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『山塊記』 に見 られる百塔参 りの一考察 AStudyofPilgrimagetoOneHundredTowersin Sankai-ki

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(1)

岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要鮮33(2012 3)

『 山塊記』 に見 られる百塔参 りの一考察

ASt udyo fPi l g r i ma get oOneHund r e dTo we r si n Sa nka i‑ ki

林 悪 如

LI N, Hu i j u

‑、平安時代の寺社参詣ブーム

平安中期に入ると、熊野詣や長谷寺詣 といった遠隔地にある霊験寺社への参詣が盛んになり、京の 周辺にある寺社 をいっぺんに多数巡拝する風潮 も現れた。r詞花和歌集J に十一世紀前半を生 きる公 家 ・藤原道雅が東山に百寺を巡拝 した際に詠んだ和歌1が収録 されている。三条実房の日記 r愚昧記」

には仁安三年 (一一六八)五月廿一 日に実房が六角豊 ・行原寺 ・清水寺 ・六波羅蜜寺 ・中山寺 ・河崎 寺 ・長楽寺、七ヶ所の観音寺院に参詣 したことが昏かれている。この七観音請について、突戻が 「近 代貴鷹成レ群参詣、甚有二霊験̲云々、予度々参詣也

2

」 と記 したように、平安後期に貴腐 に問わず、七 観音諸が盛んに行 なわれ、実房 も度々参詣 したことが分かる3。中山忠親の 日記 r山根記』 には中山 忠親 と左大臣大炊御門経宗がそれぞれ二回の官塔参 りを行なったことが記されている。藤原経房の日 記 r書記』承安三年 (‑一七三)六月廿 El条には

今夜参̲‑詣観音墓所十箇寺、<観音寺、蓮花王院、六披薙、清水、長楽寺、得長寿院、感応寺、

中山、行願寺、六角堂、>̲大進 日州 [定長]不慮伴レ之、暁更帰レ家、

(<>内は割注

、[

]内は傍注、以下同様)

とあ り、経房が観音寺や蓮華王院など十 ヶ所の観音霊所 を参詣 したことが記されている。孝和元年 (一 一八一)九月廿二 日条にも

廿二 日乙未 窄、辰魁出レ門、先参ニー詣北野社̲、(中略)次参二行願寺̲、次参‑.感応寺̲、<河 崎也、寺僧云、索演僧正建レ之、>次参二中山観音堂̲、<号二書田寺̲、々僧云、曽備大臣建レ立、

>次長楽寺、次参二北斗堂̲、<宿曜師珍賀建立、>次清水寺、次六波羅蜜寺、次因幡堂、次六 角堂、次新地蔵、<冷泉東洞院、帥大納言侍建立、 自二去夏比̲人々群参、>申斜帰畢、 日中修 行雛レ有二其慣̲、密々所参廻也o(以下略)

と、経房が行願寺や感応寺 ・中山堂 ・清水寺 ・六波羅密寺 ・因幡堂 ・六角堂 といった寺院に参詣 した ことが記 されている。

(2)

r山塊記Jに見 られる盲塔参 りの一考察 ASnldyofPilgrimagetoOneHundredTowersinSankaiki 捌 口

平安 中期以降の寺社参詣ブームに関す る研究は熊野詣 に関する ものが主 になる。その実態解 明には 小山婿憲の r熊野古道Jや戸田芳美の r中世の神仏 と古道J に詳 しい分析がある。観音寺院への参詣 について、速水借 の r観音信仰J に観音信仰の発展 とい う視 点か ら考察 した ものがある。ほかの寺社 参詣 をテーマ とす る研究は少 な く、なかで も首寺請 ・百塔参 りに関す る ものはこれ までほ とん ど無か っ

た と言 える。 ここで l山塊記J の記載 を中心 に百塔参 りについて考察 してみたい。

二、百塔参 りの事例

r山塊記) において百塔参 りに関す る もっ とも早 い記載 は治桑二年 (一一七八 )六月二十八 日条 に ある。

廿八 日宰卯 天陰、朝 間小雨、中宮 (徳子、御年廿四、大波羅入道前太政大 臣二女、母贈左大 臣 時信公女、二品時子尼)、御憾姫、沓二五ケ月̲、併有 ̲御着帯革̲、初度也、 (中略)

自こ今 日̲被 レ始 ー一行御折等̲、(中略) 二位殿沙汰、

諸社

大神宮、(毎月三千度奉幣、)

石清水 、(大般若御読経、以二倍三 口̲、一月可 レ奉 三転 ‑.一読一部観音経̲御読経於二若宮賓前̲、

以 ‑僧三 口̲、毎 日‑首巻可レ幸二転読̲、>

光明真言念細 く於 一軍前̲、以 .僧三 口̲、毎 日別可 レ奉 レ言紅 千反I、) 毎 日御諦経、被 レ姑̲百 日御精進̲、

(中略) 御稜、

毎 日三度、 (陰陽大允安倍泰茂 、暦博士賀茂宣平、権漏勉博士菅野季親等勤 レ之、)有二御撫物̲、

侍五位有宮上 日輩毎月三 日結番為 レ使、辰勉可 二参勤̲之由催 レ之、陰陽師不 レ参也、

光臥 (毎 日、)左京権亮活科範時勤 レ之、

令 レ礼 二百塔̲<全玄良弘全真等弟子勤 レ之、> (以下略)

中宮平徳子の御着帯 に際 し、安産祈祷 として各寺社での毎 日踊経 ・陰陽寮 による毎 日三度の御疎 い のほか、天台僧全玄 ・良弘 ・全英等 を百塔 に参 らせ ることが書かれている。首塔参 りがほかの祈祷方 法 と同 じように、徳子 に書 を及ぼす病気や災厄 を蔽 う効果が期待 されたことがわかる。

その翌年、治承三年 (一一七九)二月十二〜十四 日に、当時の左大 臣大炊御 門経宗が百塔 を巡礼 し た。それについて、r山塊記J治暴三年二月十二 日条には次の ような記載がある。

(3)

岡山大学大学炭社会文化科学研究科紀要33号 (2012.3)

十二 日庚子 天晴、左大 臣相伴三権大納言 <安房 >、右 中将頼言朝 臣等、被

礼二百塔̲、三 ケ 日 可 二札畢̲云 々、是延齢之祈祷也、左府六十一、後間、今 日稲荷北辺重̲干清水寺祇 園辺̲五十基、

十三 日粟 田口至二千 白川堂̲四十二基、十 四 日自二五 辻北辺̲重二千康 隆寺̲廿八基、合有廿基礼、

供 ‑燈紙一帖̲被 レ押 レ塔 レ之

二月十二〜十四 日に、左大 臣大炊御門経宗が延年の祈祷 として、三条大納言安房 ・右 中将頼言 とと もに百塔参 りを行 なった。十二 日は都 の東南 にある稲荷 山の北か ら清水寺 ・祇 園辺 りまで五十基の塔 を巡拝 した。十三 日は東山の北 にある粟田口か ら更 に北 に行 き、北 白川辺 りの白川堂 まで四十二基の 塔 を巡拝 した。十四 日は右京の五辻の北か ら広隆寺 まで二十八基の塔 を巡拝 した。三 日間合わせて百 二十基 の塔 を巡礼 した。 また、塔 ごとに灯明一本 と紙一帖 を供えた とい うO

大炊御 門経宗の石塔参 りよ り十 日間ほ ど遅 れて、二月二十三〜二十五 日に中山忠親が百塔参 りを 行 った。

(治暴三年二月二十三 日粂)

廿三 日辛亥 天晴、卯魁為レ礼 ̲百塔̲向 ̲康 隆寺方̲、王 子春 日木辻̲、而右大勝 <宗盛 >被二前 行̲、依 ‑稗人̲更 出̲一偵̲兼行、巡礼̲‑催櫛 笥辺̲、法成寺

浄土寺、 白川辺,合 四十基、乗 燭之後蹄レ享、今年四十九、依 二重厄̲有̲此勤̲、於二千 中山生井書法寺等̲開二被子̲、件善法寺者、

東光寺 内算博士行衡知行也、行衡予家人也、即在 レ共、抑塔一基別供二一塔一花一香 <焼 >、悌 布施難紙一帖 <轟 レ之>〜、又押̲描高塔̲、相‑.一具排 凪大徳̲、令三廻/ 適塔≡匝̲、所 / 作心護 一巻、詩命経一巻 、賓笹印陀羅尼 <一反 >、尊勝陀羅尼経七反、延命真言廿一反̲也、所 レ摺 之 塔一昨 8線供養了

(治承三年二月二十四 日粂)

廿四 E]王子 陰晴不定、卯魁向 ‑̲蕨隆寺‑、仁和寺、知足 院、雲林 院、皮堂等礼 レ堂、皮堂依二招 人̲、乗燭之後鹿隆寺皮堂供二燈明̲、今 日礼 二什二基̲、於二徳大寺̲開=破子̲、又礼 ̲慈尊 院塔̲

之時、隆逼阿閣梨 <散光房次子、予猶子也>、儒=盃供̲、於=一棟大宮河内確守行忠亭̲又開二破 子̲、行忠予家人也

(治泉三年二月二十五 日粂)

廿五 日契丑 自 二去夜̲雨、卯勉礼 レ塔、此 間雨止、向̲末寺、法性、法住、観音、長柴寺̲、入夜 之後礼二清水、大波羅̲、今 日五十六基、三ケ 日都合礼̲盲廿八基̲、供養具設二百粁五巻料̲、随二 塔底之所富̲也、用残塔押̲波羅塔̲了

二十三 日の早朝、忠親は石塔参 りのため右京方面 に向かい、広隆寺へ 出発 した。春 日木辻 まで行 っ た時、右大将宗盛 と遭遇 した.人込み を避けるため、忠親が 目的地 を変更 して一条大路 を出て さらに

(4)

「山塊記」に見 られる百塔参 りの‑考案 AStudyofPllgrlmagetOOneHundredTowerslnSankai‑kl 窓如

東 に行 き、一条櫛笥辺 りか ら法成寺 ・浄土寺 ・中山堂 ・書法寺 ・白川辺 りを巡った。途中に、忠親が 建立 した中山堂 とその家人 ・行衝が知行 した拳法寺で携行 したお弁当を開いたO伴 に行 った僧 .排園 が仏教儀礼の 「囲続 (右続三匝

)

」 に従 って塔 を礼拝 し、心経や寿命経 ・尊勝陀羅尼経 といった経典

と陀羅尼 を唱えた。夕方 まで計四十基の塔 を礼拝 した。

二十四 日には昨 日行かなかった広隆寺 に行 き、仁和寺 ・知足 院 ・雲林院 ・皮堂4・徳大寺 ・慈尊院 などを巡って、三十二基の塔 を礼拝 した。その夜 に広隆寺 と皮堂 に灯明を献 じたが、それは日中に礼 拝 に行 った時手配 したと思われる。また、 この日は徳大寺 と一条大富 にある河内権守行息の家でお弁 当を開いたが、慈尊院塔 に行 った時忠親の猶子である隆遍阿閣梨が ご馳走 を用意 して くれたとい う。

二十五 Elは東寺に礼拝 した後、東山方面に行 き、法性寺 ・法住寺 ・朝音寺 ・長楽寺 ・清水寺 .六波 羅密寺 などを巡って五十六基の塔 を礼拝 した。三 日間で合計百二十八基 を巡礼 した。

また、塔 を巡礼 した際、仏経 を唱えるほか、二月二十三 日条 に 「才fP塔一基別供二一塔一花一香 <焼 >、

傭布施難紙一帖<袈 レ之>̲、又押=摺高塔一、(中略)、所 レ摺之塔一昨 日経供養了」 とあるように塔 ご とに塔 ・花 ・香 を雑紙に包 んで供え、更に一昨 日に供蕃 しておいた摺塔 を貼 り付 けたO ここで花 と香 と一緒に供えた 「塔」はどんなものなのか不明だが、当時の法会や塔供養に度々使用 されている三寸 小塔や五寸小塔のようなミニチュアの小塔 に違いない。用意 した供雀具 は巡拝 した塔の数よ り多かっ たので、使い残った摺塔 をすべて最後 に礼拝 した六波羅蜜寺に供えた とい う。

大炊御門経宗の百塔参 りの 目的について、治承三年二月十二 日条に 「是延齢之祈祷也」 とある。中 山息親の石塔参 りについて も、治東三年二月二十三 日条には 「依二重厄̲有=此勤̲」 と雷かれているO 中世の有職故実雷 r拾芥抄J に厄年 について、「厄年 十三 二十五 什七 四十九 六十一 八十 五 九十九」と記 されているO治暴三年に忠親は四十九歳にな り、経宗 は六十一歳 になったO二人 と も厄年に当って厄払いのため、百塔参 りを行なった と考 えられる。 また、三 日とい う短期間で百 も超 えた塔 を巡礼 したことと回ったコースか ら見ると、かな り強行軍で巡拝 しなければならない と思われ る。この巡礼は遊楽要素の薄い信仰行動だと言えよう。

治承四年 (‑一八

〇)

に大炊御門経宗 も中LLJ息親 も再び百塔参 りを行なったo経宗の百塔参 りにつ いて詳細な記録は残 されていないが

r山根記

J

治承四年三月七 日条 に 「蔵人左衛門権佐光長束 、問=

職事之間事̲、談 E]、‑ 日参̲左府̲、面有 レ庇被 レ薬、被 レ命 日、札二石塔̲乗 レ輿之間顛倒実損也者」

とある。忠親のもとに訪れる光長が左大臣経宗が百塔参 りの時に転倒 して顔 に負傷 したことを話 した という。光長が経宗を訪れたのは一 日だったので、経宗の百塔参 りは前年 と同 じく二月に行なわれた と推定できる。 また、息親の百塔参 りについては次のように書かれている。

(治桑四年三月二十一 日粂)

廿一 日莫酉 天晴、自二今 日̲礼二百塔̲、始 自二法成寺̲、終二千清水寺̲、 自二卯時̲及二乗周一 辰 時於=中山予堂̲蓋レ餅、中丸於二雲居寺武者所則貞<家人也>堂̲又蓋レ供、左少格兼宗、侍従忠李、

(5)

岡 山大学大学 院社 会文 化科草研 究科紀要第33 (20123)

安房守長定、五品親家、諸大夫侍等十傑人在レ共、於二菩提樹院̲乗二手輿̲、今 日礼二四十五基̲、

毎レ塔奉レ押‑,摺駕塔̲、供二香華洗米一燈̲、長賀大徳啓白於二清水六波羅蜜寺等一着、依二見諾I入 レ夜参詣、章二燈明本堂̲

(治承四年三月二十二 日条)

廿二 日甲成 天陰、小雨、即休止、今 日猶礼二百塔̲残廿八基、辰勉先札=常光院塔<六波羅入道 相国泉亭内>、及法住法性観音寺等̲、至二束寺̲、於二価巌房今天王寺̲塔礼了、於=蓮華王院̲

雨下、即又止、午勉於二観音寺先批御堂̲蓋レ償、酉魁於二束寺食堂̲<上参開レ之、但於二供者 [寺]

侍男̲勤レ之>、又墓レ餅、今天王寺為二見誼所̲、俳人レ夜所 レ参也 (治承四年三月二十三 日条)

廿三 日乙亥 天晴、卯勉地震、今 日猶礼二百塔̲残廿七基、辰終勉先礼二春 日木辻辺塔̲、次第巡二

礼贋隆̲服二見琵̲、休 日二東方̲参二御前̲供=燈明̲、次仁和寺巡礼、次向二保寺院法印許̲、予 相二一具餅̲、房主被 レ蓋二健純̲、次向二書林院知足̲、向二一候塘川辺̲、今 日於=所々̲逗留、而 猶不レ及二乗燭̲

仇暫参=季俊塔下̲、入夜参=行願̲、先本堂燈明、次礼 レ塔締牽

摘二百基̲了 (図1 中山忠親の百塔参 り)

FE r綿 32241 43

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寺E]ホ辻:︻治兼4.3,23︼

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治兼32.24l a!行tl寺(事監) 一兵大官00 0

‑鼻堀川 一条巾 ftZに寺 ■ 綿 3223)は 葉音

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itL,Y土 r治兼3.2.23 卍事は柵

地兼1321]

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父 は菜 摘号 】

・1.,・‑d・.・‑・一●‑N・・・・‑・・・‑・・・ FuW 寺

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裏白口

古畑社

市 ai長井等 〔始恥 2.甥 ・ 卍等届寺 【治辛目 .21 l RL7;滅

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(6)

rLLJ挽記jに見 られる盲塔参 りの一考寮 AStudyolPilgrimagetoOneHundredTowerslnSanltai‑kl 者如

二十一 日には法成寺か ら中山堂 ・菩提樹 院 ・清水寺 ・六波羅蜜寺 といった寺院を巡 って、四十五基 の塔 を礼拝 した。夜 には見証のために清水寺 と六波羅蜜寺 に参詣 し、本堂で灯明 を献 じた。 また、そ の 日は中山堂 と忠親の家人 ・則貞が雲居寺 に建立 した堂で食事 した。

二十二 日には平清盛の六波羅邸内にある常光院か ら法住寺 ・法性寺 ・観音寺 ・蓮華王院 ・末寺 な ど を巡って、二十八基 の塔 を礼拝 した。昼 ごろに忠親が亡母のために観音寺 に建立 した堂で食事 し、夕 方 に東寺の食堂で夕食 をとった。 この 日も見証のため、夜 に今 天王寺 に参詣 した。

二十三 日には春 日木辻辺 りか ら広隆寺 ・仁和寺 ・雲林院 ・知足 院 ・一条姫川辺 りを巡 った。夜 に行 願寺 に行 き、本堂 に参詣 してか ら塔 を礼拝 した。 この 日は二十七基の塔 を礼拝 した。三 日間で盲基の 塔 を巡礼 した。

また、塔 を礼拝 した時 「毎 レ塔奉 レ押二摺幕塔̲、供二香華洗米‑燈̲」と、塔 ごとに摺塔 を貼 り付 け、香 ・ 花 ・洗米 と灯明一本 を供 えた とい うO

治承三年の百塔参 りについて、前述の ように大炊御 門経宗 も中山忠親 も厄年の厄払 いが 目的だ と推 測 される。治承四年の記載 に 目的について明記 されていないが、大炊御門徒宗 と中山忠親二人 とも二 年連続巡礼 したことか ら見る と、二回 目の首塔参 りはお礼参 りとして行 なわれたのではないか と考 え

られる。

三、百塔参 りにおける 「塔」 とは

原始仏教には本来礼拝対象 としての仏傍 はな く、寺院に講堂 ・僧堂 など修行用施設があったが、礼 拝施設は存在 しなかった。釈尊が入滅 した後、仏舎利 を紀 った塔が仏弟子が釈尊 を偲 んで拝 した場所 となった。 さらに、紀元前後のごろに、仏像が作 り始め られ、礼拝対象 となった。仏教が 中国 ・日本 に伝わった頃には、すでに塔 は仏舎利 だけではな く経典や仏像 を紀 るところにな りつつ、寺 院伽藍 の シ ンボル的な存在 となった。六世紀未に建立 された 日本最初の寺院伽藍である飛鳥寺 では塔が中心 と な り、その両側 と北 に東金堂 ・西金豊 ・中金堂があった。四天王寺では中門か ら入って手前が塔 、そ の後ろが金堂、さらに後 ろが講堂の ような縦配置になる。同時代 に建立 された創建期 の法隆寺 (若草 伽藍)や七世紀初頭 に建立 された山田寺 もこの ような伽藍配置だ とされている。八世紀初頭、法隆寺 の西院伽藍が再建 され、東 に金堂、西 に五重塔が並立す るいわゆる法隆寺式伽藍 となったo r続 日本紀J 天平十二年 (七四

〇)

六月 甲戊 には 「甲成 、令 ド天下諸国、毎 レ国写 二法華潅十部̲、井建 中七重塔 ll̲

蔦」

とあ り、国分寺建立 に先立て国ごとに写経 と造塔が発令 されたo天平十三年 (七四一)二月十四 日に 聖武天皇が国分寺建立の勅 を下 した。その勅 に

宜 レ令F天下諸国各令 レ敬二一道七重塔一区̲。井写や金光明最勝王経妙法蓮華経各十部上。朕又別擬 写二金字金光明最勝王経̲。毎 レ塔各令 レ置ニー部̲。所 レ糞聖法之盛与二天地̲而永流。擁護之恩被 二 幽明̲而恒満。其造塔之寺兼為二国華̲。必択二好処̲実可二久長̲5

とあ り、七重塔の道立 と金光明最勝王経 ・妙法蓮華経の写経が国分寺建立事業の一環 と して行 ない、

(7)

岡山大学大学 院社会文化科学研 究科紀要妨33 (2012.3)

塔 ごとに金字金光明最勝王経 を安置せ よと命 じた。 また、「造塔之寺」 と昏かれているように塔が国 分寺の中心 とされることがわかる。

r続 El本紀J宝亀元年 (七七

〇)

臨月戊午 に 「令 レ造 ̲三重小塔一百万基̲。高各 四寸五分、基径 三 寸五分O露盤之下、各 置̲根 本 ・慈心 ・相輪 ・六度等 陀羅尼̲。至 レ是功牽、分二一置諸寺

̲

」 とあ り、

称徳天皇の命で三重小塔 を百万基制作 し、四種の陀羅尼 を安置す る事業が始 まった。いわゆる百万塔 陀羅尼である。それまでの造塔 は中国仏塔様式の影響 を受 け、垂直の層塔がほ とん どである。奈良時 代 に南伝仏教の婆羅門僧正 ・仏哲の渡来 とともに南方系の イ ン ド式仏塔が伝来 された6。その流れ を 汲んで、行基が神亀四年 (七二七) に創建 した大野寺 の境 内に建 て られた土塔や、東大寺 の安息が国 家のために神護景雲元年 (七六七)に道立 した頭塔 といった ピラミッ ド状の塔があ られた。 さらに平 安時代 に入ると、天台 ・真言両宗の発展 と伴い、方形塔基 の上に円形の塔 身 と方形の二重屋根 を持つ 多宝塔が普及す る ようになった7.従来の国家鎮護 のための造塔 とは違 って、個人的祈願 のために行 なわれた例が徐 々に増 えて きたo

l仏説造塔功徳経

8

1 に 「英人功徳如 ̲彼焚天̲。命終之後生 於焚世̲。於 ̲彼春立̲生二五浄居̲。与二 彼諸天等̲無 レ有 レ異」 とあ り、造塔が浄土往生の行 とされる。 r仏説造塔延命功徳経

9

1 には

当知是人於̲此一生̲。不 レ為 ̲一切毒薬所 レ中̲。寿命長遠軽 レ有 二横死̲。究克当得 ‑̲不 レ壊 之身̲ 。

一切鬼神不 レ敢二逼近̲。五星七曜随順駆使.一切怨家悉皆退散。随レ所生庭 身常無 レ病。一切衆生 見皆歓喜。無二浄戒̲者 浄戒満足。不 一調伏̲者 能レ令̲調伏̲。不二清浄̲者 能レ令二清 浄̲。破 二粛 戒̲者新城復生。若犯二四重及五無間極重罪業̲悉得̲消滅̲O無‑.始劫来 障累̲皆壷。若有 二女 人̲

欲 レ求レ男者O即生二勇健福徳之男̲。四大天王常随擁護。造塔功徳其福如 レ是。

とあ り、造塔によって無病や息災 ・延命 ・滅罪などの功徳が得 られると昏かれている。造塔 ・造仏な ど作者事業 を通 じて莫大 な功徳 を得 ようとし、早 くか ら供養 や追善 ・報恩などが 目的の造塔が盛 んに 行 なわれていた。 「続 日本紀J天平十九年 (七四七)十二月乙卯 に聖武天皇の勅 には

勅、天下諸臥 或有 卜盲姓情二一願造塔̲者 い 悉聴之。其造地者、必立二伽藍 院内̲。不 レ得濫作=

山野路辺̲。若備儲牽、先 申二其状̲

とあ り、早 くか ら 「百姓」の遣塔が許可 されていた。だが、塔 は山野に乱立 してはいけない。必ず寺 院内に道立せ よとい う但啓か ら見れば、実際は寺院外 の造塔が行 なわれたこともあった と伺 える。白 河院が大治元年 (一一二六)三 月七 日に白河で三重塔10、同二年正 月十二 日に五重塔11、同年三月十 九 日にまた白河で三重塔 を供養 した12。保安三年 (一一二二)四月廿三 日に法勝寺 で五寸塔三十万基 を供養 し13、同年十二月十五 日条 には四月に供養 した小塔 を安置す るため、 白川御願堂一宇 を供養 し

(8)

r山塊 記」に見 られる百塔参 りの一考察 AStudyofPilgrimagetoOneHundredTowersinSankai‑ki 林 悲如

14.白河院のほかにも、保安三年十月十九 日に中宮職 も白河で塔 を供養 した15。藤原実資の 日記 r小 右記J に英資が毎月一 日に石塔供養 を行なっていたことが記 されている16.寛仁三年 (一〇一九)≡

月六 日条には英資が妙法蓮華寺 に参詣 した際、 自ら道立 させた 「/ト塔」を礼拝 したことが書かれてい る。この小塔の様式は明記 されていないが、寺院境内によく見 られる三重塔や五重塔の ようなもので はな く、 もっと小型の ものであろう。 r兵範記j に も平信範が毎月泥塔供養 を行 なっていたことが審 かれている7

。r

無垢浄光大陀羅尼経18』 に 「若造ニー小 泥塔.J 於レ中安ー置此陀羅尼̲者O則為 レ己レ 造二九万九千諸小宝塔̲。」 とあ り、経典 を納めた小泥塔 を一つ造塔 した ら、九万九千 もの塔 を道立 し たことと同 じ功徳 と記 されている。造塔風潮では大寺院だけではな く、中 ・小寺院にもシンプルな様 式の塔が立て られ、寺院の外 にも塔が造立 されたことも推測できるのではないか と思われる。中山忠 親は百塔参 りの際、洛兼 と洛北の寺院を一巡 した。寺院内の塔 を主な礼拝対象 に したことが明白であ る。だが、治泉四年三月二十三 日粂 に 「礼=春 日木辻辺塔̲」 と、春 日木辻辺 りの塔 を礼拝 した と書 かれている。これは寺外 にある塔 も礼拝対象になることを意味するのではないか と考えられる。大炊 御門経宗 と中山忠親が短期間に百基以上の塔 を巡礼で きるの もこのような風潮があったか らこそ と考 えられる。そ して、巡拝 した寺院にある塔 は多様 にわたる。今天王寺や法性寺 には多宝塔がある。末 寺や蓮華王院には五重塔、清水寺 には三重塔、常光院には石塔がある。仁和寺 には多宝塔 と待賢門院 が建立 した三重塔があるO雲林院には八基の多宝小塔があるO また

、r

山根記j の記載 には明言 され ていないが、法勝寺 は息親の百塔参 りの順路上 にあ り、おそ らく礼拝 された と推測 される。法勝寺 に は九重塔がある。百塔参 りは塔の様式にこだわることな く、順路上のあらゆる塔 を巡拝す ることと言 えようO

‑方、阿育王の八万四千塔伝説に対する信仰の影響 を受け、安産 ・病気平癒 .延命な どの祈願のた めに膨大 な数の塔 を供養する行事が朝廷 ・貴族 によって行なわれるようになった19

小右記j永延

二年 (九八八)八月七 日条 に慈徳寺で八万四千泥塔 の供養が行なわれたことが記 されているo r兵範記J 仁平三年 (一一五三)閏十二月十八 日条 には知足院における千 日講の結願に際 し

賓笹印陀羅尼 を一 部ずつ入れた五寸塔千基が供養 されたことが書かれているO珠倉初期の公家 ・近衛家実の 日記 r猪隈 関白記Jの建仁三年 (一二〇三)二月二十八 日条 に 「来月廿九 日院於二法勝寺̲可 レ被三供蕃二八万四千 基塔 <五寸、多賓 >̲、余千基可=造進一之由左少弁光親催 レ之」 とあ り、後鳥羽院が法勝寺で八万四 千基五寸多賓塔の供養 を行 なうのに際 し、家実が千基 を造 って進上すべ きとのことが番かれている。

こういった大規模な塔供養 に用い られたのは高 さがわずか五寸のミニチュアである。 さらに、仏 ・菩 薩や宝塔の形像 を紙 に押印 した り、摺刷 した りした印仏 ・摺仏が生 まれた。 より手軽 に造塔 ・遷仏が で きるようにな り、多数作善 として平安中期か ら鎌倉初期にかけて広 まっている。供養札 ・勧進札 と して用い られたこともある2

0 。

r猪隈関自記J に近衛家実が毎月に塔 と延命菩薩像 を摺刷 し、十二月 にその年にできた摺塔 ・摺仏 を供養 したことが書かれている。その孫 ・近衛基平の 日記 『深心院関白

(ママ)

記J文永二年 (一二六五)正月八 日条 にも 「摺二延命 ・塔̲等如レ恒」 とあ り、基平 も度々延命菩薩

(9)

岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要第33号 (2012.3)

像 と塔像 を摺刷 したことがわかる。中山息親が治桑三年 (一一七九)に行 なった首塔参 りに、塔 ごと に 「‑塔一花‑香」 を供えて 「摺塔」 を貼 り付 けた。治承四年の百塔参 りにも塔 ごとに 「摺塔」 を貼 り付けた。供え物 としての 「‑塔」は前述の ミニチュアと同 じようなものであろう.摺塔 を礼拝 した 塔 に貼 り付 けることは小塔 を寺院に安置することと同 じ、一種の造塔事業 と見なされると考 えられる。

また、十二世紀後半に制作 された 「餓鬼革

」 に寺院の門前 に印塔 (摺塔) を制作 して販売する人 と 壁 に印仏が貼 り付 けている様子が措かれている。印塔 ・摺塔 を寺院に供 えることが一般的に行なわれ ていることが伺 える。

r山根記]治承二年 (一一七八)六月二十八 日条 には中宮平徳子の御着帯 に際 し、安産祈祷 として 僧 を百塔 に参 らせたことが書かれているo管見の限 りでは盲塔参 りが安産祈祷の一環 として行 なわれ たのはこの一回のみだったようだ。同時代の安産祈祷 に関す る他の記録では石塔参 りが見 られない。

その代わ りに、塔の道立 ・供巷 を行なった事例が多かった

r百錬抄1永久四年 (‑‑一六)六月二 十 日条には「公家供二‑養賀茂上社多宝塔̲O今上懐孝之時御願也。<但馬寺家保造‑,一立之

̲>

」とあ り、

鳥羽天皇が生 まれた時に安産祈願のため造立 した多宝塔 の供養が行 われたことが書かれている。 r御 産御祈 日録Jに建保五年 (一二一七)二月廿六 日に中宮の安産祈祷 として 「一万基泥塔供巻、八万四

【T'Tl

千基不 不 塔供養21」が行 なわれたことが沓かれている. r山塊記」 にも冶桑二年十月一 日か ら徳子の 安産のために毎 日行 なわれた祈祷が記録 されているが、その十月十 日条には 「申勉被 レ供ニー巷泥塔一 高五千基̲」 と、安産のための塔供養が行 なわれたことが書かれている。それは造塔 には無病息災の 功徳が得 られるほか、 r仏説造塔延命功徳経221 に 「若有=女人̲欲レ求レ男者

即生二勇健福徳之男̲。」

とあるように男子出産 を祈 るためで もある。 また、塔 を礼拝す ることは r右続仏塔功徳経

2 3

1 には延 命息災など造塔 と同 じような功徳が得 られることが記 されている。中山忠親 と大炊御門経宗が治暴三 年に行なった石塔参 りは厄払いが 目的である。同 じ厄年の息災のため、藤原宗忠の 日記 r中右記J天 仁二年 (一一〇九)十二月二十四 日条には

廿四 日<甲午 金剛峯 日>

明年重厄冊九也、就中相ニー当三合年̲之上、又有二閏月̲、是厄遇之人弥可レ憤之由、陰陽師家栄 所 レ談也、佃始二小祈̲、以二兎智律 師井発雷君斉俊三人̲、従二今 日̲明年‑ケ年間毎 日北斗呪千 違令=祈念̲、

又 自行=毎 日心経三巻転読̲、<一巻大焚王科、一巻帝釈四天王料、一巻炎魔王及話者属料、>

又 [元]延命呪百逼、不動呪百遍、<巳上明年間合踊也、>

又法華経書写始、

とあ り、藤原宗忠が来年に四十九歳の厄年 になるため、読経 ・写経 を始めると書かれている

r/ト右記J

にも寛弘二年 (

一〇

〇五)正月廿四 日条 に

(10)

r山塊記Jに見 られる盲塔参 りの一考察 AStudyofPilgrlmagetOOneHundredTowersinSanl(ai‑ki 的口

廿四 日、芙酉、天台座主被過、談話之次日、汝今年当二重厄̲、佃毎 日踊=尊勝 陀羅尼五十逼̲、

可 レ祈=息災̲、但 自二吉 日̲可レ始レ読者、申可 レ被 レ始 自=来月二 日̲之由 (以下略)

とあ り、藤原実資が厄年に当たって、天台座主覚慶か ら読経を勧め られたことが記 されている。厄年 に厄払いのために行われたのはやは り読経が主流であると考えられる。中山忠親 と大炊御門経宗の よ うな百塔参 りの例がないが、二人には百塔参 りも延命・滅罪の功徳が得 られると認識 されていると考 えられる。

四、あわりに

京周辺の塔 を巡拝する官塔参 りとい う巡礼 は、r山塊記jの記載 に見 られるように、遊楽要素が薄 い信仰行動であ り、礼拝対象 も寺院とい うより 「塔」その ものである。巡礼の路程 ・礼拝する塔 ・さ らに塔の数量は定め られていな く、巡礼者 自身の都合 と判断によって決め られる。中山忠親が冶釆三 年の首塔参 りの時、実際に回った塔の数畳 よ り多めの摺塔 を用意 したことは、彼がで きるだけ多 くの 塔 を巡拝 したい考えか らか もしれない。造塔 ・造仏 ・写経 といった作者 と同 じように、百塔参 りも院 政期おける多数重視の文化の一つ表れ と考 えられ よう。 また、このように礼拝の場所 に塔像の紙 を貼 り付 けることと、のちに西国三十三所観音巡礼 に霊場に山型の 「巡礼札 を打つ」ことと類似 し、巡礼 札の‑源流 として摺塔があるのではないか と推測 される。 また、厄払いや安産祈願のために行 なわれ たことは、首塔参 りは造塔 と同 じように延命 ・滅罪の功徳が得 られる行 として認識 されていたのでは ないか と考 えられる。

以上、r山塊記J の記載 を中心に百塔参 りについて考察 してみた。だが、百塔参 りのような塔巡礼 は管見の限 り、ほかに類例がない。その発生背景には仏教本来の 「塔」への尊重 と平安時代の多数作 者があると考 えられるが、治桑年間 しか実例が見 られない原因はまだ判明で きない。そ して、なぜ中 山忠親 と大炊御門経宗が百塔参 りを実行 したのか、その きっかけははっきりしていない。百塔参 りの 普遍性 について もまだ議論の余地がある。 また、百塔参 りが巡礼 とい う信仰行動の発展 において どう 位置つけるべ きなのかについて も今後の課題 としたい。

(本稿 は二一〇年夏、台湾で行なわれた

「 2 0 1 0

世界 日本語教育大会」にて口頭発表 した 「院政期 に おける巡礼の一考察 ‑ r山塊記」 に見 られる百塔参 りを中心に」を加筆修正 した もの)

(11)

岡山大学大学院社会文化科学研 究科紀要節33く2012.3)

〔注〕

1

r

詞花和歌集

1

1 4 9

首の詞書 に 「東 山に百寺拝み侍 けるに、時雨の しければ よめる」 とある0 2 特 に断 りがない場合、返 り点は筆者 による。

3

r

玉葉J元暦二年

( 1 1 8 5 )

三月廿七 日条 に 「院昨 日参七観音給云 々」 と後 白河院が七観音請 を行 っ たことが記 されている。

1 皮堂 (行原寺) は現在京都市 中京 区にあるが、平安時代 には一条 の北、現在京都市上京 区の草堂 町辺 りにあった。

5 黒板勝美 ・国史大系類別参会編 r類衆三代格 ・弘仁格抄j (増補新訂 国史大系

2 5 )

吉川弘文館

、1 9 6 5

年、

PP. 1 0 7 ‑ 1 0 8 。

6 石田茂作編 r日本の美術

7 7

塔 ・塔婆 .スッ‑パj、至文堂

、1 9

72年

、P. 8 5

7 同 じような形の塔 だが、最初 は天台宗では 「多宝塔」、真言宗では 「毘鹿追那塔」 とい う称呼 を用 いていた。平安 中期か ら両宗 とも 「多宝塔」 とい う名称 を用いるようになった。

8

r

大正新崎大蔵経

j1 6 、No . 0 6 9 9

9 同上

、1 9 、No . 1 0 2 6

1

0

1百錬抄

J

大治元年三月七 日粂 「太上法皇供養 白河三重塔。 <紀伊守顕長造進之

>」

ll 同上、大治二年正月十二 H粂 「太上法皇供養 白河五重塔O <但馬年数兼朝臣造進之

>」

12 同上、大治二年三月十九 EI粂 「太上法皇供養 白河三重塔。 <伊確守基隆造進之

>」

13 同上、保安三年凶月廿三 日粂 「上皇於法勝寺O供養五寸塔三十万基。有舞楽。為希代法会

。 」

14 同上、保安三年十二 月十五 日粂 「外記庁侍従所修造以後.始有政。此 日。於最勝寺始行潅頂。上 皇供養 白川御願堂一字.安置去四月供養小塔

。 」

15 同上、保安三年十月十九 日粂 「中宮職供養 白川御塔。 <鋸泉殿御塔尊勝寺西北

>」

16

r

ト右記J に実資の石塔道立 について,寛仁元年

( 1 0 1 7 )

八 月一 日粂 「一 日、丙寅、石塔二百基 令造、(徳 円)、供養作法如去 月、(増進) (以下略)」 をは じめ、寛仁二年六月一 日粂 ・同年十月 一 日粂 ・同年十二月一日条 など 「石塔如例」 とあるように毎月一 日に行 なわれていたOだが、寛 仁元年十二月升 目条 に 「石塔如例、以倉賢奉令供養、明 日可車道、而年首初於大将軍方石塔有博 之内、今 日書 H、依所奉達也」 と、寛仁二年十二 月汁 El条 に 「石塔如例、頂明 日奉遣、而年首有 方忌、肪先今 日所奉令造也」 とあるように、一日に道立 で きない場合、その前 日に行 な うことも ある。

17

r

兵範記j仁平 四年

( 1 1 5 4 )

十月一 日粂 ・久寿二年

( 1 1 5 5 )

三 月一 日粂 ・久寿三年

( 1 1 5 6 )

三月 一 日条。

18

r

大正新情大寂鑑

11 9 、No . 1 0 2 4

(12)

仙 税記Jに見 られる百塔参 りの一考察 AStudyofPil訂imagetoOneHundredTowersinSankai‑ki 茸如

19 退塩千尋 「中世 日本における阿育王伝説の意義

(

r

仏教史学研究j24巻第2号)

20 成田俊治 「摺仏 ・印仏

(仏教大学歴史研究所編 r森鹿三博士額寿記念論文剃 、同朋社、一九 七七)

21 打続群書類従j33下、P.481

22

r

大正新修大赦経』

、1 9 、No . 1 0 2 6 0

23 同上

、1 6 、No . 0 7 0 0

参照