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中国 訳 詩 抄 一 家 裕 子 底 本 は 古 橋 頭 古 い 橋 の た も と 上 海 文 化 出 版 社 二〇〇七年 を用いた 原詩は中華人民共和国の新詩 古 典 詩 す な わ ち 日 本 で い う 漢 詩 に た い し て い う の 本 の ほ と ん ど す べ て が そ う

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Academic year: 2021

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中国訳詩抄一

現代中国の詩人・楊鍵詩三首

 

 

 

凡例 一   底 本 は『古 橋 頭(古 い 橋 の た も と) 』(上 海 文 化 出 版 社、 二〇〇七年) を用いた。 原詩は中華人民共和国の新詩 (古 典 詩 す な わ ち 日 本 で い う 漢 詩 に た い し て い う) の 本 の ほ と ん ど す べ て が そ う で あ る よ う に 横 書 き で あ る が、 縦 書 きで訳出した。 二   訳 詩 に お い て、 本 誌 一 行 の 字 数 に あ わ せ、 原 詩 に な い 改 行 を 行 っ た 箇 所 が あ る。 た だ し、 通 常 行 わ れ な い 箇 所 で 改 行 が な さ れ て い る の は、 原 詩 に よ る も の で あ る。 行 を 減じることはしていない。 三   原 詩 に は 句 読 点 が 付 さ れ て い る。 し か し、 同 じ「, (、 )」 と「。 」 で も、 中 国 語 と 日 本 語 で は そ の 呼 吸 が 異 な る。 そ の 取 捨 選 択 は 訳 者 に は 非 常 に 困 難 な こ と で あ っ た た め、 訳詩では、句読点を一律割愛した。今後の課題である。 四   註の行頭の数字は、訳詩の行番号を示す。 五   註は少なめにし、詳細は解説に譲った。   乳母   母があるとき思い出した   五十年代   蕪湖で乳母をしていたこと そして言った   赭山でね 振風塔に登ったら   町ぜんたいが 水に浮かんだ   ハスの葉っぱみたいだったよ はじめて産んだ女の子が   不幸なことに早世し ある母親に   乞われて町で   乳母となった 二年ののちに   断乳し 母は村の   家にもどった 二日後   町の母親が 息子を連れて   たいそう慌てて   母のもとへやって来た 母の首にしがみつき   子どもは激しく泣きつづけた しがみついた小さな手が 長い時間   母の鼓動を激しくした いま母は   七十をすぎた老人となった けれどもその日の   鼓動はずっと   母の胸の内にある

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母はわたしに物語る   それがすべてのよき文学の   源だとは知らないで   奶妈   母亲回忆起五十年代她在芜湖做奶妈的事情、 她说、在赭山 当她登上振风塔、看见 整个城市如同一片荷叶浮在水面。 她因第一个女儿不幸夭折、 被城里的一位母亲请来做奶妈。 孩子两年后断奶、 母亲回到老家。 两天后、这位城里的母亲 带着儿子火速赶到我母亲那里、 大哭不止的孩子紧紧搂住我母亲的脖子、 他紧紧搂住的小手引起母亲内心长久的悸动。 现在、她已是七十多岁的老人了、 这悸动一直在她心里、 她讲给我听、却并不知道 这是一切优秀文学的源头。 (『古橋頭』二六〇頁、二〇〇二年作) 註 一   母    「詩 に 詠 ん だ こ と す べ て が 現 実 に あ っ た こ と と は か ぎ ら な い」 と 楊 鍵 さ ん は 言 わ れ た。 し か し、 こ の 詩 に い う「母」 は、 現 実 世 界 の 楊 鍵 さ ん の お 母 さ ん と ほ ぼ 重 なるという。詳細は解説を参照。 二   五十年代    一九五〇年代。 三   蕪 湖    ぶ こ。 長 江 の 南 に 位 置 す る 安 徽 省 蕪 湖 市。 こ こ は蕪湖の市街地、すなわち「町」をいう。 四   赭 山    し ゃ ざ ん。 蕪 湖 の 市 街 地 に あ る 山。 高 さ 八 十 六 メ ー ト ル、 周 囲 四・ 五 キ ロ メ ー ト ル、 大 小 ふ た つ の 峰 が あ る。 「赭」 は 赤 の 意 で、 山 肌 が 赤 い こ と か ら こ の よ う に 名 づ け ら れ た。 山 の 上 か ら 蕪 湖 市 街 が 一 望 で き る と い う。 『中 国 名 勝 詞 典   第 二 版』 上 海 辞 書 出 版 社、 一 九 八 六 年、 四一八頁参照。 五   振 風 塔    安 徽 省 安 慶 市 の 迎 江 寺 に あ る 塔。 明 の 隆 慶 六 (一五七〇) 年に建造された。 八角形、 七層のレンガ造り。 上 か ら 市 街 地 が 一 望 で き る( 『中 国 名 勝 詞 典』 前 掲、 四 二 七 頁 参 照) 。 た だ し、 こ こ は、 蕪 湖 市 内 に あ っ て そ の 上 か ら 市 街 地 が 一 望 で き る「広 済 寺 塔」 と あ る は ず の と こ ろ で あ る(蕪 湖 出 身 の 知 人、 王 全 さ ん の ご 教 示 に よ る) 。 広

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済 寺 は 赭 山 の 西 南 麓 に あ る、 唐 代 乾 寧 年 間(八 九 四 ─ 八 九 八) 創 建 の 古 刹。 そ の 塔 は 北 宋 の 治 平 二(一 〇 六 五) 年 に 建 造 さ れ た( 『中 国 名 勝 詞 典』 前 掲、 四 一 七 頁 参 照) 。 楊 鍵 さ ん に こ れ に つ い て 質 問 し た と こ ろ、 振 風 塔 の ま ま でよいと回答された。 六   は じ め て 生 ん だ 女 の 子 が   不 幸 な こ と に 早 世 し    楊 鍵 さ ん は 三 人 兄 弟 で 育 っ た。 長 兄 の 楊 子 さ ん は 一 九 六 三 年 生まれである。 七   村 の 家    楊 鍵 さ ん の 両 親 が も と も と い た、 安 徽 省 蕪 湖 市繁昌鎮桃衝の鉱山を指すと考えられる。   友   その女(ひと)が早朝に芥を掃く音 夜の帳の中   わずかばかりの月の光に浮かぶ その女の痩せた顔 その女の動作   まがった背中   鉄のスコップ にはりつくアオギリの葉 長い路地を出てきた   その女につれ添う夫 それを詩にできたなら わたしはこの人たちの親しい友 この夜空   ビルの群れ 耳もとのシャッシャッという   ほうきの音   を詩にできたなら それさえ   それさえできたなら…… わたしの頭の中は   過去のことばかり 窓の外   空いっぱいに舞う雪 同じ根から生まれた苦い果実 わたしの詩のことばたちよ 日々この人々に降り注ぐ月の光であれかし   同伴 只要我能够描述她在凌晨清扫垃圾的声音、 描述她干瘦的脸在夜色中少许的月光、 描述她的动作、她弯曲的脊背、沾在铁锹上 的梧桐叶子。 描述从长长的街巷走出的陪伴她的丈夫、 我就是他们的一个亲密的伙伴。

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只要我能够描述这夜空、楼群、耳边沙沙的 扫地声、 只要我能够、只要我能够 …… 我的脑子里 全是从前的事情、    窗外漫天的雪花。   同一条根上的苦果    但愿这些诗句是每天洒向他们的月光 …… (『古橋頭』十六頁、一九九五年作)   悲傷 どの作品も わたしをガンジスの流れに変えることはできない この古びた死を安息させることはできない ひとつの時代の陰湿さを消すことはできない わたしは思い出す   プラトンとセネカの弁論 孔子の遊説   そして老子の無言を わたしは思い出す   夕暮れの講経堂と汚れなき寺院を 一本の剣の沈黙 讃美歌に耳を傾けるかのごとき沈黙を 死と愛と時間とはみな それぞれに問題となった   が最後の一問ではない わたしは思い出す   曙光の無言   落日のまどかさを どの作品も   わたしに闇夜を忘れさせることはできない わたし自身の愚かさ わたし自身の騒がしい生命(いのち)を 忘れさせることはできない   悲伤 没有一部作品可以把我变为恒河、   可以把这老朽的死亡平息、 可以消除一个朝代的阴湿。      我想起柏拉图与塞涅卡的演讲、    孔子的游说、与老子的无言。 我想起入暮的讲经堂、纯净的寺院、 一柄剑的沉默犹如聆听圣歌的沉默。   死亡、爱情和光阴、都成了 一个个的问题、但不是最后的一个问题。 我想起曙光的无言、落日的圆满。

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没有一部作品可以让我忘掉黑夜、 忘掉我的愚蠢、我的喧闹的生命。 (『古橋頭』三頁、一九九四年作) 解説   楊鍵さんの半生については、龐培( 「ポンペイ」の意) という詩人で散文家の友人による「楊鍵小伝」に詳しい。 これはインターネット上にみられるものであるが、楊鍵 さ ん 本 人 の ブ ロ グ「詩 人 楊 鍵 的 博 客」 ht tp :// blo g.s in a. co m .cn /u /2 27 28 16 86 0 に 掲 載 さ れ、 ご 本 人 に も 情 報 が 確かなものであることを確認している。いま、これによ って略歴を記せば、次のとおりである。   楊鍵さんは、一九六七年十二月二十七日、安徽省蕪湖 市繁昌鎮桃衝の鉱山(鉄)で、三人兄弟の末っ子として 生まれた。父親は坑夫、母親は定職がなく、臨時雇いで さまざまな仕事をしていた。祖父母の代には物乞いをし たこともあり、楊鍵さん一家も極貧に近かった。その苦 労、とりわけ両親の苦労は楊鍵さんの詩を大きく決定づ けている。   一家は一九七五年、同じ安徽省の馬鞍山に転居した。 町に出たのである。これは困難な状況のなか、父親の強 い意志によって実現したことであった。長兄の楊子さん は学業に秀で、名門、南開大学に入った。学部は中文系 (中国文学部)であったが、英詩を多く読み、自身も詩 作をした。この楊子さんの影響で、次兄と楊鍵さんも詩 作をはじめた。中国で多くの人々が詩を作っていた時代 でもあった。   楊鍵さんは高卒の学歴をもつが、学校の学業には身が 入らなかったようである。肺吸虫を長く患っていたこと もあり、二年留年している。楊鍵さんのことばの世界は、 次兄と自然のなかを駆け回ったことと、母親からさまざ ま な 話 を き い た こ と、 に よ っ て 豊 か に な っ た。 「母 は 天 生の詩人だ」と楊鍵さんはいう。これが内輪のほめこと ばだけではないことは、息子三人が詩人になったことで もわかる。現在、楊子さん、楊鍵さんともに詩人として 全国的に名が知られている。   一九八六年、高校を卒業すると、兄の楊子さんが働く 新疆に向かい、半年新疆に滞在した。詩作はこの年から 始めた。一九八七年八月、故郷に戻り、馬鞍山の鉄工場 に就職した。   一九九一年、次兄が亡くなった。予期せぬ死であった ようだが、詳細は明かされない。詩作も含め、文字どお

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りともに生きてきた次兄のこの死は、楊鍵さんの生を大 きくゆさぶり、そして変えた。このときから、楊鍵さん は肉食を絶ち、仏教信者としての生活をはじめ、今に至 っている。父親は次兄の死のために裁判を起こし、北京 までも出かけたという。一九九六年、その父親が亡くな った。楊鍵さんは、その後、老いた母と暮らし、また、 〇歳で父親に先立たれた甥の面倒をみてこられた。   以上が「楊鍵小伝」による略歴である。   楊鍵さんはこれまでに以下の四冊の詩集を刊行されて い る。 『暮 晩』 (河 北 教 育 出 版 社、 二 〇 〇 三 年) 、『古 橋 頭』 (上海文化出版社、二〇〇七年) 、『慚愧』 (唐山出版 社(台北) 、二〇〇九年) 、『哭廟』 (爾雅出版社(台北) 、 二 〇 一 四 年) 。 ま た、 一 九 九 五 年 に「第 一 回 劉 麗 安 詩 歌 賞」 、二〇〇〇年に「柔剛詩歌賞」 、二〇〇六年に「宇龍 詩歌賞」 、二〇〇七年に「全国十大新鋭詩人賞」 、二〇〇 八年に『古橋頭』によって「第六回華語文学伝媒年度詩 人 賞」 、 二 〇 一 二 年 に「第 一 回 駱 一 禾 詩 歌 賞」 を 受 賞 し ている。 「劉麗安」は出資者の名、 「柔剛」 「宇龍」 「駱一 禾」は詩人の名を冠した賞である。二〇〇三年には『古 橋 頭』 が『南 方 都 市 報(南 方 都 市 新 聞) 』 の「全 国 十 大 優 秀 図 書」 に 選 ば れ て い る。 「全 国 十 大 新 鋭 詩 人 賞」 選 考では、インターネット上の投票も行われたが、百人の 候補者のうちには、楊子さん・楊鍵さんがともに含まれ て い た。 「華 語 文 学 伝 媒 年 度 賞」 は、 多 く の メ デ ィ ア (伝媒)が共同で主催し、透明性が高いことをうたって いる。楊鍵さんと同じ年、小説部門では有名作家、王安 憶が選ばれている。   楊鍵さんは、画家でもあり、二〇一三年秋には、北京 の今日美術館で展覧会が行われた。   楊鍵さんの詩をかたち作ってきたおもなものは略歴で 示した。さらに大きな視点からいえば、鉱山と町、幼少 期の貧しい生活とその後の生活、非知識人の世界と知識 人の世界、そして俗世と信仰の世界、こうした「両様の 世界」の間の移動あるいは越境、往還が、楊鍵さんの詩 と深くかかわっていると考えられる。 「両様の世界」は、 中華人民共和国に生きる一定以上の年齢の人のほとんど が経験していることであろうけれども、その両方に今も 「住み」つづけ、そこで強く葛藤していることが、楊鍵 さんの詩の力となっているように、訳者には感じられる。   二〇一三年八月に二回、二〇一四年八月に一回、楊鍵 さんを馬鞍山の自宅に訪ねた。兄の楊子さんは、新疆時 代、イリ地方、チャプチャル(察布査爾錫伯自治県)の

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詩人、阿蘇さんと親しく交流した。この阿蘇さんは、追 手門学院大学の承志先生の叔父さんである。訳者は楊子 さん・楊鍵さん兄弟のことを、承志先生によってはじめ て知った。二回めの訪問では、李白の終焉の地とされる 采石磯にも案内していただいた。これらについては、ま た別の機会に書きたいと思う。   初 対 面 の 最 初 に、 「詩 は あ な た の 職 業 で す か」 と 質 問 し た ら、 「そ う だ。 こ れ が い ち ば ん 大 事 だ」 と 即 答 さ れ た。詩を読むと現実に会うとは大ちがい、という詩人も、 古今に多いであろう。しかし、楊鍵さんはそうではなか った。生活はつつましく、お母さんは楊鍵さんの詩や文 章(上述のブログに多く掲載されている)そして「楊鍵 小伝」から想像されるとおりの人であった。ここにはそ れだけをまず記しておきたい。 謝辞   楊子さんと楊鍵さんは、わたしがおふたりの詩を日本 語に訳して発表することについて、快諾してくださった。 また、楊鍵さんは暖かくもてなし、いくつもの質問にお 答えくださった。承志先生は、楊子さん・楊鍵さん兄弟 を紹介され、また翻訳の点検を引き受けてくださってい る。   この場を借りて衷心よりの謝意を表したい。   補記   楊子さん・楊鍵さん兄弟の詩と翻訳をブログ「訳詩世 界」 URL:http://yilikamoyodo.seesaa.net/ に 掲 載 し て い る。あわせみられたい。 楊鍵さん(2013年8月、松家撮影)

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