『魔
の
山』 に
つ
い
て
― 対話形 式 によ る作 品論の試 み ―
武田
修
志 (昭和53年 5月25日受理) は じめ に
,遊
びがす ぎるとも不遜 とも取 られかね ない対 話形 式 を用 いて作品論 を行 うこと に対 し て、簡単 に弁 明 してお きたい。 対話形 式 を用 いよ うと思 い立 ったの は,第
一 に,単
糸屯で,は
な はだ 消極 的 な理 由 か らで あ る。つ ま り, この関連の 多い小 説の 内部 に立入 ろ うと して,対
話形式 とい う 道 を通 って 行 くほ か他の どん な道 によって もそれ が不可能 だ っ たか らで あ る。 第二 に,研
究 方法 は 研 究対象の うちに見出 さるべ しとい う一つ の方法 論 を,形
式 に まで敷 行 して も必ず しも不都 合で は あ る まい と考 えたか らであ る。つ ま り,『魔 の山』 にお いては,非
常 に多 くの重 要 な問題 が,対
話 の形 式で展 開 され る。 それ を借 用 したので あ る。 とこ ろで,こ
こに言 うLとは,極
く普通 の (と筆 者 に考 え られ る)ト
ーマ ス・マ ンのLeser,F
とは, この作家の作 品 をまが りな りにも原文で読 む ことがで き,Lよ
りもなにが しか文学 的教養 を 積 んで い る sein Freund。 この単簡 な設定 によって筆者 が 目差 して い るものは,こ
の作品 に対す る い くば くかの解 説的寄与で あ る。 1L:『
魔 の 山』 を二 回読 んだ。作者の忠告 に忠実 に従 ってね。F:『
魔 の山』 は トーマス・ マ ンの作 品の 中で も、 最 も広 く読 まれて い るものだろ うけれ ど,一
読 して,も
の す ごくおも しろかった とい う感 想 は聞 いた こ とがない。 ど うして も再読,三
読 され る必 要 が あ るよ うです。マ ンが言 って い るよ うに,「
この作 品が形 成 してい る音楽 的・観 念的 な関係複 合体 der musikalisch― ideellen Bezichungskomplexは,読
者 がこの作 品のテーマ をす で に知 っ て お り,象
徴 的 に奏 し始 め られ るきま り文句 を,た
だ単 に物 語の後 方のみで な く,前
方 に向 って も 解釈 す るこ とがで きる場 合 に初 めて,正
し く見通 され,享
受 され うる(1)」 か らだ ろ うか。L:そ
れ は ともか く、小説 とい うものは,も
うH限に飽 かせて,言
わば好 奇心の強 い散策者 みたいに脇 道 にそれ
,い
かがわ しい所 に首 をつ っこみ,も
との 道 を失 い かけ るよ うに,そ
うい うふ うに読 む もの だ, と教 えて い るよ うな書物 だ よ,こ
れ は。 とい うの は,一
回 目通読 した と き,ぼ
くは, これはいった い何を言 いたいんだ, とそればか りを追いかけた。 そ うした ら
,何
か腸道ばか りに連 れて 行かれるよ うで,何
がテーマなのか さっぱ り分か らない。「雪」の節で,こ
の作 品の中心理念 らし いものを聞か されはするがね。そこで再読す る時は,こ
の脇道 にこそ意味 があるんだろ うと思 って, 腰 を据 えてゆっ くり読 んだ。 そ うした ら, この小説のPD・もしろさが分かるよ うな気が したんだけど。F:そ
れがこの作品の正 しい読 み方で しょう。脇道にそれ,ほ
とん ど自分 を失いかけるよ うに して 読む。 これはどんな小説 を読 む場合 にも言 えることだろ うけれど,特
にこの作品においてはそう言 える。 とい うのは, この「脇道 にそれる」 というのは,単
にこの作品の読 み方 とい ぅにとどまらず, この作品の語っている根本思想,少
な くとも根本思想の一つ と思 われるか らです。L:「
脇道にそれる」,な
るほど。 この こ とでは,何
かいろんなことが言えそ うだ。例 えば,「雪」 の節で,主
人公ハ ンス・カス トルプは,サ
ナ トリウムの規則 を破 って,雪
の山中ヘスキーではいっ て行 き,あ
や うく命 を失いそ うになるbこ
れも「腸道 にそれる」 ことですね。脇道にそれ,危
い目 に会 うかわりに,意
味深 い体験 をす る。F:そ
の通 りです。「脇道 にそれる」 ってことは,危
い目に会 うとい うこと,常
に危険を伴 うとい うことです。つ まり,こ
の世界で何か意味深い体験 をしよ うと思 えば,危
険の中へ足 を踏み入れね ばならぬ ―L:こ
こで幾つ かの場 面,幾
人かの登場人物の言葉 が思 い出 されるけれども,今
はその一つだ けを 取出 してみよ うか。それは,第
7章
の「ペーペルコル ン氏(続き)」 の節,ハ
ンス・ カス トルプとシ ョーシャ夫人の対話の中の言葉です。ハ ンス・カス トルプは,こ
の対話 においては,極
めて精神的 で繊細 な事柄 を,か
つてなかったほ ど明晰 な言葉で語 るのだけど,こ
の対話の半ばで,彼
は次の よ うに言 う,「
生へ至 る道は二つ ある。ひとつは普通の,真
っす ぐな,真
面 目な道。 も うひとつは良 くない道。それは死 を越 えて行 く道,そ
して,こ
れこそ天 才的 な道 なんだ/(2L。 早々に結論めいた 言葉 を引用 したと言われるかもしれないけれ ど, これは結論 じゃない,出
発点です。た しかに,ハ
ンス・カス トル プがこのよ うな認識 に達 したという意味では一つの結論かもしれない。 しかし,彼
が歩んで来た道,彼
が歩んで行 く道の出発点です。そこで先ほ どの「脇道にそれる」 とい うことと 関連 させてこの言葉 を見れば,こ
れほ ど「脇道 にそれ る」 ことの意味 を明 らかに している言葉 はな い。「脇道 にそれる」,そ
れは生のため,生
へ至 るためである。そ して,言
わばその脇道の真中にあ るのは死 であ り,こ
れを乗 り越 えて行かなければな らない。そこで こ う言 えると思 う,こ
の物語, 単純 な青年ハ ンス・カス トルプの物 語は,彼
が死 を克月長して生の確 信へ到達す る物語だと。F:簡
単 にそ う言切 れるかどうか。ハ ンス・カス トルプは真 に死 を克服 し得たのだろうか。彼は本 当に生の確信 に到達 したのだろうか。た しかに,例
えば「雪」の節 において,彼
は,あ
の言わば大 いなる夢 の中で死 を克服 し,生
の確信 に到達 したと言 えるだ ろ う。 しか し,彼
はあの夢 をた ちまち 忘れて しまう。勿論,完
全 に忘 れて しまうわけではないけれども。言葉 を換 えていえば,「『魔の山』 が,雪
の中での夢 のあと三百ペー ジ以上 も続 き,
また例 えば,ペ
ーペルコル ンのよ うな非常に重要な人物 があの夢の あとになって導入 されるのは
,何
を意味 して いるのだろうか(3ち とぃ ぅことです。L:で
は,こ
のハ ンス・カス トルプの物 語は,彼
が死 を克服せん と努め,生
の確信 を得 ん と願 った にかかわらず,そ
れ に失敗 した物語です か。物語の最後 でハ ンス・カス トルプはどうや ら命 を失い そ うだから。F:そ
うあわて なさんな。そ うい うことはど うで もよろ しい。「腸道 にそれる」 とい うのは,そ
も そも,そ
うい うことはどうで もよい とい うことではないのか。 こ うい う場合,い
つ も言 われるよう に,大
切 なのはその過程で しょう。L:そ
れではも う一度先ほどの引用 を繰 り返す と 一 「生へ至 る道 は二つ ある。 ひとつは普通の, 真 っ直 ぐな,真
面 目な道。 も うひとつ は良 くない道,死
を越 えて行 く道,そ
して これが天才的 な道 だ」 とい うわけだけど, ここで言 われている「死」 とい うのは,作
品を読 めば分 かるよ うに,文
字 通 りの「死」 を意味 している。 しか し,一
般 的 に言 うと所言胃「ニ ヒリズム」,「 ネ申は死んだ」なんと い う言い方で19世紀半ば以降以 りざた された「ニ ヒリズム」 と受取 ることがで きるだろうと思 う。 そこで推察す るに,
トーマス・マ ンはこの ヨーロ ッパのニヒリズムを克服せんと して『魔の山』を 書いたのだろ うか?F:マ
ンがこの作品を書 き始 めた当初 はともか く,最
初の短篇 とい う構想 か ら長篇ヘ プ ランの変更 が行 なわれたの ち,作
者 にそ うい う意識 があった ことはまちがいないで しょう。 この作 品の荷 って いる課題 は,究
極的 には, ヨーロッパのニ ヒリズムの克服 とい う課題で あ ると。 しか しなが ら,こ
の小説が書かれることになった最初 の動機は 一― 当然そ うであ るべ きはずのものだけど 一 非常に 個人的 なものです。 つ とL:『
「魔の山」入門』 によると トーマス・マ ンは,こ
の作 品が書 き始 め られる一年以上前 (1912年, 5月),当
時肺 を病 んでスイスのダヴォスのサナ トリウムに入院 して いた奥方 を見舞 って,そ
こに三 週間滞在 した。 この折,高
山のサ ナ トリウムとぃ う閉鎖 的環境のかも しだす一種独特の雰 囲気,そ
れが病者 に及ぼす特異 な作用,そ
うい うものからマ ンは,数
々の奇妙 なE「象 を得た。 これ力比 この 作 品執筆の直接の動機です か。F:直
接 の動機。 しか し,外
面的な動機です。マ ンがダヴォスにおける四週 間の滞在で,将
来の創 作のための様 々な素材を得た と して も,そ
れを一つの作品に仕立て よ うとす る限 り,そ
こには疑い な く内面的なモチーフがあるはずです。 とい うよ り,内
面 に将来作品に形象化 されるよ うなモチー フをいだいていたか らこそマ ンは,ダ
ヴォスのサナ トリウムに,そ
のため に必要な素材 を見出 した, とい うの が実情 に近いで しょう。L:マ
ンは当時 『ヴェニスに死す』 を書いていて, ダヴォスに奥 さん を見舞 った時 には,あ
と結末 を残すだ けのところまで書 き進めていた。つ ま り,当
時のマ ンの心 を占めていたの は,『ヴェニ スに死 す』 に含 まれ た様 々の 問題 だ った…・‥
F:そ
うだ と思 うね。『 ヴェニ ス に死 す 』と『魔の 山』 の 関係, これは ど うして も見逃 す ことがで き ない。 ここで,君
も読 んだ らしい『「魔 の山」入門』 か ら, この長篇小説の最初 の プ ランに触 れた部 分 を引用 してみ よ う。 「私 が計画 した物 語は (… …)『ヴェ ニ スに死す』に対す るユ ーモ ラスhumorisOschな
対 比 物 と いった程 度の もの になるはずで した。大 きさか らい って も対比物 で あ り,そ
れ ゆ え,た
だい くらか 長 くな った短 篇小 説etwas ausgedehnte short storyに な るはずで した。 それは,私
が丁度仕上 げた ばか りの悲劇 的短篇小 説 に対す るサ テ ュ ロス劇 と考 え られて い ま した。 この 小 説 の雰 囲気 は, (… …)死
と慰 みの混合物 になるはず で した。死の魅 惑Die Faszinanon des Todes,つ
ま り『 ヴ ェニ ス に死す』の中で描 かれて いる最高の秩序 に捧 げ られた生 に対す る陶酔的 な混 乱 の月券利 を,ユ
ーモ ラス に描 いてみ よ うとい うことだ ったのです。一 人の単純 な主 人公。 ぞ うとす るよ うな冒険 と 市 民 的実 直 さの 間の滑 稽 な葛藤,そ
れが私の 最初 の 目論見だ ったのです。(4も これは,実
は,『 魔の山』構想 当時 か ら30年 もの ち (1939年)の
作者 の 発言 だ けれ ども,最
初 の プ ラ ンに関 して かな り正確 なこ とが言 われてい る と思 う。 とい うの は,最
終 的 には大長篇小説 と して 完 結 した この作 品 も,今
,そ
の 前半部(1章
∼5章 )の
み に注 目 してみ ると,量
の 点 は別 と して, 内容 に関 して は,ほ
ば今見た計画 に従 って書 き進め られた と見 るこ とがで きるか らで す。前半部 の 啄 囲 気 は (… …)死と慰み の混 合物Jだ
と言 って よかろ うし,「 死の魅惑」と 刷券利」 が「ユ ーモ ラ スに」描 かれて い ると見て さしつ か えないで しょ う。 また, この作 品が構 想 された 当時の書簡 (19 13年7月24日 附,エ
ル ンス ト・ベ ル トラム宛)に
も,簡
単 なが ら,次
の よ うな同 じ主 旨の言葉 が見つかる。「
(……
)例の奇妙な長篇小説 〔
『詐欺師フェリクス・クルルの告白』〕 は依然棚上げにした
まま,差
当 りもう一つ短篇Novelleを準備 しています。これは『ヴェニスに死す』 と対をなすユー モラスな作品になりそうです。(5七 3L:『
ヴェ ニス に死す』と『魔の 山』の関係。 ここで,こ
の二 作 品の内容上の 関係 を見てみ る必要 が あ る と思 うけれども,ま
ず 言 って おいて よい と思 うのは, この二作 品の世 界,主
人 公 グス タフ・ ア シェ ンバハ とハ ンス・ カス トル プが生 きてい る世 界の同一 あ るいは同質性 です。 それは第一 次世 界 大戦直 前 の コーロ ッパ で あ る,と
言 いた いので は ない。 それ は その通 りなん だ け ど,ぼ
くが言 って い るの は,両
作 品世界の精神 的 同質性 です 。二 人 の主 人公 が生 きて い る世 界は,ひ
とこ とで言 えば, そこに生 きる人 々が生 の意味 を,意
識 的 に しろ無 意識 的 に しろ,問
い続 けて い るにかかわ らず,そ
れ に対す るあらゆ る本質的 な答 を失 なって しまった世 界です。 この点 に関 して 『魔 の山』 において は,ハ
ンス ・ カス トルプの精神状 態 を叙 した くだ りに,次
の よ うな一 節 を読 む ことがで きる。 「 人間 とい うものは,個々の存 在 と して個 人的生活 を送 って い くのみ な らず,意識 的 あ るいは無意識 的に, 自分の生 きている時代や 自分の同時代人の生活 をも生活 してい くもので ある。そ して私た ちが
,善
良なハ ンス・カス トルプが実際 にそ うで あ ったよ うに, 自分の生活の普遍的,非
個 人的基 盤 を絶 対的 な, 自明 なもの と見て,そ
れに対 して批半1の眼 を向ける気 をさらさら起 さないとしても, も しこの基盤 に傷 んだ個所 があったならば,そ
のため に自分たちの精 神的健康 も本物ではない と漠 然 と予感す ることも大いにあ りうるだろう。我 々は誰 しも,い
ろいるな個人的 目的, 日標,希
望, 見込みなどを眼前 に思い浮べて,そ
うい うもののため に高度の努 力や活動へと駆 りたて られも しよ うが, しか し私た ちを以 り巻 く非個人的 なもの,つ
ま り時代 その ものが,外
見上ははなはだ活気 に 富んでいても,そ
の実,内
面的には希望 も見込み も全然欠いているとい うような場合 には,つ
ま り 時代が希望 も見込みも持たずに途方にくれているrat10sと い う実情 が暗 々裡 に認識できて,私
た ち が意識 的 または無意識 的になんらかの形で提出す る問,す
なわち一切の努 力や活動の究極の,超
個人的 な
,絶
対的な意味 に関す る間に対 して,時
代 が うつろな沈黙ein hOhles Schweigenを持 って答 としているよ うな場合には
,そ
うい う状況 は必然的 に,普
通以上 に誠実な人間にあ る種の麻痺作 用 を及ぼ さず にはお くまいと思 う。 しかもこの作用は,個
人の精神的,倫
理的な面か ら, さらにそ の肉体的,有機的 な面 にまで拡 がっていくか もしれない。「何のため に」とい う間に対 して,時 代が納 得のいく返事をして くれない とい うの に,現
在与 えられて いるものの域 を越 えるほどの著 しい業績 を挙 げよ うとい う気持 になるの には,世
に稀 な,英
雄的 な倫理的孤独 と直裁 さか,あ
るいは頑健 な 生命 力が必要で あろう。(6七_人
間の生の意味 に関す る究極的な問に,本
質的には,い
かなる答 も 用意せず,た
だ「 うつ ろな沈黙Jを
続 けている世 界,生
の意味 を喪失 した世界,こ
れが『魔の 山』 の主人公 が生 きている世界 です。これはまずはっ きりと確認 しておかなければならないと思 う。 と い うのは,こ
の世界の認識 がこの作品の前提 となって いるからです。 それは作品の中では,例
えば, 語手 によって次のよ うに述べ られているところによ く示 されてい る。「(……)も
しハ ンス・ カス ト ルプが,人
生のつ とめの意義 と目的 とに関 して,時
代の深淵 か ら,彼
の単純 な魂 を満足 させ るよ う な何 らかの答 を受けとっていた とした ら,は
じめ にこの上の人た ちの所へやって くるときに予定 していた日数を
(……)延期することはなかっただろう
(7も_言
うまでもなく
,ハンス・カストルプの
「魔 の 山」滞在 が,予
定 の三 週 間で切 り上 げ られて いた ら, この作 品は成立 しなかった。即 ち,ハ
ン ス ・ カス トル プの生 きてい る世 界,ひ
いて は トーマ ス・マ ンがこれ まで生 きて きた 世界 ―一 と言 っ て よ い と思 うけど ―― の認識 こそ,こ
の作品の成立 を可能 に した もの なのだ。F:別
の言 い方 をす る と,ハ
ンス・カス トル プの「魔の 山」滞 在の真 の 目的は,「途 方 に くれて い るJ 世 界 にお け る生の意味 の探 究 だ とい うこと。つ ま り,トーマ ス・マ ンが彼 の第三番 目の長篇小 説『魔 の 山』 にお いて企 ててい るの は,い
わば見捨 て られ か けた生への信 頼 回復の試み,死
と虚無 とに圧 倒 され か けて い る生 を,再
度,救
出せ ん とす る試み,そ
う言 って よいのだ ろ う。L:先
の 話 を続 け ると,ハ
ンス・ カス トルプがほ とん ど無批判 に生 きて きた世 界は,明
らか に,ま
たアシエンバハの生 きている世 界で もある。 とい うの は,い
ま引用 した言葉 の「『何の ため に』 とい う間 に対 して
,時
代 力部内得の い く返 事 を して くれ ない とい うの に,現
在与 え られて い るもの の域 を越 えるほ どの著 しい業績 を挙 げ よ うとい う気持 になるの には,世
に稀 な,英
雄 的 な倫 理 的孤独 と直裁 さ(・・―・)が必要 で あ る」とい うくだ りは,ほ
とん どア シェ ンバハ を念頭 において言 われていると言 って もよいか らです。 いった いア シェ ンバハ とは ど うい う人物 で あ った か。 名声 に照準 を合 わせ, 自分 自身 とヨーロ ッパ精 神 が課 した問題 をひよわな肩 に荷 い,孤
独 の うちに,た
だ「や り抜 ぐ8七 をモ ッ トー に,た
ぐい まれ な作 品 を創 りつづ けて きた 作家。生 まれつ き虚弱 で,疲
労 の極限 に あ り なが ら, なる毅然 と して,業
績 をめ ざす倫 理 家 。 ひ とこ とで言 えば,こ
れ が ア シェ ンバハ だけれ ど, ここで大事 なの は,彼
が疑 い もな く,心
の底 に「虚 無」 をいだ いて い るとい うこ とです。 この「 内 部 の空 洞9ち を彼 は これ まで 「高雅 な 自制(1叱 に よって 隠 し通 して きたわけだ けれ ども。つ ま り , 彼 もまた あのハ ンス ・カス トル プの 「 うつ ろ な沈黙」 の 世 界の住 人で あ ることは明 らかです。F:『
ヴェニス に死す』と『魔の 山』の関係, この ことで次 に言 わな ければな らないのは,両
作 品の 中心モチ ー フ,「死 」あ るいは「死 の魅惑 」につ いてで しょ う。 言 うまで もな くこれは,今
君 が指 摘 した,主
人 公た ちの生 きて い る世 界の認識,世
界が生 の意 味 を失 な って しま った とい う認識 か ら直 接 出 て くるもので す。生 きる意味 を喪失 した世 界 に広 が って い るもの は,「死」呪 の魅惑」「 ニ ヒ リ ズム」 とい うわけだ けど,こ
のモ チー フの 果 してい る役害1は,二
作 品 にお いて,あ
る意味で,全
く 異 なって い る。『 ヴェニス に死 す』においては,言
わば,「 死」は余裕綽綽 とその暴威 をふるい,こ れ を進 るもの は,ほ
とん ど何 もない と言 って よい。『ヴェニ ス に死 す 』とは即 ち「厳粛 な死 の物 語」で あ るの に対 して,『 魔の山』にお いて は,「 死」は何 と してで も克 服 されねばな らぬ対象であ り,
ま た その上,深
みの あ る生 を可能 にす るもので さえある。言 ってみ れ ば,作
者 は,「死」とい う出立 点 か ら,両
作 品 において,全
く逆の方向 にむ かって歩 いてい る。 ここに両作 品の本質的 なかかわ りと 相違 が あ る と言 ってよか ろ うし,ま
た,こ
こに当時 の作者 の「生 きる姿 勢J一
別 の 表 現 をす る と, 『魔の 山』執筆 の内的動機 ― を感 じ取 ることがで きるよ うに思 う。『 ヴェニスに死す』 が古 くなっ て衰滅 して い く世 界 に根 をおろ した 人間の挽歌 だ とす るな ら,『魔 の山』は新 しい世 界に生 きて行 か ね ば な らぬ 人間の模 索の物 語で あ ると言 えば よいだ ろ うか。作者 は,『 ヴェニス に死す』の爛 熟 した, そ して その 意味 で空 無化 した世 界 を出て,そ
こを越 えて,生
きて 行 かねば な らなかったのだ。 4L:『
ヴェニ スに死す』と『魔の 山』の 関係 とい うこ とで 話 が進 んで きたけれ ども,こ
の あた りで, 両者 の関係 とい うこ とか ら離 れて,『 魔 の山』の作 品世 界へ は入 って いって もよいだ ろ う。 そこで ま ずぼ くが問題 に したい と思 うの は,こ
の作 品 において しば しば見 か け られ る二重,二
重の祝 点です。 あ る事物,あ
る事件,あ
る現 象 が見 られ,思
考 され,判
断 され る際 に,多
くの場 合,極
め て意識 的 に複 数の視 点が用意 されて い る。 ところで先ほ どのぼ くた ちの話 で は,こ
の作 品の一つ のテーマ と い うか,一
つ の課題 と して,死
・虚無 ・ニ ヒ リズ ムの克服 とい うこ とがあ るとい うことだった。 今言ったいわば複眼的ものの見方は
,こ
の課題 と明瞭 に関係 がある。 ここで一つ例 をとって,こ
の複 眼的視点の持つ意味 を考 えてみよ う。ぼ くがす ぐに思い起 こすのは,物
語も始 まったばか りの とこ ろ,第
2章
の「洗礼盤 と二つの姿 を持つ祖父 について」 と題の附 された第1節
の中で,幼 いハ ンス・ カス トルプが祖父の死 に臨んで,死
の持つ二 重の性格 に「はっ きり気づ いていた」 と述べ られてい るくだ りです。つ まり,八
歳の主人公は「死 とい うものには,敬
虔 で,瞑
想的で,悲
痛な美 しさに 輝 く,い
わゆる宗教的 な面があ ると同時 に,こ
れ とは全然違 った正反対の, きわめて肉体的で物 質 的な面,美
しくもなければ,瞑
想的で も故虔で もない,本
当は美 しい とも言 えないよ うな面」,
肉 の腐敗 とい う一面があることに「はっ きり気づいていだlllJと い うわけですが ,こ こでは対象は5厄」 で あ り,こ
の作品の中心モチーフの一つですが,こ
れが一方で宗教的 に見 られ,他
方で即物 的・科 学的に見 られてい る。この死 に対する二重 の視点は,こ
の作品のほ とんど全体 を通 して,様
々に変 容 されて,繰
り返 されるわけだけれど,こ
の場合の二重視点設定の意図は,全
く明 らかです。即 ち, ここには死の克服 とい う意図がある。死 を二面的 に見て,つ
ま り,死
をただ単に宗教的に見て,死
に支配 され るの で もな く,
また,死
をただ即物的に見て,こ
れを無視す るもので な く,二
重の視 点 か ら死 を捉 えて,こ
れ を言 わば内にとりこんで克服す るとい う意図があるわけで しょう。F:そ
う言って しまえば身 も蓋 もない。 また簡単 にそ う言い切 れるものか ど うか。死の克服 とい う 課題 と,こ
れを果す一方法 としての複眼的視点,こ
こまではよい。 しか し,死
・虚無・ニ ヒリズム の克服 とい う課題は,主
人公が果 さなければならない中心課題であ り, この作 品の核心 を形成 して いるものなのだか ら, もう少 し詳 しく見てみ る必要 があ る。 そこで,ま
ず言 われなければならない のは,主
人公の本来的性向,所
謂叡知的性格 は,一
この主人公力湖ケくして「死」の二面 を見る眼を持 っているとい うこととは別 に 一 「死へ の共感Sympathie mit dem TOde」 に貫かれているとい
うことです。貫 かれている, とい うのは
,幼
いハ ンス・カス トルプがそ うであ り,「魔の山」にやっ てきた青年ハ ンス・カス トルプもそ うであ り,七
年のの ちそこを去 る彼 も依然 としてそ うだとい う ことです。L:「
魔の山」 を去 る時のハ ンス・カス トルプもそ うですか。F:君
は,物
語の最後の シー ン,弾
丸の飛来す る戦場で,彼
が「菩提樹」 を回ず さむの を忘れたの です か。彼は「魔の山」滞在 も終 りに近い一時期,レ
コー ド鑑賞 に熱中 したので した。そして,彼
が愛好 した幾枚 かの レコー ドの中で,最
も彼の心 にかなったの が「菩提樹」 を収めた レコエ ドだっ た。 しか し,彼
がこの リー トを好 んだのは,こ
の曲が「 きわめて民衆的 な生 命にあふれた ものにか」 で あったからで はない。 この リー トが「死」の世界 を代表 し,象
徴 していたか らです。仕0L:さ
て,そ
うす ると,死
の克服 は全 く行 なわれなかったのかな?F:こ
の物語は決 して子供だましの読み物ではない。子供 らしい結論 を期待 してはならないんです。 ぼ くが,ハ
ンス・カス トルプの本来的性向は「死への共感」 に貫 かれている, とい うことで言 いた かったのは,死
の克服 とい う課題 が,ハ
ンス・カス トルプにおいては,「自己克服Selbstuberwin―dungは41」 とぃ ぅ意味 を持 っているとい うことです。死 の克服
,そ
れは,「死への共感」に浸 されて いるハ ンス・カス トルプにとっては,他
で もない, 自己克服 の謂 なのです。L:そ
の自己克服 がどの ように果 されたのか,あ
るいは果 されず じまいに終 ったの か ―― ともか く この 自己克服の過程 を最初 か らた どってみ よう。F:幼
くして両親 を亡 くし,ま
た,「希望 も見込みも(……)欠いている」時代状況 力耳国人に与 える 影響 とい うことか らも死 に深 く親 しんで きた二十三歳 のハ ンス・カス トルプがやって きた所は,ほ
かで もない,死
と病気の世界です。この「上の」世界,「魔の山」の世 界につ いて,こ
こで こまごま したことを言 う必要 はないで しょう。ハ ンス・カス トルプの 自己克服の過程,換
言すると,彼
の錬 金術 的教育過程 において見逃せ ないのは,ま
ず,彼
がこの「魔の山」 にやって きて「生 れて初めて, 自分 がいつ かは死ぬ ことを知 った」 とい うことです。第5章
第2節
「ああ,見
える」の診察場面 を 思 い出 して下 さい。 この最初の診断の時ハ ンス・ カス トルプは,人
体 を透視する機械 の力をか りて, ヨー アヒムの骸骨 と自身の手の骨 を,つ
まり,い
とこと自分 の「墓場」 をのぞ き見 る。 そして、「生 まれ初 めて、 自分 がいつ かは死ぬことを知った10」。己の死 を知 る,こ
れがハ ンス・ カス トルプの錬 金術的教育の第一歩です。 ここで大事 なのは,経
験 を通 じて対象 を深 く知 る,と
い うこと。他人 ご とで はな く自分の こととして知 る,と
い うことで しょう。L:そ
う言 われてこんな言葉 を思い出 した,「人間はいつ か死 に,い つかは死 の きよめにあず かると い うことを考え得 ないほど,徹
底的 に卑俗で有能 な人 間がいるこ比 と。それは ともか く,主
人公の錬 金術 的教育過程 は,人
文主義者 に して進歩 と民主主義の信奉者セテムブリーニが,死
・病気等 に対 してハ ンス・カス トルプが示す見解 を批判す るところで既 に始 まっているのではありませんか。例 え ば,「魔の山」滞在三 日目,ハ ンス・カス トルプは買物 か らの帰 り道,セ
テムブ リーニ と出会い,話
を交 わす うち,S t6hrと い う名の「恐 ろしく無教 養 な住η」 婦 人息者 を話題 にして,こ
んなことを言 う,「(・……)無
知で しかも病気だ とい うことが,ぼ
くにはひど く奇妙 に思われます。 この組合せは, おそ らくこの世で最 も悲惨 なものではないで しょうか。(……)我 々人間は,病
人 に対 して誠意 と尊 敬の念 を示 したいと思 う。病気はある意味で,尊
厳 なもの と言 えましょうか ら。」しかるに,そ の病人が信 じられぬくらい無知な人間であるとなると 一「これは実に人間感情にとって一つのジレンマ
を意味 します。
」人は普通「無知な人間は健康で平凡
,病
気は人間を高尚に
,賢
明に
,特
異な存在に
すると考えています。そう考えるのが当り前だと思いますが
,ち
がうでしょうかⅢ
81」_こ
れは病
気 とい うもの に対 す る,「上 の」世 界 にや って きたばか りで,これ まで死 に親 しんで きたハ ンス・カス トル プ にい か に も似つ かわ しい, また,あ
る意味 で 『ヴェニス に死 す』 までの トーマ ス・マ ンら し い,一
般 的 に言 えば,ま
さし くロマ ンテ ィシュな見 解 と言 えるで しょう。 さて,こ
れ に対す るセテ ム ブ リーニの答 は こうです,「病 気 とい うもの は絶 対 に品のいいもので も,尊
敬 に値 す るもので もあ りませ ん,一
そ うい う考 え方 それ 自体 カサ でに病 気で あ るか,あ
るい は病気の原 因 となりうるもの です。19」「 あなた にこの際深 く銘 記 して お いて いた だ きた い こ とは,病
気 は無 知 と無 関係 の上 品 で尊厳 なもので あるどころか
,む
しろその反対 に人 間を卑 しめ るものだ とい うことです。一―いや,病 気は人間 とい う理念 を台な しに して しまういたましい汚辱 なのです。(・―・)病
気で無知 一 これは 所詮悲惨 そのものであって,事
は きわめて簡単,つ
ま りそこには憐 れみ と軽蔑あるのみです。901」一 ハ ンス・カス トルプの見解に対する反措定。先ほどの複眼的視 点 とい うことで言えば,こ
こで はそ れは,主
人公 と彼の「魔の山」 における教育者セテムブ リーニの二 人によって用意 されてい るわけ です。F:以
後,多
くの場合 そ うですね。 そ うい う意味で 一 これは言 うまで もないことだけど ― セテ ムブ リーニ とい う人物の役割 は無視で きない。ここで話 が少 し脱線す ることになるかもしれないけ れ ど ― 君 はこの人物 をどの よ うに理解 していますか。 5L:ひ
とことで言 えば,彼
の意見(Meinung,Gedanke)は
傾聴 に値するが,そ の志操 (Sinn,Ge―sinnung)に
は心か ら感心す るわけにはいかない,と
い うの が作者の この人物の描 き方ではないだ ろ うか。例 えば,死
に対す る次のよ うな彼の考 えは,死
の克服 とい う課題 との関連 か ら,決
して聞 き流す ことので きないものを合 んでいると思 う。これは,肺
に浸潤個所 を発見 されて三週間の安静 を命ぜ られてい るハ ンス・ カス トルプを,あ
る日セテムブ リーニ が見舞 って,ベ
ッ ドのかたわらで, 彼 がッ′ヽンス に教 えさとすように語る言葉の一節です,「(……)死
に対 して健康で高尚で(。……)宗
教的で もある唯―の見方 とは,死
を生の一部分,そ
の付属物,そ
の神聖 な条件 と考 えた り感 じた り す ることなのです。一 逆 に,死
を精神的になんらかの形で生 か ら切 り離 した り,生
に対立 させ,忌
わしくも死 と生 を対立 させ るとい うよ うなことがあってはな らないのです。それは健康,高
尚,理
性的,宗
教的の正 反対 とも言 えましょう。(・… 。)死
は生の揺驚,更
新の 母胎 とい う意味で,尊
敬 さるべ きものです。生から切 り離 された死 は,怪
物,漫
画,一
そ してさらに厭 うべ き代物 に な り さがるのです。独立 した精ネ中的力 としての死 は放縦 な力であって,そ
の罪悪的引力は実 に大 きなも の と思 われます。 しか し,そ
れに人間精イ申が共鳴す る場 合は, これ以上 に恐 るべ き倒錯 はない こと もまた確 かです。91LF:そ
の箇所 ならよく覚 えています。その とき,セ
テムブ リーニは真剣Ernstで
あった,と
確 か, 書 かれていたはずです。9Dここにぼ くたちは,そ
の とき作 者 もまた真剣 であった,と
書 き加 えて も いいで しょう。 そのセテムブリーニの言葉 には,疑
い な く,当
時の作者の真意 がこめ られているか らです。 その証拠 に,死
に対す るその見解は,君
も言 ったよ うに,死
の克服 とい うことと関連 して, この作品の中で何度 もくり返 し語 られています し,ま
た,例
えば,『魔の山』執筆中に書 かれた『 ド イツ共和国 について』の中にもこんな言葉 を読む ことがで きます,「(……・)死
に対 す る共感 が悪徳 のロマ ン主義 と化するのは,死
を聖化 しつつ聖化 されて,生
の うちに受容 されず に独立の精神的な 力 として生 に対置 される場合 (・…・)ではないで しょうか。231」_こ
のように,こ
の作 品 における最 も中心的 な対象 に関 して
,セ
テ ムブ リーニの意見 は,作
者 の 意 見 と一 致 して い る, とい う点 か ら だけ見て も,君
の 言 う通 り,こ
の人文主 義者 の見解 は傾聴 に値す る。 しか し,実
を言 えば,君
は 今, セテムブ リーニの数 多 くの見解の中で も最 も聞 きごた えの あるもの を選 び出 したので あって,傾
聴 に値す る意見,意
見 の正 しさ, とい うこ とを言 うな ら,セ
テム ブ リーニの強 力 な論敵,共
産主 義者 に して イエ ズス会士 レーオ・ ナフ タの方 に軍配 を挙 げなければ な らな いので は ないです か。ゼゆL:そ
うかも しれ ない。 しか し,ナ
フ タのあ る意味 で深 みの あ る意 見は,こ
の男 の「悪 意J「人 間憎 悪」 の精神 によ って滅 茶者 茶 にされている。F:意
見 と人間,で
す か。「 どん なに立派 なこ とをい ろい ろ話 そ うとも,人間 その もの が睡 しげだと 何 に もな らない。95ち コ_ァ
ヒム・ッィームセ ンの言葉 です。 そ して これは ど うや ら作者 自身の考 え 方 で もあった ら しい ¢0。 そ れは さて お き,ナ
フタの悪 意 とい うことが言 われれば,セ
テム ブ リー ニの 「善意」 が指摘 され なければな らないで しょ う。君 は先ほ ど,セ
テ ムブ リーニの志操 には感 心 す るわけにはいか ない,と
言 った け ど,彼
は善意 の 人間で,信
頼 で きるので は あ りませ ん か。L:そ
の 点はその通 りです。 しか し,彼
が菩意の人間だ か らといって,こ
の人物 の,人
間 と して の 存 在全体 が肯定 されて よいわ けで は ないで しょ う。F:同
意 します。 しか しも し君 が,「 書意」とい うもの を,無
力で 陳腐 な美徳 で あ るな どと考 えて い ると した ら,そ
れ は ま ちが って い ます。 他の場所で な ら,あ
るい は そ うか も しれない。 しか し, こ の作 品 においては,明
らか に,一
つ の 力 を持 った精 神 力 と して現 われて います。例 えば,「雪」の節 の夢 の思考 を辿 れば,こ
れ が よ く分 か ります。L:ぼ
くが,彼
の志操 には感心 す るわけにはいか ない, と言 ったの は,こ
の民主主 義者 に して進歩 の信奉者 が,理
性ragioneによって,合
理 性 によって武 装 して い るか らです。 それ を最 もよ く表 わ して い るの が,あ
の 神秘 的 な能 力 を持 った少女エ リーに対す る彼 の態度 です。彼 は この少女 を「悪 賢いまやか し者ワ亀 と断 じて省み ませんが, それは,
この少女の存在 と,彼
女の能 力が,彼
の「理 性Jで
は律 しきれないか らで しょう。 しか し,少
女の存在 も彼女の神秘的能 力も,嘘
いつわ りのな い現実であり,つ
ま り,セ
テムブリーニはここで,現
実の事態 よ りも意見 を先行させているわけで す。 ここに彼の浅薄 な「合理性Jが
よ く表われています。 6F:現
実の事態 よ り意見 を先行 させ る,一
まさしくこの逆 を行 くのカラ、ンス・カス トルプです。 こ ここで もう一度彼 に焦点 を合 わせてみ ましょう。ハ ンス・ カス トルプ,「人好 きはするが単純 な青年 にす ぎない98ち彼が ,「魔の山」にやって きて,君
がこの対話の冒頭で触 れたあの「天才的な道Jを
歩む ことになったのはなぜか。 それは,物
語の中で繰 り返 し述べ られるところによると,彼
が「幼 いころから幾度 も死 に親 しんで991Jいたか らです。しか し,
それは また,彼
が常に現実の事態 に対 してで きる限 り心 を開いた人間だからで しょう。ハ ンス・カス トルプとは,ひ
とことで言 えば,生
と死 と人間 に関す る事柄 にな ら考 え られ る限 り心 を開 いた人 間
,そ
う言 って よい よ うに思 う。L:生
と死 と人間に関す る事柄 にな ら,考
え られ る限 り心 を開 いた 人間,だ
か らこそハ ンス・ カス トル プは,セ
テム ブ リーニ にとって も,ナ
フ タにとって も誘惑 しがいが あ る。一 さて,そ うい う訳 で,話
の順 序 と して次 に見てみ なければ な らないの は,彼
らの誘惑 合戦,ハ
ンス・ カス トルプを間 には さんでの,二
人の論 戦で しょ うが,彼
らの主張 す る「原理 や見解」 を きちん と整理 す ることは「非常に困難」ですね。何しろ彼らの論争は
,簡
単に言うと「全体的交錯
,絡
み合い
,大
混乱
GOもで
す か ら。F:し
か し君 は,二
人の 論争 を無意味 だ と言 うつ も りでは ないで しょうね。 とい うの も,彼
らの論 戦の場 こそ,君
の言 う複 眼的視 点の最 も賑 や か しい展示場 だ ろ うか ら。例 えば人体 とは何 か。セ テ ム ブ リーニ:人体 とは「神の真 の神殿 」で あ る。ナ フ タ:「
人体 とい う組織 体 は 人間 と永遠 との あいだをさえぎる幕にほかならぬ
elち。
_複
眼的視点。しかし
,い
ったいこれはどこから出てくるの
だろ う。ぼ くの答 はこ うです,あ
らゆる一面的 ドグマ に対する懐疑 の精 神 から,と
。 そ してこれは, ぼ くには,こ
の作品の基本精神 とも言 わるべ き,作
品の基盤 を形造って い る最も本質的要素である よ うに思 われる。ハ ンス・ カス トルプが多くの場合示 す「保留の態度」 を思い出 して下 さい。 この 「保留」とい う姿勢に精神的名を与 えれば「懐疑」 とい うことになるのではないだろ うか。 しか し, ここで急いで附加えてお きます が,こ
の懐疑 は決 して疑 うために疑 う懐疑ではない。 この対話の初 めで,「脇道 にそれる」とい うのがこの作品の持 っている根本思想の一つだと言いましたが,こ
の作 品の基本精神で あ り,主
人公 にも附与 されてい る懐疑の精神 には,常
に, この「脇道 にそれる」,つ ま り,冒
険・放将(Abenteuer,Durchgiingerei)が
結びつ いているのです。だからこそ,セ
テ ム ブ リーニ とナフタの論争 にも意味 があるのです。 この書物 の構成 を見て下 さい。二 人の論争 が最 も はなばな しく行なわれるのは,第
6章
の第3節
と第6節
においてですが,す
ぐそのあとに,主
人公 の最 も徹底 した冒険を描 く「雪」の節 がつづいています。 7L:こ
こで どうしても「雪」の節の検言すが必要であるようですね。少 し詳 しく見てみますか。F:ハ
ンス・カス トルプが,ス
キーを使 って雪の山奥深 くはいって行 き,そ
こで意味深 い夢 を見る の は,彼
が「上の」世界へやって きて迎 える三度 日の冬のある日の ことです。 この ときまで に,ハ
ンス・カス トルプの意識 は「魔の山」での幾 多の経験 を通 して,あ る高まりを見せ,生
・死 。人間に 関 していったいどのよ うに考 えるのが正 しいのだろ うかとい う疑 間が,彼
の心 にわだかまっていま す。 この疑間を心底 にいだいて,彼
は山へはいってい く,
と言 っていいで しょう。 そして,彼
は山 中 を紡雀 し,命
の危険にさらされ る…… 。さて,こ
のハ ンス・カス トルプの雪の山中奥深 くへのス キー行,こ
れをぼ くたちは,彼
の魂の内奥へむかっての旅立 ちと理解す ることがで きるかも しれま せん。 とい うのは,彼
は山中を紡雀 したのち,あ
の意味深 い夢 を見ることによって,人
間の本質に184 関す る一つ の真実 を知る分 けですが
,一
人間の魂 は,
その奥深 いところで,人
間に関 して何でも知 ってい るかもしれないか らです。L:プ
ラ トンですか。あなたは,プ
ラ トンの,人
間の魂 につ いての ミュー トスが,ま
た,そ
の想起 説が,こ
こに影響 を与 えていると言 いたいのです か。F:影
響云々とい うことは,こ
の問題 を深 く掘 り下 げることので きないぼ くには,さ
して興味 があ りません。 ぼ くが言いたいのは,ハ
ンス・カス トルプが,人
間の本質 に関する真実 を知 ろ うとして, 他者 に対 してではな く,自
分 自身 にむかって深 く問 うて いるのだ,と
い うことです,(彼
自身 は こ のことに半ば無意識であるとしても光それが,雪
の山中への 冒険 となって表われているので はない で しょうか。L:次
はハ ンス・カス トルプの見 る夢です が, これは,あ
なたが先 に言ったように,「大いなる夢, GrOaer Traum」 とで も呼 ばるべ き性質の ものです ね。 とい うのは,こ
の夢 は,ぼ
くたちが常 日頃 見 る「小 さな夢」 とははなはだ趣 きを異 に していますか ら。F:現
実の人間がこの ような夢 をみ れば,お
そ らく,そ
の人の人生の一大転機 となるよ うな夢です。 ハ ンス・ カス トル プの場合,語
手 によってはっきり述べ られているように,GD彼
は夢 の内容 をその 日の うちにも半 ば忘れて しまうのだ けれど,こ
の夢 はやは り,彼
の意識の下 にあって,彼
を律 して います。例 えば,先
に見たシ ョーシャ夫人 と対話 している彼 は,明
らかに,こ
の夢の指導下 にある と言 っていいで しょう。 しか し,先
走 らず に, この「大夢」の内容 を見てみ ましょう。夢 は非常に 明確 で無駄 がな く,二
部構成になっています。初 め夢 は,普
通の夢 のごとく「映像Bilder e31」 を持 って現われます。緑 あふれる木々,光
輝 く海,愛
らしい鳥 の声,壮
麗な虹。それは南国の こよな く 美 しい入江です。そ して,そ
こ に大勢 の若者 た ちが遊 んでいる。ある者 は馬 を駆 り,あ
る者は弓 をひいている。一群の少女たちが楽 しく舞 っている。若い男女 がむつ ま じく語 らってい る。そ して, 彼 ら太陽の子 らが他 に示す親愛 のそぶ り。堅苦 しくない礼儀正 しさ。品位。一 この美 しヤリ【め にハ ンス・ カス トルプは心 から感動 します。 しか し,こ
の入 江を見下す丘 陵の中腹 の石段 にす わっていた彼が,目
を後方に転ず ると,場
面は 一転 します。 そこには古びた神殿 があって,そ
の神殿 の中 に彼 が這入って行 くと,そ
こでは魔女 に 似 た老婆 がふた り,嬰
児 を引 き裂いて,む
さば り食っているのです。ハ ンス・カス トル プはこの も のすごい光景 を目にして恐怖 に襲 われ,神
殿 か ら逃 げ出そ うとして,半
ば目をさまします。一 これ がハ ンス・ カス トルプの「大夢」の第一部です が,こ
の夢 が表わ しているのは,人
間の本来 この世 にあるところの姿,人
間存在の原像 と言 ってよいで しょう。 アポロン的 なもの とデュオニュソス的 なもの,神
的なもの と悪魔的 なもの,菩
なるもの と悪 なるもの。 しか し,夢
は,こ
の映像 による夢で終 らないで,こ
れに「言葉 によるgedankenweise en」 夢 が 引 き続 きます。 この言葉 による夢 は,こ
の作品の中心理念 を語っていると見て さしつ かえない と思 うけれども,そ
れは「中間 Mitteの 思想」 とで も呼 ばるべ きものです。まずハ ンス・ カス トルプが夢の中で考 えることは
,
この「大夢」,意
味深い夢の出所 についてです。,「実 に魅 力のある,そ して
,恐
ろ しい夢 だった。ぼ くはこれ を実の ところず っと知っていた,これはみんな自分で作 り上 げた ことだ(…
"),し
か しどうしてああい うことを知 っていた り, 自分で作り上 げた り
,あ
んなに喜 んだ り,こ
わがった りす ることがで きるのだろ う?(・…・)夢は,
自分 の魂か らだけで なく
,そ
れぞれに違 った ものであっても,無
名で共同で見 る,
とぼ くは言 いたい。ぼくはその一小部分 にす ぎない
,大
きな魂Die grOae Seeleが
,多
分ぼ くを通 して夢 みるのだろ う,ぼ くの場合 はぼ くな りの形で
,そ
の大 きな魂 がいつ も密 かに夢 みていることを,一
その魂の青春, 希望,幸
福 と平和 を… …そ して またその血の饗宴 を。OD」 夢 の出所 とその顕現 に関す るこの ような考 えが,例
えば,ユ
ングの「集合的無意識」の説を思 わ せ るもので あ り,ま
た,こ
の考 えを作者に直接教 えたの がニーチェの著作で あったことは,90評
家 が指摘 して い るよ うに,疑
いないで しょう。しか しなが ら, ここでぼ くが注 目 したいのは, この のよ うな考 えの客観的真実性 や影響関係ではな く,作
者 がこの考 えをここに持 ち出 している事実で あ り, その意味 しているところです。ハ ンス・カス トル プの魂 がその一小菩5分であるよ うな,あ
る 「大 きな魂」,こ
れが学問Wissenschaftの用語で正 しくはど う呼 ばるべ きかは しば らく置いて,こ
の「大 きな魂」 とは,言
わば,ハ
ンス・カス トルプの属 してい る「′いの共同体」の謂で しょ う。 こ こで作者 がこの「大 きな魂」 とい うものを持 ち出 して言 わんとしていることは,個
人が意識的に し ろ無意識的 にしろ,そ
れに属 している一つの大 きな共同体の実在 とい うことではないだろうか。 こ の共 同体の実在を信ぜず してハ ンス・カス トルプの夢 の意味す るところは不可解なのであ り,こ
れ を信 じて初 めて,そ
の意味す るところは明 らかになる,つ
まり,そ
れは大 きな共同体の夢,人
類 と い う大 きな共同体の夢 なのだ 一―作者はそ う言いたいのではないだろうか。 そこで次の問題はこ うです,
しか し,な
ぜ,そ
の よ うな大 きな夢 が,ほ
かで もないハ ンス・カス トル プとい う名の魂を通 して現 われたのか 一 「(……)ぼ
くはここにこ うして横たわって,こ
うい うことを夢 みるれ きっとした権利 を持 ってい る。ぼ くはこの上の人たちの ところで、放埓Durchgangereiと 理性Vernunftにつ いて多 くの経験 をつ んで きた。ぼ くはナフタやセテムブリーニ と一緒 に,ひ
どく危険 な山の中をほっつ き歩 いた。 ぼ くは人間のことな らなんで も知っている。971」 「大 きな夢」がハ ンス・カス トル プの魂 を通 して現 われたのは,彼
が人間について多 くの知識 と経 験 を積 んだからである。ぼ くた ちの言葉で言 えば,彼
が「脇道 にそれる」 ことを厭 わなかったか ら で ある。そ して今やすべての ことが明 らかになった 一 「ぼ くは人間の肉 と血 を知った。(・…・)し か し身体 を,生
命 を知 る者 は,死
を知る者だ。ただそ 、れがすべてではない (・。…。)。 それ に他 の半分 を加 え なけれ ばならない,反
対側 を。 なぜ な ら,死
と病気 に寄せ る一切の関心は,生
に寄せ る関心の一種の表現 にほかな らないか らだ,ほ
かで もない 医学 とい う人文主義的学科 が証 明 しているように(……)G81」L:言
わば死 と生の弁証法。 それはこの作品における最も本質的でヘルメーテ ィシュな「論理」だ けれ ども,既
に第5章
の「フマニオー ラ」の節で,ハ
ンス・ カス トルプとベー レンスの間で展 開 さ れたものですね。そこでは次の よ うに言われたので した。一 人間の死に際 して起 こる肉の腐敗 と分 解は酸化作用である。一方,生
命 も酸化作用である。「生命 もまた,大
体 において,細胞蛋 自の酸化 燃焼 にす ぎない」。だ とした ら,「生 とは死」である。生 とは,「有機的破壊」で ある。「『すると,ぼ
くたちが生 に興味 を持つ場合,』 とハ ンス・ カス トルプは言 った。『ぼ くたちはとくに死 に興味 を持 っていることにもな りますね。(・……)』 091」 ―一 とい うわけです。F:死
に深 くかかわ りながら,死
に支配 されることなく,あ
らゆる手立てを尽 くして,生
へ至 る道 をうち開 くこと,こ
れはこの作 品が主人公 に課 した中心課題ですが,こ
こでハ ンス・カス トルプは この解決 を,半
ば医学の力 をか りて行なお うとしてい ることは,注
目に値 す ると思 う。 この作品 に ないて医学 とい う学問の果 している役割は無視で きない,つ
ま り,ハ
ンス・カス トルプの生理学や 解吉」学の研究は,単
なる暇つぶ しの慰み事ではな く,死
の克服 とい う中心問題 と深 くかかわ りあっ ているのです。 さて,ぼ
くらはここにハ ンス・ カス トルプの,死
と生の対立解消への第一歩 をみたわけだけど, もう少 し彼の夢の思考を辿 ってみよ う。 「死 と生 ――病気 と健康 ――精神 と自然,こ
れは果 して矛盾するものなのだろ うか?ぼくは間 う, それが問題だろ うか と。 いや,問
題ではない(……)。死の放埓 は生の中にあ り,そ
れな くしては生 が生で な くなるだろ う。そして,そ
の中間にこそ神の子た る人間の立場 があるのだ,一
放埓 と理性 のただなかに,一
丁度人間の国家 も,神秘的 な共同体 と吹 けば飛ぶよ うな個体 との間にあるように。 (…… )人 間は対立の支配者で,対
立は人間よ り生ず る,だか ら人間は対立 よりも高貴 なのだ。人間 は死 よ りも高貴で,死
だけにつ くには高貴す ぎる 一― これが人間の頭脳の 自由である。人間は生よ りも高貴で,生
だけにつ くには高貴す ぎる 一 これが人間の心の敬虔で ある。はOl」L:ま
さに詩ですね。「人間についての夢 の詩 “喝 。しか し,そ れに しても,一
話は「脇道 にそれる」 けれ ども 一― トーマス・マ ンもはるばる長い道を歩 いて きた ものだ と思 う。 とい うのは,こ
こに表 明された「中間の立場」,あ るいは,こ こに立つ人間た ちを,
トーマス・マ ンとい う作家は文学的 出 発の当初か ら,絶
えず描 き続 けて きた と言 えるのではないだろ うか。至極大雑把 な言い方だけれ ど, 自分は「実務家 なのか,夢
想家 なのか樅21dと苦悩す る トーマス・ブデ ンブロークにrD・いても,市
民 と『美」の二つの世界の間に介在 して,「いずれにも安住 していないに31」 卜_ニ
オ・クレーガーにお いて も,ま
た,精
神 と生 としての芸術の対立 を描 く『フ ィオレンツァ』 において さえ,そ
れぞれ間 題の平面 は異 なるとは言 え,同
じ「中間の立場」 に深 い意味合 いがあるのではありませんか。F:そ
の点 について, ここで詳 しく述べ ることはで きないけれども,「 中間の立場」,つま り,ある一 つの,一
般 に承認 された絶対的立場 を取れない,あ
るいは,取
らない, とい うことは,
トーマス・ マ ンとい う作家 にとっては,何
か本質的な事柄 なのだ と思 う。 この極めて倫理的な作家において,一つの主要 な問題 として
,生
の救済 とい うことがあったとするなら,「 中間の立場」とは,この救済 を可能 にす る唯―の積極 的な立場 なのではないか。「中間の立場」,こ
れは全 く消極的 なもの を意味 していない,妥
協的なもの を意味 していない。つ ま り, この作家が目差 しているのは,一
一 あ る一 面的見解 を取 ることによって,部
分的生 を生 きるので はな く,一 全体的な生,
生の全体性 なのだと 思 う。 ここで話はぼ くたちが今見たハ ンス・カス トルプの「夢の詩」 になると思 うけど,こ
こで希 求 されてい るのは,言
うまでもな く,死
の克服 とい うことです。 しか し,そ
れが単 に死 を無視す る ことな くな されねばならない, とい う意味 は,死
を克服 して到達す る生 が全体的生,生
の全体性で あるから, と言 えるで しょう。一 さて最後 に,ハ
ンス・カス トルプの夢 の思考の結末 を見ておこ う。それは彼の倫理的決意です。 「ぼ くは善良であ りたい。ぼ くは自分の思考の支配権 を死に明け渡す まい。ここにこそ善意 と人間 愛の本質が存するのであ り,そ
のほかのどこにあるわけで もないのだか ら。(・―・)ぼ
くは心の中で 死への忠誠 を守 ろう。だが,死
と,過
去 とに対す る忠誠 は,も
しそれが我 々の思考 と「陣取 り」 を 規定す るな らば,た
だ悪意 と暗国の情欲 と人間への敵意 を意味す るにす ぎない とい うことを明白に 記憶 しておこう。人間は善意 と愛のために,己
れの思考の女配権 を死 に明け渡 してはならない。は4ち 8L:ど
うや ら結論 が出たよ うですね。ぼ くたちの話 もこの辺で切 り上 げよ うか。F:決
して結論 など出や しません,意
義 ある小 説作 品においては。ぼ くたちの人生 において と同 じ よ うに。可能性です。一 ぼ くた ちが先に言ったように,こ の作品の荷 っている主要課題 が,死
・ニ ヒリズムの克服 とい うものである とす るなら,こ
の課題解決の可能性です。 そ して,そ
の意味で, この作品は現代 における一つの野心的 な試みです。一方 において虚無 に流 れ,他
方 において合理化 されて, ます ます豊 さを失 ってい く現代人の魂 を回復せん とすると同時 に,そ
こか ら野蛮 に陥 らず, 菩 きものの裡 に生 きようと志向す る一つの野心的 な試みです。 口主 『魔の山』その他 トーマス・マ ンの作品か らの引用訳文は,概
ね,新
潮社版 全集の当該作品の訳文 に従 ったが,論
述 その他の都合 によ り表現 を多少改めた ところもある。引用訳 文 につ いて原文が必 要 と考 えられた場合は,「註」において,そ れを示す。トーマス・マ ンの著作の原典 は,Thomas Mann: Gesammelte Werke in dreizehn Banden(s,)Fischer Verlag)1974
を用いた。 この中からの引用は,「註」 においては
,作
品名と巻数 とページ数のみ を示す。(1)Einflllirung in den>Zauberberg<, ,S.611
188
Zum Leben gibt es zwё i Wege: per eine ist der gewbhnliche,direkte und brave. Der andere ist schlimm,er flihrt uber den T。 とund das ist der geniale Weg l ‐
(3) Ha■s Eichner: Thomas Mann,IEine Einfklh`ung in sein Werk,S.49,Zweite,veranderte AuFlage, Francke Verlag,Bern u.Mbnchen,1961
(4)Ei甲 偽hrung in den>Zauberberg<, ,S.606f.
(5, ThOmas Mann: Tllomas Mann an Ernst Bertram BrieFe aus den 」よhren 1910-1955,S.18,EFSte AuFl,ge,Gunher Neske VeFlag,PFllユ lingen,1960
16)Der Zauberbers,Ш ,S.50
17, ebd. S.321
18, Der TOd in Venedigi V Ⅲ,S,451
(9,(101 ebd,s.453 (11)DeF Zauberberg,Ⅲ ,S.43 (121 ebd,s.9o6 (13) siehe ebd,S.904 ff. (10 obd,S,907 (151 ebdo S.306 (10 Siisser Schlaf, ,S,338 (1' Der zauberberを,団,S.137 (181 ebd.s,137f. は9 ebi s.139 90 ebd.S.140f. 圏点部分は原 文斜字体。 鬱
D ebd.S,280
圏点部分は原支斜 字体。 1221 ebd.S,280(23) VOn deutscher Republik,xl,S.851 94)siehe Der Zauberberg,口 ,S.660 (25, ebd.S.534
120 siche ThOmas Mann: Briefe 1889-1936,S,351 S,Fischer Verlag,1962
9η Der Zauberberg,Ⅱ ,S.926 981 ebd.S.9 (291 ebd.S.279,vgl.ebd.S,827 (3111 ebd.S.646 (31) ebd.s,628 (3D diehe ebd.S.688 13311341 ebd,S.683 (351 .ёbd.S,688F.
00 vgl,Manfred Dierks: Studie主 l Zu MythOs ulld PsycllOlogie bei ThOmas Mann(Thomas― Mann=Studien, Zweiter Balld)S.123ff. Frallcke Verlagi Bern u.Munchen,1972
13, Der Zauberberg,Ⅲ ,S.684 (381 ebd,S.1684
わ 歩 ∬ ,
Ich habe sein 〔Menschen〕 Fleiscll und BIut erkannt(・ …
).Wer aber den Kbrper, das Leben
erkennt , erkennt den Tod. Nur ist das nicht das Ganze (… ). Man mua die andere Httlfte dazモ 1
hahen, das Gegentel.Denn anes IIュ teresse rur Tod und Krallkheit ist nichts als eine Art voil Aus_ druck fdr das am Leben,wie ,a die humanistische Fakultat der Medizれ ュ beweist(・…)。
1391 ebd.S.370 ff.
はO ebd.S.685
TOd Oder Leben― Krankheit,Cesundheit― Geist und Natur. Sind das wOhi VFiderspruche ? Ich frage: sind das Fragen ?Nein,es sind keille Fragen(・ …). Die Durcllgaligerei des TOdes ist im Leben,es ware nicht Leben ohne sie,uild in der Mitte ist des HomO Dei Stand― れimitten グwischen Durchgangerei und Vernunft― wie auch sein Staat ist zwischell mystischen Cemehisciュ aFt und willdigem Eれlzeitモim.(…)
Der Mensch ist Herr der Gegensatze,sie silld durch il111,und alsO ist er vOrnehmer als sic,VOrnehmer als der TOd,zu vOrnehm fdr diesen, 一―das ist die Frelleit seines KOpfes, Vornehmer als das Leben, zu vornehm flir dieses,一 das ist die Frbmmigkeit in seれ lem H arzen.
141) ebd,S,685
1421 siehe BuddenbrOoks, I,S.470 140 TOniO Kr6ger,VⅢ ,S.337 1441 Der Zauberberg,Ⅲ ,S,685f.
Ich win gut sein. Ich win dem Tode keine Herrscilaft ehirttumen ttber meine Cedanken I Denn darili besteht die Gとte und Menschenliebe,und in nichts anderem.(・…)lcユ】wll dem TOde Treuc llalten iュi meinem Herzen,dOch mich hell erinnern,daB Treue zum Tode und Gewesenen nur Bosheit und finsttlrc WOllust und Menschenfeindschaft ist,bestimmt sie unser Denken und Reピ ieren. D?r lre,scん sοどど v凛
r i l