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鎌倉時代の興福寺と国司・守護

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(1)

奈良教育大学学術リポジトリNEAR

鎌倉時代の興福寺と国司・守護

著者 泉谷 康夫

雑誌名 高円史学

巻 1

ページ 1‑17

発行年 1985‑10‑10

URL http://hdl.handle.net/10105/8615

(2)

鎌倉時代の興福寺と国司・守護

は   じ   め   に

泉 谷

大和国では︑中世において︑興福寺が国内を支配していたといわれてい右︒たしかにその通りであるが︑鎌倉時代には引

続き国司の補任がみられるし︑一時的にせよ守護の置かれたこともある︒従って︑鎌倉時代の大和国の興福寺と国司・守護

との関係については︑もう少し史料に則し詳細にみてゆく必要があるように思われる︒

本稿は︑かかる観点から︑鎌倉時代の大和国の国司・守護に焦点をあて︑考察を加えようとするものである︒しかし︑興

福寺による大和国支配はすでに平安末期にはじまっているといわれているので︑平安末期における国司の大和国支配の実態

を明らかにすることから︑本稿の考察を始めることにしたい︒

一   平 氏 と 大 和 国

ー 1

平氏と大和国との関係について述べるのに先だち︑摂関家と大和国との関係について述べておく必要があるようである︒

(3)

摂政藤原忠通は︑天養元年︵二四四︶︑大和国の知行国主になると︑近臣源清忠を大和国守に申し任じたが︑吏務は自

ら行い︑大和田の田地の検注を行おうとした︒これに対し︑興福寺の僧徒等は強く反対し検注を中止するよう申し入れたが︑

忠通は﹁難頂準︑於寺僧領藷不可為頂領−︑何語止検注寸﹂といって聞きいれず︑検注を強行しようとした︒僧

徒等はなおも訴えたため︑忠通は少し譲歩し︑﹁至等寺僧領一止享l検使︑於.検注盲所不許也﹂ということにした︒

すなわち︑寺僧領に検注使を入れることはしないが︑検注は行うというのである︒その理由は︑﹁不検握者︑不可分−

1

別与僧領一与巾他渾之故﹂であった︒忠通の検注強行に南都の衆徒は遂に蜂起し︑忠通が検注のため大和国に派達した﹁直

殿侍男共﹂を拘留し︑大和守源清忠の配流を要求した︒清忠は翌年石見守に遷任され︑事件は落着をみね︒

右で注目すべきは︑忠通が﹁於寺僧領一者不可為国領﹂と述べている点である︒寺僧領を国領としないということは︑

寺僧領からは租税である所当官物や雑役を徴収しないということである︒つまり︑寺僧領は庄園に準ずる扱いをうけること

になったのである︒しかし︑寺僧領に庄園領主は存在しないから︑年貢や公事を出す必要はなく︑所当官物や雑役は寺僧達

の 手 中 に 帰 し た も の と 考 え ら れ る l ︒

寺僧領不輪の状態はその後も続いていたようで︑兵範記の保元三年︵二五八︶七月十七日条には次のような記事がみえ

て い

る ︒

今日南京有合戦云々︑大和国併春日御社興福寺負所寺僧領知︑無二歩公田︑析賜増便六人︑国司重副一日代一可

l

検畢由︑去十三日被一宣下∴任−勅定一致︼沙汰一之問︑山階寺上座法橋信実与包司一親泥之問︑法橋奉行之処︑大衆結

l

1

鬱 ︑ 急 発 話 仔 実 住 房 一

︑ 信 実 整 兵 相 禦 ︑ 如 此 之 問

︑ 及

− 合 戦 一

︑ 両 方 相 互 申 矢 蒙 症 者 不 知 数 ︑ 其 庭 死 者 数 十

︑ 官

使逐電帰参云々︑

2 −

右で﹁大和国併春日御社興福寺等負所寺僧偵知︑無

l 歩

公 田

﹂と記しているのは︑興福寺雑役免田をはじめとする春日社

(4)

右で﹁大和国併春日御社興福寺等負所寺僧領知︑無−一歩公田﹂と記しているのは︑興福寺雑役免田をはじめとする春日社 4 や興福寺の負所からなる庄園がすべて寺僧領になっているため︑本来ならば国徳に入るべき所当官物や雑役がそこから全く

入らなくなっているということをいっているのである︒

興福寺の負所すなわち興福寺雑役免田畠は︑延久二年︵二︺七〇︶の坪付帳によると︑東諸郡一〇五五町五反一八歩︑西

諸郡七九八町六反三五二歩︑計一八五四町二反一〇歩である︒大和国の総田数は和名抄によると一七九〇五町九反一八〇歩

であるから︑総田数中で興福寺雑役免田の占める割合は一〇パーセント強である︒春日社の負所がどれほどあったか不明で

あるが︑それを加えると︑寺僧領として所当官物や雑役が国衝に入らなくなった田地はかなりの面積に及んだと考冬られる︒

興福寺と春日社の負所が寺僧領として不輪になったとすると︑その影響は東大寺をはじめとする他寺社の負所にも及んだで

あろうから︑国司としては︑その実態を把糎し対策を考える必要があったと思われるのである︒この時の国司が誰であった

か不明であるが︑官使六人を賜り︑重ねて官使に日代を副え大和国に派遣し田地の検注を行うようにとの宣旨を賜り︑検注

を強行したのは当然の措置であったといえる︒保元の庄園整理令がその背後にあったとすれば︑尚更のことである︒しかし︑

この検注の強行は失敗に終った︒

保元三年七月の検注強行失敗が︑大和国を平氏知行国とする直接のきっかけをつくったようである︒保元三年八月五日︑

平清盛の二男基盛が大和守になった︒大和国を知行国として給わった精密の申請によるものと考えられている︒清盛が知行

国主だったという確証はないが︑有本実氏の推定どお仇︑清盛はこの時の知行国主だったとしてよかろう︒清盛の大和国支

配については︑有本氏や高田実氏の詳細な分析があるのでそれらを参照しながら要点のみ記すことにしよう︒

清盛は︑家司中原貞兼を日代に任命し︑前年三月十七日に出された庄園整理令に基づいて大和国の検注を行った︒ただし︑

(5)

寺僧領においては検注使の供給を停止するという優遇措置を構じた︒これは︑先に摂政忠通が﹁止享検使︑於一検注.者

所不許也﹂といったのと同じ処置である︒寺社領庄園の検注にさいしては︑寺社に負所をも含む諸庄園の坪付帳などの公

験を提出させ︑それを参照したようである︒

東大寺領小東庄では︑先の忠通検注のさい作成された天養元年坪付帳がそのまま提出されたようで︑それに保元三年十二

mW

月十六日付の官使外題の付されているのがみられ葱この天養元年坪付帳は残っているのが案文で︑正確さという点では欠

けるところがあるかもしれないが︑これと︑清盛の検注に基づく﹁国検注馬上丸定﹂によって作成され東大寺に提出された

H

平治元年︵二五九︶六月四日付小東庄正末名注丸とを比較すると︑相違する点が多く︑検注は庄園領主である寺社の意向

とかかわりなく正確に行われたことが知られる︒ただし︑正末名注文で免田と記されている田地はいずれも康治二年︵

些ニ︶の小東庄坪付帳にみえる坪内で︑面積も超過していない︒康治二年坪付帳は公認の庄田をホすと思われるので︑これ

は︑検注にさいし︑本免田が尊重されたことを示すものであるといえ車

ここで一番問題となるのは︑清盛の検注における寺僧領の扱いである︒この検注が保元の庄園整理令に基づくもので︑こ

れによって検注が強行されたとすれば︑﹁於−寺僧領一者不可為国領﹂という摂関家によって作られた定めは破られ︑寺

一 lV

ハu

僧領は公領に編入されたはずである︒平治元年九月二日付大和国日代中原貞兼の下知状案には︑

東大寺御領

今西御庄 鋪設免 即寺槽偵

薬師寺御領

脇上庄 高宮庄 高天寺内常行堂領

多武峯領

(6)

Ah H

多武峯領 件三箇所御領︑去年官物御沙汰之間︑暫可砲廻一之由被一押下之後︑干今無音之条︑甚無謂事︑早相島子細・︑

止簡単可致其沙汰之︑就中今年所当尤可加一其催−之︑

とみえ︑寺僧領からなる東大寺鋪設免田から所当官物を徴収するよう命じているから︑寺僧領に対し厳しい態度でのぞんだ

ことが知られる︒これだけでもって寺僧領がすべて収公され公田になったと断言することはできないであろうが︑寺僧領に

対する清盛の態度の一端はうかがえよう︒従って︑源平の争乱にさいし︑南都の寺社がこぞって平氏に敵対したのもうなづ

けるところである︒

さて︑大和国に対する平氏の知行国支配は︑この後も引続き行われたわけでない︒応保二年︵二六二︶正月二十七日の

除目で大和守となった大江以平︑承安四年︵二七四︶正月二十一日の除目で大和守となった中原忠順は︑山根記除目部類

によると︑共に﹁外記巡﹂と記されている︒すなわち︑太政官の外記として長年務めた労によって大和守になったのである︒

外記巡は受領であるから︑彼等は国務を行ったとみなければならない︒しかし︑清盛のように院の近臣でもなく武力も有さ

ない彼等が︑南都の寺社勢力を相手に寺僧領の収公政策を継続しえたとは考え難いから︑大和国での庄園整理政策は︑この

時点で挫折したと考えてよいように思われる︒

清盛知行国以降の平安時代の大和守としては︑右の以平・忠順以外転源季長・藤原盛長・ト部仲熟・藤原盛景・藤原為

童・源兼忠等が知られるが︑受領か任用かも明らかでないので︑これ以上の穿聾は無意味であろう︒なお︑治承四年︵二

八〇︶十二月の南都焼打ち以後︑しばらく大和国は平氏の軍政下にあったと考えられる︒この間︑寺領庄園が没収されるな

どのこともあるが︑短期間であり︑しかも在地で命令がどれほど実行されたかも明らかでない︒従って︑この期間のことに

(7)

ついても︑これ以上触れないでおく︒

二   鎌 倉 時 代 の 大 和 国 司

鎌倉時代に大和の国務は興福寺が行っていたといわれるが︑大和守の補任は引続き行われていた︒まず吾妻鏡には︑大和

守重弘なる人物がたびたび現れる︒彼は鎌倉殿御家人であるが︑どうして大和守に補任されたのかは不明である︒以降の大

和守の補任の状況を示すと︑次のとおりである︒

① 大中臣 宣 長

② 中 原 時 輔

⑧ 藤 原 秀 守

④ 清 原 隆 信

⑤ 藤 原 成 重

⑥ 中 原 信 房

⑦   紀     久   直

⑧ 中 原 師 式

⑨ 三 善 忠 光

⑳ 藤 原 法 成

建久三年七月十二日任

建仁二年正月二十一日任

建仁三年正月十二日任

元久二年正月二十九日任

元久二年十一月二十九日任

建永元年四月三日任

嘉禄元年正月二十三日任

嘉禄二年正月二十三日任

安貞元年正月二士ハ自任

寛喜二年正月二十五日任

︵ 吾

妻 鏡

︵ 明

月 記

︵ 明

月 記

︵ 明

月 記

︵ 明

月 記

︵ 三

長 記

︵ 明

月 記

︵ 明

月 記

︵ 明

月 記

︵ 明

月 記

(8)

⑩藤 原 法成 寛喜二年正月二十五日任

︵ 明

月 記

⑫ 三 善 為 俊

⑩ 三 善 倫 重

⑬ 藤 原 盛 頼

⑭ 中 原 定 平

⑮ 紀   信 定

⑳ 中 原 仲 景

⑰ 中 原 章 景

⑩ 藤 原 康 房

⑲   平     有   国

⑳ 清 原 季 隆

寛喜三年正月二十九日任

貞永元年正月三十日任

天福元年正月二十四日任

嘉禎元年正月二十三日任

仁治元年正月二十二日任

寛元二年正月二十三日任

寛元三年正月十三自任

正嘉二年四月六日任

文応元年十一月 自任

弘安十一年七月二十七日任

︵ 明

月 記

・ 民

経 記

︵ 関

東 評

定 衆

伝 ︶

︵ 明

月 記

・ 民

経 記

︵ 明

月 記

︵ 平

戸 記

︵ 平

戸 記

︵ 平

戸 記

︵ 検

非 違

使 補

任 ︶

︵ 検

非 違

使 補

任 ︶

︵ 勘

仲 記

右のように大和守の補任が鎌倉時代にもみられたとすると︑これら国司が国務に関与していたかどうかを検討してみなく

てはならないだろう︒また︑これら国司は︑国司になることによって︑何らかの利益をえていたかどうかも検討してみなく

てはならないだろう︒

治承四年︵二八〇︶の平氏による南都攻撃によって焼失した興福寺の再建は︑直ちに議せられることになるが︑南都の

僧徒等は︑﹁大和国︑如元全分被付寺者︑金堂︑井築垣等︑試可相励﹂と朝廷に申し入れた︒しかし︑この申入れは

容れられず︑治承五年︵二八こ六月十五日には造興福寺の国宛定が行われ︑金堂は近江・丹波・播磨・美作・備中・讃

岐 ・

伊 橡

の 七

ヶ 国

に ︑

廻 廊

は 摂

津 ・

甲 斐

・ 信

濃 ・

上 野

・ 若

狭 ・

能 登

・ 加

賀 ・

越 中

・ 越

後 ・

出 雲

・ 筑

後 ・

肥 前

の 十

二 ヶ

国 に

等 ︑

(9)

それぞれの建物が諸国に宛課されるように決った︒しかし︑治承四年から文治二年︵二八六︶までの問は︑戦乱によって

諸国からの貢約は全く期待できない状態にあった︒従って︑興福寺の再建がこの国宛どおりに進行したとはとうてい考え難

い︒ 東大寺に対しては︑文治二年四月に至り︑造寺国として周防国が付せられ軸ところで︑興福寺を再建するため大和国を

すべて南都の僧徒等に付すようにという主張に対する九条兼実の意見は次の如くであっ短

大和国︑併免議僧徒−之条︑専不レ可レ然︑於−大和国↓者︑委有一沙汰㍉興福寺革同可レ被レ付欺︑若又東大寺可簡

l

l l

営 聴

︑ 如 レ 此 之 間

︑ 評 定 思 慮 之 後 ︑ 可 披

− 左 右 ︑ 忽 免 姶 之 条 ︑ 必 有

− 後 悔 一 欺 ︑ 凡 興 福 寺 之 間 事 ︑ 二 回 被 椰 箋 長 者 ㍉

l

彼 被

甘 申

立 上

︑ 又

可 有

項 沙

汰 −

欺 ︑

すなわち︑﹁専不可然﹂と反対はしているが︑東大寺再建のこともあるからよく考えるようにということで︑絶対に反対

というのではなかった︒従って︑東大寺に対して周防国が付せられたのであれば反対の理由はなくなったのであり︑文治二

年という兼実が政治上の強い発言権を有していたこの時点で︑南都の僧徒等の主張が改めて許容されたと推定することもあ

な が

ち 不

可 能

で は

な い

周防国が東大寺の造寺国に宛てられたのについて︑玉妻の文治二年四月十三日条には次のように記されている︒

親雅為聴御使寺除目之間事㍉丹波国給項数−之問事也︑︵元知宕周防国一︑両被レ宛聴東大寺.︑国司不可潮

行 一

︑ 机

l 其

替 給

一 丹

波 ︑

元 前

摂 政

国 也

︑ 而

辞 退

云 云

︑ ︶

以 元

周 防

守 公

基 可

レ 被

レ 任

− 丹

波 守

− ︑

周 防

国 一

向 被

付 嶺

大 寺

l

事 ︑ 然 而 猶 若 可 有 匂 司 号 − 者 ︑ 可 被 任 頂 基 兄 公 顛

− ︑

︵ 実 数 男

︑ 侍 従 也

︑ ︶ 又 不 可 任 匂 司 一 者

︑ 非 一 此 限 一

︑ 可 一

計申−者︑申云︑披下滴物免除宣旨︼之時︑以聴寺長官行陸井上人等連署解状滴下−宣旨了︑然者国司専不可・

重量量雷量竃量竃

罷 入

欺 ︑

但 為

後代滴被置怯名之国司︑又何難有故︑

(10)

被レ下二済物免除宣旨−之時︑以二造寺長官行隆井上人等連署解状嶺レ下二宣旨寺︑然者国司栗レ可︼一

1

罷入海︑但為嶺代尚被置職名之国司︑又何難有哉︑

右で注目されるのは︑最後の﹁然者国司専不レ可聴入聴﹂以下の部分である︒すなわち︑兼実は国務に全く関与しない仮 1. 名の国司を置いても差支えないといっているのであり︑名目だけの仮名の国司が補任された可能性があるのである︒この後︑

周防国は東大寺に付されることが多かったが︑建保元年︵一二三︶八月には藤原公経の知行国となってお矩寛喜二年

︵一二三〇︶の頃には藤原基房の知行国であった︒従って周防国は︑鎌倉時代を造東大寺国のままで推移したのでなかった︒

鎌倉時代の大和守は︑すべて右でみたような仮名の国司だったのではあるまいか︑との推測も不可能でない︒しかし︑先

記十四番目の嘉禎元年︵一二三五︶正月二十三日に大和守になった中原定平は︑明月記に︑

大 和 守   申 定 平 史                                                                                 一

と記されており︑史巡︑すなわち長年にわたって太政官弁官局の史を務めた労により補任されたものと考えられ︑そうだと 9

すると彼は受領であり︑国務を行ったとしなければならない︒従ってまた︑定平の任申︑大和国は興福寺に付されていなかっ一

たとしなければならない︒鎌倉時代の︑楠任されたことの明らかな二十名余の大和守の中には︑定平の如き受領もいたであ

ろう︒また任用の更もあったかも知れないし︑仮名の国司もあったと考えるべきであろう︒鎌倉殿御家人であった藤原重弘

や三善倫重などは︑仮名の国司だったと考えられないであろうか︒

さて︑受領の場合︑経済的利益が付随した︒受領は︑国家に一定の貢尉義務を負っていた放︑公田から所当官物を収取し︑

公田や在家を単位に雑役を徴収する権利を有していた︒平安時代の受領の致富は有名である︒しかし︑大和国では︑すでに

平安末期に寺僧領から所当官物を徴収するのが著しく困難になっていたが︑鎌倉時代に入ると更に進展し︑不輪は公田一般

にまで及んでいったようである︒

(11)

東大寺領河上庄は公田官物率法に基づき反別三斗の米を徴収する庄園だったが︑源平の争乱にさいし︑ほとんど顛倒に近

い状態に陥った︒永仁四年︵一二九六︶に再興されるが︑反別三斗の米は︑地主得分の内を割いて調達した︒このことは︑

本来国司の徴取すべき所当官物が︑永仁の頃には地主得分の中に入っていたことを物語っている︒すなわち︑大和国では︑

所当官物の徴収が全く行われない状態になっていたのである︒

右の河上庄の事例から明らかなように︑寺僧領不輪の慣例は鎌倉時代に入ると拡大され︑寺僧領以外の田地をもすべて不

輪にしていったと考えられるのである︒しかし︑嘉禎元年に中原定平が受領として大和守に補任されたことで知られるよう

に︑十三世紀前半においては︑まだ所当官物や雑役を国司が徴収しうる余地が残されていたと思われるのである︒ところが︑

十三世紀も後半に入ると︑国司の補任もみられなくなり︑

於一大和一国菌︑自▼往昔止包司守護執務㍉被寄り付当寺当社由︑検断以下事︑不論.権門勢家領l︑為一当寺

進 ヰ

之 条

︑ 古

来 之

例 也

nU

というような主張が︑興福寺側よりなされる状態になっていったと思われるのである︒

なお︑所当官物が地主得分中に含まれていたことに示されるように︑興福寺が大和国を完全に支配するようになっても︑

興福寺は所当官物を徴収せず︑興福寺の大和国からの収益は︑造興福寺役として徴収する雑役と寺領の諸庄園からの年貢に

限られたと患われる︒

− 10 一

三   大 和 国 の 守 護 地 頭

田到か平家受評昆唄に

たはずである︒その

(12)

大和国の平家没官領については不明な点が多いのであるが︑他国のそれと同様︑源頼朝の手中に帰したはずであ争その

中の.大仏儲上屈は﹂貞応三年︵一二二四︶に至り︑.北条義時によって東大寺鎮守八幡宮に寄進されている︒車家投官領にお

ける下司職などの下職は地頭職としそ御家人に宛給されたのが普通であるが︑大仏供上庄の場合︑﹁於.領家職.者︑忍辱山

権僧正坊無−相違元被︼知行.者﹂といわれ︑下司の任命権を捏る領家職は寄進以前から忍辱山円成寺が所持していたよう

l

にも思われるので︑大仏供上圧に地頭が置かれたかどうかは不明である︒

平家の家人が有していた庄公下職および源義経に与党した者達が有していた庄公下職も︑謀叛大所帯跡として収公され︑

そこに地頭の置かれるのが原則であった︒しかし︑文治二年︵二八六︶︑惣追捕使として謀叛人跡の検知を行おうとした

北条時政に対して︑後白河上皇はこれを許さなかった︒頼朝もまた時政を積極的に支援しなかった︒従って︑大和国では謀一

叛人跡の検知は行われず︑その後の処置は在地にまかされ︑文治の庄郷地頭の設置はなかったものと思われる︒     11

守護の職掌は︑国内の地頭御家人を統轄し︑平時は大番催促を行い︑一たん事ある時には地頭御家人を統率してそれに対一

処するととであった︒従って︑地頭御家人のほとんどいない大和国に守護を置く必要はなかったのであり︑頼朝は大和国に

守護を置かなかったと考えられる︒

承久の変後は︑大和国にも地頭が置かれるようになる︒例えば︑大和国豊国庄地頭平童康は︑その由緒についで︑

当庄地頭職者︑前下司刑部丞行李︑依−京方科﹁童康為−勲功賞海軍

七 述

べ て

い る

如 く

で あ

る ︒

大 和

国 八

条 圧

も ︑

同 時

に 地

頭 が

置 か

れ た

よ う

で ︑

こ れ

に つ

い て

は ︑

豊国・八条共︑依為頂科輩跡l︑為−関東御進止一︑被置惚頭職嶺了︑

と記されてい争幕府は︑文治二年六月二十二日の頼朝の申入れによって西国の地頭職を停廃したが︑謀叛大所帯跡には

(13)

何時でも地頭を置くことのできる権利を留保していた︒承久の変にさいして︑この権利が大和国でも行使されたのであった︒

この時︑地頭は置かれたが︑守護は置かれなかった︒それは恐らく︑この時の地頭の数がそれほど多くなかったことと︑興

福寺を刺戟するのを避けようとする意図が働いたこ七のためであろう︒

義視元年︵二三五︶五月のヽ石清水八幡宮領山城国薪庄と興福寺領大住庄との用水相論に端を発した八幡宮と興福寺の

争いは︑翌二年九月の南都蜂起にまで発展し無吾妻鏡の同年十月吾桑には︑そのことが次のように記されている︒

被・経−評議t︑為鎮商都騒動㍉暫大和国置−守護人㍉没韻衆徒知行庄園一︑悉被柚−地頭一撃︑又相議畿内近国御

H

家 人

等 ㍉

塞 −

南 都

道 路

一 ︑

可 止

− 人

々 之

出 入

之 由

︑ 有

一 議

定 一

︑ 被

レ 撰

議 印

東 八

郎 ︑

佐 原

七 郎

以 下

殊 勝

勇 敢

壮 力

之 輩

一 ︑

衆徒若猶成聴対之儀藷︑更不可有優恕之忠一︑悉可令討亡−云々︑且各可欲致死之由︑於−東士一着︑直披簡

l l

含㍉至頂畿一者︑被椰t其趣於六披羅一︑又南都領在所︑悉不可被旬食一之処︑武蔵得業隆円︑密々与其注文於佐

l

渡 守

基 綱

一 ︑

・ 基

綱 就

送 議

関 東

﹁ 被

レ 新

訂 補

地 頭

一 云

々 ︑

l

このような対処の仕方は︑先に触れた文治二年六月二十一日の頼朝の申入れに︑

凡 不

レ 限

二 伊

勢 国

一 ︑

謀 叛

入 居

住 国

々 ︑

凶 徒

之 所

帯 跡

︒ ハ

︑ 辞

令 レ

柄 −

地 頭

− 華

也 ︑

と述べられている﹁謀叛人居住国々﹂に大和国をあてはめ︑地頭を補し︑その統帥者として守護を置いたものであった︒

・右の大和国に対する守護地頭設置も︑翌十一月十四日には停止された︒吾妻鏡の同日条には次のようにみえている︒

南都専有↓沙汰㍉衆徒静畿之間︑止︼大和国守護地頭職−︑如元可被付一寺家竃々︑

興福寺が天和国の守護職を有していたような書き方であるが︑興福寺が大和国の地頭に対して大番催促を行ったとは考え難

いから︑1興福寺が守護の職務を代行したと考えるのは早計である︒幕府が大和国の検断を興福寺に委ねていたことは︑建長

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(14)

いから︑興福寺が守護 の職務を代行したと考えるのは早計である︒幕府が大和国の検断を興福寺に委ねていたことは︑建長 二 年

︵ 一 二 五

〇 ︶ 三 月 五 日 の 関 東 評 定 事 葛 に

一大和国悪党等事

此事︑先日仰実披羅一︑難申1人罪院・大乗院一︑不盲汀二言︑於負﹁以後一者︑差議武士一︑召韻其身重

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六披羅㍉

とみえていることからも伺えるが︑検断権は受領国司のそれを承け継いだものとも考えうる︒大和国の守護職の問題は︑一

般的な国司と守護との権限に関する関係の推移を明らかにしてゆく過程の中で︑改めて考えてみる必要があるように思われ

る︒

む   す   ぴ

− 13 −

以上述べてきたことを要約すると︑おおよそ次のようになる︒

大和国では︑平安末期にすでに興福寺が非常に大きな力をもち︑寺僧領を不輪にするほどの勢いであった︒しかし︑保元

の庄園整理令の施行においては︑平清盛の知行国となった関係もあろうが︑寺僧領の収公も行われたように思われる︒鎌倉

時代に入ると︑大和国の国務は国司に代って興福寺が行っていたようにいわれているが︑受領国司の補任もみられるので︑

補任された国司によっては︑国務の執行も考えてみなくてはならない︒しかし︑多くの時期に造興福寺国に宛てられていた

可能性も強く︑そのおりの権限を通して︑十三世紀後半には︑興福寺は大和国の支配権を完全に掌握していったように忠わ

(15)

れる︒とはいうものの︑所当官物は地主得分の中に含まれていたので︑大和国支配を通して興福寺が得ていたのは︑造興福

寺役として随時に徴収する雑役と︑寺領庄園からの年首・公事であったと思われる︒

大和国には文治庄郷地頭はほとんど置かれなかった︒従って︑彼等を統轄する守護もまた置かれなかった︒承久の変にお

ける謀叛大所帯跡には地頭が置かれたが︑その数が少なかったせいか︑守護は置かれなかった︒鎌倉時代︑興福寺は大和国

の検断権を行使したが︑それは︑守護の職務を代行したのではなく︑国司の権限を代って行使したとも考えうるので︑この

問題については改めて考えてみる必要があろう︒

中世の興福寺による大和国支配については︑なお多く考えるべき問題が残されているが︑それらについては後考を期すこ

とにし︑今回は︑この大まかな把趣に止めておきたい︒

︹ 注 ︺

ー 14 −

興福寺による大和国支配に関しては︑すでに︑永島福太郎﹁大和守護職考﹂ ︵﹃歴史地理﹄六八︑昭年二年︶︑同著﹃奈良文化

の伝流﹄ ︵昭和二六年︶︑同著﹃奈良﹄ ︵昭和三八年︶︑同著﹃奈良県の歴史﹄ ︵昭和四六年︶︑稲葉伸道﹁鎌倉期の興福寺寺院組

織について﹂ ︵﹃名古屋大学文学部研究論集LHH只﹄史学二七︑昭和五六年︶︑田村恵美﹁十二十二世紀大和国における国街領支

配と興福寺﹂ ︵﹃古文書研究﹄一九︑昭和五七年︶︑安田次郎﹁勧進の体制化と百姓﹂ ︵﹃史学雑誌﹄九二ノ一︑昭年五八年︶等の

論 考

が あ

る ︒

以上は︑台記の天養元年九月二十五日・十月八日・十一月六日各条︑同天養二年正月二十六日条による︒なお︑この事件は非常に

有名であり︑阿部猛﹃日本荘園史﹄ ︵昭和四七年︶をはじめとし︑多くの論考で触れられている︒参照されたい︒

この寺僧領からの収入が南都僧兵の経済的基盤になっていたことは︑容易に考えうるところである︒

㈱ オッショと読む︒庄園領主は下地支配権を有さないが︑少分の得分をえている田地である︒

(16)

㈲ この寺僧領からの収入が南都僧兵の経済的基盤になっていたことは︑容易に考えうるところである︒

㈱ オッシmと読む︒庄園領主は下地支配権を有さないが︑少分の得分をえている田地である︒

㈲ 平安遺文︑四六三九・四六四〇両号文書︒

㈲   有 本 実 ﹁ 平 氏 の 始 頭 と 院 政 ﹂   ︵ ﹃ 日 本 歴 史 ﹄ 三 五 ︑ 昭 和 二 六 年 ︶ 参 解 ︒

開 有本実︑右掲論文︒高田実﹁平氏政権論序説﹂ ︵﹃日本史研究﹄九〇︑昭和四二年︶︒

㈲ 同日付太政官符案︵平安遺文︑二八七六号文書︶参熊︒

㈲ 検注使の諸費用を出すことである︒

㈹ 藤本孝一﹁東洋文庫所蔵﹃原無題﹄文書について︵補遺︶﹂ ︵﹃古代文化﹄三〇ノ一二︑昭和五三年︶参照︒

仙   平 安 遺 文 ︑ 二 九 八 九 号 文 書 ︒

働   平 安 遺 文 ︑ 二 五 〇 七 号 文 書 ︒

個 平治元年の小東庄坪付は︑正東名の外︑秦国里・紀重貞・僧隆厳・紀行貞・僧慶善・坂上貞行等のものが残っている︵平安遺文︑

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一九九〇〜六号文書︶︒康治二年坪付と比較すると︑畠地は康治の坪付外になるところが多いが︑田地はいずれも坪付内である︒ 平 安 退 文 ︑ 三 〇 二 四 号 文 書 ︒

季長︑永暦元年九月二日任︑山根記︒

盛長︑応保元年四月十三日任︑山根記︒

仲忠︑仁安二年正月三十日任︑兵範記︒

盛貴︑仁安二年間七月十二日任︑兵範記︒

為重︑仁安二年十二月十三日任︑兵範記︒

兼忠︑治承四年六月二十八日任︑玉彙・公卿補任︵文治四年項︶︒

玉葉︑治承五年三月二十一日条︒

− 15 −

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物 玉葉 治承五年六月十五日条︒

脚 頼朝は︑文治二年三月十三日付書状︵吾妻鏡︑同日条︶で︑その知行国の文治二年以往の乃貢免除を朝廷に申入れ︑また他国に対

しても︑﹁諸国一同可然事欺﹂として去年以往の未済物の優免を求めているのを参照すべきである︒

伽 玉裏︑文治二年四月十三日条︒

脚 玉葉︑治承五年三月二十一日条︒

㈱ 永島福太郎氏は︑この件に関し︑﹁大和賜国の問題は他に傍証なき限り︑俄に決定し得ない︒知行国が非永久性をその面目とする

事を考慮するとしても未だ如何ともし難い﹂ ︵﹁大和守護職考﹂<前掲>︶と述べ︑極めて慎重である︒しかし︑東大寺に造寺国を

与え興福寺に与えないのも不自然な感じがする︒

鮒 明月記︑建保元年八月九日条︒

餉 明月記︑寛盲二年十二月二十九日条︒

捌 泉谷康夫﹁東大寺領大和国河上庄の構造﹂ ︵赤松俊秀教授退官記念﹃国史論集﹄︑昭和四七年︶参照︒

鋤 しかし︑それは建前であって︑実際は︑定平は何もできなかったのかもしれない︒

馳 正安二年十二月二十六日付興福寺下所司琳賢申状︵鎌倉遺文︑二≡ハ九四号文書︶︒

船 遊興福寺役については︑安田次郎前掲論文︑参照︒

脚 平氏没官領というのは︑平氏一族の有した庄園の領家職もしくは預所職で︑平家々人の有した下司や郷司などの庄公下職とは区別

して考えるべきである︵安田元久﹁平家没官領について﹂<同編﹃初期封建制の研究﹄昭和三九年︑同著﹃日本初期封建制の基礎研

究﹄に再録>参脾︶︒

糾 永島福太郎氏は︑﹁大和の平氏没官領は南都に寄進された﹂ ︵﹃奈良県の歴史﹄<前掲>︶といわれるが︑論拠が明示されていな

い︒

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(18)

8◎ 脚

貞応三年五月十八日付関東寄進状案︵東大寺要録︶︒

文治二年三月一日︑時政は謀叛人跡検知のことを院に申入れたが︑院は﹁没官所々事︑二位卿無申旨︑析不能被仰左右﹂

仙 と述べ︑のち鎌倉に帰った時政は﹁注謀反肇知行所々︑可検−知其地之由離二言上

嘉禄三年九月七日付関東御教書︵鎌倉遺文︑三六五八号文書︶︒

嘉禄三年十月二日付六披羅下知状︵鎌倉迫文︑三六六八号文書︶︒

吾妻鏡︑文治二年六月二十一日条︒

こ の 間 の 経 過 に つ い て は ︑ 永 島 福 太 郎 ﹁ 大 和 守 護 職 考 ﹂   ︵ 前 掲 ︶ に 詳 し い ︒

吾妻鏡︑同日条︒鎌倉遺文︑七一八二号文書︒ 不被聴之﹂と報告している︵吾妻鏡︶

︵ 奈 良 教 育 大 学 教 育 学 部

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