マルセルとハイデガーにおける実存と存在について の考察
著者 塚田 澄代
雑誌名 鹿児島大学歯学部紀要
巻 33
ページ 29‑33
発行年 2013
別言語のタイトル Thoughts on Marcel's and Heidegger's Concepts of Existence and Being
URL http://hdl.handle.net/10232/19598
塚田 澄代
鹿児島大学大学院医歯学総合研究科
健康科学専攻 社会・行動医学講座 心身歯科学分野
8 35 1 890 8544
20
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20世紀の同時代に活躍した二人の哲学者マルセルと ハイデガーは, いずれも今ここを生きる私たち人間の 実存の姿を反省し, それを超え本来の存在となる存在 の探求と, 実存の根拠となる存在の探求を行っている。
しかし両者の間には実存や存在および両者の関係に関 する見解の違いも見られることから, それらについて 類似と相違を, マルセルがさまざまな著作の中で記し ているハイデガー観を中心にして明らかにすることを この小論で試みたい。
マルセルは, 彼の思想全般の出発点とも言える彼自 身の 形而上学的日記 と, ハイデガーの 存在と時 間 との間に 「本質的な歩みに関する類似点があ る」1)と述べている。 マルセルによれば, これらの二 つの著作は, 同じ年に出版されたが, 両者の間には影 響関係は全くなかったにもかかわらず, である。 その 類似点とは, 人間の実存において 「存在」 を一般に
「忘れられた」 あるいは 「見失われた」 とみなしてい ることである。
その後ハイデガーを読んだ後で, マルセルは, ハイ デガーとのいくつかの類似を認めている。 それらは, 本来的な実存を覆っている日常的客観的道具的な経験 に対立する現象学的反省, 「世界内存在」 としての
「実存」 の観念, 「死に向かう存在」 の不安, 「存在」
の神聖さ, 「存在」 の呼びかけなどである。 しかしな がら, 私たちは, 両哲学者の考察に意味のずれがある のを見出す。
まず方法に関して, マルセルの方法は, 前述語的真理 を再発見するために, 日常的な関心や技術をハイデガー 流に括弧に入れる方法と同一ではないとしても, その 根底においては匹敵する。 「ひと(世人) 」2) についてのハイデガーの記述の仕方は, マルセルが
「人 」 という語によって, 人間をその機能と同一 視する傾向を見抜き, この危険性を現代世界の誤りや 不幸として記述する仕方に対応している3)。 繰り返し の生活や表面的な好奇心の中に自己を喪失し, いかな る本来的な責任も負わない傾向にある日常的な無駄話 に埋没する世人は, マルセルにおける 「思考停止」 あ るいは 「人間−大衆」 に対応している。
したがって, 両哲学者にとって, 日常的実存は, ハ イデガーにおいては存在の問いを忘れ, またマルセル においては存在の要求を消失させる 「堕落した実存」
である。
しかしながら, ハイデガーとは違って, マルセルは,
「堕落が生じたであろうということに対して完全な状 態」4)を認めないことは難しいと考える。 そしてマル
セルは, 「頽落を神学的な解釈ではなく, 純粋に確認 されたこととみなす」5)というハイデガーの主張にも かかわらず, 「原罪の観念が, ハイデガーの意識の背 景に残っており, その観念は全く見分けられないほど 世俗化している」6)とマルセルは考える。 ところが, このような世俗化に向かっているにもかかわらず, そ の思想は, 「宗教的な, そしてキリスト教的でさえあ る霊気に包まれている」7)。
マルセルにおいては, 実存は, 「存在の欠陥」, 「亡 命」 として経験される。 存在の欠陥は, 堕落した, つまり恵みを失った被造物に特有である 。 しかし, 彼はその反対の経験, つまり存在の充溢, その源が光 である超越的存在に照らされた 「光であることの喜び
」8)の経験があることを認めている。
しかしながら, 彼はこの考えをキリスト教哲学者と して神学から引き出しているのではない。 確かに彼は, キリスト教的所与がいくつかの思想の開花を促すこと に寄与したことを認めるが, 彼が超越者を認めるよう に至ったのは, 彼が人間経験の意味について考察を行っ たことに基づいている。
したがって, 本来的実存に関しては, 両哲学者の相 違は顕著である。 ハイデガーにとっては, 本来的実存 は死の真の意味を深く理解し, 有限性や無の不安と取 り組み, それらを受け入れることである。 死を常に待 機することは, 自己への 「良心の呼び声」9), あるい は 「気遣いの呼び声」10)に対する答えであるが, それ は真理の光と同一視される。
確かにマルセルは, 「時間性の不安」11)つまり生にお ける死の不安を認めるという点において, ハイデガー に類似している。 しかし, ハイデガーとは違って, 彼 は死を人間実存の絶対的な終わりと見ない。 ハイデガー が考える死は, マルセルには, 私たちの生のある道の りの終わりの表象, つまりベルクソンによって批判さ れた空間化された時間に思われる。 ハイデガーは, 彼 には, 生を外から考察しているように思われる。 そし てマルセルは, 「気遣いの優位性を肯定する思想に支 配されている」12)ハイデガーの経験に還元できない真 の経験の可能性を示す。 それらは, 「私たちは自分た ちを永遠のものとして経験する」13)と断言するスピノ ザによって証言される経験である。 マルセルによれば, 私たちが存在に到達するという意識をもつ愛・創造・
瞑想において私たちが見出す充溢や喜びの経験を通じ て, 「永遠の約束」 である 「予言的な確信」 を垣間見 ることができる。 これらの経験は, 間欠的にもかかわ らず, 倦怠や絶望において私たちが先取りする死すべ 塚田 澄代
き運命に抵抗する可能性を証すように彼には思われる。
マルセルが 「第二の」 と名付ける反省の役割は, 身 体的存在としての人間が時間を生きるいろいろな仕方 を現象学的分析によって明らかにすることにある。 こ の第二の反省は, 自然に生じる第一の反省に対して行 われるが, それは第一の反省が意味するものを明らか にする。 つまり時間の表象は通過した空間と同一視さ れることや, 空虚で働かない意識は, 唯物論が主張す るように, 私の死を意識の絶対的な消滅と考えるに至 る衰弱し動揺した意識であることを明らかにする。 次 いで, 第一の反省の批判によって, 第二の反省は, 存 在することや不滅の確信, またそれらの確信が第二の 反省への呼びかけであることを私たちに自覚させる。
テヴェナは, ハイデガーの 「経験的なことや心理的 なことを越えて超越論的な方向へ向かうばかりではな く, 意識さえをも超えてより個人的ではない存在論的 なことへと向かう」14) 「現象学的超越主義」15)を指摘す る。 更に彼の超越主義は 「実存哲学を実存する人間を 体験と具体性のレベルでの分析し理解する (マルセル などの) 実存哲学とは真っ向から対立する」16)と指摘 する。 なぜなら, 「そこにいるという 現存在の そ こ は, 単なる事実としての実存ではなく, これらの 経験的所与に達しないそれ以下のところにあって, 何 ものかがある場所に存在することを可能にすること, を表している」17)からである。
死の考察に関して, もう一つの相違が見られる。 ハ イデガーの気遣いは自己自身の死に対してであるが, マルセルは愛する人の死の方に関心を持っている。 愛 する人の不滅性を立証するために, マルセルは彼にとっ て形而上学的価値をもつ記憶の役割を援用する。 思い 出すことによって 愛する亡くなった人のことを考え るという行為は, また相互主観的な行為でもあるので, 空間における別離の否定である。 記憶は, 「目に見え るものを目に見えないものへと移行させる変貌する働 き」18)であり, 「ある彼岸」 を立証するものである。 そ してまたマルセルは特にリルケの ドゥイノの悲歌 の第9章を彼岸の証人として援用するが, ハイデガー もまた 「リルケは 存在と時間 の彼の思想と同じ思 想を詩的言語で表現した」19)と考える。 マルセルは, リルケのいくつかのテキストの中に死を個人の完成と みなす, ハイデガーとの特異な類似点を見出す。 しか しながら, マルセルは, この類似は決定的なものでは ないと指摘する。 ハイデガーの 「死への自由あるいは 死を前にした自由はニーチェの運命愛に近く」20), マ ルセルによれば, 「その外観にもかかわらず, ハイデ
ガーは理論的ではない実存的な独我論に依然として囚 われている」21)。 マルセルもハイデガー固有の概念
「世界内存在」 を自己の思想に認めているが, 両者に とってその概念は, 実存と世界との客観的な関係を意 味しない。 しかしながら, マルセルの 「世界内存在」
は, 相互主観性についての考察に結び付いている身体 的存在と関連しており, ハイデガーの死に引き渡され る 「被投的な 投げ出された 世界内存在」22)には至 らない。
後に 存在と時間 以後の作品に関して, マルセル は, ヴァールが指摘するように ハイデガーは 「存在」
を明らかにするために実存から出発しないという意味 で, 「一種の見解の転回」23)を認めている。 つまり 「存 在」 は, 自らを開示し, 自らを表わし, 人間は言葉が 自分に向けられるがままにしなければならない。 マル セルは, ハイデガーのお陰で人間の言語の存在論的価 値を一層強く意識するようになったと認めている。
しかしながら, ハイデガーが提起する次の二つの問 いは, マルセルには疑似問題に思われる。 マルセルは,
「存在者にとって存在は何か」24)という第一の問いには 意味がないものとみなす。 なぜなら, その問いの中に 存在者は主体としてあらかじめ想定されているのに対 し, 彼によれば, 「反対に, 存在するという行為は, あらゆる特殊化に先立つものである」25)からである。
マルセルは ヒューマニズムについて の中で表現 されている 「人間は 存在 の隣人である」26)という ハイデガーの言い回しを 「名詞化が極度まで推し進 められた (…) 不当なやり方」27)と考える。 その上, 存在と存在者というハイデガーにとって重要な区別は, マルセルにとってはまったく文法的に思われる。 存在 は, マルセルによれば, 実存において私たちの有限な 行為が参与する, あるいはそうすることに呼ばれてい る充溢し相互主観的な 「行為」 である。
二番目の問い, 「なぜ存在者 有るもの があって, 無があるのではないのか」28)もマルセルには無意味に 思われる。 というのは, 「この問いを提起することに よって, 少し考察しただけで現れてくるような, あら ゆる問いは実在の根底をあらかじめ想定しているとい う基本的な所与を認めていない」29)からである。 その 実在の根底とは, 私たちは存在に浸されているという 事実である。 したがって, 「厳密には, 私たちは存在 について問うことはできないのである。 なぜなら, 私 たちは存在に基づいてしか問うことができないのであ るから」30)。
ハイデガーにとって存在は, 純粋な無ではなく,
「不安の結果」31)としての無と考えられる。 マルセルは 彼の第一次大戦における戦争の悲劇的体験がこの思想 に影響を与えているのではないかと考える。 彼は,
存在と時間 の後にハイデガーが行ったように現象 学を放棄しない。 なぜならマルセルにとって 「存在」
は現象学的反省によってしか予感できないものだから である。 そしていわゆる 「超下降」32)的存在である地 あるいは冥界の絶対者を復興させようとするハイデガー の試みを, 「疑似宗教」33)の幕開けではないかと彼は危 惧する。 ハイデガーの 「意味存在」 も自己開示する
「存在」 もマルセルの相互主観性の基礎である 「存在」
ではない。
「存在」 と 「神聖さ」 の親密なつながりを認めるハ イデガーの多大な功績に敬服しつつ, マルセルは, 意 識の構造には還元されない神聖で相互主観的 「存在」
に近づきうる人間としての隣人をハイデガーが十分に 評価しないことを残念に思う。
1)
1 27 1979
2) 126
129 ハイデガー:存在と時間, 世界の名著62, 原祐編, 240 244 中央公論社, 東京, 1971.
3)
44 1971
4) Ⅷ
93 1945
5) Ⅷ
93 1945
6) Ⅷ
93 1945
7) Ⅷ
99 1945
8) 120
1951 9)
8 272 274 1927. ハイデガー:存在と時間, 世界の名著62, 原祐編, 440 443, 中央公論社, 東京, 1971.
10) 274 277
1927 ハイデガー:存在と時間, 世界
の名著62, 原祐編, 446 449 中央公論社, 東 京, 1971.
11) 106 1935
12) Ⅷ 99
1945 13)
73 1968 14)
63 1971
15)
65 1971
16)
65 1971
17)
63 64 1971
18) 31
1951
19) 331 332
1944
20) 332 1944
21)
190 1968
22) 251 252
ハイデガー:存在と時間, 世界の名著62, 原祐編, 411, 中央公論社, 東京, 1971
23) 162
1956
24) 30
1957 25)
82 1968
26) 108 109
1983 27)
1
34 1979
28) 3 9
1953 ハイデガー:形而上 学入門, 4 11, ハイデガー全集40, 岩田靖夫他訳, 創文社, 東京, 2000
29) 塚田 澄代
1
1 33 1979 30)
82 1968 31)
43 135 1980
32) Ⅷ 100
1945
33) Ⅷ 100
1945