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戦後漁業の変遷-香川大学学術情報リポジトリ

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戦 後 漁 業 の 変 遷

唯 之

漁業環境の変容 一一変わりゆく瀬戸の海一一 戦後の瀬戸内海の漁業は高度経済成長期を境に大きく変貌した。漁村から若 い労働力が大量に流出して漁業構造が変わっていったのは瀬戸内海漁業も日本 の沿岸油業も同様であるが,瀬戸内海漁業の場合は,漁業生産の場である漁場 そのもの,漁業環境それ自体が変容していった。昭和30年代以降における香川 県漁業の変遷をたどる前に,まず漁業環境がどう変わったか,そのありさまを 概観しておこう。 漁場の喪失四一一消えるタイ網 ときあたかも日本経済が高度経済成長に遁進 していたさなかの昭和37年,産業基盤である国土の総合的利用計画として「全 国総合開発計画」が立案され,瀬戸内海地域においては新産業都市として岡山 県南,徳島,東予,それに大分の

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地区が,工業整備特別地区としては播磨, 備後,周南の3地区がそれぞれ指定された。これを機に瀬戸内海の沿岸各地に 巨大な石油コンビナートや鉄鋼工場が競いあって進出した。進出した産業のう ち鉄鋼業だけにかぎっても rこの狭い瀬戸内海地域に,ヨーロッパ大陸の二つ の大国(注ー西ドイツとフランス)のすべての鉄鋼工場が押し込まれているよ うなものである」と『瀬戸内海汚染~ (昭和

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年)の著者がのべているように, その進出ぶ、りはまことに凄まじいものであった。高度成長期,大企業のがむしゃ らな規模拡大によって日本国土に公害の嵐が吹き荒れたが,瀬戸内海ではそこ に棲む魚類の生態系が変わるほどに汚染がすすんだ、のである。 当然のことであるが,瀬戸内海沿岸における臨海工業地帯の造成は海を埋立

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-24← 香川大学経済論叢 24 てておこなわれる。昭和 30年に 1,177ヘクタールであった瀬戸内海地域の埋立 て面積は, 45年には

1

万7,000ヘクタールへと急激に拡大した。図

1

にみると おり,香川県の沿岸も 38年から 20年間で 1,700ヘクタール以上の海面が埋立 てられた。 ha 1,200 1,000 800 600 400 200

日召 38 43 48 53 42 47 52 57 図1 香川県の海面埋立て面積の推移 資料)漁業センサス o o -っ , “ に J V 1 i p o 瀬戸内海全域におよぶ広大な海面の埋立ては,その埋立でられる沿岸の浅瀬 の海が他ならぬアマモなどの海草が繁茂する藻場であっために,漁業に深刻な 影響をあたえることとなった。藻場にはさまざまな種類の魚がやってきて卵を 産みつけ,稚魚がそこで育つ。その藻場が急速に埋立てで失われていった。海 草を枯らす大量の農薬が陸から流れこんだことも,この藻場喪失に一役買った。 昭和 40年代のはじめにはすでに内海の藻場の半分が消滅したといわれている。 香川県の場合,埋立てによる藻場消失のもっとも典型的な事例は坂出の番ノ 州であろう。いまは巨大な煙突の林立する番ノ州は,かつてはアマモの茂る遠 浅の海であった。その番ノ州が番ノ州工業地帯の敷地として埋立てられて沖の 瀬居島と陸つづきとなったのは,高度経済成長期まっただなかの昭和 40年代は じめのことであった。藻場としての番ノ洲は完全に消失したのである。坂出コ ンビナート建設に先立つ

1

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年前r,対岸の岡山側では坂出コンビナートに数倍す る規模の水島コンビナートが建設され,その埋立てで水島灘沿岸の藻場はすで

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に壊滅していた。番ノ洲の藻場が壊滅することで,備讃の沿岸から漂場らしい 藻場は姿を消したことになる。藻場を喪失したうえ,埋立てによる土砂のにご りでタイやサワラは塩飽の海に来なくなった。瀬戸内海の春の風物詩であった 塩飽のタイ網が姿を消したのは

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年ごろのことである。 藻場だけでなく砂場も埋立てによって消失した。高度成長期に瀬戸内海から エビが姿を消していった理由の一つは,このエビの産卵場である砂場の消失で あった。 汚染のすすむ海一一赤潮の発生敷地造成,資材運搬などの点で工場の立地 条件にめぐまれた瀬戸内海沿岸の地に日本の巨大企業が殺到した結果,白砂青 松の海岸は煙突の林立する工場地帯に変わっていった。昭和

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年当時,企業が 利用する海岸線の長さは総延長の20%に達したが,とりわけ本州側には大工場 がひしめきあい,なかでも大阪から播磨の赤穂、にかけての海岸線は,その密度 が濃い。これに対しまだ自然の形をとどめる海岸線のみられる四国側であるが, 坂出コンビナートのある坂出から多度津までの海岸線,それにパルプ工場のあ る愛媛県の伊予三島,川之江あたりの海岸は工場の密集地帯である。 次々と瀬戸内海各地の沿岸が工場地帯に変わっていった結果,内海の沿岸海 域には各地域の工場から大量の工場排水が注ぎ込むだけではない,工場の進出 とともに人口の増えた沿岸の諸都市からは大量の下水とゴミ,それにし尿も流 れこむようになった。とりわけ地方自治体による海上へのし尿投棄は,海の富 栄養化,赤潮の発生にかかわって大問題となった。もともと都市から排出され るし尿は化学肥料が高価であった時代の農村にとって貴重な肥料源であった。 都市のし尿は農作物を育てるこやしとして農村に還元されていたのである。と ころが,高度経済成長期以降,し尿処理場や下水道が未整備なまま都市人口が 急増した結果,市町村が処理すべきし尿の収集量が増えすぎ,処理不能となっ たし尿が瀬戸内海に投棄されるにいたったのである。昭和

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年代の半ば,尾道, 倉敷,高松,今治,芦屋,今治,尼崎などの沿岸主要都市からは軒並およそ

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キロリットJレものし尿が投棄される有様である。副題に「瀬戸内海からの告発」 とある日本経済新聞社編の『よみがえれ“青い海勺(昭和

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年)は,その実情

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26 香川大学経済論叢 26 を 「 … 1年間にすると 1万トン級のタンカー百隻分のし尿が池のような瀬戸内 海にたまる勘定だ」と指摘し,そしてし尿で変色した海を“黄色い海"とよん だ。し尿の投棄できる海域は法律で定められているが,香川県の漁民が漁場と する播磨灘と健灘もその投棄海域である。 こうして瀬戸内海は汚染されるべくして汚染されていったのであるが,ただ, 内海が一様に汚染されたのではなく,潮流が停滞する大阪湾や内海の内奥部ほ ど汚染の程度はひどい。健灘や備讃瀬戸はもっとも汚染のすすんだ海であった。 そして,この瀬戸内海の汚染を象徴するのが赤潮である。昭和 62年 10月,世 界の27カ国から第一線の赤潮研究者が集まって「国際赤潮シンポジュウム」が 高松市で聞かれたが,そのときの,播磨灘沖合の海面一ぱいに広まった赤潮の ポスターの写真の強烈な印象がまだ記憶に新しい。陸の公害の先進国である日 本は,海の汚染においても世界の先進国であった。 さて,問題の赤潮とは,プランクトンなどの微小生物が異常に増殖して海の 色が赤や茶褐色,ときには緑色に変色する現象をいう。微小生物が異常増殖す るのは,その栄養となる窒素やリンなどの栄養塩の濃度が高い,いわゆる「富 栄養化」した海域である。窒素やリンなどの栄養塩は海に流れこむ工場排水や 都市排水,海上に投棄されるし尿に含まれているのだから,したがって海の汚 染がすすむほど赤潮発生の頻度は高まり,規模は拡大し,滞留期間は長びく。 漁業にとってなぜ赤潮が問題となるのかといえば,それは赤潮のなかに魚を窒 息死させる赤潮があるからである。播磨灘で大規模に赤潮が発生した昭和

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年 前後の時期,大量の養殖ノ¥マチを殺した赤潮は,シャットネラ・アンティカ(旧 称ホリネリア)という名の植物プランクトンによる赤潮であった。 瀬戸内海で赤潮の発生する海域は汚染が深まるにつれて広がっていき,昭和 25年ごろには大阪湾の北部や広島湾の奥にごく小規模にあらわれるにすぎな かった赤潮が,

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年代半ばには瀬戸内海のほとんど全域でみられるようになっ た。香川県の海でも赤潮の発生件数は図2にみるとおり増加の一途をたどって いった。なかんづく

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年の夏に播磨灘に発生した赤潮はその規模において未曽 有のものとなり,東讃を中心に香川県の漁業資源にあたえた影響は深刻で,ハ

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r--漁業被一書をとも ~i一一 一ー一一 一一一 ー 一一回一一ーなった赤潮

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図2 香川県の赤潮発生件数 資料)r平成四年度水産関係行政資料」香川県水産課作成 マチだけにかぎっても,その被害額は

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億円にのぼった。 瀬戸内海で赤潮がもっとも猛威をふるったのは

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0

年代のはじめで,

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2

年の 大規模発生につづき,

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3

年にも大きな赤潮が発生した。「昭和

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3

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月発生ホ ルネリア赤潮に関する調査報告書J(香川県)によると,

6

月の

2

0

日過ぎに小 豆島東部の海域で発生した赤潮はしだいに東讃の播磨灘へと広まり,さらに, 西の備讃の海へとすすんだ。 8月に入って赤潮は消滅したかにみえたが,

1

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日 を過ぎてからふたたび活発に増殖しはじめ,東讃の引田と小豆島の内海は2回 目の被害を受けた。赤潮が消滅したのは8月末であった。 2か月にもわたる長 い滞留でおよそ

1

2

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万匹のハマチがへい死して被害額は

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億円にのぼった。数 珠繋ぎされた小割イケスが真夏の備讃の海上を東から西へと避難先を求めて曳 航されていく光景がこの後しばしばみられるようになる。 貧酸素水魂の海ー)謎灘東部海域愛媛県の伊予三島から川之江市にいたる 海岸には製紙工場が密集し,新居浜市には大きな化学肥料の工場がある。工場 排水に厳しい規制がしかれる昭和

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年代のなかごろまでは,これらの工場から 有機物濃度のきわめて高い排水が燈灘に大量に流れ出ていた。この大量の排出 汚水は,来島海峡の潮におされて香川県の観音寺から仁尾にかけての沖合に流 れこんで滞留し,海底には有機物の沈殿物が分厚く堆積した。燈灘の東部海域 の海を貧酸素水塊の海に変えたのはこの沈殿物である。 ところで,海底に有機物が沈殿して海が汚れた場合,通常はバクテリアの働 きによって有機物は分解され海は浄化されてもとのきれいな自然にもどる。が,

(6)

-28ー 香川大学経済論議ー

2

8

もし堆積する有機物の量が多すぎるときは,自然の浄化作用は働かなくなって しまう。というのは,パクテリアが有機物を分解するときは酸素が必要であり, この酸化作用が過度になると,海水に溶けている酸素の量が少なくなってバク テリアの活動がストップしてしまうからである。海水中の溶存酸素の量を科学 的に測定する値は

DO

で示されるが,この

DO

の価が2..5

mQ/ Q

以下になると, 魚は棲めないといわている。海底に魚、の棲めないこのような死の海を貧酸素水 の海という。なお,環境汚染を示す指標として

DO

とともに

COD

がよくつかわ れるが,

COD

とは海水中の有機物を酸化するのに必要な酸素量(化学的酸素要 求量)のことで,この値が大きければ大きいほど有機物の量が多ししたがっ てその海域の汚染がすすんでいることになる。

DO

の場合はその値が低いほど,

COD

の場合はその値が高いほど汚染はすすんでいる。 さて,縫灘の東部海域は,海水の出入りがほとんどないうえに潮の流れもき わめて緩慢な閉鎖性と停滞性の強い海域である。高度経済成長の時期, 7月か ら9月にかけての夏場のこの海域は典型的な貧酸素水の海であった。昭和30年 代中ごろからこの海域の浅場でアマモ・ガラモなどが枯れはじめ,

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年代にな るとメバルやカレイ,クルマエビなどの底棲魚の漁獲は激減,汚染に敏感なタ イはまったく姿をみせなくなり, 48年のトリ貝大量死にいたってその漁業被害 は極に達した。三豊と観音寺の漁民たちが大王製紙はじめ愛媛県の製紙会社 72 社を相手どって損害賠償の調停申請をおこなったのは

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年のことである。のち にみるように戦後香川の漁船漁業の主流となる小型機船底びき網漁業が西讃海 域でその経営体数を急速に減らしていくのは,こうした耀灘における漁業環境 の悪化が原因であった。 重油流出事故 海が汚れて赤潮や貧酸素水塊が発生し大量のハマチが死んで いくような恒常的公害に加えて,突発的に発生する事故一一一工場の事故による 重油の大量流出,タンカーによる廃油の不法投棄などーーが治岸の漁民を襲う。 備讃の沿岸を直撃した水島コンビナート重油流出事故は,その被害規模におい て瀬戸内海で有史以来最大のものとなった。水島コンビナート重油流出事故と は次のようなものであった。

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ときは厳冬の昭和49年 12月 19日,水島コンビナtートの三菱石油から重油が 流出,その量は

4

万キロリットlレという膨大なもので,海に流れでた油はおり からの強い季節風にあおられてまたたくまに備讃瀬戸一帯から紀伊水道にまで 広まり,海は“黒い潮"でおおいいつくされた。県下の漁協は組合員を総動員 して懸命に油をとりのぞく作業につとめたが,空前の大事故の前に回収は困難 をきわめ,香川県の沿岸は全域にわたって黒い波が打ち寄せた。 12月 21日の 『四国新聞』に,べっとりと油のついたノリ網を回収する女木島沖の漁民の姿 が載っているが,ときあたかも最盛期にあったノリ養殖は壊滅的な打撃をうけ, また,正月の出荷を間近に控えたハマチの養殖業者も,いまハマチを海から引 き揚げて市場に出しでも油臭いハマチでは売り物にならず,かといって翌年の

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月までのばした場合は水温の低下で全滅するのをまつしかないという苦境に たたされた。12月 27日に緊急に開催された県議会全員協議会の席で,県漁連の 浜野会長が「一昨年は赤潮被害,昨年はPCB,水銀騒ぎとさんざん痛めつけら れ,“ことしこそは"の願いも吹っ飛んだ。三年連続のパンチだ。しかも今回の 重油流出事故は,正月を控え一年で最大の収益を得るときに発生しただけに, 県下の漁民はかんぷなきまでに打撃を受けた」と語っているように,今回の重 油流出事故が香川県の漁業にあたえた影響にははかりしれない深刻なものが あった。 水島コンビナート重油流出事故は突発的なものであったが,しかしかくも多 数の巨大企業が進出した瀬戸内海は,このような突発的事故がいつおきても不 思議ではない危険な状況にあるというべきであろう。播磨灘・備讃瀬戸・燈灘 における昭和 40年から 15年間の油濁事故の発生状況は,図 3のとおりである。 さすがに水島コンビナート重油流出事故以降,発生件数は漸減傾向にあるが, しかし依然として原因不明の事故は後を断っていない。 なお,さきに引用した県漁連会長の談話のなかにPCB・水銀汚染のことが出 てくるが,これは, 48年に水産庁がおこなった汚染実体調査で第 3,第 4の水 俣病が発見されたことがきっかけとなって,香川県でも汚染魚問題が表面化し て魚介類が売れなくなったことをさしている。瀬戸内海各地の沿岸で奇形魚、が

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30 香川大学経済論叢 30 a A を に は q 4 1 υ F h υ つ U F ヘ d 守1 4 F h d A H V F h d n w u a a Y 0 6 A 生 々 i A q n o a 刈 ヨ F h υ a A 宅 d 生 A4 ‘ η J a 性 向 〆 L M 4 1E よ A 斗 A 刀 ロ ハ リ H 4 + r A V F D A V P U A V ρ ド ヮ “ 1 i 1 i v ¥漁業被害をとも

.-..Cなった油濁事故 図3 香川県の油濁事故発生件数 資料)図2と同じ。 みられるようになるのもこのころである。 47年の夏に広島の広湾で海の公害を 摘発するために開催されたお化け釣り大会で、釣れたハゼの半分近くが,頭部に 腫療があったりエラに穴があいたりした奇形のハゼであった。香川県でも尾ビ レの曲がったアイナメ,背ビレのないメパ/レ,表も裏も体が真っ白なカレイな どが現れている。前出の『瀬戸内海汚染』の著者,昭和46

47年の2年間にわ たって瀬戸内海汚染の実態を調査した瀬戸内海汚染総合調査団の団長をつとめ たその著者が,これ以上の瀬戸内海の汚染をくいとめるために「第ーに,瀬戸 内海沿岸のすべての埋立て計画の即時凍結,第二に,すべての工場の拡張,増 設,新設計画の即時凍結」を提案したのも,このような奇形魚に象徴されると ころの危篤寸前の状態にある内海の汚染状況にもとづくものであった。 瀬戸内海の公害対策 昭和47年の第71国会で「瀬戸内海環境保全臨時措置 法」が成立した。瀬戸内海におけるこれ以上の環境悪化を防止すべく,全国総 合開発計画の発足から数えればほぽ

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0

年を経過してようやく実現した公害対 策の立法措置であったが,この法律で汚染防止のかなめとなった濃度規制のも とでは汚染度が規準値をこえた工場排水でも冷却水で薄めて排出すれば規制の 網をくぐることができたために,たしかに工場地帯付近の海域の水質は改善さ れたが,沖合の海はいっこうに静化される気配がなかった。 53年の秋に県下の 23漁協を対象に四国新聞がおこなったアンケート調査でも,同法による排水規 制の効果をどうみるかの質問に対し「効果はなく,汚染はさらに進行している」 というのがおおかたの漁協の回答であった。

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瀬戸内海汚染に対する地域住民,漁民たちの反公害運動がもりあがるなか, 昭和53年に「瀬戸内海環境保全臨時措置法」は「瀬戸内海環境保全特別措置法」 に改正された。施行は翌日年からであるが,ここに排水の総量規制がはじまる とともに,赤潮の発生原因となるリンの削減も図られることとなった。 55年3 月,政府の公害対策会議で決定のCOD総量削減計画によると,瀬戸内海全体で CODの汚濁負荷量を54年度の1日当たり 1,386トンから最終目標年度の59 年度で7..4%減の 1,283トンに削減する計画であった。香川県に割り当てられ た削減目標は49トンから

2%

減の48トンで,その内訳は生活排水19トン,産 業排水22トン,その他

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トンであった。この削減目標を達成するために,この のち,香川県でも流域下水道計画の策定,し尿処理場の増設,各事業場の特定 排水の汚濁負荷量について総量規制規準の設定など一連の公害対策が次々とす すめられることになる。 特別措置法では埋立ても規制された。比類ない景勝地であり貴重な漁業資源 の宝庫である瀬戸内海の埋立ては「厳に抑制すべきだ」というのが,埋立てに 対する同法の基本方針であった。特別措置法が施行されたのち,その埋立て抑 制効果によって埋立ては

3

分の lから 4分の lに減った。同法の施行を境に香 川県でも一転して埋立て抑制に転じたことは先の図1からもうかがわれるとこ ろであるが,しかし60年ころからまた埋立てが目立ちはじめている。瀬戸内海 全体でも,近年,関西新空港などの巨大プロジェクトのほか,これまでの工業 用地造成,港湾整備,都市再開発用地確保などに加えて,観光・レクリエーショ ン開発による数々の埋立て事業が実施もしくは計画中である。漁業にとって喪 失した藻場は回復するどころか,喪失の範囲は一層広がっている。 なお,“黄色い海"の元凶であるし尿の海上投棄も,各地の漁業組合による反 対運動香川県の場合,香川県し尿海上投棄対策本部の設立(昭和36年),観 音寺・丸亀両市に対し三豊漁連,厳重抗議 (39年),東讃漁協組合長会,し尿海 上投棄反対決議(40年),香川県汚水対策漁業者協議会,厚生省へ瀬戸内海全域 のし尿投棄禁止区域化要望(44年)など を経つつ,昭和45年のいわゆる公害 国会で制定の「海洋汚染防止法」にもとづき, 48年以降は全面禁止となった。

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-32 香川大学経済論叢 32 これを契機として,これまで内海を自然の諦化槽と過信してし尿をたれ流して きた沿岸諸都市で処理場・下水道の整備がしだいにすすむことになる。 以上のような瀬戸内海の汚染を防止するための立法措置,諸施策が次々と講 じられた結果,近年,瀬戸内海の浄化は少しずつすすみ,赤潮の発生件数も減 少傾向にある。とくに 55年後半になると,備讃瀬戸では赤潮の発生はほとんど みられなくなった。しかし,播磨灘では一時減少したが,その後横ばい傾向に ある。赤潮の発生は長期間にわたって海底に沈殿堆積したヘドロがその原因な だけに,瀬戸内海から赤潮を根絶することは決して容易ではないのである。 ニ 漁 業 生 産 の 変 遷 戦後漁業概観 戦後香川の採捕・養殖漁業における生産量の推移を示した図

4

-1

によると,採捕漁業である漁船漁業は昭和

4

0

年代までは順調に生産をの ばし, 50年代に入って停滞,減少の傾向にある。養殖業は戦後の全期間を通じ て急テンポで生産が増え,とくに 50年代以降は漁船漁業の減少を補ってあまり ある急増ぶりである。図

4-2

は漁船漁業および養殖業の生産金額の推移をし めしたものであるが,この図で注意すべき点は,採捕漁業では50年以降の生産 減少にかかわらず生産金額そのものは減っていないこと,養殖漁業では生産の 増大にもかかわらず55年以降は生産金額は停滞していることである。概括して いえば,前者については高度経済成長下で家計の消費パターンが変化して高級 魚志向がたかまって魚価が上向いたことにささえられ,後者については過剰生 産から値崩れが生じたことによるものである。自然の再生産力に依存している 採捕漁業では生産量の増大が困難なために需要の動向が直接魚価の動向に反映 されるのに対し,人聞が管理している養殖業では業者間の競争から需要を超え て生産量が増える傾向にあるためにどうしても価格がのび悩むという,採捕漁 業と養殖業の性格の違いがこのような生産金額の動向の違いとなってあらわれ ているのである。 (注) これからの叙述においてもその対象は内海漁業にかぎられるので,ここで 簡単に香川県の県外・海外出漁の戦後史について言及しておくと,戦前から海外

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千トン 60 50 40 30 20 10 O 器自 日 召 35 40 39 44 図4ー1 45 50 55 49 54 59 香川県漁業生産量の推移 ハ リ q d nhυ1nhv 資料)中国四国農政局香川統計情報事務所『香川統計水産年報』 1主)生産量は年平均 千万円 2,000 1.500 1.000 500 OJ LJ諾 目 白 35 40 45 50 55 60 39 44 49 54 59 63 図4-2 年産金額の推移(香川県) 資料)図4-1に同じ。 注)生産量は年平均 出漁の経験のあった津田や志度の漁民たちが東シナ海や日本海,北海道沿岸海域 に新しい漁場を求めて県外へさかんに出漁した昭和20年代後半,自県の漁業が 復活するにつれて香川県漁船を締め出そうとする府県モンロー主義が台頭して 県外出漁がしだいに後退する一方,朝鮮近接海域での操業を事実上不可能ならし めた李ライン問題に苦しみつつも,サンマ漁業,サケ・マス漁業の急成長で香川 県漁業も日本漁業も県外・海外出漁が最盛期をむかえた昭和30年代から40年代

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-34 香川大学経済論叢 34 を経て,各国が競って打ち出した漁業専管水域200海里宣言,北洋におけるサケ・ マスに対する旧ソ連の母川主義問題などの国際漁業問題に直面して急激に海外 出漁が衰退していく昭和50年代,こうした変遷を経て香川県の県外・海外出漁は 今臼に至っている。 漁業経営構造の変容 日本の漁業を経営体の面から概観すれば,それは,大 洋や日水などの大規模漁業を頂点に,大・中型まき網漁業や沖合底びき網漁業 のような中小漁業を中層, 10トン未満の漁船漁業経営体および養殖などの非漁 船漁業経営体からなる沿岸漁業層を下層とするところの,ピラミッド型の構造 になっている。同じ第1次産業といっても,もっぱら家族経営の小農だけで構 成されている農業と根本的に異なる漁業の特徴である。しかし,これを瀬戸内 海漁業にかぎっていえば,漁業経営体はそのほとんどが沿岸漁業層で,その沿 岸漁業層も家族の労働力だけがたよりの零細漁家がその大半であることは今も 昔も変わりがない。 ところで,香川県の場合,沿岸漁業の経営体はどう変わったか。戦後香川の 経営体数の変遷をしめした図5から明らかなように,昭和20年代の急減後, 30 年代から 50年代前半まで漁業経営体数は減りつづけ, 50年代後半になってそ の減少のテンポは早まっている。その結果,昭和33年に4,300体を数えた経営 体は, 63年には3,300体に減少した。 30年間で30%以上もの減少である。その 背景には高度経済成長下における近代的産業部門での労働力吸収,それに照応 60 50 車干 40 営 30 体 数 20 10 O 811 24 28 33 38 43 48 53 58 63 図5 経営体数の推移(香川県) 資料)漁業センサス

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図B 経営体数・各層の変化 資料)漁業センサス した漁村からの大量の人口流出があったことは周知のところである。図6は漁 業経営体の変遷についてさらに詳しくその各層の動きをみたものである。この 図から,

5

0

年代前半までは

3

トン未満動力船層の減少傾向, 3~5 トン層の増 加傾向および緩やかで、あるが5

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0

トン層の増加傾向がよみとれるであろう。 その結果,沿岸漁業の主要部分を担っている動力船層は下層が減少,上層が増 加し,

3

トン以上層が動力船層の主流を占めるに至った。

5

0

年代後半以降は, 漁船各層の経営体はいずれも,そしてまた戦後一貫して増加傾向にあった養殖 業も,その数を減じつつある。なお図

6

に無動力船層はしめしていないが,今 日,無動力船は生産力的にはもはや意味ある存在ではなくなっている。 漁船漁業の動向と時代区分 戦後香川の漁船漁業の動向を語るとき忘れては ならないことは,海が富栄養化して生態系が大きく変わるなかで漁船漁業が営 まれてきたという点である。それでは生態系はどのように変わったか。 海の富栄養化は海が汚れた証拠であるが,内海の魚族のなかにはボラやチヌ のように汚染に強い魚、もいれば,タイやタコのように汚染を忌避する魚もいる。 たとえば香川県で獲れるタイの場合,昭和

3

1

年に

4

5

2

トンを数えた生産量が

4

8

年にはわずか11トンにまで激減している。

5

0

年以降は栽培漁業の放流効果 (注

-1

)もあってその生産高は徐々に上向きつつあるが,しかし獲れるタイ のほとんどが当歳魚であるというのが実情である。また,汚染のなかで激増し ていく魚種もある。イワシやイカナゴ,コノシロなどのプランクトン食性の魚

(14)

36 香川大学経済論叢 -36 これを餌とするこれ 族がそれで,海が富栄養化してプランクトンが増えれば, それにしてもその増え方はいちじるしく, ら魚族が増えるのは当然であるが, 香川県の場合, 30~34 年の生産量を 100 とした場合, 20年後の50""'54年の生 産量はイワシが233,イカナゴが512,コノシロが726といった激増ぶりである。 採捕漁業である漁船漁業にとって採捕の対象物は自然の産物そのものであ したがってその営みは自然の生態系を前提としておこなわざるをえない。 り, イワシの激増に象徴されるような激しい タイの激減, 戦後香川の漁船漁業は, 生態系の変化のなかで営まれたのである。 さて,瀬戸内海汚染の進行期に水産試験場長などの職にあった福田勝氏の指 摘によると,戦後昭和の香川県漁船漁業は次のような5つの時期に区分できる

5

つの時期区分のもとに漁船漁業の生産量の変遷をしめした図?を参 という。 それぞれの時期の特徴を説明しよう。 照にしつつ, ( A M 泊 常 化 後 期 第三次停滞期 千トン 60 第 第 第 一 二 } 百 三 ' G ¥ " 次 次 栄 / 次 栄 成 JfQ;義一一'成主主 U: ...戸 常 化 長 化 期 ' 期 以 j羽前 副 1¥.月 50 生 40 産 30 在 20 10 ハ U 1 1 ﹃ υ ι リ 1 i ι υ F D Q U F h d 1 1 戸 ヘ υ ハ V -l 刈 牧 民 d t J R d p b -l Q d A 仏 友 A 1 i A U τ 0 1 } 4 d 告 1 i d n y F ヘ d l i 1 ハ 可 u q t υ 内 べ υ A U -s 佳 q 、 u n t υ 25 29 刀 回 1 4 1 4 A n u 口 μ

っ “

。 ,

u 図7 香川県漁船漁業の動向 資料)図4-1に同じ。 注)生産最は年平均 第

1

期は20年代前半である。この時期は,終戦後の混乱から無許可漁業が横 行して漁業秩序が荒廃する一方で,漁船も漁業用資材も石油も不足して漁業が 低迷した戦後の停滞期である。第2期は20年代後半の時期で,日本経済が復興 また,小型機船底びき網(以 するにつれて漁業用資材も出回わるようになり,

(15)

下,底びき網と略)・機船船びき網(以下,パッチ網と略)が許可されて漁業生 産が上向いてくる第1次成長期である。第2期は第1期に比し年平均でほぼ2 倍の生産量があった。高度経済成長期の前半にあたる昭和

3

0

年代の第

3

期は, 香川の津々浦々の漁村から労働力の流出がつづく状況のもとで,地びき網や巾 着網など人手の必要な大規模漁業が整理されるなどして漁業がのびなやんだ, 終戦後の停滞期につづく第

2

次停滞期である。

2

0

年代後半の過剰漁獲がたたっ て魚族が減少したことも,漁業生産の低迷をもたらした大きな要因であった。 昭和

4

0

年代の前半は,海が富栄養化してプランクトン食性の多種性魚,つま り先述のイワシやイカナゴなどが急増し生産量が

4

万トン台へと飛躍的にのび た時期である。

2

0

年代後半の第

1

次成長期に対し第

2

次成長期にあたる。また, この時期, 43 年 ~46 年の健灘・播磨灘での戦車漕ぎ許可, 45 年の板びき網許可, 船びき網漁船・底びき網漁船の馬力アップ許可など,一連の操業上の規制緩和 の措置がとられ,これまでに比して漁獲強度は一段と高まった。また,沿岸漁 業構造改善対策事業の発足(注 2 )を機として漁船の大型化・漁労技術の近 代化がすすんだことも,漁獲強度を高める結果となった。しかし,

4

0

年代後半 になると,漁獲強度を高めてもそれが生産量の上昇につながらないほどまでに 海の汚染が進行し,生産量は増え止まった。 40 年代後半 ~50 年代前半は,

3

0

年 代の停滞期につづく第

3

次停滞期である。そして,

5

0

年代後半は,一連の公害・ 環境規制措置で海の汚濁が緩和されて富栄養化がとまり,その結果,プランク トン食性魚、が減少して生産量が減っていく変動・後退期である。この生産量減 少基調は平成期に入っても変わっていない。 以上のような戦後漁業の変遷について一点言及しておくべきことは,それは, 食糧増産期の昭和

2

0

年代はもちろんのこと,戦後昭和の全期間を通じて漁業生 産は一貫して乱獲基調であったということである。漁民たちがそうであったと いうだけでなく,水産行政も基本的にはそのような立場であったーーというよ りはむしろ,瀬戸内海などで沿岸漁業構造改善事業による漁船の大型化,装置 の近代化をすすめた場合,それが乱獲につながるであろうことは確実にわかっ ていても,低い漁家の所得を高めるためにはこれをおしすすめる以外に水産行

(16)

38 香川大学経済論叢 38 政がとれる立場はなかったといった方が正確であろう。瀬戸内海において違法 漁業に対する取り締まりが必ずしも厳しいものでなかったのは,こうした水産 行政の立場ゆえであった。このことを香川県漁業にかぎっていえば, 40年代以 前に禁止漁業である戦車漕ぎや板ぴき網がすでに漁民間に広く普及していたの は,そうした水産行政の立場を漁民たちが暗黙のうちに了解していたからだと もいえるのである。だから, 40年代前半の時期にとられた規制緩和の一連の措 置は,実は,違反操業という既定の事実の追認でしかなかったのである。 ところで,図

7

に示されるような漁業生産のうねりのなかで,各種の漁業は どう変わっていったか。図8は,香川県の主要漁業である敷網,刺網,釣り・ はえ縄,底びき,パッチ網,定置網の6つの漁業について,昭和 35年以降にお ける着業統数の推移を示したものである。これによると,まず,海底に網を敷 き潮流を利用してイカナゴやイカなどを獲る敷網は急速にすたれつつある。 30 年代末に備讃瀬戸航路が拡張され敷網漁業の操業規制区域が大幅に拡がっただ けでなく,高度経済成長下での建築ラッシュ・高速道路建設などの建設用資材 や塩田埋立て用の土砂の採集が豊島北方の団子の瀬など備讃瀬戸の各所でおこ なわれて漁場が次々と荒廃していったことが,その衰退の理由である。釣り・ はえ縄も,効率の悪さに加えてタイ釣りやタコ釣りに代表されるように対象資 源が激減したため,その着業統数は著減した。定置網や刺網は非能率ではある

引にこ:¥

500

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O工 昭 ~ ~ ~ ~ 00 ~ ~ 図8 漁業種類別着業統数の変遷(香川県) 、、、 縄

小 網 チ 一 り 霞 網 y

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刺網 底ひ輔さ 資料)図4-1に同じ。 注)定信網が45,50両年に急激に溶ち込ん?いるが,これはこの両年度に岩業統数では なく経営体数をカウントしたためで,実際にはそのような落ち込みはない。

(17)

が,人手も手間もあまり必要としないうえに少ないながら一定量の水揚げは確 実に確保できるので,その着業統数に大きな変化はみられない。刺網は

5

0

年 代 に入って増加しているが,これはサワラの豊漁で刺網の一種であるサワラの流 網が増えたためである。他方,図示はしていないが,遠浅の砂浜の海岸のある 漁村ならかつてはどこでもみられた地びき網は人手を多く必要とすることから 次 々 と 姿 を 消 し て い き , い ま わ ず か に 残 る 地 び き 網 一 一 昭 和60年 現 在 で3統 一ーも観光漁業としてかろうじてその命脈を保っているにすぎない。図中の底 びき網および、パッチ網は前者が数多くの小漁家を経済的にささええている香川 県の基幹的漁業であり,後者が県全体の生産量のなかでもっとも大きなウエイ トを占める漁業である。以下,これら

2

つの漁業についてにさらに詳しくその 動向を考察しよう。 (注ー1) “とる漁業からつくる漁業へ"の転換という時代の要請のもとに瀬戸 内海栽培漁業センター屋島事業所が事業を開始したのは 38年である。栽培漁業 とは人口的に飼育した稚魚を自然の海に放流し,成長をまってふたたび採捕しよ うという,これまでの増養殖事業にはみられないあたらしい試みであった。瀬戸 内海の栽培漁業センターは屋島事業所をふくめ愛媛県の伯方島など四カ所に設 置され,その運営には水産庁の委託を受けた瀬戸内海栽培漁業協会(のち臼本栽 培漁業協会に改称)がその運営にあたる。協会のメンバーは瀬戸内海沿岸の各府 県と県漁連である。栽培漁業センターで育った稚魚は各地の中間育成場に送ら れ,そこで大きくしてから海に放たれる。タイやガザミのほか,カワハギ,アイ ナメ,カレイ,タコなども飼育・放流された。 (注-2

)

農業の分野で「農業基本法J (昭和

3

6

年)が制定されたように,水産 業の分野でも「沿岸漁業等振興法J(38年)が制定され,これにもとづいて沿岸漁 業構造改善事業が実施された。事業は補助事業と融資事業からなり,漁協などが おこなう漁場改良や魚礁設置,流通加工施設,養殖業の種苗供給施設などの公共 的性格の強い諸事業を対象とする補助事業に対して,融資事業は個々の漁家を対 象に長期の低利融資をおこなう。近年におげる漁船の大型化や漁船設備の近代化 はこの融資事業によるところが大きい。ちなみに,第 l 次 (37~45 年)および第

(18)

40ー 香川大学経済論叢

4

0

2 次 (46~54 年)の香川県沿岸漁業構造改善事業で投ぜられた融資事業費は 18 億 円,補助事業費は

2

1

億円であった。 底びき網とその経営 底びき網は左右の袖網の中央に魚取りの袋網をとりつ けたもので,捕獲する魚種,捕獲する方法によっていく種類もの底びき網があ る。香川の底びき網を代表するエビこぎ網は,網の入口にビームをとりつけて 大きくぴんとはり,海底をひきまわしてヱビやカレイ,イカナゴなどを獲る。 ちなみに,昭和

4

0

年の「香川県漁業調整規則」にはこのエビ漕ぎ網を含む

2

0

種 類の底びき網漁業が記されている。 戦前来,その法的禁止にもかかわらず漁獲効率の高さゆえに増加の一途をた どってきた瀬戸内海の底びき網漁業は昭和

2

7

年に正式に認可となる一方,

2

0

年代後半から

3

0

年代はじめにかけてその減船整理が断行されたことについて は前稿でみたところである。

5

6

年の時点において内海で底びき網漁業をいとな む経営体は全体の

30%(

7

.

9

0

0

体),その生産量約

1

1

2

千トンは海面漁業の総 漁獲量の

25%

に相当し,生産額では

41%

もの高い比率を占める。香川県でも漁 船漁業の中核的存在である底びき網漁業は,

3

5

年以降の

1

5

年間,その経営体の 漸減傾向にもかかわらず図9にみるとおり順調にその生産量をのばしてきた。 千トン

1

0

5

3

5

4

0

4

5

5

0

5

5

~

<

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~ ~

a

図g 底びき網生産量の推移(香川県) 資料)図4- 1に同じ。 注)生産量は年平均

(19)

「小型機船底引網漁業取締規則」の 46年改正によって 10馬力に制限されてい たのが 15馬力にアップされて漁獲強度がたかまっただけでなく,先にも指摘し たように禁止漁具であった戦車漕ぎが健灘では 43年から,播磨灘海域では 45 年から 46年にかけて,また板びき網が香川の全海域で 45年からそれぞれ許可 されて底びきの漁獲対象が大きく広まっためである。香川県の底びき網漁業が 生産量の最高を記録するのは 51年の 12万トンであるが,この年,底びき網は 香川県漁業全体のなかで経営体数において 24%,漁獲量において 17%,生産額 において 20%を占めた。 香川県の底びき網漁業はどのような経営内容なのか,昭和 56年におこなわれ たひとつの調査報告から備讃瀬戸と燈灘の 2つの事例を紹介すれば,漁船の規 模は両海域ともトン数,馬力数がおなじ 4..9トンと 15馬力で,使用する底びき 網は備讃瀬戸がエピ漕ぎ網専門,憶灘がエビ漕ぎ網とてつかん漕ぎ,それに石 桁網の3種類である。かつては夫婦や親子の 2人乗りがふつうであった底びき 網も自動揚網機が装備されてからは1人でも操業できるようになり,この2つ の事例の場合も船に乗り込むのは 50歳台の男子 1人だけである。経営収支につ いては, 150日から 160日出漁して備讃瀬戸で 537万円,健灘で 480万円の水揚 げがあり,手元に残る収益は前者が 165万円,後者が 134万円である。このよ うな低い収益では到底一家を支えていくわけにはいかないから,漁閑期にほか の漁業を営むか(注入陸上で漁業以外の仕事に従事するかして,かろうじて家 計を維持しているといのうがこれら底びき網業者の一般的な姿であった。 (注) 統計上,各種漁業を営む漁家をどのような経営体に分類するかについて は,生産金額がもっとも大なる漁業をもってその漁業経営体に分類している。し たがって,実際の操業数をカウントした着業統数と経営体数は一致しない。たと えば,昭和 60年の香川県小型底び、き網漁業の着業統数 1,322に対して経営体数 は900である。 イワシ漁業の動向 近年,瀬戸内海のイワシ漁業の主流はパッチ網である。パッ チ網は漁船2隻がl組となって袋状の網を海中の中層もしくは表層を曳いてイ ワシやイカナゴ,シラスなどの浮魚を獲り,手船や運搬船に従事するものを含

(20)

-42- 香川大学経済論叢

4

2

めおよそ 10~15 人の人聞が乗り込む。かつて内海でイワシ漁業といえば巾着網 や地びき網であったが,昭和

3

0

年前後の時期を境にこれらの漁業はすたれ,か わってパッチ網が台頭してくる。イワシ漁業にこのような漁法の転換をもたら した背景には,巾着網や地びき網の綱元経営をささえていた豊富で廉価な労働 力が都会へ、流出し,その確保が次第に困難になるという高度経済成長下での漁 村事情があった。イワシ巾着網は操業するのに

1

統あたり

5

0

人ほどの網子が必 要であるが,そのような大量の労働力を

3

0

年以降の内海の漁村,香川の漁村で 調達することはもはや不可能となったのである。 内海の富栄養化がすすむなか,パッチ網漁業の生産量は急速にのびつづけ, 昭和

5

0

年代に入ると

1

0

万トンの水準を上回って内海の全生産量の4分のlを 占めるに至った。香川県のパッチ網の生産量も,図

1

0

にみるとおり

3

0

年代後 半の年平均生産量 4,

2

0

0

トンが昭和

5

0

年代前半には約 l万 8,

5

0

0

トンへ,とい う急増ぶりである。さきに図 7でしめした,昭和

3

0

年代後半以降における香川 県漁船漁業の生産量の著増傾向は実はこのパッチ網の生産量の急増に大きくさ さえられたもので,さらにいえば,この急増の牽引者となったのは燈灘のイワ シ漁業であった。その具体的な姿を次にみよう。 千 ト ン

1

5

1

0

5 ハ H v d A Y 8 仏 At 、 , a A ヨ E d -n 3 4!4 A U a m 古 伊 h J u -F h J V R d ー l A 3 FhU1JFD O 図10 パッチ網生産量の推移(香川県) 資料)図4ー1に同じ。 注)生産設は年平均

(21)

[伊吹のパッチ網] 戦前来,香川県でイワシ漁業がもっともさかんな海域は燈灘であり,戦後の 30年代以降は海の富栄養化につれて生産量は一層増加した。:縫灘におけるイワ シ漁業の根拠地は伊吹島で,第8次漁業センサス(昭和63年)によると,香川 県のパッチ網経営体総数32のうちその過半の18体が伊吹島に属するという状 況である。 45年当時でなお,全世帯の半数近くが漁業と水産加工業に従事する という,香川県でも数少ない純漁村の面影を残す伊吹島漁業の主力は,底びき 網漁業とならんでパッチ網のイワシ漁業であった。 伊吹島の周辺を中心に燈灘の東部海域を漁場とする伊吹のパッチ網は漁期が

5

月から翌年の

1

月までのおよそ半年間で,網船

2

隻のほか手船兼運搬船

3

隻 で編成され, 1 統あたり 12~13 人が乗り込む。しかし,島外への人口流出がす すむなか,これだけの労働力を確保することはなかなか困難なことで,姻戚関 係のものや年寄り,女性を動員しての苦しい操業であった。昭和

5

0

年当時の調 査報告によると,ある経営の場合,従事者12人のうち

5

人は

5

0

歳以上の年配 であり,女性も

2

人が乗り込むという就労構造である。従事者の高齢化と女性 化も目立つが,それ以上に目立つのは12人のうち8人が親戚関係にあるという 点である。このような姻戚関係を利用した網元経営は戦前からの伊吹独特のも ので,別の経営でも従事者12人のうち 5人は姻戚関係にある。多くの入手を必 要とするパッチ網が伊吹島でいまなお広く営まれているのは,古くから島に根 付いている大家族制と広い姻戚関係の存在によるものであった。 ところで,伊吹島ではイワシ漁業の綱元は煮干の加工業者も兼ねている。伊 吹の海岸線には加工工場がたちならび,健灘で獲れたイワシは直接ここに陸揚 げされて煮干に加工されるのである。たとえ漁労で損がでても加工でとりもど すという,漁労と加工のー買経営が伊吹の綱元たちのやり方であった。ところ が,戦前来,一般家庭でっかわれる調味料の代表格のひとつであったこの煮干 に対する需要が,昭和 30年代以降,人口調味料におされてしだいに減退してい くだけでなく,富栄養化した海で育つイワシは脂肪がのりすぎてイリコの品質 が低下したために,伊吹の煮干加工業も経営上破綻の危機に直面することと

(22)

44- 香川大学経済論叢 44 なった。この危機を救いイワシ漁業に新たな活路を聞いたのは,ハマチなど魚 類の養殖業の台頭であった。養殖魚類の餌としてイワシが活用されることと なったのである。ちなみに,昭和50年当時,香川県全体でハマチの餌となった イワシは全生産量のおよそ3分のlにのぽる。 戦後香川の養殖業 高度経済成長期に進行した水産物消費の質的変化を背景 に,ハマチとノリの養殖業は,あたかも漁船漁業の停滞を補うかのように,全 国的規模で急速にその生産量をのばした。香川県の場合,昭和 53年の統計によ ると,海面漁業の生産額148億円に対し養殖漁業の生産額はほぼこれに匹敵す る 135億円であり,そのうちハマチ養殖が 32億円,ノリ養殖が 47億円を占め る。ハマチとノリのほかに戦後香川の養殖業の対象となったものに真珠母貝や タコ,カキ,クルマエビのほか,近年生産量に増加がみられるタイがある。香 川の養殖業者たちは,全国的な需要の動向を踏まえながらカキから真珠母貝へ, さらには真珠母貝からハマチ,ノリへと巧みに転身して今日に至っている。以 下,香川県の

2

大養殖業であるハマチとノリについて戦後の動向を概観しよう。 [ノリ養殖] 古い歴史をもっノリ養殖は,戦前,ヒビと呼ばれる枝付きの竹を海辺の浅場 にたて,これに種が付着して成育するノリを摘みとるというやり方で,自然条 件に恵まれた海域においてその地域の特産品として小規模におこなわれてい た。江戸前の浅草ノリなどはその代表格であろう。冬場に水の枯れる香川の河 川は大半がノリ養殖には適していないが,土器川や詰田川の川尻の干潟では小 規模ながら商業ベースにのったノリ養殖が営まれたことがある。 戦後,ノリ養殖は,昭和30年代から 40年代にかけて相次いで開発された技 術革新 人口採苗法の開発,冷凍網技術の導入,浮き流式養殖法の確立一ーに よって種苗の安定的供給と養殖の場の拡大が可能となるとともに,このような 技術開発に対応して摘採行程が動力化され加工行程が工場生産化されたことに よって,その生産は飛躍的に増大することとなった。もともと入江や湾が多く 海面が穏やかなうえ,海が富栄養化してノリの成育に必要な栄養塩類の供給が 豊かになった昭和40年代以降の瀬戸内海は,新しい栽培技術のもとでのノリ養

(23)

品 子 営 {本 数 千トン 35 30 25 20 15 10 5 O 目 白 30 35 40 45 50 55 図11ー 1 ノリ養殖業の動向(生産量) 資料)図4ー1に同じ。 1.000 800 600 400 200

s

g

30 35 40 45 50 55 図11-2 ノリ養殖業の動向(経営体) 資料)図4ー1に同じ。 60 60 殖には最適の場であったといえよう。香川県の養殖ノリ業も,沖合養殖に成功 した 43年以降,図 11-1にみるとおりその成長は著しく,水島コンビナート重 油流出事故で大きな被害のうけた

4

9

年からその影響が解消するまでの 50年代 はじめにかけて一時停滞するものの,昭和 50年代後半にはまた生産量をのば し,近年,香川県は兵庫,山口に次ぐ瀬戸内海第3位の生産県となった。しか し,このように生産量が全国規模で増大した結果,生産過剰になって価格が低 迷,コスト割れも生じ,近年は零細経営体が急速に淘汰されて上層経営体だけ が生き残るという生産構造の再編が進行しつつある。香川県の場合も,この点

(24)

46 香川大学経済論議 46 は図

11-2

によってはっきりと確認できるであろう。 [ノ¥マチ養殖] 昭和のはじめに引田の安戸池で野網和三郎が全国ごはじめてその企業化に成 功して以来の長い歴史をもっ香川のハマチ養殖は,戦時中の一時中断を経て, 昭和26年の安戸池再開, 31年の直島磯浜養魚、場復興ののち, 30年代後半から 急速に発展していった。その発展の原動力となったのは小割り式とよばれるあ たらしい養殖方法の開発であった。 10 万~20 万尾のハマチを養殖しなければ採 算がとれない従来の安戸池のような築堤式や,網で海域の一部を区切る網仕切 り式などの大規模養殖法に対して,ちょうど蚊帳を逆さにした形の網イケスを 筏からつるす小割り式は,もし手持資金が少なければイケスの数を減らせばよ ししたがって小額の資金でも着業可能な養殖方法であった。小割りイケスの 場合,育てるハマチの数は1経営あたり 1"-'2万尾がふつうで,なかには4,000 尾前後という零細経営もあった。 40年代に経営体数が急増した割には生産量が 増えなかったのは,築堤式や網仕切り式にかわってこのような小割り式がとり いれられていったからである。低迷する漁船漁業のもとで経済的に不安定な香 川の貧しい漁家は小割り式というあたらしい養殖方法を積極的にとりいれるこ とでハマチの養殖業へと転換していった。 高度経済成長下で一般家庭の生活水準が高まり消費生活面では高級魚が志向 されるようになるにつれて,ハマチの養殖業は急速にのびていった。瀬戸内海 の沿岸諸府県のなかでも香川県におけるその進展ぶりはめざましく,昭和40年 から 50年のわずか10年間で経営体数は5倍以上,生産量は3倍近く増えた。 そして赤潮禍で徳島,兵庫両県のハマチ養殖が衰退した後の, 60年前後のころ には香川県のハマチの生産量は瀬戸内海全体の実に7割以上を占めるにいたっ た。 35年以降における香川県のハマチ養殖の生産動向は図12-1

2にみると おりである。ただ,図12-2によると, 50年代前半に経営体数の減少がみられ るが,これは,このころがちょうど瀬戸内海の赤潮がもっとも織烈をきわめた 時期で,赤潮で壊滅的な被害をうけて経営の継続を断念せざるをえなかった養 殖業者たちが続出したためである。50年代前半の生産動向についてさらにいえ

(25)

千トン 12 10伽 8 6 4 2

210 180

150 イ本 120 数 90 60 30 0

a

g

35 40 45 50 55 60 図12ー1 ハマチ養殖業の動向(生産量) 資料)図 4ー1に同じ。 日召 35 40 45 50 55 60 図12-2 ハマチ養殖業の動向(経営体) 資料)図4-1に同じ。 63 63 ば, この時期に

1

経営体あたり生産量が倍近くに増えている。 これは, これま で関西市場に向けて

1

キロ前後の

1

年魚、を出荷していたところ, あらたに関東 市場に 3~4 キロの 2 年魚、を出荷するまうになったからである。 昭和 50年前後の時期に瀬戸内海では赤潮のため生産量が頭打ちになったも のの,全国的にみればハマチの生産量は増えつづけ,その結果,昭和 50年代後 半になると過剰供給となって収支関係の悪化が顕在化し,近年は生産量は横ば い状態であり,経営体も淘汰されてその数が減るという事態が生じている。香 川の場合も, 60年代以降におけるハマチ養殖業の停滞は図 12にみるとおりで ある。漁船漁業の停滞・衰退を補う形でノリの養殖とともに順調に成長してき

(26)

48- 香川大学経済論叢 48 た香川のハマチの養殖も,ここに至って経営難・経営破綻から生産構造の再編 という厳しい局面に直面することとなった。県下のハマチ養殖業者が組織して いる県かん水漁業協同組合が昭和58年度につづき翌日年度にも生産制限を実 施せざるをえなくなった事態について, 59年 4月3日の『四国新聞』が「数量 さらに 1割減一一一ハマチ養殖,曲がり角に」と題してr"… 前 年 度(58年度一注) の

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割削減に続く自主規制で,需給バランスの確保という大目標があるとはい え,全国のパイオニアのような存在である県下のハマチ養殖は厳しく,大きな 曲がり角に立たされることとなった」とのべているのも,こうした県下ハマチ 養殖業者たちの苦境の一端を物語るものであろう。 ところですで、に伊吹のパッチ網漁業に関連して若干ふれたが,ハマチの養殖 漁業について次のような漁船漁業との関連を指摘しておきたい。つまり,瀬戸 内海の漁業環境がもっとも悪化した昭和40年代後半から 50年代はじめにかけ ての時期,瀬戸内海は漁業の衰退海域になるのではないかと懸念されたが,し かし現実にはこの時期もこののちも,養殖漁業はもちろん漁船漁業もその生産 量は増えつづけた。なぜそのようになったのかといえば,それは瀬戸内海の富 栄養化を媒介として養殖業と漁船漁業がつながっていたからで,もう少し具体 的にいうと,ハマチの生産量が増えれば当然その餌となるイワシの需要も増え るが 1 キロのハマチを育てるのに 6~7 キロのイワシが必要一一一,この餌 となるイワシが富栄養化した内海で急増し,これを漁獲する漁船漁業がこれま た急激に生産量を増やす,というつながりである。ある漁業研究者がr(瀬戸内 海のー注)海域汚染がそのまま漁業生産の減少に結びつくわけではなく,複雑 な生態系ないし生物生産のメカニズムを通じて漁業資源に影響を与えることに なるので,汚染影響の漁業生産への波及はどうしても間接的なものになるし, さらに漁業生産自体が資源の利用に関して選択的に対応するので,問題は一層 入り組んで、いる。J(長谷川彰著「瀬戸内海の富栄養化と漁業生産との対応関係J) とのべているのも,まさにこの点にかかわったものであつった。いずれにせよ, 瀬戸内海の漁業は懸念されていたように衰退にむかわず,富栄養化がすすむな かでかえってその生産量をのばしてきたのである。

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漁家の経営実態と就業構造 これまで養殖漁業を考察するにあたってこれを 漁船漁業と切り離して考察したが,ノリのように養殖時期が冬場にかぎられて おれまたハマチのようにその経営規模が零細であるために養殖業は採捕漁業 と組み合わせなければ家計を維持できないというのが香川県の過半の養殖業者 の実態である。事実,第8次漁業センサスによると,養殖と採捕を兼ねている ものに対して養殖業のみを営むものはその3分2で,前者の方が後者より多い。 前者の事例を1つ示せば,牟礼のある漁家の場合 4月から9月まで漁船漁業 に従事した後, 10月から翌年の3月まではカキとノリの養殖をおこなってい る。漁船漁業の漁家の場合も,単一の漁業だけを営むだけでは到底暮らしてい けず,また農業のように簡単に兼業にでかけるわけにはいかないから,周年就 業できるようにさまざまな漁業を組み合わせての一ーたとえば,備讃瀬戸の敷 網漁業は漁期が終わると,底びき網と流網を営んだ一一経営であった。 次にその就業構造をみよう。昭和30年以降,ー買して就業者が減少しつづけ て高齢化がすすんだその30年後の現在,香川県の漁家の就業構造はどうなって いるか。農業と違って漁業の場合,自営漁業就業者は男子が中心で,たまたま 女子が海上作業に従事するケース一一ーかつて伊吹のパッチ網などがそうであっ た一一ーがあっても,それは夫婦で操業する場合にかぎられている。漁船漁業は もちろん養殖業の場合も,現在の漁労技術では男子労働を欠いての操業は不可 能だからである。そこで, 63年の漁業センサスにもとづいて男子について香川 県の自営漁家の世帯員数とそのうちの自営漁業就業者数を年齢別に示したの が,図13である。この図から一見して明らかな事実は,就業者数がもっとも多 い階層は

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歳から

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歳までの階層だということである。ほぼ昭和

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ケタ生ま れの世代として一括できるこれらの階層の就業者は,戦後の復興期には戦病死 した大正期生まれ世代のあとをうけて若き担い手として沿岸漁業をささえ,高 度成長期には昭和2ケタの世代が新規学卒者として漁業外に流出していったの に対して壮年世代の漁業就業者としてとどまり,そしていまは近い将来に引退 を控えた高齢の漁業就業者として最後の就業段階にある人々である。農業と同 様,戦後一貫して連綿と日本の沿岸漁業の屋台骨を根底でささえつづけてきた

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50 香川大学経済論叢 人 101

1止帝貝 8

/ J

, 崎 業 者 6 4 帽ー『ーー園町--戸包囲ーーーーーー・・・・・圃園開〆 2 ー酬--ー ーーー

15 20 25 30 35 40 45 50 55 60 65 歳 ,liZ R長 歳 歳 歳 歳 歳 歳 歳 歳 図13 自営漁家世帯員数と自営漁家就業者数(男子,昭和63年) 資料)農水省『第 8次漁業センサス2 のは,これら昭和1ケタ生まれの世代であった。 50 ところで,この図からうかがえるもう 1つの明らかな事実は, 45歳以下の年 齢階層の就業者数が年齢が下がるにしたがって確実に減少していることであ る。当然のことであるが,この事実とはじめの事実を重ねると,年老いた父親 は漁業に従事しているが同居の息子は漁業外に就業しているという漁家の姿が うかび、あがってくる。昭和 54年に県がおこなった漁業経営意識調査によると, 後継者のいない漁家は 29%,候補の後継者はいるが継がせたくない漁家が 23% で,後継者が決まっている漁家はわずか 17%という結果であった。したがって, 大半の漁家は父親の引退とともに漁家として消滅していくものと想定しでも間 違いはなかろう。 香川県漁業,瀬戸内海漁業にとどまらず日本の沿岸漁業全体にも共通する自 営漁業就業者の高齢化と後継者の減少傾向は,個々の漁家にとってはもちろん のこと,地域漁業と漁協経営の将来にとっても深刻な問題をなげかけている。 後継者がえられないまま沿岸漁家数が急減することになれば,沿岸漁業が衰退 して漁村社会の過疎化がすすみ,その極,漁村社会そのものが解体してしまう 一一ちょうど農業の分野で荒廃した過疎の山村が出現したように一一一のではな いかと懸念されているのである。しかし,いまなお沿岸漁民に貧しい生活を強 いてきたその根底にあるものは,狭い漁場に多数の漁船がひしめきあって操業

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していることからくる漁業資源問題であった。瀬戸内海の,そしてまた香川の 漁業は,戦前来今日に至るまでそれがもっとも集約的にあらわれた海域であっ たといえよう。かくして漁家の経営問題は結局は資源量に比して漁船数が多す ぎることにつきるといっても過言ではなししたがって,もし事態がこのまま 推移して漁船数=漁業者数が減っていけば,資源問題はおのずから解決の方向 に向かうことになるだろうという明るい見通しをもつこともできるのである。 日本の沿岸漁業がはじめて経験する後継者不足問題は,こうした明暗2つの局 面を含みつつ, もはや猶予のならない眼前のものになろうとしている。 参 考 文 献 (1) 各年次漁業センサス ( 2) 1香川県水産統計年報.! (中国四国農政局香川統計情報事務所) (3) ,水産関係行政資料J(香川県水産課,平成 4年) (4 ) 星野芳郎著『瀬戸内海汚染1(岩波,昭和47年) ( 5) ,すすむ新次元の漁業一一栽培漁業は青年の手、で一一一J (1月刊香川』昭和47年1月) ( 6 ) ,魅力ある産業としての沿岸漁業の将来一一構造改善対策事業は進む一一J(1月刊香 }l1!昭和40年9月) (7) ,瀬戸内海漁業の現状1 (瀬戸内海水産開発協議会,昭和60年) ( 8) 福田勝箸「香川県漁船漁業の動向と問題点J('香川県水産試験場報告』第19号,昭和 57年) ( 9) 外間源治著「瀬戸内海における小型機船底びき網漁業経営一一海域別収支と経済的依 存種一一J(1西日本漁業経済論集.1,第27巻,昭和61年) (10) 外間源治・内藤一郎著「瀬戸内海におけるいわし漁業の動向一一川之江と伊吹島の経営 比較一一J(1西日本漁業経済論集.!,第15巻,昭和49年) (11) 外間源治・内藤一郎著「瀬戸内海におけるいわし漁業の動向一一戦後の経過と現状 一 一J ('商日本漁業経済論集.h第17巻,昭和51年) (12) 長谷川彰著「瀬戸内海の富栄養化と漁業生産との対応関係J(西日本漁業経済学会編『転 機に立つ日本水産業1,昭和48年) (13) 小山悦夫箸「牟礼漁協の漁業についてJ(W西日本漁業経済論集h 第14巻,昭和47年) (14) ,漁業経営意識調査J (県,昭和54年)

参照

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