(1)第九十三号 東 西 学 術 研 究 所 々 報 2018年(平成30年)6 月 1 日
関
西
大
学
東西学術研究所々報
二〇一八年(平成三十年) 六月一日発行 編集発行人 沈 国 威 発 行 所 関西大学東西学術研究所 吹 田 市 山 手 町 三 丁 目 三 番 三 五 号 電話 〇六‐六三六八‐〇六五三 F A X 〇六‐六三三九‐七七二一第九十三号
目
次
巻頭言 沈国威 1頁 研 究 例 会 報 告 2~ 24頁 彙 報 25~ 59頁デジタル時代の人文学研究
沈
国威
I o T と い う 語 を 目 に す る こ と が 増 え て き た。 I o T と は、 英 語 : Internet of Things の 略 で、 様 々 な 「 モ ノ ( 物 )」 が イ ン ター ネッ ト に 接 続 さ れ、情報交換することにより相互に制御する仕組 みである。つまり、すべてのものは、ネットに繋 がるということである。ネットに繋がる電気ポッ トから一人暮らしの親の状況が分かり、トースタ ーまでネットに繋がれば、美味しい焦げ加減が自 動的に実現される。IoTによって生活が一変す ることは、容易に想像できよう。ところで、もし 人 文 学 の 研 究 対 象 が、 も れ な く デ ジ タ ル 化 さ れ、 ネットに繋がるとなれば、研究自体は、どのよう に変容するだろうか。 まず脳裏に浮かぶのは書籍の電子化とそれに対 する検索であろう。大規模なコーパスは、その実 現形である。収録データ量一〇〇億字以上と唱え る漢籍等のコーパスは、中国で有料、無料の形で 公開されており、語彙研究、辞書編纂から、歴史 をめぐる諸研究まで広く利用されている。わたし も参与した台湾政治大学の研究チームは、大規模 なデータベース「中国近現代思想及文学史専業数 據庫 (一八三〇 -一九三〇) 」 を 構築 し、 近代思想 史、概念史の研究に応用しようとしている。用語 検索により近代キーワードの語誌記述に威力を発 揮した。そしていまは新しい研究手法を模索中で ある。キーワードは、概念のネットワークのノー ド ( node ) に 位置 し、 他 の 語 と リ ン ク さ れ て い る。 例 え ば、 「国家」 と い う 概念 を 支 え て い る の は、 「国 土、国民、政府、憲法……」などであるから、あ る文献、或いは文献群において高い相関関係で一 緒に使用されることが予想されるが、果たしてど うであるのか。キーワードを中心とした概念のネ ットワークのあり方は、新しい風景を見せてくれ る で あ ろ う と い う 発想 は、 手作業 に よ る 実現 で は、 大きな困難を伴うが、データベースでは容易に結 果が得られる。 つい先日、台湾中央研究院近代史研究所の黃克 武氏は、歴史研究における日記の史料性について 興味深い講演をした。日記は個人の日常を中心に 構築された記憶である。これを史料として使用す るには、当時の文脈に戻す必要があり、公刊され た日記に、人名、地名、事件名に関して大量の注 釈が施された所以である。もしデジタル環境で専 門 家 の 手 に よ っ て 写 真 、文 字 情 報 ま で ハ イ パ ー リ ン ク さ れ た ら 、史 料 的 価 値 が 飛 躍 的 に 高 ま る で あ ろ う 。 最後に筆者が最近行った研究を例に見よう。明 治二〇年(一八八七)代に入り、学術用語の整備 が一段落したのち、科学叙述の枠組みを支える叙 述語に在来の和語と同義の二字動詞(サ変動詞) 、 形容詞(形容動詞)を用意することが日程に上っ てくる。叙述語の整備はまた言文一致の実現にと っても避けて通らない問題である。二字語の確保 に日本人が自ら作成する、つまり和製漢語は一つ の方法であるが、中国の典籍から借用するほうが より簡便であるので借用のケースが多いが、漢籍 語 か ら 日 本 の 近 代 語 へ の 成 長 過 程 を 捉 え る に は、 意味用法の記述だけではなく、使用頻度の経時的 変化も調査しなければならない。しかしこれも手 作業では絶望的である。わたしはいまゼミの大学 院生の協力を得ながら、三、〇〇〇語規模の二字 語の使用頻度について調査を実施しているところ である。近代中国の文献資料を収めたコーパスが あってこそ可能な取り組みである。 デ ジ タ ル 化 さ れ た 文 献 を 利 用 す る こ と に よ り、 これまでに、時間、労力の面でできなかったこと を、いとも簡単にやってのけた。しかし、方法と してのデジタル化について、絶えず新しい利用法 の探索とデジタルリソースの限界を知ることは大 事であろう。 研究の本質は、思考である。それが人間の脳以 外ではまだできない。2018年(平成30年)6 月 1 日 東 西 学 術 研 究 所 々 報 第九十三号(2)
研究例会報告
◇第一回 二〇一七年五月十七日比較信仰文化研究班(一)
主幹 新谷英治 概要 本研究班 は 日本 お よ び 世界 の 様々 な 「祈 り の 場」 の 様相 と そ の 役割 ・ 意義 を 検討 す る こ と に よ り 人々 の「祈り」に見られる普遍性と個別性を探ろうと 試みている。今回は次のとおり、日本におけるキ リスト教理解のあり方と南アジアにおけるヒンド ゥー教信仰のあり方を中心テーマに四名が研究発 表を行い、それらを受けて質疑応答、討論を行っ た。 恵崎麻美(非常勤研究員) 「『口語聖書』における小磯良平の挿絵の特徴 について」 蜷川順子(研究員) 「茨木市の天使讃仰図にみる祈り」 ロトンラル チャクラボルティ(東西学術研究 所招へい研究員、元ダッカ大学教授) 野間晴雄(研究員) [共同発表] 「イ ン ド ・ バ ン グ ラ デ シュ に お け る ヒ ン ドゥー 教 の聖地 Hindu Sacred Places of India and Bangladesh 」 発表要旨 恵崎麻美 非常勤研究員 「『口語聖書』における小磯良平の挿絵の特徴につ いて」 本発表では、画家小磯良平(一九〇三 -一九八 八)が、日本聖書協会からの依頼を受けて制作し た 『口語聖書』 (日本聖書協会 一九七一年) 挿絵 の特徴について考察を行った。 具体的には、挿絵制作に関する小磯の言葉を参 考にしながら、完成作を下絵と比較して見ること によって、その変更点や手法を明らかにし、制作 過程 に お け る 画家 の 意図 や 関心 に つ い て 分析 し た。 その上で、彼の所蔵したキリスト教関係の書物に 登場する西洋美術作品との比較を行うことによっ て、 『聖書』 の テ キ ス ト と 宗教絵画 の 知識 や イ メー ジを念頭に置きながらも、画家の視点から、聖書 の物語や場面を描くために必要なモティーフや構 図、色彩表現を工夫し、構図や表現の検討を重ね ていたことを指摘したのである。 以上のように、小磯の制作の意図や視点を探る こ と に よ り、 『口語聖書』 に お け る 挿絵 の 特徴 の 抽 出を目指した。 蜷川順子 研究員 「茨木市の天使讃仰図にみる祈り」 茨木市文化財資料館に保管されている《天使讃 仰図銅版画》では、天使のように羽をはやした人 物が天に祈りを捧げるように描かれている。本発 表ではここに描かれた祈りの意味について考察し た。八 枚 の う ち 五 枚 が 現 存 す る こ の シ リー ズ は、 一九一九年にキリシタン研究家藤波大超によって 千提寺周辺で発見された遺物の一つであり、新村 出 「摂津高槻在東氏所蔵 の 切支丹遺物」 『京都帝國 大 學 文 學 部 考 古 學 研 究 報 告 』 京 都 帝 國 大 學 發 行、 大正十一年 -十二年、 図版第六 に、 「銅版天使讃仰 図」として掲載された。パリやウィーンに残る類 似 シ リー ズ と 比較 し た 浅野 ひ と み は、 《天使讃仰図 銅 版 画 》 と い う 呼 称 に 疑 義 を 呈 し て い る。実 際、 ここに描かれている人物は天使ではなく、主禱文 にある七祈願に七秘跡と七美徳とが組み合わされ た、抽象的な内容を表す擬人像であることがわか る。このような内容が強調されたのは、十六世紀 の宗教改革後のカトリック側からの対抗意識に基 づくものだと思われる。 野間晴雄 研究員・ ロトンラル チャクラボルティ(招へい研究員) 「イ ン ド ・ バ ン グ ラ デ シュ に お け る ヒ ン ドゥー教 の 聖地 Hindu Sacred Places of India and Bangladesh 」 宗教は一年という通常の時間のなかに聖なる時 間を生み出すのみならず、空間のなかにも特別の 聖なる場所を見出す。それは自然美に優れた場所 や 特 別 の パ ワー ス ポッ ト―
洞 窟、 山、 川 な ど の ほか、歴史上における重要な宗教的イベントの場 所が聖地となる場合も多い。ヒンドゥー教の聖地 としては、クリシュナ神の誕生地などもあげられ る。しかしヒンドゥー教は一宗教というよりも一 つのコミュニティ、アイデンティティとしての性 格が濃厚である。原初的なヒンドゥー教では、仏 教のように寺院が重要な役割を果たさず、寺院の 記録 ・ 史料 も 多 く は な い。都市化 の 進展 の な か で、 寺院の重要性が仏教からヒントを得て増していっ た側面がヒンドゥー教には強い。ガンジス中流の 最も著名な聖地であるヴァラーナーシーも、個々(3)第九十三号 東 西 学 術 研 究 所 々 報 2018年(平成30年)6 月 1 日 の寺院の役割は二義的にすぎず、聖なる川ガンジ スを沐浴する経験こそが人々の信仰と中心となっ ている。 本報告では、インドではガンジス流域の源流に 近いヒマラヤ山中のシャンクラチャヤ寺院(ジャ ム カ シ ミー ル 州 )、 ス リ ・ ベ カ ン テ ス ワー タ 寺 院 (ア ン ド ラ プ ラ デ シュ州) を は じ め、 南 イ ン ド の メ ナ キ シュ寺院 (タ ミ ル ナ ドゥ州) 、 シ ヴァ神 で 著名 な ソ ム ナ ト 寺院 (グ ジャ ラー ト 州) 、 エ ロー ラ 石窟 (マディアプラデシュ州) 、ジャグナタ寺院(オリ ッサ州)などを、バングラデシュではダッカのダ レシュワリ寺院をとりあげ、スライドを提示しな がら、その立地、信仰する神、建築史、意匠、美 術などについて詳細に解説した。 ◇ ◇ ◇第二回 二〇一七年六月三日
非典籍出土資料研究班(一)
主幹 玄 幸子 概要 浙江大学の方一新・王雲路両教授を招き講演を していただいた。そのあと本研究班非常勤研究員 の山本孝子氏が研究発表を行った。講演内容を紹 介すると次のとおりである。 方一新 (浙江大学教授) 「出土文獻與傳世文獻互證―
讀北大簡《倉頡篇》 」 第 一 次 資 料 と し て の 出 土 文 献 の 重 要 性 を 説 き、 伝世文献の研究および解読に如何に有効に資する かを王国維・太田辰夫・裘錫圭などの著述から引 用、 そ の う え で 北京大学所蔵 の 西漢竹書 《倉頡篇》 を取り上げ、従来の校訂に関わるいくつかの問題 について検討を加えていただいた。同音音通字に 関 す る 問題 の 一 つ と し て 「嬰但」 の 例 を 挙 げ、 「但」 は「撣」であり「提持」の意味であることを検証 された。また、釈義に関しては多くの傍証を引い て詳細にその意味を解釈すべきであるとして「 悍」 「巧亟」 「 按」の三例を挙げて、その意味を 再検討してくださった。これらの例を通じて、出 土文献資料の解読がいかに重要かつ困難であるか を再認識しご講演を終えられた。 王雲路 (浙江大學教授) 「中古佛經寫本與刻本比較 漫議」 今回 の 講演 で は 《中本起経》 《出曜経》 の 二経 を 取り上げ、敦煌寫巻と比較することが伝世の刻本 の研究・校勘にいかに有効に資するかを具体例を 挙げて示してくださった。まずロシア藏敦煌寫巻 《中本起経》 の “ 我用母人 ” を 取 り 上 げ、 上海図書 館 藏 敦 煌 寫 巻 お よ び 《 中 華 藏 》 が 同 じ く “ 母 人 ” とするのに対して《大正藏》では “ 女人 ” と作っ ていることを紹介し、敦煌寫巻の出現状況を確認 した結果、 “ 母人 ”“ 女人 ” が混在しているのに対 し、刻本の《中華藏》ではすべて “ 母人 ”、 《大正 藏》ではすべて “ 女人 ” となっていることを指摘 さ れ た。こ れ は、 写本 に は “ 母人 ”“ 女人 ” が 混在 す る 実 際 の 言 語 状 況 が 反 映 さ れ て い る の に 対 し、 刻本では整理統一する意識が働いたことを明確に 示していると検証されたものである。 さらに、 “ 將來 ”“ 持來 ” では語彙出現の時代差 を検証され、また “ 興工立德 ” など四字成語の固 定的な書写方法を考証、 “ 直可 ”“ 宜可 ” では字形 近似による混同使用の実際を明らかに解説してい ただいた。 以上の四つの異文の検討から、写経資料を通し て行う仏典研究が今後しっかりと取り組む価値の ある分野であると強調しご講演をまとめられた。 発表要旨 山本孝子 非常勤研究員 「『五杉練若新学備用』巻中「論書題高下」に見え る待遇表現について」 『五杉練若新学備用』 巻中 に は 僧侶 に 関 わ る 吉凶 さ ま ざ ま な 手紙 の 文例 が 収録 さ れ る が、 「論書題高 下」では吉儀の手紙について、文例そのものや文 例 に 附 さ れ る 個 別 の 注 釈 で は わ か り に く い 内 容、 あるいは手紙全般に関わる作法などの説明がなさ れている。これは、敦煌発見の書儀で「凡例」と 呼ばれる部分に相当する。本発表では、駒澤大学 所蔵朝鮮刊本『五杉練若新学備用』巻中「論書題 高下」に見える待遇表現について、敦煌発見の書 儀と比較しつつ考察を加えた。その結果、僧俗の 別、出家者に対する用語の制約などにはあまり触 れられておらず、敦煌発見の書儀に見える俗人の 場合と同様に、主に尊卑を基準とした非対称な待 遇表現が用いられていることが確認できた。 ◇ ◇2018年(平成30年)6 月 1 日 東 西 学 術 研 究 所 々 報 第九十三号(4) ◇第三回 二〇一七年六月三日
言語接触研究班(一)
奥村佳代子 概要 本会は中国語教育学会との共催による講演会と して開催した。フランス国立東洋言語文化学院教 授 ジョ エ ル ・ バ ル サ ン 先生 を 講師 と し て お 招 き し、 「 关 于 当 前 汉 语 二 语 教 学 论 学 科 的 认 识 论 障 碍 」 と いうテーマでご講演いただいた。 フランスをはじめヨーロッパで確立されつつあ る、第二言語としての中国語教育を専門とする学 科の設置に至る経緯、またそれに伴う問題点およ び 発想 の 転換 の 必要性 に つ い て 細 や か に 語 ら れ た。 ヨーロッパにおける第二外国語としての中国語 教育という観点ではあったが、日本の中国語教育 の将来を考える上で大いに参考にすべき視点を得 ることができた。また、バルサン先生の熱意あふ れる教育思想に触れることができたことは、幸い であった。 一〇〇人を超える来聴者があり、盛会のうちに 終了した。 ◇ ◇ ◇第四回 二〇一七年六月十六日言語接触研究班(二)
『華英通語』をめぐって
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清末英語事始
主幹 沈 国威 概要 今回の研究例会は、中国の英語語彙集『華英通 語』に特化したものである。内田研究員による研 究史、直近の進展に関する発表の後、大阪大学教 授の田野村忠温氏が、旧大阪外国語大学の図書館 にこれまでに言及されなかった『華英通語』の版 本 を 発見 し、 「新出資料 『華英通語』 道光本 と 中国 初期英語教材の系譜」と題する発表を行った。続 いて、京都産業大学教授の矢放昭文氏が『華英通 語』 の 音転写 の 問題 を 取 り 上 げ、 「『華英通語』 『狩 野本』の英漢対音と脱鼻音化」と題する発表を行 った。最後に言語接触研究班委嘱研究員で、成城 大学教授の陳力衛氏が十九世紀初頭、東南アジア に 来 ら れ た 宣教師、 メ ド ハー ス ト の 英華辞書編纂、 そ の 目的 と 継承 を 中心 に、 「辞書 は 伝道 へ の 架 け 橋 で あ る―
W ・ H ・ メ ド ハー ス ト の 対 訳 辞 書 の 編 纂をめぐって」を発表した。それぞれの発表につ いて、参加者と発表者が時間をかけて、質疑応答 を 行っ た。第四回研究例会 に は、 学内外 の 研究者、 大学院生ら一〇〇人ほどが参加した。 発表要旨 内田慶市 研究員 「再論『華英通用雑話』 」 今回 は 「『華英通語」 を め ぐ っ て―
清末英語事 始」を総合テーマとして開催されたが、報告者は 「再論『華英通用雑話』 」と題して発表を行った。 清末の中国における英語学習について、ごく初 期の「紅毛雑話」類のピジン英語から始めて、当 時極めて科学的に記述された英国人外交官ロバー ト・トームの『華英通用雑話』の英語学習史上の 位置、語学的価値等について詳しく論じた。 併 せ て、 『 華 英 通 語 』 と の 内 容 の 違 い 等 に も 触 れ、更には、他の英語教科書、たとえば「英話註 解」 「英字入門』等についても言及した。 陳 力衛 委嘱研究員 「辞書 は 伝道 へ の 架 け 橋 で あ る―
W ・ H ・ メ ド ハ ーストの対訳辞書の編纂をめぐって」 W ・ H ・ メ ド ハ ー ス ト( W al te r H en ry M ed hu rst, 1796-1857, 漢 字 名 : 麦 都 思 ) は ロ ン ド ン 伝 道 会 ( London Missionary Society ) の 一 員 と し て 一 八 一七年七月十二日にマラッカに渡り、その後ペナ ンへ、さらに一八二二年一月七日にバタヴィアへ と移り、そこで二十一年にわたる長き宣教活動に 従事しながら後続の宣教師のために六冊の対訳辞 書を編纂した。中には(二)を除いて彼自身の手 による印刷がほとんどであった。 (一) An English and Japanese, and Japanese and English vocabulary. Batavia. ( 1830 ) (二) A dict ionar y of the Ho k-kë èn di alec t of the Chinese language. Macao. ( 1832 ) (三) Tr ansl ation of a co mpara tive voca bular y of the Chinese, Corean, and Japanese languages. Batavia. ( 1835 ) (四) Dictionary of the Favorlang Dialect of the Formosan Language. Batavia. ( 1940 ) (五) A Chinese and English Dictionary. Batavia.(5)第九十三号 東 西 学 術 研 究 所 々 報 2018年(平成30年)6 月 1 日 ( 1842-43 ) (六) English and Chinese Dictionary. Shanghai. ( 1847-48 ) メドハーストの辞書編集は基本的に最初に習得 し た 中 国 語 の 力 を 頼 り に 行 わ れ て き た。そ し て、 どの辞書も既成の底本があって、英訳からスター トしていくものであった。 (一) の 『英和和英語彙』 は 日本布教 を 見据 え て 作ったものであり、外国人による最初の英和和英 辞書として注目されているが、その底本に使われ ていた『蘭語訳撰』はまさに和蘭辞書として、そ の蘭語を英訳することで和英辞書に作り上げるこ と が 可能 と な る。二番目 に 刊行 さ れ た (二) の 『福 建方言字典』は画期的なもので、先輩のモリソン の『広東省土話字彙』もむしろその刺激を受けて 編集 さ れ た も の と も 考 え ら れ る。 (三) の 『朝鮮偉 国字彙』 も 同 じ く そ の 中国語 の 力 を 利用 し て い た。 『倭語類解』 に し て も 『千字文』 に し て も 漢字語 を 見出し語とする既成の字書であって、彼の中国語 力ではそれらを英訳することが可能だった。 (四) の 『 台 湾 虎 尾 壟 語 辞 典 』 だ け は や や 特 殊 で あ る。 既 成 の 辞 書 ( Favorlang Woord boek ) に 基 づ く 英訳からスタートしたことは前の辞書と共通して い る。た だ、 日 本 語 や 朝 鮮 語 の 辞 書 と も 違 っ て、 行ったことも話したこともなくても、少なくとも 漢字という共通項があった。その意味で(四)の 辞書は逆にそれすらなかったので、中国語の力が ど れ ほ ど 働 い て い た か は 不明 で あ る。 (五) の 『華 英字典』と(六)の『英華字典』はもちろん最終 的 な 目 的
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中 国 布 教 を 達 成 さ せ る た め の も の で あ ろ う。し か も、 (二) (五) (六) の 辞書 の 底本 を 同じく『康煕字典』に求めることは先輩宣教師モ リソンの辞書との音声的、意味的な照合ができる という便宜上のメリットがあるだけでなく、一種 の権威性をもたらすことにも意義がある。 辞書編集は宣教師にとって必要不可欠な第一歩 で あ り、 「中国語 は 両民族 (朝鮮 ・ 日本) に と っ て は 通 用 し て い る ( Chinese Language is common to both nations )」 と い う ( 三 ) の 『 朝 鮮 偉 国 字 彙』におけるこの認識に立って、メドハーストは 突き進んで六種の辞書を作ってきた功績はいくら 褒めたたえてもすぎることはないと思う一方、ど れほどの問題点が潜んでいるかをも検証すべき課 題として避けて通れないであろう。 ◇ ◇ ◇第五回 二〇一七年六月二十四日近世近代日中文化交渉(日中移動
伝
播)研究班(一)
近代における日・中・米の文化
交渉の諸相
陶 徳民 概要 「近代 に お け る 日 ・ 中 ・ 米 の 文化交渉 の 諸相」 の テーマで研究例会を開催した。例会の第一部「明 治大正期の日中文化交流」において、まず、南開 大学外国語学院教授・国際日本文化研究センター 外国人研究員劉雨珍氏が「漢文筆談で放った時論 の 精 彩―
清 国 初 代 駐 日 公 使 館 員 と 明 治 漢 学 者 の 交流について」と題する報告を行い、晩清中国に おける「西学(西洋の学問)が墨子(古代中国の 思想家)に起源す」という珍説や、自由民権運動 に 対 す る 清 国 駐 日 外 交 官 の 理 解 な ど を 紹 介 し た。 続いて非常勤研究員辜承堯氏が「大正期の青木正 児 と 中 国 の 知 識 人―
胡 適 ・ 呉 虞 ・ 魯 迅 と の 交 流 について」という報告で五四新文化運動に対する 青木の同調と紹介を評価した。第二部「アメリカ の大統領と中国・日本」において、台湾中央研究 院近代史研究所研究員・国際日本文化研究センタ ー外国人研究員潘光哲氏が「ジョージ・ワシント ン と 中国―
人物像 と 政治文化 の 視点 か ら の 考察」 と 題 す る 報告 を 行 い、 「国父」 と 呼 ば れ る ア メ リ カ 合衆国のワシントン大統領と中華民国の臨時大統 領孫文 に 関 す る 神話 の 形成過程 と 問題性 を 論 じ た。 陶徳民研究員が「エイブラハム・リンカーンと日 本―
ア メ リ カ 彦 蔵 お よ び 将 軍 家 茂 と の コ ン タ ク トについて」を報告し、一八五九年開港後の日本 とアメリカの繋がりを、漂流民出身の米国駐日通 訳官(後に『海外新聞』を発行したジャーナリス トとして有名)ジョセフ彦がホワイトハウスでリ ンカーン大統領に謁見したことや、二港二都開放 延期交渉をめぐる将軍家茂とリンカーン大統領と の往復外交文書を例に紹介した。 発表要旨 辜 承堯 非常勤研究員 「 大 正 期 の 青 木 正 児 と 中 国 の 知 識 人―
胡 適 ・ 呉 虞・魯迅との交流について」 本発表は大正期における青木正児(一八八七 - 一九六四)と同時代の中国知識人胡適・呉虞・魯 迅との交流を取り上げて考察したものである。彼 らの盛んな書簡往復を通じて、このような交際実 態を窺える。 「我素是一個専攻文学芸術之徒」 と 意識 し て い る 青木は、中国古典小説の考証に力を入れている胡2018年(平成30年)6 月 1 日 東 西 学 術 研 究 所 々 報 第九十三号(6) 適 と と も に、 共同関心 を 基盤 と し て、 『水滸伝』 の 成立時間、 章実斎年譜 の 校訂、 崔東壁遺書 の 整理、 『紅楼夢』に関する研究、 「呉敬梓伝」をめぐる討 論、姚際恒著書の探し求めなど多方面に深い交流 を行った。 呉虞は諸子百家の研究しかに没頭していない理 由で、青木との思想交流は儒教批判に限られてい る。両氏の往復書簡を見ると、学術上の討論より 書籍寄贈に関するお世辞と褒め言葉が圧倒的に多 いため、時間が経つにつれて次第に疎遠になった のである。 青木と魯迅との往復書簡が二通しかないことか ら見ると、両氏は互いにあまり交流しなかったに も 関 わ ら ず、 「未来 が あ る 作家」 と 予言 し た 青木 の 鋭い眼力を評価すべきである。 陶 徳民 研究員 「エ イ ブ ラ ハ ム ・ リ ン カー ン と 日本
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ア メ リ カ 彦 蔵および将軍家茂とのコンタクトについて」 ①リンカーンと将軍家茂 一八六〇年春、幕府の遣米使節が日米修好通商 条約 の 批准書交換 の た め 首都 ワ シ ン ト ン を 訪 れ た。 その条約の規定により、横浜、長崎及び函館とい う三つの条約港がすでに一八五九年に開かれてお り、江戸と大坂の二大都市及び神戸と新潟の二つ の条約港をさらに開放することも義務付けられて いた。しかし、横浜の開港によって起きたインフ レーションと政治的混乱を見た将軍家茂は、これ らの二都二港の開放を期限より五年間延期するこ とを要請した。リンカーンは一八六一年八月一日 付の返事において、初代在日公使となったハリス が「我々自身の福利や名誉に対する考慮に劣らな いほどの其方の帝国の利益と繁栄のために公正な 立場から事を進める」ことを約束した。日本の支 配 者 を 対 等 者 と し て 見 な し て い る リ ン カー ン は、 次 の よ う な 慈悲心 に 富 む 文言 で 書簡 を 終 え た。 「有 り余る繁栄と時間が貴方の統治する大国にあるよ う、閣下に常に神のご加護があることをお祈りし ます」と。結局、アメリカ及び他の列強は、将軍 の 要求通 り 開港 を 五年間延期 す る こ と を 承認 し た。 ②リンカーンとアメリカ彦蔵 ア メ リ カ 彦蔵 ( Joseph Heco 1837-1897 本名 は浜田彦蔵)は播州出身、一八五〇年江戸観光か ら 帰 る 際、 乗っ た 船 が 暴風 で 太平洋上 に 飛 ば さ れ、 アメリカの商船に救助された。東海岸のミッショ ン ・ ス クー ル に 通 い、 十 七 歳 の 時 に 洗 礼 を 受 け、 二十一歳でアメリカに帰化した。一八六二年三月 十二日、江戸の米国公使館で通訳を務めている彦 蔵は米国海軍のポストを探したく、面識のあるウ ィリアム・シーワード国務長官の紹介により大統 領執務室でリンカーンに謁見した。その回顧録に よれば、大統領は「私と温かく握手を交わし、私 の国の状況に関して多くの質問をした」と。一八 六 三 年、 彦 蔵 は 米 国 公 使 館 通 訳 の 仕 事 を 辞 任 し、 ジャーナリストに転身し、その後は政府の事務系 役人や実業家ともなった。一八六四年最初の日本 語新聞『海外新聞』を創刊したことは、その生涯 の最大な業績と言えるかもしれない。多くの日本 人は一八六五年七月付の『海外新聞』を通して三 か月前のリンカーン暗殺という衝撃的な事件を知 ったのである。 ◇ ◇ ◇第六回 二〇一七年七月七日非典籍出土資料研究班(二)
主幹 玄 幸子 概要 辛善惠韓国高麗大学校韓国史研究所研究教授を お 招 き し て、 「 三 国 遺 事 の 仏 教 金 石 文 引 用 事 例 分 析」と題するご講演を拝聴した。続いて本研究所 東アジア宗教儀礼研究班の宮嶋純子非常勤研究員 が「ベトナム仏教史研究における碑文資料活用の 模索」 、 篠原啓方研究員 が 「新羅僧 の 謡号 に 対 す る 一考察」と題して研究発表を行った。 辛善惠教授のご講演内容は、選者が確認採録し た史料を直接採録するため現存しない資料をも確 認しうるという『三国遺事』の書誌学的意味を明 らかにした上で、その中に引用される仏教金石文 資料を取り上げ、いくつかの事例について検討し たものである。文献を偏重し、かつ個別研究を中 心とする従来の研究の不足を補うために先ず全体 的視点からグループ化を行い、現存しない資料を も対象として高麗時代の金石文の全体的把握を試 みた。その上で、仏教金石文について全一四例の 個別の事例を詳細に検討し、先行研究における誤 釈訂正と並行して金石文を引用する態度について 考察 を 加 え、 『三国遺事』 に お け る 佛教金石文 の 引 用は、内容の亡失を防ぐためではなく、選者自身 の叙述の客観性を示すことを目的としたものであ ったと結論付けた。講演後の質疑応答では、活発 な意見交換がなされたが、九層塔の高さに関する 誤植について訂正があったことのみ付記するにと ど め る。な お、 講演通訳 は 송미경 (ソ ン ミ ギョ ン)(7)第九十三号 東 西 学 術 研 究 所 々 報 2018年(平成30年)6 月 1 日 氏が担当した。 発表要旨 宮嶋純子 非常勤研究員 「 ベ ト ナ ム 仏 教 史 研 究 に お け る 碑 文 資 料 活 用 の 模 索 」 報告前半は、二十世紀初頭以来フランス極東学 院及びベトナム漢喃研究院が行ってきた碑文拓本 事業の概要と成果物の刊行状況について紹介する と共に、これらを研究に利用する際の問題点につ いて指摘した。 後半は、碑文資料を用いたベトナム仏教史研究 の試みとして、ハノイ市内の古刹・蓮派寺に伝わ る碑文類を取り上げた。十八世紀に創建された同 寺は、一時荒廃するが十九世紀半ばに福田和尚安 禅を住持に迎え再興される。福田和尚による蓮派 寺再興 の 事績 は 文献史料 (『禅苑統要継燈録』 福田 和尚伝)によって確認されるが、蓮派寺に伝わる 碑文類( 「重興蓮派寺離塵院記」 )やその製作年代 (い ず れ も 福田 に よ る 再興以後 に 建立 さ れ た も の = それ以前との状況の比較)からも、蓮派寺再興の 歴史について傍証されることを考察した。 篠原啓方 研究員 「新羅僧の諡号に対する一考察」 本発表 は、 主 に 九 -十世紀 の 禅僧碑文 に 基 づ き、 国家から僧侶へ贈られた諡号の成立と展開につい て検討したものである。新羅における最初の「諡 号」とされるのは六世紀の王に対するものである が、 こ れ ら は 高 麗 時 代 に 編 纂 さ れ た 『 三 国 史 記 』 の 記 述 で あ り、 こ の う ち 「 法 興 王 」 や 「 真 興 王 」 は、彼らの在位時に製作された金石文資料に登場 しているため厳密には諡号とは言えない。また七 -八世紀の高僧である元暁や義湘の諡号はいずれ も高麗時代の贈与である。したがって新羅におけ る僧侶への贈諡は、九世紀以降の禅僧のものが最 初 で あ る 可 能 性 が 高 い。禅 僧 の 諡 号 に は 「 禅 師 」 →「和尚」→「大師」という大まかな変遷が確認 さ れ る。こ れ は 「禅師」 と い う 個人 の 技術 ・ 能力、 あるいは特定の宗派を指す名称から、それらにと らわれない包括的な尊称への変化を意味するもの であり、新羅仏教界における禅宗の地位上昇を暗 示するものと思われる。 ◇ ◇ ◇第七回 二〇一七年七月二十日
日本文学研究班(一)
山本登朗 概要 日本の平安朝文学と中世イタリア文学をテーマ にした下記の講演が行われ、終了後、活発な質疑 が行われた。 講演 エドアルド・ジェルリーニ氏(国際日本文 化 研 究 セ ン ター 外 国 人 来 訪 研 究 員 博 報 財 団 「国際日本研究フェローシップ」 ) 「 権 力 の 言 葉 平 安 朝 と 中 世 イ タ リ ア に お け る 歌、儀式、王権」 君主の政治が正しく行われていれば天もそれに 反応して順調に季節や気候が運行し、君主に欠点 があるせいで政治が正しくなければ天は災害や異 変を起こす。これは中国をはじめ東アジアの諸国 に広まった「天人相関思想」であり、儒教文治主 義を導入した平安初期の文学作品にもその痕跡を 残している。 しかし、同様の思想が中世ヨーロッパにも存在 し て い た こ と は、 日本 で は あ ま り 知 ら れ て い な い。 王権と自然の間に相互関係を持たせることによっ て君主の正当性を標榜する文学作品は、特に南イ タリアを領土とした神聖ローマ帝国のフェデリー コ 二世 の 朝廷 で 散見 さ れ る。十三世紀 の イ タ リ ア、 九世紀の日本、時空を越えて、宮廷という特殊な 環境で詠まれた歌、行われた儀式、創作された作 品には、さまざまな共通点が見出される。その共 通点に注目して、権力と想像力の緊張関係のあり かたを考えることが可能である。 そのことを考えるために、例として菅原道真の 漢詩 と ペ ト ル ス ・ デ ・ ヴィ ネ ア の 作品 を 取 り 上 げ、 具体的に比較した。 ◇ ◇ ◇第八回 二〇一七年七月二十二日東アジア宗教儀礼研究班(一)
吾妻重二 概要 二〇一七年度東西学術研究所の第八回研究例会 として、東アジアにおける儀礼を中心に、五名の 研究員が現在進めているテーマにつき研究発表を 行った。中国における厲鬼(悪霊)の祭祀、近世 日本における楽律の研究、荻生徂徠と葬礼、韓国 近代の宗廟制度、現代台湾における葬送と道教な ど、領域としては儒教や道教、民間信仰にかかわ2018年(平成30年)6 月 1 日 東 西 学 術 研 究 所 々 報 第九十三号(8) り、地域としては中国、日本、韓国、台湾にまた が る と い う、 当研究班 に ふ さ わ し い 内容 で あ っ た。 いずれも最新の成果にもとづく有意義な研究例会 であり、活発な質疑応答もなされた。 発表要旨 董 伊莎 準研究員 「古代中国礼典における厲の祭祀に関する一考察」 本発表は礼典資料を中心に厲祭の記録を整理し てその歴史的な展開を考察した。関連資料からみ れば、厲の祭祀は漢と唐を切り目として三段階に 分けられる。まず、そういった祭祀は漢の前に七 祀や五祀の一部及び民間の風習として伝承されて きた。その後、唐までの祀典に見える限り行われ なくなった。そして、唐の開元年間に再び復旧さ れ、 後 の 時 代 に は 中 断 な く 行 わ れ て い た。ま た、 『左伝』 に お け る 厲 に 関 す る 記録 を 分析 し、 子産 か らはじめとする一部の人が「有功烈於民」という 儒教的な価値標準に従って厲を再定義したことを 明らかにした。一方、実に民間で厲鬼を祀る風習 が 継承 さ れ、 「秦中」 の よ う な 暴虐 な 人 で も 祭祀 さ れたこともあった。したがって、厲の祭祀につい て、礼典上の内容と実際の間にはズレがあったと 推定した。 榧木 亨 非常勤研究員 「日本近世期 の 儒者 と 楽
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楽研究 の 変遷 を 中心 と して」 本発表では、日本近世期の儒者と楽の関係につ いて、主に朱子学派の儒者たちによる楽研究の様 相と、日本の宮廷音楽の「雅楽化」における儒教 の影響について、基礎的な考察を行なった。 日本近世期の儒者による楽研究については、既 に先行研究において徂徠学派の儒者たちによる取 り組みが明らかにされているが、これまで日本近 世期の、ひいては東アジア近世期の思想界におい て中心的な存在であった朱子学派による楽研究の 様相については、明らかにされてこなかった。そ こで、発表者は中村惕斎から蟹養斎・中村習斎へ と 至 る 朱 子 学 派 に お け る 楽 研 究 の 実 態 を 解 明 し、 当 初 は 「 燕 楽 」 と さ れ て い た 日 本 の 宮 廷 音 楽 が、 最終的には儒者が理想とする「雅楽」と同等の評 価 を 得 る ま で に 変化 し て い く 過程 を 明 ら か に し た。 吾妻重二 研究員 「荻生徂徠 『葬礼考』 に つ い て―
全集未収 の テ キ スト」 荻生徂徠(一六六六 -一七二八)の著作『葬礼 考』の諸問題と、徂徠における礼楽の意義につき 再検討を行った。主な論点は次のとおりである。 (一) み す ず 書房 『荻生徂徠全集』 第一三巻所収 の 『葬礼略』 (別名:葬礼考)は、版本調査に大き な不備があるため編集をやり直すべきである。 (二) 徂徠 と 朱熹 『家礼』 の 関係 に つ い て は、 宝永 二年(一七〇五)十月、妻休(三宅氏)の死去 にあたって『家礼』に忠実に葬儀を行なったこ とが注意される。しかしこの頃を境に徂徠は古 文辞学 に 転 じ、 朱子学 を 批判 す る よ う に な っ た。 (三) も っ と も、 徂徠 の 父 の 方庵 の 位牌 は、 荻生家 の家督を継いだ弟の北渓により『家礼』式の神 主 が 作 ら れ た。な お、 北渓自身 の 神主 は 『家礼』 以前の、唐代の形式(古い儒式)であり、とも に現在に伝わる。 (四) 抽象的な理ではなく、具体的な「礼楽刑政」 こ そ 先王 の 道 と し た 徂徠 で あ っ た が、 「制礼」 を なし得たのは「三代の聖人」のみであって、そ の実践( 「行礼」 )は国情や個人の好みによって 決めていけばよいとし、その結果、仏教式の葬 祭をも許容する。これは結局、儒者徂徠の意図 とは違って、儒教儀礼を解体する方向に向かう であろう。 (五) こ の よ う に、 中国三代 の 礼楽刑政 を 絶対視 す る徂徠は、その日本における実践を必ずしも意 図しなかった。このことは逆に、中国の礼楽の 客観的究明に道を開くことになったように思わ れる。 丁 世絃 非常勤研究員 「近代韓国の宗廟について」 今回の報告では現在韓国のソウルにある朝鮮王 朝時代の宗廟研究の必要性と韓国中央研究院に所 蔵されている宗廟資料を紹介した。韓国の宗廟は ユネスコ世界文化遺産として指定され、それに関 する研究も盛んになっているが、近代の宗廟特に 日本植民地期における宗廟の研究は欠けている状 態である。 今回の調査により、韓国学中央研究院の図書館 である蔵書閣に近代宗廟に関する資料が最も多く 残っ て い る こ と が わ か っ た。 『宗廟日誌』 の よ う な 唯一本をはじめ、一九四五年から一九四六年まで の 宗廟 の 管理、 経営 の 状況 を 詳 し く 書 い て い る 『守 僕庁日記』のような日本植民地期から韓国の独立 直後の宗廟の事情を述べている記録も見つけた。 また、朝鮮総督府に所属していた儒教機関であ る「経学院」の大提学・明倫学院の総裁を歴任し た鄭萬朝も宗廟の管理者として参加していたこと や鄭が書いた『報告存案』という宗廟管理の記録 により、今後宗廟と経学院の人的交流や宗廟の経 営に関する本格的研究ができると思う。(9)第九十三号 東 西 学 術 研 究 所 々 報 2018年(平成30年)6 月 1 日 山田明広 客員研究員 「台湾道教打城科儀についての初歩的考察」 台湾道教の功徳儀礼(死者救済・追善供養の儀 礼) を 構成 す る 儀式 の 一 つ に、 「打城科儀」 と い う 儀式がある。この儀式は、道士が実力行使により 地獄中の城門を打ち破り、そこから亡魂を救出す るということが演劇的に示される儀式であり、す なわち、亡魂を地獄より直接的に救い出すために 行われる儀式である。 本発表では、この台湾道教の「打城科儀」につ いて、実施される条件や儀式の内容、構造、地域 的差異などといった基礎的事項を考察した。 まず、台湾道教における打城科儀とはいかなる 儀式であるのか、その概要について説明した。次 に、 ど の よ う な 場 合 に 打 城 科 儀 が 行 わ れ、 ま た、 儀式において用いられる糊紙製の城にはいかなる ものがあるのかについて、台南地域と高雄・屏東 地域 と の 間 の 地域的差異 に も 留意 し つ つ 検討 し た。 最後に、台南地域と高雄・屏東地域の打城科儀そ れぞれについて、その内容と構造を分析し、さら に相互に比較することで、各地域の打城科儀の特 徴および両者の共通点と相違点を明らかにした。 ◇ ◇ ◇第九回 二〇一七年七月二十九日
身体論研究班(一)
主幹 三村尚彦 概要 研究員(二名)による調査報告、研究発表を行 った。また外部講演者として、システムアーティ ストとしてご活躍されている安斎利洋氏をお招き し、 「疑似 ア ト ラ ク ター の 森 セ ル オー ト マ ト ン 内 部 の 眺望」 と い う タ イ ト ル の ご 講演 を い た だ い た。 安斎氏は、単純な計算規則・プログラミング規則 の反復による振る舞いの中で、一定の秩序や生命 的活動が生み出される現象を考察する最前線の研 究紹介とご自身の作品制作、ワークショップ活動 をお話くださった。これは、荒川+ギンズが目指 した環境構築(住宅建設など)によって、生命が 変化生成していくという主張の基礎理論、原理論 を提供するものとして、ご講演後の質疑応答およ び懇親会にて活発な議論を行った。 発表要旨 三村尚彦 研究員 「荒川+ ギ ン ズ 遺稿 デー タ ベー ス 構築 に 向 け て (N Y出張報告) 」 二〇一六年度から発足した身体論研究班の活動 について紹介し、今年度四月から五年間の研究期 間で採択された日本学術振興会科学研究費基盤研 究 ( B )「 荒 川 修 作 + マ ド リ ン ・ ギ ン ズ 遺 稿 デー タ ベー ス 構築 に も と づ く 天命反転思想 の 研究 課題 番号一七H〇二二八九」の概要について話した。 また二〇一七年五月二十八日~六月三日に実施 したアメリカ・ニューヨーク出張について、写真 や資料を提示しながら報告した。ニューヨーク荒 川+ ギ ン ズ 財団 (RDF) と の 打 ち 合 わ せ の 模様、 荒川+ギンズの遺稿として現在倉庫に保管されて いる二二〇箱の資料のうち、一〇箱分を調査した その成果の一部を、具体的に提示した。荒川+ギ ンズについての論文を発表しているアメリカの臨 床心理学者ユージン・ジェンドリンについて、荒 川+ギンズが研究ノートを遺していることがわか り、その資料を閲覧することで、ジェンドリンと 荒川+ギンズ相互の思想的影響関係が考察できる ことを示した。 稲垣 諭 委嘱研究員 「二重の自己―
個体とその変容」 「二重 の 自己―
個体 と そ の 変容」 と い う テー マ で発表を行った。荒川・ギンズの思想には、有機 体という一個の個体が、その環境の設定の仕方に 応じていくらでも別様に変容できるという確信が ある。この問題を吟味するにあたり、本発表はオ ートポイエーシス理論を発展的に前進させた河本 英夫の「二つの自己」の定式化を手がかりに個体 の 変 容 の 問 題 を 考 察 し た。こ の 二 つ の 自 己 と は、 システムの運動をきっかけにして、機能性を発現 する「作動的自己」と空間内に明確な物性を伴っ た「構造的自己」のことである。一つのシステム に二つの自己の運動が含まれていることを見抜く ことで、それら両者の力関係の不均衡が個体の変 容、構造の変容、機能の変容、システムの境界の 変容が起きることが明らかになる。本発表は、上 記の構想を基礎に据え、サイバネティクスのベイ トソンによる全体論的システム論との違いを判定 することで、荒川+ギンズの思想との繋がりを解 明するものとなる。 ◇ ◇2018年(平成30年)6 月 1 日 東 西 学 術 研 究 所 々 報 第九十三号(10) ◇第十回 二〇一七年七月二十九日
言
語接触研究班(三)
中国語版ドチリナをめぐって
主幹 沈 国威 概要 第十回研究例会は、カトリック教理書の中国語 訳 に フォー カ ス を 当 て、 四名 の 研究発表 を 行っ た。 奥村佳代子(研究員) 「中国語版ドチリナキ リシタンをめぐって」 王雯璐 (東京大学大学院) 「明末天主教教理書 の 翻訳 と 変容―
ロー チャ の 『天主聖教啓蒙』 を 中心に」 葛谷登(愛知大学教授) 「『天主聖像略説』に ついての覚書」 内田慶市 (研究員) 「『天主教要』 を め ぐ っ て」 発表後、盛んな質疑応答が行われた。 発表要旨 奥村佳代子 研究員 「中国語版ドチリナキリシタンをめぐって」 ドチリナとは教理説明のことであり、最大の特 色は対話形式であるという点である。また、ドチ リナは布教地の言語に翻訳される際に現地の現状 に応じて内容に変更が生じ得る流動的な側面を持 っ て い る。中国語 に 翻訳 さ れ た ド チ リ ナ と し て は、 一五九三年マニラ刊ドミニコ会版の閩南語ドチリ ナ、イエズス会版ドチリナとして『念経總牘』が 指摘されるのみであったが、王雯璐氏が指摘する よ う に、 『天主聖教啓蒙』 は 対話形式 の イ エ ズ ス 会 版中国語ドチリナである。本発表では、この三者 の 項目 を 比較 し、 『念経總牘』 は ド チ リ ナ と は 言 え ないということ、マニラ版ドミニコ会中国語ドチ リナと『天主聖教啓蒙』と日本語版『どちりなき りしたん』の対話部分を比較し、先行研究で述べ られている対話の「東洋化」に対する問題点、マ ニ ラ 版 ド ミ ニ コ 会中国語 ド チ リ ナ の 語彙 を 分析 し、 内容によって言葉を使い分けていることを報告し た。 内田慶市 研究員 「『天主教要』をめぐって」 今回は総合テーマを「中国語版ドチリナをめぐ って」とし、四人の発表が行われたが、そのうち 私は「天主教要をめぐって」というタイトルで報 告を行った。 「ド チ リ ナ ・ キ リ シ タ ン と は 何 か」 と い う こ と に 関しては広義と狭義で内容が異なるが、広く「キ リスト教理書」ということで、問答形式以外のも のをそれに含ませるという立場を報告者は採って いる。その意味で「天主教要」は中国で出された 最初のドチリナと考えられるが、本報告では、バ チカン図書館所蔵の各版を中心に、その版本間の 違いや、他の教理書の「天主聖教啓蒙」や「天主 教要解略」 「天主教要註略」 と の 関係等 に つ い て 論 じた。 今 回 は 詳 細 な 語 彙 の 使 用 状 況 や 音 訳 語 の 問 題、 文体論については準備が出来なかったが今後の課 題とする。 ◇ ◇ ◇第十一回 二〇一七年十月十八日比較信仰文化研究班(二)
主幹 新谷英治 概要 本研究班 は 日本 お よ び 世界 の 様々 な 「祈 り の 場」 の 様相 と そ の 役割 ・ 意義 を 検討 す る こ と に よ り 人々 の「祈り」に見られる普遍性と個別性を探ろうと 試みている。 今回 の 研究例会 で は、 沖縄 ・ 日本 に お け る 信仰 ・ 風俗の特異性、絨毯や時祷書の絵画表現に託され た意図・願意の解釈を中心テーマに、次のとおり 四名 が 研究発表 を 行 い、 そ れ ら を う け て 質疑応答、 討論を行った。 毛利美穂 (非常勤研究員) 「潮 と 水 の 儀礼―
沖 縄の聖水観念を中心に―
」 松井幸一 (研究員) 「伝播 に よ る 信仰 の 変容―
石敢當の形態・空間的分布を事例に―
」 吉田雄介 (非常勤研究員) 「絵画絨毯 と ペ ル シ ア 絨毯のデザインの系譜」 田 辺 め ぐ み ( 非 常 勤 研 究 員 )「 祈 り の 風 景―
「青衣 の 女」 か ら 辿 る マ ル グ リッ ト ・ ド ル レ ア ンの子宝祈願―
」 発表要旨 毛利美穂 非常勤研究員 「潮と水の儀礼―
沖縄の聖水観念を中心に―
」 禊ぎ・沐浴・洗礼など、儀礼において「水」は 重要な役割を果たす。その背景には、生物の命を つなぐ水そのものに対する神聖視と、雨や海、井(11)第九十三号 東 西 学 術 研 究 所 々 報 2018年(平成30年)6 月 1 日 戸を通じた異界との接点を見出す視点があるだろ う。本発表では、沖縄フィールド調査を元に、潮 と水の儀礼について考察する。 沖縄県久高島 の 神人 ・ M さ ん は 「(東御廻 り に お ける祈りの水は)水と潮が合わさらないといけな い」という。従来、水もしくは海に対する神聖視 は指摘されている。例えば、王には水旱を調節す る 機能 が 要請 さ れ て お り、 そ の た め、 王 を 水神 (竜 神)の子孫とする始祖説話も残されている。ただ し、従来の見解からは「水と潮」が合わさる必然 性は見出せない。しかも、石垣島白保の儀礼でも 「水 と 潮」 を 合 わ せ て い た。そ こ で、 沖縄本島 の 東 御廻りと、波照間島および石垣島白保の豊年祭を 検討し、潮と水を合わせる儀礼の意味を読み解く には、その共通点である来訪神の存在が重要であ ることを明らかにした。 松井幸一 研究員 「伝播 に よ る 信仰 の 変容
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石敢當 の 形態 ・ 空間的 分布を事例に―
」 石敢當は元々、中国発祥の信仰である。その起 源は岩石信仰や塞ノ神に求められ、岩石のもつ強 固さや神秘性を崇拝し、不幸や災難を禁ずること ができると信じられていた。中国から日本に伝播 し 最 も 普 及 し た の が 沖 縄 県、 当 時 の 琉 球 で あ る。 琉球の石敢當は中国伝来の意味をよく踏襲してい たが、その後日本各地に伝播・普及する過程で石 敢當の持つ意味や設置場所の空間的意味が失われ ていく。特に秋田県では現在、石敢當は信仰とし て設置されている箇所が非常に少なく、信仰が伝 播によって本来の意味を失っていく過程を垣間見 ることができる。 吉田雄介 非常勤研究員 「絵画絨毯とペルシア絨毯のデザインの系譜」 今回の報告では、従来のペルシア絨毯とは異な る タ ブ ロー絨毯 (日本語 に す れ ば、 「絵画絨毯」 「絵 画調絨毯」 ) を 対象 に、 伝統的 な 絨毯 と の 異同 を 確 認した。具体的には、タブロー絨毯の中で、現在 はどのようなデザインが好まれているのかを確認 し、さらに「風景画」デザインに関してはどのよ うなデザインが織られているのかを検討した。な お、今回の分析には絨毯商人が各地の業者に配布 している注文用のタブロー絨毯のカタログを利用 した。 検討の結果、タブロー絨毯のデザインには欧米 の絵画やイランのミニアチュール(細密画)がオ リ ジ ナ ル と し て 先行 す る こ と が わ か っ た。一方 で、 風景のデザインに関しては、欧米風とイラン風の 二種類に分けることが可能であるが、例外的にイ ラン風の風景(とくにタブロー絨毯の産地である サルドルードの風景)に関してはオリジナルの絵 画が存在しないものも存在することがわかった。 田辺めぐみ 非常勤研究員 「祈 り の 風景―
「青衣 の 女」 か ら 辿 る マ ル グ リッ ト・ドルレアンの子宝祈願―
」 世俗信者 の 日々 の 祈祷 に 用 い ら れ た 時祷書 に は、 写本注文主や所有主の「祈りのかたち」が多く認 められる。それらは従来、各写本に挿入された個 人的 な 祈祷文 や 祈祷者像 に よ っ て 確認 さ れ て き た。 しかし、伝統的なキリスト教図像や無意味な装飾 と見なされてきた欄外装飾を、写本の制作経緯や 当時の社会的・政治状況などから改めて捉え直す ことにより、具体的な祈念内容を把握し得ること が近年徐々に明らかになっている。かかる研究成 果を踏まえた上で、本発表では『マルグリット・ ド ル レ ア ン の 時祷書』 (フ ラ ン ス 国立図書館 ラ テ ン 語一一五六B番)の欄外装飾に頻出する「青衣の 女」を手掛かりに、当該写本の当初所有主であっ たマルグリット・ドルレアンの子宝祈願の様々な 表象を明らかにし、それらが彼女自身のみならず 娘マリの男児出産、さらにはブルターニュ公家の 繁栄を願うためものであることを報告した。 ◇ ◇ ◇第十二回 二〇一七年十月十九日西洋文学
に
お
け
る
信仰
と
フ
ィ
ク
シ
ョ
ン
研究班(一)
西と東の訓読・訓点〈再訪〉
―
東西
の
文献
に
見
る
訓読
・
訓点
の比較
主幹 和田葉子 概要 三 年 前 の 二 〇 一 四 年 十 月、 「 西 と 東 の 訓 読 ・ 訓 点」と題して、コーネル大学教授のジョン・ホイ ットマン氏と在外委嘱研究員で、ノースカロライ ナ大学教授のパトリック・オニール氏二名の講師 によるコロキアムを開催した。これがきっかけと なって、ホイットマン氏は、私たちの研究班の在 外委嘱研究員 と し て 共同研究 を す る こ と と な っ た。 今回、この二名が、新たに展開させた共同研究の 成果を発表した。ホイットマン研究員は漢籍・仏 典のテキストに記された語句の発音や意味を注釈 した「音義」と、中世の西洋で作成されたラテン2018年(平成30年)6 月 1 日 東 西 学 術 研 究 所 々 報 第九十三号(12) 語の語彙目録の編纂過程を比較した。オニール研 究員は、西洋における最も古い訓点を探し当てる という大胆な試みに挑戦した。さらなる新しい発 見を求めて、今後もこの共同研究は継続する。 発表要旨 ジョン・ホイットマン 在外委嘱研究員 「訓点資料 と 中世欧州 の 注釈資料 の も う 一 つ の 類似 点 : 訓点→音義→辞書 と gloss → glossae collectae → lexicon の編纂過程」 西洋文学における信仰とフィクション研究班で 行っている、漢文に見られる訓点と中世ヨーロッ パの注解の比較に関する共同研究の一つの成果と し て、 さ ら な る 東 西、 両 者 の 類 似 点 を 指 摘 し た。 すなわち、東洋のテキストに見られる、訓点から 音義、そして、辞書に至る編纂の過程と、西洋の ラテン語のテキストに見られる、個々の注釈から 注 釈 集 へ、 そ し て、 そ こ か ら 語 彙 集 に 至 る 過 程、 というこれら二つの伝統の間に相違点があること を明らかにした。今回の発表では、日本における 漢文だけでなく、韓国、チベット、その他のアジ ア の 地域 に お け る 漢文 の 訓点 と 音義 の 実例 を 挙 げ、 西洋の注解資料との類似点を示した。 パトリック・オニール 在外委嘱研究員 “The Earliest Evidence for Construe Marks in the West: a preliminary investigation ” 私たちの研究班で行っている、漢文に見られる 訓点と中世ヨーロッパの注解の比較に関する共同 研究の一部として、ホイットマン研究員はさらな る両者の類似点を指摘した。すなわち、東洋にお いては、訓点から音義、そして、辞書に至る編纂 の 過程 と、 西洋 に お け る 注釈 か ら 注釈集、 そ し て、 語彙集、の二つの伝統の間の類似点である。オニ ール研究員は、七世紀にアイルランドで書かれた 福 音 書 の 写 本、 Codex Usserianus Primus に 見 ら れ る 一 連 の ド ラ イ ポ イ ン ト の
―
す な わ ち、 イ ン クを使用せず、強く押してくぼみをつけることに よ っ て 記 さ れ た―
注 解 に つ い て、 そ の い く つ か は文法と統語法を明らかにするために付けられた ものであり、また、その他のものは、テキストの 中で、非常に離れている語と語の関係を示すこと を目的としていることを解明した。ラテン語のテ キ ス ト の、 い わ ゆ る 訓 点 の 研 究 は 進 ん で お ら ず、 特 に、 西 洋 最 古 の 訓 点 を こ の Codex Usserianus Primus に発見した意味は世界的にも重要である。 ◇ ◇ ◇第十三回 二〇一七年十二月五日東アジア宗教儀礼研究班(二)
吾妻重二 概要 台湾・東呉大学の謝政諭教授を外部講演者とし て迎え、二〇一七年度東西学術研究所第十三回例 会 を 開 催 し た。講 演 題 目 は 「 歴 史 研 究 的 突 破―
余英時先生論学的方法」 (歴史研究上 の 突破―
余 英時先生 の 学問方法) と 題 し て 中国語 で 行 わ れ た。 司会進行役は吾妻重二研究員が担当した。 講演の対象となった余英時氏は現代を代表する 中国研究者として知られ、アメリカ・プリンスト ン大学名誉教授であるとともに本学名誉博士号授 与者でもある。中国政治思想研究を専攻する謝教 授は近年、余英時氏の学問につき盛んに紹介、研 究を行っており、今回の講演となった。 講演は配布資料およびパワーポイントを用いつ つ文化とは何か、文化研究はどうあるべきかとい ったトピックから始まり、余英時氏の生い立ちや 経歴、代表的研究とその特色等幅広い内容にわた り、中国の宗教や思想、歴史研究について示唆に 富む貴重な報告であった。 出席者は本学大学院生を中心に二十名を超える 盛会で、講演終了後、活発な質疑応答が交わされ た。 ◇ ◇ ◇第十四回 二〇一七年十二月八日言語接触研究班(四)
主幹 沈 国威 概要 言語接触研究班は、十二月八日、今年度第十四 回研究例会を開催した。発表者は、テクストから 見る東西の言語接触という視点から、下記の題目 で研究発表を行った。 田野村忠温 (大阪大学教授) 「日本最初期英語研究 書 の 依 拠 資 料 と 編 集―
『 諳 厄 利 亜 言 語 和 解 』 『諳厄利亜興学小筌』 『諳厄利亜語林大成』 」 沈国威 (研究員) 「荀子言語観 の 近代語研究 へ の 投 射」 乾善彦 (研究員) 「古代変体漢文体資料 に お け る 同 訓の一字漢語と二字漢語」(13)第九十三号 東 西 学 術 研 究 所 々 報 2018年(平成30年)6 月 1 日 大学院生 を 含 め、 五〇余名 の 参加者 が 集 ま っ た。 特別 ス ピー カ と し て 大阪大学 の 田野村忠温教授 は、 日 本 最 初 期 の 英 語 学 習 書 を 三 点 取 り 上 げ、 書 志、 収録語彙項目等にわたって考察された。沈国威研 究員の発表は、荀子の言語に関する言説から中国 語の特質と十九世紀以降の新語創出との関係を論 じたものである。乾善彦研究員の発表は、日本語 の語彙体系と中国語のそれとの相違を文献資料に よって捉えるものである。発表の後、質疑応答が 行われた。 発表要旨 沈 国威 研究員 「荀子言語観の近代語研究への投射」 本発表は、荀子の「正名」に見られる言語思想 と近代中国での荀子の受容を取り上げたものであ る。二十世紀初頭、荀子の「正名」は、翻訳、訳 語、新国語の創出にあたり、言語思想の資源とし て 注 目 さ れ、 章 太 炎、 黄 遵 憲、 胡 以 魯、 劉 半 農、 傅斯年らに頻繁に言及された。荀子が「正名」を 完成した戦国時代中期の社会と言語情況は、 19世 紀末のそれを彷彿させるためか? 発表者は、荀 子の言説は言語の本質と中国語の特質を端的に言 い当てたところに注目した。それは、言語能力と は、最低限にコミュニケーションを行う能力「辞 達則已矣」 の 他 に、 美 し く 表現 で き る 「言之無文、 行之不遠」の側面もある。いずれも孔子の言葉だ が、荀子は戦国時代の言語社会の現実と結びつけ て指摘していることに意義が大きい。そして中国 語の特質は、内容より形式が重要であると考えて いる点である。ここでの形式は、文字数のことで ある。二十世紀初頭の中国語は、まさに荀子の時 代と同じ問題に直面していると発表者は主張して いる。 乾 善彦 研究員 「 古 代 変 体 漢 文 体 資 料 に お け る 同 訓 の 一 字 漢 語 と 二字漢語」 漢文訓読という「制度」が、和訓・和音を可能 に し、 「訓読 の こ と ば」 が、 変体漢文 と い う 表記体 を可能にした。漢文訓読は、ひとつの文字列にふ た つ の こ と ば を 走 ら せ る と い う、 複層性 を も つ。同 じ 文字列 が 中国語 で も 日本語 で も よ め る の で あ る。 その結果、古代の語彙を考える場合、とくに漢語 においては、それが音読されたか訓読されたかは 大きな問題となる。それは、字音語が生活語彙の 中 に ど の 程度含 ま れ て い た か と い う 問題 で も あ る。 そこで、万葉集と、正倉院文書、続日本紀宣命と の漢語を比較再検討し、以下のことを述べた。 万葉集に用いられたことばを「日常生活のこと ば」の典型とみるには問題も残るが、万葉集の二 字漢語は、基本的にひとつの語でよまれ、複合語 の割合は極めて少ない。それに対して、宣命の二 字漢語は二字一訓よりも逐字訓読される場合が多 い。正倉院文書では、ほぼ同じ表現が、一字語で も二字語でもあらわされる。それらが、逐字訓読 さ れ た こ と は 蓋然性 が 低 い と い わ ざ る を え な い が、 そ れ は 宣命 の 特殊性 を あ ら わ に す る も の で あ ろ う。 宣命では二字漢語を逐字訓読することで、より厳 かな表現を現出したのではなかったか。だとする と、日常語において、二字漢語がそのまま述語に はなりにくく、一字漢語にくらべて字音語が基本 語にはなりにくかったかたことになるということ であろう。述語部分の二字漢語は表記の上でのみ あった。 通時的に見れば、和漢混淆文成立期に二字漢語 が増大するのは、漢語を多く含む文体に応じるも のであったのだろう。 ◇ ◇ ◇第十五回 二〇一七年十二月八日