1 聖 書 ヨハネ6:28~34 (第36講) 題 「ただキリストを信じるだけの人生とは」 (序)自分の思い、判断という眼鏡 * 自分目線の信仰(すなわち、自分の思いをかなえて欲しい との思いから出てくる要求、懇願、ねだりを主に突きつけ る信仰)に立っていたユダヤ人たちは、イエス様がどのよ うな思いを持っておられたか考えようともせず、せっかく 王に担ぎ上げて、この国の舵取りを任せたいと思って願っ たのに、拒否され、がっかりしながらも、昨日のような奇 蹟をもう一度見たいとの思いが強くて探し回ったほど、熱 心な人々でありました。 * しかし、その熱心さは、自分の思いを満たしたいという肉 の心に忠実な熱心さであったが故に、イエス様から喜ばれ ることはなく、朽ちてしまう食物のためではなく、永遠の 命に至る朽ちることのない食物を得たいと願って、その熱 心さを表しなさいと言われたのです。 * 自分たちの熱心さをも否定されたユダヤ人たちは、自分た ちの思い通りに動いてくれないイエス様に対して、不信感 を持ち始めました。それは尊敬と反発は紙一重の差だから、 反発の方にスイッチが入ってしまったのです。 * それでは、あなたが言う、神が望んでおられる私たちのな すべき努力とは何を指しているのか、詳しく教えて欲しい と言いました。これは教えを乞うているのではなく、その 答え方次第では、尊敬に値しない者として見限ろうと思っ ていたのでしょう。 * どこまで行っても、彼らの言動は、自分目線の信仰から離 れることはなく、神からの語りかけを、自分たちの思いに
2 かなうものかどうかで判定しながら聞こうとする向かい 方から正されることはありませんでした。 * 信仰は、自分の思いの領域内から抜け出そうとしない限り、 神が与えようとしておられる信仰に育てられていくこと はありません。この時のユダヤ人たちの信仰は、自分の思 い、判断という眼鏡をしっかりとかけていましたから、そ れから外れたものは、すべて不要、無意味、無価値だとし か受けとめなかったのです。 * もちろんこれは、この当時のユダヤ人たちだけのことでは ありません。今の時代においても、自分の思い、判断とい う眼鏡をかけていない人は、一人もいないと言えるでしょ う。その眼鏡を取り外した時、初めて神が与えようとして 下さる信仰を受け取り、神の働きかけが見えてくるように なるのです。 * イエス様は、全く導き甲斐のない人々に対しても、何とか して、神が与えようとしておられる信仰に立つ者となるよ うに願って、信仰傲慢に陥っているユダヤ人たちに対して も、反発を露わにする人々に対しても、なお霊の目が開か れることを願って語り続けられているのです。 * なぜ信仰者であるはずの人が、信仰傲慢に陥ったり、反発 したりするようになるのでしょうか。それは明白です。自 分の思いが納得するかどうかを判断基準としているので、 納得できないものに対しては、不要、無意味、無価値だと 判断を下して、反発するか、排除しようとするのです。 * 私たちが今持っている信仰とはどのようなものでしょう か。この当時のユダヤ人たちが判断基準とした、神が喜ば れない信仰か、それとも神が喜ばれる信仰に立っていると 言えるでしょうか。ここにおけるユダヤ人たちとイエス様
3 との会話から明らかにされている信仰について、共に考え ていくことにしましょう。 (1)信じるだけでいいと言うあわれみの道 * 永遠の命に至る朽ちない食物のために働きなさいとの御 言葉を、人々はどのように受けとめたのでしょうか。28 節の人々の言葉から見ると、永遠の命に至るパンを得たい と思うなら、神の求めておられるわざを行いなさいとの勧 めとして聞いたのです。 * これは、神からの祝福を得るためには、律法を守り、神に 喜ばれる良い行いをするという、律法主義的頑張りに対し て、神は褒美を与えて下さるという考え方が底にあったと 分かります。これは世の考え方も同じです。頑張れば必ず 報われるという考え方です。この考え方を、イエス様は完 全に否定されたのです。 * 律法的、人間的に頑張ることが、神の求めておられること ではない。神が遣わされた者を信じること、これだけだ。 これが神の求めておられる私たちのなすべきわざだと言 われたのです。なぜ頑張りではなく、信じることが神の求 めておられるわざなのでしょうか。 * これは、神が私たち人間をどのような存在だと見ておられ るかが分かっていないと理解できません。神の目から見て 人間とは、罪に汚染され、神の義に全くふさわしくない者、 何の善いところがない者、愛する価値がない者であって、 少々頑張って律法を守り、良い行いをした所で、それは高 いビルの屋上から見た地上の蟻の背比べのようなもので、 頑張ったか、頑張っていないか、どの蟻も、大して変わら ないと見ておられるのです。
4 * それでは、律法を守ることも、良い行いをすることも、ど ちらでもいいと言っているのでしょうか。確かに頑張った 所で、人間性に大きな変わりはなく、律法を守って、良い 行いをすれば褒美を頂けるような存在なのではありませ んが、神のお心を大事に思い、神に造られた人間らしくき よく生きていこうとすることは、神が用意して下さってい る、あわれみを受ける道に進むことができると示している のが、旧約聖書を通じて示されている内容だったのです。 * しかし、そのあわれみを受ける道は細く、入りにくい道で ありました。イスラエルの民は、自分たちは選民だからと 高慢になり、律法を守っているから神から褒美を頂ける民 だと思うようになってしまい、あわれみの道に入りそこな ったのです。 * そこで神は、もっと入りやすく、誰でも入ることができる 道として、神が遣わされた救い主を信じる道を新しく示し て下さったのです。そこには頑張りに対する褒美という考 え方は僅かも入り込む余地はなく、逆に信じるだけで他の 条件は一切要らず、それが永遠の命に至る道だと教えられ たのです。 * 神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらいいです かと問うた人たちは、これまで私たちは神に喜ばれる生き 方をしてきました。素晴らしい褒美である永遠の命にあず かるためにもっとしなければならないことがあるという ならば、教えて下さい。もっと頑張りますから、という思 いで言ったのでしょう。自分たちは褒美にあずかる価値が あると自信に満ちていたのでしょう。 * 神の義に全くふさわしくない罪人と見ておられる神の判 定に気づこうともしていないから、もう少し頑張れば、神
5 が合格点を与えて下さると思ったのです。しかしイエス様 は、そんなことで誰も合格点をもらうことはできない。た だ一つ、神が合格点を与えようと用意して下さった別の方 法がある。それが神の遣わされた救い主を信じることだ。 これが神の求めておられるわざだと言われたのです。 * しかし、信じるだけでいいという言葉ほど、簡単に見えて 難しいものはないと言えるでしょう。なぜなら、見える形 の保証もないし、確認できるものも与えられるわけではあ りません。この方が私の救いと信じ、本来なら神の義にふ さわしくない罪人として廃棄処分されるしかなかった者 を、合格点が与えられた者に変えられると信じるのです。 * 見た目に合格点が与えられる優れた人格者に変わるわけ ではないし、言動も変わるわけではない。ただこの方を、 私の救い主だと信じるだけという頼りない方法であるだ けに、本当にそんなことでいいのかという思いと、自分で 自分が合格点だと思うユダヤ人のような高慢な者もいれ ば、こんな私で合格点だと言われても信じられないという 卑屈な人もあって、信じるだけという方法の難しさを思わ されるのです。 * ユダヤ人たちは、それをどのように聞いたのでしょうか。 ユダヤ人たちの根底にある思いは、彼ら自身気づいていな い高慢さ、すなわち、神を試し、自分たちを納得させてく れるものを見せてくれない限り信じられないという、自分 を神より上に置いた姿を現していたのです。今日でも同じ ような人が多くいます。 (2)しるし信仰から抜け出せないユダヤ人たち * ユダヤ人たちは、イエス様の答えを聞いて強い不満を覚え
6 ました。「神から遣わされた私を信じて、あなたの人生を 私に任せてしまいなさい」と断言している言葉として聞い たからです。 * この私を救い主として信じ、あなたの人生を任せよと言う なら、あのモーセが荒野で天からのパンを与え続けて、驚 くべきしるしを示したように、それに匹敵するしるしを見 せてくれるなら信じてもいいと言わんばかりの高慢さで イエス様に迫ったのです。 * というのは、ユダヤ人たちの持っていた信仰は、メシヤが こられた時には、モーセの時代に 40 年間もの間、荒野で 天からのパンであるマナを、あるいはうずらが与えられ、 食を満たし続けて下さったというあの記事を取り上げて、 それと同様のしるしを見せてもらえると思い込んでおり、 そうすればこの方がメシヤだと確認できる。神はそのよう にして下さると勝手に思い込んでいたのです。 * 彼らは、モーセの時になされたあの奇蹟が、なぜ行われた のか、その理由を受けとめようとせず、現象だけを取り上 げ、都合のいい捉え方をしていたことに気づいていないの です。それは、出エジプト記(16:7)や民数記(11: 18)などに記されていますが、後の一人の詩人が、その 時の民の愚かさ、不信の罪を責めておられる神のお心を明 確に解説しているのです。(詩篇 78:18~32) * そこには、導いて下さる神を信じ切れず、少し満たされな いことがあるとぶつぶつつぶやいた民の不信仰の結果与 えられたものであったのです。そればかりか、40 年間養 われ続けたにもかかわらず、彼らはどのような姿を現した のでしょうか。詩人は 78:32 で、「すべてこれらのこと があったにもかかわらず、彼らはなお罪を犯し、そのくす
7 しきみわざを信じなかった」とまとめています。 * 神が養って下さる体験が、信仰に結びつかなかったのです。 なぜしるし信仰は、大きな衝撃を与えられ、そこに神の養 いと導きとを明確に受けとめることができるものである のに、信仰に結びつかないのでしょうか。 * それは、しるしは人間の感覚に訴えかけるので、非常に感 激し、その素晴らしさを体験するので、信仰に結びつくよ うに見えるのですが、感覚は肉ですから、確かに一時的に 信仰に立っているかのように見えるのですが、それは信仰 ではなく、単なる映像であって、いつかは薄れて消えてし まうのです。 * それでは、見ないで信じることを求める信仰は、どこに訴 えかけているのでしょうか。それは霊に訴えかけ、霊で受 けとめるものなのです。だから映像のような感覚ではない から、薄れることなく、消えることなく、信仰にしっかり と結びつくのです。 * それでは、なぜ神は、時に応じて感覚に訴えかけるしるし を見せられるのでしょうか。それは人間があまりにもかた くななだから、まず感覚に訴えかけ、それを導入部分とし て用い、見ないで信じる信仰へと移行させ、霊で受けとめ るように導こうとしておられるのです。そうすれば、信仰 に結びついて、いつまでも信仰が消えず、不信を現さない ようになっていくからです。 * イエス様も、このしるしを見せられたのは、それが信仰に 結びつくと思ってではなく、神の偉大さを信じるためのき っかけとし、手助けとするためであって、それを繰り返し 見せようとされる思いは全くなかったのです。そこから、 見えない本物の食物を求める信仰へと移行させることが
8 目的だったのです。 * 感覚を信じた出エジプトの民は、いつかは感激も薄れ、感 謝の心もなくなり、新たな不満を見出して文句を言い、生 涯つぶやき続け、不信仰な姿を現したのです。どうして彼 らは霊で受けとめようとしなかったのでしょうか。それは、 霊が活性化する歩みをしてこなかったからです。 * この時のユダヤ人たちも、全く成長しておらず、しるし信 仰のままとどまっており、モーセが現し続けた天からのパ ンを与えるという奇蹟と同等のしるしを見せてくれたら、 あなたを信じてやってもいいという、神に指図する高慢な 信仰でしかなかったのです。私たちの信仰も、感覚におい て納得させて欲しいという、神に指図する高慢な信仰に陥 らないように注意する必要があります。 (3)霊が開かれるまで語り続けられるイエス * イエス様は、ユダヤ人たちの高慢な信仰を感じ取られなが らも、あきらめて見放されるかと思えば、なお彼らの霊性 に語りかけ、天からのパンを与えたのはモーセではない、 わたしの父だよということにより、神であられるという点 以上に、この私の父だと強調し、父と私とが一体関係にあ ることを強調しておられるのが感じられます。 * これは、27 節で語られていたように、イエス様ご自身、 父なる神から特別に認証の印を押され、永遠の命に至る朽 ちない食物を与えることのできる授与者として任命され た者であることを、この表現で示しておられるのでしょう。 * 32 節の言葉は、注意して読む必要があります。天からの パンをあなたがたに与えたのはモーセではないと否定し、 モーセを通して神がお与えになったという表現で、その時
9 には、確かに天から降ったパンが与えられ、それを人々は 食べて養われたことを言っています。当然そこでは過去の 事実を示す完了形の動詞で書かれているのです。 * しかし後半の内容は、天からのまことのパンを(今も)与 えておられるのはわたしの父であると、ここでは現在形の 動詞が使われ、あの時から今に至るまで与え続けておられ ることを示しています。 * わたしの父は、モーセの時代からキリストの時代に至るま で、天からの本物のパンを与え続けておられるとの意味で 現在形の動詞を使われたのだと考えると、腹を満たす物質 的なパンから始まって、霊の命を満たすまことのパンを今 に至るまで神は与え続けておられると言っていると考え られます。そして次の箇所では、私が命のパン、天からの パンそのものだと言われる内容に続いていくのです。 * 人々はこれをどのように聞いていたのでしょうか。それは 34 節において、人々がイエス様のお言葉に反応して答え ている内容から感じ取ることができます。「主よ、そのパ ンをいつもわたしたちに下さい」と言ったのです。これは、 イエス様が語られたお言葉を霊で受けとめようとせず、ど こまでも肉で受けとめ、あのマナよりももっと優れた本物 のパンがあって、それをいつも頂けるなら、私たちに下さ いと言ったのでしょう。 * それは、私が天から降ってきた命のパンそのものですとは っきりと言われるまでは、彼らは、命のパンと言われても、 物質的なパンというイメージから離れることができなか ったのでしょう。なぜなら、彼らが望んでいたのは物質的 なパンであったから、これを霊で受けとめることはできな かったのです。
10 * 霊的無知な人に、霊的な事柄をいくら説いても、霊的真意 を受けとめられることはありません。それではイエス様は 開かれることのない霊的闇の中にある人々に、なぜ無駄な 語りかけをしておられるのでしょうか。 * 確かに、誰も最初から霊がさとい人は一人もいません。す べて罪に汚染された心によって、霊はうろこで覆われてし まっているから、見えなくなっているのですが、あのパウ ロのように、うろこのようなものが落ちて見えるようにな るチャンスは与えられているのです。(使徒 9:18) * パウロが見えるようになったのは、神から遣わされたアナ ニヤを通して、神が語っておられ、神が手を置いて下さっ たと信じたから、また聖霊に満たされるチャンスを逃さな かったから、一瞬の内にうろこのようなものが落ちて霊は 開かれたのです。 * 見えるしるしだけを求めていたユダヤ人たちの閉ざされ ていた霊も、あるチャンスを与えることによって、霊が開 かれ、さとくなって、霊で受けとめる者になることを願っ て、イエス様は語り続けられたのです。何という忍耐でし ょうか。 * それは霊が開かれるということそのものが奇蹟であるこ とをイエス様がご存知であったからです。霊は無理矢理開 けることはできず、霊の言葉が語り続けられ、霊の事柄に 触れ続けた時に、ある瞬間、その鍵がピッタリとはまる時 があって開かれるのです。 * 私たちの霊が開かれるまでの神の労苦はいかばかりでし ょうか。無駄に思えても、繰り返し繰り返し働き続けて下 さるのです。感覚によらず、霊で受けとめるようになるま で、神は手を休まれることはないのです。
11 (結び)信じて、神の手の中で安心し切る人生 * 頑張って褒美を得ようとする人生をやめよ、神から遣わさ れた私を信じるだけでいい、それだけであなたの罪は赦さ れ、霊は開かれて、神の子として生きることができ、命の パンで最後の時まで養われる。神は力のないお方ではない と、イエス様は明快に霊の事柄を語っていかれるのです。 * しかし、ユダヤ人たちは、霊の事柄を霊で聞く耳を持って はおらず、肉で聞こうとするから、その言葉を不可解に思 い、不信を露わにし、その真意を受けとめることができず、 大いなる神を小さくしてしまっていたのです。 * なぜ彼らは、霊で聞こうとしなかったのでしょうか。霊で 聞くことを全く教えられてこなかったのでしょうか。そう ではありません。霊で聞くように教えられ、訓練を受け続 けてきたのです。それではどうして彼らは霊で聞くことが できなかったのでしょうか。 * それは、この地上での生活に心を奪われる歩みを続け、肉 で生き、肉で聞き、肉で考える生き方が楽なので、霊で聞 き、霊で生きる歩みをストップさせてしまい、霊の事柄に 対しても、肉で聞こうとするようになり、しるしという肉 的感覚に訴えるものを求めるようになり、神までも肉の範 囲で見ようとしてしまい、神を小さく見るようになってし まったのです。 * 私を信じるだけでいい、私にあなたの人生をすべて任せな さい。それが、神の求めておられるわざなのだと示されて います。それに対してあなたは、「はい!あなたは偉大で、 あなたにとってできないことは一つもなく、あなたは私の 人生を導いて下さる力を持っておられるお方です」と告白 して本当にお任せしてしまうことができるでしょうか。
12 * 見えるしるしがなくても、私はあなたの養い主だ。すべて の必要を満たし、あなたを持ち運ぶ。あなたを私の大事な 子として最後まで責任を持って養い、育て、導き、助ける。 そのためにあなたは信じるだけでいい、結果が伴わなくて も、心配するな。私の偉大さを信じよと霊に語り続けて下 さっているのです。 * これらを霊で受けとめた時、私たちの人生は根底から変わ ります。神の手の中で生かされている人生であると、霊で 味わうことができるようにされます。信じるとは、時々神 の手の中に入ることではなく、神の手の中に自分の人生を あずけてしまうこと。その歩みを霊で感じ取って安心し切 ることなのです。