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捕鯨業者井元弥七左衛門と平戸藩 : 井元家文書の伝 来とその分析

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捕鯨業者井元弥七左衛門と平戸藩 : 井元家文書の伝 来とその分析

岩﨑, 義則

九州大学大学院人文科学研究院歴史学部門 : 准教授 : 日本近世史

https://doi.org/10.15017/16902

出版情報:史淵. 147, pp.39-75, 2010-03-01. 九州大学大学院人文科学研究院 バージョン:

権利関係:

(2)

三九

捕 鯨 業 者 井 元 弥 七 左 衛 門 と 平 戸 藩       ― ― 井 元 家 文 書 の 伝 来 と そ の 分 析 ― ―

岩    﨑    義    則

1

はじめに

現在︑平戸市内で旅館を営む井元家の先祖井元弥七左衛門の名は︑﹁西海鯨鯢記﹂︵享保五年︶や﹁五島に於け

鯨捕沿革図説 一﹂︵青方田宮運善・天保二年写︶といった西海捕鯨に関する著名な文献に見受けられ︑﹃大島

郷土誌﹄においても井元家文書をもとに︑既に分析がなされている︒井元弥七左衛門の西海捕鯨に関する記録

は︑かつて伝存していたらしいが︑残念ながら現在︑同家にはほとんど残っていない︒本稿執筆のきっかけは︑

〇〇三年九月︑同家訪問の際︑近年︑松浦家当主より同家に返却された軸装︵二巻︶の古文書の存在を知った

とにある︒

この二巻の文書︵いずれも原文書︶により︑平戸藩に対し同家が多額の御用銀を融通していた実態を分析する

(3)

四〇

ことが可能となり︑また元禄〜享保期にかけての平戸藩の財政経済政策の一端を知ることが出来る︒近年の西海

捕鯨に関する優れた先行諸研究でも︑井元弥七左衛門らが活躍した時期は︑平戸城下町人による捕鯨の衰退から

生月益富家台頭の間隙にあたり︑専門的な研究は中園氏の論考に限られるなど︑研究の蓄積が比較的薄い

︒本論 4

自体は︑井元家文書の基礎的な分析を主眼としたものであるが︑まず︑この軸装文書の伝来について︑同家の関

連文書から補足・説明しておく必要があろう︒

2

返却された古文書

井元家には︑明治二九年から同三〇年にかけ︑旧幕府時代の藩主直書及び証文類を証拠とし︑平戸松浦家に米

の拝借を請願した文書三通が残されている︒各々﹁御米拝借願﹂︵明治二九年三月一三日付︶・﹁追願書﹂︵明治

二九年四月二一日付︶・﹁再願書﹂︵明治三一年四月六日付︶と題され︵何れも罫紙に墨書︶︑前二者は松浦詮・厚

父子宛︑後者は松浦家々扶志々岐貫一・菅沼量平ら宛である︒明治二八年二月一五日付の井元弥七左衛門の﹁原

籍証明願﹂︑松浦家用達所による﹁願之趣難聞届候事﹂とかかれた一紙と共につづられている︒

これら井元家の請願は︑﹁商業資産ノ目途モ相立ス﹂あるいは﹁家資分散之処分ヲ受ケ﹂といった家屋の譲渡︑

さらには老母の薬代の捻出といった廃藩置県後の同家の窮状を背景としている︒請願内容は︑同家所蔵の証文類

から先祖以来の﹁御家中御救ヒ料︑其他ニ連々貸上金﹂総額を︑当時の貨幣価値で約四万六三二〇円とし︑さら

に﹁御証券中年々米千俵宛御下付可相成御文言マテニテ︑私方旧帳簿ヲ閲見候ニ︑壱回モ拝領仕タルモノニ無御

座候﹂と︑証文に記された約束の不履行を以て︑﹁天詳 院様御直書及ヒ御証券別紙写シノ通リ宝蔵罷在ルモ恐レ

(4)

四一 多キ次第ニ付︑今般返納可仕候条﹂と︑天祥院︵松浦鎮信︶直書・証文類の返上と併せて当座の米一〇〇俵の拝

借を懇願するものであった︒なお︑直書・証文類は︑親戚一同連署の上で納付する予定であることも述べられて

いる︒

だが︑この段階での旧幕府時代の約束不履行に依拠した米拝借の請願は聞き届けられていない︒結局︑井元家

と松浦家との間で︑旧幕府時代の貸借関係に和解をみたのは昭和二八年であり︑同年一一月一五日付の﹁誓約書﹂

において︑井元家は︑金一三万円を松浦家から受領する代わり︑今後︑古証文等を以て一切の要求を松浦家に対

して行わないことを誓約した︒即ち︑その文面には︑﹁松浦第二十九代天祥公時代に当井元家先祖井元弥七左衛

門︑同弥兵衛︑同虎之丞及其一族との金銭貸借に関する古証文類所蔵の処︑今般右書類全部を返還し︑同時

に其代償とし︑貴家より︑一︑金拾参万円也御下付相成り︑正に受領致しました︑就而将来一切の古証文其他之

ニ類する物を以て旧藩時代の貸借関係を松浦家に対し︑何等要求せない事を誓約致します﹂とあり︑また同時に

井元家所蔵の古証文類が松浦家へと一括返却されたことが分かる︒

則ち︑現在同家が蔵する軸装文書二巻は︑金一三万円と引き換えに松浦家へ一旦返却されたものであったが︑

松浦家当主の厚意によって︑近年︑再び井元家へと返却された経緯となる︒但し︑井元家に返却された古文書は

主に証文類を収めた二軸であり︑その他︑井元家より松浦家に一括返却された文書に含まれていたと思われる鎮

信直書︵二通を一軸に装幀と推測︶は現在所在が未確認︒新田藩主松浦昌・藩家老らの自筆書状︵五通を一軸に

装幀︶は︑後述のように松浦家に伝存する︒

(5)

四二

3

井元家の概要

3

1

川本義利︵初代︶・井元義陽︵二代目︶

以下︑井元家の﹁存続簿﹂・﹁先祖続﹂︵内題﹁御書并御証文且先祖続﹂︶・﹁井元家々系図︵仮題︶﹂を手がかり

に︑可能な限り記事の根拠を他の史料によって傍証しつつ︑同家の概要を示しておきたい︒同家先祖川本弥七左

衛門義利︵寛永三年一二月一四日没︶は︑初代藩主松浦鎮信の招請によって︑慶長六年正月二八日︑壱岐より的

山大島へと拠点を移し︑同所代官︵政務役︶に任命され︑寛永三年六月七日︑松浦隆信より知行二〇石が給付さ

れた︒

川本義利を井元家初代とし二代目義陽︵万治三年一二月一一日没・法名﹁覚翁宗本居士﹂︶の代︑寛永二〇年

正月一一日︑知行一〇石が給付された︒この代に姓を川本から井本︵井元︶に改めている︒なお︑義陽の子弥兵

衛︵清雲夏益居士︶も知行五石が給付された︒その次代新五右衛門︵誉静安居士︶は四代藩主鎮信によって取り

立てられ︑高五〇石を拝領︒この家系は大久保井元家と称されるが︑同家八代目熊太夫が町奉行・勘定奉行など

藩重職を歴任し︑松浦静山︵清︶による藩政改革において重要な役割を果たした︒以後︑代々高一〇〇石を給付

される家柄となっている︵﹁増訂藩臣譜略 十三﹂松浦史料博物館蔵︶︒

3

2

義信︵三代目︶

三代目義信︵正徳元年二月三日没・法名﹁覚了院心誉正法宗伝居士﹂︶の代より︑井元家は捕鯨業に着手した︒

製網所の設置など﹁網組﹂の準備を進め︑寛文四年八月より操業を開始したと﹁存続簿﹂は記す︒即ち︑﹁弥七

(6)

四三 左衛門義信父祖の後を承け政務役となる︑是より先き寛永二年播州人横山甚五郎兵衛大島に参り捕鯨業を経営せ

しも成績挙らす︑数年の後ち遂に廃止し久しく斯業を経営する者なかりしが︑天祥院鎮信公は寛文元年弥七左衛

門に命じて捕鯨業を創設せしめ︑弥七左衛門は直ちに諸般の準備を整へ︑寛文四年八月︑神山より神の浦に移転

し︑雨上り浦を鯨捌所となし︑東浜を埋築して製網所となし︑網組の組職完了し︑茲に愈々組出を見るに至り︑

爾来︑経営共宜しきを得て年々大漁引続き︑俄ニ鯨成金となり︑巨万の冨を成すに至つた﹂とある

︒当時の平 10

戸城下は︑﹁明暦二年申ノ年︑長崎糸ノ割符御破被成︑当町町人共取来候糸割符も相止候て町人共難儀仕由ニて︑

銀子弐拾貫目・米弐千俵無利ニ御借シ手廻ヲ仕︑其後︑鯨突ヲも仕立申候故︑段々得利潤︑頃ニ至て銀子九拾貫

目余町中之貯銀有之事﹂︑あるいは︑﹁明暦二三申酉之年以来長崎糸之割符不参候故︑町之者共難儀仕候段被聞召

上︑銀子弐拾貫目無利ニ御借させ段々廻し候て︑鯨突抔も仕付︑町中夫より栄候事﹂︑﹁寛文二三寅夘之年当町鯨

突共打続大分鯨を突上ヶ︑町中富貴仕候事﹂と記録されている

︒貿易特権の喪失︵糸割符の廃止︶による城下の 11

経済的衰退を防ぐため︑藩は資金と米を投入し︑あわせて﹁鯨突﹂を整備した︒この施策によって︑城下町は活

況を呈し︑寛文年間︑鯨は豊漁期を迎えたが︑藩主の指示で﹁網組﹂を組織した井元家の捕鯨業も︑かかる藩の

経済政策の一翼を担うものであったと推測される︒管見の限り︑藩の史料における井元弥七左衛門の初見は︑元

禄二年一〇月一五日付の﹁一 前津吉浦鯨組居候義︑辰年ゟ丑年迄十年之間吉村庄六一手ニ被下︑浦請運上銀百

廿枚ニ相究置候得共︑庄六運上銀滞有之︑浦差上ヶ申候︑然処︑右滞銀其方相立︑庄六申合︑此以後九年之間両

手ニ而組居ヘ申度︑願之趣何も承届︑当巳年ゟ丑年迄九年之間請切ニ差免︑万一庄六上納滞之儀有之︑浦取上ヶ

候共其方ハ別条有之間敷候︑仍而如件﹂と︑城下町人吉村庄六と﹁両手﹂で︑元禄二年から同一〇年までの前津

吉浦の鯨組を請け負った時の記録である

︒城下町人谷村家の記録には︑﹁鯨組当所ニて仕出候初寛永三四年之間︑ 12

(7)

四四

其後段々繁昌仕︑当町ゟ七組仕出候儀有之︑近年鯨組衰微仕︑段々相止︑元禄四辛未年吉村勝六組ニて終﹂と記

述があり︑元禄四年を最期に︑城下町人による捕鯨が終焉した様子が描かれている

︒寛文期の創業時の様子は明 13

確ではないが︑井元家の西海捕鯨は︑元禄二年〜同四年頃を一つの画期としていると言えるだろう︒

こうした捕鯨による蓄財を以て︑琉球から蘇鉄を取り寄せたことや

︑雄香寺建設に貢献した様子が︑﹁或年︑ 14

鎮信公捕鯨業視察の為め︑井元邸に臨まれた︒茶室に招請して茶を献ずるなど︑歓迎の意を表し︑又弥七左衛門

は特に人を琉球に遣はし︑蘇鉄五株を取寄せ︑之を献し︑元禄八年雄香棟公大島の江月庵を平戸菅牟田に移し︑

雄香寺を建立せらるゝに当り︑梵鐘を鋳て献納し︑亀岡城を修築するに当りては︑巨費を献して用度に充て︑宝

永四年十一月二十七日築城工を竣へ落成移転式を行はるゝに当りては︑弥七左衛門を城内に召して功績を褒賞し

恩遇を賜はった︒﹂と記録されている

︒また同人は︑﹁夙に仏道に帰依し︑宗風振興の志があった︒真教寺の伽藍 15

狭隘にて檀徒の信を繋ぐに足らざるを見てその再興新築を計画し︑金剛院別邸の地を譲り受け︑工事に着手し︑

寛文七年落成し︑本堂古裡仏像仏具等悉く完備した︒是に於て其の二女を同寺第三世了吟に嫁せしめ︑小倉町に

小庵より移り居らしめ︑かくて宝永八年二月三日歿し︑源武に葬った︒﹂と︑宗教心も厚く︑真教寺の再興にも

尽力した

︒ 16

義信の代︑井元家は銀九〇七貫八一〇匁にも及ぶ多額の御用銀を実施した

︒これら御用銀の一部は︑宝永元年 17

︵元禄一七年︶に一旦整理され︑同年より毎年米七〇〇俵宛の返済と規定された証文が交付された︒義信は︑こ

うした功績により︑元禄六年︑平戸藩宗門改制度上における﹁踏絵御免﹂格式となり︑同一三年には︑小田重利

と共に平戸町年寄格と居屋敷二〇〇坪を拝領した

︒ 18

(8)

四五

3

3

義定︵四代目︶

四代目義定︵享保一一年五月三日没・法名﹁護念院延誉宗寿居士﹂︶について﹁存続簿﹂は︑﹁弥七左衛門義定︑

父の業を継ぎ捕鯨業を営み︑業績前代に劣らざる成績を収め︑家運益々殷盛を極め︑正徳二年御船手役所を新築

して藩庁に寄附し︑又紅塗小早六艘を新造して献納し︑享保七年銀千二百貫目を篤信公に献納し︑又真教寺の梵

鐘を鋳て寄附するなど社会に貢献する所ありしが︑享保十年捕鯨納屋失火し︑漁具悉く焼失し︑甚大の損耗を蒙

り︑復興の計画に付苦心惨憺せるが︑其翌年十一年五月三日没したり﹂と記す︒船手役所の新築と小早六艘の献

納は︑今のところ他の記録では検証できない

︒享保七年の銀一二〇〇貫目の献納は︑享保四年からの藩の返済銀 19

請負に関するものであろう︒﹁享保四亥一二月 請負銀返弁控賬﹂︵井元家文書︶によれば︑義定は︑享保四年か

ら同八年までの間︑計銀一一一〇貫七五五匁余の返済を完遂した︒藩の記録には︑享保八年二月朔日の記事とし

て﹁御勝手向被指支於大坂去暮仕送之者共御返弁不罷成︑当年江戸之仕送も滞候付﹂とあり

︑大坂での借銀 20

返済不調に起因した江戸関連経費確保の必要性が︑こうした領内捕鯨業者に対する返済銀請負の背景にあったこ

とが窺える︒義定は︑さらに︑享保九年より江戸﹁御手仕送﹂のため︑一ヶ月に金二〇〇両宛の拠出を承諾︒同

年四月晦日には︑その褒賞として﹁代々御銀指上御用達被為御満足ニ被思召候﹂として御伽格と刀御免が申し渡

された

︒﹁存続簿﹂は享保一〇年の納屋失火を掲げるが︑これも検証することが出来ない︒但し︑定則代の苦境 21

を察するに︑義定の死去を契機に︑捕鯨業者としての井元家は衰退の傾向を辿ったようである︒

3

4

定則︵五代目︶

叔父井元七左衛門定治の後見のもと︑義定の跡を継いだ定則︵延享二年八月二七日没・法名﹁宗慶居士﹂︶の

(9)

四六

代︑同家が捕鯨業の再興を計ったことが﹁存続簿﹂に記される︒藩の記録では︑享保一一年七月八日︑定則に対

しては壱岐国勝本浦での捕鯨継続と御用銀二〇〇貫目の拠出︑定治には定則と共に勝本浦での捕鯨を請け負うこ

とと御用銀が命じられた︒ところが︑同年九月七日︑﹁たとへ内証無拠義とも和順いたし相勤候筈之処︑早速御

断申上候段旁如何敷候﹂と︑定則が勝本浦での捕鯨継続を拒否した様子が記されている︒定則の請願を容れて勝

本浦の捕鯨は︑定治と同姓惣右衛門が二人で請け負うこととなり︑組株の諸道具一式が両人に譲渡された︒但し︑

亡父義定への用命もあったことから︑銀一〇〇貫目の御用銀が定則に命令された︒一方︑定治に対しては︑勝本

浦での捕鯨と御用銀二〇〇貫目が命令されている︵﹁未間拾成 三十八﹂︶︒こうした案件に関わる願書の草稿類

が井元家文書中に伝存する

︒享保一一年七月一五日付の﹁口上﹂から︑当時の井元家の経済事情を探ってみたい︒ 22

まず︑﹁先達て勝本浦組方七人最合仕候様ニと被仰付候得共︑私義は被指外之旨被仰聞奉畏候︑被仰付候御用銀

ハ︑員数高相極才覚ニ懸り候様ニと被仰付承知仕候﹂と︑勝本浦での﹁最合﹂︵催合︶からは既にこの段階で外

されていた︒続けて︑次第に経営事情が悪化したため︑扶持米にて何とか存続して来たが︑近年の不作により御

用銀三〇〇貫目が命令された︒だが︑﹁亡父死去後︑今以何之商売も

 

 

年々不勝手罷成︑皆様思召之通ニ無御

座︑身上潰候ても指て御為ニも罷成候程も無之様ニ成り果申候段心外至極ニ奉存候﹂と︑義定死去後の苦しい境

遇が述べられる︒その理由の一つは︑﹁山口屋妻ハ亡父先妻之娘ニて御座候故︑□

 

娘ニたいし納銀相滞難儀仕 候節ハ難黙止︑いりこ翌年ハ大漁も可仕とひたと年々山口屋取替申候銀︑大分之義ニ御座候﹂とある山口屋︵助

左衛門︶への融資︒今一つは︑﹁所々問屋預ヶ油ニ余慶引請居候者之内︑下ノ関・筑前ニて身上潰レ候問屋も有之︑

一銭もくれ不申も有之候︑或ハ長州萩ニ罷有候中村七郎左衛門と申者ニ油余慶売渡シ申候処ニ︑此者欠落仕一銭

も取不申候︑或者︑当町ニて二三人も油余慶ニ売置申候得共︑是も今以代銀くれ不申候︑橋口作次郎も余慶

(10)

四七 売渡シ申候所ニ︑分散をたくミ申候︑左候へハ夥敷損失ニ罷成故﹂とある如く︑下関・筑前・萩︵中村七郎左衛

門︶・平戸︵橋口作次郎

︶らが井元家から仕入れた油︵鯨油︶代銀の未払であった︒前者の山口屋助左衛門への 23

融資については︑井元家文書中に五通の証文が残されている︒享保九年三月から翌年六月までの間︑七回に及ぶ

融資が行われており︑その合計額︑則ち負債は銀二三三貫八二五匁に及んだ

︒このように井元家は︑義定死去の 24

直後から山口屋融資の焦げ付きと鯨油代銀の未払・未回収によって︑勝本浦での捕鯨が継続できないような状況

に置かれていた︒井元家文書中の一紙に︑﹁御台所御買掛り井元弥七左衛門﹂として︑享保八年より同一三年ま

で同家が納品した鯨油・ていら・赤身代の差引残銀として文銀二七貫二六六匁余の記載がある︒享保一四年正月

二三日には︑新銀一五一貫四六匁の御用銀を供出したことから

︑この頃までは捕鯨に関する家業を営んでいたと 25

思われるが︑﹁存続簿﹂によれば︑この頃より酒造業にも着手したらしい︒

3

5

井元家と﹁御書并御証文﹂

六代弥七左衛門は町年寄を拝命︒一〇人扶持と﹁心附米﹂七五俵が給付された︒谷村五右衛門の次男であった

七代小忠治︵寛政一一年七月一〇日没・法名﹁随縁院法誉授皖居士﹂︶の代より井元家は大嶋浦を離れ︑平戸城

下に居住した︒小忠治は︑一〇人扶持を給付され︑町年寄格を拝命︒この代まで︑同家歴代の御用銀の功績によ

り︑心附米として毎年七五俵が給付されていた︒

八代目弥七左衛門︵文政一三年三月二七日没・法名﹁重誓院本誉浄願居士﹂︑幼名は吉治︶は︑町年寄格で五

人扶持を拝領︒後︑町年寄当役となっている︒この代より心附米の給付が停止された︒さらに︑この代において︑

井元家が代々請負ってきた年賦銀上納の用捨願が出されたが︑午一〇月付﹁御歎申上候口上覚﹂︵井元家文書︶

(11)

四八

には︑﹁弥七左衛門代ニ御借上銀御用立候儀も御座候時分難有御書并御証文等頂戴仕︑誠ニ大切ニ持伝り居候得

共︑御判物等麁抹ニ相成候てハ甚奉恐入候儀ニ御座候故︑指上度御役所迄奉入御覧候﹂と︑先祖弥七左衛門が拝

領した鎮信自筆の書状及び御用銀の証文類︵﹁御書并御証文﹂︶の伝来とその返納が︑年賦請負銀用捨の代償と

して記されている点が注目される︒なお︑吉次︵吉治︶の名で︑平戸領内産鯣︵長崎俵物︶の長崎町人森安茂四

郎による一手買請の下請方を山本屋佐平次と両名で勤めている点は興味深い

︒ 26

九代目弥三郎は町年寄惣領格として三人扶持を給付されているが︑次第に井元家の格式は低下の傾向をみせて

おり︑年次不明であるが︑戌一一月付﹁奉願口上覚﹂︵井元家文書

︶において︑心附米の給付再開が願い出され 27

た︒その文面には︑﹁以前右先祖共連々御用金被仰付御借上銀共ニ凡弐千八百貫目只今通用金ニ仕四万六千三百

弐拾九両余之高ニ相成﹂︑﹁段々御証文御借上仕候御証文高拾六枚則奉入御覧候﹂とあり︑御用銀高の総計が銀

二八〇〇貫目であったこと︑さらに証文の枚数が一六枚であることが記されている

︒十代目吉治︵法名﹁樹光院 28

顕誉明然居士﹂︶も町年寄惣領格を拝命した︒

十一代目弥七左衛門に至り︑明治二九年以降︑旧幕府時代の﹁御書并御証文﹂を証拠とした米の拝借願が松浦

家当主に対して継続実施された経緯は前章で指摘した通りである︒ところが︑捕鯨業から撤退した後︑七代目小

忠治を以て﹁心附米﹂七五俵の給付が停止されると︑これ以降の井元家の家督者は︑やはり家業の不振︑格式低

下を背景として︑﹁御書并御証文﹂の返還と引替に﹁心附米﹂の特権を再享受しようと試行錯誤していた様子が

窺えた︒同家が隆盛を誇った頃の先祖弥七左衛門︵義信・義定・定則︶の顕彰と表裏一体であった藩︵松浦家︶

の約束不履行に対する非難と代替措置の要求は︑明治という近代社会が成立した後も︑井元家の宿願として︑ま

さに﹁御書并御証文﹂の伝来と共に受け継がれて来たと言えよう︒

(12)

四九

4

証文の分析

4

1

証文の概要

平戸オランダ商館の長崎移転や糸割符の廃止によって︑外国貿易上の特権を喪失した平戸藩は︑自領内の交

通・港湾の整備︑商品流通の核となる市場の新設︑さらには早岐大潟新田を主軸とした新田開発に着手した︒就

中︑早岐の新田開発は︑藩主導の公営事業であり︑対外貿易による財政収入を制限された藩は︑寛永飢饉への対

応を含め︑耕地の拡大と領内の生産力の向上に努めた︒同時に﹁山本霜木覚書﹂が記したように︑藩の資金︵現銀・

米︶を導入しての鯨﹁突組﹂の組織化とその成功によって︑一七世紀中頃の平戸城下は大いに繁栄した︒鯨運上

銀の徴収等︑捕鯨業の勃興によって実現した現銀収入は︑藩財政上︑重要な意味を持つに至ったと推測されるが︑

井元家の如き捕鯨業によって資本蓄積に成功した領内有力町人は︑事後︑藩による現銀支出を賄うため︑御用銀

の主要な賦課対象ともなった︒

松浦家より返却された証文類によって︑一七世紀後半〜一八世紀初頭の捕鯨業者と藩︵松浦家︶との関係の一

端が明らかとなるが︑以下︑可能な限り︑その詳細を検討してみよう︒

返却された軸装文書二巻の内容を︑その仕立順で通し番号を付し︑一覧したのが表

である︒一巻目

(

便宜上 A軸

には︑一九通の文書があるが︑その内︑冒頭から三通は﹁知行﹂宛行状である︒残り一六通が主に藩によ

る御用銀関連の借用証文類であり︑井元吉次による﹁御書并御証文且先祖続書写﹂︵外題﹁先祖続﹂︶中の﹁御

証文写﹂にその全てが筆写されている︵但し︑筆写の順番は︑A軸の通番とは異動がある︶︒一方で︑二巻目

(

便 宜上B軸

の借用証文類一〇通は︑一通も筆写されていない︒なお︑﹁御書并御証文且先祖続書写﹂中に﹁御書写﹂

(13)

五〇 表

 返却された井元家文書(軸装)一覧

軸 通番 標 題 年 月 日 発   給 宛 所 銀高() 備   考 A 1 知行 寛永20,,11 鎮信(花押) 井元弥七郎とのへ ─ 知行5石宛行 A 2 知行 寛永3,6,7 隆信(花押) 川本弥七左衛門 ─ 知行20石宛行 A 3 知行 寛永5,3,5 隆信(花押) 井元弥兵衛 ─ 知行10石宛行 A 4 元禄17(宝永元),2,26中原治右衛門・牧山五左衛門・

松永弥五左衛門・園田十左衛門・

城平助・礒野貞兵衛

井元弥七左衛門殿・

井元弥兵衛殿 381,000 年々借上銀、内訳あり(元禄5年・同 10年・同14年)、当暮より米700俵宛行、

安藤大学・熊沢半左衛門・滝川弥一右 衛門・松浦縫殿の奥付

A 5 宝永元,7,26 牧山五左衛門・松永弥五左衛門・

城 平助・磯野貞兵衛

井元弥七左衛門殿 116,000 御用に付差上銀(利銀月5歩)

A 6 正徳3,3,10 久間吉左衛門・牧山五左衛門・

松永弥五左衛門・園田十左衛門 井元弥七左衛門殿 140,000 段々指上銀、内訳あり(宝永4年・同5 年・同7年・正徳元年)

A 7 正徳3,3,10 久間吉左衛門・牧山五左衛門・

松永弥五左衛門・園田十左衛門

井元弥七左衛門殿 25,000 宝永5年代官町普請入用金の内借上、銀 奉行より江戸へ指越のこと A 8 (正徳4),3,23 熊沢外記 井元弥七左衛門殿 1,200 江戸にて上々様指上に付借用、返済は

末吉形左衛門・牧山徳右衛門方より追っ て取極のこと

A 9 享保元,12,25 山口兵八・金丸弥七兵衛・牧山

仁兵衛・日高治左衛門 井元弥七左衛門殿 140,000 壱岐国勝本浦網敷銀田嶋与五郎方へ払 替、宝永2年証文前と以前敷銀年々先 納銀の内

A 10 享保2,3,15 山口兵八・金丸弥七兵衛・牧山仁 兵衛・日高治左衛門・犬塚甚太 夫・園田十左衛門・中井彦左衛門

井元弥七左衛門殿 120,000 御用借上銀、内訳あり(正徳3年・同4 年・同5年)

A 11 享保3,8,7 山口兵八・牧山仁兵衛・日高治左 衛門・牧山兵太夫・末吉刑左衛 門・犬塚甚大夫・園田十左衛門

井元弥七左衛門殿 20,000 享保2年婚礼御用に付借上銀

A 12 享保4,2,29 牧山徳右衛門・末吉形左衛門 井本弥七左衛門殿 6,955 篤信部屋柄の節内証取替返弁残銀、元 14880

A 13 享保5,11,15 金丸弥七左衛門・永石六左衛門・

深江与五平・日高治左衛門・岩 永善六・末吉形左衛門

井本弥七左衛門殿 28,385 篤信部屋柄の節借上銀を一紙証文に改 む、内訳あり(宝永3年・同7年・正徳 3年)

A 14 享保5,5,17 永石六左衛門(無印)・深江与五 平・日高治左衛門・稲垣杢太夫・

岩永善六・末吉刑左衛門

井本弥七左衛門殿 115,890 壱岐国勝本浦先納銀163貫目の内鯨36

(享保3年暮〜同4年春)運上銀47110 匁を差引き残分の銀

A 15 享保5,11,15 金丸弥七兵衛・永石六左衛門・

深江与五平・日高治左衛門・岩 永善六・末吉形左衛門

井本弥七左衛門殿 30,000 豊後守(新田藩)御用に付享保3年借上、

返済は享保4年より月1歩利付のこと A 16 享保5,11,15 金丸弥七兵衛・永石六左衛門・

深江与五平・日高治左衛門・岩 永善六・末吉形左衛門

井本弥七左衛門殿 200,000 享保4年夏御銀御用に付借上、返済は 享保4年8月より月1歩利付のこと A 17 享保9,3,21 永石六左衛門・牧山仁兵衛・深

江与五平 井元弥七左衛門殿 20,000 急用に付当分預り置のこと、月1歩3の 利銀にて当5月限返済のこと A 18 享保14,,23 永石六左衛門・牧山仁兵衛・山

本五郎太夫・岩永善六

井元虎之丞殿 151,416 新銀にて、借上銀、返済は当暮より年々 1,000俵宛にて、内訳あり(享保11年・

享保14年)

A 19 (享保元),3,6 永石六左衛門・末吉形左衛門 牧山徳右衛門殿 18,000 300両、井元弥七左衛門方より為替金、

大坂にて古座屋次郎右衛門方より受取 B 1 (宝永2),5,9 原市郎左衛門 井元弥七左衛門殿 4,440 白銀100枚(小判74両・銀8匁)、若殿

様へ指上銀

B 2 (享保15),6,9 大谷千右衛門・勝山安右衛門 井元虎之丞 3,004 江戸賄御用銀、元利返済は当暮の新米 を充てる

B 3 請取申銀

子之事 享保3,10,25 京宝町中立売下ル丁松原市兵衛 古座屋次郎右衛門殿 25,000 平戸末吉刑左衛門より登銀、井元弥七 左衛門より為替銀にて請取 B 4 宝永3,11,4 白石喜三右衛門・畑治之丞・浦

辺何右衛門

井元弥七左衛門殿 81,160 玄蕃(新田藩)御用年々借上銀、利米 年々350俵のこと

B 5 享保5,5,18 野本弁左衛門・勝山助右衛門 井元弥七左衛門殿 3,000 四ツ宝銀にて、御用金方へ拝借し、銀 は飯野新蔵へ渡す

B 6 享保6,7,4 国富左近平・吉野々右衛門・牧 山仁兵衛

井元弥七左衛門殿 12,500 大坂年賦返納銀の内へ納付、古座屋次 郎右衛門方より請取のこと B 7 (享保6),10,18 野本弁左衛門・勝山助右衛門 井元弥七左衛門殿 4,000 新銀にて、御用銀、相場米を以て返済 B 8 (享保7),3,23 野本弁左衛門・勝山助右衛門 井元弥七左衛門殿 4,136 のこと新銀にて、米188俵余替、月1歩3の利

足にて返済のこと

B 9 (享保9),3,13 野本弁左衛門・勝山助右衛門 井元弥七左衛門殿 10,000 夘年差引残り銀を御用金方へ預置、入 用次第元利返済のこと

B 10 預り (享保9),12,5 野本弁左衛門・勝山助右衛門 井元弥七左衛門殿 10,000御用金方預置、米代にて差引のこと 註)井元家文書より作成。

(14)

五一 として筆写された松浦鎮信の書付類四通の現物は︑今現在︑その所在が確認できない︒

さて︑証文の標題は﹁請取申銀子之事﹂・﹁預﹂・﹁預り﹂を除き︑他は全て﹁覚﹂︒年月日については︑一部︑

干支のみの記載証文がある︒発給・宛所・備考︑後掲の小田家の証文控などを比較検討した結果︑筆者が比定し

た年月日を︵ ︶で括って示した )29

(︒年月日をもとに宛所の井元弥七左衛門を各々の没年によって︑義信・義定・

定則関連に整理すると︑義信関連文書四通︑義定関連文書二〇通︑定則関連文書二通となり︑義定代のものが多

く伝来している︒但し︑﹁右は御用ニ付亥年ゟ夘年迄段々被指上︑御銀奉行請取之所紛無之候︑則証文一帋ニ結 如此候﹂

(

― 6 )

︑﹁右は当 殿様御部屋柄之節借上被申候︑其時々支配之役方手形出置候を一帋証文被相願ニ付︑ 相改候﹂

(

13 ) 

と︑従前の各﹁借上﹂銀が﹁一帋証文﹂に統合・整理されており︑こうしたことが義定関連

証文の伝存数に反映している︒各証文の御用銀の内訳を考慮し︑井元家各代毎に銀高を集計すると︑義信関連銀

九〇七貫八一〇匁︑義定関連銀六〇八貫八五六匁︑定則関連銀一五四貫四三〇匁 )30(

︒則ち︑井元家は︑義信の代︑

藩の御用銀に対し比較的積極的な対応をみせていたことが伝来した証文銀高の集計より窺える︒

4

2

小値賀小田家の﹁御用銀御証文之写﹂

的山大嶋を拠点とした井元弥七左衛門とほぼ同時期︑西海で活躍した捕鯨業者に小値賀の小田伝次兵衛がい

る︒小田家には宝永元年から享保一七年までの御用銀証文の控﹁御用銀御証文之写﹂︵二冊︶が伝存する )31

(︒これ

によれば︑小田伝次兵衛・伝兵衛による御用銀は二一口で合計銀七七〇貫六五八匁余︒﹁御用銀御証文之写﹂中︑

註記がない冒頭からの一〇口を同史料の註記により﹁表方﹂とし︑﹁御私領方﹂︵篤信関連︶と註記がある続く七

口を﹁私領方﹂︑以下︑﹁新庄奥様御用﹂・﹁天祥庵御用﹂などと註記が存在する末尾までの四口を﹁その他﹂として︑

(15)

五二

各の詳細を示す︵表

︶︒

小田家による証文整理の規則性と註記に従い︑軸装の過程で様々な性質の異なる証文が錯綜して伝来した井元

家の証文類の分類・整理を試みて表

を作成した︒表方御用は︑証文の記載事項︵内容・年月日・発給︶が共通

するものが多いため︵貞寿院御用は小田家のみに存在︶︑比較的容易に分類可能であった︒但し︑井元家の﹁先納﹂

銀は︑捕鯨に関連︵網敷銀と運上銀︶した先納銀であるが︑小田家の場合は﹁御用ニ付先納銀﹂とのみ記される︒

私領方御用については︑証文の内容から分類した︒平戸新田藩御用と上方年賦返済は井元家の証文にのみ見受け

られる特徴的な御用銀であるため︑特に項目を立てて表に示した︒その他には︑両家が行った新庄奥様御用銀︑

小田家の天祥庵替地御用︑井元家の江戸賄銀・路用銀等の御用銀を含めた︒両家全体で銀二四二三貫七三九匁の

御用銀高となるが︑内訳では表方御用で全体の八五パーセントが占められている︒以下︑表

の分類に従い︑各

項目について逐次検討を加えてみたい︒

4

3

表方御用銀

4

3

1

概要

より表方御用に関わる記載事項を抽出し︑年次別・家別に典拠を付してその銀高の推移を一覧したものが

である︒両家の表方御用銀高を集計すると︑井元家銀一四〇九貫三〇六匁︑小田家六七七貫目となり︑井元

家の表方御用銀の拠出高は小田家の二倍を越えている︒両者の合計は銀二〇八六貫三〇六匁︒続いて年次別に概

観してみよう︒宝永元年以前の表方御用銀は︑井元家が同年二月︑小田家が同年八月に︑従前の御用銀借上高を

整理した銀高である︒井元家は︑元禄五年・同一〇年・同一四年の三度にわたり計銀三八〇貫目︵内銀八〇貫目

(16)

五三

 小値賀小田家の御用銀借用証文一覧(宝永元年〜享保

17

年)

分類 通番 標 題 年 月 日 発   給 宛 所 銀高() 備   考

表 

1 宝永元,8,9 中原治右衛門・牧山五左衛門・

松永弥五左衛門・園田十左衛門・

城平助・磯野貞兵衛

小田伝次兵衛殿 150,000 御用に付当年迄借上銀一紙に結ぶ、当 暮より年々米300俵を渡す、安藤大学・

熊沢半左衛門(無判)・滝川弥一右衛門・

松浦縫殿の奥付 2 正徳3,3,13 久間吉左衛門・牧山五左衛門・

松永弥五左衛門・園田十左衛門 小田伝次兵衛殿 105,000 御用借上銀、内訳あり(宝永4年・同5 年・同7年・正徳元年)

3 正徳3,3,13 久間吉左衛門・牧山五左衛門・

松永弥五左衛門・園田十左衛門

小田伝次兵衛殿 20,000 宝永5年代官町普請に付借上銀 4 享保2,3,15 山口兵八・金丸弥七兵衛・牧山

仁兵衛・日高治左衛門・犬塚甚 大夫・園田十左衛門・中井彦左 衛門

小田伝次兵衛殿 170,000 御用借上銀、内訳あり(正徳3年・同4 年・同5年)

5 享保2,3,15 山口兵八・金丸弥七兵衛・牧山 仁兵衛・日高治左衛門・犬塚甚 大夫・園田十左衛門・中井彦左 衛門

小田伝次兵衛殿 30,000 御用に付先納銀享保元年納付分

6 享保3,8,7 山口兵八・牧山仁兵衛・日高治 左衛門・牧山兵太夫(無判)・末 吉形左衛門・犬塚甚大夫・園田 十左衛門

小田伝次兵衛殿 20,000 享保2年婚礼御用に付借上銀

7 享保3,7,21 山口兵八・牧山仁兵衛・日高治 左衛門・牧山兵大夫・末吉刑左 衛門・犬塚甚大夫・園田十左衛

小田伝次兵衛殿 80,000 御用に付享保2年暮より享保3年春まで 借上銀、返済は1割利付

8 享保3,7,27 山口兵八・牧山仁兵衛・日高治 左衛門・牧山兵大夫・末吉刑左 衛門・犬塚甚大夫・園田十左衛

小田伝次兵衛殿 80,000 御用に付先納銀享保2年納付分

9 享保5,11,15 金丸弥兵衛・永石六左衛門・深 江与五平・日高治左衛門・岩永 善六・末吉刑左衛門

小田伝次兵衛殿 20,000 貞寿院御用に付享保3年借上銀、返済 は享保4年より月1歩利付 10 享保5,11,15 金丸弥兵衛・永石六左衛門・深

江与五平・日高治左衛門・末吉 刑左衛門

小田伝次兵衛殿 20,000 享保4年夏御銀御用に付借上、返済は 享保4年8月より月1歩利付

私 領 

11 仮手形覚 戌(宝永3),4,29 牧山仁兵衛 小田伝次兵衛殿 10,000 若殿様(篤信)御用借上、本証文はこ の手形と引替のこと

12 仮手形 (宝永7),5,21 飯野七郎右衛門 小田伝次兵衛殿 5,000 若殿様(篤信)御用借上、銀15貫目借 上の上で本借状を渡すこと 13 仮手形 (宝永7),11,16 青山喜左衛門 小田伝次兵衛殿 10,000 若殿様(篤信)御用借上、5月受取残

14 (正徳3),,28 飯野七郎右衛門・牧山仁兵衛(在

江戸)・坂本六之進・磯野貞兵衛

(在江戸)・志自岐加左衛門

小田伝次兵衛殿 10,000 若殿様(篤信)御用借上、内訳あり(正 徳2年1223日・正徳3年正月18日)、

返済は昨年暮は米50俵、当暮より米100 宛相渡す、年々蔵立直段にて指引 15 宝永6,9,26 中嶋市郎兵衛 小田伝次兵衛殿 3,000 記載は金50両、若殿様(篤信)御小納

戸御用に付借上、江戸末吉形左衛門迄 差越す、熊沢外記の奥付 16 宝永6,9,26 中嶋市郎兵衛 小田伝次兵衛殿 600 記載は金10両、若殿様(篤信)御小納

戸御用に付借上、去冬金子30両末吉形 左衛門迄相渡す内、当春受取の分証文 改めのこと、熊沢外記の奥付 17 預り申銀

子之事

宝永8(正徳元),2,11 長嶺小右衛門・中嶋市郎兵衛・

末吉形左衛門

小田伝次兵衛殿 3,600 60両分、若殿様(篤信)御小納戸御 用借上、熊沢外記の奥付

そ の 

18 (正徳4),3,23 熊沢外記 小田伝次兵衛殿 1,200「新庄奥様御用」、江戸において上々様  指上の為借用、返済は末吉形左衛門・

牧山徳右衛門方より取極のこと 19 (正徳5),,8 勝山助右衛門 小田伝次兵衛殿 6,500「天祥庵御用」、天祥庵替地に付江戸よ 

り御用銀の指示、返弁方委細決まらず 仮証文のこと、牧山徳右衛門の奥付 20 享保12,5,6 山口善右衛門・永石六左衛門 小田伝兵衛殿・中山

茂右衛門殿 24,258 先年宇久山田茂右衛門より借上銀(小 田8貫600目・中山15658匁余)、両人 方より返済のこと

21 (享保17) 1,500 享保17年夏御用銀10貫目の内右銀子納 付、証文は下し置かれず 註)「御用銀御証文之写」(小田家文書・小値賀歴史民俗資料館蔵)より作成。同内容の書冊が2冊あり、一方の表紙には「ひかへ」、もう一方には

表題の横に「借上」と書き込みがある。なお、史料の記載順によって通番を付けた。通番1516は、証文は金高の記載になるが、便宜上、銀に 換算した数値を掲載した。

(17)

五四 表3 井元・小田両家の証文分類と銀高

分  類 銀高(匁) 割合 井元家 小田家

 表方御用

2 , 086 , 306   85 %

[内訳]

 ①元禄期の御用銀

531 , 000   A- 4

1

 ②宝永〜正徳期の御用銀

696 , 000  

  (その内

)御用銀

( 651 , 000  ) A- 5 ,A- 6 ,A- 10

2 ,

4

  ( 〃 

)代官町普請手伝

( 45 , 000  ) A- 7

3

 ③享保期の御用銀

859 , 306  

  (その内

)御用銀

( 433 , 416  ) A- 16 ,A- 18

7 ,

10

  ( 〃 

)先納銀

( 365 , 890  ) A- 9 ,A- 14

5 ,

8

  ( 〃 

)婚礼御用

( 40 , 000  ) A- 11

6

  ( 〃 

)貞寿院御用

( 20 , 000  )

9 2

 私領方御用

  (宝永

年〜享保

年)

81 , 975   3 % A- 12 ,A- 13 ,B- 1

11

〜小

17 3

 平戸新田藩御用

  (宝永

年・享保

年)

111 , 160   5 % A- 15 ,B- 4 4

 上方年賦返済

  (享保元年・同

年・同

年)

55 , 500   2 % A- 19 ,B- 3 ,B- 6 5

 その他

88 , 798   4 %

[内訳]

 ①新庄奥様御用

( 2 , 400  ) A- 8

18

 ②天祥庵替地御用

( 6 , 500  )

19

 ③その他(井元家)

( 54 , 140  ) A- 17 ,B- 2 ,B- 5 ,  B- 7

B 10

 ④ 〃 (小田家)

( 25 , 758  )

20 ,

21

合 計

2 , 423 , 739  

  (その内 井元家分)

( 1 , 653 , 081  )

  ( 〃  小田家分)

( 770 , 658  )

註)表

と表

より作成。但し、私領方御用の銀高は証文記載銀高を掲載した。

(18)

五五

 井元・小田両家による表方御用銀の状況

  (元禄 5 年〜享保 14 年 単位;匁)

年 次 年次別小計 内 訳

井元家 小田家 典 拠 元禄  5

531,000

101,000

150,000 A-4, 小 1

 〃  10 60,000 註 1 ) 註 3 )

 〃  14 220,000 註 2 )

宝永 元 116,000 116,000 A-5

 〃  4 60,000 30,000 30,000

A-6, 小 2

 〃  5 50,000 30,000 20,000

 〃  7 75,000 50,000 25,000

正徳 元 60,000 30,000 30,000

 〃  3 85,000 25,000 20,000 A-7, 小 3

20,000 20,000

A-10, 小 4

 〃  4 145,000 95,000 50,000

 〃  5 105,000 5,000 100,000

享保 元 140,000 140,000 A-9

 〃  2 70,000 30,000 小 5

20,000 20,000 A-11, 小 6

享保  3 180,000

80,000 小 7 80,000 小 8 20,000 小 9

 〃  4 202,000 200,000 2,000 A-16, 小 10

 〃  5 115,890 115,890 A-14

 〃  14 151,416 151,416 註 4 ) A-18

合 計 2,086,306 1,409,306 677,000

註)前掲の表 1 と表 2 をもとに作成。なお、証文の年月日ではなく、

借上・先納銀が実施された年次をもとに作成した。典拠は、各表の 該当する史料番号を記載した。

註 1 )銀 60 貫目は山方御用銀。

註 2 )銀 220 貫目の内山方御用銀 20 貫目を含む。

註 3 )宝永元年までの借上銀を取りまとめたもの。

註 4 )享保 14 年の借上銀 40 貫目と、享保 11 年亡父存生中に申し置い

た借上銀 111 貫 46 匁余。

(19)

五六

は山方御用︶の御用銀を供出し︑小田家は︑年次は未詳であるが︑通計銀一五〇貫目の御用銀を供出していた︒

宝永〜正徳期を一つの纏まりとしたのは︑後述のように両家が小値賀の鯨網組を共同で請け負っていた時期で

あり︑御用銀の賦課・供出の態勢に共通する点が多く検証できるためである︒さらに︑享保元年を契機に︑藩は

両家に対する御用銀の賦課に﹁先納﹂という手法を導入︒さらに︑上方︵大坂︶と長崎での借銀返済のため︑こ

うした御用銀とは別途に両家に対し莫大な返済銀を請け負わせる体制が享保四年より時限付ではあるが構築され

た︒翌年以降︑小田家の表方御用の拠出が途絶えた理由の一つであろう︒

4

3

2

 

元禄期の御用銀

元禄五年の銀一〇一貫目の御用銀は︑﹁御旧記集録 二﹂の元禄六年条に︑﹁一 太嶋浦年寄井元弥七左衛門義︑

手際能︑利足を拝領仕間敷由ニて︑百貫目余銀子指上候由︑委細被聞召届︑町人之義ニ候得は︑利徳専ニ可仕義

を︑奇特千万成者と被思召候︑依之︑何卒御褒美被仰出可有之哉と御意ニ付︑平戸町年寄並ニ宗門改之踏絵御免

被遊可然哉と云々﹂と関連した記録があり

︑この御用銀の功績によって︑儀信は藩の宗門改上の格式﹁踏絵御免﹂ 32

となった︒

元禄一〇年と同一四年の両年にみられた﹁御山方﹂への御用銀は︑三月一五日付松浦鎮信書状に︑﹁今度熊沢

半左衛門申聞承候︑金子用之節ハ切々借候由ニ候︑奇特千万成志ニ候︑今度も百両差越候︑いよ〳〵山方用之時

分ハ借又其方入之節ハ︑山方金故替借り候様ニ可致候︑町人ハ悪敷成事も在之候時︑子孫ニ至り手前相続候様ニ

心得可申候︑委細半左衛門可申遣候︑今度ノ百両受取置候︑令満足候

﹂と言及がある︒この鎮信書状︵写︶には︑ 33

対応する家老熊沢半左衛門の書状が伝来しており︑津吉浦での鯨組の様子

︑別家井元新五右衛門の取立などが記 34

(20)

五七 載された井元家の動向が窺える史料であるため︑関連箇所を抜粋して引用してみよう︒則ち︑﹁殿様も大分金子

借上ヶ仕︑殊近年は御山方御用之時分は度々精を出シ︑銀子取替御用ニ相立候段︑御隠居様被聞召奇特千万成儀

と被思上候︵中略︶今度我等爰元罷越候砌被申聞候ハ︑津吉浦ニ鯨組すへ打続大猟仕合罷成候段︑且亦︑井元

新五右衛門儀︑御隠居様御取立被成︑御馬廻組追々被仰付︑其方同名之内ニ今以小才次・九郎次も御奉公仕候儀︑

家々外聞旁有難儀難忘奉存候︑依之︑憚至極なから一度江戸罷越︑御隠居様奉御機嫌伺度奉存候︑然共︑遠国

之儀ニ候へハ︑近年之内相越候儀も難計奉存候︑就夫︑先為冥加不苦候ハヽ御肴御台所迄指上申度奉存候ニ付︑

為御肴代金子指上度旨何れも迄申聞候趣︑委細此度相達御耳候処︑誠以深せつ成者と被思召上候︑弥御山方御用

精を出候様ニと被思召候心底被聞召届候印ニ︑御自筆にて御書被下置候︵後略︶﹂とあり︑この時期︑井元義信

より江戸隠居鎮信との謁見願が出されていたこと︑山方御用について鎮信が前掲の自筆感状を認めた経緯が判明

する︒元禄期の表方及び山方御用銀の拠出には︑ここで言及された津吉浦における捕鯨の盛況が関連していたこ

とが窺える

︒時期を遡るが︑元禄三年︑山方・小納戸方より賄方への融通銀が累計七〇〇貫目余に及び︑その返 35

済に浦・岡の未進銀が充当され︑同六年には︑山方と物成方との分掌が見直された

︒前述の書状の如く︑隠居で 36

あった鎮信自ら山方の収入を気遣っており︑藩内の機構改革と連動した山方への梃子入れと︑井元家による山方

御用銀との関連が推測される︒一方︑元禄一六年︑貞寿院︵篤信実母︶による山方よりの拝借元銀高︵銀二四貫

三四〇目余︶が﹁御家世伝草稿 二十五﹂に記載されているように︑山方資金は︑藩臣のみでなく︑鎮信の女子

血縁者らの財源としても機能していた︒かかる点は︑井元家に対し︑鎮信が同家の行く末を気遣う自筆感状を

態々認めた理由の一つでもあったと思われる︒

この時期の領内経済と家臣団財政について︑簡単にふれておこう︒元禄五年︑領内浦々不漁のため︑役銀減免

(21)

五八

が布達され︑翌年には﹁数年御不勝手ニ付︑上方御借金年賦并平戸・長崎も同様御簡畧之御仕置被仰出﹂と︑計

一三ヶ条に及ぶ緊縮令が江戸から通達された︒一方︑元禄六年秋以降︑平戸領は豊作傾向にあり︑﹁御家中払米

難売難義可有之候ニ付︑御返弁方ニ可被下候︑米大坂御登セ御払大坂直段下直候得は︑拾四貫目五百匁余之御

損見得候﹂と︑米相場の下落傾向によって︑藩の収納米は︑家臣団からの上米の返弁方に充当された︵﹁御旧記

集録 二﹂︶︒こうした藩家臣団からの上米の返弁措置は︑元禄四年から同七年まで継続実施された︵﹁未間拾成

附録 一﹂︶︒また︑元禄九年には︑元禄六年同様︑﹁年々御不勝手之上︑当春已来御借金相納兼候ニ付︑江戸御

賄指支︑先々御大切之段委細被聞召︑依之︑公義被仰入︑御振舞・御音信贈答ヲも被指止候︑其外諸事共ニ屹

度御簡略被仰付義ニ候﹂︵﹁御旧記集録 二﹂︶と倹約令が出され︑翌一〇年には︑不作を理由に︑壱岐・小値賀・

平戸各地の在々から献銀の申出があった

︒元禄一四年八月には︑損毛高二万四〇〇〇石・倒壊軒数一九九件に及 37

ぶ風害が発生︵﹁御旧記集録 三﹂・﹁未間拾成附録 一﹂︶︒年賦物成不足分に用金四〇貫目が充当され︑家中上

米の増借や家中拝領物衣服の簡素化も通達・実施された︒元禄一四年の銀二〇〇貫目の御用銀は︑こうした状況

下で実施された︒先に述べた元禄九年の倹約令も︑元禄一四年と同様︑﹁江戸御相撰之者﹂の解雇︑新足軽組一

組の削減︑﹁親懸﹂の面々へ宛行を行わないなど︵﹁御旧記集録 三﹂︶︑平戸藩家臣団へ多くの犠牲を強いる施策

であった︒年次不明であるが鎮信の書状によれば︑﹁今般家中為救取立候ニ付︑愚考申候は︑用ニも寄申旨︑毎

度奇特千万令感悦候︑何とそ千両程供可申候

﹂と︑家中救済を名目に井元家へ金一万両の援助が依頼されている︒ 38

4

3

3

宝永〜正徳期の御用銀

宝永元年︑A

5

による井元家単独の御用銀は︑宝永元年︵一七〇四︶春より始まった平戸城普請︵元禄一五

(22)

五九 年一〇月五日に許可申請︑翌同一六年二月一一日築城許可︑宝永四年普請成就︑同年一一月二六日移徙︶︑雄香

寺本堂建設︵宝永二年︶と梵鐘寄進︵宝永四年四月一八日︶等との関連が充分に推測されるところである︒

その後︑宝永四年より︑両家に対して同年次・同内容の表方御用銀の賦課があった事例が五件確認できる︒即

ち︑証文A

6

2

に対応する宝永四年・同五年・同七年・正徳元年の四ヶ年にわたる御用銀︵計銀二四〇

貫目︶︒証文A

7

3

ある江戸代官町普請関手伝御用銀︵計銀四五貫目︶︒証文A

10

4

ある正

徳三年・同四年・同五年の御用銀︵計銀二九〇貫目︶︒松浦棟の娘︵松寿院︶と加藤和泉守嘉矩との婚礼御用に

関する御用銀︵証文A

11

6

︶︒

享保四年夏の御用銀︵証文A

16 ―

と小

10

である︒

この内宝永四年より正徳五年まで継続実施された両家に対する御用銀の賦課には︑両家の捕鯨の請負形態が反

映している︒宝永二年五月︑小値賀潮井場浦にて︑小田・井元両家に泉州佐野浦桶屋林右衛

門を加えた三者の催 39

合で鯨網組が始まったが︑宝永四年より︑井元・小田両家での催合となった︒﹁重利一世年代記﹂によれば︑少

なくとも宝永七年まで両家の催合で小値賀での網組が行われていたことが確認できる︒宝永四年と推定される四

月二〇日付小田伝次兵衛宛の長嶺小右衛門・中嶋市郎兵衛連署の書状には︑﹁先頃申入候通段々御物入にて御銀

不足ニ付貴殿御方より三拾貫目之都合当秋迄ニとかく御借上有之候様ニ可申遣之由御奉行中被申候︑井元弥七左

衛門当年ハ聢と仕合勝不申候へ共︑格別之御用故︑三拾貫目指上可申と御請申候︑依之︑貴殿御事当年之儀候間︑

何角被申候儀如何敷存候︑とかく三拾貫目之都合御請合可然存候﹂と︑執拗に御用銀三〇貫目の請合を迫る藩の

姿勢が明瞭に示されていて興味深い

︒﹁未間拾成附録 一﹂・﹁勘定場黒帳之写 一﹂︵松浦史料博物館蔵︶・﹁御旧 40

記集録 三﹂・﹁同 四﹂等より当時の平戸領内の状況を概観すると︑宝永四年一〇月四日の平戸大地震︑宝永五

年五月の洪水と公義への水損届︑宝永七年六月の風水害︑正徳二年二月八日の江戸本所屋敷類焼︑正徳三年一二

(23)

六〇

月二二日の浅草鳥越屋敷類焼︑正徳四年の干魃︵田地二万石余損耗︶︑正徳五年八月の風害・高潮・田畑虫入な

どの災害が継起している︒また︑宝永四年四月一三日には御城成就まで領内一統手伝米の供出が通達され︑従前

から継続されてきた家臣団への上米令も︑賦課基準を変えつつ実施された︒平戸藩領における年貢収入の減退と

江戸での臨時支出増大という状況下︑宝永四年より井元・小田両家に対して御用銀が継続実施されていた︒

4

3

4

享保期の御用銀

残された証文による限り︑享保元年以降の藩は︑捕鯨の網敷銀・運上銀の先納を求め︑捕鯨業者からの現銀収

奪の体制をより強化したと言える︒小田家は︑正徳五年︑小値賀潮井場浦の網組の一〇ヶ年請負を申請し︑享保

二年六月一五日と翌年二月二三日に藩主との謁見を行った︵﹁重利一世年代記﹂︶︒小

― 5

と小

8

御用銀・先

納銀の実施は︑こうした網組の請負と無関係ではなかろう︒享保四年夏の御用銀︵井元家銀二〇〇貫目・小田家

銀二〇貫目︶は︑同年中︑井元・小田ら捕鯨業者に命じられた大坂・長崎借銀返済を目的とした請負銀三〇〇〇

貫目︵﹁先祖続﹂︶とは別の御用銀である︒同年は︑七月二三日よりの大風で城内及び領分中の家屋が多大な損

害を受け︑七月二一日より八月朔日までは朝鮮通信使一行が壱岐に滞在した︵﹁勘定場黒帳之写 一﹂・﹁未間拾

成附録 一﹂︶︒こうした関連経費の支出に対応したものと思われる︒

4

3

5

代官町普請手伝

江戸代官町普請手伝御用は︑宝永五年四月二九日︑老中列座の上︑﹁代官町北丸構造の助役

﹂を南部信濃守利幹・ 41

中川因幡守久通と共に松浦家が命じられたものである

︒その際︑入用金一万一九九七両余の内︑金八三九六両余 42

(24)

六一 を幕府へ差し上げたが︑財源は︑家中物成米︵八歩通︶と在浦への﹁人ニ応シ御借上銀﹂であり︵﹁未間拾成附

録 一﹂︶︑小田家も︑宝永六年正月二日︑代官町普請手伝が成就したことから︑沙綾二巻を拝領した︵﹁重利一

世年代記﹂︶︒井元・小田両家の御用銀計四五貫目はこれに該当する︒なお︑代官町普請手伝自体は︑同年一〇

月二五日に完了した︒

4

3

6

婚礼御用

享保二年の婚礼関連は︑同年二月の松寿院︵松浦棟娘︶と加藤和泉守嘉矩との婚礼経費に関わるものであり︑

享保一〇年一一月二六日にも︑﹁御姫様︵桂光院・松浦篤信娘︶御婚礼ニ付井元弥一左衛門御用銀﹂︵﹁御旧記集

録 四﹂︶と︑藩主息女と牧野越中守定通との婚礼について御用銀の拠出が行われたことが確認できる︒なお︑

享保三年に御用銀が拠出された貞寿院︵篤信実母︶御用に関しては︑その詳細は不明である︒

4

4

私領方御用銀

私領

方は︑領内新田米など表方とは異なる独自財源を以て主に隠居・部屋住の財務面を担当する部署であるが︑ 43

と表

では封襲前の﹁若殿様﹂篤信に関する証文が該当し︑その銀高を年次別に整理したものが表

である︒

宝永元年六月四日︑篤信は稲葉美濃守正則娘と婚姻を結び︑同年七月二九日︑平戸へ初入封︒これに先立ち︑四

月二一日︑﹁若殿様御部屋住料壱万石﹂︵﹁御旧記集録 三﹂︶が与えられた︒宝永七年九月七日には二度目の平戸

入国を果たし︑正徳三年二月一一日︑前代の棟に替わり藩主となる︒両家からの私領方御用銀の合計は銀一〇八

貫五三〇目︒井元家が銀六六貫三三〇目︑小田家が銀四二貫二〇〇目の内訳である︒御用銀の高では︑宝永三年

(25)

六二

と二度目の平戸入国時の必要経費を賄ったと思われる宝永七年が多い

︒ 44

4

5

平戸新田藩御用

新田藩御用は︑A

15

4

二点が該当する︒松浦玄蕃︵邑︶御用として宝永三年に銀八一貫一六〇目が︑

享保五年には豊後守︵鄰︶御用として銀三〇貫目の御用銀が拠出された︒新田藩と井元家との関連については︑

井元弥七左衛門宛の新田藩初代松浦大膳︵昌︶の自筆書状が残されている

︒即ち︑﹁一筆申候︑我等義隠居願候付︑ 45

大分物入ニ候︑又々無心申度候︑委細之訳は熊沢外記ニ申含候︑其元ニて申談︑此節之事候間︑頼入候︑為其如

此候︑恐々謹言﹂とあり︑隠居家督に際して御用銀の申し入れがあった経緯が判明する︒昌の隠居が宝永三年五

月七日であることから︑書状の五月三日は︑宝永三年と比定できる︒﹁又々無心﹂とあることから︑井元家は新

田藩︵元禄二年成立︶に対し以前より御用銀の拠出を行っており︑享保一一年と推定できる井元家文書の七月九

日付﹁口上﹂には︑﹁其外亡 父存生之内於長崎ニ豊後守様御用請負銀御払不被下候ニ付﹂とあることから︑義定

の代までは︑新田藩との関係が継続していたことも判明する︒

4

6

上方年賦返済

19 ―

・B

― 3

・B

― 6

の三通の証文は︑井元家と上方との取引関係が検証できる証文である︒B

3

は︑﹁右

は肥前国平戸松浦肥前守殿内末吉刑左衛門ゟ登せ銀︑井元弥七左衛門ゟ為替銀ニて︑其元ゟ慥請取申候︑為其請

取手形如斯御座候︑以上﹂と平戸藩役人と井元家といった二者の貸借関係に︑この証文の宛所である古座屋次郎

右衛門との為替︵為替送銀︶関係が入り込んだため︑他の証文類とは形態・性質を異にする︒実は︑この﹁請取

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