。そこで彼等は面目を破ること住ト㌧しかも経済的恐展を掛らねばならぬといふ難局

にぷつかかのである〇此所・に於て彼等は新経済政策に於て回接した鑑済度柴を基礎として、如何にして更に躍進

せんかとの間魔の研究に没頭し、而して此の問題の解決に彼等は隅汁を搾ったのでぁる二未完︶ y、ダイエー・聯邦の経済的躍進 ︵こ九九︶ 二五

参照

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︵原著及實鹸︶ 第ご 十巻   第⊥T一號   ご一山ハ一ご 第百十入號 一七.. ︵原著及三三︶