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『源氏物語』若菜上巻における源氏の四十の賀の准拠 : 玉鬘主催の賀宴について

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  『源 氏 物 語 (( ( 』 若 菜 上 巻 に は、 「正 月 二 十 三 日」 の「子 の 日」 に、 「尚 侍」 で あ る 玉 鬘 が 養 父 で あ る 源 氏 に「四 十」 の 「賀」として「若菜」を献上し、賀宴を催す場面がある。   さるは、今年ぞ四十になりたまひければ、御賀のこと、おほやけにも聞こしめし過ぐさず、世の中の営みにて、 かねてより響くを、事のわづらひ多くいかめしきことは、昔より好みたまはぬ御心にて、みな返さひ申したまふ。   正月二十三日、子の日なるに、左大将殿の北の方、若菜まゐりたまふ。かねて気色も漏らしたまはで、いといた く忍びて思しまうけたりければ、にはかにて、え諫め返しきこえたまはず。忍びたれど、さばかりの御勢ひなれば、 渡りたまふ儀式など、いと響きことなり。   南 の 殿 の 西 の 放 出 に 御 座 よ そ ふ。 屛 風、 壁 代 よ り は じ め、 新 し く 払 ひ し つ ら は れ た り。 [中 略] 螺 鈿 の 御 厨 子 二

『源氏物語』若菜上巻における源氏の四十の賀の准拠

玉鬘主催の賀宴について

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具に、御衣箱四つ据ゑて、夏冬の御装束、香壺、薬の箱、御硯、泔坏、搔上の箱などやうのもの、内々きよらを尽 くしたまへり。 [中略]   人々参 り な ど し た ま ひ て、 御 座 に 出 で た ま ふ と て、 尚 侍 の 君 に 御 対 面 あ り。 [中 略] い と 若 く き よ ら に て、 か く 御賀などいふことは、ひが数へにやとおぼゆるさまの、なまめかしく人の親げなくおはしますを、めづらしくて、 年月隔てて見たてまつりたまふは、いと恥づかしけれど、なほけざやかなる隔てもなくて、御物語聞こえかはした まふ。幼き君もいとうつくしくてものしたまふ。 [中略]    玉鬘   若葉さす野辺の小松をひきつれてもとの岩根をいのる今日かな [中略]御若菜さまばかりまゐれり。御土器とりたまひて、    源氏   小松原末のよはひに引かれてや野辺の若菜も年をつむべき [中略]御土器くだり、若菜の御羹まゐる。  (『源氏物語』若菜上巻、五十四~五十八頁 (   この場面については、 『源氏物語』の古注釈書より准拠の指摘がみえる。   近年では、山中裕氏が「 『源氏物語』若菜巻について」 (『源氏物語の史的研究 (( ( 』所収 ( において、 『源氏物語』の古注 釈 書 の 記 述 を ふ ま え な が ら、 歴 史 書 の 記 録 に 照 ら し 合 わ せ て 検 討 を 加 え ら れ て い る。 そ の 中 で、 「正 月 二 十 三 日、 子 の 日 な る に、 左 大 将 殿 の 北 の 方、 若 菜 ま ゐ り た ま ふ」 の 場 面 に つ い て は、 『河 海 抄』 の「延 長 二(九 二 四 ( 年 正 月 二 十 一 日と二十五日」 、『花鳥余情』は「同(延長二年 ( 正月二十五日」の記述にふれられ、 [上略] 『河海抄』の挙げる延長二年正月二十五日の場合は、宇多法皇が醍醐天皇の四十の賀を祝うもので、しかも (

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この日は子の日である。   かような面から『河海抄』が、これを挙げるのは、一応、理にかなっているということができる。   (三三九頁 ( と記されている。また、 「若菜の御羹まゐる」の場面については、 『花鳥余情』にも引用されている『延長御記』の記録 にふれられ、先程の「延長二年正月二十五日」の宴が准拠になっている可能性は高いと述べられている。   さらに、浅尾広良氏は「光源氏の算賀 ― 四十賀の典礼と准拠 ― 」( 『源氏研究   第七号 (( ( 』所収 ( において、歴史上の算 賀の記録と古注釈書の記述を検証されている。そして、玉鬘主催の源氏の四十賀は「正月子の日」の賀宴として『河海 抄』と『花鳥余情』が共に「延長二(九二四 ( 年正月二十五日に行われた醍醐天皇四十賀を指摘」していることを述べ ら れ、 「古 注 の 指 摘 が あ る よ う に、 延 長 二 年 正 月 二 十 五 日 に 行 わ れ た 醍 醐 天 皇 四 十 賀 に 拠った と 見 る べ き で あ ろ う」 と 記 さ れ て い る。 ま た、 玉 鬘 主 催 の 源 氏 の 四 十 賀 に 設 え ら れ た「螺 鈿 の 御 厨 子」 の 調 度 に つ い て は、 『河 海 抄』 に「宇 多 法 皇 四 十 賀 と 五 十 賀」 の 指 摘 が あ る こ と を 述 べ ら れ、 「古 注 に 指 摘 の あ る 通 り、 宇 多 法 皇 の 四 十 賀 と 五 十 賀 に も 用 意 さ れたもの」とされている。   しかし、これらの論考は、賀宴の主催者が女性であるということに着目しているわけではない。本稿では、そうした 観点から考察を加えていく。   それでは、 『源氏物語』の古注釈書には、第一章で掲げたものの他に、どのような指摘があるのだろうか。   源氏の和歌の注釈として、 『河海抄 (( ( 』には、 『源氏物語』若菜上巻における源氏の四十の賀の准拠 (

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こ松はらすゑのよはひにひかれてや野へのわかなも年をつむへき   春日のゝわかなゝらねと君かため年のかすをもつまむとそ思ふ  (『河海抄』若菜上   四六六頁 ( と引歌の指摘があり、九条稙通の『孟津 抄 (( ( 』においても、 小松原すゑのよはひにひかれてや野へのわかなも年をつむへき   春日のゝわかなならねと君かためとしのかすをもつまんとそ思ふ  (『孟津抄』若菜上   三〇八頁 ( と『河海抄』に指摘のある和歌を引歌としている。また、中院通勝の『岷江入 楚 (( ( 』も『河海抄』の説を踏襲し、引歌を 指摘している。   私家集大成の『伊勢集Ⅰ (( ( 』(西本願寺本三十六人家集『いせ』 ( には、    五条の内侍のかみ御四十賀を、きよつらのみふ卿のつかまつりたまふ屛風のゑにわかなつむところ 春野にわかなゝらねと君かためとしのかすをもつまむとそおもふ  (『伊勢集Ⅰ』   六二   私家集大成 ( という和歌がある。この和歌は『伊勢集 Ⅱ (( ( 』(群書類従本系   島田良二蔵『伊勢集』 ( においては、    ないしのかみの御四十の賀、きよつらの民部卿し給ふ御屛風に若菜つむ所 (

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春のゝのわかなゝらねと君か為年の数をもつまんとそ思  (『伊勢集Ⅱ』   六四   私家集大成 ( という本文になっていて、 『伊勢集Ⅲ (( ( 』(正保版本歌仙家集『伊勢集』 ( では、    此内侍のかみの四十の賀を清貫の民部卿つかうまつり給ける御屛風の若菜つみたるところに 春のゝのわかなならねと君かため年のかすをもつまむとそ思  (『伊勢集Ⅲ』   六一   私家集大成 ( という本文になっている。そして、この和歌は、 『拾遺和歌集 ((( ( 』にも入集している。    (五条内侍のかみの賀民部卿清貫し侍りける時、屛風に ((伊勢 ( 春の野 のわかなならねどきみがため年のかずをもつまんとぞ思ふ  (『拾遺和歌集』巻第五   賀   二八五   新編国歌大観 (   また、この和歌は『古今和歌六 帖 ((( ( 』にも入集していて、紫式部が活躍していた時代においても、有名な和歌であった と考えられる。   清 水 婦 久 子 氏 は、 「源 氏 物 語 の 和 歌 と 引 歌 ― 和 歌 か ら 物 語 り へ ― 」( 『源 氏 物 語 の 展 望   第 七 輯 ((( ( 』 所 収 ( の 中 で、 前 掲 の伊勢の和歌と『拾遺抄 ((( ( 』所引、 『源氏物語』若菜上巻における源氏の四十の賀の准拠 (

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   わかなを御覧じて        円融院御製 春日野に多くの年は積みつれど老いせぬ物は若菜なりけり  (『拾遺抄』巻第九   雑上   三七六   新編国歌大観 ( により、源氏の「小松原…」の和歌が作られていて、それが「若菜の物語の基になった」と指摘をされている。   ここで、伊勢の和歌について、重要と考えられることから、検討を加えることとする。   当該和歌は、 『伊勢集Ⅰ』では「春野にわかな」という本文であるが、 『伊勢集Ⅱ』及び『伊勢集Ⅲ』では「春のゝの わ か な」 と い う 本 文 と なって い る。 『伊 勢 集 Ⅰ』 の 初 句「春 野 に」 は 五 文 字 で 詠 ま れ た も の と 考 え ら れ る こ と か ら、 表 記は「春野」とあるが、 「春の野」として詠まれたのであろう。 『拾遺和歌集』には「春の野のわかな」という本文で採 録されている。また、当該和歌は、 『河海抄』 、『孟津抄』 、『岷江入楚』に指摘のある引歌において、 「春日のゝわかな」 という本文になっている。これは、 『伊勢集Ⅰ』の「春野(春の野 ( にわかな」や『伊勢集Ⅱ』 『伊勢集Ⅲ』の「春のゝ (春の野 ( のわかな」 、『拾遺和歌集』の「春の野のわかな」という本文が、 『河海抄』 、『孟津抄』 、『岷江入楚』において は、 「春 日 のゝ(春 日 野 の ( わ か な」 と い う 本 文 で 享 受 さ れ て い た も の と 考 え ら れ よ う。 こ れ は、 「若 菜」 の 景 物 が、 「春の野」や「春日の(春日野 (」と共に、和歌に詠まれることが多いことから、通用するものとされていたものか、あ るいは、 「春の野」の「の」と「春日の(春日野 (」の「日」の文字は、写本において判別のつきにくい文字であること から、混同されたものであろう。   『能 因 歌 枕(廣 本 ( ((( ( 』 に は、 「野 を よ ま ば、 さ が 野、 か た 野、 み や ぎ 野、 春 日 野 な ど よ む べ し。 」 と あ り、 「國々の 所々 名」の「大和國」の項に「かすが野」を挙げている。また、 『八雲御抄 ((( ( 』の「名所部」の「野」には、 「か 大 和 すが」の地名 と共に詠まれることの多い景物の一つに「若菜」を挙げている。そして、藤原範兼の『五代集歌枕 ((( ( 』には当該和歌が、 (

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       (かすがの   大和 ( 同(拾 (  春日野 のわかなゝらねど君がため年の數をもつまんとぞ思ふ  (『五代集歌枕』   日本歌学大系   別巻一 ( として、採録されている。   ここで、新編国歌大観において、 「若菜」と共に詠まれた和歌で、 「春の野」と「春日野」が通用している用例を確認 しておこう。 『頼基集 ((( ( 』には、    天暦御時屛風に、はるののにわかなつむところ ここばくのとしつみくれどかすがのにおふるわかなはおいせざりけり  (『頼基集』   一   新編国歌大観 ( という和歌がある。この和歌は、詞書に「 はるののにわかな」とあるが、 「かすがのにおふるわかな」と詠まれている。   また、 『忠見集 ((( ( 』には、    かすがののわかな 春のののくさはみどりになりにけりわかなつまむとたれかしめけむ  (『忠見集』   二九   新編国歌大観 ( という和歌がある。この和歌は、詞書には「 かすがののわかな」とあるが、 「春のののくさ」 「わかなつまむ」と詠まれ 『源氏物語』若菜上巻における源氏の四十の賀の准拠 (

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ている。   さらに、新編私家集大成において、 「若菜」と共に詠まれた和歌で、 「春の野」と「春日野」を通用している、あるい は混同している用例を確認してみよう。   『素性集Ⅰ ((( ( 』(冷泉家時雨亭叢書『平安私家集一』所収、 『素性集   色紙本』 ( には、    右大将四十賀屛風に、わかな かすかのにわかなつみつゝよろつよをいはふこゝろは神そしるらん  (『素性集Ⅰ』   四〇   新編私家集大成 ( という和歌があり、 「かすかの(春日野 (」と「わかな」が詠み込まれている。そして、 『素性集Ⅲ ((( ( 』(冷泉家時雨亭叢書 『平安私家集七』所収、 『素性法師集   唐草装飾本』 ( にも、    いつみの大将の卌賀の屛風に 春日野にわかなつみつゝよろつよをいはふ心は神そしるらん  (『素性集Ⅲ』   四一   新編私家集大成 ( と あ り、 「春 日 野」 と「わ か な」 が 詠 み 込 ま れ て い る の だ が、 『素 性 集 Ⅱ ((( ( 』(冷 泉 家 時 雨 亭 叢 書『平 安 私 家 集 一』 所 収、 『素性集   唐紙本』 ( には、      左大将四十賀屛風に (

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古   はるのゝのわかなつみつゝよろつよをいはふこゝろは神そしるらん  (『素性集Ⅱ』   三〇   新編私家集大成 ( とあり、 「はるのゝ(春の野 ( のわかな」として詠まれている。   このように、 「若菜」の景物と共に詠まれることの多い「春日野」は、 「春の野」と通用されたり、混同されたりして いるようである。   ところで、前掲の『拾遺和歌集』巻第五、賀、二八五番歌の「五条内侍のかみの賀」の「屛風」という詞書について、 小 町 谷 照 彦 氏 は、 『拾 遺 和 歌 集 ((( ( 』(新 日 本 古 典 文 学 大 系   岩 波 書 店 ( の 注 釈 に お い て、 「延 喜 十 三 年(九 一 三 ( 十 月 十 四 日、尚侍藤原満子四十賀屛風歌」と指摘をされている。   『日 本 紀 略 ((( ( 』 の 延 喜 十 三 年 十 月 の 記 録 に は、 「十 四 日 壬 午。 於 二 內 裏 一 侍 從 三 位 藤 原 滿 子 四 十 筭 一。」 と あ り、 こ の 日、内裏において、 「尙侍」の「藤原滿子」の「四十」の算賀が行われたことが知られる。   このことは、 『河海抄』に、 こ 六条院 としそよそちになり給けれは御賀の事 [中略] 御 記 云 延 喜 十 三 年 十 月 十 四 日 是 日 於 西 方 賜 尙 侍 藤 原 朝 臣 四 十 算 賀 未 刻 撤 西 庇 障 子 渡 殿 蔀 等 西 庇 自 南 四 間 鋪 御 座 西面 第五間鋪尙侍座 南面  (『河海抄』若菜上   四六四~四六五頁 ( と い う 記 述 が あ り、 「延 喜 十 三 年 十 月 十 四 日」 に 行 わ れ た「尙 侍 藤 原 朝 臣(滿 子 (」 の「四 十 算 賀」 の こ と を 准 拠 の 例 『源氏物語』若菜上巻における源氏の四十の賀の准拠 (

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の一つとして指摘している。   また、 『西宮記 ((( ( 』には、 「賜女官賀事」として、 延 喜 十 三 年 十 月 十 四 日、 賜 尙 侍 藤 原 朝 臣 卌 算 賀、 於 西 方 有 此 儀 、 未 剋 撤 西 庇 障 子、 渡 殿 蔀、 西 廂 自 南 第 四 間 鋪 御 座、 西 面 、 第 五 間 鋪 尙 侍 座、 南 面 、 第 六 間 立 棚 厨 子、 有 覆 、 四 基、 一 基 置 薰 物 筥 各 二 合 、 一 基 置 納 女 裝 束 筥 四 合 、 一 基 置 女 裝 束 筥 四合 、 一基綾 ( マ ヽ ( 絹各卌疋 、其東北施四尺屛風四帖、 已上二具竝所被物也 、 申 剋 尙 侍 藤 原 朝 臣 參 上、 卽 供 御 膳、 女 藏 人 等 賜 尙 侍 饌、 用 樣 器 折 敷 、 打 敷 等 鋪 物 並 用 羅 綾 、 殿 上 男 六 七 人 、 持 自 北 方 至 簾 下 、 女 藏 人 等 轉 賜 之 、 典 侍 宜 子 朝 臣 給 盃 四 度、 訖 召 中 務 卿 親 王、 太 宰 帥 親 王、 左 衞 門 督 藤 原 朝 臣 卽 參 進、 卽 依 仰 各 進 盃、 其 後 賜 御 盃 云々、 其 後 侍 臣 依 仰 奏 絃 歌、 主 上 彈 和 琴 、 中 務 卿 箏 、 帥 琵 琶 、 克 明 親 王 琴 、 藤 原 朝 臣 及 侍 臣 六 七 人 唱 歌 、 于 時 藤 原朝臣、申事由權中納言藤原朝臣、勅許之後、藤原朝臣參入、把盞給侍臣等、 闌之後、被仰云、宜流盃之次、聊 獻 倭 歌、 左 衞 門 督 召 伊 衡 兼 茂 等、 令 上 題、 卽 伊 衡 上 題、 侍 臣 唱 哥、 次 尙 侍 敍 正 三 位、 震 筆 、 卽 親 王 已 下 及 藤 原 氏 大 夫 奏 賀 喜、 權 中 納 言 被 聽 昇 殿、 其 後 絃 哥 數 曲、 至 曉 給 祿、 親 王 納 言 御 衣 、 餘 侍 臣 疋 絹 、 尙 侍 從 者 聊 給 饗 饌、 以 內 藏 絹 卌疋給之、其中高品者六人、加給褂衣、  (『西宮記』巻十二   一九七頁 ( という記録がある。 「延喜十三年十月十四日」に、 「尙侍藤原朝臣(滿子 (」が「卌(四十 (」の「算賀」を賜わったこと、 「西廂」の「南」より「第四間」に「御座」が鋪かれたこと、調度として、 「棚厨子」に「薰物筥」や「裝束筥」が置か れていたこと、 「屛風四帖」が設えられていたこと、 「御膳」が供されたこと、親王や公卿が奏楽の遊びを行なったこと、 和歌の献詠があったこと、暁に至り「祿」を賜わったこと、等が知られる。 ((

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  『源 氏 物 語』 若 菜 上 巻、 「尚 侍」 の 玉 鬘 が 源 氏 の「四 十」 の「賀」 を 主 催 し、 「若 菜」 を 献 上 す る 場 面 の 続 き と し て、 楽 人 を 召 さ ず に 暁 方 ま で 親 王 や 公 卿 が 奏 楽 の 遊 び を す る 場 面 や、 参 集 し て い た 人々へ の 豪 華 な「禄」 や 玉 鬘 へ の「贈 物」が用意されている場面がある。 [上 略] 楽 人 な ど は 召 さ ず。 御 笛 な ど、 太 政 大 臣 の、 そ の 方 は と と の へ た ま ひ て、 太 政 大 臣 「世 の 中 に、 こ の 御 賀 よ り、まためづらしくきよら尽くすべきことあらじ」とのたまひて、すぐれたる音のかぎりを、かねてより思しまう けたりければ、忍びやかに御遊びあり。とりどりに奉る中に、和琴は、かの大臣の第一に秘したまひける御琴なり、 さる物の上手の、心をとどめて弾き馴らしたまへる音いと並びなきを、他人は搔きたてにくくしたまへば、衛門督 の か た く 辞 ぶ る を 責 め た ま へ ば、 げ に い と お も し ろ く、 を さ を さ 劣 る ま じ く 弾 く。 [中 略] 心 に ま か せ て、 た だ 搔 き合はせたるすが搔きに、よろづの物の音調へられたるは、妙におもしろく、あやしきまで響く。父大臣は、琴の 緒もいと緩に張りて、いたう下して調べ、響き多く合はせてぞ搔き鳴らしたまふ。これは、いとわららかに上る音 の、なつかしく愛敬づきたるを、いとかうしもは聞こえざりしをと親王たちも驚きたまふ。琴は兵部卿宮弾きたま ふ。この御琴は、宜陽殿の御物にて、代々に第一の名ありし御琴を、故院の末つ方、一品の宮の好みたまふことに て賜りたまへりけるを、このをりのきよらを尽くしたまはんとするため、大臣の申し賜りたまへる御伝へ伝へを思 すに、いとあはれに、昔のことも恋しく思し出でらる。親王も、酔泣きえとどめたまはず、御気色とりたまひて、 琴 は 御 前 に 譲 り き こ え さ せ た ま ふ。 [中 略] 唱 歌 の 人々御 階 に 召 し て、 す ぐ れ た る 声 の 限 り 出 だ し て、 返 り 声 に な る。夜の更けゆくままに、物の調べどもなつかしく変りて、青柳遊びたまふほど、げにねぐらの鶯おどろきぬべく、 いみじくおもしろし。私事のさまにしなしたまひて、禄など、いと警策にまうけられたりけり。 『源氏物語』若菜上巻における源氏の四十の賀の准拠 ((

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  暁に、尚侍の君帰りたまふ。御贈物などありけり。  (『源氏物語』若菜上巻、五十八~六十一頁 ( 『河海抄』には、 かく人なとはめさす   延 喜 十 三 年 尙 侍 賀 御 記 云 命 侍 臣 令 奏 絃 哥 自 弾 和 琴 曲 中 務 卿 親 王 弾 箏 帥 親 王 弾 琵 琶 克 明 親 王 弾 琴 云々 不 召 楽 人 事 此   等例歟  (『河海抄』若菜上   四六六~四六七頁 ( という記述があり、 「賀」の行事の際に楽人を召さないことについて、 「延喜十三年」の「尙侍」の「滿子」の「賀」を 准拠として指摘している。また、 『孟津抄』は、 楽人なとはめさす   [中略]河海命侍臣令奏絃哥例アリ  (『孟津抄』若菜上   三〇九頁 ( とし、 『河海抄』に准拠の指摘があることを示している。そして、 『岷江入楚』も、 が く 人 ニン な と は め さ す   河 延 喜 十 三 年 尚 侍 賀 御 記 云 命 二 シ テ 侍 臣 一 ニ 令 レ ム 絃 哥 一 ヲ 自 ラ 弾 二 琴 一 ヲ 務 卿 親 王 弾 二 琶 一 ヲ 克 明 親 王 弾 レ ス ヲ 云々   不 レ楽人 一 ヲ事此等 ノ 之例歟  (『岷江入楚』若菜上   二五五頁 ( ((

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とし、 『河海抄』の説を踏襲している。   そ れ で は こ こ で、 前 掲 の『伊 勢 集 Ⅰ』 の 六 二 番 歌 と、 『源 氏 物 語』 若 菜 上 巻 に お い て、 「尚 侍」 の 玉 鬘 が 源 氏 の「四 十」の「賀」を主催する場面を比較しておこう。   ま ず、 詞 書 は、 「四 十」 の「賀」 で あ る と い う 点 に お い て 一 致 し て い る。 し か し、 『伊 勢 集 Ⅰ』 は「五 条 の 内 侍 の か み」の「賀」であり、 「内侍のかみ」は被賀者であるのに対して、 『源氏物語』では「尚侍」の玉鬘は賀の主催者である という点において相違がある。しかし、 「内侍のかみ(尚侍 (」の女性が「賀」に関与しているという点においては一致 している。   さらに、 『伊勢集Ⅰ』は「屛風のゑ」に詠み添えられた和歌であり、 『源氏物語』にも「屛風」が設えられている。   和 歌 の 表 現 に つ い て は、 『伊 勢 集 Ⅰ』 は「春 野」 の「わ か な」 が 詠 ま れ て い て、 『源 氏 物 語』 の 源 氏 の 和 歌 に は「野 辺」の「若菜」が詠まれている。また、 『伊勢集Ⅰ』は「としのかすをもつまむとそおもふ」と詠まれていて、 『源氏物 語』の源氏の和歌には「年をつむべき」と詠まれている。   このように、 『伊勢集Ⅰ』の六二番歌は、 『源氏物語』若菜上巻において、 「尚侍」である玉鬘が養父の源氏の「四十」 の「賀」 を 主 催 す る 場 面 と 類 似 す る 点 も 多 い こ と か ら、 『河 海 抄』 、『孟 津 抄』 、『岷 江 入 楚』 が 指 摘 す る よ う に、 紫 式 部 が当該和歌を引き用いたという可能性も高いといえる。   しかしながら、 『源氏物語』若菜上巻においては、 「尚侍」である玉鬘が源氏の「四十」の「賀」の主催者であるのに 対し、 『伊勢集Ⅰ』の六二番歌では、 「内侍のかみ」の女性は被賀者であるという点において、相違がみられるのである。 『源氏物語』若菜上巻における源氏の四十の賀の准拠 ((

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  そ れ で は、 『源 氏 物 語』 若 菜 上 巻 の「尚 侍」 で あ る 玉 鬘 が 養 父 で あ る 源 氏 の「四 十」 の「賀」 の 宴 を 主 催 す る 場 面 に おいて、その他の和歌を引き用いたという可能性はないのだろうか。   『河海抄』は、 「尙侍藤原朝臣(滿子 (」の「四十算賀」を准拠の例の一つとして挙げているが、 「滿子」が関わる賀は 他にもある。第二章で挙げた『素性集』の和歌は、 『古今和歌集 ((( ( 』巻第七、賀歌に採録されていて、 「内侍のかみ」が賀 の主催者である。    内侍のかみの右大将ふぢはらの朝臣の四十賀しける時に、四季のゑかける    うしろの屛風にかきたりけるうた     (そせい法し ( かすがの にわかなつみつつよろづ世をいはふ心は神ぞしるらむ  (『古今和歌集』巻第七   賀歌   三五七   新編国歌大観 (   さて、 『古今和歌集』は幸いに多くの写本が伝来しているが、 『古今集校本 ((( ( 』によると、いずれの本文も「かすかの」 の「わかな」となっている。このことから、当該和歌は「かすかの」の「わかな」の本文で享受されてきたといえよう。   と こ ろ で、 当 時 の 貴 族 の 人々に とって、 『古 今 和 歌 集』 は 必 須 の 教 養 で あった。 村 上 天 皇 女 御 の 藤 原 芳 子 は『古 今 和 歌 集』 二 十 巻 を 全 て 暗 記 し て い た と い う。 ま た、 『源 氏 物 語』 梅 枝 巻 に は、 明 石 の 姫 君 の 裳 着 に 際 し て、 蛍 兵 部 卿 宮 か ら、 「延喜帝の、古今和歌集」が贈られる場面がある。さらに、 『源氏物語』若紫巻には、源氏が北山に紫のゆかりの少 ((

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女を見いだして、後見を申し出る場面があるが、その際に祖母の尼君が、 尼 君   ゆ く て の 御 事 は、 な ほ ざ り に も 思 ひ た ま へ な さ れ し を、 ふ り は へ さ せ た ま へ る に、 聞 こ え さ せ む 方 な く な む。 まだ難波津をだにはかばかしうつづけはべらざめれば、かひなくなむ。  (『源氏物語』若紫巻   二二八~二二九頁 ( と返答している。尼君は若紫の少女のことを「まだ 難波津をだにはかばかしうつづけはべらざめれば、かひなくなむ」 というが、この「難波津」は、 『古今和歌集』仮名序の「そへうた」の例歌 むくさのひとつにはそへうた、おほさざきのみかどをそへたてまつれるうた   なにはづにさくやこの花ふゆごもりいまははるべとさくやこのはな といへるなるべし  (『古今和歌集』仮名序   新編国歌大観 ( の こ と で あ る。 尼 君 は、 若 紫 の 少 女 が ま だ 幼 く て、 『古 今 和 歌 集』 仮 名 序 の「そ へ う た」 の 例 歌 で あ る と こ ろ の「難 波 津」の歌、これは「手習歌」でもあるのだが、その「難波津」の歌さへ、連綿で書くことができないと言っているので あ る。 こ の こ と か ら も、 『古 今 和 歌 集』 が 当 時 の 貴 族 社 会 に お い て 必 須 の 教 養 で あった こ と は、 知 る こ と が で き る だ ろ う。   な お、 『古 今 和 歌 集』 巻 第 七、 賀 歌、 三 五 七 番 歌 は、 「後 人 の 書 き 入 れ」 と す る 説 が 有 力 で は あ る も の の、 『古 今 和 歌 『源氏物語』若菜上巻における源氏の四十の賀の准拠 ((

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集』仮名序に、 「いはひうた」の例歌として、採録されている。   ところで、片桐洋一氏は、 『古今和歌集全評釈(上 ( ((( ( 』の「古今和歌集総説」で、 「『古今集』の伝本」についての解説 をなされている。その中で、 「元永本」については、 元永三年(一一二〇 ( 七月二十四日書写の奥書を持っていて書写年代がわかるのと、仮名序および巻一~二十のす べてを備えた完本として存在しているのは平安時代書写の『古今集』としては唯一の例であって貴重である。源俊 頼 の 筆 と 伝 え て い た が、 近 年 は 藤 原 定 実 の 筆 と す る の が 通 説 に なって い る。 東 京 国 立 博 物 館 所 蔵 の 国 宝。   (四 三 頁 ( と記されている。   東京国立博物館所蔵『古今和歌集(元永本 ( ((( ( 』の仮名序には、   むつにはいはゐ哥 このとのはむへもとみけりさ きくさのみつはよつはにとの つくりせり といへることのたくひなるへし これはよをほめてかみにつかは ((

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ふるなりこの哥いはゐ哥とはみえ すなむある 春日野にわかなつみつゝよろ つよをいはふ心は神そしる らむ これらやすこしかなふへからむ とある。 『古今和歌集   元永本』は、 「元永三年(一一二〇 ( 七月二十四日」の書写奥書を持つことから、紫式部が活躍 していた時代から約百年後に書写された『古今和歌集』の写本の仮名序の本文に、 「いはゐ哥」の例歌として、 「春日野 にわかなつみつゝよろつよをいはふ心は神そしるらむ」という和歌が存在していたことがわかる。   また、今日の我々は、藤原定家が校合書写した青表紙本系統の『源氏物語』の本文に拠るところが多いが、その藤原 定家筆『古今和歌集   嘉禄二年本 ((( ( 』の仮名序には、 むつにはいはひうた   このとのはむへもとみけりさきくさの   みつはよつはにとのつくりせりといへるなるへし    これは世をほめて神につくる也このうたいはひ    うたとは見えすなむあるかすかのにわかなつ 『源氏物語』若菜上巻における源氏の四十の賀の准拠 ((

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   みつゝよろつ世をいはふ心は神そしるらむ    これらやすこしかなふへからむ とある。藤原定家が嘉禄二年に書写した『古今和歌集』の仮名序の本文にも、 「いはひうた」の例歌として、 「かすかの にわかなつみつゝよろつ世をいはふ心は神そしるらむ」という和歌が存在していたことがわかる。   『古今和歌集』仮名序の「いはひうた」の例歌の「かすかの(春日野 ( に…」の和歌については、 「後人の書き入れ」 とする説が有力ではあるものの、誰がどの時点で「書き入れ」をしたのかには、諸説ある。   顯昭の『古今集序注 ((( ( 』には、 ムツニハイハヒウタ   コノトノハムベモトビケリサキクサノミツバヨツバニトノヅクリセリ トイヘルコトノタグヒナルベシ。 古注云、コレハヨヲホメテカミニツグルナリ。コノ歌イハヒウタトハミエズナムアル。   カスガノニワカナツミツヽヨロヅヨヲイハフコヽロハ神ヤシルラン コレラヤスコシカナフベカラン。オホヨソムクサニワカレムコトハ、エアルマジキコトニナム。     公 任 卿 注 云、 六 曰 レ頌、 注 云、 美 二 德 之 形 容 一、 吿 二 明 一也。 祝 歌 之 體 也。 抑 風 雅 頌 者 異 レ 體、 賦 比 興 者 異 レ詞。 以 二彼三詞此三形云々。    [下略] ((

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とある。   小沢正夫氏は「平安前期の歌論と中国詩論 ― 藤原公任の歌論を中心として ― 」( 『古今集と漢文学 ((( ( 』所収 ( において、 [上略]顕昭は「古注」と「公任注」との二語を使い分けているのだから、 『顕昭注』だけを資料として考えるなら ば、 「公 任 注」 と は 真 名 序 だ け の 注 だ と い う こ と に な ろ う。 仮 名 序 古 注 の 筆 者・ 年 代 な ど は 明 ら か で な い が、 公 任 はこれを知っていて、真名序の注を執筆しながら古注に対して不満を感じたこともあったと思う。   (二四四頁 ( と記されている。   顯昭の『古今集序注』には「古注」と「公任卿注」の区別がある。そして、顯昭の『古今集序注』の書誌学的な位置 は、 「古注」が「公任卿注」に先行して記されている。そうしたことから、小沢氏が指摘をされたように、 「仮名序古注 の筆者・年代」などは明らかではないが、公任はこの「古注」の「書き入れ」を知っていたと考えても良いであろう。 そうすると、藤原公任と同時代の紫式部も、 『古今和歌集』仮名序の「いはひうた」の例歌に、 「春日野(かすかの ( に わかなつみつゝよろつよ(世 ( をいはふ心は神そしるらむ」の和歌があることを知り得ていたことになる。   ところで、 『古今和歌集』巻第七、賀歌、三五七番歌は、 『素性集』より採録されているが、その『素性集』の詞書を 確認しておこう。新編私家集大成の『素性集Ⅰ』 (冷泉家時雨亭叢書『平安私家集一』所収、 『素性集   色紙本』 ( には、    右大将四十賀屛風に、わかな 『源氏物語』若菜上巻における源氏の四十の賀の准拠 ((

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かすかのにわかなつみつゝよろつよをいはふこゝろは神そしるらん  (『素性集Ⅰ』   四〇   新編私家集大成 ( とあり、詞書から、 「右大将」の「四十賀」の「屛風」のために、 「わかな」という題で詠まれた和歌であることが知ら れる。また、同歌は、 『素性集Ⅲ』 (冷泉家時雨亭叢書『平安私家集七』所収、 『素性法師集   唐草装飾本』 ( には、    いつみの大将の卌賀の屛風に 春日野にわかなつみつゝよろつよをいはふ心は神そしるらん  (『素性集Ⅲ』   四一   新編私家集大成 ( とあり、詞書から、 「いつみの大将」の「卌(四十 ( 賀」の「屛風」のために詠まれた和歌であることが知られる。   この「いつみの大将」の「卌(四十 ( 賀」の「屛風」について、 『貫之集 ((( ( 』には、    延喜五年二月いづみの大将四十賀屛風のうた、おほせごとにてこれをたてまつる 夏山のかげをしげみや玉鉾のみちゆき人も立ちとまるらん  (『貫之集』   一   新編国歌大観 ( とあり、詞書から、 「いづみの大将」の「四十賀」の「屛風のうた」は、 「延喜五年二月」に帝の「おほせごと」により、 詠進されたことが知られる。そして、この和歌は、 『拾遺和歌集』巻第二、夏、一三〇番歌にも採録されている。   また、 『忠岑集 ((( ( 』には、 「右大将」の「四十のが(賀 (」の「びやうぶ(屛風 (」ということで、 ((

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   右大将さだくにが四十のがのびやうぶ、うちよりてうじてつかはしける おはらぎのもりのしたくさしげりあひてふかくもなつのなりにけるかな  (『忠岑集』   一七〇   新編国歌大観 ( という和歌がある。詞書から、 「右大将」であった「さだくに(定國 (」の「四十のが(賀 (」の「びやうぶ(屛風 (」の ための和歌が、 「うち(内裏 (」からの仰せごとにより、詠進されたことがわかる。そして、この和歌は、 『拾遺和歌集』 巻第二、夏、一三六番歌にも採録されている。   なお、 『公卿補任 ((( ( 』によると、 「延喜五年」に「定國」は「大納言」であり、 「右大將」を兼任している。   ところで、 『古今和歌集』巻第七、賀歌、三五七番歌については、片桐洋一氏が『古今和歌集全評釈(中 ( ((( ( 』の「鑑賞 と評論」の中で、 [上略] 『古今集』の詞書では明らかでないが、 [中略] 『貫之集』において[中略] 「延喜五年二月[中略] 、泉の大 将の四十の賀の屛風の歌、仰せごとにてこれを奉る」とあって、妹の尚侍満子の主催になっている泉の大将藤原定 国の四十の賀は醍醐天皇の配慮に基づくものであることが知られる。ちなみに醍醐天皇の生母はこの尚侍の姉にあ たる胤子であり、天皇にとって定国は叔父。満子は叔母にあたるわけである。 [中略]   さて、この屛風の絵は、一月の年中行事である若菜摘みをそれに最もふさわしい名を持つ春日野に描く。そして 若菜を摘んでいる画中の人物が「神ぞ知るらむ」と言っているように遠景に春日神社の神殿が描かれていることに よってそれが春にふさわしい春日野であることがわかるのだが、春日神社は藤原氏の氏神であるから藤原氏の繁栄 を寿いでいることにもなる。また光源氏の四十の賀に玉鬘が若菜を奉る『源氏物語』若菜の巻を思い出すまでもな 『源氏物語』若菜上巻における源氏の四十の賀の准拠 ((

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く、若菜摘みの景を描くことによって定国の四十の賀を祝福しているのも明らかなのである。   (三五八頁 ( と記されている。片桐氏は、 「醍醐天皇の配慮」により、 「尚侍満子」が兄の「藤原定国」の「四十の賀」を主催したと いうことを指摘されている。また、 『古今和歌集』巻第七、賀歌、三五七番歌から、 『源氏物語』若菜上巻、源氏の「四 十」 の「賀」 に 玉 鬘 が「若 菜」 を 奉 る 場 面 を 連 想 さ れ て い た こ と が わ か る。 し か し、 『古 今 和 歌 集』 巻 第 七、 賀 歌、 三 五七番歌が詠まれたところの行事、 「醍醐天皇の配慮」により、 「尚侍満子」が兄の「藤原定国」の「四十の賀」を主催 したということが、 『源氏物語』若菜上巻、 「尚侍」である玉鬘が源氏の「四十」の「賀」を催す場面の准拠となってい るということまでは、指摘をされてはいない。   小町谷照彦氏は「算賀」 (「貴族の通過儀礼」 『平安時代の儀礼と歳事 ((( ( 』所収 ( において、 「行事の記録」をまとめられ ているが、その内容によれば、一月から三月の春の時期に女性が主催者となって親族の男性の「四十賀」を行なってい る の は 二 例 の み で あ る。 そ の 中 で も、 「尚 侍」 の 女 性 が 主 催 者 と なった の は、 こ の『古 今 和 歌 集』 巻 第 七、 賀 歌、 三 五 七番歌の詞書にある「内侍のかみの右大将ふぢはらの朝臣の四十賀しける時に、四季のゑかけるうしろの屛風にかきた りけるうた」のみである。   ここで、 『源氏物語』若菜上巻、 「尚侍」である玉鬘が養父である源氏に「四十」の「賀」として「若菜」を献上し、 賀宴を催す場面と、 『古今和歌集』巻第七、賀歌、三五七番歌を比較しておこう。   『古 今 和 歌 集』 の 詞 書 に よ る と、 「内 侍 の か み」 の 女 性 が 兄 の「四 十 賀」 を 主 催 し て い て、 『源 氏 物 語』 で は「尚 侍」 の女性が養父の源氏の「四十」の「賀」を主催している。これらは、 「内侍のかみ(尚侍 (」の女性が親族の男性の「四 十」の「賀」の主催者であるという点で一致している。 ((

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  また、 『古今和歌集』の詞書から、うしろの「屛風」に和歌が書きつけられていたことが知られる。そして、 『源氏物 語』にも「屛風」が設えられている。   さ ら に、 和 歌 の 表 現 に つ い て で あ る が、 『古 今 和 歌 集』 の 和 歌 に は「か す が の(春 日 野 (」 の「わ か な(若 菜 (」 が 詠 ま れ て い て、 『源 氏 物 語』 の 源 氏 の 和 歌 に は「野 辺」 の「若 菜」 が 詠 ま れ て い る。 そ し て、 『古 今 和 歌 集』 の 和 歌 に は 「よ ろ づ 世 を い は ふ 心 は 神 ぞ し る ら む」 と 賀 の 主 催 者 で あ る 満 子 が 兄 の 藤 原 定 国 の 長 寿 を 祈 る 心 を 素 性 法 師 が 代 詠 し て い て、 『源 氏 物 語』 で は「も と の 岩 根 を い の る 今 日 か な」 と 賀 宴 の 主 催 者 で あ る 玉 鬘 が 養 父 の 源 氏 の 長 寿 を 祈 る 心 を 和 歌に詠んでいる。   こ の よ う に、 『古 今 和 歌 集』 巻 第 七、 賀 歌、 三 五 七 番 歌 は、 『源 氏 物 語』 若 菜 上 巻 に お い て、 「尚 侍」 で あ る 玉 鬘 が 養 父の源氏の「四十」の「賀」を主催して「若菜」を奉る場面の構成と類似する点も多い。このことから、紫式部が当該 場 面 を 構 想 す る に あ た り、 『古 今 和 歌 集』 巻 第 七、 賀 歌、 三 五 七 番 歌 の 詞 書 や 和 歌 の 素 材、 詠 作 主 体 の 心 情 を、 物 語 の 構成として引き用いたという可能性もあるであろう。   後藤祥子氏は、 「引歌表現の諸問題 ― 源氏物語を中心に ― 」( 『和歌と物語 ((( ( 』所収 ( の中で、 「構想の核としての引歌」 として、 「特定の古歌がモチーフそれ自体となって物語をすすめている場合は少なくない」 (七五頁 ( と指摘をされてい る。   ところで、 「尙侍」の「滿子」は「藤原」氏であるが、玉鬘はどうであろうか。   玉鬘は、若かりし頃の頭中将と亡き夕顔の遺児である。 『源氏物語』玉鬘巻の「長谷寺参詣」の場面において、玉鬘 の一行と右近とが偶然の再会を果たすのであるが、右近はこの時、玉鬘のことを「藤原の瑠璃君」 (『源氏物語』玉鬘巻   一一二~一一三頁 ( と呼んでいる。 『源氏物語』若菜上巻における源氏の四十の賀の准拠 ((

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  また、 『源氏物語』行幸巻においては、源氏が玉鬘の裳着と尚侍としての出仕を急ぐ場面に、 [上略]思しよることもあらむには、春日の神の御心違ひぬべきも、 [中略] この御腰結にはかの大臣をなむ、 [下略]  (『源氏物語』行幸巻   二九五~二九七頁 ( と 記 さ れ る。 玉 鬘 は、 本 来 は 藤 原 氏 の 出 自 で あ る の に、 そ れ を 隠 し て こ の ま ま 源 氏 と し て 出 仕 を す る の で は、 「春 日 の 神の御心」にそむくことになるであろうから、玉鬘の裳着の儀の御腰結の役にはあの内大臣を、と源氏は考えて、玉鬘 の実父である藤原の内大臣に玉鬘の裳着の儀の御腰結の役を頼み、親子の名のりをさせるのである。   これらのことから、玉鬘の出自は藤原氏であることは明らかである。そして、玉鬘は源氏の養女でもあることから、 藤原氏と源氏の両方の側面をあわせ持つ人物として描かれている。   ここで、もう一度、玉鬘が主催した源氏の「四十」の「賀」について、考察を加えておこう。 『尊卑分脉 ((( ( 』によれば、 醍醐天皇の御代に「尙侍」として出仕をした「滿子」は、内大臣であった「高藤」の女子であり、同母の姉には「醍醐 天皇御母」の「胤子」がいる。また、同母の兄は「定國」の他に、右大臣となった「定方」もいる。この「定方」には 女子が複数あり、一人は紫式部の曾祖父の「兼輔」の室、一人は紫式部の祖父の「雅正」の室である。つまり、紫式部 の 父 方 の 祖 母 は「定 方」 の 女 子 で あ り、 ま た、 紫 式 部 の 父 方 の 曾 祖 母 も「定 方」 の 女 子 で あった。 そ し て、 そ の「定 方」の同母の妹が醍醐天皇の御代に「尙侍」として出仕をした「滿子」だったのである。   今 井 源 衛 氏 は、 「紫 式 部 の 父 系」 (『紫 林 照 径 ― 源 氏 物 語 の 新 研 究 ((( ( ― 』 所 収 ( の 中 で、 紫 式 部 の 曾 祖 父 の 兼 輔 の 和 歌 や 祖父の雅正の和歌が、 『源氏物語』の中で引き用いられていることを指摘されている。 ((

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  こ の よ う に、 紫 式 部 と ゆ か り の あ る 人 物 の 有 名 な 和 歌 が、 『源 氏 物 語』 の 中 に 引 き 用 い ら れ て い る と い う こ と か ら、 『古今和歌集』巻第七、賀歌、三五七番歌、 「内侍のかみ」である満子が兄の藤原定国の「四十賀」を主催した折に和歌 が詠まれた記録を、 『源氏物語』の若菜上巻において、 「尚侍」の玉鬘が養父である源氏の「四十」の「賀」を主催する 場面の准拠として、引き用いたという可能性も、考えられるであろう。   小町谷照彦氏は「算賀」 (「貴族の通過儀礼」 『平安時代の儀礼と歳事 ((( ( 』所収 ( において、 「行事の記録」をまとめられ ているが、その内容によれば、一月から三月の春の時期に、女性が主催者となって親族の男性の「四十賀」を行なって い る の は、 二 例 で あった が、 も う 一 例 は、 『九 暦』 の 天 暦 元 年(九 四 七 年 ( 二 月 十 七 日 の 条 に あ る、 女 御 藤 原 安 子 が 父 大納言師輔の「四十賀」を主催したという記録である。   『九 曆 ((( ( 』 の 天 曆 元 年 二 月 十 七 日 の 条 を 確 認 し て み る と、 「(天 曆 元 年 二 月 ( 十 七 日、 女 御 爲 賀 予 卌 筭・ ― 」 と あ る。 ま た、 東 京 大 學 史 料 編 纂 所 編、 大 日 本 古 記 錄 の『九 曆』 の 注 釈 に よ れ ば、 「女 御 藤 原 安 子 父 師 輔 ノ 四 十 算 賀 ヲ 行 フ」 と あった。   『源 氏 物 語』 若 菜 上 巻 で は、 「尚 侍」 で あ る 玉 鬘 が 養 父 の 源 氏 の「四 十」 の「賀」 を 主 催 し て い る こ と か ら、 『古 今 和 歌集』巻第七、賀歌、三五七番歌により、 「内侍のかみ」の女性が「四十賀」を主催するという点を用いて、 『九曆』の 天曆元年二月十七日の条より、女性が「 父 」の「四十」の「賀」を主催するという点を用いたという可能性も考えられ る。   また、 『源氏物語』若菜上巻で、 「尚侍」である玉鬘が養父の源氏の「四十」の「賀」を主催して「若菜」を奉る場面 『源氏物語』若菜上巻における源氏の四十の賀の准拠 ((

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を構想するにあたり、 『伊勢集Ⅰ』 、六二番歌( 『拾遺和歌集』巻第五、賀、二八五番歌 ( と、 『古今和歌集』巻第七、賀 歌、三五七番歌の、和歌の素材や詠作主体の心情を引き用いているとも考えられるであろう。いずれにしても、紫式部 の父方の祖母と父方の曾祖母にゆかりの女性であるところの「尙侍」の「滿子」が関係する「四十」の「賀」に際して 詠まれた和歌である。   『源氏物語』蛍巻には、源氏が玉鬘に物語についての論を語る場面として、 源 氏 「[上 略] 神 代 よ り 世 に あ る こ と を 記 し お き け る な な り。 日 本 紀 な ど は た だ か た そ ば ぞ か し。 こ れ ら に こ そ 道々しくくはしきことはあらめ」 [中略] 源 氏 「そ の 人 の 上 と て、 あ り の ま ま に 言 ひ 出 づ る こ と こ そ な け れ、 よ き も あ し き も、 世 に 経 る 人 の あ り さ ま の、 見 るにも飽かず聞くにもあまることを、後の世にも言ひ伝へさせまほしきふしぶしを、心に籠めがたくて言ひおきは じめたるなり。  (『源氏物語』蛍巻   二一二頁 ( と あ る。 こ こ で は、 物 語 と い う も の は、 神 代 よ り 世 の 中 に あった こ と を 記 し た も の で あ り、 『日 本 書 紀』 以 下 の 歴 史 書 の内容は、ほんの一面にすぎないものであって、物語にこそ道理にかなう、委細を尽くした事柄が記されている。また、 誰それの身の上として、ありのままに言うことはないにしても、良いことであれ悪いことであれ、この世の中を生きて いる人の有様の、見ているだけでは物足りないこと、人から聞いてそのまま聞き流しにはしておけないこと、後の世に も言い伝えさせたいと思われる事柄の一つ一つを、心に留めきれずに言い伝えはじめたのが物語である、といった内容 のことが述べられている。蛍巻の源氏を通じて、作者の物語についての考え方が記される部分である。 ((

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  さ ら に、 『紫 式 部 日 記 ((( ( 』 の 寛 弘 七 年 正 月 二 日 の 条 に は「初 子 の 日」 の こ と が 記 録 さ れ て い る が、 そ の 際 に、 藤 原 道 長 が古歌を引用する場面がある。その時の紫式部の感想として、 あたらしからむことよりも、折ふしの、人の御有様、めでたくおぼえさせたまふ。  (『紫式部日記』   二一七頁 ( と記されている。紫式部は、こうした行事などの折には、新しく和歌を詠ずるよりも古歌を引用することの方が趣深い としているのである。   紫式部は、虚構の物語である『源氏物語』の構想を行なうにあたり、歴史上の出来事を物語の素材として用いている。 それと同じように、有名な古歌の和歌の素材や詠作主体の心情を物語の中に取り込んでいる。そうした例の一つとして、 『源氏物語』若菜上巻、 「尚侍」の玉鬘が源氏の「四十」の「賀」を主催する場面について、紫式部の父方の祖母や曾祖 母とゆかりの人物であり、醍醐天皇の御代に「尙侍」として出仕をした「滿子」の「四十」の「賀」の行事の記録やそ の 折 に 詠 ま れ た 和 歌 で あ る と こ ろ の『伊 勢 集 Ⅰ』 、 六 二 番 歌( 『拾 遺 和 歌 集』 巻 第 五、 賀、 二 八 五 番 歌 ( や、 同 じ「尙 侍」の「滿子」が兄の「定國」の「四十」の「賀」を主催した折に詠まれた『古今和歌集』巻第七、賀歌、三五七番歌 の、和歌の素材や詠作主体の心情を、准拠として用いている可能性はあると考えられるであろう。 『源氏物語』若菜上巻における源氏の四十の賀の准拠 ((

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注 ( ((   阿部秋生・今井源衛・秋山虔・鈴木日出男校注   『源氏物語』   新編日本古典文学全集   小学館 ( ((   山 中 裕   「『源 氏 物 語』 若 菜 巻 に つ い て」 (『源 氏 物 語 の 史 的 研 究』 所 収   思 文 閣 史 学 叢 書   思 文 閣 出 版   一 九 九 七 年 六 月 ( ( ((   浅尾広良   「光源氏の算賀 ― 四十賀の典礼と准拠 ― 」( 『源氏研究   第七号』所収   翰林書房   二〇〇二年四月 ( ( ((   『河海抄』若菜上   (玉上琢彌編   『紫明抄・河海抄』所収   角川書店   昭和四十三年六月 ( ( ((   『孟津抄』若菜上   (野村精一編   『孟津抄   中巻』所収   桜楓社   昭和五十六年二月 ( ( ((   『岷江入楚』若菜上   (中野幸一編   『岷江入楚   自廿七篝火   至四十二雲隠』所収   武蔵野書院   平成九年十月 ( ( ((   私家集大成『伊勢集Ⅰ』の底本は、西本願寺本三十六人家集『いせ』 。 ( ((   私 家 集 大 成『伊 勢 集 Ⅱ』 の 底 本 は 伝 飛 鳥 井 雅 子 筆 本 で、 そ の 本 文 の 系 統 は、 も と 禁 裏 御 本 で あった も の を 三 条 西 実 隆 が転写して流布したものである。 ( ((   私家集大成『伊勢集Ⅲ』の底本は、正保版本歌仙家集の『伊勢集』である。 ( (((   新 編 国 歌 大 観『拾 遺 和 歌 集』 の 底 本 に は、 延 宝 五 年(一 六 七 七 ( に 中 院 通 茂 が 用 字・ 字 配 り・ 筆 跡 ま で 含 め て 定 家 自 筆本を全くそのままに臨写した京都大学附属図書館所蔵中院本が用いられている。 ( (((   新編国歌大観『古今和歌六帖』の底本は、宮内庁書陵部蔵桂宮旧蔵本である。 ( (((   清 水 婦 久 子「源 氏 物 語 の 和 歌 と 引 歌 ― 和 歌 か ら 物 語 り へ ― 」( 『源 氏 物 語 の 展 望   第 七 輯』 所 収   三 弥 井 書 店   平 成 二 十二年三月 ( ( (((   新編国歌大観『拾遺抄』の底本は、宮内庁書陵部本である。 ( (((   『能因歌枕(廣本 (』 (佐佐木信綱編   『日本歌学大系   第一巻』所収   風間書房   昭和三十二年三月 ( ( (((   『八雲御抄』 (久曽神昇編   『日本歌学大系   別巻三』所収   風間書房   昭和三十九年五月 ( ( (((   『五代集歌枕』 (久曽神昇編   『日本歌学大系   別巻一』所収   風間書房   昭和三十四年六月 ( ((

(29)

( (((   新編国歌大観『頼基集』の底本は、西本願寺本である。 ( (((   新編国歌大観『忠見集』の底本は、西本願寺本である。 ( (((   『素 性 集 Ⅰ』 の 本 文 は、 新 編 私 家 集 大 成『素 性 集 Ⅰ』 の 翻 刻 を 参 照 し つ つ、 冷 泉 家 時 雨 亭 叢 書『平 安 私 家 集 一』 所 収、 『素性集   色紙本』の影印によった。 ( (((   『素 性 集 Ⅲ』 の 本 文 は、 新 編 私 家 集 大 成『素 性 集 Ⅲ』 の 翻 刻 を 参 照 し つ つ、 冷 泉 家 時 雨 亭 叢 書『平 安 私 家 集 七』 所 収、 『素性法師集   唐草装飾本』の影印によった。 ( (((   『素 性 集 Ⅱ』 の 本 文 は、 新 編 私 家 集 大 成『素 性 集 Ⅱ』 の 翻 刻 を 参 照 し つ つ、 冷 泉 家 時 雨 亭 叢 書『平 安 私 家 集 一』 所 収、 『素性集   唐紙本』の影印によった。 ( (((   小町谷照彦校注   『拾遺和歌集』   新日本古典文学大系   岩波書店   一九九〇年一月 ( (((   『日本紀略』 (『日本紀略後篇・百鍊抄』所収 (  新訂增補國史大系   黑板勝美編   吉川弘文館   昭和四年十二月 ( (((   『西宮記   第二』   故実叢書編集部編   明治図書出版   一九九三年六月 ( (((   新編国歌大観『古今和歌集』の底本は、伊達家旧蔵本(複製 ( である。 ( (((   西下経一・滝沢貞夫   『古今集校本 [新装ワイド版] 』  笠間書院   二〇〇七年十一月 ( (((   片桐洋一   『古今和歌集全評釈(上 (』   講談社   一九九八年二月 ( (((   東京国立博物館所蔵   国宝『古今和歌集(元永本 (』   e國寶(国立博物館所蔵国宝・重要文化財データベース ( 参照。 ( (((   藤 原 定 家 筆   『古 今 和 歌 集   嘉 禄 二 年 本 』( 『古 今 和 歌 集   嘉 禄 二 年 本 /古 今 和 歌 集   貞 応 二 年 本 』 所 収   冷 泉 家 時 雨 亭 叢書   冷泉家時雨亭文庫編   朝日新聞社   一九九四年十二月 ( ( (((   『古今集序注』 (『日本歌学大系   別巻四』所収   風間書房   昭和五十五年四月 ( ( (((   小 沢 正 夫   「平 安 前 期 の 歌 論 と 中 国 詩 論 ― 藤 原 公 任 の 歌 論 を 中 心 と し て ― 」( 『古 今 集 と 漢 文 学』 所 収   和 漢 比 較 文 学 叢書   和漢比較文学会編   汲古書院   平成四年九月 ( ( (((   新編国歌大観『貫之集』の底本は、陽明文庫本である。 『源氏物語』若菜上巻における源氏の四十の賀の准拠 ((

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( (((   新編国歌大観『忠岑集』の底本は、書陵部蔵御所本丙類『忠岑集』である。 ( (((   『公卿補任』   新訂增補 國史大系   黑板勝美編   吉川弘文館 ( (((   片桐洋一   『古今和歌集全評釈(中 (』   講談社   一九九八年二月 ( (((   小町谷照彦   「算賀」 (「貴族の通過儀礼」 『平安時代の儀礼と歳事』所収   山中裕他編   至文堂   平成六年二月 ( ( (((   後 藤 祥 子   「引 歌 表 現 の 諸 問 題 ― 源 氏 物 語 を 中 心 に ― 」( 『和 歌 と 物 語』 所 収   和 歌 文 学 論 集   風 間 書 房   平 成 五 年 九 月 ( ( (((   『尊卑分脉』   新訂增補 國史大系   黑板勝美編   吉川弘文館 ( (((   今 井 源 衛   「紫 式 部 の 父 系」 (『紫 林 照 径 ― 源 氏 物 語 の 新 研 究 ― 』 所 収   角 川 書 店   昭 和 五 十 四 年 十 一 月 ((初 出   『源 氏物語講座   第六巻』所収   有精堂出版   昭和四十六年十二月 ( ( (((   『九曆』   大日本古記錄   東京大學史料編纂所編   岩波書店   昭和三十三年三月 ( (((   中 野 幸 一 校 注   『紫 式 部 日 記』 (『和 泉 式 部 日 記・ 紫 式 部 日 記・ 更 級 日 記・ 讃 岐 典 侍 日 記』 所 収   新 編 日 本 古 典 文 学 全 集   小学館   一九九四年九月 ( 付 記   本文の引用は、基本的に、字体等全てがそれぞれの本文の翻刻のままであって、特に統一はしていない。 ((

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︿原氏系図﹀  『尊卑分脉』 ( 新訂 增補 國史大系   吉川弘文館 ( を基に、私に摘記、作成した。 內大臣 足 右大臣 不 比 等 藏人頭 冬 嗣 攝政 太政大臣 良 房 真 內 麿 長 良 攝政関白 基 經 文德后 淸和母后 女 子   明 子 大言 定 國 基 經 元 名 賴 女 子 女 子 女 子 敦 敏 右大臣 師 輔 号九條殿 攝政 太政大臣 伊 尹 攝政 內大臣 攝政 太政大臣 長 円融院后 一條院母后 女 子   子 綱 関白 太政大臣 攝政関白 太政大臣 家 村上后 冷泉円融母后 女 子   安 子 攝津守 丹波守 爲 賴 太政大臣 公 季 陸奥守 爲 長 宣 孝 權中言 爲 輔 関白太政大臣 賴 忠 宇多天皇女御 醍醐天皇御母 胤 子 母 同 良 門 內大臣 高 延喜御代 尙侍   母同 女 子   滿 子 右大臣左大將 定 方 母同定國 号三條右大臣 右中將 利 基 越後守 爲 時 上東門院女房 女 子 紫 式 部 中言 輔 号堤中言 周防守 豊守 雅 正 攝政太政大臣 實 賴 号小野宮殿 權中言 範 常陸介 爲 信 紫式部母 女 子 能筆 佐 理 才人 公 任 近江守 参議 淸 經 南家 武 智 麿 北家 参議 房 前 式家 参議 宇 合 京家   麿   文武天皇妃 聖武天皇母后 宮 子 聖武天皇妃 孝天皇母后 光 明 子 左大臣橘諸兄公室 多 比 能 醍醐后 朱雀村上母后 女 子   穏 子 左大臣 時 平 左大臣 師 尹 村上女御 芳 子 攝政関白 太政大臣 忠 平 後一條院 御乳母 賢 子 『源氏物語』若菜上巻における源氏の四十の賀の准拠 ((

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