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九州公演実行委員会代表 原武 博之 日本フィルとともに 年 確かあれは民放労連青年婦人部の全国大会の席上だったと記憶しているが これまで放送局の専属として日本のクラシック音楽界を引っ張って来たメンバーが突然の解雇にあい 途方に暮れているという短い 訴え のあと 美しい音楽を奏でてくれた その音色はど

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市民とともに40周年

~日本フィル九州公演~

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   九州公演実行委員会代表 原武 博之    日本フィルとともに 㻠㻜 年 㻌 確かあれは民放労連青年婦人部の全国大会の席上だったと記憶しているが、これまで 放送局の専属として日本のクラシック音楽界を引っ張って来たメンバーが突然の解雇に あい、途方に暮れているという短い「訴え」のあと、美しい音楽を奏でてくれた。その 音色はどんな訴えよりも強い力があった。 東京から遠く離れた九州の地で、日本フィルを応援するために演奏会を開こうという ことになったがマスコミに働く我々にとっても、クラシックの演奏会を開くには全くノウ・ハウがなかった。 熊本ではさまざまな公演に関わる人たちに呼び掛けて、「熊本日本フィルの会」を作って主催した。その時 は一応「争議解決まで」というつもりであった。 ところが和解による解決をみた  年以降も九州公演は続く事になった。演奏会はすっかり九州の地に定 着し、日本フィルファンが根づいてしまっていたのだ。 先日熊本でマロことNHK交響楽団コンサートマスターの篠崎史紀氏と日本フィルのソロ・コンサート・マ スター木野雅之氏とのジョイント・コンサートがあった。木野氏が、その日のプログラムに「東北の大震災被 害者の方々はこれまでの多くのものを一瞬にして失ったが、三年が経ち少しずつ想い出などを作りつつある」 と書いていたその姿と、楽団創立から少しずつ創って来た大切なものを、一瞬にして失ってしまった日本フィ ルとの気持ちが重なって見える。  私が九州公演の実行委員長になった  回目の連絡会議では、各地の実行委員会はもうすでにマスコミ関係 者のみではなく、多くの市民が参加していた。そんななか、毎年開く演奏会の意義を地域ごとに捉え、実行し ている。果たしていつまでこの演奏会は続くのだろうか?という不安を他所に、ボランティアにとって日本を 代表するオーケストラとの結びつきは大きな魅力である。  今、大きな課題として、実行委員会の高齢化と若手の参加者の減少。それと会場に足を運んで下さる聴衆の 減少などがある。しかし私たちは、生の音の素晴らしさを一人でも多くの人々に伝えていくことに喜びを感じ る。そしてまだまだやることは山積している。次の時代を託せる人たちが出現するまで「市民とともに歩む日 本フィル」との歩みが続きそうだ。  九州連絡会議第2回~ 回事務局長  田副正武

〈九州公演 㻟㻡 周年誌の再録〉

㻌 日本フィル九州公演は 㻝㻥㻣㻡 年1月から2月にかけて第一回公演を九州6会場でスタートしま した。㻌 㻌 思えば日本フィルが 㻝㻥㻣㻞 年にスポンサーの援助打ち切り、財団解散という楽団存続の危機 に見舞われる中、日本フィルの灯りを消すなという全国的な支援の輪のひろがりの一環として 日本フィル九州公演は取り組まれたのでした。㻟㻡 周年の取り組みは、運動が大きく盛り上がっ た時期、あるいは停滞したときもあります。しかし、“日本フィルを愛する心”“音楽を愛する心”の連帯で、こうした山を乗 り越えてきました。㻌 㻌 運動の半ば 㻝㻡 周年に一冊の記念誌を作りました。この中に創立指揮者の渡這暁雄氏から次のような一文を寄せてい ただきました。㻌 「㻝㻡 年も続いたことが何よりも素晴らしいことです!日本フィル九州公演を通して市民と共に歩むというこ とを確認し定着させてきました。九州公演は、日本フィルに、そういう生き方が正しいのだという自信を持たせていただき ました。これからも、㻞㻡 年、㻟㻡 年へと向かって手作りの音楽会を続けて参られますよう心から祈ります」㻌 㻌 この文章には、先生の“市民とともに歩むオーケストラ運動”の末永い発展への祈りが込められているように思います。㻌 㻌 世の中の心の荒廃がいわれる今こそ、運動の原点である“市民とともに”“音楽を愛する心”が問い直されているのだと 思います。㻌

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㻌 九州連絡会議第1回事務局長  星野 信

日本フィルの危機はオーケストラの危機㻌

民放労連九州地連青年婦人協議会の会合が 㻝㻥㻣㻟 年 㻝㻞 月、佐賀市内で行われた会議 で「日本フィルがフジテレビと文化放送から契約が打ち切られ存亡の危機にある。放送労 働者としで看過できない。援助できないか」と熱い議論が交わされた。その席には日本フィ ル労組執行委員で第2バイオリンの金本京化さんが「日本フィルの危機はオーケストラの 危機」と存続を願う楽団員と聴衆の思いを語って支援を訴えられた。青年の情熱をかきた てないはずがない。㻌 翌年、青年部を中心に福岡、熊本、長崎、宮崎、大分、鹿児島で実行委員会が結成され、未知の世界へと飛び込ん でいった。㻌 当時、福岡で活躍していた九州交響楽団の定期演奏会の聴衆は 㻡㻜㻜 人と言われていた。㻝㻜㻜㻜 人を超える聴衆を獲 得するのは並大抵ではない。金本さんが「赤字は日本フィルが責任を持ちます」との決断で腹が据わった。取り組むに 当たり8つの目的を確認。①解散の憂き目にあっている日本フィルを支えること。日本フィル労組支援は労働者に分か ってもらえる。②生の演奏を聴く機会を提供できるのは聴衆を増やすことと音楽文化の向上に貢献すること。③地域の 文化向上の発展に寄与することになると地域へ足を運び、共感の輪が急速に広がっていった。㻌 曲目は帝政ロシアの圧政に抗したフィンランド人の魂が込められた「フィンランディア」で幕が開いた。会場はステージ と観客が一体となった興奮の坩堝と化した。㻠㻜 年前のことが今日のようによみがえってくる。市民とともに歩むオーケスト ラとして新たなスタートを切り、聴衆に支えられてきた“継続は力”が今日の礎を築いたのだった。㻌   㻌 九州連絡会議第  回~ 回事務局長  小橋省治 日本フィル九州公演は、民放や新聞社の青年労働者の方々がその中心となり公演の運営 を牽引してこられました。しかし、日本フィルが新たに財団法人として再スタートした 㻝㻥㻤㻠 年か らは、市民参加の実行委員会が各地で誕生し、“市民とともに歩むオーケストラ”をスローガン として掲げる日本フィルと手を携えて≪市民オーケストラ運動≫を展開し、今日に至るまで九 州各地で新しい地域文化運動を継続してきました。㻌 日本フィル九州公演は、最高時には久留米を含めた 㻝㻞 会場で公演を行っていました。しかし、残念なことに、久留米 の事務局長だった梅崎さんが不幸にも山の遭難事故で亡くなって休止になり、田川では秋の中四国公演でも取り組み 年2回公演をした時期もありましたが、高齢化が進み現在休止中になっています。㻌 このように日本フィル九州公演は、まさに良きに付け悪きに付け各地の「実行委員会」によって支えられ、作られてい ます。これは各地の創成期から現在までの長年にわたり支え続けていただいた方々の大きな力無しでは行えませんで した。前事務局長・田副さんは 㻞㻜㻝㻟 年 㻢 月病いで亡くなられましたので、㻟㻡 周年の挨拶を記載させて頂きます。そして 九州公演を立ち上げて頂いた第1回の事務局長星野さんに当時の思い出を語って頂きました。㻌 日本フィル九州公演、これから 㻡㻜 周年をめざしては、新たな道を切り開く事なしに難しくなるでしょう。しかし、日本フィ ルは世界でも例のないこの公演を大切に継続しようとしています。そして、私たち九州各地の実行委員も、お客様た ちとみんなでこの日本フィル九州公演を支えていこうと思っています。 皆さまのご協力・ご支援をよろしくお願い致します。㻌 㻌 㻌 㻌

(4)

九州  周年ご挨拶

日本フィルハーモニー交響楽団の九州全県フルオーケストラ公演が  周年を迎えたことに、特別

な感慨を覚えております。

各地の市民ボランティアが作る実行委員会と日本フィルが共同で企画・制作・運営し、心血を注

ぎ、手塩にかけてつくってきた演奏会が、今年も  地域で開かれます。多くの市民の方々の共感を

得て  年にわたり伝承されていることは、日本のどこにも例がない、真に文化財ともいえるもので

はないでしょうか。

日本フィルの苦難な時代を支えていただいた歴史を経て、今では本物のクラシック音楽を地域の

方々により身近なものとして感じていただき、九州における文化発信の核となる活動に進化してい

るように思います。

単に当日の演奏会だけでなく、室内楽公演も先駆けて行い、学校・病院・社会福祉施設などに生

演奏をお届けしたり、楽器指等も行っています。

「初めて聴いたオーケストラは日本フィルだった」

という声が九州各地で聞かれますが、人と人とのつながりを大切にする“市民とともに歩む”活動

を続けてきた成果であると考えています。永年にわたる活動を支えていただいた現旧実行委員の皆

様にあらためて敬意を表し、ともにこの  年の歴史を礎に、さらなる改革をしながら  年を目指

していきたいと思っています。

ITが急速に発達し人間の心がそれに追いつけない社会、経済発展・効率化が更に優先される社

会にあって、音楽・芸術の役割は益々昴まっていると思います。

音楽のもつ特別な力こそ地域に必要だと感じます。日本フィルはこの力を実感し、確信してきま

した。これからも実行委員会の方々と研鑽を続け、地域とともに次なる文化創造に挑戦していきま

す。高い演奏水準を保ち、温かい心をもつ楽団として、皆様の心に響く演奏をこれからもお届けし

続けたいと思っております。



公益財団法人日本フィルハーモニー交響楽団

理事長 平井 俊邦



(5)

指揮者からのメッセージ

㻌 日本フィル九州公演40周年!!

㻌 なんという輝かしい言葉であろう。

㻌 長きに渡って日本フィルを愛し、励まし続けてくださった九州の皆様の

おつくり下さった奇跡。感動が心にしみる。

㻌 この記念すべき年にすべての指揮台にたてる幸せを実感しながら

㻌 日本フィルともども、皆様の心にいつまでも残る一期一会をお届けしたいと思う。

小林研一郎

(日本フィル桂冠名誉指揮者)

㻌 九州での楽しく充実した日々を懐かしく思い出します。

㻌 コンサートに来て下さった皆さん、訪れたホール、そして各都市で私を大きく

迎えてくれた雄大な自然。すべて、私の心に今もしっかりと焼き付いています。

㻌 九州を、再び訪れたい!その機会が訪れることを願わずにはいられません。

㻌 愛を込めて。

アレクサンドル・ラザレフ

(日本フィル首席指揮者)

(6)

記念すべき 40 周年を迎えるにあたり

福岡公演実行委員会

福岡実行委員会は、九州公演 40 周年を迎えるにあたり、保存されていた各種の資料

を読み返し、今日に至るまでの活動を振り返りました。記録を読み込むにつけ楽団員、

田副さんをはじめとする当時の実行委員の方々のご苦労と情熱を改めて確認すること

ができました。

田副正武さんのこと

2013 年3月 19 日、田副さんの長男・元さんから「父を見舞って

欲しい」との連絡があり早速、福岡大学病院に駆けつけました。

肺炎と胃潰瘍の悪化、パーキンソン病の進行などで人工呼吸器を付け

て弱々しい声でしたが会話をすることは出来ました。田副さんからは、

入院していることや病状などについて、日本フィル(東京)

、福岡実行

委員会、その他関係者、知り合いなどには他言無用と言われました。

3月 20 日に見舞って以来、6月9日午前2時 56 分旅立たれるまで 10 回ほどお見

舞いに行きました。5月 14 日には胃ろうの手術を受け病状は更に進行しました。会話

の内容は世間話もありましたが、その殆どが日本フィルのことでした。九州公演の誘致

に尽力され、長年九州連絡会議の事務局長を務めるとともに、ポスターやチラシの作成

にも携わってこられたからです。「今回はポスターの制作に関われないが、ゲラが出来

たら是非見せて欲しい」が最後の会話となりました。日本フィルと福岡実行委員会、地

元の画壇にとって大きな財産を失いました。77 歳でした。

(大賀)

「森の歌」の取り組みと「福岡日本フィル協会合唱団」の誕生

第 13 回公演(1988 年)では、ショスタコーヴィッチの「森の歌」に取り組みま

した。合唱団は新聞による一般公募でした。合唱団の編成には福岡合唱連盟の力添えを

頂きました。特に男性合唱団については九大生の応援を受け成功を収めました。練習は

毎週一回、福岡市西市民センターで行いました。練習場所の確保や合唱団への連絡など、

当時事務局長だった西さん、事務局専従だった鶴島さんらが中心となり実行委員会が総

力を挙げて取り組みました。当時を振り返って「若かったから出来たんですよね」と。

演奏会本番での少年少女合唱団の澄んだ歌声は今も耳に残っています。

「森の歌」の合唱団は公演後解団しましたが、このまま消えてしまうのは残念と言う

声が高まり、存続したいとの熱意から有志が団を再編成しました。そして、どうしても

団名に「日本フィル」の名前を入れたいとの強い申し入れがあり、日本フィルは熟慮の

末、

「日本フィル」の名称の使用を認めました。こうして「福岡日本フィル協会合唱団」

が誕生しました。その後、同合唱団は二年に一回、定期演奏会を続けています。来年は、

10 回目の定期演奏会を開催されるそうです。福岡公演のチケット販売には、多くの団

員が協力してくれています。

(7)

交響連詩<九州・天地人>との関わり

日本フィルは、

1995 年九州公演 20 周年記念作品の作曲を和田薫氏と秋岸寛久氏

に委嘱しました。両氏は、九州各地を巡り風景や祭り風土などを取材しました。福岡の

実行委員は太宰府天満宮、都府楼跡を案内。金印の志賀島、博多湾に浮かぶ能古島を船

上から見てもらいました。ちょうど、この時期、博多の真夏の最大イベント「博多山笠」

の真只中。どうしても、両氏に男の熱気を伝えたく入手が極めて難しい櫛田神社の桟敷

席を用意しました。両氏は、命がけで山を担ぐ勇壮な男の熱気を肌で感じて感動されて

いたようでした。そうして完成した『交響連詩 九州』は三つの部分で構成され、最後

は「博多山笠」のモチーフにより熱狂的に演奏されました。

また、この年沖縄公演が行われ、福岡実行委員会からも多数参加しました。

実行委員会の取り組みと課題

チケット販売に関して、

ここ数年の取り組みを紹介します。DMは毎年約 4,300

通を郵送し、2014 年の第 39 回公演では 430 枚の注文が有りました。奇しくも一割

です。福岡日本フィル協会合唱団、九州公演特別会員やプレコンサートで回る病院、公

民館、各種団体からは 276 枚。私たち実行委員は 22 人で 410 枚でした。一人当た

り 18.6 枚を販売したことになります。合わせて 1,116 枚。その他、プレイガイドが

349 枚。当日券などを合わせた販売総合計は 1,535 枚でした。総数の 72.7%を実行

委員会絡みで販売出来ました。現在、実行委員は 30 人です。この内、実行委員会に毎

回出席するのは 13 人前後です。しかし、公演日には、ほぼ全員が手伝ってくれます。

今後の課題として、実行委員会にも高齢化が顕著に進んでおり、70 歳を超える人が

随分増えました。チケット販売に関しても友人・知人も年老いていきます。若い実行委

員を増やすことが急務ですが思うようにはいきません。

地域との関わり強化を図る

今後の取り組みとして、プレコンサートなどを活用して地域との関わりや人との繋が

りを日常的に強めて行くことが大切だと思います。特に公民館などとの関わりは有効な

手段だと言えるでしょう。また、運営基盤の確立のためにも、日本フィルの徳田常務理

事から紹介されたTKC全国会との協力関係の構築も積極的に進めて行きます。

<第 40 回福岡公演・実行委員会の体制>

実行委員長=大賀信泰 副実行委員長=麻生博敏 事務局長=大神信彦

事務局次長=西恵美子 九州連絡会議副事務局長=佐野美穂

実行委員=青木大輔 糸瀬孝子 岩隈千代子 大島浩一 鬼塚耕子 大神奈菜子 黒川みの

り 小山早苗 斎藤聡子 笹尾暁 瀬戸美砂子 田代多香子 槻木和也 鶴島悦子 中村良江

永島勝美 星野信 牧洋子 松井ゆきえ 丸山紘充 森山典子 山崎洋美 横山孝雄 和田佳

小里 渡邉佳子

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熱き思いを繋ぐ仲間たちに

~北九州公演実行委員会~

人生によろこびと潤い~わが心の日本フィル <公演継続の情熱と努力に深い感謝> 日本フィル九州公演が40年を迎えたという。で、思わず薄くなった頭に手をやった。あの頃は黒髪 がふさふさだったのに、今や見る影もない。毎朝、鏡の前でフーッとため息をついて1日が始まる。 私と日本フィルとの出会いは、福岡の民放で働く人たちの呼びかけから、39年前のことだ。その若 者たちがひとりの人物に同道、私に「日本フィルとは」を熱く語り、北九州でも公演を、と迫った。名 刺には公演のオルグで日本フィルのバイオリン奏者とあった。私は音楽家と呼ばれる人とは接したこと もなく一瞬、恐れおののいた。それがコトの始まりだった。 忘れられないその人は、すでにこの世におられない金本京花さんである。以後、私はさまざまなこと を教えてもらった。まさに人生の師であり、その死が惜しまれてならない。そういえば公演のステージ でも、親しくしてもらっていた楽員の姿が見当たらない。みんなそんな年齢なのだ。 時々、CD で「シベリウス2番」を聴く。そうすると、あの頃が蘇ってくる。人生によろこびと潤いを もたらしてくれた、わが心の日本フィルハーモニー。気が遠くなるような時間を通して、九州、北九州 での公演に情熱と努力を注いでくれているみなさんに深い感謝を伝えたい。 北九州市門司区在住。 森田 稔(70歳) 第 40 回日本フィル九州公演おめでとうございます。 楽団を一方的に解雇された日本フィルの仲間への支援で始まったのが九州公演でした。私は、北九州 は九州に一年遅れの 1976 年 5 月 27 日の第 1 回、そして第 2 回から第 6 回まで事務局長として北九州公 演に携わってきました。千枚の街頭ポスター、約 8 万枚の街頭ビラ配りなどで小倉市民会館を超満員の 聴衆で埋め尽くされたこと。また、77 年 11 月 8 日の毎日新聞再建闘争支援の東京本社西口玄関前日本フ ィルコンサートや 81 年 6 月 3 日に日本武道館で開催された「日本フィル再建目指す 1 万 5000 人の大音 楽会」に参加したことを思い出します。さらに、映画「日本フィルハーモニー物語・炎の第五楽章」上 映成功など、日本フィルを市民と共に支援してきました。 私はクラシック音楽の素人でしたが、公演の曲目決定に向けて公演毎に十数枚のレコードやCDを買 って聴いたことがクラシック音楽を好きになった要因です。そして、これまでの公演の中で一番好きな 日本フィルの演奏は渡辺暁雄指揮/シベリウスː交響詩「フィランディア」。強く印象に残っているのは「ア ランフェス協奏曲」、ドヴォルザークː「新世界より」です。 日本フィルの発展と活躍を祈念申し上げます。 橋本 眞一 「チラシ、下さい。」と女子高生が寄ってきて、母親と受け取ったチラシを見ながら、曲目などを語り合 う。北九州公演 PR のためのビラ配りのひとコマ。 日本フィルは 84 年3月、12 年にも及ぶ争議が解決し、85 年1月に財団法人として自主運営の形で新 たなスタートを切った。 労働組合が中心に公演を開催してきた北九州では争議解決後「争議が解決したから労働組合の支援も 終わり」「自主運営なので、日本フィルが演奏会を作るべき」など多くの声が聞かれた。そうした中で 85 年の第9回以降、事務局を中心に会議を重ね、10 月の実行委員会総会では9年間の総括と 10 回公演の展 望について話し合った。 私自身がそうであったように、実行委員の中心を担ってきたメンバーは夜勤明けや実行委員会後のポ スター貼り、街頭ビラ配布など、公演成功に向けたひどい取り組みを重ねても「争議が解決しても公演 を止めることはできない」との思いがあった。それは文化が育たないと言われる北九州でも公演を支え る多くの聴衆がいることを目の当たりにし、楽団員と酒を酌み交わし交流を深めた日々が忘れられない からだったかもしれない。 いつの間にか日本フィルとクラシック音楽が好きになっていった。今でも車では日本フィルの演奏か サザンの曲が流れている。 益野 康一 日本フィル九州公演、ひとつの運動が引き継がれて40年を迎える。 私も、1978 年、労組からの派遣という形で実行委員会に参加し、今日に至っています。 21才から、人生の約3分の2を日フィルと過ごしたことになります。 この年に、宮崎で第1回のシンポジウムが開かれ、楽団員、実行委員共に、音楽会作り、仕事、運動 と、人としての生きざまが熱く語られていたと聞く。 争議の支援の中の音楽会作り。ポスの貼り出し、チラシの配布、配券、点検活動、北九州の新聞の仲 間たちと駆けた日々。実行委の人たち、東京からのオルグの人、皆が熱く、私の労組、青婦部活動とも 重なり、多くのことを教わった。 シンポジウムの参加は、第2回の久留米が初めてです。楽団員の方も多く参加され、「文化」という言 葉で、音楽会作りが話されていた。地域の活動の中で、映画「炎の第五楽章」の上映運動なども行って いくなど、日フィル運動の大きな高揚の時期だった。また、私の熱い青春でした。 1983 年、争議解決後の、第4回シンポは、「ほんものの文化を求めて」と題して佐賀北山湖畔で行われ た。このシンポで、確認、共有された目的、目標が、のち九州40年を支えたと思う。 生活の中に音楽があり、音楽を通じて、夢、希望、勇気、人として大事なものが育まれていく。 私自身も、労組という団体を離れ、ひとりの市民として日フィルの運動に参加する契機でした。 この運動を熱く語る。40年から50年へとバトンがつながっていくことと思います。 谷﨑 幸雄 福岡県立戸畑高校 福岡県立北九州視覚特別支援学校 福岡教育大学附属小倉小学校 北九州市立吉野中学校 北九州市立飛幡中学校 北九州市立南曽根中学校 北九州市立丸山小学校 北九州市立錦町小学校 北九州市立深町小学校 北九州市立葛原小学校 北九州市立南丘小学校 北九州市立小倉北特別支援学校 北九州市立文学館 レディスやはた北九州市立西部勤労婦人センター 錦町市民センター 遠賀南学童保育クラブ 社会福祉法人浅木会南部保育園 社会福祉法人門司民生事業協会 清滝保育所 社会福祉法人愛香会 愛香苑 社団法人 門司ゴルフ倶楽部 門司赤煉瓦プレイス 出光美術館(門司) 末永産婦人科麻酔科医院 愛光幼稚園 NTT レトロ電気通信資料館 門司港老松消防分署

ミニコンサート訪問先(順不同/過去10年間)

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熱き思いを繋ぐ仲間たちに

~北九州公演実行委員会~

人生によろこびと潤い~わが心の日本フィル <公演継続の情熱と努力に深い感謝> 日本フィル九州公演が40年を迎えたという。で、思わず薄くなった頭に手をやった。あの頃は黒髪 がふさふさだったのに、今や見る影もない。毎朝、鏡の前でフーッとため息をついて1日が始まる。 私と日本フィルとの出会いは、福岡の民放で働く人たちの呼びかけから、39年前のことだ。その若 者たちがひとりの人物に同道、私に「日本フィルとは」を熱く語り、北九州でも公演を、と迫った。名 刺には公演のオルグで日本フィルのバイオリン奏者とあった。私は音楽家と呼ばれる人とは接したこと もなく一瞬、恐れおののいた。それがコトの始まりだった。 忘れられないその人は、すでにこの世におられない金本京花さんである。以後、私はさまざまなこと を教えてもらった。まさに人生の師であり、その死が惜しまれてならない。そういえば公演のステージ でも、親しくしてもらっていた楽員の姿が見当たらない。みんなそんな年齢なのだ。 時々、CD で「シベリウス2番」を聴く。そうすると、あの頃が蘇ってくる。人生によろこびと潤いを もたらしてくれた、わが心の日本フィルハーモニー。気が遠くなるような時間を通して、九州、北九州 での公演に情熱と努力を注いでくれているみなさんに深い感謝を伝えたい。 北九州市門司区在住。 森田 稔(70歳) 第 40 回日本フィル九州公演おめでとうございます。 楽団を一方的に解雇された日本フィルの仲間への支援で始まったのが九州公演でした。私は、北九州 は九州に一年遅れの 1976 年 5 月 27 日の第 1 回、そして第 2 回から第 6 回まで事務局長として北九州公 演に携わってきました。千枚の街頭ポスター、約 8 万枚の街頭ビラ配りなどで小倉市民会館を超満員の 聴衆で埋め尽くされたこと。また、77 年 11 月 8 日の毎日新聞再建闘争支援の東京本社西口玄関前日本フ ィルコンサートや 81 年 6 月 3 日に日本武道館で開催された「日本フィル再建目指す 1 万 5000 人の大音 楽会」に参加したことを思い出します。さらに、映画「日本フィルハーモニー物語・炎の第五楽章」上 映成功など、日本フィルを市民と共に支援してきました。 私はクラシック音楽の素人でしたが、公演の曲目決定に向けて公演毎に十数枚のレコードやCDを買 って聴いたことがクラシック音楽を好きになった要因です。そして、これまでの公演の中で一番好きな 日本フィルの演奏は渡辺暁雄指揮/シベリウスː交響詩「フィランディア」。強く印象に残っているのは「ア ランフェス協奏曲」、ドヴォルザークː「新世界より」です。 日本フィルの発展と活躍を祈念申し上げます。 橋本 眞一 「チラシ、下さい。」と女子高生が寄ってきて、母親と受け取ったチラシを見ながら、曲目などを語り合 う。北九州公演 PR のためのビラ配りのひとコマ。 日本フィルは 84 年3月、12 年にも及ぶ争議が解決し、85 年1月に財団法人として自主運営の形で新 たなスタートを切った。 労働組合が中心に公演を開催してきた北九州では争議解決後「争議が解決したから労働組合の支援も 終わり」「自主運営なので、日本フィルが演奏会を作るべき」など多くの声が聞かれた。そうした中で 85 年の第9回以降、事務局を中心に会議を重ね、10 月の実行委員会総会では9年間の総括と 10 回公演の展 望について話し合った。 私自身がそうであったように、実行委員の中心を担ってきたメンバーは夜勤明けや実行委員会後のポ スター貼り、街頭ビラ配布など、公演成功に向けたひどい取り組みを重ねても「争議が解決しても公演 を止めることはできない」との思いがあった。それは文化が育たないと言われる北九州でも公演を支え る多くの聴衆がいることを目の当たりにし、楽団員と酒を酌み交わし交流を深めた日々が忘れられない からだったかもしれない。 いつの間にか日本フィルとクラシック音楽が好きになっていった。今でも車では日本フィルの演奏か サザンの曲が流れている。 益野 康一 日本フィル九州公演、ひとつの運動が引き継がれて40年を迎える。 私も、1978 年、労組からの派遣という形で実行委員会に参加し、今日に至っています。 21才から、人生の約3分の2を日フィルと過ごしたことになります。 この年に、宮崎で第1回のシンポジウムが開かれ、楽団員、実行委員共に、音楽会作り、仕事、運動 と、人としての生きざまが熱く語られていたと聞く。 争議の支援の中の音楽会作り。ポスの貼り出し、チラシの配布、配券、点検活動、北九州の新聞の仲 間たちと駆けた日々。実行委の人たち、東京からのオルグの人、皆が熱く、私の労組、青婦部活動とも 重なり、多くのことを教わった。 シンポジウムの参加は、第2回の久留米が初めてです。楽団員の方も多く参加され、「文化」という言 葉で、音楽会作りが話されていた。地域の活動の中で、映画「炎の第五楽章」の上映運動なども行って いくなど、日フィル運動の大きな高揚の時期だった。また、私の熱い青春でした。 1983 年、争議解決後の、第4回シンポは、「ほんものの文化を求めて」と題して佐賀北山湖畔で行われ た。このシンポで、確認、共有された目的、目標が、のち九州40年を支えたと思う。 生活の中に音楽があり、音楽を通じて、夢、希望、勇気、人として大事なものが育まれていく。 私自身も、労組という団体を離れ、ひとりの市民として日フィルの運動に参加する契機でした。 この運動を熱く語る。40年から50年へとバトンがつながっていくことと思います。 谷﨑 幸雄 福岡県立戸畑高校 福岡県立北九州視覚特別支援学校 福岡教育大学附属小倉小学校 北九州市立吉野中学校 北九州市立飛幡中学校 北九州市立南曽根中学校 北九州市立丸山小学校 北九州市立錦町小学校 北九州市立深町小学校 北九州市立葛原小学校 北九州市立南丘小学校 北九州市立小倉北特別支援学校 北九州市立文学館 レディスやはた北九州市立西部勤労婦人センター 錦町市民センター 遠賀南学童保育クラブ 社会福祉法人浅木会南部保育園 社会福祉法人門司民生事業協会 清滝保育所 社会福祉法人愛香会 愛香苑 社団法人 門司ゴルフ倶楽部 門司赤煉瓦プレイス 出光美術館(門司) 末永産婦人科麻酔科医院 愛光幼稚園 NTT レトロ電気通信資料館 門司港老松消防分署

ミニコンサート訪問先(順不同/過去10年間)

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日本フィル大分公演実行委員会

九州公演40周年、心からお祝い申し上げます。大分公演実行委員会事務局長をしております

村津孝仁と申します。実行委員では最も若輩者ではありますが、新社会人となった1999年以

来15年間、毎年何らかの形で大分公演に携わっております。日本を代表するオーケストラに毎

年欠くことなく大分の地で演奏していただけること、その輪の中に毎年に関わらせていただける

ことに改めて喜びと感謝を感じています。

★変わり行く大分市中心部での演奏会

私が初めてお手伝いしたのは2000年の九州公演だったと記憶しております。長年演奏会場

だった大分文化会館から、大分が誇る麦焼酎「いいちこ」の名前を冠に持つ iichiko グランシア

タに移ってまだ間もない頃、真新しい建物独特の匂いの中で肌震わせる響きに圧倒されたことを

今でも覚えています。

あれから15年が経った来春、演奏会場周辺の大分市中心市街地は100年に1度と言われる

変化の年を迎えます。建設中の大分駅ビルが3月開業予定、そして演奏会場の道向かいには大分

県立美術館が 4 月にオープンします。さらには駅と演奏会場と美術館の3箇所、道のりにして徒

歩15分ほどの距離すべてが屋根の下につながります。こうした新しい始まりの目前に40周年

の記念公演が行われることに不思議なご縁と、この先50周年、60周年に向けた明るい予感を

感じさせずにはいられません。

★大分公演実行委員会

大分県には、全国で唯一の芸術系公立短大としてスタートした大分県立芸術文化短期大学があ

り、昭和36年の開学以来大分県の芸術文化を支え続けています。大分公演にあたってはそこで

長年教鞭を執っていらした先生方にも、多数実行委員としてご尽力いただいています。長年実行

委員長を務められていた加藤公康大分大学名誉教授が平成23年に退任、新たに大分で多くのヴ

ィオラ奏者を育てられた内田博先生を実行委員長に迎え、心新たなスタートを切りました。メン

バーには大きな変化はなく、みなさんそれぞれに年を重ねておりますが、最年少38歳の私が圧

倒されるほどの情熱をお持ちです。私も実行委員会にフレッシュな風を吹かせるべく職場でクラ

シック音楽好きも若手がいないか常日頃から目を光らせております。

★音楽家を目指すきっかけになった演奏会

私は放送局に勤務しており、月 2 回大分銀行で開催されているコンサートを収録、放送する番

組を担当しております。先日、大分市出身のコントラバス奏者 小野聡美さんが出演された時の

(11)

ことです。番組の収録時に小野さんが音楽の道を志すきっかけとなったのが、中学生の時に聴い

た日本フィルの大分公演だったというお話を聞きました。中学生だった小野さんは生のオーケス

トラの迫力、特にコントラバスの響きに深い感銘を受けたそうです。そして演奏を聴いた直後の

その足で団員のコントラバス奏者田沢氏のもとへ「コントラバスを教えてください」と思いを伝

えに行ったと聞きました。その後小野さんは東京藝術大学へと進み、現在は東京を中心にフリー

のコントラバス奏者として精力的に活動されています。日本フィル九州公演40年の歩みは若者

たちに音楽の種を蒔いているのだと実感した出来事でした。

★演奏会後のお楽しみは

これまでの大分公演、演奏会後に欠かせなかったお店が「KOSAKA」でした。演奏会場にほど近

い繁華街の中にあったこのお店に、毎年レセプションを終えた団員の皆さんと実行委員がなだれ

込み、深夜まで笑い声が途絶えることがありませんでした。心から音楽を愛するマスターの前に

は重厚な木のカウンター、テーブル席は満席で立ち飲み席もできるほど。楽器を持ち込んだ団員

の方が演奏を披露してくださるのも恒例行事でした。その KOSAKA も5年前に閉店。大分公演を

毎年楽しみにしてくださっていたマスターも他界されました。大分公演に欠かせなかった灯がひ

とつ消えたようで実行委員のひとりとして大変寂しい思いをいたしました。しかし、現在のレセ

プション会場も小さなステージの上にピアノや打楽器が常備されており、前々回の公演後の打ち

上げではトロンボーン首席奏者の藤原功次郎氏がピアノの即興演奏を披露してくださるなど、場

を大いに盛り上げていただきました。「大分の夜はどこにも負けない」気持ちでこれからも団員

のみなさまとの交流を続けさせてもらえればと思っております。

★課題として

大分公演はここ数年チケット販売が非常に苦戦しており、申し訳なく、心苦しく思っておりま

す。実は大分県は年末から年度末にかけて毎月のようにオーケストラの公演があり、日本フィル

九州公演の日程はその真只中に位置しております。多数の演奏会が組まれていることは一聴衆と

しては大変喜ばしいのですが、実行委員としては悩ましいところです。この状況を打破するため

には「市民とともに歩む」日本フィルのカラーを実行委員会としてどう強調していくか、そして

若い世代の新たな聴衆をいかに取り込むかにかかっていると考えています。九州公演の新たな歴

史が輝かしいものとなるよう、諸先輩のお知恵とパワーをいただきながら努力してまいる所存で

す。この先10年、20年と変わらぬ末永いお付き合いをどうぞよろしくお願いいたします。

大分公演実行委員会 事務局長 村津 孝仁

(12)

日本フィル宮崎公演 実行報告

事務局長:髙橋 健太

日本フィル九州公演の 40 年という長い歴史を語るには私の経験はあまりにも少ないとい

えるだろう。初めてクラシック音楽に関心を持つようになったきっかけは中学校一年、音

楽の授業で聴いた「モルダウ」であった。初めて感じるその力強さに感激したのを覚えて

いる。ただ学生時代は勉強や部活に汗を流す日々であり、クラシック音楽に関わるような

こともほとんどなかった。

そんな中、大学生になった私にとある話が持ちかけられた。当時宮崎の実行委員会に所

属していた方から公演当日、少しお手伝いをしてほしいとのことであった。クラシックコ

ンサートというものを生で聴いた経験のない私はあわよくば当日聴けるのでは…という下

心をひそかに抱きつつ、助人を引き受けたのであった。初めての楽器搬入、来客の対応と

緊張はしたものの、クラシックに関わっている実感を得たことに喜びを感じつつ、忙しく

も楽しい時間を過ごしたのを覚えている。

日本フィル九州公演に初めて参加したのが第 35 回。その後も毎年当日の手伝いをする形

で実行委員会との関わりは持っていたのだが、第 38 回公演後の交流会で、衝撃の事実を知

らされることとなる。宮崎実行委員会の解散である。当日のみではあったが、毎年実行委

員会のメンバーとともに活動できることを楽しみにしていた私にはこの事実はあまりにも

ショックが大きかった。日本フィルが宮崎にもう来なくなるのか。宮崎であの公演を聴く

ことができなくなるのか。様々な思いが私の中を巡ったが、その中でもひとつはっきりと

した考えがあった。そんなこと納得できない!

昨年8月、私は宮崎のとあるホテルにいた。前実行委員会の方に呼び出され、賀澤さん・

鹿児島実行委員会の二反田さんと宮崎公演の今後について話し合いをし、新しく事務局長

に就任することになった。新・宮崎実行委員会の誕生である。とはいえ前述したとおり実

行委員会の活動に関しては右も左も分からず、誰かの手を借りないと一歩も動き出せない

状態であった。そこで助っ人として日本フィルOBの蒲谷隆行さんが急遽宮崎に住み込み

でサポートをしてくれることとなる。日中動けないことが多く、また休みが不定期で土日

祝日に休みの取れない私の代わりに宮崎の実行委員会として尽力してくれた。プレコンサ

ートや当日までの様々な手続等私の手の届かない部分のサポートや、当日まで広告や宣伝

を積極的に行ってくれた。また、それ以外にも各県実行委員会の方々、前実行委員会の方々

のお力添えで初めての事務局長としての宮崎公演は無事終えることとなった。

(13)

宮崎実行委員会として初めての公演を行い、たくさんの課題も見つかった。来年は日本

フィル九州公演が 40 周年という節目の年を迎えることとなり、この時に事務局長として日

本フィルを宮崎に迎えることができることを非常に光栄に思う。今回は前宮崎実行委員会

の方々も再び正式にメンバーとして迎えることとなり、昨年以上に宮崎公演を盛り上げて

いきたいと考えている。そしてまた 10 年後、20 年後も日本フィル九州公演を地元宮崎の地

で見届けていけたらと考えている。

話は変わるが、私は宮崎に日本フィルが毎年公演に来るという事実を実行委員会に関わ

るまで全く知らなかった。クラシック音楽に関心を持つ人間が決して多いとは言えない宮

崎でも、私のように日本フィル九州公演の存在を知らないという人は多くいるのだと思う。

そのような人にいかにしてこの公演の存在を伝えていくのかが、今の私の成すべき課題で

はないのだろうか。そうすることにより本来、日本フィルが掲げているテーマである“市

民とともに歩むオーケストラ”に近づいていくのではないだろうか。これからも続いてい

くであろう日本フィルとのかかわりの中で、私のようにクラシック音楽に関心を持ち、関

わっていく人が少しでも多くなっていけばと考えている。

最後になるが、私のようにクラシックについて、深くかかわってこなかったような人間

を実行委員会として受け入れてくれた日本フィルの皆様、宮崎実行委員会の皆様、宮崎公

演の灯を消すまいと協力していただいたすべての方々にこの場を借りて心よりお礼を申し

上げたいと思う。

(14)

日本フィル

鹿児島公演実行委員会

ご挨拶

日本フィル九州公演 40 周年

まことにおめでとうございます。

このたび前実行委員長故森本雅樹先生の後任を

拝命しました平田宗興です。

鹿児島大学に着任されたころから偉大な学者に

して少年のような先生の大ファンになりました。

日フィル鹿児島公演実行委員長に就任されてか

ら私は特別会員になりました。

鹿児島を離れても先生の日フィルへの応援は続

きました。なんということでしょう、プレコンサ

ート成功の宴の翌朝帰らぬ人となりました。

森本先生が他界されて2回目のコンサートが行

われた2年前、楽団員や実行委員会から実行委員

長にとのオファーを戴き、快く委員長をお引き受

けしました。

九州公演は楽団と市民が一つとなり運営されて

きました。素晴らしい伝統を継承するため全員で

頑張ります。

鹿児島演奏会のこの 10 年間を振り返っ

てみますと、2010 年に森本実行委員長が公

演活動中に急逝されるという悲しい出来事

がありましたが、演奏会自体は会場の宝山

ホールを 2 回も満席にできたほか、平均し

て 80 パーセント以上の入場率で、毎回盛況

の内に推移してまいりました。

また、九州公演を支えてくださる特別会

員の数も大幅に増えて 19 の法人、個人にな

りました。そして、日本フィルは一昨年春

に公益財団法人化を成し遂げることがで

き、新たな出発を致しましたが、これにも

皆様方から多くの善意をお寄せいただきま

した。

このように日本フィルを、あるいは日本

フィル九州公演を支えてくださる皆様方の

お力と運動の高揚をひしひしと感じながら

活動できた 10 年でした。

不安材料として実行委員会の高齢化があ

りますが、鹿児島大学の学生のサポートは

大きな力になっています。

これからまた、体制を整えながら次の 10

年に向けて邁進してまいります。さらなる

ご支援とご協力をお願い致します。

長い間、恒例の秋の訪問演奏の際、特別会員や病院、学校

などを訪問する一方で有料のミニコンサートを行っていました。

ちょっと趣向を変えて、昼間に音楽をお茶とケーキで楽しむ

「午後のくつろぎコンサート」を開くようになって 10 回を数

えます。夜の本公演に出掛けにくい皆様にも、堅苦しくなくて

楽しめると評判になっていま

す。始めた頃は試行錯誤しな

がら開催会場も転々としまし

たが、最近は桜島を目の前に

臨む素敵な所に落ち着きました。演奏会終了後はお花やお酒など

のプレゼント抽選会もあります。演奏者からお花をいただき、握

手をしてもらうとき、会場がいっそう和やかになります。多くの

方々が演奏者との心の触れ合いに感激して、本公演にも足を運ん

でくださるようになって

います。

2005・12・5 訪問コンサート会場にて 学校訪問演奏 2013・12・9 午後のくつろぎコンサート 2012・12・14

☆「午後のくつろぎコンサート」と訪問演奏

前実行委員長森本雅樹 現実行委員長平田宗興

(15)

♪クラシックギタークラブ

私たち鹿児島大学クラシック

ギタークラブは毎年実行委員と

してお手伝いをしています。

実行委員の方々や楽団員の方々

はとても親しみやすく、楽しく活

動をさせていただいています。

プロの方々の演奏を間近で見る

ことができ、私たちの音楽の幅が

広がる良い機会となっております。

今回の記念すべき公演にも携わることができてうれし

く思います。

(3 年 山下実希・朝田奏子)

♪吹奏楽団

鹿児島でプロのオーケストラを聞

く機会があまりないので、とても

いい経験になりました。

自分は小学生の時からトランペ

ットをしていたので、プロの方の

音楽を聞いて多くのことを学ぶこ

とができました。

また鹿児島でプロの方の演奏を

聴く機会があまりない中その運営

を手伝えてとてもよい経験になり

ました。

鹿児島実行委員会では、いろいろな係を分担しながら持ち場を守っていくことを活動の要としてい ます。また、鹿児島大学の二つのサークルと一緒に活動しています。なかでもクラシックギター部は、 今となっては部の伝統となっているほどです。近年、クリニックの縁で吹奏楽団も参加しています。 卒業後もそのまま実行委員として参加しているメンバーもいます。

☆チケット案内窓口から

特に人気のある席には希望が殺到

します。鹿児島宝山ホールの場合、

12 列の 21・22 番は年平均 5、6 件、多

い年は 15、6 件もダブります。近く

に席が空いているとよいのですが、

離れた席を指定して発送すると、苦

情が来ます。感謝される事はそうは

ありません。また、チケットの受付

が始まると家を気兼ねなく空ける事

が出来ないことも大変です。ただ、

受付をしていると、世の中には色々

な価値観を持つ人がいるなと思いつ

つやっています。(春成 隆)

☆会場整理・案内の思い出

第 36 回公演は第 31 回に次ぐチケット完売ということで

記憶に残る公演となりました。

前年 11 月に実行委員長の森本先生が急逝され、実行委

員一同悲しみに陥りましたが、実行委員会への参加率も高

く、久々の日曜日公演ということもあり宣伝をはじめ準備

活動でも奮闘しました。チケットは公演の1週間前に完売

し、当日の立ち見席も多数となりました。

私は当日運営では主に会場整理・会場入り口付近を担当

しています。4、5 年前、鳥インフルエンザと口蹄疫が流行

した年は、会場入口に消毒マットを踏んでいただく必要が

あり、お客様が躓かれたこともあって案内に苦労しました

が、幸いに皆さん無事に入場されたのでほっとしたことが

印象的です。

(野元幸一)

<あとがき>未来を展望するとき、過去の足跡は大切な道標となります。今となってはもう会えない方々 も多数おいでです。この 40 年の間に携わってこられた皆さまに遺していただいたものを大事にしながら、 この先 10 年、さらにその先に続く時間に新たな模索をしていきます。私たちはひとりでも多くの方々に 心に響く音楽を届けることを無量の喜びとして活動しています。回を追うごとに大きくなっていく支援の 輪に感謝し、実行委員一人ひとりの行動力を結集してみんなで歩み続けていきたいものです。(真)

♪クラシックギタークラブから実行委員に

僕が入部した 1992 年頃には毎年誰かが日フィルを手伝っ

てて、先輩から話を聞いた時に面白そうだなぁ、と、簡単な

考えで参加しました。毎年誰か一人は新入部員から出さない

といけない、って言われた記憶がなくもないですが。

あの頃は日フィルの団員もツアーを楽しんでたから各地

で実行委員会やお客さんと積極的に交流してくれたし、それ

でこちらも手伝いがいがありました。

(新田浩之

談)

DM 発送作業風景 学校訪問 2011・9・6

(16)

出会い・・・語り・・・感動・・・別れ・・・涙・・・そして笑顔で 40 年!

熊本日本フィルの会

下田和喜:日本フィル支援の取り組みは、いろんな面で糧となり、私の人生に大きな影響を与えてくれた。40 周年の九州公演が終わると 定年を迎える。会社、労働組合、熊本日本フィルの会のメンバー、そして日本フィルに感謝。“市民とともに”これからも大切に。 原武:事務局長を経て現在代表を務める。熊本は九州公演開始以来のメンバーが多いなか、20 代から身を投じて、今や 66 歳。月日の流 れを、日本フィルを通じて何かを得て欲しいと「楽しい事務局、魅力ある事務局」をモットーにしている。 木村:30 周年の時に「30 回九州公演を機に熊本日本フィルの会事務局長を辞める事に決めた・・・」と書いていた。2 年間の限定付きで 引き受けた事務局長も 22 年になってしまった。交響連詩「九州」の創作に燃えた 20 回、託児数が 30 人を超えた日曜日のモーツァルト、 2000 年合唱団と共演した第九、くじ運がなく八代公演となった 37回等々、一年一年の積み重ね。会議の度に白熱する議論、難題に「や ってみよう」という懐の深い地域、個人商店で頑張っている地域。深夜まで語り合い、なぜか赤字になっても楽しくなるお酒だ。 安藤:いきなり「新しく入られた安藤さんです」と、事務局に紹介され、のこのことご馳走につられ出かけたのが間違いの始まり。以来 36 年。チケットを売らねばと、冬の夜のポスター貼り、仕事ついでのチラシ配り。それは、事務局の仲間との交わりが楽しいからだ。 大久保:高齢化気味のメンバーだが、様々な年代や職業、それぞれ趣味趣向の違うクラシック音楽好きが集まる事務局。作業中のおしゃ べり、アフタードリンクに盛り上がる定例会に肩の力が抜けて行く。真綿のように優しい圧力がかかるチケット売り、でもそれも肝心。 広野:全くの畑違いから 20 年前に参加。コンサートまでの苦労と、オーデンでの反省会の楽しさ。年に一度のコンサートに来てくれる 知人、友人とは良い人間関係が出来ている。親しい楽団員が退団されていくのは淋しいが、新しいメンバーが頑張っているのは心強い。 吉畑:熊本労音の重鎮。九州公演当初は音楽会など一度も開いたことがなかった実行委員のなかでも、その指導的立場。今でもその協力 体制は変わらず、事務局を RKK から労音に移すなど、比重はますます高まっている。(事務局談) 卯野木:第 4 回の福岡公演から参加、熊本へ移って 20 年。第 37 回は計らずも故郷八代での公演となり、感動!「昭和臭さの音響」とい う指揮者の評にホールの素晴らしさを改めて実感。八代でも生の音楽をと活動を始め、毎年 1 回の室内楽を日本フィルの協力で実現。 吉岡:39 回公演のアンケートをきっかけに、この会に参加された事務局の新人(笑)ぜひ皆と長くお付き合いいただきたい。(事務局談) 服部佳子(服部秀幸):熊本日本フィルの会立ち上げの年にスタートした社会人人生。皆若く、ワイワイ飲んで食べてしゃべって…学生 のサークル活動のようだった。かつては観客だった人たちも沢山加わり、素晴らしい音楽のご褒美付きで、変わらぬメンバーと活動中。 下田友美: 41 年前、九州朝日放送の会議室に現れた、石井啓一郎氏と三好明子さん。芸術家とはかくありなんという佇まいの二人から 出た日本フィルへの支援要請の言葉。何とか応援したい!これが私の原点だ。その当時を良く知る団員さんの多くが定年退職された。

(17)

豊田:日本フィルの会発足当時から、いつも事務局を置いていた熊本放送組合事務所にいてくれて、あらゆる作業は勿論、様々な連絡、 メンバーのよろず相談、愚痴等の聞き役としても無くてはならない存在だった。まさに「縁の下の力持ち」!!(事務局談) 瀬尾:30 年前、当時住んでいた宮崎で見た「炎の第五楽章」。それからコンサートに行くようになり、熊本に移った後 2000 年に「日本フ ィルと第九を歌う」という幸せな経験からこの会に参加することになった。小学生だった娘も社会人。母娘で幸せな時を過ごしている。 宮崎のり子(宮崎健一):第 1 回九州公演の前年、日本フィル支援のキャンドルコンサートで出会った夫と結婚し、北海道から熊本に来 て 40 年。地方でも良い音楽をと九州公演のお手伝いをしている。中でも 2000 年、満席での第九の公演に参加できたのは、本当に一生の 想い出となった。今では息子夫婦も、札幌で日本フィルの公演を楽しんでいる。これからも音楽で豊かな人生を送るために続けたい。 元田:寒くて何もない 2 月に必ず来てくれる日本フィルがとても楽しみだった。その後「炎の第五楽章」を見て、その苦難の歴史を少し 知った。沢山の素晴らしい指揮者やソリストの演奏を聴くことが出来たが、今後は管楽器やギター、バンドネオンも聴けたら最高だ。 和やかにDM作り 市中心部の現代美術館でプレコンサート 当日のチラシ入れ作業中 <写真撮影当日、会議に参加できなかったメンバーたち> 木庭:熊本日本フィルの会のメンバーは、若かりし頃とても遊び好きだった。九重登山、能古島キャンプ、コンサート終了後の 2 次会で のおしゃべり。どれも心楽しい想い出だ。今は亡き「おばん」こと長曽我部さんに教わった手羽先の美味しさ。下田さんと交わした「畳 屋の倅にクラシックがわかるのか?」の議論。今では皆、老老介護を気にする年代になったが、気持ちは若く 40 周年に向け頑張ろう! 山口和也(山口真紀子):福岡での学生時代、毎年友人と日本フィルコンサートに行っていた。4 年時、演奏会後の交流会で、バイオリン の石井啓一郎さんから「九州公演の事務局に入れ」と命令調(笑)のお誘い。卒業後、熊本に帰って、熊本日本フィルの会に顔を出すよ うになり、活動を通して妻もゲットした。日本フィルに振り回された感もあるが、今では石井さんの強引な勧誘に感謝している。 江藤:労音会員で、元、国労組合員。現在気象協会に勤務。気になる演奏会当日の天気や列車の乗り継ぎなどはお任せ!熊本日本フィル の会の重要な情報源である。(事務局談)

他に、熊本の事務局関連のあれやこれやをパソコン管理してくれる山下桂一さん、仕事と郷土の音楽家を両立させ、熊本で活躍中 の光永さん、プレコンサートで毎年素晴らしい会場を快く提供してくださる渡辺夫妻、今は事情があり事務局から離れているが、軽快 な会話でいつも明るい佐藤明子さん、復帰を待ってます! 残念ながら途中亡くなられた長曽我部さん、大森さん・・・感謝! <熊本出身日本フィル楽団員からのメッセージ> 本田純一さん(Vn):九州公演 40 周年、自分も入団 30 年を超えた。故郷熊本で毎年演奏する機会を得ている。小さい頃からジュニア オーケストラ、ソロと、自分に向い「大丈夫、緊張しないぞ」と、必死におまじないをかけていたことを思い出す。素晴らしいホールが 増え、日本フィルのファンが増えることを祈りながら演奏をしている。次は 50周年に向けて! 原川翔太郎さん(Horn):熊本公演も早いもので、僕自身 4 度目になる。年に一度故郷に帰ってこれる。とても嬉しい!幼少時、野球に 夢中だった頃、将来ホルン奏者になるなんて想像もしていなかった。人生は不思議なものだ。大学 4 年の教育実習で、母校大津高校の先 生から「あたはそぎゃんせまか部屋に住んどっとね?外輪山の中に東京 23 区は入るとだけん、たいぎゃこまかよね!大きく目標持たに ゃんばい。また帰ってきなっせ」と言われた。第 40 回九州公演は、故郷に感謝し特別な思いを込めて演奏したい。

(18)

「日本フイル長崎公演 ~ 40 年のあゆみ~」

長崎日本フィルの会 代表 河野英雄

■日本フイル九州公演の 「原点」

 日本フィル九州公演の 「原点」 は、昭和 49 年 6 月、佐賀駅前の 「千代田荘?」 で、 開催された民放労連九州 地連青年婦人部の会議である。「日本フィル」 が、 フジテレビの支援打ち切りで、 存続の危機にさらされており、 同じ民放に働くものとして、 九州でも、日本フィルを支援するコンサートを開きたい とする青年婦人部執行部の提案を、九州の民放各局の組合代表が、 承認するかどうか論議が行われた。当 初は、組合がクラシックコンサートを開いて赤字を出したら、かえって負担をかけるのでは~など否定的な意見 も多かったが、 この会議のために、 東京から、 夜行列車で駆け付けた日本フィルの金本さんの、切々とした、 思い に溢れた話が、出席者の心を動かし、「とにかく、1回だけでも、ガンバレ日フィルコンサートをやろう」 という ことに決まった。私も、 その場で、「みんなで、 バカになってやれば、 なんとかなりますよ」 と、 ぜひ開催しよう と、 発言した責任を、 今なおとっている。 それにしても、 まさか、 その後 40 年続くとは‥!今は亡き、金本さんの、 眼鏡の奥の、 やさしい、思いに溢れたまなざしを、 思い出す。

■超満員の第 1 回公演

 第 1 回日本フィル九州公演の初日 ( 昭和 50 年 1 月 27 日 ) は、 長崎。1752 席の長崎市公会堂に、当日立聴 券を 50 枚以上出して、 超満席。渡辺暁雄指揮の 「フィンランディア」 の力強い演奏が始まった瞬間の、 身の震 えるような感動、 感情は、 忘れることができない。地元長崎新聞の、 当時の学芸部長宮川密義氏が、 演奏会 が終わった直後 「労働組合や、 若者が主催して、 クラシックのコンサートが満員なったのをはじめて見た。その 「ヒミツ」 を、 ぜひ新聞に書いてくれ」 と言われた。私は、 協力して下さった、 全ての人への感謝の気持ちを込め て 「長崎は話のわかる街」 という原稿を書いた ( 写真参照 ) 1975. 2. 1 長崎新聞掲載

(19)

■長崎県下 7会場で開催

 長崎は、 会場の長崎市公会堂が、 毎年 2 月に 「改修工事」 を行うことが多く公会堂が使えないときの、 コンサー ト会場を決めるのが、 「継続」 の前提。昭和 50 年代から、 平成の初めまでは、 公会堂以外で、 長崎市民会館 文化ホール、 佐世保市民会館、 諫早文化会館、 川棚公会堂、 佐々文化会館‥などでも、日フィル公演を行 った。特に、 川棚公会堂は、開館当時、 教育委員会の担当だった森優さんの協力で、 その後も、 本公演や、 小編成のコンサートが開催され、 活動の母体となる 「日本フィル協会川棚 ・ 波佐見支部」 が今も、 様々な企画 を展開している。長崎に、 ブリックホールが開館した、 平成 10 年以降は、毎年ブリックホールで開催しているが、 客席 2002 席と、 九州でも最大規模のホールだけに集客に苦労するとともに、 公会堂に比べて 「利用料」 が高 いと不満を言う事が多かったが、 思いがけず、 「館長」 を務めることになった。これも、 長年日本フィルに関わっ てきたことと、 無関係ではない。

■いろいろありました!オルグ演奏

 オルグ演奏 ( 今は、プレコンサート? ) も、 40 年の間には、 いろいろありました。大雪で、 JR が止まって、 学校で の演奏がキャンセルとなったり、暖房のない公民館での、 コンサートでは、弦楽四重奏の演奏者 1 人 1 人の後ろ に、 石油ストーブを置いて、 演奏してもらったことも‥。しかしこのコンサートがきっかけで、「ちゃんとしたコンサー トホール」 を作ろうと、町の文化協会が運動して、 数年後に、「時津カナリーホール」 が完成。こけら落としには、 日本フィルが招聘され、 ヴィバルディ 「四季」 を演奏しました。地域の文化振興に、日フィルの活動が 「何らかの 役割」 を果たした 1 つの例です。

■日本フイルに 「青春」 を捧げた‥・!?

 長崎公演をささえた 「長崎日本フィルの会」 始まった 40 年前は、 みんな若かった!ほとんど 「花の 20 代!」 綾 小路きみまろではないが、あれから、えっ、40 年!!。はっきり言って 「高齢化」 がすすんでいます。みんな、日フィ ルに 「青春を捧げました!」 もちろん、 喜んでです。 決して後悔していません。 課題は、 やはり 「後継者」。早く育てて、「バトンタッチ」 することがさらに 「継続」 するために不可欠です。ま、 そ れまでは、「老後の生きがい」 に、 もうひと頑張りしようと思っていますが‥・( 笑い‥)

(20)

賀ᴾ

佐ᴾ

支援から音楽文化の共有へ 年から年

 ゆったりとした「モルダウ」の流れを響かせて年月に始まっ た佐賀公演。佐賀のマスコミ労組を中心に組織した実行委員会が「日本 フィルの灯を消すな」と立ち上がり、クラシック音楽とは無縁の実行委 のメンバーも大いに燃えて公演成功へと汗を流した。東京の一流オーケ ストラの楽団員は、輝いていて遠い存在ではあったが、「豊かな文化を 守ろう」との決意だけで団結しチケットをさばいた。 日を経るにつれ、実行委は労組を離れ、任意の市民団体へと姿を変え、 日フィルの持つ音楽の力を活用 した佐賀の音楽文化の拡大へと 広がりを見せた。 地元で活躍するピアニストや 歌手との共演、児童を含む市民 合唱団との「森の歌」(ショスタ コーヴィッチ)公演、地方では 珍しかったギターやトランペッ トのコンチェルトもプログラムに。地方で音楽に取り組む人たちにとっ て、年に一度の日フィル公演は憧れから身近な存在となっていった。 またオーケストラとは別に室内楽での演奏は、その「機動力」を生か し、学校、公民館、病院など、日フィルを待つ人たちの場所へ足を延ば し演奏を届け、そのたびに楽団員個人の魅力も知ってもらった。年 に訪れた佐賀県立盲学校では、楽団員が「ヴァイオリンだよ」と、子ど もたちの手の中に楽器を渡し、子どもたちは、豊かな響きを醸し出すヴ ァイオリンを興味津々となでていた。      これまで年間に回のオーケストラ公演。親子2代でのファンも少なくない。いまや佐賀の2月の音楽シ ーンには欠かせない。日フィルは、市民とともに佐賀の文化を育て、音楽文化を共有する大きな存在となった。 佐賀県立盲学校を訪れた弦楽四重奏団。子ども たちは楽器の形に興味津々だった。 (1978 年) 輝くオケの仲間とともに 野中和行(佐賀日本フィルの会代表) 年の歩み-過ぎてしまうと、つい先日のことの ようにも思える。入社間もない年に始まった佐 賀公演。当時の写真には、すでに鬼籍にはいられた若 き諸先輩の姿もある。まぶしく輝く一流オーケストラ の楽団員たちと一緒に佐賀の街でビラを配ったり、狭 い会議室で一緒に歌を歌ったり。 年間の争議を経 て自立した日フィルと歩調を合わせるように私たち も市民団体への脱皮を図り、いつも日フィルへ「思い」 を重ねている。やさしい弦の響き、晴れやかな金管の 音。力強い打楽器。そこに佐賀の聴衆。その全てが私 たちの力の源泉だった。多くの仲間と支えあった 年だった。 佐 賀 市 民 会 館 前 に 看 板 を 立 て る実行委の人たち(年) 年 第回公演のポスター

参照

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