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21 研究ノート

Study Note

テサロニケの信徒への手紙の訳と註

(その 1)

1:2-10―

An Exegetical Study of 1Thessalonians 1:2-10

大宮 有博

OMIYA. Tomohiro

1. はじめに

(1) 翻訳の底本には B. Aland et al., ed. Novum Testamentum Graece (27ed; Stuttgart: Deutsche Bible- gesellshaft, 1993)を用いた。段落の取り方は、大部分底本にならった。 (2) 地名・人名については、問題がない限り「新共同訳」に準拠した。 (3) 翻訳にあたって参照した日本語訳は以下のとおりである。 口語訳 (日本聖書協会、1955 年)、フランシスコ会訳 (フランシスコ会聖書研究所、1978 年)、 新共同訳 (日本聖書協会、1987 年)、岩隈訳(山本書店、1988 年)、新改訳 (聖書刊行会、2004 年)、青野訳(岩波書店、2004 年)、田川訳(作品社、2007 年) 他にも以下の私訳も参照した。 山内一郎「テサロニケ第一の手紙 翻訳と訳注」松永晋一他編『新約聖書と解釈: 松木治三郎先 生傘寿記念献呈論集』新教出版社、1986 年、239-267 頁。 阿部包「『テサロニケの人々の教会へ 第一』私訳」『藤女子大学キリスト教文化研究所紀要』9 号(2008 年)、63-81 頁。 (4) 翻訳にあたって用いた辞書、文法書、註解書は本稿の最後にまとめた。 2. テサロニケの信徒への手紙 1:2-10 の訳と註 <1:2> 「私たちはいつもあなたがたのことについて神に感謝を捧げる。私たちが祈る時、[あなたがたのことを] 覚えています。」 パウロは本節を εὐχαριστοῦμεν τῷ θεῷ πάντοτε περὶ πάντων ὑμῶν「私たちはいつもあなたがたのことについ て神に感謝を捧げる」ではじめている。パウロは多くの書簡において、同様の言い回し(εὐχαριστέω+περί+ 属格=『~について感謝を捧げる』または εὐχαριστέω+ὑπέρ+属格=『~のゆえに感謝を捧げる』)を用いる1。 パウロの他の書簡では εὐχαριστέω は一人称単数形で用いられるが、この書簡では一人称複数形で用いら れている( 1 テサ 2:13 も)。この「私たちは」は、1:1 のパウロ、シルワノ、テモテを指していると考え られる。それに対して、この複数形を「書簡体の複数形」(an epistolary plural)とする立場がある(例: AB,

1 パウロ書簡ではローマ1:8; 1 コリ 1:4; フィレモン 1:4、二次パウロ書簡でもエフェソ 1:16; 5:20; コロ 1:3; 2 テサ 1:3;

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22 106)。すなわち、書簡において、しばしば筆者が自分自身を指して「私たち」と呼ぶ場合である2。第一 テサロニケにおいて、パウロは一人称単数を頻繁に用いる3。 μνείαν ποιούμενοι(=μνεία [複数]「記憶」+ποιέω [現在分詞])「行う」は、BAGD の μνεία の項にしたがっ て、単に「覚えている」(口語訳、新改訳)あるいは「思い起こす」と訳されることが多い。この言い回 しを ἐπὶ τῶν προσευχῶν ἡμῶν「私たちが祈る時」(ἐπί+属格=『~する時に』)とつなげると、「あなたの ために神々にいつも祈っている」という当時の書簡の決まり文句になる(AB 107)。類似の言い回しが、 パウロ書簡(ローマ1:9-10; フィレモン 1:4)および第二パウロ書簡(エフェソ 1:16)の導入の感謝の祈り の部分に出てくる。 <1:3> 私たちは、私たちの父である神の前でいつも(2 節)覚えている――あなたたちの信仰による働き、あな たたちの愛の労苦、あなたちの私たちの主イエスキリストの希望の忍耐を。 3 節を分析すると以下のとおりである。 「私たちは、…をいつも覚えている。」 「信仰による働き」 「あなたたちの」 「愛による労苦」 「私たちの主イエス・キリストの希望の忍耐」 「私たちの父である神の前で」 2 節の最後の副詞 ἀδιαλείπτως「いつも」は、同じ節の ποιούμενοι を修飾するとも考えられなくもないが、 3 節の μνημονεύοντες (μνημονεύω の現在分詞) を修飾していると考えるのが一般的である(ex: Nestle-Aland 27 版)。 さて、3 節は、名詞が属格で次々とつながれている。これはパウロ特有の文体である(田川、90 頁)。 どれがどれを修飾しているかを厳密に断定することは難しい。まず、ὑμῶν「あなたがた」は μνημονεύοντες をかけて「私たちはあなたたちを......いつも覚えている」と取る可能性と、続く「働き」「労苦」「忍耐」の 三つの主語的属格にかけて「あなたたちの信仰の働き、あなたたちの愛の労苦、あなたたちの…忍耐」と 取る可能性がある。ここでは後者の可能性をとる。 τοῦ ἔργου τῆς πίστεως「信仰の働き」は、「信仰による働き」(信仰によって突き動かされる働き)と取 るか、「信仰という働き」(説明的属格)と取るか二つの可能性がある。新共同訳は「信仰によって働き」 と訳し、他方、山内訳も「信仰から出たわざ」と訳し前者の可能性を強く打ち出す訳となっている。説明 的属格で訳すには、前者のほうが自然に訳すことができる。また、次の属格 τοῦ κόπου τῆς ἀγάπης も「愛に よる労苦」と訳した。 次に、τοῦ κυρίου ἡμῶν Ἰησοῦ Χριστοῦ「私たちの主イエス・キリスト」を前の三つの名詞にかけて解する立 場もあるが、直前の ἐλπίδος にかかっていると考える立場のほうが有力である。岩隈やホルツは κυρίου を三 つの名詞の主語的属格として、「働き」「労苦」「忍耐」は主イエス・キリストによってなされるわざである 2 ヘレニズムの書簡の例では 2 マカ 11:27 が好例。パウロ書簡にも「書簡体の複数形」と思われるものがしばしば見ら れるが、いずれも確かな例とは言えない。比較的確実な例としてはローマ1:5; ガラ 1:8-9。 3 パウロは 1 テサに複数形の動詞を 45 回、複数形の分詞を 25 回、ἡμεῖς を 43 回用いている。それに対して、単数形の 動詞は2 回、ἐγώ は 1 回しか用いられていない。

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23 と解する(例: 岩隈)。しかし、キリスト者の「働き」「労苦」「忍耐」がキリストのゆえであるという考え は、いささか無理があるようにも思える。多くの場合、κυρίου…を ἐλπίδος のみにかかる目的語的属格とし て理解するが (ex: 田川、青野)、ここではその立場を取る。たとえば、青野による訳では「私たちの主 イエス・キリスト〔に対する〕希望の〔もつ〕忍耐」となっている。山内も κυρίου…を 1 テサロニケの基 調に照らして ἐλπίδος のみにかかる目的語的属格として解し、それがキリストの来臨に対する希望であると 断定する4 <1:4> 兄弟たち――神によって愛されている者たちよ、あなたたちはあなたたちの選びを知っている。 ἀδελφοί「兄弟」は親族の結びつきを示す言葉を用いて、テサロニケの信徒に呼びかける。1 テサロニケ いう短い書簡のなかでパウロは14 回、信徒に ἀδελφοί と呼びかけている。これは、他の書簡に比べると高 い頻度と言える(例: ローマ 10 回、1 コリ 20 回、2 コリ 3 回)。自分が属しているグループのメンバーを 「兄弟」と呼ぶ慣例は、ローマの秘儀集団や哲学学派でもみられていたが、ユダヤ教にも見られる5。 また、パウロは ἀδελφοί「兄弟」を ἠγαπημένοι ὑπὸ θεοῦ「神によって愛されている者たち」と言い換えて いる(cf. 2 テサ 2:14)。ἠγαπημένοι は ἀγαπάω の完了分詞であるが、これは改宗者を愛する神の愛が恒久的 なものであることを暗示している。また、パウロはローマ9:24-25(ホセア 2:25LXX を改変して引用)に おいても異邦人の改宗者を ἠγαπημένην「愛された者」と呼ぶ。 τὴν ἐκλογὴν ὑμῶν「あなたがたの選び」は、「あなたがたが神を選んだこと」とも取れなくもないが、こ こでは奇をてらわずに素直に「神があなたがたを選んだこと」とも取る。というのも、「あなたがたの選 び」は「神によって愛されている」ことを言い換えていると取れるからである。また、「選び」と言った 時、おそらくパウロの念頭には、「神によって選ばれた民」というイスラエルの自覚もあったと考えられ るからである。 <1:5> 「すなわち私たちの福音はあなたがたのただなかでただ言葉のみではなく、力と聖霊と多くの確信におい て実現したのである。また、あなたがたのただなかで、あなたがたのために私たちがどのような者であっ たかは、あなたがたの知っているとおりである。」 ὅτι を「すなわち」と訳した場合、ὅτι 以下は「あなたがたが神に選ばれた」とは、どういうことかを説 明する(田川など)。文法的には、οἶδα ... ὅτι で、ὅτι 以下は知っていることの中身を示している。ここで は、どのようにして「あなたがたの選び」が始まったかを述べているかを述べている。οἶδα ... ὅτι 構文は 2:1 にも出てくるが、この場合 ὅτι 以下が知っていることの中身であることには疑いがない(他にもローマ 13:11 など)。 4 山内、242, n.6a. なお、山内は 1 テサロニケの基調を「主イエス・キリストの来臨」とする根拠として 1:10; 2:11-12, 19; 3:13; 4:13-17; 5:8, 23 を挙げる。

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24 それに対して、ὅτι を「なぜなら」と訳す立場が圧倒的に多い(新共同訳、青野、岩隈、山内、松永、阿 部)。この場合、ὅτι 以下はテサロニケの異邦人キリスト者が神に選ばれたていることをなぜパウロが知っ ているかという理由を説明する。この訳は、εἰδότες から ὅτι がかなり離れていることからである。 なぜこれほど ὅτι の訳に意見がわかれるかというと、「すなわち」と訳すか「なぜなら」と訳すかによ って神学的前提が異なってくるからである。「すなわち」の訳は、「神の選び」すなわち「宣教がテサロ ニケの信徒に達したという出来事」という神学的立場を示している。それに対して、「なぜなら」という 訳には、「神の選び」が宣教の出来事に先行しているということを神学的前提にしている。確かに、こう いう神学的前提はパウロ書簡の他の箇所にも見られる6。どちらの可能性も完全に排除できないが、ここで は前者の立場を取って「すなわち」と訳す。この方が文脈にあっていると判断したからである。

「実現したのである」と訳した ἐγενήθη (γίνομαι のアオリスト受動態=能動相欠如動詞<a deponent verb>) は、人称は変わるがこの書簡にしばしば出てくる7。「生起する」「実現する」という意味の γίνομαι のア オリスト受動態は、歴史上の一事件として..........「私たちの福音」がテサロニケの信徒のただなかに入っていっ たということを意味している。 Πληροφορία は新約以前の文献には出てこない言葉であり、これ以後出てくるものも新約の影響を受けた 文献においてのみ出てくる。πλήρος「十分に」に φορέω「持っていく、もたらす」を加えた言葉である。「十 分確実に」(田川訳)「多くの確信」(青野訳)といった訳が可能である。ここでは「多くの確信」とし た。 5 節後半の οἷοι (関係代名詞 οἷος 『~のような種類の』)+ἐγενήθημεν(γίνομαι のアオリスト受動態) は、「わたしたちがどのようなものであったかは…」と訳した。この5 節は 2:1-13 において敷衍されてい る。 <1:6> 「そして、あなたたちは私たちと主をまねる者になった。――多くの苦しみの中で、聖霊の喜びをもって、 言葉を受け入れることによって。」 μιμηταὶ ἡμῶν ... τοῦ κυρίου「私たちと主をまねる者」と、パウロはテサロニケの信徒に「私たちをまねす る者(imitator)」なるように勧め、随分後になって「主を」と付け足している。パウロは主を知らないテ サロニケの信徒たちに、自分たちをまねることを通して主に倣うように勧めているのである8。 Δεξάμενοι (δέχομαι のアオリスト分詞)は副詞的用法で「受け入れることによって」と訳す。「受け入 れた後で」という解釈も可能である。テサロニケの信徒は言葉を受け入れることによって、「パウロをま ねる者」になったということである。 <1:7> 「その結果、あなたがたはマケドニアとアカイアにいるすべての信じる者たちにとって模範となった。」 6 Cf. ローマ 9:11; 11:5, 7, 28; 1 コリ 1:27-28. 7 1:5b, 6; 2:5, 7, 8, 10, 14. 8 パウロはしばしば「私をまねる者となりなさい」と勧めている(1 コリ 4:16; 11:1; フィ 3:17)。この主張の根拠として 「私もキリストにまねる者であるように、あなたたちは私をまねる者でありなさい」(1 コリ 11:1)が挙げられる。

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25 7 節は結果を表す ὥστε+不定詞で導入される。つまり、テサロニケの信徒は「わたしたちと主をまねる 者」となった結果、τύπος (模範、exampler)となったのである。γενέσθαι ὑμᾶς τύπον「あなたがた(複数) は模範(単数)となった」とある。強調のためにつけられている ὑμᾶς「あなたがた」が複数であるのに、 τύπον「模範」が単数となっている。これは教会を単一体とみていたからと考えられる。 <1:8> 「主の言葉はあなたたちから出て、マケドニアとアカイアにおいて鳴り響いているだけではない。あらゆ るところに、神に対するあなたたちの信仰は出て行っている。その結果、私たちは何も語る必要がなくな ってしまった。」 5 節で「私たちの福音」が 8 節では ὁ λόγος τοῦ κυρίου「主の言葉」と言い換えられている。この言い換え は旧約の影響でもある(ex. エレ 1:4, 11; エゼ 3:16; 6:1; 7:1)。ἀφ’ ὑμῶν「あなたたちから出て」という表 現に οὐ μόνον ... ἀλλά (καί)「...だけではなく...にも」と言う表現を加えることによって、パウロたち からテサロニケの信徒たちに伝えられた福音(=主の言葉)がさらに外へと拡大していっていることが強 調されている。パウロはテサロニケの教会を宣教拡大の要として見ていたことが、この強調表現から伺え る。 5 節 b の「あらゆるところに、あなたたちの神に対する信仰は出て行っている」は 5 節 a の繰り返しで ある。ἐν παντὶ τόπῳ「あらゆるところに」は宣教の拡大を誇張する表現である9。ἡ πίστις ὑμῶν ἡ πρὸς τὸν θεὸν 「神に対するあなたたちの信仰」という表現は、「私たちの福音」(5 節)「主の言葉」(8 節 a)を言い 換えている。この表現は新約聖書の他の箇所には見られないが、パウロの宣教において示された「生ける 真の神」に対する信仰を示している(9 節 b)。なお、πρὸς τὸν θεὸν の前の冠詞 ἡ は文法的には必要ないが、 「神に対する」を強調するために挿入されたと考えられる。 8 節 c の μὴ (あるいは οὐ) χρείαν+不定詞「...する必要がない」は、パレネーシスの表現によく登場 する表現である(ex. 4:9; 5:1)。 <1:9-10> 「すなわち、彼らは私たちについて、[以下のように]公に言い広めている。どのようにして私たちがあな たがたのところに入っていったか。そして、いかにしてあなたがたが偶像から離れ神の方へとたちかえっ たか――生けるまことの神に仕えるために。また、(神が)死者のなかから起こした神の子、今まさに到 来しようとしている怒りから私たちを救い出すイエスが天から(降りてくるのを)待望している。」 αὐτοὶ γὰρ περὶ ἡμῶν ἀπαγγέλλουσιν「彼らは私たちについて公に言い広めている」の αὐτοί「彼ら」とは、テ モテとも取れる(cf. 3:6)。しかし、ここでは「彼ら」と複数形が用いられているので、マケドニアとアカ イアの信徒たちのこととも思える。ἀπαγγέλλω という表現をパウロはあまり用いないが(ここ以外は 1 コ リ14:25 のみ)、共観福音書や使徒言行録にはよく出てくる10。ここでは「言い広めている」と訳したが、 山内は他の訳例として「あからさまに告げ知らせる、告白、伝達する」を挙げている(山内、1986 年: 244 9 ローマ 1:8; 16:19 によく似た表現が見られる。 10 とりわけルカ文書は福音書に 11 回、行伝に 15 回と群を抜いている。その多くが宣教の文脈で用いられている。

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26 頁)。1 コリ 14:25 は「公けに言い広める」の意味で用いられている。ここでも、そのように理解するな らば、「言い広めている」のはマケドニアとアカイアのみならずあらゆるところの信徒と理解できる可能 性も出てくる。 ὁποίαν εἴσοδον ἔσχομεν πρὸς ὑμᾶς を、多くの翻訳が「私たちがあなたがたのところでどのように迎え入れら れたか」(新共同訳)と受動的に訳している(他にも岩隈訳)。しかし「どのようにして私たちがあなた がたのところに入っていったか」と能動的に訳すほうが直訳に近い(青野訳、田川訳)。ἔσχομεν (ἔχω の 一人称複数アオリスト能動態)は起動動詞(an inceptive verb=開始を表す過去)として「~し始める」と いう意味が含まれている。 9 節 b は、πῶς「いかにして」という言葉以下、テサロニケの信徒たちの回心の事実が述べられている。 δουλεύειν は目的を表す不定詞で、ἔσχομεν を補完する。「たちかえった」と訳した。ἐπιστρέφω は、ルカ文 書に頻出の回心を示すキーワードである。パウロ書簡では、この箇所を除いて2 か所にしか出てこないが、 いずれも信仰の回心を示している(2 コリ 3:16; ガラ 4:9)。また、εἰδώλων は εἴδςλον「偶像」の複数形であ る。εἴδςλον は εἶδος「形」に由来する言葉である。ギリシャ語の用法として、εἴδςλον それ自体はネガティブ な意味を持たない。しかし、LXX では、それは異教の偽神を示す訳語としてネガティブに用いられている。 例えば、それは敵国の神々であり(例: 歴上 10:9; イザヤ 10:1)、「むなしい神々」(詩 96:7LXX[97:7]) であると批判的に述べられている。パウロも旧約からネガティブなイメージを継承している(cf. 1 コリ 8:4; 10:19、ガラ 4:8-9)。 θεός ζῶντι καὶ ἀληθινῷ「生けるまことの神」は、εἴδωλον「偶像」に対抗した言い方であることは間違いな い。「生けるまことの神」という言い回しは、新約聖書にはここしか出てこない。しかし、「生ける神」 は旧約聖書にも他の民の神々に対して自分たちの神を対置する時に用いられている。使14:15 ではパウロ とバルナバはリストラの町で人々に「このような偶像から離れて生ける神に立ち返るように福音を伝えて いる」と述べる。また、「まことの神」はエレ10:10 に出てくる。新約ではヨハネ 17:3 に出てくるのみで ある。 9 節と 10 節はひとつの文であるが、焦点は、9 節では「異教の神々から生けるまことの神への回心」の 出来事にあたっていたのに、10 節では終末の出来事にあたっている。イエスのことが「死者たちから(神 によって)起こされた彼(=神)の子」と言い換えられている。この書簡を書いている時のパウロにとっ ては、十字架の出来事よりも復活の出来事のほうがイエスを言い表すにふさわしいと考えていたことが、 このことから伺える。 ἀναμένειν (ἀναμενέω の現在・不定法)は通常だと「待望する」と訳される。しかし、τὸν υἱὸν αὐτοῦ ἐκ τῶν οὐρανῶν「神の子は天から」と続くので、翻訳するにあたって「降りてくるのを」という言葉を補った。 Ἰησοῦν τὸν ῥυόμενον ἡμᾶς ⸀ἐκ τῆς ὀργῆς τῆς ἐρχομένης「今まさに到来しようとしている怒りから私たちを救う イエス」は、ἐρχομένης は現在分詞で「今まさに到来しようとしている」と訳した。また、ῥυόμενον も現在 分詞であるが、意味としては未来を指している。終末に到来する「神の怒り」については、1 テサ 5:9; ロ ーマ5:9; マタイ 3:7 にも出てくる。

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27 参考文献 <辞書・文法書など>

Bauer, Walter; Danker, Frederick; Arndt, William; Gingrich, F. Wilbur. A Greek-English Lexicon of the New

Testament and Other Early Christian Literature. Third Edition. Chicago: The University of Chicago Press, 2000.

(BAGD)

Blass, F. and Debrunner, A. A Grammar of the New Testament and Other Early Christian Literature. (Revised and Translated by Robert Funk) Chicago: The University of Chicago Press, 1961. (Blass-Debrunner)

Liddell, H.G. and Scott, R. A Greek-English Lexicon,Ninth Edition. Oxford: The Oxford University Pres, 1996. Louw, Johannes P. and Nida, Eugene A. Greek-English Lexicon of the New Testament Based on Semantic Domains

(2 vols). New York: United Bible Societies, 1989. (Louw-Nida) <註解書>

Fee, Gordon D. The First and Second Letters to the Thessalonians. The New International Commentary on the New Testament. Grand Rapids: Eerdmans, 2009.

Melherbe, Abraham. The Letters to the Thessalonians. The Anchor Yale Bible 32B. New Heaven: Yale University Press, 2000. 松永晋一『テサロニケ人への手紙』、日本基督教団出版局、1995 年。 Τ. ホルツ著、大友陽子訳『テサロニケ人への第一の手紙 (EKK 新約聖書註解)』、教文館、1995 年。 <その他の文献> 松永晋一「キリスト者の生き方の特色―信仰の働き、愛の労苦、希望の忍耐 I テサロニケ 1:3 の釈義的研 究」

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