V
lt.'IIHlrJinの将米今 口、 ビニール入 り障子軌が市販 されてい るo これは丈 夫で安価/i‑為l徒 米の壬 損料2:=・三 粗 相 として強伽性を 潜 り.刺,Wt非に思 鮎 していた隙 子机 の王 座をわびや かす もC')であるO
剰
HiIlJJt/i:ものを要 す る一般大衆 の好 みvtLbして和紙 とお ら/i:し、J紙 を持つ ビニール入 り障 子紙 は今
後
伸 びるで串ろ う。 末日
朋石f:=Il'J州)」 紙
に ビニール入 b障 子雛が探川 されれ ば配床机 と l‑iEにその他 と仙Iiって未i;i・liqj‑I/i一分 野
が
G肋 ・わ るの でほ/Lかろ F)かO一 口に†ryJHVj弧 といって 4、臓 三 虹のいずれ 女王批判にする か また三 砲 と砧 の混入 の糾 合ほ と ̀うかに よって もそ の紙胤 紙屑は千差万別で あ る。 弓軸 性 も頻って くる。兼 熱刑に苛 性 ソーダ一一を杜 うカ・.木Ekを批 GJか把 よって も多少の コス ト1‑さげィljて も. 所睦 大皿生 産
V C
よる安価lJ:鮒ノ柑 仁の和紙に軸U
L
で きるものでは/.八 、0 そ こで5‑ 6年 nlJ‑よ り仙川再のブiJ下‑哲 夫氏は 日本古来o)/駅触法を採J
HL.J郎 斗も‑ 切混ぜ ものを健わ/.Cいて純 然た る臥 三勧
化 よ る比料 で新舵を し.強 くて しか も炎床 しきjE持 ち上品 /: L美 しさのある手地利机‑If作 L: )山す研 究7i・始めた。 これLk艮某紙 といって いる。昨 今では三如7r壬以; 利Vtしてベン'1;‑き
̀′⊂適する立 tJ.Rli:依範
川紙 も此巌 されているO 民誓紙 としてほかに も.封 筒用紙 障子利Vi‑ど も漉 い てい る。 日常品 として は高価であ るので前掛 ま多 く/i:いが、い わゆる 突術.民 芸愛好家のzLi‑1では好
評を博 している。 倉破 民業 館長 の外村9t:生 も 1叫 三. 当地の靴地場を訪 門 され た。今 日では和納 ま樋一郎の人 のみに幽 三とJして珍 虚が られ る斜Iu経典 と化 してしまっ7t。 長 い仏独‑Jと持つ 日本個裾の手初野u靴がすたれてい くことは惜 しまれるO伝統は 丁度 大木の よ う /A:もので長い年J‑jを経て根を舶 った よ うTJ:ものであ るから. 一 度 倒れて しま うと再びも と の よ うにた らTi:おるのは容易t.Eこ とではri‑いC 起 し袖 た と思 って も的ほ どの 勢は lj:く.遂 に は枯れて し‑1 うおそれが あるorましてそれ に代 るものは易 々 と1'iIられ /Lい。 しか も大木には 名木が多い のでL・:)るO私達 は大助fL伝線を粗末vC扱 うよう/Lこ とを してはrJ:らない。 も とよ
b伝統LJd:Iejl‑ぶ とい うことは た ゞ昔‑Ia::練 り返す とい うこ とでは/tいr.伝統は活 きた ものであっ て.そ
こ【 ′ ' C
も創造 と光鵬 とがlJ:ければな らrJ:い。樹木は育 ち来 り. てたた.育 ちゆ く樹木であ る。私i劫 ;伝統を将ぶのはむ しろそれをさ ら
に
育 て ゝ名木 とさせる・Fc,めであ る。伝統 の生長はい つ で も止 しさや深 さや央 しさを 目標 と して進むべ きであるB (柳義 視第 2番 )こL7vl食味(/Cお い て も州 下氏かYl'I川内紙 の200年 K酸る牧人の兼
雛 を踏盤 してその伝 統 を守 り抜 こ うとして 民芸紙 を漉 き続け よ うとしてい るのほ蛙 しい こ とである。今後すか し入 りの民芸釦 を作 りたい と月 下氏 は云 う‑,八 ダ ムがで きては この先 ど うなるか
・‑ ‑ とその衣情は構いO
近い将魂 法令 と手人の側 の成羽川の峡 谷に人工 の広大 な湖が出現する。そ して 両樺 の鮎浦 は家 も畑 もLL」琳 もみ/L湖 a)底 に沈んで しま f)Q先 祖代 々こ
ゝ
VC住んでいた人 達は土地 も家 も tJ:く/i:るのでどこか \移 住 してい/uJLければ/i:らlJ:い。 そU淵苛は200余年 の比竺史を持つ清 川I人絹tも永久に湖底に数する 時なの であ る。峡 谷の空は 明る く佃れてい る。山を うず める溌練の香 れ
仙
川の 枯らか fJ:水を蛾 心化流 れているO わず か4日(Lit.Jの即在ではあ ったが親 しく/Lった純 朴 で親 切だ った村人に感謝 し.どこかの土 地で 7†'JHlP蛸tが聴 き続 け られん ことを願 いっ ゝ.やがて湖底Vこ沈ん でい くLfl.iJH再 VC別れ‑Lr告 げたo
(131)
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第五章 興隆工芸作物 と高原の農業生活
薪 一 節 労働 集 約 的 な 鯖中 共
⊂研究方法 コ 茄 前 :.芦.后
(1) 伺山県庁統計課で岡山県統計年報を調べ る。
(2)凸林省岡山統計調査事政所で.実感草餅作況巌看.経済課で、 反当収益 と家族 労働報
臥
歳計課で. 昭和30年凝時点菜基本調査
(3) 煙草文化史、酋甲国塩草史. 岡山県崖享史. 達軍歴締 とかの本に 目を通すoそ して.如 如何なる車を調査す るのか網萱現 員を作る。
足 ど り
8月25日. 符甲町の概貌を見る。
sjL,6日. 黒鳥の売木さん宅で、 白田耕 作時代の、康幸取引について話を うかが ラ.富家、
平川の現勢調査簿を写す0
8月27日、平川に行き、 厘享御 長に話をきく。 ここで、 計画が、ふ りだLrr̲もどる。
S月ZS日、改めて.上富家の鹿家 を戸別訪問するo S月
29
日、午前中富家の 向長監部 落を、戸別畝佃す るO主 要 作 物 U‑)晶 陸 別 作 付 扶 況 第 9
軸距 水
稲 大 麦 裸 去 小 糞 大 豆 小 豆 甘 繕 幣第番 k は こ 白 菜 こんに.やく その他27 46
5凹 213 66 130 .lot
75 50 13 82̲0 6 385 140 28 453 215, 67 129 100 78 48 13 810 6 3とi9 141 29 455 214 66129
100 77 47 14 80と; 8 391 14‑130 454 2141 67 130 10() 7出 46 13 806 3 395 140134 3̲I. 452451 215214 68 130130 102 79 4647 13 」dO5 10 397
備甲町は桝地面勅 ttt少な く.反乱 労脚力が 多く. 交通不藍の山r貨僻 地で超群的に恵まれてい ないが故に古 く江戸時代 より現在に至るまで.集塵革の産 地 として萌名であ り、特に現在では読 会作物の第1番 として.農家の豆糞な収入源とな っている。 この煙草について競計上か ら.ある いは鹿家の 体験等
を
参考に して次の角匿か ら考訳 してみ ることに したoⅠ どんな所に栽培されているか 丑 歴幸作鹿家の階層性
Ⅱ 盤家居所か らみた脚 作
(133).
□ 煙草 作 りの動向 V 僻中英 の耕作方法
Ⅵ 自由耕作時代u)取引売 買について
Ⅰ どんな抄rに戟培 されてい るかo
V字型の谷間は不適で、 日照時 間が長 く.排水のよい 南向緩 傾斜地でPH4‑4.5の酸性 の 砂壌土 〜敏土で石灰岩地帝に 多く栽培されてい る。 場所で云えは.
平J J
L 温風 上宮家がこれに相当す る。
Ⅱ 煙草作 出家のl低値性
第10表 鹿茸耕 作曲家の 経営地.家族軌 崖革 作付
面 ( 東 凍
安田農家番号 田 畑 計 ‑ 数
規
草確1 4LR5‑ 5 夢‡ 7人 1 2 5 0 4 0 9 0 I 7 1 2 3 4 5 5 1 9 6 5 12 4 4 2 4 0 8 2 7 ● 1 8 5 3 2 5 0 8 2
5
1 7 6 4 9 4 4 9 3 7 1 9 7. 4 2 3 2 . 7 4 7 12 8 4 4 4 2 8 6 7 1 0 9 3.1 3 4 65 6 20 10 4 7 2 4 7 1 3 l l ll 4 5 3 2 7 7 . 8 1 3 12 4 0 3 6 7 6 6 1 0 13 3 5 3 4 6 9 6 1 0 14 3 5 4 0 7 5 6 l l 15 38 3 9 7 7 .5
1 2 16 4 4 4 5 8 9 7 1 317 5 5 3 ∩ 8 5 7 也
18 3 6 3 3 6 9 f 7 1 0 19 3 6 3 と̀ 7 4 5 l l 20
】 3 7 4 1 7 8 6 l l
21 3 7 2 2 5 9 4 也
22 2 5 2 5 5 0 5 7
23
i 5 3 5 6 10 9 8 1 7
24 60 4 tI 1(1 0 也 1 9 25 5 3 4 7 10 0 7 1 7 26 7 3 6 2 13 5 9 1 6 27 7 0 4 5 11 5 6 l l 28 5 5 5 5 11 0 10 2 0 29 68 5 5 12 3 11 1 6 30 7 5 5 12 5 10 1 3 資料 昭和30年臨時良策 基本調査
(134)
第
10
表か らわかるよう に、 煙草耕 作規模は、家族数の 多い農家は比敏 的経営 規模が大 きく.反対に家族 数の少ないぶ達家 は乗康幸の 経 営面鋤 く零細である。 多 労 肋を要す る葉煙草の耕作 規険は、その家族の 動員
育 巨
刀と、排 煙盛業の経 営規模 とに 制約 され る。
(西甲国鹿茸史 引用参考 ) しか らば 煙草新 作鹿家は 鹿東嶺 営規模別にみて. ど うい う階層に 多い か。 第11 表が示す 如 く5反以上‑ 1 町歩までの幾菜 経営規短の 鹿家が汝 も多 く、耕作鹿家 の6610を占めて い る。
この こ とは
5
反‑ 1
町の専 菜の 小魚家 屑に集塵亭生産 が 袋甲 している ことを物語 ってい るo 歴青が 貧出の 作 物 と云われる所以は、 ここに うかが う動 ミ出来るが.
この場合は、 水Ef]と畑の経 営面積のみか らみた場合で
あ って
.山
林の所有形態か らみてい くと、一概に貧盤属の 作物である とは断定で きないであ ろ う。糞煙草作氏家の 比重を・経営規複別階層でみ る と. 第42蓑の如 く経営規頓が 大 きいほ どそ の比歪が増大す るO反対にその比重は'El'細化す るは ど低下 して くる。零細親 板の盤家 では.
崖亭栽培の遠地 ;ない こと. さら に鹿茸は水稲以上の反 当収入 をあ げ ると云 って も、兼束 収入の よ う に、 年間を通 じて現金収入が ない
春等の 為に、 裁増を忌避す る よう で あるO しかし尊英銀家になると 単価は 別で ある。すなわち鹿菜で 何か 生活の安 定をみ るために、耕 地を鹿大阪に利 開して多少とも説 金収入を増加せ しめねばな らない か ら無理を して も居辛をつ くる よ
第11蓑 輪中町鹿茸作鹿家の階層的位置
鹿 営 両 横 戯 家 数 崖 亭 耕 作 a FA) 虎 家 数LBJ,
言x
lg3 反 未 満 35 3 9
3反 〜 5反 42 20 48 5反 ‑ 1町 140 91 64 1町‑ 1町5反 38 33 87
資料 昭和30年 臨時漫菜 基本調査
うになる。1町以上の 甲親風 こ多いのは、 この よ うな事情を物語 ってい る。 (西甲国崖革史 ) 正 負 継 折か らみ たま鮭草餅作
葉煙草に よる収入は盤家 全収入の約5割 とい う大 きな ウエ イ トを 占めてい る。 (偏甲町概 要参照 ) しか し果 して 煙草の栽培が佃の産作物の栽培 と比較 した韻合、鹿美 収入 と価額の 面において、 又労働条件 と報酬の 面において、 どれ性 ど有利であ り或は、反対に 不利である かを検討してみ よう0
度革は専売制定下にあ って.その収種の総てを換金する条件 の下におかれてい るoそのた めに安 延性 と堅実性が旗家 に と っては.荘大の は刀rLな ってい ることは否定で きないであろ う。 〔岡山鹿屋卑見 ) また 「歴車 作りは手間はかかるが 金にな るnJ「女も子供 も家 甲で 煙草作りに鰍 ナる
。 」
「歴専作 りは ど努力の仕 甲斐のある作物はないO
」(触き込み ) と い う鹿家 自らの 経験に上って 煙草耕作 者 がその裁壕の有 利 性を是認 してい るわけで あるが、等親的観点に立 って 考察を進めてい くと、 厘草 餅作の持つ 特異性が うかびあが って くるので はないだろ うか。
第
12
表か らわかる ように反 当純収益の最高は‑ ッカで9362
円、 それか ら水稲、甘指 の 順であ り庭草は第4位にな ってい る0度軍は点収益 は第1位で あるが 生産 費が 非常に高 く つ くので純収益か 渡 って くるわけである0第12者に示 された煙草の1日当 り家族 労倒顧 酬 は363円であるoauよ水稲 の614円、甘 蹄の6日4円、節荷 の460円 に比較 して決 L{山 ものではないo Lか しこれを全剛 勺に見えは、家族労 也般 下盤の多い盛事が 第1位にの しあが って、
50314円とい う数字を示 して断然許を放 き.第2位にある薄 荷、 水稲を轟かに引擬 して 135〕
第
12
蓑 各作 付反 当収益 と家族 労触稚酬
(△印は赤字を示 す ). 碩 反 当 主
産物 生産 受 当 家族
家族 家族 労 家族働時rt3'1冨 翫 画酬陸自 類 別 \ \ \ 収 A 量 k 価 B
円 C 円 円 労働費二E円産党除働幣くFa;働軸 胡コ3‑円 A喝ト 音円讐 xd再水 稲 ( 山 村 ) 3 5 7 . 0
23.216 16,鎚4 6B 2 6.944 9.6.6775・1:3還 這 三… 76̲70 6li‑大 麦 3 B . 5
ユ0.(お6 三47乱 19,95,言.4925627 8792■△△ 33L3.B4B 7D 7.,α)1852 16.61 133裸 麦 2 9 1 . 4 ‑ 1 0
,567 2155 172.小 麦 2 7 9 . 29 ,
8SK) 毒 ヨ16,6錐・ 芋:△15)1272,3,.,,776 1317647諾 ユ(1,5(124169.7軌 94(お.ち.港.6.1.359207 23.26 226甘 藷
1 強 . a1 5 . 3 1
6 75.53. 糾 .薄 髄 荷
煙 草Il器 :12.338
3
刀.37
5,, 5
75552161 r "f3::.寝 言箕科 昭和 33年匿 出林省岡山読 計事務所 第13表 生 産 受 内 訳
受 用 合 Si・
購入支
払 . 日 給 仇 却計
I T姓林 省駒重野務所 生産 受調査
いる。概括的に 云え は. 煙草は1日当 り としては低位にあ り.
総額 と しては橿めて 高位にある と云 うこ とがで きる。勿論 よ って くる ところは労 鋤 日数であ る。す な わち他の産物で は.
大鉢20‑ 30日. 多い もので も50‑ 60日であ るのに くらべて、 塵享は150日以上の 労働日奴を必賓 とする。 このよ うに煙草は労勧 目敏が 多いため緩衝 としての 労脈 馳 ;大 き くな ったのであ るれ 反 乱 労旭 日蜘 '}多いため. 1El当りの労伽報酬が 低位 とな らざるを えない こととな った抄 ナであ るO (続計石妨所僅折紙の話 )
また. これを 日数ばか りでな く反当所東方 刀itにみ ても同様の栢柴が 現われ てい る。第
14
蓑にみ られる ように懐手の栽撒 こはいかに 多 くの 自家労働を 必要 とす るかを知 る ことがで き るo殊 にその労 刀の配分をみ ると、乾 放aPL]理に雲す る労力が 殆ん ど全体の半はを占めている。
しかも 偏甲発に あ っては、その所嬰 労.n丑が大 きく、いわば、家 内二葉的な性柏を帯びてい るOす なわち他の 生産物は収唖鼓の 調理に 多くの 労力を必要 としないかわ りに、 路地 こおけ る生産 の労働報酬が見込 まれてい るO ところが煙互は生薬収越後における乾性 調整に 多大の 労力を必要 とするはか りか.それ りよ って家族の 労働笥酌 を著 しく埠 nDしてい る
.
(現地 き きこみ ) 第 15覇に見 られ る如 く年間を通 じての労鰍であ って、労働 日数が これに よって(136)
増加 して くる。
平 均7反 とい う極めて 狭い耕地に依存 して5‑
6人に及ぶ扶 幸人 口を抱 えているため に. 低廉 な る家族 労 伽 こよ って. 他 作物 より遥かに 多顎な現 金収入が 得 られ る煙草 耕 作は他の 作物 よ り有利性 を持 ってい る とい うこと が 云 えよ う。
第
16
表に 現れ た 数字 をみ る と臨時 雇の 労働 時 政は裸麦の場 合を除 くと 煙草が 最低を示 し、家族 . 労働では断然 幾高を示 し ている。男女別に見 ろ と、第
14
表 塩草及び 諸 作物の反 当所 要労 力丑兵科 大熊氏 煙 草の 栽増 よ り
女 子の 労働時政が最 高を示 してい る。 この ことは煙 草tF蜘 ;全 く家族労働で あ り. また船人 の 労刀が 高 く評価 され てい る所以 である。 俗に 「後家 煙草 」と Lbて女手 廿 も た姓阜 如拙 た言頻が矧 主ど、他姓噸 培 及 び乾鰍 qj所 要労力の多 し潮仙 コ韮労働 部血が少く、thヰ細かい 注意 力を必要とす るので老 幼婦女子の労 働報酬を見込む ことが で きる 第15妾 煙草 作の 労励栽培 過程 第16表 (苅 色 建 )男女別 労力此
2 月
自 重
3‑10 3
‑2050
至‑1童.3一二二一56
苗 床 1,'F り 1 作 美 別
8‑5 まで
自 ゴ
9
‑下 旬 1‑下 旬描 任
木 組 へ 移 植 土 よ せ 病 虫 書 の 予 防
芯 止
収 穫
調 理 ・ 収 納
蜘 鮒 i 1.0 申耕土等 i 1.0
資料 大瀬 氏
(
137)1 . 0
1.0 1.0 1.0 煙 草の我増 よ り
第
17
表 男 女 別 反 当 労 働 時 間〔単 位 時 間 )
品 名 施 時 澱 家 族 計 男 女 比 '
男 女 計 男 女 計 ■ 男 女 計 男 女
水 稲
iく
j′ 8:? 982 71 4{ /刀 ム /a38 7∫∫ /723 37? 4Q./ 大 麦 ll ?? /i / ′′′ヲ ///̲3 ユ乙王1 //?./ /〟1 2、玄3 iq ′ jZ2タ 裸 麦 dA ′′ /7 /// y ヲ′7 皿 ′ /I(10 nS 2a(C∬
7 4Lf.3 小 麦 4ES αヲ ∫7 84,0 3g:8 /4(1g 3g:0 527 /賭 ∫23 4al 馬鈴薯 ・■‑‑/ム1g ヲ占.ゲ 2LDl /ム三g ヲム4{ lLO ムiO 、詑 0# # ′‑ ‑ ‑ 33i∫ J
く
dS jlE2̲3 ヱ弘∫ 1縦 8 Ja 57g 1245743G叫 ヲ3i.:.Jゲi? 蘭 草 14[/.7 /74E ヱ∫9′ J4ll/ /B ,iE 3L.7.∫ 4Wy.8 /ゲ/.a ム2ム 77.4( 蛭 草 liE ‑ 2,ゲ gム2.i ゲエi7 /}72? gm A #∫37 /0 3 占ポ ム三 極 a4E 《′ 4.5 n y 33L.2 gl/ 44g:3 323 97& エ丈/
(昭和28 曲 林省調査資料 ) のであ る。 しか し煙草耕 作家に と って澱も大 きな魅 力とな ってその意欲をそそ っているもの は、煙草の持 っている安定性と堅 実性であろ うO工芸作物の 大多数が 多かれ 少なかれ投損的 性格を持 ってお り、年 々市場の価格の変動に よ って大 打撃を受け ることも少な くないoその 例 として こんに ゃくが あるO ところが煙草には生産過剰に よる価格の変動 もTi:けれ は、又資 本家に買い 叩かれる心配 もない。 専売 公社の手に依 って所定の価格に より、 しかも全部買い あげ て もらえるのである。 しか し見方に よ っては、耕作者の儀を潤すべ き当然の利益が.あ る一定限匿に抑制されて、みすみす 国家の債に吸い込まれてい るとい う皐実が 、 この安心感、
堅実感の陰におおいか くされてい るかも知れない。 (岡山県連亭史 引用 ) 煙草賠依価 格の 決定に 当 りその 生産 費が 量視 され るに しても、 生産 史の大部分をなす家族労賃の適正評価問● 題が 困却され る限 り妓草作は 小姓 に と って 常に有利な もの とはな り得ないo (煙草岸蹄 論引 用 ) しか し一点拙 家に と って一番問題に してい ることは、 この煙草 作を して他の作物 よ り も一層有利な らしめるためには どうしたち ょいか とい うことである.それには 生産 糞の節奴 が 現状打粥の唯一の方法であると云える
O
(平川
前原氏鮫 )しか し将来伯L Lや 近 い うちに この姪革に代る別な有利な産秦がおこ って くるかも知れないO 現に 触中町にはすでに何頭かの乳牛が入 り煙草に と って代ろ うとしてい る傾向のある地域が あるo
Ⅲ 兼姓草耕作 の動 向
第18蓑にみ られ るように 術中町は川上郡 全体の4割にあた る葉煙草の生産額を示 し.特 に 柵中葉では川上郡 全休の6割以上を 占める程の ウエ イ トを持 .,てい る。 これ ら棄鹿茸が 今 後女昨 】なる方向に発良するかを 捕中葉の産地平川 と黄 色が侵入 してい る有熟 こついて検 討 し てみたいo
(138)
川上郡全体 と齢中町の兎捜草餅作成紐
: :==̲Itl;'・
̲
1:‑」 二幸 子 チ モI::1.ll: .・. ・'.. 二 ̲ '・ ̲ ・・・ ̲̲̲̲二 更科 政幸耕 作成続一覧衰
昭和33年配 偶申町櫨草餅憾 綴一覧表
収 納 1且当10a(】反当り) 耕作者
1
人 当り 円 ・ELy. 円 A //Plo W L23Lヱ占J m ∫j占77 実 /34:喝
3g
∫ユ鎚/iO 抑 、yダ ′●占4;ム5//3 ≡B J 3'号
ぷ占
占 7#弊73′抑 占∫ 12ie .之27卿 Jtl ̲75y 7;
m 2ブ タ
〟
2∫y3、I仰 乃 0/溢
4 { ヲ
̲I32御3L?q/51iJKZyヲ ヱD C訟!エエ好抑9占./メ〟;
ヱ.之好;
ぽ ∫A/ .駕7 7 787yl他睡 類事 配当面二h院a 耕
旧村名 人 見人
一首平 哀川 黄 色兼備甲菜備中棄 J33t1エフ:3ダ 2ム2&730 淑 野 備中棄 i22/ u
/
僻甲町 偏甲兼 a ?/13
ムZ 占
′ 平 川
術甲町において、 もっとも兎 挫草栽 培が さかんであ り. 全戸数の約半 数262人. 栽培 面JIX35.4町 とい う耕作状況であ る. 古 く江戸時代 よ り現在に至 るまで. 備中兼のみを栽 培 しその品風 土県下第1.又丑 臥 栽 培 面税.耕作人見、杷 償金 ともに、 偏甲町第 1とい う成紋 であ る. しかも収納代金は‑「殻に頚 色位の方が 除甲菜に比べて価相が よいのである が、平川の場 合はたい して変らない程の収入を得てい る。蛭 卑耕 作者の曲菜経 営地は平均 8反であ り.その うち 蛭革栽培 面静ま1反
2
歩8畝で. 発色性の1反3歩8畝 と. あま り 変 らず、 偏甲兼 と しては 相当Kい耕 作面疎にな って くる。 従 って 多 くの家族労力を必要 と し平均7人の家族成典の うち4‑ 5人が 労働に置 き してい る.出家 経営を他事一本に頼 っ ている賄係上.少 しでも多 くの反 当収入をあげんがために、耕 作者が 栽培に非 常に熱心で、築地亭試験敵 つ く りその 品 取 且. 生産 費仮親のための ビ‑ ‑ル乾染皇 (写亮 27)等 色々工夫に余念が ない。又優良産地であ るが 故に阜売 公社が 保顔糞励 し、 従来対抗作物で あ った こんに ゃくの暴落.或は煙草の後 作 (そば. 白菜 )前作 (麦 )の収入が 相当あ る
第 20表
束 他 事 収 納 価 格
(
lRf当 り) 一便 等1
寺 2専L 3
等「I 等4E/0
∫
350 180 .230 /gO I 550 4E70 4E/0 350 3005 等 6 等
7
等 8 等/ゲ0 ′β〃 70
∫♂
無料 昭和32年菜たば こ耕 作成 練一覧表
(4万 円位 )等か ら この地区においては 他事作 りが非 常に有 利 な作物 と して.第 9図に見 られ る よう に.耕作面勧 ;漸 次 増加の 傾向にな って いるO Lか しこ こに おいて も乳牛が入 っ てい るので、 今後抽 断がで きない。
ユ 富 家
ここにおい ては昭和25年に新たに試 作と して黄 色陣が3町歩 うえ られ、それが現在に おいては逆に 備甲糞が黄 色陸にその株を奪われ、 さらに発 色性が乳牛へ きりかわ りつ つあ るとい う面白い傾向がある。第21表 と第10臥 第11回がそれを如実に物語 っている。
今上富家における 僻
よ うに 述べている。
⑦ 編中東は IF(色陸に くらべて、 労働刀を 多く必要 とす る。た とえは 植付本 如 '横 色の
2
倍 の4500本、兼枚が紫 色の2倍、 また天 日乾燥で天候に支 配されるOくさ賠償金が共 色 性の第22表 上 有家に於け る他事耕 作人見. 面税 I̲# 落 腕 甲 尭 面 黄 色 碓 面 塀
中 細 o^ 氏 /0^ /4 83反
価 ′ β 占 チ ′∫ 丁
向 4( j A /3 / 1 4(
北 迫 0 /0 / 3 l
大 原 3 2.A 9 ′/
東 ∫ 1 占 A /2.4E∫
発科 ir家 鼻薬 臨同題合 (140)
方が 高嶺である。伝) 栽培 面積が発色の方 が多くな るO等 これ らの理 由で発 色性に 切 りかえ、 さらに 公 社が奨 励 したので‑
匿に 多くの蜘 'i発 色煙を作 りだ したの で、現 在では生産過
・\二 ノ
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誓 丁雷 禦 ^空 二二 二ノ○∫+,∫ユ
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▲〃/9′(∫7ノ0∫サーJ
第
9
回李川村 煙草作付反別 不 和 の 阜
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〟 仲 / I / i 〝 / t / タ M l / D B P E J 2 7 ガ ガ . 妙 J J j z B
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d 7 日 〝 ′′FIJL3" /J必 ′ク′8JW u12B IW BCl'27m 3/jlJ3(141)
軸 こな ,て蔽反され 新たに黄 色産を作る軌 i許されない 軌 こな ,てい る。 ここにおいて 捷茸に代るべ き新 しい重美 .即ち馳 こその芽を出しかけているO現在
25
頭の乳牛が 導 入 され今まで蛭享に当てていた畑軌 ・は山林む牧草地に代え.鹿茸に代 って 伸び ようとし ているoLか し良民の持つ保守性によ ぅて一 覧に変え られないのが現状である。 きりかえ た盈家でも.果 してそれが唐草と故べた租倉有利であるか否かはまだ不明の ようである。▼● 船中垂の餅作法
2
月頃よ り苗床作 りを始めて.3
月108‑3
月20
日の間に握をま き、萩床で30
日た つ と子床に移 駐しそこで20
日す ご し.5
月58‑5
月15
日の間に本 圃に移植する。移粧 後1
ケ月 して土 よせを行い 同時に病虫等の防索を行 う。瞳挟 間臣位3 . 0
尺x 0 .
tJ尺 (4500
本 )で肥料の量は第
23
轟に示す如 くであ る06
月30
日‑7
月10
日までに魁花白みの時 那 花故の上部を応止す る。8月5日迄に収恥 行 う。その方法は呈兵
(下 より3〜 4枚 ) 中葉(7‑8枚 )は芯止めを し、共変 してか ら収壊 し.本葉(6‑ 7枚 )天真 (2‑3
枚 ) は芯止め後17
日位で2‑3
日間に収穫す る。滋漁法瓜 天 日干 し と し 、予 僻 酸 酵 枠 干、地千の胞 こ行 う。予 鮮卑静 ま普通本葉以上に行い、 2‑3
日島内に 吊込んで共 色を促す。土中棄 7‑8分本妻5分天
薬2‑3
分兼変額鼓の時、
日干枠にかける。枠千の最初にあた ・,第
23蓑
施 肥 科肥科名 茂一当 施 肥 科 量 ≡ 成 分 量 匁 基 肥 i追 肥 合 計 N
P
a 完熟堆肥 200 /OC ヂOO loco /loo loco菜経油粕
2∫ β∫
/C50
358∫ Joe
loo /00尿素化成 /dCC /.dOC 1ダCO
熔 燐 ?Co 9cc ‑
尿 素 ‑
‑
‑資料 岡山県姓草史
て真を明るい 色に 仕上げるため、 租 水切を早 く充分に 行 う如 ;必要であ るが.初めは甘除 があるので、士葉
・甲
菜 1. ‑2
臥 本葉3日串監 天葉4〜5
日弧 日甲4‑5
時馳 し て、連を寄せ染め て常をかけ、温蒸 し乗変を促 しなが ら乾晩を近め、炉次遵 間を狭はめ.士 ・甲棄5‑ 6
臥 木裏9‑ 10
日、天東 12‑ 13
日の乳 葉 肉離7‑8
割老いた時地千にかけ る。地千 は甲:LIL'≡≡二 二 三二 …三三 …≡三三 三;==‡三;‑:I:‑iI‑‡ 三 ; ‡三三… ミ これに一番労刀を くう)を行い、再び堆横取辞をさす。そ して 自宅で調理 (頚分け )を して 僕等
〜8
等までに分け る。 甑 に念を入れる程現金収入が よくなることは事実であ る。最後 の収納が よくなることは事実である。長夜の収書肘‑,9月下旬‑ 1月下旬に行われるo
(蛭 革 1 指 鞍鼻瀬 戸川民放 )(143)
撞享は連作す ると病虫害に犯 され るので. 必ず鎗 作法に よるo ここに耕地の少い入 札 僅 草栽培がで きに くい原因があるo この地方 で行われ てい る方 法は3年輪作で 久の方法に よる0
年 次 夏 作 秋 作 冬 作
1 年 蛙 草 そば、 自棄 糞
2年年 甘級 茶葉 麦
3 年 大 豆 裳
騰甲菜の一本当 り収機業 数は21枚で.香興味は香気乏 しく.喪昧経和で 引火性普通で灰 色 または灰黒 色であ ,て、両切他事の補 充料 と して、 現在使用されているO
Ⅵ 自由耕作時代の取引売 盟につ いて
現 在では、煙 草 専売法に よ ,て.1その 自由耕作売買が 固 く禁止 され、 臓甲町においては.
高梁 専売 公社 の管円に入 り、調理 した棄蛙草を、 書家にある魚 島の収 納所 で収納 する離 削こ な ,てい るが、それ以 前すなわち.専売 軌実施前にはいか な る方法 で取引が行われ ていたの であろ うかo
蛭草が我国に入 って きたのは天正年 間でL 当時唯一の采 易港であ った長崎か らで煙草耕作 は泰長初期頃(1590年代 )には じま る。 備甲地方で&・も古い産地 と 目すべ きものは、阿 哲郡草間地方、 川上郡東成羽地方で350年 前元利 ・寛永の 頃その 佳子が 伝えられた。 (岡 山県姓亭史 ) しか し他車栽培が これ ら山村に一般 化す る よ うに な ったのは、点字 ・元線の 頃か らである と云われ るo 編甲地方の各地に 広く巨指 し、 山間僻地にある良家 の重要な作物 と して、その儀を滑す ようにな ったのは、 おそ らく江戸も後期に(1800年 )入 ってか ら であろ うo この間江戸#府は、塩草耕 作の急激 な増J7m、そ れに伴 う契蛭の風 習に対 して.
「元来奥蛙は盲等あ って一利な く、且つ櫨 亭栽培のために 艮 B]艮組の犠牲 となる ことは、洋 治 財政の盛 を危 くす るのみな らず、国民の庚榎 閏勉を も惹起す とも限 らず ・・・・
・ ・
」(葉蛙 亭経済論 )との澄 田で これを固 く敷止してい たo Lか しその後幕令 も緩和 され知 事は、課 税の対 康にな り、明 治に入 り栽培は‑fy鑑んにな ったO備甲地方においては、櫨草の栽培は勿論の こと他事製造 も又 盛んであ った。 (岡LU鼎嘘革 史引飼 ) 審家において も、布瀬の甲田最. 黒鳥の木首
足
地 数軒の姓草間星が あ り、木 常星 にあ っては、木 常蛙草 と称す る刻蛙 享の並進を行 っていた。(赤木、高見氏祝 )明治初期の 取引の綾 子は.耕作人 か ら.蛙亭問屋に 向けて現品を 梅透 し間畠は これを時価に売却 し、定 則の手数料を差引いて其の代価を耕 作人に回送 していた。 ところが 明治甲軌 こな って、 生産 者と メ‑カーの間にあ って、 品物の収継 ぎをす る仲異人が 生れ、 交通の不直な吉家 ・平川 ・ 池野においては、 仲兄人 の活躍かめざま しか った.曲地改革 前の打 円大 地主 と云われた階級 をみ ると、 六法 この峻率の 仲異人を して 財を な した ものである と云われてい る。 さて これ ら 仲異人 は集めた東他車を慨藍に持 ってい き、 さらに問屋は 自家製造あ るいは他の袈遣家の所 に姓 草を売 っていたo他事の首鼠 仲叉版元にあた ってほ、許 可証を必要 と した。(144)
o 煙草営業卸 し御 下晩節 1. 煙草伸晃鑑札下渡願 1. 蛙革 仕入鑑札下 荘原
o 嘘草仲兄 仕入 出売雀札下疫厩
この下 汝厩を川上 郡長あ てに提出すれば、次の 1 うな部長 よ り回答があ ゥた。そ して輩札 ( 営業許可証 )が発行 された。
書面厭 之軽神慮侯条 税金規則之通 肺的可 中点 但 一指 令到遵之上丘札受取方 可申立 gr
明治16年7月31日
川上郡長 渡 辺 缶 三 ・
営巣 税は 明治19年頃は 前期分7円50銭を収めていたd (赤木氏文書 )
資本を持 ってい る業者は. 仲R間監 洪遁 さらに版元を も兼ね、=場に蛙草 きざみ牧人を集 めて. 刻み他事を作 っていた。 当時の取引方由 ま高 瀬舟に よる もので、黒鳥か ら刻み姓等 を 疎んで.‑且玉島沖に回漕 され、尾道〜牛欝に至 る 児島清治岸地方 、四国の丸亀、坂 出、 高 松 さらに大阪、 江戸、下は 広島風 山 口県方 面に も、 移出され.蛙 草商人 か ら常に注 目され ていたo Lか し刻煙草の晶矧 i大いに男 り. 「乾燥か宜 Lくなく. 晶質調整共に粗造に して.
専ら下等社会の蘇葉を瀞たすにす ぎなか った・・‑・・」 (蛙専 横済給 ) と述べられて いるO 明治29年3月に秦雌羊卓見法が しかれ. 朗冶31年 よ り実施され. これ に よ って仲異人 は致命的 な打峯を受けた ことは云 うまでもないが L乱造兼 者も又大 小柴本 の立 場 にあ って.
それぞれの見解か ら色 々と憶刺 して、 当時蝕 の念に選 られ る者が 多か ったo Lか し実施後 は さ して不敏をこ うむ ることも少 く、 革に 鞄逢 した轟栗を見 か
こ
及んで.極端な反対論者 も い? しかな りを浄机 一般の感冊 まむ しろ.本 症の 施行を歓 迎す る ようにな ったO耕 作者は 煙草製造が 官営に笹され るや蕃責に阿 って 生 きる壷を漢め る者 も多 く.一時蛙 串に代 って 重 義が 盛んにな ったが. もはや往年の景気を見るに至 らなか った のであるO (岡山県姓等史 ) 現在では、 向長星部落に数軒 がそのお もかけな とどめて いか こ過 ぎないO甲心都市か ら遠 く放れ交通 不匠で畑地の多いこの 書 柵 原の一 角にあ っては. 農家の馨 し も貧しいのは当然であろ う。 そのゆえた とえ労働集釣 的であ って も土地 生産性の高い煙草栽 培が歓迎 され るのは 当然であろ うo Lか しその
方
位め 苦 しさ、その割に 日当の安 さ、 などの ために、か っては 餐糞を駆逐 した時代の花形蛙草ではあ ったか、 昨 日は追 う身、 今 日は追わ れ る身のた とえのごとく、 新 しい 作物、東本 娘約的乳牛飼輩が、 したが って飼料 作物が、三世紀陶にわた って 高煉投打の支えて きた蛙革老嬢に挑みかかろ うと してい るo
牙二節
資 本 集 約 的 な コ ン ニ ャ ク (付水 車 ) 栽 培 ・ (研究方法 )私は濁執 こついて 全く柴口識が なか ったので罫前車 肺と して、平 田氏の卒 論 「蕗 諒生産 地城に お (145)
け る揺済地理的研究
」.
「蒲箱栽培
」〔大正15年刊行 )やその他作物字 の本 を読み、産地 栽 増法な どのだいたいの様子をつかんだo次に点林省県統計調査事務所で昭和29年良家 調査表 よ り備甲町の栽培状態を調べた.現地調査の 前にだい
たいの項 目を考えたO筋1
に栽培形乱 第 2 に労働形態、第 3に階層性、第 4に茄詔の占める地位t第 5に 備甲町の変温 第 6に水車及び捕 物取売についてな どであ る。又.あ部落の分析 か ら上の点の解明をするこ とに Lf=Oさて現地の 足 どりは、 第1日に典 弘と苅詣王の原田氏か ら町の栽増 状態を開 き.第2日は現勢調査簿 iり数 的統計を出 し、第3日は平川へ 行き各鹿家を訪れ 上の諸点やその他につ いて聞取 りを行 った。工 コンニ ャクの分布および 生産状況 1. 全 国
コンニ ャクは元来、 気候温暖なる地を好む ものであ るが、現在 日本では 全国的に栽培され てい るO昭和30年現在.栽培 されていないのは北 海道と石川県のみである。 全国の コンニ
ャクの 生産 状況をみると第1表の ようであるO 第 1 表
ー\ 栽培面項 収穫 面哉 反当収丑 推定実収 高 群 馬 27?(フ /300 303 393?000 茨 城 8占0 4E30 4:/2 /77.2000 .静 岡 7/0 380 230 874:000 岡 山 5?0 3/0 .24Ed 7ム3000 l 氏 島 550 24[0 4[∫ ゲ /090000
(昭和 30年第 32次塵林省統計表 )
この裏に よると群 馬県が群を抜き全国 栽培の28啓であ り.
生産軌 よその 35多 であるO産地は この ほかに 宮城. 山梨、
福 島、 山口、和歌山 等の諸県が続いてい る。これ らの地軸 ま 古世層地帯が分 布し てい る。 さて コン=
ヤク最 盛期は全国的 にみる と昭和10年頃である。そ して戦時甲から戦後にかけて底をつ き、 その後 次等軌こhj]復
し、現在はその最 盛期とほぼ同じくらい栽増されてい るO
救時甲か ら戦後にかけての叔少は、 食料不足か ら戊伺戊物への切 り換 えが澱も大きな鹿田 と考えられ、それに病虫害の発生な どが考え られる。 また今年は大暴落を したが、 これ は昨 年の増産に ともない. コンニャクの消受面が伸びない ことが原田の ようであ る0
2. 岡 山 県
岡山県はか っては コンニ ャクの 日本三六産地の一つ と云われ 昭和8年には850町歩の 作付面積を持ち、 全国的に名声を馳せていたのであるo Lか し戦争への突入 と共に 前述 した ように全国的傾向であるが叔少してい ,た。また連作その他の悪条件に よる病虫等の発生が それに拍車をかけたのである。 このため昭和23年には100町歩余とな り.壊液の危機に 立 ったが、次第に回復 しつつあ り、 現在は栽培面
硬60
0町歩近 くもな ったのである. 今後(146)
l、
も益 々増加す るもの と思われ るO 岡山県の主な る産地を都 市別にみ る と川上. 真庭、 新見.後月、 英乱 阿 哲 苫田等であるO その数字は第2蓑 にみ る如 きであ るo 岡山県の コンニ ャ クの分布は古生層地帯にあ り
.
県両部 の平 野地帯及び 県最北部の寒冷地帯を 除いた 海抜300米以上の山間の急頼 斜畑 地帝にあ り、 この地帯の コンニ ャ クの栽培環境 は六 陣良い。 この 自然条 件 よ りみた 岡山射 ウコンニ ャ91の栽培 限 界を示 したのが第1図であるo以上みた ように川上都は 岡山鼎 こお いて、依 然と して王匹を保 ってい るが、
次第に 克庭郡にお され てい ってい るの が現状であ る。 また後月郡 もかつ ては
簸 2 蓑
都 市 別 栽壇 面葺転 ) 生 産 高 CD
川
上 8 5 0 / 3 占 0 0 0 真 庭 5 4(0 4tgJ占ヲ 義 兄 2 4E7 占 0 占0 0 鼓 月 ′ ∫ 7 /3i20 0 英 田 / 4(4f / 2 8 3 5 阿 哲 /4E3 2 7 0 0 0 高 来 / 0 9‑ /タ占J o 苫 田 / O g AZ70 0 0 井 原 32 / 4(/ 0 0 碑 辞 g O /4fJ 4fO 久 米 ム0 ′ 4(4{0 0勝 田 4E3 ダ フ 5 0
(昭29 果菜 図説 岡山県 ) 川上郡 と.並んで主賓産地であ ったが、
現在は 全く昔 日の 面影はない。岡山県の コソニ 十クの産地の傾向は 南か ら北へ移 ってい るo この ことは病虫害の 関係 より連 作を療 うので 折しい土地へ 新 しい土地へ と移掛 するか らであ
(147)
り、川上. 後月 時代か ら真庭. 苫田時代へ.
す なわち県北部へ 伸び よ うとLてい るC.
次の第2図は岡山県 におけ る明治45年か ら昭和32年までの作 付面横並びに収穣 高の 推移を グラフに表‡っし た ものであ る。 これを み ると先に述べた 全国 的傾向 と一 致 してい る ことが よくオっか る0 3. 備 中 町
川上郡は岡山県にお いて も主要なる コソ‑
乃‑%
ー作付 面斤
咽∫ / o
/∫ 20 2 5 J CL昭
ノ
アヰ ・濃紫 珂孜岡 山希) (昭29
年農業図説 岡山県 )ヤクの産地であ り、 従 ってその 甲の 膳甲町も川上 町 と屯んでその栽培が 盛んで ある. 偏甲町 は首鼠 平川. 畝野の 旧三 ケ村 の合併 した ものであ り、 この 3ケ村の甲に も差異があ るo平 川が 麻甲町において現在 もその栽培は最 も多 く、 次いで汲野. 膏家 とな ってい るo普通畑は 硯瓦 富家1390瓦 平川1760反、 吸野1951反であ り、 合計5101反であ るo この甲で コンニ ャクは硯私 富家4.73反.平川19.5反、 賂野5・7反であ るo大 正〜昭和 初期までの最盛期の約3分の 1の栽培 しか されていないO
さて 騰甲町て コソ二 ,ク栽培が本格 的に行なわれ 始めた のは明治時代の 甲期か ら後期にか けてであろ うと思われる0 第3芸は 旧3ケ町の コンニ ャクの作 付面殻の推移 である。
吉家 は大正元 年か ら昭和9年まではだ いたい30町歩台であ り.最 も多い年は 大正12年 の39.6町歩であるOそ して昭和10年 より下降をた どり. 戦時甲か ら戦争直後は 穀軌 こ額 したのでは ないか と推定 され る. 現在はみ るかけ もな く. わずか 向、 甲迫.大地のあた り にみ られ るのみであ る。
(148)
I大正元年 9年 昭和元年 10年 14年 26年 33年 旧 宮 家 3
g
2 28.5 25.6 20.5 8.0 3.7 4.73 旧 平 川 37.1 41ー5 59.7 49,0 27.2 2,2.6 19.5 旧 藤 野 25.0 25.1 47.0 32.6 13.2 9.2 5.7 合 計 93.3 95.1 132.3 102̲1 48.4 15.5 29.93(町 役場安和 )
写真 1 1コンニ ャク畑 〔平川) 平川地区は大正年 間は40町歩台か ら50町貌 さらに60町歩台へ と上昇をた どり、昭 和7年には65・1町歩 と頂点Pこ遠 す る. しか し昭和12年の42町歩か ら27.8町歩へ と落 ち、 同 じ運 命をた どってい る。 しか し他地区 より、仮封畑 も多 く、鹿家 も比軟的熱心であり.
又 IE島県の コン‑ 十クの産地神石郡に近い朗係か ら次第に回復 し 硯瓦 19.5町歩とな っ ているが、実軌土25町歩位あ るのではね:いか と思われるB部落別にみると、 金野が最高で 下部、越山 西安 EEl.上敷 哉払 竹ノ倉が読 き.載壊 されていないのは井川.二又 瀬のみ で.だいだい 全域に分布 してい る。
取野地区も平 )IL 古家 と同 じ振向をた どり昭和初期が危盛で、 12年頃 より下降 しているo Lか しその後の回勧 栂 とん どな く、わずかに入 軌 北方、上原上 などで栽培 されてお り、
全 く昔 日の面影はないO
以上の ように大正 より昭和初耕 こは県下で も毛虫の生産地であ った ものが. 何故、現在の ように軌少 Lたのであろ うか。 前にも述べた よ うに吸時甲の兵科への切 り換えが大 きく響 き 岡山県では県の粍覧釦 ;コy‑ ヤク栽培の統制をや った ことが. ここで も挺率 してい るわけ l であるO次いで考え られることは病虫署の先生であるが、 これ はコyニ ャクの連作を嫌 うこ とと、 手入れの不十分か ら来た もの と思われる小 文、 コンニ ャクの価賓の変動が散 しい投横 的性質 もその回復を遅 らせている原田である し 栄筆価か らみた兵科 としての奴通や化学 面 への利用範囲が少ないな どの消受面の観通 もその一 因であると思われ るo
さて、 踊甲町は 全面勅 i103496反{・あ り.その円分け托田が4837反 (全面硬の の4.7丸 以下同じ
)
、畑6070反(5.8〆), 山林84429反(81̲6〆)
、その他 8360反(7.9車)であ り. 山林が断然多く出畑が少ない。畑地はほ とん どが軸 畑であ り、 ここにたば こ、 級 疏菜等 と共に コンニ ャクが栽培され てい るのであるo 雷高200〜500mが65葬を占みていて、気温は温故で年平均が12.90であ り、 年 間降水丑 18 00友J'で、土矧 ま砂馳 屯えた古生層 卓越地でまた. 山間傾斜地で El照時間の関係 などか ら傭甲町は コンニ ャクの遠地である。 コン‑ 十ク牡 「牧に東又は東 南の傾斜畑に作られるが 柄甲町において も何 じである。
摘甲町の畑地6070度の うち. コソ二 十ク畑 比約300反であ り、 全畑の約5夢であるo
収穫高は11210見 平均反収290貢である。 こんに ゃく紛 収入は 臨甲町 全休で2219 万円で、盤家総収入の9多を 占めているo又. コンニ ャクは 自家 消ftが20蕗で、版元が80
啓の割合であるo これは 役場資料に よるもので、 33年鑑現在の ものであるo
Ⅱ 陥甲町におけるコンニ ャク栽培法
コンニ ャクは天南星科に 属する多年生の球茎作物であ り.球茎の主成分はマンナンである。
適地は気候温和で宮李に適匿の雨があ り、排 水よく.土質は砂喋を含んだ枯質又は砂質の 壌土 が よい。 原産地は イン ドといわれ.我国に も古 くか ら栽培されていたが、 岡山県では200余 年前か ら行われていた。 しか し本格的に栽培 され始めたのは明治甲期頃からであろ う. 品軌 よ 赤垂.甘垂、支那玉の3倍があ り.従来は 麻甲町においては 腐甲玉とい う骨垂 のものが栽培 さ れていたが. これはふ と りが悪 く.繁殖力が強い とい う点はあ るが晶質が悪いので、現在は 広 島県 よ り取 り寄せ、一般に大玉といわれ る赤壁のものである。 これは病害に示い点はあ るが、
マンナン量が多く品質がよいのでこれ を匝薯としてい る.
さて栽 値法であるが、 まず 情け前の整地が行われ るが. 休閑地に栽培する場合は冬季に表土 の深耕 を行い堆肥を撒布 してお くが.麦の間に栽培する場合は蒙の土寄せ をや ゝ早 く行いその あ と‑ 煙球を憶える. 摘甲町ではほ とん ど裳の間に 植える。 植付は4月の甲旬か ら下旬にかけ てである.憧球が一年 生の場合は沸 悟に し、二年生以上の ものは大 敵にす る。 コンニ ャクは植 付けるとあ と手数があま りかか らない。 肥料は 油粕 とか草木灰 とかの有機質の ものをいれ る。
この後は除草、甲餅を行い改革を撒布す るO この数革 まコンニ ャク栽培で不可欠の もの とい っ て もよい ぐらいで、採草地 とも関係 して くるのである。敷革は 前年の8 ,9月頃に山野で刈 っ た ものである。病等虫の予防のために消奇を行 うが、主にボル ト 液で 麻甲町では年に3‑4 回や っている。 しか し、 この消母をや ってい るのはわずかの人である。 全般的にみてコンニ ャ クに対す る熱意のなさが うかがわれ る。 コンニ ャクの病害は腐敗病 と白絹病が最 も恐ろ しい も のであるが、かつてはこの病等にかか った ことも匿 々である。 収穫 は10月20日前後に行わ れる. 生玉を掘 り、販売用、東砂 用、 笹馨 用等に選別す る。 使者は鹿家で越冬す るのであ るが、
その貯蔵法には色々あるが 臨甲町においては.天井貯蔵法で台所の上へ竹を荘べてその上に貯 蔵する。 冬期にはその下でいろ りをたいて亀鑑の調節を行 う。版元す るのは 3年、 4年た って 増大 した ものである0 5年たつ と花が咲 き販売 窮j苛 荒 粉 の乾燥
用とはならない。 増大率は2年 生が6‑ 7倍、
3年生はその4‑5倍、 4年生は2‑3倍にな るのであ る。 4年生で大 きいのは1貫300匁 もあるものかで きるれ 普通は4‑500匁の ものが多く、又、見紛にす るに もこれ らが よい。
荒掛ま11月に行 うがその製逸法は先づ生事を 洗淋 し. 「かんな 」の ような道具で2‑3分位 の厚 さに切 り.竹の串に30‑ 40枚づつ さ し
(150)
て軒下で一週 間位乾かす。夜 間は屋円へいれ る。 この竜晩は天候に非常に左右 され この乾燥 に よって克瀞の賃 も良否が決ま るので大切 である。 冷た くよく乾燥 した空 気が よく温監のみで な く. 風に よ って も乾かすのであ る。密漁が終 ると、馨を 串か らぬ き俵又は麻薮にいれ る。 荒 粉の鑑取 土乾臥 調整. 色沢の3点で行われ る。 徹 は10Er目が平年は1万4 ,5千 円であ るが.今年は大春宵で5千 円位である。 ■・
Ⅱ 臨押 町金野部筒 の分析
金野部落は 旧平川打で長 もK島県に近い位隆にあ り. 現在 滑甲町におい て最 もコンニ ャク栽 勧 ;盛んな ところである。 戸数は25戸.^ 口149人で 1戸当 り平均6人 弱である。 この部 落におけ る産業帝成 札 専業鹿家15戸、畑 鼻5戸 (円3戸丑 葉熊 ).その他は泰医局員 ( 兼農束 )教具 (粗 菓 ). 公務貞 (兼盤集 ). 募 4考
家 畜商 (兼曲菓 ).医院 (兼製菜 )が各1戸 の計25戸であ り、 専菜出家率は6 0渉であ るが、兼菜良家 を含める と25戸の円23戸 で92車となる。 耕地は第4表に示 す如 く田 が 93.6反であ り.畑は 82.5度で田と畑は はi'同 じ割合 であ るo l戸当 り良家平均〔兎 曲を含む )はEE14.07反、畑 は3.58反で田 畑 を合せ ると7.65反 とな る。 生産物の 円、
米と麦はその大部分が 日家 消貿 岡であ り. 従 って鹿 家の現 金収入は 必然的に畑作物に依存 す る傾向がある。真宗虐営規榎 をみる と第5 茸の ようになる。
この貢をみ る とわか るように、 3反来所の 是熱 まな く、 5‑ i0反の鹿家 が最 も多 く全 件の56蕗を しめ、 次に10‑ 15度 が7戸 で31秀を占めてお り、 5反以上 の典家 率が 87多を 占めている。 また.3‑ 5反O)3‑ 戸 は柴集姓家であ り、曲産物以外か ら現金収入 があることか らみ ると、 金野におけ る良家は
‑股的に考えて甲流の生活を しているといえ
鹿 家 田耕 地畑 義塩 島 1 35 /.a aJ 2 3.1 a/ ‑
3 5 ダ 70 3 タ
4 ∫ ヲ 15 a g 5 i / 15 ′ ′
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7 牛1 1 ダ ・‑ 8 ユ タ 《 占 /2 9 ユ ダ ′7 a2 10 ′7 /.a ‑‑●
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12 エ ′ io l d 13 咲/ 3./ E2.0 14 dP 5 占 10 15 i占 2.9 a g
16 12 ユ ヲ β∫
17 iJ y g a 3 18 7′ 13 10 19 ′7 こ .2 /.0 20 10 30 a 3 21 ユ ヲ 2.0 0年 22 《 ヲ ∫∫ ′∫
23 a.3 39 ‑
24
‑
al ‑る。 それは埠束殺家だけの全耕地は176.1反の円、 135.1反であ り.早業叔家1戸当 りの 耕地が9反余であることか らも十分 うかがえると思 う⊂.
さて、金 野では コンニ ャクを栽培 してい る勉 酔王25戸の円 19戸であ り、栽堵総面康は2 3.1反である。 在 って コン二 十ク栽培僻 d)1戸当 り平均は1.2反であ る。 コンニ ャクの経 営 規板をみると1反 未満が9戸、 1‑2反が5戸、 2‑3反が4戸、 3反以上が1戸 とな ってい
=舶 腹14)
て こ . 3反未満 3.‑5反末弟5‑10反末1‑10‑15反未満
Bt家 数 0 3 /3 3/7t%) 】
る。 そ して コンニ ャ ク栽培 面疎は畑地 面 積の28啓を 占めて い る。その他 の畑 作 物についてはたば こ 11.08反でその14 (役脇Bt料 ) 久 雑軌 い も類 が 36.0反で41丸 野菜8.3反で10車、その他7卓とな っている。 しか し. 良家の現金収入 となる ものは コンニ ャク とたば こが主 であ り.他は 自家 消 恥 '栂 とん とである。 コンニ ャクと たばこの販売比率は各々80車と100啓で兵家 の主要なる収入源である ことがわか る。金野 の コンニ ャク栽培農家で畑 作の現金所得に対す るコンニ ャク所得の割合は、 10多以下 とした もの3戸、 10‑20如;2戸. 20‑ 50多が8戸、 50‑70車が7戸、 70車以上が1 戸とな ってい る。 また.畑 作の現金所 得の うち で、 第1位に コンニ ャクをあげた農家が16戸 たは こをあげた もの5戸であ るのをみて も、 この部落におけ るコンニ ャクの 占め る位在 とい う
ものがいかに高い ものかが うかがえ よ う。
コンニ ャク栽培農家19戸の耕地撞 営規操は、 0 ,4‑ 5反は3戸、 5‑ 10反は9戸、10
〜 15反は7戸であ り. この部落におい̀ ては、 コンニ ャクを栽培 してい る兵家は 5反以上の耕地を も ってお り、 4反以下 にはない。 また、 金野で1町以上の横地 を持つ鹿家 が全て コンニ ャクを栽培 してお お り. しか も. この7戸が金野の コンニ
ャク栽増結面礁 23.1反の 甲t 15.1反 を 栽培 してお り.その65葬を 占めてい る。 この7戸の コンニ ャク栽培面執 ま平 均1戸当 り2反であ る。
コンニ ャク栽培において金 野は数寄を 多 く畑に散布するの でその採草地 とコン ニ ャクの関係は深い。第4図は この関係を を表わ した ものである。 これは コンニ ャ ク栽培先家19戸におけ る耕地 とコンニ ャク栽培 面観 採草地 との舶保を表わ し た もので、耕地を3段階に 分け. 1戸当 り平均の 栽培面積 と採草地を 出 した もの である。 これをみ る と耕地を 多く持 って
ヰ ヶ 国 (152)
い る良熱 壬ど楳草 地を多 く持 .,て お り、 コソニ トク故培 の 中心 的良 家であ る 】町以上 の良家 は 実 に l戸当 り12・7反の採草 地 を持 ってい るの であ る。 もちろん採草 地 l油呂作 とも深 い関 係が あ るが. コンニ ャク栽培 に とって炊Itf・は不可決 ともい うべ き ものであ るか ら、 上図 よ りコ ンニ
ャク幼 者に とって採草地 を多 く もって い る良 家ほ ど毛利 であ るといえる。
きて コ ソ二 十クを l反歩栽培 した壌合 の収 支計仙 iど うであ ろ うか。 これ を示 したの か. 節 6表 であ る。
右表 は三年 球 の場合 であ るが. こ れはあ くまで政近 の価 鶴 V)平均 よ り 井 出 した もの であ り、 コl/二 十クは 価楢uJ変IPUが叔 しいのが持故 であ r)I 今年の J:うに犬払蕗 をす る と収入 は 著 しく漉せ られ る。 しか しなが らコ I/ニ ヤクを奴増 す る と多血JJ収入 が あ r)、 また、 こ0)地 において他 の適 当な る畑作物 とな ると、 コンニ ャク を除 いては地理 的、経 済 的にふて も 見当 らない。従 って こu)地 に おいて は コンニ ャクは重要 な る収入瀕 で あ る。
坐(搬 代
3UIJ甘 50,HH)H (風 早、 嫌剤 を含 む ) 8,5日0円
消 車毛 墳 臥
金
軸 力 8人
計
1.300円 6.OOOP]
3,700円 2.8【HJ円 72.3(川 円 収 入
収嘩拙 90U甘 (6UUg奴充) 150,000円 副産 物 (仔 常) 6O打 15,OUOH
(江 :いず れ も昏当 り250円 として) 計 165,OOUトリ 差 引 残 信, 92,70OH
(平 田氏J)論 文 よ りI)
次に コ1/ニ トク故堵uJ労 如 力につ
い てみ よ うn これ も平出氏uj論 文 を参 考に して. 各L,&家JJ71/ケー トに 上る もu)であ る。 「椴 に コ1/ニ トク奴培 におけ る労助力 Iilu!の作物 に比 して少 な く. 1反J91年L臼15O‑ 58人故 で あ る。先ず叔培 的 の木組 の生地 に3人 'dt、他付 け7人t9:施肥2人 乱 除‑草 5人 牡、中誹 が3 人故、土 寄せ に4人枚 、 敷 鮮敏和 3人故. 消鍵 1人政 、拙収迎如 こ多 く15人'dtかか r)合計43 人皮 と少 ないのは 自然 的損 壊 の 良好 のため
と. E
i!.
われ るQ しか し、上 uJことも各 地 崇に 上 ()非 'R,I に異 な る。例 えは この中 には倣卓の 刈取 りのカ
蜘 力が入 って い11:いが、 この全野 に おいては戟 培 曲水 が広 いため、多 ikrこ必要 で、 この ため に 自動 的のみ ではやれず、 あ る良 家 では これ に15人役 もかけてい る所 があ る。
丑
コ./ニヤクの水串 及 び輔粉 と流 通1 .
水中 と梢粉状態コソ二 ,クは荒粉 に された ものは水草 に 上って粘粉 に加工 され る。 この水車は コソ二 ,ク の生産 地が 山奥 であ 1)、文政完 fq祭 して充 血の あ る芋をLLJ輿 か ら持 ち選 ぶ とい う.tり山閲 の 生 産地 附近で柏粉 にす るほ うか労力そ の他 の点か ら考 えて も便利 で あ る。 父山奥で は設鵬 の 整 っ
た
工 場 を持つ ことは 困難であ 1)、 又級械 に 上る相称 1多故 に生産 で きるが、 コソニ トク の主成分 の7 ‑/ナ ンの歩 止 りが悪 い。 これ ら6)点 か ら水草 が山周 に出来 た と.ii]J脚 でF'る。(153)
備中町に おいては現在 は水草 は全 く見られ ない。鞭 前 まで は少数 は残 ってい たが、 ほ とん どは昭和の初 期頃 までであ る。 齢中FTの コソ ニ ーク水車 【つ分 布 を示 す と第5図にみ られ る如 きであ る。
コソ二 十ク水草 は他 の水中の よ うに特 別 の立地 条件はな い。あ る 軽 度の水があれ ば、 どこにで も作
られ る。
備中町に この水車 がほ いったの は、明治37、 8年 であ り中川の '
^針 にあった ものが政和 といわれ る。そ して大 正か ら昭和1jJルルこか けて大 部分作 られた。水中の経営 者は明治35年 の耗指腹組 合の 条件 に よる と 「組 合
焚10
円納入 省は砧粉 を行 うこ とを許 可す る」とあ るので誰で もやれ るわけ では
第 5 図 磁 路
な い。 叉景気の変肋 も叔 しいの で 「コソニ トクで成功 した ものはTLい」 といわ れ る位であ り、
従 って水i榊 摘 者は 敢本の あ る者で な くては な らない。Vm:中町 の水 中 もそのfy‑r須 者 は県外特 に大阪 の コソ ニヤク剛顔 か多 いが 、親鳥の 腺ti]氏の よ うに 4つ もaJ水 草 をLl)r葡 していた人 も あ るC.
この よ うな コ ソ二 十ク の水車 がな くな ったのは 生 産地 であ る鵬 中町 の コ ソ二 十ク生産丘 の減少 に も幽係 す るし、 地元の業 者 の 絞金不足
.
A:気変動 の激 しさTi:どが原出 の よ うであ り、一 凪 ヒめ る と なかな か復活が難か しい。次に コ ソニ ークの柏粉 の過軽 と水草 の設僻 につ いて述 べ るが. 原理 は第 6図の如 きもので.全 く 収始的で ある。 石臼は縦
さ1尺2寸、 口経1尺でそ の中に 荒粉 を2Ll日比入れ、杵 (3世 5fHI匁 )で砕 くの であ る (154)
那.日ほだいた い
12
個づつ2
列 にヨF̲んでい 7L'O また7オ .)とい って、 コモ とカ掴1 F
J‑3を と り つ け. マ ンナ ン以 外 の槽 (たち粉 う な とはす. そ して この たち粉 は肥料 . た どん、 れんた ん、壁土 な どに噂ちれZl. こ うして拙 く時r軌 王約12fLITlii】位で あ る八 軒の上下は
l
/Jl榊 に38 lBJ位 であ るD これ よ り少 し進ん だ ものは. アオ リとして威風機 をつけ、 たち粉 を吸 い とる方 法 で、大 正10噸 川 上郡大 賀村 の三宅 実津太郎 氏の仙悦 に 上 るもの であ るO荒扮 70官 で瑞扮 45胤 (1駄 ) とれ るのかe・池 で あるD コンニ ャクl鴻 '.こで取引 され るが 4険が1駄 であ る。
脱出氏 o)場合、 4つの牢串 で13り本JJ杵 を掩 って いた 側 LU県で も舷 も多 い人 がZE川 本位 であ った とい うか ら、 かれ は..道 々た る経 営 で側山 鵬で契蚊 5位であ った。 そ して多 い峠 には年 に
2
^L'tの梢扮 如法 な行 った。 これをふ て も全 盛期の備中町 の コ ソニ ヤク栽培かいか に盛んであ ったか が うか がえる。 しか も.鵬 中IuLlのf純 Jo)品IBiJは鮭秀 で、粕 に富家地 区は嫉t 下で も折 机付 きであ っIL,脱出 氏 の柵 か よ大畠tO献 上品 と11:り表彰 されてい る.ltj富家村 の柑励o)状 JLiを表わ した もの が
餌7
義 であ る0 第7
衷8年1ll
これ をみ る とコ ‑/ニ ヤク0)生産 血 と同 いqirJ・lJ)あ る こ とに気づ く。即 ち.大 iEか ら日脚 の 初仙 こか けて如 造戸数 も奴出 も増加 してい る。 そ して富家地 区が蛸粉 に おいては他地 区 をEE
してい たこ とがわか る., 2.コ ンニ ャクの出荷 と販売
コソ二 十クは生馨 の まま とtJIJJ粉 に して使fl]す る二油 P)の利Fl]法 があ る。 Hii者 の椴合は腿家 が 自家用 食料 とし、 後 者の場 合 も8割は良川 に さi戯 りの2割 は糊 、lllil良の防 水. オ ブラー
ト.イ組[品医 雑 品fj:とに川 い られ る.戦略 巾は 気球バ ク8‑ソに も使用 された。
出荷凶は大政 、榊 山県下が主 であ り、広臥 兵帆 九 州.東泉等 の各地方 ‑ も山 して い る。
このl勺訳 ほ大阪 4乱 県lJ12割 で残 りの4割 かその他 の地方 であ る。
次 に コ./ニ t.クの流過 をみ る と、 城 融‑tは川 上郡手壮付 大字1LLuJAと後 月部分井村 大字 =方非 に 間L山県鏑音速同 業阻合 があ r). そ こにお いて醍荷、 出荷 の際 の検査 を したO また、aJll/台35年 には次の よ うな規約 も作 られて いるo
H 組合
牧5
円納 入 者L地色常仮 死 を許可 す る。ヒ) 組 合鞭 10円納 入者 は相 粉 を行 う ことな許可 す る。
E) 組合攻 15円納入者 は間9.hB業 を許 可す る。‑
父峨 後は段築地同組 合経済 連合会 が久 臥 成羽 Iq柵 )工 場 をもって 机下 の販51己絹 コソニ ャ